ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第7章 FAKE

SCENE3


 クリスターが入院して1週間目。

 今日は、ウォルターが彼を見舞いに病室を訪れていた。

 クリスターが大怪我をした直後は、両親に連絡を取ったり警察との連絡窓口になったりと事後の対応を一手に引き受けてくれた彼だが、ここしばらくは、ジェームズの共犯としての容疑をかけられたアイザックのことで奔走していたため、なかなかクリスターに会いにこられなかったのだという。

「それじゃあアイザックは―まさか、このまま殺人未遂の罪で起訴されることになるんですか? でも、彼は望んでジェームズに手を貸したわけじゃない、脅されて、無理矢理従わせられていたんです」

 コリンの事故の背後にアイザックも絡んでいたことを知った時点で、こうなることはクリスターにもある程度予想はついていたのだが、だからと言って、現実にすんなりと受け入れるなどできない。

 他ならぬ自分が、アイザックがジェームズの罠に落ちる一因となったことを自覚しているクリスターだけに、一層強く、どうにかして彼が処罰を免れる道はないものかと願わずにはいられなかった。

 そんなクリスター思いつめた顔をつくづくと眺め、ウォルターは、さすがにずっと休む暇もないだけに幾分疲れを帯びた顔で、ふっと溜息をついた。

「コリンの車に細工をしたのがアイザックであることは事実だが、銃で脅されたための不可抗力であると、その点は弁護士も強く主張して、何とか不起訴処分に持っていけるようにすると言ってくれている。だが、それだけでは、アイザックが2ヶ月間もジェームズの元に留まり続けた事情を説明するのは難しいからな…」

 ウォルターの苦しい胸中を察したクリスターは悩ましげに眉をしかめ、シーツの端を握る手にぐっと力を込めながら、固い口調で呟いた。

「ジェームズは、人の弱点につけこんで、それをうまく利用することで、もともと自分に反抗的な人間ですら意のままに操ってしまう…彼の才能を知らない人間にとっては、理解することは難しいでしょうからね。でも、いざとなれば、僕にも証言する用意があります。アイザックをこんな窮地に追い込んだのは僕の責任―いえ、僕の友人達の多くを巻き込んだ、今回の事件のそもそも発端になったのは、ジェームズと僕の個人的な闘いだったんですから…」

 その点については、ウォルターにもクリスターに対し思うことがないわけではなかったのか、否定はしなかったが、かと言って、彼を責めようともしなかった。さすがに怪我人であるクリスターに、きつい態度は取れなかったのかもしれない。

 実際、クリスターの肩の負傷が彼のスポーツ選手としての生命を奪うほどのものだと知った、ウォルターの彼に向ける眼差しは、同情と気遣いに満ちていた。

「そう言ってくれるのはありがたいが―クリスター、おまえだって色々と大変だろう…しばらく治療に専念した方がいいんじゃないか…? その…俺も事件の後はばたばたして、おまえの状態にまで気が回らなかったが、その肩、手術することになるのか…?」

 話題として触れていいものか迷いながらおずおずと尋ねるウォルターに、クリスターはにこりと笑った。

「いえ、僕も迷ったんですが、今回は手術なしで様子を見ることにしました。もしまた脱臼を起こすようであれば、その時には思い切ってメスを入れることも考えます。このまま保存しても再発の恐れはあるし、手術したらしたで肩の可動域が狭くなる可能性がある…どちらを選択しても、スポーツ選手としては大きなハンデになるでしょう」

「そうか…何というか、残念だったな…来週にはフットボール・チームのオープニング・セレモニーがあるとラースから聞いたが―」

「残念ながら、僕は参加できませんよ。それは今シーズン活躍する選手を激励するためのものですから、引退した僕には出席する資格はありません」

 フットボールに対する未練は一切ないとばかりにきっぱりと答えるクリスターの怜悧な顔を、ウォルターはすっと細めた目で探るように見つめた。

「そんなことより、今の僕にとっては、アイザックが受ける措置の方がよほど気がかりです」

 炯眼のウォルターには自分の嘘など簡単に見抜かれてしまいそうで、何となく気詰まりになったクリスターは、強引に話をもとに戻した。

「ただ、ミシェルが意識を取り戻したというのは朗報ではありますね」

 一時は生死の境をさ迷い、危険を脱した後もずっと意識不明の状態が続いていたミシェルだったが、先月末にやっと目覚めたという。まだしばらく治療とリハビリのために入院しなければならないが、薄紙をはぐように徐々に回復に向かっている。

