ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第7章 FAKE

SCENE16

 一瞬前まで怯えた目をしていたクリスターの顔つきは、今や別人のようにがらりと変わっていた。いや、これこそがクリスター、レイフを意のままに操り、コントロールしようとしてきた兄の正体なのだ。

「それで―この僕に、一体何を尋ねようというんだい? 全く、こんなろくでもないテープ、どこから手に入れたかと怪しむよ。わざわざもったいぶって聞かせるほどのものじゃないけれどね。ああ、僕も確かに驚いたことは認めるよ。でも、だから、どうしたというんだい?」

 傲然と顎をそびやかし、うんざりしたように言いながらカセット・デッキをこちらに押しやる兄に、レイフは唖然となった。

「どうしただって…? 他に言うことはないのかよ、クリスター…オレがこのテープをどこから入手したかなんてことは問題じゃない。ともかく、これは間違いなくおまえの声だろう? おまえがあの日、ジェームズのくそ野郎とかわした会話じゃねぇのかよ!」

 クリスターがまさかこんなふうに出るとは思わず、意表を突かれて動転したレイフは、声を詰まらせ、喘ぐように言い返した。 

「ああ、そうだよ。これは、僕があの日、ジェームズとブラック邸で会った時にかわした会話だ。間違いないよ、僕も覚えている…ジェームズは僕には秘密でこれを録音し、万一の場合に備えて、おそらく…弁護士にでも託したんだろう。そして、自分の死後、おまえの手に渡るよう仕組んでいた…大方、そんなところさ。あたっているだろう?」

「う…」

「やっぱりね…つまり、僕もおまえも、まんまと奴の罠にかかったというわけだ。レイフ、冷静になれよ。こんなテープごときで取り乱しては、ジェームズの思う壺だぞ」

「ジェームズの罠かどうかなんてことは、どうだっていい!」

 レイフはイライラと頭を振って、クリスターの話を遮った。

「確かに、たぶんこれは罠なんだろう…オレだって、そう考えて、初めは聞くまいとした。けれど、結局聞かずにはいられなかった。どうしてだか分かるか、クリスター?」

 クリスターは答えず、椅子を後ろに蹴倒して荒々しく立ち上がるレイフを、鋭い目で見据えている。

「オレだって、あの事件のあった日以来、胸の奥でずっと引っかかって取れない棘みたいなものを感じてたんだ…あの日ブラック邸であったことは一体何だったのか、どうして、あんな結末を迎えることになったのか…これ以上誰も巻き込むまいとたった1人でジェームズとの決着をつけに行って、あんな怪我を負ったおまえを疑うことのできる人間は1人もいなかった。オレだって、どうしてあんな無茶をしたんだと腹立たしく思いながらも、おまえを責めようなんて気にはとてもなれなかった…それでもさ、やっぱり何かが変だとは感じてたんだ。この会話を聞いて、やっと腑に落ちたような気がしたよ」

 話すうちに胸が苦しくなってきたレイフは、途中で言葉を切り、気持ちの昂ぶりを抑えようと肩で大きく息をついた。

「ジェームズは、あの日、オレに殴られながら、こんなことを言いやがった…クリスターを信じるな、そいつは裏切り者だって…」

「レイフ、おまえは僕よりもジェームズの言葉を信じるのかい?」

「違う!」

 レイフは吼えた。こみ上げてくる悔しさに歯噛みし、己の赤い頭を爪を立てるようにして両手でかきむしった。

「違う…このオレが、おまえよりジェームズの方を信じるわけないだろ…実際、くだらねぇたわ言だって聞き流して、ほとんど忘れかけてた。でもさ、今になって…あいつのあの言葉だけは本当だったんだと分かっちまった。死ぬほど悔しいけれど、こんなテープをわざわざ寄こして、おまえへの疑いをかきたてようとするあいつを否定しきれるだけの証拠を、オレは持たなかった。だってさ、クリスター…おまえはオレを愛してくれているけれど、それはオレに決して嘘をつかないってことじゃない。誰に言われなくったって、このオレが一番よく知っている…自分が絶対正しいと思っているおまえは、オレのためだと思えば、いくらだってオレを騙し、裏切ることができる…オレがどんなに傷つこうが構いやしない…認めたくないけど、オレの兄貴はそういう奴なんだ」

