ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第7章 FAKE

SCENE2


 だらしなくもクリスターにしがみついたまま寝入ってしまったレイフは、夜が明ける頃になってやっと目を覚ました。

「え、嘘、いつの間にオレ…」

 レイフが慌ててベッドから身を起こすと、病室の窓から差してこんでくる淡い朝の光の中、既に起きていたクリスターが、彼に向かって目を細めるようにして微笑みかけてきた。

「ク、クリスター!」

 レイフはクリスターに抱きつこうと手を伸ばしかけたが、彼の痛々しく包帯で固定された肩が目に入ると、そのままじっと固まってしまった。

「レイフ」

 弟の躊躇いを察したのか、クリスターは自ら無事な方の手を伸ばして、彼の頭をぐっと引き寄せた。

「兄さん」

「心配させて、ごめんよ。おまえを巻き添えにしたくないばかりに、自分だけで解決しようとしたけれど、結果として、余計に迷惑をかけてしまったようだ」

 身も心もぽろぽろのはずなのに、クリスターの声はいつもと変わらず穏やかに耳に響いて、それがレイフを一層切なくさせた。

「いいんだ、そんなこと―クリスターが助かったのなら、オレはもう何も―」

 たどたどしい口調で何かを言いかけたものの、こみ上げてくる想いに胸が詰まって、レイフはすぐに黙り込んでしまう。

「レイフ、泣いているのかい…?」

 心配そうなクリスターの呼びかけに、レイフは慌てて顔を上げ、むきになって否定しにかかった。

「ち、違うよ。ただ、ほっと気が緩んだせいで…い、いや、やっぱり、まだちょっと涙が残っていたみたいだな」

 意地を張って強がってみせても、クリスターの前ではどうにもうまくいかない。レイフは手の甲で目元を荒っぽくぬぐいながら、クリスターに向かってへらりと笑いかけた。

「兄貴のおかげで、オレ、すごい泣き虫だって、ここの看護師達に思われちまったよ」

 冗談めかして言ったつもりなのに、クリスターは余計にすまなそうに顔をしかめた。

「ごめん」

 クリスターの優しい手がレイフの頭の上に乗せられ、寝癖のついた髪をいたわるように撫でつける。

 その心地よさに素直に目を閉じ、レイフはクリスターの体にゆるく腕を巻きつけて、ほっと息をついた。

(よかった。目を覚ました。オレのもとに戻ってきてくれた)

 クリスターの体温に触れ、その規則正しい心臓の音に耳を傾けながら、レイフは、そのことをじっと確認していた。

(もしかしたら二度と取り戻すことはできないかもしれないと怯えたこともあったけれど、今、オレのたった1人の相棒はちゃんとこの腕の中にある)

 レイフは、涙と鼻水で濡れた鼻先をクリスターの胸に押し当てて、心の中で呟き続けた

(これで、やっと安心できる…クリスターさえいれば、オレには何も恐いことなんかないよ)

 気持ちが昂ぶるがまま、つい力任せに相手を抱きすくめたくなるレイフだったが、クリスターの怪我が思い出されては、熱くなった頭をまた少し冷やされる。

(大丈夫、これで何もかも元通りになるはずだ)

 嬉しいくせに、どこかまだ張り詰めたような奇妙な気分が続いていた。

 自分達のすぐ傍に不吉な影が忍び寄っているかのような嫌な予感を、レイフは必死に振り払う。

(いいや、気のせいだ。危険は去ったはずだもの、なあ、クリスター?)

 クリスターはレイフの抱擁を辛抱強く受け止めたまま、何も話しかけてこようとはしない。

 二度と離すまいとするかのようにクリスターを抱きしめたまま、レイフはしばらく動こうとはしなかった。




 病院に運び込まれた翌日は一日中、クリスターは検査ばかりさせられた。

 頭も強く打っていたので念のためCT検査をしたが、幸い異常はなく、薬物の影響も残っていなかった。

 外傷としては、肋骨や腕に小さなひびや骨折が数箇所あったらしい。だが、やはり一番重症なのは右肩だった。

 このまま肩を固定して治すにしろ、思い切って手術をするにしろ、ちゃんと動かせるようになるには最低でもひと月、直視下での手術となるとリハビリも含めて数ヶ月かかるという。