「そうだな、コリンも2週間前に退院した…昨日、俺は留置されているアイザックの代理として彼に会いにいったんだが、腹を割って色々話した末、今回の件に関しては、彼はアイザックを責めないと言ってくれた。俺は、アイザックがしでかしたことの大きさを考えると、どれほど罵倒されても仕方がないと覚悟していたんだが、コリンはアイザックを許してくれた…自分も危うく殺されかけたというのにな」

 ウォルターは、コリンに対する心からの感謝の気持ちのこもった口調で、そう語った。

 だが、クリスターは、コリンとアイザックが実際には長い絶交状態にあったこと、そこに至る経緯を知っているだけに、ウォルターのように素直にコリンの寛大さに感激することはなかった。

「…コリンは、そういう奴なんですよ」と、ここは、短い感想を述べるだけにして、つい皮肉を言いたくなるのを堪えた。

 単純でまっすぐな正義漢のコリンにとって、親友だったアイザックが事件に絡んでいたことはショックだが、J・Bの卑劣なやり口を知っている彼ならば、もと親友に同情もしただろう。それに、コリンには、ミシェルをかつてアイザックから奪ったことで、彼に対する後ろめたさがずっとあった。

 自分を殺しかけたアイザックを憎むよりも許してやる方が、気持ちとしてまだ楽だったのかもしれない。

 まあ、悪気はないのだが無神経で鈍いコリンよりも鋭敏なアイザックの方を好ましく感じる、クリスターの彼に対する評価はつい辛口になってしまうのだ。

「ケンパーとも先週末に連絡を取ったんだが、ジェームズ・ブラックの取調べの進展具合について教えてもらったよ」

 ジェームズの名前を聞いたクリスターは、思わず、シーツの端を無意識にいじっていた指先を小さく震わせた。

「取調べ中の事件の詳細を外部に漏らしていいんでしょうかね、全く、ケンパー警部は…」

 内心の動揺を相手に気取らせぬよう、努めて平静な顔を装うクリスターは、ウォルターの知らせに呆れたように眉を跳ね上げてみせた。

「打ち明けることのできない極秘事項は、あいつもちゃんと黙っているさ。何の関係もない他人なら―ましてやマスコミなどは論外だが、ただ、事件の当事者であり被害者でもあるおまえには、当然知る権利があるだろうからな、というのが、ケンパーの見解なのさ」

 そうして、クリスターはウォルターの口から、あの後ジェームズがどうなったのかを知らされた。

 屋敷から発見されたゴードン・ブラックの死体は詳しく鑑定されたが、他殺された証拠は見つからず、病気が悪化しての自然死らしいとの意外な結果が出たという。

「もっとも、ジェームズが父親に必要な治療を受けさせずに放置し、意図的に病気を悪化させたという疑いは残るがな。ブラック家の主治医のキャメロンはゴードンの往診をしていたということになっていたが、その実態はなく、カルテなどは偽装されたものだったそうだ。現在キャメロンも参考人として取調べを受けているそうだが、この男のジェームズに対する感情移入は度を越しているとケンパーが気味悪がっていたな。全く、赤の他人に過ぎない相手、それもあんな恐ろしい犯罪者を庇おうなどと普通するか? まあ、それを言うなら、ジェームズと一緒に逮捕された少年達にもついても同じことが言えるがな」

 ウォルターの素朴な疑問に、クリスターはじっと考えを巡らせながら答えた。

「おそらく、彼らもジェームズと離れて長い時間が経てば、ある程度は正気に戻ってくるのでしょうが―いえ、人によっては、もしかしたら呪縛はずっと残るかもしれませんね。僕は以前、子供時代のジェームズを診ていた精神科医に会いましたが、彼はいまだにジェームズに対しては随分同情的でした。ジェームズの危険性にいち早く気づいていたワインスタインでさえ、『不幸なジェームズ』を追い詰めることには消極的だったんです。ジェームズは、これと見込んだ人間を捕まえ、一端自分の味方にしてしまえば二度と裏切らせない、魔力のようなものを駆使できるのかもしれませんね」