 レイフは一瞬泣き笑いのような顔になった。じわりと潤みそうになった目を荒っぽくこすると、改めて、泰然と佇むクリスターを睨みつけた。

「ジェームズがどんな目的でこいつをオレに送ったのだとしても、オレには、ここに残されている内容を黙って聞き流すことなんてできやしない…おまえの言うように、これは罠なのだとしても―だって、これは、おまえがずっとオレに隠し続けてきた真実なんだ。おまえは、オレを含めた、おまえを信頼し愛している人間全員を裏切ってた。全く、こんな話、こうして実際にテープに録って聞かせられでもしなきゃ、誰も信じやしないさ。クリスターはジェームズと取り引きして―わざと、自分の肩を壊させたなんてさ!」

 レイフが傷ついた子供のように激しく喚くと、微動だにせずにレイフにあてられている、クリスターの厳しい瞳の奥に微かに揺らめくものが垣間見えた。だが、それも一瞬のこと。

「レイフ」

 この男の心は、石か氷のように冷たく動かしがたいのではないか。そう感じさせるほど、動じた素振りはそよとも見せず、クリスターは極めて平静な口調で、弟に話しかけてきた。

「おまえは誤解している」

「誤解だって?! この期に及んで、言い訳なんかするなよ、潔くねぇぜ」

「確かに、このテープに残されている会話は本物だ。しかし、おまえは、僕が本気でこんな馬鹿げた取り引きをジェームズ相手にもちかけたなんて思うのかい?」

「何を言いやがる…クリスター、これ以上、オレを欺くのはよしてくれ」

「レイフ、これはジェームズの注意を逸らすための策の1つに過ぎなかったんだ。あの日、単身ジェームズの手の内に飛び込んだ僕は、何とかあいつを油断させ、隙を作らせたかった。あいつに捕らえられているダニエルとアイザックを見つけ出し、救出する時間を稼ぎたかったんだ。これは、そのための方便に過ぎなかったんだよ」

「本気で言っていたんじゃないだって…? このテーブに録音されているおまえの声には、本気しか感じられないぜ」

「ああ、我ながら、迫真の演技だと思うよ。おかげて、おまえまでが信じ込み、こうして誤解を解くのに苦労している。…よく考えろよ、レイフ、相手はあのジェームズだったんぞ。僕だって、必死だったのさ。あいつを混乱させ、本気で考える価値はあると一時でも迷わせるくらいのリアルな作り話が必要だった」

 レイフはクリスターの饒舌を黙らせたかったが、何と言い返したらいいのか分からず、口をぱくぱくさせるだけだった。

「その結果、僕は自由に動けるチャンスを手に入れ、ダニエルとアイザックを見つけ出して、脱出させることに成功した。残念ながら、全てが計算どおりというわけにはいかず、僕は再びジェームズの手に落ちて、僕自身が煽ったような怪我を結局は負わされてしまった。それでも、ダニエル達を助け出すという目的は果たせたんだから、決して無駄な犠牲を払ったわけではないと思っているよ…いや、そう思わなければ、やってられないというのか正直な気持ちかな」

 微かな苦笑いを浮かべ、肩をすくめてみせるクリスターは、動揺や後ろめたさの片鱗も見せず、レイフを戸惑わせるくらい落ち着き払っていた。

(何だよ、まるで全ては勘違いだ、オレの方こそ悪いんだと言ってるみたいじゃないか…)

 レイフは悔しさのあまり、歯噛みした。しかし、こうまで相手が冷静では怒りの持っていきようがなく、もしかしたら本当に自分の間違いではないのかとの迷いにも駆られて、煮えたぎっていた怒りの火もふっと揺らいだ。

(ひょっとして、クリスターは本当のことを言っているのだろうか…全ては、ジェームズを欺くための大芝居で、このテープはオレを惑わせてクリスターと争わせてやろうというジェームズの嫌がらせだとしたら―)

 人は自分の信じたいものを信じてしまう。レイフも結局はクリスターを信じたいのだ。ぐらつきかけた反抗心を、しかし、レイフは意地でも保ち続けようとした。

(いいや、騙されるな! こいつは嘘の上に嘘を塗り重ねて、どこまでもオレを欺く気だ。ここでまんまと丸め込まれたら、オレはこの先ずっと、自分の意思でなく、こいつの手によって作られた人生を生きていくことになる…)

