ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第7章 FAKE

SCENE1


 クリスターが大怪我をした。おまけに薬付けにされて、意識もない。

 それでも、オレはまだ信じていた。

 クリスターが、こんなに簡単に壊されてしまうわけがない。

 今はオレの背中に力なく寄りかかって、何度名前を呼んでも答えてくれないクリスターだけれど、じきに気がつく。

 フレイに傷めつけられた右腕だって、きっとよくなる。

 だって、クリスターはオレのチームのエースなんだ。

 ボールを投じる時のクリスターの腕さばきには、いつも見惚れた。下手にパス・カットに入った相手の指をへし折るような剛球も、針の穴に糸を通すような正確で繊細なパスも、あいつは見事に操った。

 クォーター・バックにとっては命とも言える、その腕が動かなくなったら、一体クリスターはどうなるのだろう。

 いや、大丈夫だ、クリスターは必ず復活する。

 これまで一度だって、クリスターがオレや仲間達の期待と信頼を裏切ったことがあったか。

 だから、オレは信じ続ける。




 そう思わなければ、心が張り裂けてしまいそうだった…。




 あの忌々しい地下室からどんどん遠ざかり、最初に受けた衝撃と緊張感が薄れていくに連れていくにつれ、レイフの胸にはまた別の苦しさがつのっていった。

(クリスター、クリスター、クリスター…!)

 トムと一緒に屋敷を出た所で、警官達に紛れて待ち受けていたウォルターとアイザックがすぐに駆け寄ってきたが、レイフは彼らの呼びかけにまともに応えるもこともできなかった。涙で目を一杯にして、ひたすら、クリスターを病院に連れて行かなくちゃと繰り返した。

 ケンパーは機転をきかせて、救急車を二台呼んでくれていた。一台は、既にダニエルをどこかの病院に運んで行ったそうだ。

 そうこうするうちに救急隊員が飛んできて、クリスターをストレッチャーに乗せて移動させようとしたが、レイフは反射的に彼らに逆らってしまった。

「クリスターに触るな!」

 ひどく気を昂ぶらせたレイフは、まるで敵を見るかのようなすごい目で、何の非もない救急隊員達を睨みつけた。

 矛盾した反応だったが、この時のレイフは、とにかくもうクリスターから片時も引き離されるのは嫌だった。誰かがクリスターを無理矢理奪い去ろうとしたら、その人間を打ち殺しかねないほど殺気立っていた。

 レイフの精神状態がおかしいことを察したウォルターが救急隊員達に何か言ってくれたおかげで、結局彼はそのまま自分でクリスターを運び、待機していた救急車に一緒に乗り込むことができた。

 そうして、重傷を負った上、薬物中毒の疑いもあるクリスターとレイフを乗せて、救急車は病院へと向かった。

 それからしばらくの間―病院に到着してクリスターが処置室に運び込まれるまでのことは、レイフは途切れ途切れにしか覚えていない。

 とにかくうるさいサイレンの音、初めて乗る救急車がやたらと揺れるので、クリスターの容態が余計に悪くなるのではないかと心配だったことは記憶に残っている。

 その搬送先の病院でも、レイフはちょっととした騒ぎを起こした。

 クリスターに引っ付いて処置室に入ろうとしたのを医者にとめられたために、また暴れだしそうになったのだ。

 興奮したレイフをなだめたのは、この時もまたウォルターだった。彼がここまで自分達に付き添ってくれていたのだということに、レイフはそこで初めて気がついた。

「とにかく落ち着け、レイフ―おまえが取り乱してドクター達の邪魔をしては、クリスターを治療することもできないんだぞ」

 ウォルターに辛抱強く言い聞かせられて、レイフもやっと少しは自分取り戻した。

 クリスターは意識を失ったまま、処置室の中に運び込まれていった。

 そうして今、レイフは、病院の長椅子に悄然と項垂れて、坐っている。

 ウォルターはレイフの家に電話をして、一度戻ってきたが、またどこかに姿を消していた。レイフがひとまず落ち着いたと見て、傍を離れたのだろうが、実際レイフの心の中はまだ荒れ狂っていた。