 今後の治療方針については、クリスターは少し考えさせて欲しいと答えた。

 昨夜救急処置を施してくれた女医、サンドラ・オブライエンがクリスターの主治医を務めることになったが、彼女も彼がスポーツ選手であることを気遣っている様子だった。

 当然だ。もしもクリスターが戦線を抜けることになれば、チームに与えるダメージは計り知れない。

「大丈夫だよ、クリスター…もしかしたら初めの数試合はベンチを温めることになるかもしれないけれど、ひと月もあれば兄貴ならきっと回復して、普通に試合に出られるようになるさ。ほら、ガキの頃から、オレ達って、怪我の治りはすごく早かったじゃん」

 レイフの励ましをクリスターは黙って聞いているだけで、淡々と義務的に検査を受ける姿からは、彼が何を考えているのか全く分からなかった。

 その日一日、レイフは、検査のために離れなければならない時以外はずっと、クリスターの傍についていた。

 もしかしたら両親にはウォルターやケンパー警部から何か連絡があったのかもしれないが、病室のクリスターのもとにまでは届いてこなかった。

 大怪我をしたばかりのクリスターに与える影響を慮って、刺激的過ぎる外からの接触や情報はシャットアウトされたのだろう。

 レイフも今は積極的に、逮捕されたジェームズがその後どうなったか、アイザックはどこにいるのか、あるいは別の病院で手当てを受けたはずのダニエルの詳しい容態についても、知ろうとはしなかった。

 目の前にいるクリスターのことだけで、レイフの頭はもういっぱいだったのだ。

 夜になって、やっと落ち着いた頃、ついに黙っていられなくなったのか、クリスターがレイフに家に帰るように促した。 

 帰りたくなどなかったレイフは、クリスターと一緒にいると頑固に主張したのだが、昨日からシャワーも浴びていない体を『臭い』と一喝されて、仕方なく一度戻ることにした。

 考えてみれば、昨夜の騒ぎ以来、着替えもしていない。確かに薄汚れてはいたし、たぶんジェームズのものらしい血の染みがシャツについたままだった。

 そうして、何だか久しぶりに戻ったような気がする我が家―。

 汗と埃を熱いシャワーで洗い流してやっと人心地ついたレイフは、すぐにベッドにもぐりこんだ。しかし、なかなか寝付けなかった。昨夜クリスターに付き添っていた時は、泣きながら、いつの間にか寝てしまったのに、1人になるとどうにも気持ちが落ち着かなくて、全く眠気を覚えなかった。

 自分の部屋の隣にある空っぽのクリスターの部屋を思うと、ひどく寂しかった。

 まんじりもせずに過ごした、その夜、レイフはクリスターのことばかり考えていた。

 病院で医師から聞いた話の全てを理解することはできなかったにしろ、レイフにもクリスターの容態の厳しさは感じ取れる。

(これから先、一体クリスターはどうなるのだろう…?)

 本当は、薄々分かっている部分もある。しかし、自分達の目の前にある過酷な現実を、レイフはなるべく見ないようにしていた。

(嫌なことばかり想像すると、何だかそれが本当になっちまいそうな気がする。そうだ、前向きに考えるんだ…クリスターは元気になる、必ずオレ達のチームに戻ってくる)

 そんなふうにレイフは、クリスターがいない間チーム・メイトと一致団結してブラック・ナイツを守ろう、クリスターが戻るまでの辛抱だからがんばってこの危機を切り抜けようと、自分にひたすら言い聞かせていた。




 朝方になってやっと眠りについたレイフが次に目を覚ましたのは、昼前だった。

 この2日間、レイフの時間の感覚はどうもおかしくなっているようだ。

(ああ、寝過ごしちまった…母さんも、父さんも、起こしてくれたらいいのにさ!)

 両親がレイフをそっとしておいたのは、肉体的な疲れはそれほどではなかったにせよ、精神的には昨日一日落ち込んだり妙に陽気になったりと不安定だった彼を休ませようという気遣いだったのだろう。

 その彼らも既に家にはおらず、1人で遅い朝食をかき込むと、レイフはすぐに家を飛び出した。

 途中、ドライブスルーのタコベルでクリスターへの差し入れを買い込んで、レイフが病院に着いた時のことだ。

 クリスターの見舞いに訪れた帰りだったのだろう、フランクス・コーチ達とレイフは、玄関を入った所でばったり出会った。

「あ、フランクス・コーチ」

 深刻な顔つきで他の2人のコーチ達と話しながら歩いてきたフランクスは、ファースト・フード店の大きな袋を抱えたレイフが手を振っているのに気付くと、微妙な顔をして、立ち尽くした。