 クリスターは、あの悪夢のような夜、自分を手に入れようと執拗に迫ってきたジェームズの鬼気迫る姿を思い出し、寒気を覚えたかのように身を震わせた。

(君の胸に深く刻み込まれて一生消えることのない傷跡に、僕はなりたい)

 耳の奥に不快な残滓となってこびりついている、あの嫌な声を必死になって退けようとしているクリスターにとって、ウォルターが何も気付かず話を続けてくれるのは幸いだった。

「それにしても、分からないのは―どうして、ジェームズは父親の死体を早く処分してしまわなかったのだろうな。他の2人は早々に埋めてしまったのに、なぜゴードンだけはずっと傍に置いていたのか。そこまで父親に執着するなんて、他人に対する情の極端に薄いジェームズだけに、矛盾する行動じゃないか?」

 しきりと首を傾げるウォルターを眺め、また少し考え込んだ後、クリスターは、今度は幾分ためらいながら口を開いた。

「たぶん本当は、ジェームズは情が薄い訳じゃなかったんですよ」

 ウォルターは、いきなり何を言い出すのかというような、訝しげな顔をした。

「彼はただ、どうしたら人と心を通わせることができるのか分からなかったんです。結果として彼の愛情は、他人を支配し、自分の思い通りに操ろうとする執着という形でしか発揮されることはなかった」

「そうして妹も父親も殺したわけか…ジェームズに愛された人間にとっては、とんだ災難だな。あんな異常者を長い間野放しにしていたことが、そもそも間違いなんだ。クリスター、おまえも危うく同じような目に合うところだった…そう思うと、全くぞっとするよ」

 アイザックに犯罪の片棒を担がせたジェームズには個人的な恨みもあるのだろうが、嫌悪も露に吐き捨てるウォルターを、クリスターは複雑な気分で眺めた。

 あれほど憎み嫌ったジェームズなのに、他人が彼を否定する言葉を聞いていると胸が疼いて、なぜかあまりいい気分がしなかった。

(ジェームズが捕まって、これでやっと逃げ切れたと安心したのに、僕はまだあいつの影を引きずっているのだろうか。このままゆっくりとジェームズ・ブラックの亡霊に蝕まれ、気がつけば取り込まれて―ああ、嫌だ、そんなことにならないよう、あいつのことなど早く忘れてしまおう)

 ふいに、クリスターの胸を言いようのない心細さが満たした。

 レイフは公式練習の始まった今、フットボールに専念して、病院へは毎日夕方遅く、クリスターの顔を見にちょっと立ち寄る程度だ。

 これまでにないほど熱心に練習に打ち込んでいるレイフを見て満足を覚えると同時に、我が侭なことだが、クリスターは一抹の寂しさを覚えている。

(もう少し傍にいて欲しいなんて…せっかくその気になっているレイフの集中をかき乱すようなことは言えない…あいつの甘えをはねつけた、この僕が何を馬鹿なことを考えるんだ。ずっとベッドに縛り付けられているせいで、ちょっと気が弱くなっているんだな。じきに退院して自由に動きまわれるようになれば、気分も変わるさ)

 ふいに黙り込んでしまったクリスターの顔に漂う寂寥感に気付いたのか、ウォルターはしばし考え込んだ後、用心深く切り出した。

「ダニエルが君に会いたがっていたぞ、クリスター」

 クリスターははっと瞬きして、顔を上げた。

「ダニエルの怪我の具合は…どうなんです…? 今も入院中なんですか?」

 クリスターとは別の病院に収容されたダニエルとは、ずっと連絡が取れないままだった。

 事件を知って、海外の赴任先から慌てて飛んできたダニエルの両親は、息子をこんな目に合わせた原因となったクリスターを快くは思わなかった。ヘレナを通じて、せめて怪我の状態だけでも知らせて欲しいと頼んではいたのだが、今のところ何の音沙汰もない。

(もしかしたら、ダニエルは予想以上に重傷だったのかもしれない…まさか、彼の親が僕を許せないと思うほど…取り返しのつかないようなことになってしまったのだろうか…?)