 ジェームズの屋敷の中で怪我をしたクリスターを見つけた時は、ショックだったものの、まだ実感を持てないでいた。

 現実として考えられる余裕が出てきた今の方が、精神的にきつい。

 目からとめどなく溢れ出す涙が、受け止めようと広げた手の上にぽたぽたと落ちていく。それをぼんやりと眺めていたレイフは、いきなり苦しげに顔を歪め、両手で頭を抱え込み、押しつぶそうとするかのごとく力を込めた。

(ジェームズの奴…やっぱり、あの時殺しておけばよかった…! どうして許したりなんかしたんだ! クリスターがされたように、あいつの腕も脚もへし折って、痛みにのた打ち回らせてやればよかった)

 まだ手に生々しく残る、ジェームズの首を締め上げた時の感触を思い出しながら、レイフは、どうして最後までやりとげなかったのかと自分を責めた。

 しかし、そんなレイフの脳裏に、あの時クリスターが最後の力を振り絞って訴えてきたことがよみがえった。

(怪物になどなるな)

 本気でジェームズを殺そうとしていたレイフをとめたのは、大量の薬物を投与されて、身動きはおろか声を発することもできないクリスターだった。

 クリスターの大きく見開かれた瞳に映るレイフの姿はぞっとするほど恐ろしく、煮えくり返っていたレイフの頭を一気に冷ましたのだ。

 憎しみに駆られてあのままジェームズを殺してしまったら、レイフもまた 人を人とも思わぬ怪物J・Bと同類になってしまう。

(身を落とすな、そちら側に行っては駄目だ)

 レイフは結局クリスターの願いの方を優先させた。クリスターの瞳の中に宿る自分は、まっすぐ健やかでありたい、いつも太陽に顔を向けていられるような、曇りのない心を持つ人間でありたい。

(分かってる…オレは正しい選択をした。ただ、クリスターがあんな目に合うのをとめられなかったことが悔しい…ああ、どうしてオレは間に合わなかったんだろう。ジェームズが嘲笑うのも当然だ、オレのやることなすことみんな失敗ばかりで…こんなことになるくらいなら、オレがクリスターの身代わりになればよかったんだ、オレの腕が折られればよかったんだ)

 レイフの心は、後悔と慙愧の淵の中に深く沈降し続けて、浮かび上がる気配もない。

 クリスターが処置室に運び込まれてからどれほどの時間が経過したのかも、彼にはもう分からなかった。

 そんなレイフの意識を現実に呼び戻したのは、ウォルターの急報を受けて病院に駆けつけた両親だった。

「レイフ!」

 聞き慣れた太い男の声に名前を呼ばれ、がっしりした手に肩を抱かれた瞬間、レイフはびくっと身を震わせた。

 とっさに顔を上げて見れば、父親のラースが目を潤ませながら、レイフを覗き込んでいる。

「レイフ、レイフ…おまえは無事なんだな? 本当にどこも怪我はないな…?」

 ラースは大きな体を屈めて、レイフが無傷であることを確かめるように、そフの頭や肩、腕をさすった。初めはまだ落ちついていたものの、レイフの泣きはらした顔を見ているうちに、何かこみ上げてきたものがあったらしく、ふいに彼は、顔を背けるようにして立ち上がった。

 ラースの後ろには、沈痛な面持ちしたヘレナが静かに佇んでいる。

「母さん…」

 レイフはくしゃくしゃに顔を歪めると、叱られるのを恐がる子供のように、しゃくりあげながら椅子から立ち上がった。

「ごめんよ、オレ…母さんに約束したのに…あいつを守れなかった。クリスターがあんな酷い目に合ったのは、オレの失敗だ…オレのせいなんだ。オレが、代わってやれればよかった!」

 肩を揺らせてめそめそ泣いているレイフを前に、さすがのへレナも一瞬唇を震わせたが、いかにも気丈らしく、ぴしゃりと言った。

「あなたのせいだなんて、馬鹿なことは言わないで、レイフ。それに、クリスターだって、確かに怪我はしたけれど、命には別状ないと聞いているわ…大丈夫よ、レイフ…あの子はすぐによくなるわ」

 でも、クリスターの肩や腕は―と言いかけて、恐くなったレイフはすぐに口をつぐんだ。

(そうだ、母さんの言うとおりだ、クリスターはすぐによくなる…きっともと通りに治る…!)

