ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第7章 FAKE

SCENE15

 アイザックと一緒に、予定よりも遅れてクリスターが到着した時、パーティー会場は物々しい空気に満たされていた。

 音楽はやみ、顔を引きつらせた生徒達が不安そうにそこかしこに立ち尽くしている。

 嫌な予感を覚えてその辺りにいた男子生徒を捕まえ、事情を聞きだしたクリスターは唖然となった。

『レイフがヒル高校のニック達と大喧嘩をしたんだよ。…あいつらが何でうちのパーティーに入り込んでいたかなんて、知るものか。ヒル高校とうちのフットボール・チームは犬猿の仲だしな…とにかく、レイフの奴、ニックとその仲間達を散々痛めつけたんだ。まあ、レイフはちょっとやりすぎたんだよ。ニック達は怪我したみたいだし、店の中も滅茶苦茶だ。それで、慌てた店員が警察を呼んだという訳だよ』

 にわかには信じられない話だったが、ともかくレイフを見つけるのが先だと、クリスターはアイザックと共に辺りを探し始めた。

 そうするうちにも、血だらけになったニックとその仲間達が警官に支えられるようにして店を出て行く姿が目に入ってきた。クリスターは事態の重さを悟ると共に、ますます焦りをつのらせていった。

(なぜだ、レイフ…一体どうしてこんな真似を…?)

 どうやら、ダンスフロア周辺がこの騒ぎの中心らしい。

 クリスターは焦燥感に駆られるあまりつい速くなる足取りで、そこに近づいていった。案の定、レイフの長身の姿が、不安そうに遠巻きにしている生徒達の向こうに確認できた。

(レイフ、ああ、レイフ…1人でニック達とやりあって、おまえは怪我などしていないのか…?)

 ニックの反則すれすれのプレイにやられ、しばらく試合を欠場する憂き目を見たこともあるクリスターは、一瞬レイフの身の心配をしたが、まっすぐに立って警官の質問に落ち着いて答えている様子を見る限り、どうやら彼は無傷であるようだ。

 クリスターはひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。

「レイフ…!」

 クリスターの叫びに気付いたのか、レイフはピクリと反応した。胡乱そうに顔を上げ、声の主を探すように、目を眇めて周囲を眺めやっている。

 クリスターは必死になった。辺りにひしめく大勢の卒業生らをかき分けて、少しでも早くレイフのもとに駆けつけようとした。

 その時だ。クリスターは、人垣の中にいた1人の怪しげな男がカメラを構え、レイフを狙ってシャッターを切るのを目撃した。

(!…あの男…今、レイフを隠し撮りした。さては、どこかの記者かカメラマンか…待て、寄りにもよって、こんな警察沙汰になるような騒ぎをマスコミなどに知られたら、どんなひどい記事にされるか知れたものじゃないぞ)

 束の間唖然となったクリスターの顔が、たちまち突き上げてきた憤怒に引き歪む。

「クリスター!」

 傍らにいたアイザックが、鋭い声で警告するよう、クリスターを呼んだ。どうやら彼も、たった今逃げていったカメラマンの姿を見、クリスターと同じく、発生した事態の厄介さを理解したらしい。

 クリスターは素早くアイザックを振り向いて、切迫した声で叫んだ。

「アイザック、頼む…!」

「分かった。任せておけ」

 聞きなおしもせず、アイザックはくるりと体を反転させ、人垣の向こうに消えたカメラマンを追っていった。

 1人残されたクリスターは、やっとの思いでダンスフロアに飛び出すと、阻止しようと近づいてきた警官を振り切って、おとなしく拘束されているレイフに駆け寄った。

「レイフ、レイフ…一体どうして…どうして、こんな馬鹿なことを…?」

 クリスターはほとんど絶望的な気分になりながら、じっと俯いて黙り込んでいる弟の肩を抱き、震える声で囁く。

 クリスターはどうにかしてこの事態を収める方法を考え出そうとするのだが、レイフが振るった暴力がこうして衆人環視のもとで事実として残っている以上、今の段階では、彼の打てる手はほとんどなかった。

(何とかしなければ…レイフが警察に連行されるなんて、あり得ない…せっかく無事に卒業の日を迎えたのに…秋からは名門テキサス大に行くことが決まっているんだぞ。こんな馬鹿げた騒ぎのせいで、今更、レイフの進路に影響が出るなんてことになれば―)

