ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第7章 FAKE
SCENE4
レイフは、夕方に差し掛かって涼しい夜気を含んできた風を感じながら、1人、グラウンドに佇んでいた。
今日は、日中はトレーニング・ルームで筋力アップのトレーニングをし、日が翳ってきてからは外に出て、専ら走りこみをしていた。
初めはコーチの監督の下、他のチーム・メイトも一緒に練習していたが、今夜はチームのオープニング・セレモニーがあり、その準備のためにスタッフは早めに引き上げ、チーム・メイトも皆、寮やそれぞれの家に一度戻っていった。
今このグラウンドに残って黙々と自主練習を続けているのは、レイフだけだ。
「おーい、レイフ、そろそろあがらないか?」
そうレイフの背中に声をかけたのは、とっくに練習を終えて寮に戻り、シャワーを浴びてさっぱりしてきた顔のトムだった。
「おまえもそろそろ着替えて、準備して来いよ、レイフ」
レイフは、傾いてきた太陽の方をちらりと眺めやりながら、いつの間にこんなに時が経っていたのかと軽く驚いているかのように尋ねた。
「今、何時かな…?」
「もう6時前だよ。おまえさ、練習熱心なのはいいけど、あんまり初めから飛ばしすぎると、体を傷めちまうぞ」
ベンチに坐って親しげに声をかけてくる親友の方を振り向いて、レイフはふっと笑った。
「ん…そうだな、オレもそろそろあがるよ。最後にさ、久々にタイム測っておきたいから、計測を頼むよ」
「全く、かつてのサボリ魔が今はチーム一の練習の鬼なんだから、信じられねぇ変わりようだよな。コーチ達は、やっとおまえがその気になってくれたって、泣いて喜んでそうだけど…」
トムがベンチの上からストップ・ウオッチを取り上げて、軽い足取りで近づいてくるのへ、レイフは苦笑を含んだ目を向けた。
「のんびりサボってなんかいられないよ。これまでとは違うからな…負っているものの重みが―」
トムは何かしらはっとしたように、レイフを見た。無邪気に好きなスポーツを楽しんで、それ以外のことはあまり深く考えようとしてこなかったレイフが、今は強い使命感にでも駆られたような、厳しく、揺ぎない目をしている。
クリスターがいない今、自分がエースとして先頭に立つことで、開幕前に動揺も激しいチーム・メイトを勇気付けなければならないとでも思っているのだろう。
クリスター不在の心細さをやはり抱えているトムは、神妙な気分になりながら、そんなレイフのために自分もできる限りのことをしようと心に誓った。
レイフは50ヤード走用のスタートラインの位置に移動し、構えた。そのまま鋭い目でゴール地点を見据え、微動だにしない。
「何か、すげぇマジなのな」
陸上部でもレイフと一緒のトムは、彼が走る所など見慣れているはずだが、大きな大会でもこれほどの集中力を発揮するレイフを見るのはまれだという気がして、ただのタイム計測なのに軽い緊張感を覚えるほどだった。
トムが発した合図と共に、レイフは弾丸のようなスタート・ダッシュを切った。
数瞬後、トムは思わず唸った。
「うわっ…」
その迫力につい圧倒されたかのように身を引くトムのすぐ前を、レイフが凄い勢いで駆けぬけていく。
砂埃を撒き散らして立ち止まったレイフは、素早くトムを振り返り、まっすぐに問いを投げかけた。
「何秒だ?」
すっかり気を飲まれていたトムは、レイフの呼びかけを聞いて、我に返ったように瞬きをした。
「あ…ああ…」
トムは汗ばんだ手の内にぐっと握り締めていたストップ・ウオッチを慌てて覗き込んだ。その両目が信じられないように見開かれる。
「トム?」
訝しげに眉を寄せてゆっくりと近づいてくるレイフを、トムは呆然と見上げた。
「おまえが3年前に出した、自己ベストって何秒だっけ?」
レイフはちょっと首を傾げて、考え込んだ。
「うーん、4.30ジャストだったけど…?」
その後長いスランプに入ったレイフは、陸上の大会でも新記録を出した、絶好調だった時期の自分に戻ることはできなかった。しかし―。