 レイフの心に生じた葛藤を見透かしてか、クリスターは弟に向かって手を差し伸べ、懇願するように言い募った。

「レイフ、僕はおまえを裏切ってなどいない、信じてくれ」

 レイフは途方に暮れたように、クリスターの誠実そのもののような顔を見返した。

「兄さん…」

 今度ばかりはクリスターを許すまいと決めた、レイフの意思とは関係なく、喉から漏れた声は掠れ、見開いた目からは涙がこぼれた。

「分からない…おまえは本当のことを言っているのか…? 信じてくれだなんて言って、またオレを騙す気じゃないのか、クリスター…?」

「違うよ。僕が嘘をついているのかどうか、おまえなら分かるはずだろ…?」

 レイフが言葉に詰まって黙り込むと、クリスターは手を差し出したまま、ゆっくりと近づいてきた。

「この期に及んで、そんな言い方するなんて…おまえはずるい奴だ、クリスター。オレなら分かるはずだって…? オレがおまえの考えることを本当に理解できたためしなんて、これまで一度もなかったのに―」 

 思わず、ぽつりともらした恨み言―次の瞬間、レイフは、自らの言葉にはっとなった。

(ああ、そうだ…)

 レイフは、こちらの様子を窺いながらじりじりと迫ってくるクリスターの目を見た。異様なほど強い力のこもった琥珀色の双眸は、レイフのはりつめた顔を中心に映しこんでいる。まるで、その中に魂ごと吸い込まれ、取り込まれてしまいそうな気がして、レイフは軽い眩暈を覚えた。

(クリスター…おまえが、そのいかにも真実らしい顔の裏で、本当は何を考えているのかなんて、オレがいくら読み取ろうとしても分からないだろう。それでもオレは、おまえに関しては、いつだって理屈抜きにピンと感じるものがあるんだ…だから―)

 慄いたように目を閉じる、レイフの頬にクリスターの指が触れた。その滑らかな指先が帯びた微かな震えが、レイフの体に、ごく弱い電流のような痺れとなって伝わる。

 自信にあふれたクリスターの態度とは裏腹の怯えが、そこに隠れていた。

(ああ、クリスター、おまえは何をそんなにも怖がっている…?)

 転瞬、レイフはかっと目を見開き、クリスターの手を荒々しく振り払った。

「違う。おまえはまだ本音で話しちゃいない。オレに触るな、この嘘つきめ!」

レイフが確信のこもった激しい言葉を叩きつけると、クリスターは頬を強張らせ、今にも弟をかき抱こうとしていた手を引っ込めた。

「レイフ…」

 呼びかけてみたものの、続く言葉が見つからないかのように口ごもる、クリスターの顔は青ざめ、瞳は動揺のあまり揺れ動いている。

「僕が嘘をついているなんて、どうして…?」

「証拠なんて何もないさ…このテープに録られた会話が実際どういう意味のものだったか、証明できるのは、ジェームズが死んじまった今、おまえの言葉以外にないのと同じように…でもさ、オレには分かるんだ。クリスター、おまえが嘘をついて、オレを騙そうとしているってことが…生憎だったな、このオレを最後まで騙しきることなんざ、おまえがどんな策士だってできるものか。何て言ったって、オレは、おまえの片割れなんだからな!」