 脳裏を過ぎった最悪のシナリオにぞっと寒気を覚えながら、クリスターは何とか冷静を取り戻して、切り抜ける方法を探そうとした。しかし―。

「いい加減、その手を離せよ、兄貴」

 いまだかつて聞いたこともない、深い憤りを孕んだレイフの声に、クリスターの思考は途中で断ち切られた。

「レイフ?」

 クリスターは当惑しつつ、一体どうしたのかと問いかけるような目を弟に向けた。するとレイフは、いきなり感情を爆発させ、クリスターの手を荒々しく振りほどいた。

「離せって言ってんだよ。オレがどうなろうが、おまえには関係ないだろ!」

 打たれた拍子にレイフの爪が引っかかったのか、ピリッと、小さな痛みがクリスターの手の甲に走る。

「レイ…フ…」

 傷ついた手を押さえながら呆然と立ち尽くす、クリスターに向けられるレイフの目は、まるで仇敵を見るかのような憎しみの心火を燃やして、爛々と輝いていた。

 まるで怒れる虎の目だ。射すくめられたクリスターは、身動きも声を発することもできなくなった。

 そうしてレイフは、クリスターの目の前で、警官達によって連れ去られていった。

(レイフ…レイフ、レイフ…!)

 興奮して、目の当たりにした事件について口々に言い合う生徒達の只中で、石と化したかのように立ち尽くしたまま、クリスターは心の中で悲痛な絶叫をあげ続けた。

(駄目だ、行くな、レイフ…ああ、誰か、弟を止めてくれっ!)

 クリスターの金縛り状態を解いたのは、ようやく戻ってきたアイザックの呼びかけだった。

「おい、クリスター!」

 アイザックに激しく肩を揺さぶられて、クリスターははっと大きく息を吸い込んだ。

「アイザック…ああ、アイザック…」

 クリスターは混乱のあまり揺れる目を心配そうな友の顔に向けたものの、とっさに何と言えばいいのか分からなくなったかのように、口ごもってしまう。

「しっかりしろよ、クリスター…レイフは警察に連行されちまったんだな。これだけの大騒ぎになったら、それも仕方ないが―」

「さっきの男はうまく取り押さえられたのか…?」

 クリスターは肩に置かれたアイザックの手をぐっと掴み、すがるような思いで問いかけた。

「ああ、トム達にも協力してもらって、何とかとっ捕まえて、カメラもフィルムも没収したよ」

 アイザックは、レイフの姿を隠し撮りしたカメラをクリスターの目の前にかざすようにして、重々しく告げる。

「フリーの記者だって名乗ってやがった…案の定、レイフ目当てでパーティーにもぐりこんでやがったんだ。全く、学校もあれだけフットボール・チームの活躍を宣伝に利用したんだから、少しは気遣って、客のチェックくらいもっと厳しくしてくれたらよかったのに…」

 アイザックは苦々しげに吐き捨てた後、ショック状態の抜けないクリスターを連れて、目立たぬ場所に移動しにかかった。

 クリスターがいることに気付いた卒業生達は、彼の様子を窺いながら、ひそひそと声を潜めて囁きあっている。

 しかし、彼らはクリスターには聞こえないよう気遣ったつもりかもしれないが、異常に聴覚の発達した彼の耳には、それら聞きたくない話もしっかり届いてしまうのだ。

(あーあ、レイフのおかげでせっかくのパーティーが台無しだよ)

(確かに、いくら何でも、あれはちょっとやり過ぎだったわ…)

(…そう言えば、レイフの奴、昔からかっとなると何をするか分からない所があったよなぁ。去年のフットボール・チームでの大活躍のおかげですっかりヒーロー扱いだったから、忘れていたけれどさぁ)

 それまでレイフをさんざんもてはやしていたくせに、一瞬の内に掌を返したような生徒達の冷たい言葉を聞いて、クリスターは悔しさのあまり顔を赤らめ、歯を食い縛った。

 アイザックは、生徒達の目から隠すようにクリスターを奥の空いていたテーブル席に押し込めて、その隣に素早く坐るや、話の続きを再開した。

「そう、幸い、俺達が見つけたカメラマンは押さえられた。だがな、クリスター…それで万事解決したわけじゃないんだ」

「どういうことだ?」

「俺達が捕まえた男を少しとっちめてみた所、どうやら、今夜のパーティーに紛れ込んでいたのはそいつだけじゃなかったらしい。雑誌に売りつけるのを目的にシャッター・チャンスを狙う奴が他にもいたって話なんだよ。だから、もしも、そいつが…レイフにとってまずいシーンをカメラに収めて、それをどこかに売り込みでもすれば―」 