「クリスターを見舞いに来てくれたんですか」

 レイフは屈託のない笑顔になって、彼らにまっすぐ駆け寄っていった。

「ああ。昨日、ラースから知らせを受けていたんだが、クリスターと直接会って話をするのは今日まで待ってくれと言われてな…いや、全く驚いたよ。何と言えばいいのか、正直言葉も見つからん。すまんな、レイフ、俺もさすがに動揺しているようだ」

「で、でも、クリスターは結構元気そうだったでしょう?」

 フランクスや他のコーチ達の上に漂う重苦しい空気には気付かない振りをして、レイフはわざと明るい調子で言った。

「散々ぼこられて、ちょっと人相変わっちまってるけど、見掛けほどひどい傷じゃないんですよ。頭も打ったけれど、中身は無事だし…まあ、あいつの場合は、少し馬鹿になったくらいで丁度いいんだろうけれど―そうそう、クリスターの主治医のオブライエン先生には会いました? すごい美人なんですよ、オレも入院するなら、あんな先生に診てもらいたいなぁ」

「レイフ…」

 フランクスは、これまでレイフが見たこともないような辛そうな顔をして、唇を噛み締めた。

「コーチも、あまり深刻に考えないでくださいよ。クリスターの怪我はすぐに治りますから―シーズン開幕までには、きっと間に合いますって」

 陽気な台詞が上滑りしているのにも気付かず、レイフは根拠のない楽観的な話を延々と続けようとしたが、たまりかねたフランクスがそれを制した。

「レイフ、チームのこれからについては、おまえが落ち着いてから、ちゃんと相談しよう。全く、負傷したクリスターは信じられないくらいに落ち着いていて、こっちが気を遣うほどだったのに、現実を受け止められないのはおまえの方か。しかし、クリスター抜きでチームを一から立て直すことを考えれば、要となるおまえには、何としてもしっかりしてもらわなければならんのだ」

「何を言ってるんです、コーチ?」

 まるで言葉が通じていないのか、きょとんと瞬きするレイフを、フランクスは哀れみのこもった眼差しで見た。

「いいから、今はクリスターの所に行ってやれ、レイフ…俺達の前ではいつもどおり冷静に振る舞っていたが、あんな酷い目にあって、ショックを受けていないはずがないからな。あいつが一番心を許せるのは、やはりおまえなんだろうし…いいか、何があってもクリスターをしっかり支えてやるんだぞ」

 レイフは当惑顔で、フランクスをじっと見返すばかりだ。

 そんなレイフをフランクスはもどかしげに見つめたが、振り切るようにして背を向けると、深刻な面持ちの他の2人と共に足早に去っていった。

「コーチ…兄貴と一体どんな話をしたんだろ」

 ぽつりと呟いた後、レイフは、いきなり寒気を覚えたかのように、軽く身震いした。

 公式練習の開始日直前に負傷してしまったクリスター。レイフにとってはあくまで個人的な問題だが、チーム全体のことを考えなければならないコーチ達は、全く違う見方をして当然だった。

 レイフは、何かに急き立てられるように、クリスターの病室に向かった。

「クリスター…」

 レイフが病室のドアを開けると、クリスターはベッドの上に少々窮屈そうに長身の体を横たえて、白い天井をじっと見据えていた。

 その厳しく張り詰めた表情に、レイフはとっさに胸を突かれ、立ち尽くしてしまう。

 やがて、気配に気付いたのか、クリスターが怪訝そうにこちらに頭を傾けた。

「レイフ…?」

 声をかけづらそうにもじもじしているレイフの姿を認めると、彼はすぐに親しみにこもった笑顔になった。

「今日はやけに来るのが遅いから、どうしたんだろうと思っていたところだよ。そんな所に突っ立っていないで、中に入れよ」

 昨日よりも、クリスターの顔色は大分いいように見えた。

「寝坊したんだよ。昨日、ちょっと寝つきが悪くてさ」

 レイフはぎこちなく笑い返しながら病室に入っていき、手にしたビニール袋をクリスターに見えるように持ち上げた。

「これ、差し入れ」

 メキシカンのファースト・フードの大きな袋を見て、クリスターはちょっと顔をしかめた。

「おまえ、何人分買ってきたんだ。それに、昼食なら今さっき運ばれてきた所だよ…まだ食べてないけど―」

「病院食なんて、どうせ食った気しないと思ってさ」

 そう言いながら、レイフは棚の上に置かれたままの食事のトレイをひょいと覗き込んだ。

「ん、量は少ないけど、結構うまそうじゃん。何で、食わねぇの?」

「欲しいなら、おまえにやるよ」

「食わないと元気出ないぞ…そうだ、オレが食べさせてやるよ、兄貴。利き腕は使えないし、左手じゃ、難しそうだもんな。いいから、遠慮するなって」

 他人に食べさせてもらうことに抵抗のある素振りを見せるクリスターを、レイフは半ば強引に起こして、ベッドの上に簡易テーブルをセットした。そうして、トレイの上にかけられたラップをはがし、まだほんのり温かさの残っているプラスチックの容器から、チキンの塊をフォークに刺して、クリスターの口元に運んだ。