 瞬間、クリスターはレイフに殴られでもしたかのように微かによろめき、後ろに一歩下がった。

「さあ、いい加減観念して、本当のことを言えよ、クリスター…どうしてオレを裏切ったのか、おまえの本心が知りたい…!」

 クリスターは万策尽きたというかのごとく、両手をだらりと体の脇に垂らして立ち尽くし、どこか悲哀を感じさせる空虚な眼差しをレイフに注いでいた。

「クリスター、黙ってないで、何か言えよ!」

 クリスターはレイフからふっと視線を逸らし、何もない天井辺りの空間をしばし見上げた。それから再び、レイフを正面から見た。

「ああ、そうだよ、レイフ…おまえの言うとおり、僕はずっとおまえを騙していた」

「ク、クリスター」

 ほとんど感情を感じさせない声。仮面のような無表情で語りだす兄を前に、レイフはとっさに怯んだ。

「確かに僕は、あの日ジェームズと取り引きをした…いや、むしろ僕の本当の目的を果たすために彼を利用したんだ」

 その口調に先程までのような雄弁さはなく、低くなった声は聞き取りにくかったが、レイフは真剣に彼の言葉に耳を傾け、内容を理解しようとした。

「ジェームズを利用した…? それって、つまり…あいつを挑発して、わざと怪我を負わされるように仕組んだってことなのかよ?」

「あんな見え透いた挑発にジェームズが乗るものか。あいつは、あんな提案をした、僕の真意など初めから見抜いていたよ。全てを承知の上で、それでも、僕に利用されることを選んだのさ…あいつにとっても、僕に一生消えない傷を負わせられるというのは魅力的な話だったんだろうね」

「よくも…あの事件続きの只中で、そんな企みをする余裕があったもんだな…ジェームズのおかげでコリン達は大怪我を負い、アイザックは行方不明、ついにはダニエルまで浚われて、おまえ自身相当追い込まれていたはずなのに、同時に、周りの目を欺くような策略をたてていやがったのか」

「別に初めから、あんな芝居を打つことを考えていたわけじゃないよ。それに、僕とジェームズの闘いに巻き込んでしまった、アイザック達にはとてもすまなく思っている…あの時も今も、それは変わらない。だが、一方で僕は、ジェームズとの闘いそのものより、大切な友人達の想いよりも、もっと優先されるものがあったんだ。そのことに気付いた時、僕はジェームズとの闘いの勝敗に拘ることもやめて、奴を道具として徹底的に利用することにした」

「優先されるものって…何だよ…?」

 見えない手で喉を締め付けられるかのような息苦しさを覚え、レイフはかすれた声で問い返した。どんな答えが返ってくるか分かるような気がして、恐かったが、それでも聞かずにはいられなかった。

「分かっているだろう、レイフ…おまえのことだよ」

 レイフの煩悶を見透かすよう、クリスターは両目を僅かに細めて、苦笑した。

「僕は、おまえをあらゆるものから守りたかった。おまえの将来に影を落とす邪魔ものは全て取り除いてやると決めていた。ジェームズ・ブラックはかつてそうだったように、おまえにとって危険極まりない存在だったから、まず奴をどうにかしなければならなかった。それから―もう1人、存在していては、おまえのためにならないだろう人間がいた。それが、この僕自身だったんだよ」

 レイフは、束の間ぽかんとなって兄を見つめたかと思うと、たちまち気色ばんだ。

「な、何を言ってやがる…クリスター、そんな―そんな馬鹿な話、あるものか…ジェームズはともかく、何だっておまえがオレにとって邪魔者になるんだよ。全く、訳分かんねぇよ…!」

「僕がいるから、おまえはずっとフットボール・チームの二番に甘んじていたんだよ、レイフ。僕は、いつも不思議だった。僕よりも才能に恵まれているはずのおまえが、いつも肝心な時に実力を出し切れないのは、どうしてだろうって…その理由がやっと分かったんだ。そう、おまえは僕が傍にいる限り、その存在を意識して、無意識に自分に抑制をかけてしまう…逆に、僕がいなくなれば、おまえは本来の力を発揮して、伸び伸びとフィールドの上でプレイできるに違いないと―」

「馬鹿野郎!」

 クリスターの口から語られるのは、レイフがあのテープを聞いた時に推測した通りの答えだった。本当は、違う答えが返ってくることを期待していたのか。思い違いであって欲しいとの一縷の望みも打ち砕かれて、これ以上聞くに耐えなくなったレイフは、思わず、彼の話を途中で遮った。

「自分がいなくなったら、オレが本気を出してプレイするだろうから、フットボールから身を引こうとしたってのか…? おまえほど賢い奴が、なんて馬鹿なこと考えたんだよ! オレに直接あたって確かめた訳でもないくせに、そんな勝手な思い込みで、オレとおまえの将来に関わる決定をするなんて―そんなこと、オレが認めるわけねぇだろ!」

「ああ、おまえはきっと認めないだろうと思ったから、どうしても受け入れるしかない状況を作り出すことにしたのさ」

 クリスターの言葉に、レイフは再び息を飲んだ。

「僕が事故か何かに巻き込まれて怪我をして、不運にもフットボールを断念するしかない身になれば、おまえも諦めてくれるだろうと思った。だが、そんな都合のいい事件は、待っているだけではやってこないからね。僕の望むような不可抗力の事態を設定するのに、タイミングよく持ち上がっていた、ジェームズとの闘いを利用したんだよ」