「何てことだ…」

 クリスターは眩暈を覚えて、思わず、アイザックの腕にすがりついた。鉄の自制心でもって知られたクリスターのめったにない動揺ぶりに、アイザックはとっさに怯んだように口をつぐんだ。しかし、すぐに気持ちを切り替え、わざと厳しい口調で彼を叱咤した。

「おい、クリスター、おまえが動揺する気持ちは分かるが、今は他にしなければならないことがあるはずだぞ。レイフを助けたいんだろう? こうして事件があったばかりの現場にいるってのに、おまえが今、しっかりしなくてどうする!」

「僕は一体どうすればいいんだろう、アイザック…?」

 アイザックは瞠目した。こういう緊急時にどう対処すればいいのか、いつものクリスターなら、アイザックの意見など聞かなくても、1人で判断がつくはずなのだ。

「いいか…おまえはひとまず、親父さんに連絡を取って、一刻も早くここに来てもらえ。それから、この店の責任者に会って…レイフの家族として、こんな事件を引き起こしてしまったことを謝罪するんだ。訴訟問題にされると後が厄介だからな…ラースさんが来たら、後は任せて、ひとまず家に帰ろう」

 クリスターは混乱してまとまらない頭をどうにかして働かそうとするが、ともすれば警官に連行されていったレイフの姿が脳裏にちらついて、動揺を鎮めることができなかった。

(そうだ、父さんを通じて、一刻も早くシュミットさんにも連絡を取ってもらって、これからの対策を考えないと…万が一、問題になるような写真や記事がマスコミを通じて世間に流れた場合…レイフが怪我をさせたヒル高校の連中の出方によっては、更に話がこじれる可能性もある…そうだ、ニックもテキサス大に決まっていたんだ…まずいな。レイフの奴、寄りによって未来のチーム・メイトに怪我をさせるなんて…これは、よほどうまく大学側に釈明しないと、彼らの心証を悪くしてしまうぞ)

 理路整然と考えようとしても、頭の中にうかぶのは最悪の展開ばかり。いつものような冷静沈着さを発揮して、事態の収拾にあたることもできないクリスターに代わって、結局はアイザックがほとんどしきって、ラースやパーティーの主催者である学校への連絡、果ては、トム達と一緒に店の責任者に話までしてくれた。

(どうしてなんだ、レイフ…一体何があった? おまえがこんな騒ぎを引き起こしたなんて、僕にはまだ信じられないよ…)

 ほとんどの生徒達は帰り、トムやアイザックを含む、少数の関係者達だけが店に残った。慌てて駆けつけたラースが、学校の主催者や店側の人間達と話し合っているのを待つ間、クリスターは頭を抱えてうずくまるように椅子に坐っていた。

 傍らには、クリスターを守るように、アイザックがじっと押し黙って控えている。

(レイフ…昼間はあんなに明るく、機嫌がよさそうだったのに…この店に現われた時から何だか様子が変だったとトムは言っていた。ひどくイライラして、ちょっとしたことで大声をあげたり、浮かない顔で黙り込んでいたり…レイフには自分の感情を隠すことはできない。ここに来るまでの間に、あいつの身に何かあったのだろうか…幸福な気分を一転させてしまうような、何かが? それにしたって、あの気の優しいレイフが、こんな滅茶苦茶な暴力沙汰を起こす理由など見当もつかない…それに…)

 クリスターは警官に伴われて店から出て行く際、レイフが向けてきた、暗い怒りを孕んで燃えていた琥珀色の双眸を思い出していた。

(離せって言ってるんだよ。オレがどうなろうが、おまえには関係ないだろ!)