 挫けそうな心にそう言い聞かせながら、レイフは再び長椅子に腰を下ろした。

 少し離れた場所では、ウォルターが両親にこれまでの経緯をざっと説明しているようだった。

 ジェームズ・ブラックとクリスターの長い確執、彼らが密かに繰り広げた闘いなど、ほとんど寝耳に水の話を聞かされて、どんなにかショックを受けるだろう。

「どうして、そんな危険な真似を子供達にさせたんだ―あんただって、知っていたのなら、もっと早くに俺達に相談してくれたって…」

 案の定ラースは興奮して、話の途中で声を荒げたり、ウォルターに掴みかかろうとする素振りを見せたりし、間に入ったヘレナになだめられていた。

 それを眺めるレイフの胸には、今更のように、彼らに対してすまない気持ちがこみ上げてきた。

(本当にごめん、父さん、母さん…自分達だけで何とかできると思い上がった末、結局こんなに心配かけることになっちまった…ああ、オレがクリスターの独断と暴走をとめることができていれば―)

 レイフが情けなさに臍を噛んだ、その時、処置室のドアが開き、移動式の簡易ベッドが看護師達達によって運び出されてきた。

 レイフは椅子から跳ね起きて、ベッドの上に死んだように横たわっているクリスターに駆け寄った。

「に、兄さんっ!」

 クリスターはレイフの呼びかけにもまだ反応せず、その顔は死人のように青ざめている。剥き出しになった肩は包帯で厳重に固定されていた。

 それを見ると、レイフは胸が詰まって、何も言えなくなってしまう。

 気がつけば、ベッドの後ろから廊下に出てきた男女2人の医者から、両親が説明を受けていた。

「薬物の解毒の方はうまくいったと思います。呼吸も心拍も正常に戻っていますから、後はこのまましばらく様子を見ましょう」

 中年の男性医師が慣れた口調で言うと、今度は女性医師の方が後を引き継ぐ。

「肩の方は、脱臼を起こしていました。また、レントゲンにかけたところ、上腕部に幾つか骨折の箇所が見られますので、しばらくは安静にし、患部を固定する必要が―」

「クリスターの肩は、ちゃんと元通りになるんだよなっ!」

 いきなりレイフが大声で尋ねたので、その女性医師は驚いたように振り返った。自分達が今まで処置していた患者とそっくり同じ顔を見つけて、一瞬たじろいだようだが、そこは医師らしく、冷静に返した。

「最低でも3週間…もしくはそれ以上、傷めた肩と腕は安静にしなくてはならないわ。若い人だからきっと回復は早いでしょう。ただ肩脱臼は再発することが多いので―もしかして、彼は何かスポーツをやっているのかしら?」

 分かりやすい言い方でそう説明する、まだ若い女医の理知的な瞳に微かな翳りが差したが、レイフはそれを見ないふりをした。

「ああ、クリスターはオレと一緒にフットボールをやっているんだ。オレ達のチームのエースQBだよ」

 すると、男性医師の方が、思い当たったかのようにぽんと手を打った。

「赤毛で双子の…ああ、どこかで見た顔だと思ったら―去年州大会で初優勝したアーバン高校の選手だろう? うちの娘が君らのファンなんだよ…今年も友達と一緒に試合を見に行くのが楽しみだと言ってたな」 

「ジョン…」

 同僚の女性医師に軽口をそっとたしなめられた彼は、ばつが悪そうな顔をして黙り込んだ。

「クリスターはすぐ治るよな?」

 ベッドにすがりついたまま、レイフがしつこく問いかけるのに、女性医師は言いにくそうに口ごもった。

「すぐにとは難しいわ―それは、また明日以降、彼の容態が落ちついてから詳しい検査をしてみないことには、何とも言えないから…ともかく今は、あなたのお兄さんを病室に運んで、休ませてあげてちょうだい」