「見ろよ、これ!」
やけにはしゃいだ声をあげるトムが突き出したストップ・ウォッチを、レイフはしげしげと見た。
4.28秒。僅かだが、かつての自分を超えた、自己ベスト・タイムだ。
レイフは、ストッブ・ウォッチが掲示する数字を睨みつけたまま、手で顎の辺りをゆっくりと撫でた。
「…おまえさ、何か、ずるした?」
実感がなくて、レイフが指先で頬をかきながらぽつりと言うと、こちらは打って変わってひどく興奮したトムが言い返す。
「するかよ、馬鹿っ。おまえが、今、これだけすごいタイムを叩き出したんだよっ。そういや、確かに、夏休み前の陸上部での練習見てて、調子いいなとは思ってたけど―冗談じゃなく、その気になったら、オリンピックとかでも目指せちゃうんじゃないか?」
かつてのレイフの走りに惚れ込んでいたトムが我がことのように喜ぶのが、ちょっと照れくさく、レイフは言い訳のように呟いた。
「別に、今までだって手を抜いていた訳じゃないんだけどさ―」
ただ、これまでとは背負うものの重みが違う。
(そう、今年もブラック・ナイツは優勝する―そのために、オレは全力を尽くす。クリスターの代わりに、オレが皆を引っ張って、もう一度天辺に立ってやるんだ)
クリスターから託された、エースという大きな責任が、ずっと肝心要の所は彼に任せきりだったレイフを本当の本気にさせたのだ。
8月も後半に入った、この夜、ブラック・ナイツのオープニング・セレモニーが開かれた。
会場となったアーバン校のホールは、チーム関係者やその父兄、後援会の人々でにぎわっていた。
念願の初優勝を果たした昨年の記憶はまだ新しい。
今夜は例年以上の人数が、本年度のブラック・ナイツを激励するために集まっているようだ。その多くが、チーム・カラーである黒を身につけていた。
会場の片隅に設けられた売店では、ロゴ入りの帽子やティーシャツなどが飛ぶように売れている。
そうして、今夜の主役であるフットボール・チーム、黒のジャージーに身を包んだ彼らは、ホールの奥の舞台の上に、華やかなチア・リーダーの少女達と向かい合う形で、並んでいた。
眩しいライトと客席からかけられる声援を浴びて、そわそわしたり、はしゃいだり、ふざけあったりしている少年達の中に、レイフもいた。
普段ならば、この場の華々しい雰囲気にのまれ、舞い上がって、誰よりも騒がしそうなレイフだが、今夜に限っては、ただはしゃいでばかりではなかった。
気心の知れた仲間の中でリラックスしているようでいて、じっと周囲に目を配り、ちょっと気になる相手には声をかけたり、調子を尋ねたりしている。
クリスターが怪我のために戦線を離脱したというニュースを合同練習の開始日にいきなり聞かされた時には相当浮き足立った彼らも、今は表面上は落ち着き取り戻していた。しかし、皆口に出すことこそないが、クリスター抜きで大丈夫なのか、去年のように勝てるのかという不安を払拭することはできていない。
特にクリスターが抜けた大きな穴を埋めることになるオフェンス陣、中でも、昨年までは控えのクォーター・バックだったショーン・マイルズは、早くも凄まじいプレッシャーと闘っているように見えた。
無理もない。あのクリスター・オルソンの代わりを務めるのだ。
「力をぬけよ、ショーン、まだ今シーズンは一試合も始まっちゃいないんだぜ。今は何も考えずに、このお祭り騒ぎを楽しめよ。それに、試合になったらさ、とにかくオレにボールを渡してくれりゃいいんだよ。そうすりゃ、後は何とかするからさ」
レイフが、ショーンの緊張した肩を叩きながら軽い調子で励ますと、彼は少しほっとしたような顔をした。
チームの皆にとって意外だったのが、クリスターの突然の怪我によって他の誰よりも動揺するはずのレイフが、平常心を保っていることだった。まるで去年と何一つ状況は変わっていないかのように黙々と練習に打ち込んでいる彼のおかげで、他のチーム・メイトもコーチ達が案じたほど混乱することはなかった。