 慄くように大きく見開かれたクリスターの目には、ウォルターを深く追求したい気持ちと、知ってしまうことを恐れる気持ちとがせめぎあっている。

 彼の苦しい心の内を察したのか、ウォルターは慎重に言葉を選びながら、答えた。

「もうすぐ退院というわけにはいかないようだが、ダニエルはちゃんと回復してきているよ。肩と背中の傷は、それほどひどくはない。ただ監禁中に彼は拷問のようなものを受けたらしく、脚をひどく痛めつけられていてな…医者の話では、もしかしたら障害が少し残るかもしれないということだ」

 クリスターは大きく息を吸い込んだ。

「ダニエルは…歩けなくなるんですか…?」

 目の前が真っ暗になったような気がして、クリスターは呻くように呟く。

 そんな彼に、ウォルターは焦って、手を振った。

「いや、そこまでひどい後遺症が残ることはないだろう。えい、この際はっきり言うが、ダニエルは大腿部を骨折していて、その手術を先日受けたんだ。今は車椅子だが、リハビリを受ければ、ほとんど元通りの生活ができるようになるはずだ」

「でも…完全に同じ体には戻れないかもしれない…」

 呆然と呟くクリスターの肩を掴んで、ウォルターは強い口調で言い聞かせた。

「いいか、クリスター、これは別に君のせいじゃないんだ。勘違いをするんじゃない、君がそんな罪悪感に捕らわれることなど、ダニエルは決して望んじゃいなかった」

「でも、僕がちゃんととめていれば、ダニエルはあんな目にあわなかった…ジェームズの言ったとおりだ、僕はダニエルの人生を滅茶苦茶にしてしまった」

「おい、俺の話をちゃんと聞け…ダニエルは君にそう受け止められることを何より恐れていたんだ。あの子は、本当に君が好きなんだな…自分が君の重荷になるなんて耐えられないと思っている。そうして、大怪我をした君のことを気遣っていたよ。今度のことで、体もさることながら、君の心が折れてしまうのではないかと心配していた…ダニエルからの伝言だ、こんな時まで意地を張って、平気な顔などしないで、自分が一番傍にいて欲しい思う人に素直に頼って欲しいとな。こんな状態にある君が今独りきりになってしまうことが何より恐いと―」

「もう、やめてください、ウォルター…」

 ダニエルらしい気遣いに溢れた言葉に、クリスターは胸を突かれ、これ以上聞くことには耐えられなくなって、頭を振った。

「僕にはそこまであの子に想ってもらう資格なんてないのに―大体、あの子の方が僕よりよほど酷い目にあったのに、どうして、こんな時まで僕のことばかり…」

「クリスター、クリスター、しっかりしろ…俺はさっき、ダニエルが君に会いたがっていると言った。生憎彼は今自力で動くことはできない状態だ。だから、君の方から、彼に会いに行ってやれないか…?」

 クリスターは微かに肩を揺らした。途方に暮れたような様子で呟いた声は低く、張りがなかった。

「ダニエルに…どんな顔をして会えばいいのか、僕は分からない…会うのが恐いんです」

 珍しくも弱気になっているクリスター相手にウォルターはしばしどうするか迷う素振りを見せたが、ついに思い切ったように、打ち明けた。

「クリスター、ダニエルは来週この土地を離れることになるんだ」

「え?」

 何を言われたかとっさに分からなくて、クリスターは単純に聞き返した。

「ダニエルの親が、今度のことで大層心配してな、彼を父親の赴任先のイギリスに連れて行くつもりなんだ。残念ながら、君に対しても彼らは気持ちを硬化させていて、このままではダニエルは君に二度と会えないままアメリカを去らなければならない。ダニエルは泣いて嫌がったが、あんな体の子供を1人にさせられないという親の言い分ももっともではある。それにしたって、何も言わずに君と別れるのはあまりにも不憫だ。だから、クリスター、最後に一目、ダニエルに会ってやって欲しい」

 クリスターが事情を飲みこみ、そしてそれを現実として受け止め、答えられるようになるまで、少し時間がかかった。

「ダニエルはいつ…ここを離れるんですか?」

 クリスターはやっとの思いで、そう尋ねた。

「来週の土曜の午後のフライトだと聞いている…また詳しいことが分かれば連絡しよう。だから、それまでに、いつでもいいからダニエルを見舞いに行って欲しい。ああ、病院の住所と電話番号を渡しておこう」