「ほら、口、開けろよ」

 クリスターは居心地の悪そうな顔でレイフをじっと見返したが、やがて観念したように口を開いて、弟に介助されての食事を始めた。

「慌てなくていいからさ、よく噛んで、食えよ」

「おまえ、母さんみたいなこと言ってるぞ…ああ、全く、この僕がおまえの世話を受けるなんて、情けないな」

「たまには、いいじゃん。思い切り甘えてよ。オレ、クリスターのためなら何でもするからさ、な?」

 普段何をするにしても卒がない、器用なクリスターが、今は楽に食事を取ることすらできず、自分の手から与えられるものを黙々と食べている。

 レイフは、この奇妙な状況に戸惑い、胸を痛めながらも、これまで兄に対して覚えたことのない強烈な庇護欲をかき立てられていた。

 クリスターがレイフの差し出したものを口に含んで、咀嚼し、飲み込む、その様子から、どうしても目を離すことができない。

 クリスターが病院食を食べ終わると、レイフは、自分が持ってきた差し入れをいそいそとテーブルの上に並べだした。

 クリスターは呆れたように目を丸くして、笑った。

「おいおい、いくらなんでも、こんなに食べきれないよ。僕を豚みたいに太らせる気かい? 運動もせずに、ベッドにじっと横になっているだけなんだよ?」

 レイフはけろりとして言い返す。

「しっかり食べたら、その分早く元気になるって、クリスター…ほらっ」

 強引なレイフは、口を大きく開けて見せながら、煮込んだ豆の入ったブリトーをクリスターの顔の前に突きつける。

 クリスターは苦笑しながら、ブリトーを掴んだレイフの手に左手を添えるようにして、思い切りよく噛み付いた。

 瞬間、クリスターの唇がレイフの指に軽く触れた。びっくりしたレイフは、思わず、手を引っ込めそうになった。

「何?」

 クリスターは口を動かしながら、真っ赤になって瞳を揺らしているレイフを怪訝そうに見返す。

「な、何でもない…ああ、確かに、これ、兄貴1人じゃ食いきれないよな。オレも手伝うよ」

 動揺を誤魔化すよう、そう言って、レイフはクリスターの前のテーブルからタコスを1つと取り上げた。

 それを見るなり、クリスターは説教モードのしかめ面になって、レイフを軽くたしなめる。

「おまえ、こんなジャンク・フードを食べるのはほどほどにしろよ。いつも言っているだろう、脂質の取りすぎになる…僕が見ていなくても、食事の内容も考えて、シーズンが始まるまでに体作りはきちんとやっておけよ。本当は、こんなふうに僕に付き添って時間をつぶすよりも、練習に打ち込んでくれた方がよほどいいんだけれど―」

「馬鹿言うなよ、クリスターを放って、練習なんかできるかよ」

 すると、クリスターが急に恐い顔になったので、レイフは慌てて視線を逸らした。

 ふいに、先程病院の玄関で出会った、フランクス・コーチの何か言いたげな表情を思い出した。彼らがクリスターとどんな話をしたのか気になっていたが、レイフはなぜか尋ねられないでいた。

「…ジュース、もらうよ。クリスターは、コーヒーでいいよな?」

 外で買ってきた飲み物をストローで吸いながら、レイフは横目でちらりとクリスターの様子を窺った。

 クリスターは、ブリトーの残りをブラックのコーヒーで流し込むようにして食べ終わると、残りはビニール袋に丁寧に戻していった。

(何だよ、せっかくクリスターのためにたくさん買ってきたのにさ)