 柔らかな声でたしなめられて、レイフは赤面しながらベッドを押さえこんでいた手を離し、どうしようかと困っていた看護師達に向かって慌てて詫びた。

「レイフ、あなたは先に病室に行って、クリスターの傍についていてあげて。私達はドクター達にもう少し詳しいお話を伺ってから行くわ」

 運ばれていくクリスターと医師達の方を交互に見比べて、どうしようと迷っているレイフを見かねて、ヘレナが促した。

「う、うん…」

 医師達を追及したい気持ちはまだあったが、結局レイフはクリスターについていく方を選んだ。

(クリスター、クリスター…もう大丈夫だよ、麻薬は解毒できたし、肩だってちゃんと治してもらえた…元通りになるには少し時間がかかるって、あの医者は言ったけど、兄貴はオレと同じで丈夫だから、すぐに治るよ。それに何より、兄貴に付きまとうJ・Bはもういない…だから安心して―)

 意識不明のクリスターを励ますよう、心の中で呼びかけながらも、レイフの目からは、ともすれば涙が滴り落ちそうだった。

 用意された個室にクリスターを運びこみ、手際よく点滴その他を整えた後、看護師達は出て行った。

 部屋の灯りは消してもらったので、レイフは今、廊下の光が差し込んでくるだけの薄暗がりの中、ひっそりと横たわるクリスターの傍らに椅子を引き寄せて坐っている。

「オレもトムに笑われたけど、ほんと、兄貴もまたひどくやられたよな、せっかくのハンサムな顔が台無しだぜ」

 わざと軽い調子で話しかけてみたが、応える相手がいなくては、空しさだけがつのる。

 クリスターの体の布で隠されていない部分は、痛々しいほどに傷だらけだった。

 それを見ているとまた堪らなくなってきて、レイフは、点滴のチューブにつながれたクリスターの手を掴んだ。

「クリスター」

 その手をそっと持ち上げながら、レイフは低い声で呼びかけてみた。

「クリスター…?」

 どんな時でもレイフを力強く励まし、引っ張ってきてくれたクリスターの手は、今はだらりとして、レイフの手を握り返してくれることさえない。

 そのことが信じられないレイフは、途方に暮れながら、クリスターの顔を見つめるばかりだった。

 ついに諦めたレイフは、クリスターの動かない手をシーツの上に戻した。

 今度は、青ざめてひやりと冷たげな頬に触れてみたが、意外とその肌が熱いことにびっくりして、すぐに手を引っ込めてしまう。

「兄さん」

 レイフは顔をくしゃりと歪めて、また少し涙をこぼしながら、小さな椅子からふらふらと起き上がった。

 乾いてひび割れ、殴られた跡も痛々しいクリスターの唇から漏れる微かな息を確かめるよう、手をかざす。

 その震える手で再び兄の頬に触れると、レイフはこみ上げてくる熱い感情に駆られるがまま、とっさに身を屈め、クリスターに唇にキスをした。

(もう誰にも…二度と傷つけさせない、触らせない…!)

 レイフの閉ざされた目からこぼれた涙が、クリスターの傷ついた顔を濡らした。

(兄さんはオレが守るよ。今更こんなことを誓っても、遅すぎるのかもしれないけれど―)

 何らかの反応が返ってくることを期待するように、レイフはクリスターの唇を唇でついと押してみるが、彼を捉えこんでいる眠りはよほど深いのか、その微かな息遣いが乱れることすらない。

 また少し哀しい気分になりながら、レイフがクリスターの上から静かに身を引いた時、背後のドアががたんと音をたてた。

 レイフは文字通り飛び上がった。

「あ…ああ…父さん…」

 開いたドアに手をかけたままじっと黙り込んで立ち尽くしている父親の顔に、どことなく奇妙な、余所余所しい表情を垣間見たような気がして、レイフは背筋にひやりとしたものを覚えた。