「…分かりました。ちょっと考えさせてください…そうですね、外出許可は多分出ると思いますから―」

 クリスターはウォルターから渡されたメモを眺めながら、軽い眩暈を覚えたかのように額を押さえた。

「ダニエルが…いなくなる…」

 メモを持つ、クリスターの手が微かに震えた。

 ダニエルのはにかんだような優しい笑顔が、クリスターの脳裏に浮かびあがる。

 どうしたのだろう。胸が苦しい。

「おい、大丈夫か、クリスター?」

 ウォルターに声をかけられて、クリスターはひどく驚いたように振り返った。

「あ…すみません、ぼうっとして―」

「本当に大丈夫なのか? 随分ショックを受けているようだが―」

「少し驚いただけです」

 些かむきになってクリスターが否定すると、ウォルターはまだ少し納得しきれない顔をしながらも引き下がった。

(アイザックは拘留中、ダニエルは遠くに行ってしまう…僕の周りから大切だと思っていた人達が去っていく―ああ、そのことが僕は辛いのか)

 ただ単に、怪我をして気が弱くなっているだけではないようだ。

 もともとクリスターは、対等に付き合える友人となるとかなり選り好みをするため、数は少ない。アイザックもダニエルも、クリスターにとっては自分に近い場所にいる、貴重な相手だった。

(寂しい)

 悄々と沈み込んでいたクリスターだったが、ウォルターがちらっと壁の時計を眺めやったのに、目ざとく気がついた。

「ウォルター、他にも用事があるんじゃないですか? いいんですよ、僕に構わず、行ってください」

 クリスターが気を利かせて言うと、ウォルターは少しほっとしたような顔をした。

「うむ…アイザックの件で、弁護士と相談することがあってな。ばたばたしてすまないが、今日はこれで帰らせてもらうよ。またすぐに見舞いに来るから、ゆっくり養生するんだぞ」

 ウォルターは、クリスターの頭を励ますようひと撫でして、おもむろに椅子から立ち上がった。

「僕のことまで心配して駆け回っていたら、いくらあなたでも体がもちませんよ。心配しないでください、自分のことは自分で何とかしますから」

 気を取り直して応えるクリスターをウォルターはしばし何か言いたげに見つめ返したが、結局、そのまま病室を出て行った。

 ウォルターの背中を凝然と見送った後、クリスターは疲れたようにベッドに横になって、目を瞑った。

(ウォルターにもう少し余裕があれば、相談したいことがなかったわけじゃないけれど、仕方がないな)

 ウォルターが息子であるアイザックを優先させるのは当然のことだ。ヘレナやラースが自分のために心を痛めているのと同じように、彼もアイザックを愛している。それだけのことだ。

(馬鹿、何を心細がっているんだ、僕らしくない―)

 真っ白な病室に独りきりでいるのは好かない。病人でなくとも、こんな所に1日中閉じこもっていたら、気が滅入るだろう。

 練習に行っているはずのレイフはむろん、ヘレナも今日はまだ来ない。ラースのオフィスでどうしても彼女を必要とする仕事ができたとかで、遅くなるとは予め聞いている。

 全て納得ずみのことなのに、自分だけ世界から取り残されてしまったような気がして、クリスターの中にはイライラがどうしようもなく募っていった。

 何もせずにじっとしているということ自体に、もともと耐えられない性質なのだ。

(ああ、あのドクターに頼んで、早く退院させてもらおう…このままじゃ、僕は本当に気が変になってしまう)

 ふいに、クリスターは5日前の夜のことを思い出した。

 自分がひどく興奮して暴れたということだが、その時の記憶は今でもおぼろげで、現実感がない。

 ただひどく苦しくて、何もかもが辛くて堪らず、涙がとまらなかったことは覚えている。

 誰でもいいから、この最悪の状態から救い出して欲しいと、滅多なことで他人を頼らないはずの自分が切に助けを求めていた。

(たぶん、僕は―あの時、近くに母さんがいると思っていたんだろうな、レイフが戻っていないことは分かっていたから…だから、あんな勘違いをしてしまったんだ)