 レイフはさすがにクリスターの話についていけなくなって、しばし、絶句した。頭では、ああ、やはりと思うところはあったものの、生来まっすぐで嘘や裏切りを嫌う彼の性情が拒否してしまう。

「う…嘘だ、信じられねぇ…オレをその気にさせるためだけに、そこまでするなんて…おまえはどうかしてたんだ、クリスター」

 何を思い出したのか、クリスターは遠い眼差しをして、ふっと微笑んだ。

「ジェームズにも呆れられたよ…確かに、僕はおかしいのかもしれないね。自分の体をわざと仇敵に壊させるなんて、正気の沙汰じゃない。全てが終わった後、一時だけ、もしかしたら僕は恐ろしく誤った選択をしてしまったのかもしれないと愕然となったけれど…もう後戻りはできない以上、自分が取った行動に後悔などすまいと決めたんだ。高い代償を払ったのかもしれないが、自分の思う通りの結果に収まったのだからね…そうとも、僕は満足しているよ」

「クリスター…」

 反論しようと口を開きかけたものの、その気が萎えて、レイフは黙り込んだ。急に、この賢しくも愚かな兄が、どうしようもなく哀れに思えてきた。

「満足しているなんて、嘘だよ、クリスター…自分が一体何を失ったのか思い知らされて、おまえだって心の底では激しく後悔しているんだ」

 レイフは打ちのめされたような気分になって、傍にあった机に手をついて力の抜けた体を支えながら、低く呻いた。

「ああ、オレはどうすればいい…? オレのせいで、おまえに取り返しのつかない間違いを犯させちまった…どうしたら、おまえを救ってやれる…?」

 レイフの詠嘆を耳にした途端、暗く打ち沈んでいたクリスターの顔つきが、険しいものに変わった。

「僕は、間違ってなどいない…!」

 クリスターは怒れる虎のように瞳を爛々と燃やしながら、ぎょっとなって怯むレイフに歩み寄り、その顔を睨みつけながら、強い口調で言い切った。

「僕の考えが正しかったことは、おまえ自身が証明しているじゃないか、レイフ。今の自分を見ろよ、一年前のおまえとは、まるで別人のようだ…長い間眠っていた才能を開花させ、フットボール・プレイヤーとしての将来を嘱望されている。惜しくも最後のシーズンでの優勝は逃したけれど、おまえの活躍は高校で終わるものじゃない、きっとカレッジでも、その先プロの世界に入ってもやっていけるはずだ。誰もおまえのここまでの変身は予想していなかった…フランクス・コーチでさえ疑わしげだったけれど、僕はずっと、きっかけさえあれば、おまえは変わると信じていた。こうして現実になった今、僕はやはり間違っていなかったと断言できるよ」

「クリスター、おまえ…!」

 束の間クリスターに圧倒されていたレイフの頬に、たちまち血の色が上ってくる。再び怒りの火をかき立てられたレイフは、寄りかかっていた机から身を起こしざま、クリスターを激しく睨み返した。

「おまえのやったことの、一体どこが正しいって言うんだよ! よくも、そんな勝手なことが言えるな! オレを裏切り騙しておいて―いいや、オレだけじゃない、父さんや母さん、おまえを愛している人達が、今のおまえの言いぐさを聞いたら、何て思うか―」

「僕の取った手段を他人がどう思うかなど、大した問題じゃない。レイフ、要は結果さえよければいいんだ」

 クリスターの冷たい台詞に、レイフはかっとなった。

「おまえは…今言ったのと同じことを―おまえを守ろうと危険も顧みず一生懸命働いて、その結果、あんな酷い目にあわされたダニエルにも、平気な顔で言えるのかよっ!」

 一瞬で、クリスターは顔色を失った。唇を震わせ、レイフの非難の眼差しを避けるよう俯いた。

「クリスター!」

 クリスターは頭痛でも覚えたかのように、額に手をやった。

「ジェームズの奴に同じように問い詰められた時にも、僕は言い返せなくなった…ダニエルを本当に愛していたのなら、どうして僕のために危険を冒そうとする彼をとめなかったのか―やっぱり、あいつの言うとおりだったのかな、僕はあの子を利用しただけなのか…」