 あれは、単純に気がたっていたとか、八つ当たりのようなものではなかった。レイフは相手がクリスターだとちゃんと認識していた。そう、彼は他でもない兄に対して、あれほどの憤りを覚えていたのだ。

(レイフが、あんな目で僕を見たことなんて、これまでない…そりゃ、僕達だってたまには喧嘩くらいしたし、僕の秘密主義を怒ったレイフに詰め寄られたことだってある…それでも、レイフがあんなふうに僕を憎んだことはなかったんだ。まるで殺しても飽き足りない敵を見るような…それこそ、J・Bを怒りに任せて殺しかけた時のあいつを再び目の当たりにするような思いだった―)

 その瞬間頭の中に閃いた考えに、クリスターは体の芯から力が抜けて崩れ落ちそうになった。

(まさか…)

 クリスターの顔色がますます青ざめてくるのに気付いたアイザックが気遣わしげな眼差しを向けてきたが、それを避けるように俯いて、彼は今思いついた可能性を考えてみた。

(まさか…いや、そんなはずはない。ジェームズが死んだ今、あの秘密がレイフに知られるなんてあり得ない)

 クリスターとジェームズだけが知っている秘密。他の誰にも、特にレイフにだけは知られてはならない、墓場まで持っていく覚悟で、クリスターは己の胸にそれを封印した。

(もしも知ったら、レイフは僕を許さないだろう。純粋な彼にとって、それは耐え難い裏切りと映るはずだから…)

 脳裏を過ぎった不吉な考えを、しかし、クリスターは強引に振り払った。

「しっかりしろ、クリスター」

 クリスターの様子をじっと窺っていたアイザックが、その手を励ますように掴んで、ごく低い声で囁きかけてくる。

「うん…分かっているよ、アイザック…すまない、君にまでこんなに心配をかけて…でも、君が今夜ここにいてくれたことは、僕にとって不幸中の幸いだった。僕の代わりに本当に何から何までしてくれて…ありがとう」

 クリスターが素直に礼を言うと、アイザックははにかむように小さく答えた。

「俺のことはいいんだよ、クリスター…ただ、何だか今のおまえは、ともすれば壊れちまいそうで…目が離せないよ。レイフが警察に連れて行かれたことが、そんなにショックだったのか…? だが、目撃したトム達の話を聞いた限りでは、何もレイフ1人が悪いわけでもない。うまくいけば喧嘩両成敗ってことで、一晩留置所に入れられただけで明日には帰ってこられるかもしれないぜ…? 俺が言うのもなんだけど、別に起訴だの裁判だのになるような話とは思えない。な、前向きに考えようや」

 クリスターは、自分が今回の出来事にいかに打ちのめされているか、アイザックのその言葉で自覚した。

(アイザックの冷静な目から見てそうだと言うことは、やはり、今の僕はよほど取り乱しているのだろうな。けれど、たぶん、僕にとって何よりもショックだったのは…レイフが警察に連行されたことよりも、あいつがあんな目でこの僕を見たことなんだ)

 だが、そんな個人的な感慨をアイザックに漏らすこともできず、クリスターは友の励ましに対しては当たり障りのない答えをするだけにとどめておいた。

「ああ、君の言うとおりだよ、アイザック…僕は、悲観的になりすぎているようだね」

 アイザックに弱々しく微笑みかけ、取りとめのない短い会話を切れ切れに交わしながら、クリスターは、レイフの射るような厳しい眼差しを何度も思い出しては、密かに胸を震わせていた。

(レイフ、一体何がおまえをこんな後先を考えない暴力行為に駆り立てた…? ニックの奴がよほどおまえの逆鱗に触れるようなひどいことを言ったのか…だが、それでは、僕に対する、あの怒りの説明がつかない…誰も見ていないところで、誰かがレイフにろくでもない話を吹き込んで、僕に反発させるよう仕向けたのか―いいや、レイフが僕よりも他の人間の話を信じるはずがない。だが、もし…僕がレイフをずっと騙していたことをあいつが知れば―) 

 いくら否定し打ち消そうとしても、胸の奥から執拗に浮かび上がってくる、ほとんど強迫観念めいた疑念がクリスターを悩ませ続ける。

(違う…僕の嘘を知るのはジェームズだけだ。正確には、あの話をした時、傍にダミアンという少年もいたけれど、僕の提案の裏にある、本当の目的まで理解できたのはジェームズだけだった―もしも、あの後、ジェームズが僕の策略を他人に漏らしたとしても、事情をよく知らない人間は意味のない戯言として取り合わないだろう…いや、数回にわたって接見したウォルターにさえ、何も打ち明けた形跡はないんだ。それが今頃になってレイフの耳に入るなんてことは…)

 冷静に、何か見落としている点はないか、逮捕拘束されたジェームズが操れる手管はなかったのか、思いつく限りの可能性を分析しようとしても、どうしても否定したいという私情がクリスターの思考の邪魔をする。