 レイフは胸の内で文句を言うが、さっき見たクリスターの顔に浮かんだ怒りの色を思い出すと、気安く彼に話しかけられなくなった。

 ランチをすませたレイフは、簡易テーブルやベッドの周りを黙々と片付けたり簡単に掃除をしたりし始めたが、その間もクリスターに対する気まずさがぬぐえなかった。

 家ではめったに部屋の掃除などしないレイフがまめに動き回っているのを、クリスターは黙って見守っている。

 レイフもクリスターも、相手に言いたいこと、尋ねたいことがあるのに、なかなか口火を切るチャンスを見つけられないでいた。

「レイフ」

 ついに沈黙を破って話を切り出したのは、クリスターだった。

「おまえが来る直前までフランクス・コーチ達が見舞いに来てくれていたんだけれど、彼らには会わなかったのかい?」

 することもなくなって窓の外をぼんやりと見ていたレイフは、クリスターの試すような声を背中に聞いた途端、ぎくりとした。

「う、うん…? ああ、そう言えば、玄関を入った所でばったり会ったよ。何だか急いでいたみたいだから、ちょっと挨拶だけして、すぐに別れたんだけれど」

 クリスターの方を振り返りもせずに、レイフは簡単な返事をした。自然に振る舞おうとしても、その態度にはどこか固さが滲み出ている。

「僕とコーチは、僕が抜けた後のチームの再編について、話し合ったんだ」

 クリスターの声は穏やかそのものだったが、それを聞くレイフの心臓は、緊張のあまり今にも破裂しそうだった。

「レイフ、さ来週にはチームメイトも皆戻ってきて、ブラック・ナイツは本格的に始動する。結論を先延ばしにしている余裕はない。だから僕は、ドクターの診断を彼らに正確に説明し、今季僕がチームに参加するのは不可能だと伝えたんだ」

 そう聞いた瞬間、レイフの頭の中で、何かが弾けた。

「不可能なんかじゃない!」

 体ごとクリスターの方に振り向けながら、レイフは噛み付くように叫んだ。

「馬鹿、何てことを言うんだよ、クリスター! エースのおまえが、そんなに簡単に諦めるのかよ! そんなこと、認められねぇ…そうだよ、怪我のせいでおまえは気が弱くなってるんだ。大丈夫だよ、クリスター、そんな故障なんか、すぐに治るから―」

 レイフの切迫した訴えを、クリスターは冷厳とした態度で退けた。

「レイフ、僕は今の自分の状態を正しく認識しているつもりだ。別に悲観しているわけでもない、ただ現実を見て、今後の対策を早急に練る必要があると―」

「何が現実なものか! おまえは間違ってる…!」

 クリスターの言葉を激しく遮ると、レイフは恐怖に駆られたように目を見開き、じりじりと後じさりした。

「レイフ、レイフ、頼むから、落ち着いて、僕の話を聞いてくれ。僕がいなくなった後は、おまえが―」

「嫌だ!」

 レイフは、辛抱強く言い聞かせようとするクリスターの言葉を思い切りはねつけ、絶対に聞くまいとするかのように両手で耳を塞いで、嫌々をする。

 そんな弟を、クリスターはしばし途方に暮れたように見守っていたが、その顔がふいに厳しくなった。

「いい加減にしろ…!」

 クリスターはベッドから起き上がってレイフの方に体を向けようとしたが、突然の動作が固定された右肩に響いたのだろう、たちまち低い苦鳴を漏らした。

「ク、クリスター!」

 レイフは慌てて、顔を歪めて痛みに耐えているクリスターの傍に駆け寄った。

「大丈夫か? いきなり動くなんて、無茶だよ」

 泣きそうになりながら、おろおろとクリスターの体に手を添えるレイフを、彼は青ざめた顔で見上げた。

「ああ、おまえの言うとおりだ、レイフ。今の僕は、これだけの動作にも支障が出る」

 はっと息を飲み、とっさに目を逸らそうとするレイフの腕を、クリスターは逃がすまいとするかのごとく左手で掴んだ。

「しっかりその目で見ろ、レイフ、これが現実だ」

 レイフの腕を捕らえたクリスターの手に、ぐっと力が込められる。

「僕が今季の大会に復帰するのは絶望的だ。それどころか、たぶん僕はもう…フットボール・プレイヤーとしては二度と活躍することはできないだろう。僕の選手生命は絶たれたものと言ってもいい」

 レイフの体が、衝撃のあまり、大きく震えた。

「そんなこと…そんなことないよ、クリスター…まだちゃんと治療も終わっていないうちから、簡単に諦めるなよ。フットボールやってりゃ、誰だって怪我はつきものだ…きっと何とかなるよ…」

 レイフは苦しげに歯を食いしばり、混乱する頭で必死に言葉を考え出してなおも訴えかけるが、その声は随分弱々しくなっていた。

「怪我はいつか治っても、僕は完全に元通りにはならないよ。肩に爆弾を抱えたクォーター・バックが、この先どこまでハードなプレイに耐えられると思う…? 怪我の知らせを聞けば、僕に熱心にアプローチをかけていたカレッジのスカウト連中はきっと見向きもしなくなるはずだ。ましてや、ずっと厳しいプロの世界でやっていけるはずがない…そんなに甘いものじゃないんだ、父さんを見たって、分かるだろう…?」