 何人もの看護師達がクリスターをなだめようと必死だったが、彼は激しく取り乱して手のつけられない状態だったらしい。

 そう言われれば、自分に向かって伸ばされてくる幾つもの手を振り払ったり、誰かも知れない相手に威嚇するように唸ったりしたような気もする。全く、今から思えば、赤面ものだ。

 そんな時、落ち着いた女の声が、クリスターに呼びかけてきたのだ。

(クリスター、大丈夫よ…落ち着いて…ここは安全な場所よ。皆、あなたを守り、助けたいと思っているわ)

 とっさに振り上げた手をその相手に向かって打ち下ろさなかったのは、穏やかで誠実な口調が母親のヘレナにそっくりだったからだろう。

(安心なさい、誰もあなたを傷つけはしないから―)

 クリスターが戸惑っているうちに、その声の主が彼の頭を引き寄せ、子供をあやすように胸に抱いた…。

 部屋の扉をノックする音に、クリスターははっと目を見開いた。

「ドクター・オブライエン…」

 自分の担当医師の知的で美しい姿を扉の所に認めて、クリスターはつい顔を強張らせた。

「クリスター、気分はどう?」

 彼女はきびきびした動作で、クリスターのベッドに近づいてくる。

「すこぶる悪いですよ」

 クリスターはにこりともせず、素っ気無い口調で言った。

「たかが腕1本、動きを制限されるだけで、こんなに生活が不自由になるとは思ってもみなかった。体の他の部分は健康だけに、こうしてベッドにじっとしていることが我慢できなくなってくる。ねえ、先生、僕はいつ退院できるんです?」

「そうね…思った以上に経過はいいようだから、あなたが早く家に戻りたいというのなら、週明けの検査結果を見て、来週いっぱいで退院できるようにしてもいいと思うわ。ただし、その場合、しばらくまめに外来に通って、それから決して右肩に負担になるような無理なことはしないよう約束してもらわなければね」

 オブライエンの抑制のきいた、穏やかな笑みを凝然と見返しながら、クリスターはまだ何となく不満げに溜息をついた。

「この固定具はやっぱり当分外せそうにないですか?」

「ちゃんと治したいのなら絶対安静が基本です。クリスター、あなた、意外に我慢がきかないのね?」

 何だか子供扱いされたようで、クリスターは些かむっとしながらオブライエンを睨んだが、彼女はクリスターの刺々しさに気付いているのかいないのか、更に幾つかクリスターに問診をして、手元のカルテに記入していった。

「…僕をセラピストに一度診せた方がいいと、母さんに勧めたそうですね? それほど僕はやわに見えますか?」

 クリスターが突っかかるような口調で尋ねると、オブライエンはカルテから顔を上げ、ペンを持つ手を顎に軽く添えながら、じっと彼を見つめた。

「そこまで私はあなたのことをよく知らないわ。ただ、あなたのお母さんはあなたをとても心配して、こう言っていたわ。クリスターは心根が強い分、耐え切れないほどのプレッシャーにさらされた時は、きっと、曲がるのではなく折れてしまうだろうって―」

 クリスターは虚を突かれた。つい居たたまれなくなって、どことなくヘレナを思い出させる、オブライエンの涼やかな眼差しを避けるよう、顔を伏せた。

(ああ、やっぱり僕は相当参っているんだろうな…妙な意地を張っている場合じゃない、母さんの言うとおりだ、ごめんよ)