もっとも、好きなことしかしない、気分屋のレイフのそんな変貌ぶりこそが、去年とは大きく違うことの表れでもあったのだ。
大勢の観客を前にして誇らしげな校長の演説から始まったセレモニーは、昨シーズンのハイライトを記録したビデオの上映で一気に盛り上がった。
時折、『ブラック・ナイツ』という掛け声や拍手があがる中、レイフもチーム・メイトと一緒になって、舞台から、スクリーンに映し出される懐かしい場面に見入っていた。
レイフがタックルを次から次へと外し、サイドライン際を快走する場面では、わっというどよめきがあがって、彼をくすぐったい気分にさせた。
他にも多くの名シーンが再現され、見ているうちに、レイフの胸に、去年のシーズン中に燃え盛っていたのと同じ熱い火をかきたてた。
ふいに、ビデオの場面が切り替わり、クリスターを大きく映し出した。
レイフは思わず息を飲み、ここがどこかということも忘れて、ふらふらと椅子から立ち上がりそうになった。
スクリーンの中では、最高の司令塔としてチームを率いた、在りし日のクリスターが鮮やかなロング・パスを決めている。
(あ…)
ずっと平静だったレイフが、その瞬間激しく動揺した。
去年苦楽を共にしたチーム・メイト、卒業していった先輩達以外は皆揃って、今シーズンの始動を前にこうした晴れがましい場を与えられ、大勢から祝福を受けているというのに―。
(どうして、ここにクリスターだけがいないのだろう…?)
そう思うと、押さえつけていた様々な感情が胸の奥からせりあがってきて、レイフを圧倒しようとする。
目の奥がじんじんと痛くなるのを感じ、ここでは泣くまいと歯を食い縛りながら、レイフは、スクリーンの中のクリスターが演じる名プレイを睨みつけていた。
やがて、ビデオ上映が終わり、ホールの明かりが再びついた時には、レイフは何とか気を取り直していた。
「大丈夫か、レイフ?」
肩に手を置いて気遣わしげに囁きかけてきたトムに、レイフは黙って頷き返した。
続いて、セレモニーはフットボール・チームのメンバー紹介に移り、会場は盛大な拍手に沸いた。
メンバーが1人1人、名前を呼ばれて、舞台の中央に進み出る度、参会者達の間からは親しみのこもった声援と拍手が送られる。
それを舞台の後ろで他の仲間達と笑ってはやしたてながら眺めていたレイフは、ふと誰かを探すように、客席を埋めている人々に視線を巡らせた。
(あ、父さんが来てら。…母さんはいないけど、きっと今頃病院に行ってるんだろうな)
レイフが自分を見つけたことに気付いたのか、ラースが大きく手を振る。それに向かって軽く手を上げた後、レイフは眼差しを伏せた。
(クリスターはやっぱり来ないか…プライドの高いあいつのことだから、怪我を負った自分を人目にさらすことには我慢できないんだ…)
そんなクリスターの気持ちは痛いほどによく分かるレイフだが、それでも、去年チームを優勝にまで導いた立役者の1人として、何人かの卒業生が招かれているように、彼にもここにいる資格はあるのにと、寂しく思うのだ。
(クリスター、今頃おまえはここから遠く離れたあの病室で何を思っている…?)
また少し切ない気分に捕らわれかけた時、フランクス・コーチの声が聞こえた。
「レイフ・オルソン」
俄然熱気を帯びた拍手と声援が響き渡る中、レイフはぼんやりと顔を上げる。
「ほら、おまえの番だぜ、行って来いよ、レイフ」
トムに肩を押されて、レイフはゆっくりと前に進み出、マイクを手に待ち受けるコーチのもとに近づいていった。
フランクス・コーチのレイフを見る目は、物思わし気で、これまでになく真剣だった。この厳しい指導者から、こんなふうに熱心に見つめられた記憶など、レイフにはほとんどなかったので、何だか不思議な気がした。
それに、客席から自分に送られる視線の熱さ、声援の凄さにも、些かの戸惑いを覚える。
まるで、この夜一番のスターはレイフであるかのように、彼は他の誰よりも多くの注目を集めていた。
(あれ、何でだろ…?)