「ドクターの話、どうだった?」

 レイフはとっさにクリスターの枕元に置いてあったタオルを掴み、さりげなく彼の額に浮かんだ汗をぬぐうふりをした。

 部屋の灯りは消してあったし、レイフの背中に隠れて、何をしていたかまではラースには見えなかったはずだ。

「…クリスターはまだ意識を取り戻さないのか?」

 レイフが屈託なく尋ねるのに、ラースはほっと息をつき、ヘレナと一緒に部屋の中に入ってきた。

「うん…まだ薬がぬけきらないのかな…怪我のせいか、熱も少しあるみたいだよ」

 しょんぼりとなるレイフの肩を、ラースが大きな手で励ますよう、叩いた。

「大丈夫だ、レイフ。使われた薬品はLSDらしいが、中毒の危険は脱したし、後遺症のようなものが残ることはまずないらしいからな」

「うん…」

 ヘレナは何も言わず、クリスターの枕元に立って、その傷つき疲れ果てた顔をじっと見下ろしている。どんな時でも毅然とした母の横顔が、この時は込みあげてくるものを必死に堪えているかのように弱々しげで、レイフは見ているのが辛くなってきた。

 ヘレナはレイフが自分をじっと見つめていることに気がつくと、いつもの表情に戻って、穏やかに言い聞かせた。

「レイフ、父さんと一緒に今夜は家に帰りなさい。後は、私が朝までクリスターに付き添うわ」

「嫌だ!」

 反射的に、レイフは叫んだ。母親相手でも、クリスターから離れるという考えを受け入れられるほど、まだ安心できていなかった。

「でも、あなただって今夜は色々無茶をしたのでしょう…? その格好を見れば分かるわ。家に戻って、熱いシャワーでも浴びて、少しは休まないと…」

「誰が何て言っても、オレは、今夜はクリスターの傍から離れないからなっ」

 普段は素直なレイフが眉を吊り上げ、クリスターの手をしっかり握り締めたまま頑として拒むのを、ヘレナはクリスターに似た思慮深い琥珀色の瞳でしばらく見守った。

「分かったわ」

 低い声で呟いて、ヘレナは2人のやり取りを心配そうに見守っていたラースに向き直り、少し相談した後、ひとまず病室から出て行った。

 病室の外で待っているウォルターと今回の事件についてもう少し突っ込んだ話をして、それから、ヘレナは病院に留まるだろうが、ラースとウォルターはひとまず帰ることになりそうだ。

 だが、レイフは、彼らがどんな話をするかには興味はなかった。

 それらは、言ってしまえば、もう終わったことだ。

「クリスター、早く目を覚ましてくれよ…おまえの声を聞きたいよ」

 レイフはクリスターの手を押し頂くようにしながら目を閉じ、祈った。

 大丈夫だ。クリスターを喰らおうとした、J・Bという闇は永遠に去った。彼を脅かすものはもはや何もない。

 悪夢のようだった、この忌まわしい夜が明け、明日になれば、きっと何もかもよくなる。

「明日だ、そう、明日―忌々しいことは皆忘れて、オレとクリスターと2人で力を合わせて、やり直すんだ」

 たとえそこでどんな過酷な現実が待ち構えていたとしても、2人でならきっと克服できると、レイフは固く信じていた。




 クリスターは、長い間、夢を見ていた。

 それらは、まどろんでいる最中は、今まで見たこともないような象徴的なドラマ性に溢れているように思われたものの、所詮は薬物によって異常な敏感になった精神が作り出した無意味な幻覚に過ぎなかった。

 怪しい惑乱状態から何かの拍子でふい覚醒した時は、夢よりも更にぞっとするような光景を目の当たりにし、クリスターを一層ひどい気分にさせた。

 おそらくあれの正体はクリスターに応急処置を施していた救急隊員だったのだろうが、頭から三本の角を生やした怪物に覆い被さられるのは、実際気持ちのいいものではない。

 思わず小さな悲鳴をあげて、すぐに目を瞑り、後はひたすら早く薬の影響から抜け出せるよう祈っていた。

 妖しい夢とうつつの境を、そうやって、どのくらいの時間さ迷ったのだろうか―クリスターは唐突に目を見開いた。

 周囲は真っ暗で、しんと静まり返っていた。

 見慣れぬ白い天井、鼻をつく消毒薬の臭いに、すぐに、ここは病院だと思い至る。

(ああ、僕は生きている)