 駿足で馴らしたランニング・バックだったのに、事故で脚を傷めたがためにプロの世界から去らなければならなくなった父親の例を出されて、レイフは言い返せなくなる。

「そう…僕は二度と…フィールドには立てない…」

 ここまで冷静に話していたクリスターが、ふいに込み上げてくる気持ちを抑えきれなくなったかのように、声を詰まらせた。

「ク、クリスター」

 ぐらりと傾いだクリスターの体を、レイフは慌てて抱きとめる。

 クリスターは、レイフの胸に頭を押し付けて、何とか落ち着きを取り戻そうとするかのごとく、深呼吸した。

「クリスター…な、泣くなよ」

 ここに至って兄が初めて見せる動揺に触発されて、レイフはまた涙ぐみそうになった。

 クリスターは、レイフの胸に顔を伏せたまま、動かない。

 てっきり泣いているのかとレイフは思ったが、再び顔を上げた彼の目に涙はなかった。

「レイフ、今となってはチームをやめるしかない僕の願いを、どうか聞いてほしい」

 クリスターは、強い切望を湛えた眼差しでレイフの目を捉えながら、はっきりとした口調で告げた。

「レイフ、僕の代わりに、おまえが先頭に立ってチームを引っ張ってくれ。何があっても必ず勝ちを取れる、強いエースが必要なんだ。僕だって…できるものなら、優勝という喜びをもう一度体験したかった。僕が果たせなかった夢を、おまえが皆と一緒に叶えてくれ。レイフ、僕の想いの全てを、後はおまえに託したいんだ」

 クリスターの振り絞るような訴えは、レイフの震える胸に深く突き刺さった。

「夢…おまえが…オレ達がずっと追いかけてきた…?」

 呆然と呟くレイフに向かって、クリスターは深々と頷きかける。

「そうだ、レイフ…僕達の夢をもう一度、今度はおまえの力で現実にしてくれ」

 その時、レイフの脳裏に、去年の州大会決勝戦での興奮と感動に満ちた様々なシーンが蘇ってきた。

 もちろん、楽にあそこまで行けたわけではない。苦労の汗と涙の末にたどりついた頂点だった。

(もう一度、あそこまで勝ち上るのか…いつも追いかけてきたクリスターの背中を見ることもなく、今度はオレが皆の先頭に立って?) 

 そこまで考えた途端、レイフはぞっとしたように身震いした。

「レイフ?」

 訝しげに問いかけるクリスターに、レイフは傷ついた子供のような無防備な眼差しを向けた。

「独りじゃ嫌だ」

 くしゃりと顔を歪めて、ぽろぽろと涙をこぼしだした。

「独りじゃない、チームの皆がいるだろう?」

 クリスターははっと息を飲み、しゃくりあげているレイフの頭を引き寄せようとした。

 しかし、レイフは彼の手を振りほどいた。ふらふらとドアの方に下がりながら、恐慌に駆られた顔をして叫んだ。

「駄目だ…おまえの代わりなんて、オレにはできねぇ…クリスターのいないブラック・ナイツなんて、想像できねぇよっ!」

 クリスターの顔が苦しげに歪むのを見たくなくて、レイフはさっと背中を向けると、そのまま逃げるように病室を飛び出した。

「あら、レイフ君?」

 廊下に出た所で、レイフは、丁度診察のために訪れたのだろうドクター・オブライエンとぶつかりそうになった。

 彼女は、涙に濡れたレイフの顔を見て、目を瞬いた。

「一体どうしたの…?」

 どこかへレナに似た理知的な声が気遣わしげに尋ねてくるが、レイフは悲しみに胸が詰まって答えることもできず、そのまま病室から立ち去った。

「レイフ、戻ってこい!」

 クリスターの悲痛な呼び声が後ろの方から聞こえたが、それでもレイフは立ち止まらなかった。




 その後、レイフは病院には戻らなかった。

 クリスターは弟が戻ってくるのをずっと待っていただろうか。

 しかし、クリスターが二度とプレイできないという現実は耐え難く、ましてや彼の代わりにエースとしてチームを率いるという頼みを受け入れる勇気など持てないレイフは、家でラースにクリスターと何かあったのかと尋ねられても答えず、ヘレナさえも避けて、頑なに自分の殻に閉じこもり続けた。