素朴に疑問に思った、その時、客席から自分の名前を呼ぶ声に混じって、クリスターと呼びかける声を聞いて、レイフは何だか腑に落ちた気がした。
ここに集まった人々の多くは、既に、かつてのヒーローを襲った悲劇を知って、その不幸を悲しみ、惜しんでいる。そうして、彼と同じ姿をした弟の上に、今、その面影を重ねて見ているのだ。
(ああ、そうか…これは、オレとクリスター、2人分の声援なんだ。あいつはこのセレモニーには出られないけど、それでも今、オレやチームの皆と一緒にここにいる)
そう悟った途端、レイフの顔に素直で晴れやかな、心からの笑みが浮かんできた。
そうして、いつもレイフに対しては辛口のフランクスが、クリスターの離脱に触れた上で、ブラック・ナイツのエースの名を継ぐのはレイフしかいない、また彼がその期待に見事に応えてくれると信じていると言った時、緊張感と共にとてつもない誇らしさを感じた。
フランクスからマイクを向けられて、照れ屋のレイフはいつもならぶっきらぼうに一言コメントするだけのところを、それでは満足できない聴衆の熱心な声援に励まされて、一度はチーム・メイトの列に戻りかけたのを引き返し、改めて、ステージの前に進み出た。
再び暖かい拍手の波がレイフに押し寄せてき、それは、つい昨年の夢のような優勝のシーンを想起させて、レイフの胸を強く揺さぶった。
感動のあまり一瞬うまく声が出なかったが、レイフは、すぐに落ち着きを取り戻し、エースにふさわしい堂々たる態度で支援者達に語りかけた。
「誰もが認めていたように、クリスターは最高だった。体力やテクニックだけじゃない、フィールドにあいつ以上のものはないと思わせる強烈な存在感―内に秘めた激しい火みたいなものが、あいつにはあった。あいつに率いられた昨シーズンのブラック・ナイツは無敵だった―そうして、皆も知ってるように、見事に優勝した!」
レイフが声を張り上げると、それに煽られるように一際大きな歓声があがり、広いホールの隅々までを満たし、揺るがした。
その熱狂が鎮まるのを見定め、レイフは再び、今度は幾分抑えた、真摯で真率な口調で続けた。
「オレはクリスターではないけれど、あいつと同じ火はオレの中にもあって、今も消えない。オレは自分が何をするべきか知っているし、オレにはできるとも信じている。オレは全力でフィールドを走り、相手を抜いて抜きまくって、勝ちを取りに行く」
レイフは、後ろの方で息を詰めて自分を見守っている仲間達を肩越しに振り返り、再び聴衆に向き直った。
すうっと大きく息を吸い込み、レイフは拳を天に向かって突き上げながら、大声で宣言した。
「そうして、今年もオレ達ブラック・ナイツが目指すものはただ1つだ―皆と一緒にもう一度天辺に立ってやるぞ!」
これには、後ろの仲間達もじっとしていられなくなったのか、わっと声をあげるなり、一斉にレイフのもとまで駆け寄って、彼の肩を叩いたり、抱きついたりした。
「この野郎、柄にもなく格好つけやがって、クリスターのまねかよっ」
「おまえがやるっていうなら、オレ達ディフェンス陣ももちろん全力でやってやるさ」
「頼りにしてるぜ、エース、誰にも負けない走りを見せろよ」
仲間達の荒っぽい励ましにもみくちゃにされながら、レイフは笑っていた。
(皆と一緒に、クリスター、おまえもここにいる)
大いに奮起するチームを前に、それを見守る支援者達も熱い拍手と声援を惜しまなかった。
こうして、初めは不安な影を潜めて望んだオープニング・セレモニーだったが、これまでにないほどに盛り上がり、温かい雰囲気に包まれた、実にいい式として参加した人々の心に刻まれることになったのだ。