 クリスターが軽い自己嫌悪に陥っていると、何の前触れもなく、病室のドアが勢いよく開かれた。

「クリスター!」

 息せき切って部屋に飛び込んできたのは、レイフだった。

 レイフはクリスターと目があうと、今日も彼に会えて心から嬉しいという気持ちも顕に、大口を開けて笑った。

「今日は母さんが来られないって聞いたから、オレ、練習終わってすぐ、急いで飛んで来たよ。兄貴が寂しがってるんじゃないかって思ってさ」

 レイフの機嫌のよい顔を見ながら、クリスターは何だかほっとしたような気分になった。

 暗く沈みがちな、この病室の雰囲気が、いつも元気で騒がしいレイフが現われると、たちまち変わる。

「あ、オブライエン先生、こんにちは」

 レイフは、微笑を含んだ優しい目で自分を見ている白衣の女性を見つけると、しゃきんと姿勢を正して、挨拶をした。

「こんにちは、レイフ、今練習の帰りなのね。調子はどう?」

「もちろん絶好調ですよ」

 オブライエンは、懐っこく笑いかけるレイフと他愛のない言葉を幾つかかわした後、クリスターを振り返って「また明日」と言い残し、病室を出て行った。

 彼女が白衣の裾をひらりとさせて去っていくのを、レイフはもの欲しそうな目でじいっと追っていた。

「…おい、女性をそんなにあからさまにじろじろ見るなよ」

 渋い顔をしてクリスターがたしなめるが、レイフはあまり気にせず、感心したような口調で言った。

「あの先生、美人でかっこいいよな、独身かなぁ、何才だろ?」

「おまえ、そういう失礼なことをドクターにストレートに尋ねたりするなよ」

「なあ、ちょっとうちの母さんに感じが似てないか?」

「うん…」

 レイフもそう思うということは、やっぱり似ているのだろう。ならば、自分が彼女に対してした多少の粗相は、大目に見られて然るべきだ。

 物凄く格好の悪い、素の自分を見られた恥ずかしさのせいで、クリスターは自分がついドクター・オブライエンに対して反抗的になってしまっていることを自覚していた。

「よかったな、クリスター、あの先生となら、気があって、治療でも何でも気軽に相談できそうじゃん」

「…そこまで積極的に打ち解けようとは思うほど、相性がいいとは思わないよ」

「そんなはずないだろ、クリスターって、もとから、ああいうタイプ好きじゃん、年上のインテリ女って―」

 クリスターは露骨に嫌そうに顔をしかめ、レイフのあくまで悪気のない顔を睨みつけた。

「馬鹿言うなよっ」

 そのままぷいっと顔を背けてしまうクリスターに、レイフはちょっとびっくりして、続けて軽口を言いかけた口を閉ざした。

「何だよ、今日は随分虫の居所が悪いんだな…何かあったのかよ?」

 レイフの呟きに、クリスターは肩を小さく揺らしたが、ウォルターのもたらした様々なニュースについて思い起こすとまた気持ちがかき乱されそうで、今は打ち明ける気にはなれなかった。

「…別に」

 そのまま不機嫌そうに窓の外を睨みつけているクリスターに向けられた、レイフの目がふと怪訝そうに翳ったが、この所ずっと情緒不安定な兄を気遣ってか、結局彼もそれ以上追求することはなかった。

 実際、フットボールに専念することで気持ちを安定させることのできるレイフと病室で無為に過ごす時間の長いクリスターでは、気持ちの持ちように差異が出てくるのは仕方がない。

 その後、レイフはすぐにいつもの陽気な調子に戻って、クリスターの気を上向きにしようとしきりと話しかけ、何くれとなく世話を焼いてきたが、クリスターは心あらずの様子でぼんやりと受け流し続けた。

(僕は、これから、どうすればいいんだろう…?) 

 そんな問いかけがつい頭の中に浮かんできて、クリスターを心細い気持ちにさせている。

(アイザックもダニエルも僕の傍から去っていき、独りきり、退院した所でチームに戻れるわけでもない…まるで僕は何ものでもなくなってしまったような、心もとない気がするな)

 安定を取り戻したレイフが、大きな愛情と優しさで弱っている自分を包み込もうとしてくれているのを感じながらも、それに甘えて寄りかかりたくはない。

 そんなことになれば、あれだけの犠牲を払って、レイフを突き放した意味がなくなってしまう。

(分かっている…僕がしたことの結果を引き受けるのは僕でしかないということだ。今は苦しくても、僕が自分で克服しなきゃならない…大丈夫だ、僕だって、レイフのように、きっと立ち直ってみせる)

 そう自らに言い聞かせ、打ち明けることのできぬ煩悶は、レイフの手の届かぬ、胸の奥に深く封じ込める。

 フットボールという将来の大きな夢を失ってしまったクリスターの前に、また別の新たな道が開けてくる兆しは、しかし、今ところまだ訪れてはくれなかった。

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