 その同じ日の深夜、クリスターが病院で騒ぎを起こした。




「…ええ、消灯になるまでは、クリスター君には何も変わった様子はなかったと看護師から報告を受けています。本当に、突然のことだったので、駆けつけた私も驚きました」 

 問題が起こった時、クリスターの主治医のドクター・オブライエンはたまたま当直にあたっていたという。

「そうなんです、ひどく興奮して、暴れだして…泣き叫びながら、周りにあるものを掴んで投げつけたり、壊したり、初めは手のつけられない状態でした。私達の呼びかけも、全く聞こえていないようでした。急に感情のコントロールができなくなったような―そのうち、固定されている右肩の包帯をほどこうとしだしたので、慌ててとめようとしましたが、何しろ彼は力が強いですから…ええ、大丈夫、誰も怪我はしておりません。私が何とか落ち着かせようと話しかけているうちに、次第にクリスター君も平静さを取り戻してきたので、鎮静剤を注射して何とか休ませました」

 レイフは診察室の隅っこに所在なげに佇んで、机の前で向き合って低い声で話し合っている母親とドクター・オブライエンの声にじっと聞き耳を立てていた。

「あの子は、何も覚えていないんですか?」

 ヘレナの声には、さすがに隠し切れない動揺が滲んでいる。

「そのようです。そして、今朝診察した限り、クリスター君は昨夜起こったことが嘘のように平静です。でも、おそらく、あれは表面的にそう装っているだけで、内面はひどく不安定で脆い状態にあるのでしょう。何かあればあんな形で噴出してしまう程の負のエネルギーが、心の中に溜まっている。それが周囲や自分を傷つける形で出てしまわないかが、案ぜられますね」

 ドクター・オブライエンは首を傾げてしばし考えこんだ後、遠慮がちにそっと質問した。

「クリスター君は、普段から、何でも悩みを打ち明けたり相談したりできる相手を、ご家族や親しい友人の中に持っていますか? 弟さんとはとても仲がいいようですけれど―」

 ドクターの目がちらりと自分に向けられるのと同時に、昨日クリスターと言いあっていたところを見られてしまったことを思い出し、レイフは縮こまった。

「いいえ、あの子は、たとえ親しい相手でも、なかなか本心を話そうとはしません。いつもそうなんです、自分の感情は常に抑制して、決して取り乱した姿など見せようとしない。例え、どれほど身近な親しい家族であっても―」

 ヘレナはレイフに背中を向けているため、表情は分からないが、その声はひどく哀しそうに聞こえた。

「そうですか。私は専門ではありませんが…怪我を負ってしまったことは、クリスター君にとって周囲や本人が自覚する以上のショックだったんでしょう。もしかしたら、プロのセラピストにしばらくかかられた方がいいのかもしれませんね。よろしければ、私の知り合いの心理療法士を紹介しましょうか…?」

 じっと話を聞いていると段々居たたまれなくなってきたレイフは、そっと部屋を抜け出し、クリスターの病室に向かった。

 廊下で擦れ違った看護師達のうちの幾人かが、重々しい足取りで歩いていくレイフをちらちらと窺ってくる。クリスターが昨夜起こした騒動が噂になっているのかもしれない。

 取り乱した所を他人に見せるのを極端に嫌うクリスターが、感情を抑えきれずに爆発した。今でも信じられないが、本当のことのようだ。

 レイフは、先程へレナがドクター相手に話していたことを思い起こした。

(そうだ、クリスターは、どんなに親しい相手でも本心を明かそうとはしない。たとえオレにだって、弱みなど見せない、むしろオレの前ではいつも強くあり続けようとする。今まで、それを当たり前のように思ってきた…オレもクリスターも…)

 昨日、クリスターはレイフに、自分はもう二度とフットボールはできないのだと告げた。

 どんなに追い詰められても決して弱音など吐かないクリスターがあそこまで言わなければならないほど、彼の状態は絶望的なのだ。

(たぶん僕はもう…フットボール・プレイヤーとしては二度と活躍することはできないだろう。僕の選手生命は絶たれたものと言ってもいい)

 同じ台詞を、レイフがもし彼と同じ状態になったとして、平然と言うことなどできるだろうか。できるはずがない。

 クリスターだって、本当は泣き喚きたいくらいの気持ちだったのだ。今にも崩れ落ちそうな自分を奮い立たせ、かろうじて冷静を保っていたのだ。

(それもこれもみんな、オレのため…か)