(どんな悪辣なやり方で作られた虚構であっても、それで万事がうまく解決できるなら、僕が必ず真実にしてみせる。そう心に誓って、一生誰にも言うまいと決めていた秘密だった。どんな言い訳をしたって、僕の行為はただの裏切りなのだということには目を瞑って…)

 たった今直面している事態を引き起こしたものが何であるのか、クリスターにも本当は薄々感じるものはあった。

 密かに恐れ続けてきた悪夢が今まさに現実になったのだということを、しかし、受け入れられないまま、クリスターはこみ上げてくる罪悪感と後悔に苛まれ続けるのだった。

(ああ、僕はこんなにも、レイフに知られることを恐れていたんだな…)




 アイザックが言ったように、レイフは一晩留置所に置かれただけで、翌朝には釈放されて戻ってきた。

 レイフに叩きのめされたニックの友人達2人は幸いかすり傷ですんだが、ニックは肋骨を折る重傷を負って入院するはめになったため、その治療費や場合によっては慰謝料を払うことになるかもしれない。

 せっかく、夏休み明けからはカレッジ・フットボールの名門テキサス大に入学も決まっていたというのに、下手をすれば訴訟問題にも発展しかねない喧嘩沙汰など引き起こしたレイフに、当然のことながら、ラースは大きな雷を落とした。しかし、騒ぎの張本人であるレイフの反応は意外なほど乏しく、反省するどころかまるで人事のような態度で、ラースをますます激昂させるばかりだった。

「いいか、レイフ、今日は一日家から出るなよっ! 俺が戻ってくるまで、自分が一体何をしでかしたのか、どれだけ大きな迷惑を周囲にかけたのか、よく考えて反省するんだ」

 ラースはまだレイフを叱り足りなそうだったが、昨夜レイフが暴れた店のオーナーや学校関係者に会わなければならないので、午後から渋々出かけていった。

 ヘレナはしばらくレイフの傍についていて、彼女特有の決して取り乱さない穏やかな態度で、辛抱強く、頑なに心を閉ざしてしまっているレイフに語りかけ、一体何が原因なのか、人に言えない理由があるのではないかと尋ねていた。しかし、包容力に溢れたヘレナにさえ、レイフが本心を明かすことはなく、暗い顔をして黙然と俯いているだけだった。

「母さん、シュミットさんは今度の事件について、何て言っていたんだい?」

 レイフよりもよほど事件の今後への波及について心配しているクリスターは、弟の耳に入らないところで母親を捕まえ、そう確認せずにはいられなかった。

「そうね、ラースが昨夜のうちに電話でシュミットさんに事情を説明していたけれど…暴力事件など起こしてもらってはさすがに困ると言っていたわ…確かに、そうでしょうね」

「まさか、レイフの入学取り止めなんてことには―」

「現段階では、そこまで考えていないようよ。けれど、万が一にも訴訟や裁判になるようなら…レイフは微妙な立場に立たされるでしょうね。ううん、それも話の持っていきようで、何とかなると思うわ。少なくとも刑事裁判になるような、悪質な事件ではないのだから…シュミットさんも、自分が特別目をかけて、やっとの思いで獲得した有望選手が突然こんな事件を引き起こしたことに、単純にショックで、腹を立てているのよ。落ち着いてから、改めてラースと話し合ってもらえばいいわ」

 しかし、この世の誰よりも信頼する母の言葉すら、クリスターに取り付いた不安を完全に拭い去ることはできなかった。

 家の電話は、心配したレイフの友達や噂を聞きつけた学校関係者達からの確認や問い合わせで、朝から鳴りっぱなしだ。

 今日ボストンを発つことにしているトムが両親と共に訪ねてきた時は、レイフも部屋から出てきて、最後の最後で心配や迷惑をかけた親友に詫びたり、慌しい中で別れを惜しんだり、束の間本来のレイフらしい優しい表情を取り戻していたが、それも、トムが去っていくと再び暗く閉ざされてしまう。

 レイフは、今朝早くに帰宅してから、まだ一度もクリスターと口をきかず、目を合わせようともしていなかった。

(僕は、レイフと一度胸を開いて話し合わなければならない。勇気がいることだけれど、こうなってしまっては、避けるわけにはいかないな)

 クリスターもこの頃には半ば覚悟を決めていた。レイフとの直接対決から何が飛び出してくるか知れないが、そうしないことには真実は明らかにならず、事態も一向に動かないだろう。