 クリスターが自嘲を帯びた述懐をするのを、レイフは、憎しみと哀れみのこもった何ともいえない目で見守った。

「オレは、おまえのことなら何だって分かるつもりでいた。本音でものを言うことはめったにないひねくれた奴だけど、根っこの部分ではオレとしっかりつながってるから、本当の気持ちはちゃんと伝わってくる。おまえがオレを何度騙しても裏切っても、オレを愛していることには変わりないから、許せた。でもさ、今度ばかりは、おまえはやりすぎたんだ、クリスター…オレは、おまえを許せない。いくらオレのためだと言われても、納得できるものか。オレには、到底、今のおまえを分かってやることはできねぇよ…」

 クリスターは乾いた、痛切な悲哀をひそめた声で呟いた。

「この僕にだって…時々、自分が分からなくなる時があるよ」

 レイフは途方に暮れたようにクリスターを見つめ、クリスターは同じく途方暮れたようにレイフを見つめ返した。

「どうして…」

 急に、言いようのない深い悲しみがこみ上げ来て、ともすれば嗚咽となって漏れそうになるのを、レイフはやっとの思いで飲み下した。

「どうして待っててくれなかったんだ?」

 ややあって、レイフは寂しそうに、そう問いかけた、

「えっ…?」

「おまえはオレを変身させるために、そこまでのことをやってのけた…でもさ、オレだって、あの頃…このままの自分じゃ駄目だって、必死に変わろうとしていたんだ。おまえと一緒に歩いていくために、おまえに引っ張ってもらうだけじゃなくって、おまえの隣に並んで立って、おまえのことも守れるくらいの男になろうと努力してた―どうして、オレを信じて、もう少しだけ待ってくれなかったんだよ?」

 クリスターは今初めて見るような目で、己とそっくり同じ顔に深い悲哀を湛えて立ち尽くしている弟をまじまじと凝視した。

「そうだったのか…おまえの気持ちに気付いてやれなくて、ごめんよ。でも―そうだね、残念ながら、おまえの成長をゆっくり待つだけの余裕は、僕にはなかったんだろうね」

 クリスターは悄然と呟いて、力なく目を伏せた。

「何もかも、今更言っても仕方のない繰り言だ…」

 唇をきつく噛み締め、何かを払いのけようとするかのごとく頭を振ると、クリスターは再び目を見開いた。 

「おまえが僕を許せないというなら、それでもいいよ、レイフ。僕はどのみちフットボール選手としては終わった人間だ。どうしたって、おまえと一緒に歩いていくことはできない」

 自らの手で、いまだにじくじくと疼いている傷口を再び開いて見せるかのようなクリスターの痛切な言葉は、レイフの胸をも鋭く切り裂いた。

「だが、おまえには輝かしい未来がある。そうだ、子供の頃から追い続けた夢が、こうして現実になりつつある今、何を迷うことがある…おまえを裏切った僕のことなど、構わず切り捨てればいい。僕の呪縛から離れて自由になれ。そうして、今こそ、その手でしっかり掴むんだ、おまえの夢を…!」

「クリスター…!」

 深手を負った人のように苦しげに胸を押さえ、レイフはかすれた声で兄に呼びかけた。

「このオレに、せっかく自由になったんだから、おまえに拘るのはもうやめて、夢を叶えろだって…? 子供の頃からおまえと2人で追いかけてきた大切な夢を独りよがりな思い込みで滅茶苦茶にしておいて―よくもそんな見当違いなことが言えるな!」

 ここまでの兄との熾烈なやり取りを経て、疲れ果て、空しさに打ちひしがれていたレイフが再び勢いを得て、激しく言い返した。

「おまえがお膳立てしてくれたオレの未来のどこにも、輝かしいものなんか、ありゃしない…フットボールでいつか天辺に立ってみたいって、その栄光の瞬間を確かに夢見たこともあるオレだけれど…オレが、フットボールで心からの感動を覚えることなんか、この先二度とあるものか。オレが他の何にも増して夢中になって打ち込んだフットボールは、おまえと一緒に優勝経験をした2年前の決勝戦を最後に、終わっちまったんだ…」