 ほっと安堵の息をついた途端、体中で疼いている痛みに気付き、クリスターは顔をしかめた。

(あの地下室から、僕はどうやってここまで運び込まれたのだろう…警察が来て、ジェームズは捕まったのか…? いや、そんなことより―)

 ばらけた記憶を一つ一つつなぎあわせ、現実に返ろうと努力している、その時、何か暖かいものが自分の左手を包み込んでいることに気付いて、クリスターはそちらへと頭を傾けた。

(レイフ…)

 クリスターの双子の弟は、彼の手をしっかりと握り締めたまま、ベッドの上に頭を預けて眠り込んでいた。

 こちら側に向けられた、その顔は疲れきり、目の周りを赤く泣き腫らしている。しかし、それはクリスターのよく知るレイフ、彼が何としても守り通そうとした愛しい弟の変わらぬ姿だった。

(よかった…ジェームズが最後の最後であんな悪足掻きしてくれた時には、心臓がとまりそうになったけれど―おまえはあいつの挑発には乗らなかった。あいつを殺すのを思いとどまった。ああ、そうだ…おまえは決してあんな奴の色には染まらない…)

 深い安堵と共に、クリスターは満足そうに微笑む。

(ジェームズは、僕の中に自分と同じ怪物を見た。相棒として選ぶほど、彼にとって僕は近しい存在だったんだ。そう思うと、我ながら全くぞっとするな…果たして、僕は初めから、ジェームズと同じ闇を心の中に飼っていたのだろうか、それとも彼という深淵を長く見つめすぎたせいなのか。だが、おまえはあの暗い淵を覗き込んではならない、取り込まれてはならない…明るい光の下で笑うおまえがいる限り、僕の中に今もいるかもしれない、あの怪物は永遠に影を潜めるだろう)

 クリスターは、レイフの手からそっと手を引き抜こうとしたが、しっかり捕まえられてどうしても動かせないので、仕方なくそのままにして、きゅっと握り返した。

(変わらぬおまえがここにいる…これ以上、何も望むことはない…)

 クリスターは、再び顔を天井の方に向けた。

 いちいち見て確認しなくとも、自分の右肩が動かすことのできぬよう固定されているのは分かる。熱を伴った痛みが、そこから発しているのが感じられる。

(フレイの奴、また思い切りよくやってくれたものだな。肩関節後方脱臼…軟骨や腱まで損傷したとすると回復には相当時間がかかりそうだ…もしかしたら手術することになるだろうか。下手をすれば、肩の運動範囲は狭くなる…これでは、以前と全く同じようにプレイするのはやはり難しいな)

 冷静に自己診断をするクリスターの虚空を見る瞳は暗く、乾いている。

(おそらく、フットボール・プレイヤーとしては、僕はもう二度と―)

 その時、クリスターの胸が大きく上下し、何かを飲み下そうとするかのごとく喉が動いた。

 じわじわとこみ上げてくる感情を抑え込もうと格闘しながら、クリスターは唇をきつく噛み締めた。

(何も動揺するようなことじゃない。命があっただけ、まだ幸運だった…ほとんど僕の想定の範囲内でジェームズとの決着がついたことに、むしろ満足すべきなんだ。そう、僕は少しも辛くなどない)

 自らに執拗に言い聞かせるクリスターの、一切の感情を廃したかのような目がふいに揺らぎ、大きく見開かれた。乾いた瞳が見る見るうちに潤んでいき、ついには涙がこぼれ落ちる。

(何を泣く…? 嘆く理由などないはずじゃないか…何もかも僕の計算どおりうまくいった)

 しかし、クリスターの意思に逆らって、唇はわななき、ともすればそこから低い嗚咽が漏れそうになる。

 ついに、クリスターは挫けた。

(ああ…もう駄目だ…!)