(たぶん、レイフも同じ気持ちでいるのだろう…父さんや母さんの問いかけには一切答えずにいるのも、誰よりも先に僕と2人だけで話をしたいから…その機会を、ひたすら沈黙を守りながら窺っているんだ)

 嵐の前の静けさにも似た、ピリピリした空気の漂う家の中にいるのは、なかなかに気詰まりなことだった。別にそれから逃げるためではないが、クリスターは一度、アイザックと会うために外出した。

 アイザックは今朝早くボストンを離れ、コリンを訪ねると共にかねてから希望していたミシェルの見舞いもするはずだったが、このままクリスターを放っては行けないと予定をずらしてくれていた。

 アイザックの気遣いにクリスターも気持ちが揺らいで、いっそ、この鋭敏で頼りになる友人に真実を打ち明けた上で、助言を求めたい衝動に駆られた。しかし、そのアイザック自身も巻き込んだ、そのために彼の人生を大きく狂わせることにもなった事件の陰で、自分が意図的に仕組んだ大芝居を明らかにすることは、やはり躊躇われた。

(駄目だな…いくらアイザックが僕に対するわだかまりを解いてくれたからって、そこまで虫のいい願いは持てないよ。大体、アイザックに打ち明けて楽になろうとするくらいなら、初めから、あんな秘密の計略など立てはしなかった。やはり、これは僕の胸だけに収め、もしも、そのために不都合が起こるようなら、その後始末も僕が全て引き受けなければならない。それくらい覚悟していたはずじゃないか…僕を愛してくれている人達を欺き、裏切ったのだから、その報いは自分1人で受けようと…)

 アイザックならば、たとえ真実を知ったとしても、クリスターが心底から窮状を訴えれば、全てを許した上で助けの手を差し伸べてくれたかもしれない。しかし結局、その気持ちだけを受け取ることにして、クリスターは、何となく後ろ髪を引かれている様子の彼を強引に送り出した。

(ごめんよ、アイザック…もしかしたら、次に会う機会には、僕は今とは違った考えに至っているかもしれない。死ぬまでに、君には本当のことを話そうという気持ちになって…それで今度こそ君の僕に対する友情が消えてしまうなら、それも仕方がないけれど、もしも許してもらえるなら、こんな僕でも、得難い一生の親友を持てたことになるんだろうな)

 そんな訳で、肝心な部分には触れずじまいだったが、今回レイフが引き起こした事件についてアイザックと話しあいながら、少しは気持ちの整理がついたのだろう。再び家に戻った時には、クリスターはレイフと対峙するだけの平常心を取り戻すことができていた。

「レイフ…?」

 クリスターが家の駐車場に車を入れた時、出かける前にはあったヘレナの車が消えていたので、母が外出したことには気付いていた。

(ああ、いよいよ僕は、一対一でレイフと対決することになるのか…)

 クリスターはドアの前で一度立ち止まって深呼吸をし、改めて弟と対峙するための勇気を奮い起こした上で、家の中に入っていった。

 ドアの内側はしんと静まり返っていた。テレビの音声もしなければ、レイフの部屋からよく漏れてくる、テンポの速いロック・ミュージックも聞こえない。

(まさか、どこかに出かけたんだろうか。いや―)

 クリスターはこのまままっすぐ2階に上がろうかと思ったが、リビングに人の気配がするので中を覗きこむと、憮然とした面持ちでソファにどっしりと座っているレイフが見つかった。

「ただいま、レイフ…母さんは?」

 表面上は平静を装って、クリスターは弟に声をかけた。

 するとレイフは、彼の帰りをずっと待ちうけていたかのようにソファから僅かに身を乗り出し、気持ちを静めようとするかのごとく肩で息をついた。その両手は、膝をぐっと掴みしめている。

「1時間ほど前に父さんから電話があって、出かけて行ったよ」

「そうか…」

 クリスターは、この日初めてレイフが自分に話しかける声を聞いた。温かみの欠片もない、余所余所しく固い声だったが、少なくとも全く無視されるよりはよほど救われた気分だった。