「レイフ…おまえは、一体何を言っているんだ…?」

 クリスターは当惑し、幾分不安そうに、小さな声で尋ねた。

「分からねぇのかよ、クリスター、フットボールはもうオレにとって夢でもなんでもない…昔追ってた夢の残骸だ、もう、どれだけ自分が夢中になっていたのかも思い出せない…」

 クリスターは驚き、一体レイフは何を口走っているのかと怪しむような顔つきになって、弟を見返した。

「案外物分りが悪いんだな、クリスター、オレは、おまえのおかげでフットボールに対する情熱をすっかりなくしちまったんだよ!」

 クリスターの顔に衝撃が走るのを、レイフは奇妙な、残酷な満足と喜びを覚えながら見守った。

「嘘だ」

「嘘じゃない」

 クリスターは困惑しながら、叫んだ。

「レイフ、おまえは僕を憎むあまり、そんな心にもないことを言い立てているんだ。…そうだろう?」

 レイフは本当におかしくなってきて、喉をのけぞらせて笑い出した。同時に、その両目からは苦い涙が流れ出した。

「ばっかじゃねぇの、おまえ…オレが、嘘や冗談でこんなことを口にするかよ…根っからの嘘つきのおまえとは違うんだからさ」

「レイフ…」

「オレは、おまえが抜けた後、必死になってチームを率いて、最後まで全力を出し尽くした。おまえの責任を引き受けるのはオレしかいないという自負があったからだ…結果は準優勝どまりだったけれど、オレはやれるだけのことはやったと思うよ。でも、かつてのようにゲームそのものを楽しんでたわけじゃない。消えてかけた胸の中の火を必死になってかき起こして、自分を励まし続けたんだ。そして、もうおまえの代わりを務める責任も、この先の目標もなくなった以上、オレにとって、これ以上フットボールを続ける意味はないんだ」

「レイフ、おまえ、まさか本気で言っているのか?」

「ああ、本気だとも。おまえの企みを知る前は、どうにかがんばってみようと決意していたんだけれどさ…フットボールを断念したおまえにもう少し夢を見させてやりたかった。でも、これ以上自分に嘘はつけねぇ。オレに期待をかけてくれる人達には悪いけれど、オレはカレッジ・リーグには進まないし、プロにもならない」

 むしろ清々したというように胸を張って言い切る弟に、クリスターは愕然となって、幾分震えを帯びた声で囁いた。

「テキサス大に行くのもやめると言うのか? 馬鹿な、やっとの思いでここまで来たんじゃないか! せっかく手にしたチャンスをみすみす逃すなんて―そうか、レイフ…おまえ、まさか…?」

 レイフはにやりと笑った。

「ああ、ここまで言えば、おまえも分かるよな。オレがニックの野郎を病院送りにまでしてやったのは、わざとだよ…オレが、下手すれば警察沙汰になるような問題を起こして、入学取りやめになれば、これ以上自分の本当の気持ちに嘘ついて、別にやりたくもないフットボールを続けなくてすむからさ!」

「レイフ!」

 クリスターは絶望的な声で叫んだ。

「本当は、オレが怪我をして…それこそおまえみたいに、選手生命を絶たれるほどの大怪我をしてしまってもよかったんだけれど、ニックの奴、てんで弱くてオレの相手になんかなりゃしない。やっぱオレって、腕っ節にかけては最強なんだよなぁ…おまけに、本気でオレの腕や脚をへし折るくらいの度胸すらないんだ、あいつ…ったく、だらしねぇ。おまえはよかったよな、フレイみたいな思い切りのいい奴が手近にいて、思うように利用できたんだからさ!」

 狂ったように、勝ち誇ったように、涙を流しながら笑い続けるレイフを、クリスターは呆然と見ている。

「レイフ、なんてことを…おまえは、なんてことをしたんだ…!」

「おまえにオレを責める資格なんてないぜ、クリスター」

 レイフはぎらりと物騒な光をたたえた目をクリスターに向けた。

「おまえが今更何をしたって、手遅れさ…テキサス大はきっとオレの入学を取り消すだろう。それに、オレはもう決めたんだ。フットボールは金輪際やらないって…おまえが無理強いしたって従うものか。そうさ、オレは今やっと、自分の意思で将来の選択をしたんだ!」


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