 クリスターには、依存心の強いレイフが、自分の怪我によってどれほど不安定になるのかも分かっていた。

 しかし、自分と一緒にレイフまでつぶさせるわけにはいかないから、どんなに辛くても我慢して、レイフをなだめ、独り立ちさせようとした。

 自分にはもう成し遂げることにできない願いを、何としてもレイフに託そうと、クリスターは必死だったのだ。

(そう、オレを奮い立たせるために、あいつはずっと無理をしていた)

 クリスターにエースとしてチームを引っ張ってくれて頼まれた時、レイフは怖気づいた。先頭に立つことなど、とてもできないと思った。そこはいつも、クリスターがいるべき場所だったからだ。

(オレにおまえの代わりがつとまるわけがない。おまえは最高のチーム・リーダーだ、とても真似なんかできるものか。でも、それなら、一体誰にクリスターが今まで背負ってきたものを任せられる…?)

 クリスターが去った後、否応なしに、誰かがその責任を引き継ぐことになる。

 そこまで思い至った途端、強烈な反発心が、レイフの中に急にわきあがってきた。

(嫌だ。このオレがあいつから直接託されたものを、他の誰かに渡すなんて)

 レイフは打たれたようになって、思わず立ち止まった。そこで、いつの間にか自分がクリスターの病室の前まで来ていることに気付いた。

(クリスター)

 半分開いたドアの向こうに、ベッドに身を預けてぼんやりと窓の外を眺めているクリスターの横顔が見えた。

 どこか放心したような、クリスターには珍しいほど隙のある姿で、レイフが自分をじっと見ていることにも気付かない。

(おまえは、昨夜自分が錯乱したことさえ、覚えていないのか…)

 いつだって、誰よりも強く、賢く、完璧だったクリスターが、今はひどくもろく見えた。

(ごめん…兄貴の方がオレよりもずっと辛いのに―オレ、ガキみたいに恐がって、逃げ回ろうとした)

 じわりと目の奥が熱くなってくるのを感じた、その時、レイフは後から追いついたヘレナに声をかけられた。

「レイフ、何をしているの? 病室に入らないの?」

 レイフは慌てて、手の甲で目の周りをごしごしこすった。涙を誤魔化すよう、母を振り返って、笑いかけた。

「うん、オレ、今日は、クリスターに会うのはやめとくよ」

 レイフの意外な言葉に、ヘレナは訝しげに眉を寄せた。

「どうして? ここまで来ていて、会わないなんて…?」

 しごく当然な母の疑問にどう答えるべきか、レイフは迷ったが、結局、自分の今の気持ちを簡単に説明するのは無理だと割り切って、あっさりとした返答にとどめた。

「クリスターのためにも、オレ、今は他にやらなきゃいけないことがあるんだ」

 はっきりした口調でそう言い切って、もう一度ちらりと病室の奥のクリスターの姿に目をやると、レイフは扉から離れた。

「ああ、そうだ、母さんからクリスターに伝えておいてよ」

 そのまま踵を返して立ち去りかけたところで、ふと思いつくまま、レイフはヘレナに言った。

「オレ、昨日クリスターが言おうとしたこと、分かったから…兄貴から託されたものは全部オレが引き受けるから、安心してくれって」

 何かを吹っ切ったようなレイフの態度に、ヘレナは驚いたように目を見張った。

 クリスターが怪我をしてからずっと、びくびく、おどおどしていたレイフが、今はしゃんと背を伸ばして、ヘレナの目をまっすぐに見返している。

 何も聞かなくても、ヘレナは直感的に事情を察したようだ。穏やかな理解に満ちた眼差しをレイフの上に注ぎながら、確認するかのように尋ねた。

「そう伝えれば、あの子には分かるのね? それで…あなたは、今から一体どこに行くつもり?」

 それに対して、レイフは歯を見せてにっと笑うと、他に行く場所などないというかのごとくきっぱりと答えた。

「学校だよ。シーズンが始まるのはもうすぐだもん。この2、3日休んじまった分、オレ、今から猛練習して取り返さなきゃならないんだ」

 そうして、レイフは、クリスターには会わぬまま、病院を後にした。

(クリスター、オレはおまえの願いどおりにするよ。オレが先頭に立って、チームを引っ張る。必ず今年も優勝する。オレは、もう二度と弱音を吐いたり、泣いたりしないから―安心して、見ていてくれ)

 一度は進むべき道を見失いかけたレイフだったが、クリスターの気持ちを受け取ることで、新たに目標とするものができた。

(おまえの夢はオレの夢―だから、絶対に諦めるものか)

 今、迷いない心で前に進みだしたレイフは一度も足を止めようとも、病室に残してきた兄の方を振り返ろうともしなかった。


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