 クリスターは必死になって身をよじり、体にかけられているかけ布の端を噛むことで、口からあふれ出ようとする声を封じ込んだ。

 しかし、目から堰を切ったように流れ出す涙だけは、どうしようもなかった。

(哀しい)

 本当は、平気でいられるはずがない。

 クリスターはフットボールを深く愛していた。時折プレッシャーに押しつぶされそうになることもあったが、それ以上にフットボールを通じて得た喜びは大きく、彼の胸を幾度も熱い感動に満たしてくれた。

 プロになるという夢を、一度は真剣に追いかけたこともある。どれほど困難な道程であっても、レイフと共に目指し、越えていく、頂の一つ一つに自分の幸福があるのだと確かに思っていたのだ。

 そのとても大切なものが、クリスターの手からすり抜け、遠ざかっていく。

(もう二度とフィールドに立てない、レイフや仲間達と一緒にプレイできない…自分の全てを賭してひとつのことに夢中になれた、あんな瞬間はもう来ない…)

 そう思うと、後から後から涙がこぼれて、どうしても止まらなかった。

(フットボールができなくなることが、こんなにも辛いなんて―今この瞬間まで、僕は思わなかった…)

 何もかも分かったような顔をして何も分かっていなかった、自分の愚かさに、泣き喚きたくなる。しかし、それでもクリスターは必死になって、今直面している現実を受け入れようと努力していた。

(ああ、僕はきっと恐ろしく誤った選択をしてしまったんだろうな―でも、もう後戻りはできない。今更嘆いても仕方のないものを、今更、後悔などするな…! そうだ、これで僕はやっと諦めることができる。フットボールという夢も、レイフのことも…これでやっと諦められる)

 その時、クリスターの左手を捕まえたまま眠り込んでいるレイフが小さく身じろぎし、くすんと鼻をすすりながら寝言を呟いた。

 自分の動揺が伝わってレイフを起こしてしまうことを何より恐れるクリスターは思わず身を固くし、息を殺して、レイフの気配を窺った。

(レイフ、レイフ、頼むから今は目を覚まさないでくれ…こんなにも取り乱した、不様な僕を見ないでくれ)

 今レイフが起きてしまったら、さすがにクリスターにも取り繕える自信はない。

(明日…そう、明日になれば、僕はきっと落ち着きを取り戻す。辛いのは今だけだ。明日になれば、いつもの僕に戻って、ちゃんとレイフに向かい合える。僕達にとって一番残酷なことを…レイフに伝えられるだけの勇気もきっと持てるだろう)

 いつの間にか、レイフの寝息は再び静かなものになっていた。それと共に、クリスターの中で束の間荒れ狂っていた感情も静まっていった。

(そうだ、ジェームズはもう二度と戻ってはこない。僕はと言えば、この有様だ。あいつに対して、何一つ失うことになし勝つのは不可能だと思い切った時、僕は、ならばいっそ相打ちを狙うことで僕の最終的な目的を果たせればいいと考えを切り替えたんだ)

 クリスターはしばしじっと考えに沈んだ後、頭を傾け、傍らで眠っている弟の上に深い眼差しを注いだ。

 要は、何が一番大切かということだ。ジェームズとの勝負そのものよりも、クリスターにはもっと優先させるべきものがあった。

(レイフ、これでおまえの将来を脅かす邪魔なものは全てなくなった)

 心の中でゆっくりと言い聞かせるクリスターの目には、もう引き返せないところまで来てしまった者独特の強い覚悟が宿っていた。

(…明日からは、おまえにとっても厳しい日々が始まるだろう)

 耐え難い現実を前に、レイフはどう対処するのか、目を背けて決して見まいとするか、辛くとも受け入れ、前に進もうとするのか。

 その点については、クリスターの中では、既に明確な答えが出ていた。

(大丈夫だ。レイフなら、必ず克服できる。容赦のない現実はレイフをむしろ鍛え、今度こそ本当の本気にさせるはずだ)

 レイフの性質を誰よりもよく理解しているクリスターは、そう確信していた。


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