「なあ、クリスター、オレ、おまえに尋ねたいことがあるんだけれど…今、いいよな?」

 微妙に視線を外したまま、ごく低い、感情を抑えた声でレイフが切り出すのに、クリスターは内心ひやりとしながらも、平静さを保ったままゆっくりと頷き返した。

「ああ…いいよ、僕も丁度おまえと話したいと思っていたし…」

 レイフの唇が皮肉っぽい笑いの形に歪んだ。

「そりゃあ、よかった…おまえがまた適当な言い訳をして逃げようとしたら、オレ、力づくでも白状させなきゃならないところだった」

「どういう意味だ、レイフ?」

 クリスターが眉根を寄せて聞き返すうちにも、レイフはソファから立ち上がると、足元に置いていたカセット・デッキを持ち上げて、近づいてきた。

「2階に行くのか?」

「ああ、そうだな…いや―」

 レイフはちょっと首を傾げて考え込むと、無愛想に答えた。

「地下室に行こう…あそこなら、オレ達が少しくらい大声で言い合ったって、外に漏れないだろうし…」

 地下室まで降りていってレイフと怒鳴りあいなどと考えるとあまり気は進まなかったが、嫌とも言えず、代わりに、クリスターはさり気ない口調で、気にかかっていることを聞いてみた。

「そのカセット・デッキは、何に使うんだい…?」

 するとレイフは、傷口にいきなり触れられた人のように顔を強張らせ、今にも火の噴出しそうなすごい目でクリスターの顔を睨みつけた。

「レ、レイフ…?」

 レイフの敵意の矛先を真っ向から突きつけられて、クリスターはショックのあまり黙り込んだ。昨夜から時間もある程度経って、少しは鎮火したかと思いきや、収まるどころか、ますます得体の知れない怨嗟を深めているようにさえ思われる。

「これが何なのか、知りたいってのか?」

 レイフは手にしたカセット・デッキをクリスターの眼前に乱暴に突き出すようにした。一瞬これで殴られるのではないかと焦ったクリスターは、慌てて一歩後ろに下がった。

「おとなしくついてくりゃ、すぐに聞かせてやるよ。たとえ、おまえが嫌だと言ったって、どうしたって聞いてもらうさ…さあ、これ以上余計なことは言わず、オレについてこいよ」

 苛々と言い渡すレイフのこめかみには、薄っすらと癇筋が浮き出している。それ以上クリスターに追求する間も与えず、彼は荒々しい足取りでさっさとリビングを出ていった。

(レイ…フ…)

 これからレイフがどう出るつもりか、自分に何を聞かせようというのか考えると、これまで感じたことのない恐れが足元から抑えようもなくこみ上げてくる。指先の震えを封じ込めようとするかのごとく、クリスターは両手をぐっと握り締めた。

(おまえは僕に対し、今、とてつもなく怒っている…いや、ほとんど憎んでいるとさえ言っていい。まさか、この僕が、我が身の一部のようにいつも感じていた…この世で最も大切な存在であるおまえから、こんな激しい憎悪を向けられる時が来るなんて、夢にも思わなかった)

 そう慨嘆した後、クリスターは、そんな自分を突き放すような気持ちになって、苦く笑った。

(いや、違う、僕は…いつかこんな日が来るような気がして、ずっと恐かったんだ…)

 重く沈んだ足取りで、クリスターはレイフの後を追い、地下室に下りていった。

 地下には、ゲスト用の二部屋の他に、収納スペースのたくさんあるユーティリティルーム、ラースが時々日曜大工に使う道具や作業台などが置かれた部屋がある。子供が生まれたらここを改装して自然光のたくさん入る遊び場を作ろうという話も出ていたが、それもヘレナの流産によって立ち消えとなってしまった。

 地上階に比べるとやや薄暗く、外界の物音も遮断されているような感じがする。

 レイフは、ラースの作業室でクリスターを待っていた。

 何となく息詰まる思いで、クリスターは入り口近くで立ち尽くしてしまった。そんな兄に、レイフは暗い情念をたたえた目を向けた。

「入って来いよ、クリスター」

 クリスターは重々しく頷き返した。レイフの中で渦巻いている、今にも爆発しそうな、たぎるような深い憤りを前にしては、黙って言いなりになるしかなかった。

 レイフの怒りの根幹にあるものが何なのか、クリスターにはまだはっきりと分かってはいない。訳が分かるまでは、自分からうかつなことは言わない方がいいだろう。心乱されながらも、何とか冷静を保ち、どんな展開が待ち受けていようとも対処できるよう、用心深く身構えていた。

 レイフは作業台の傍にある椅子にどっかと腰を下ろし、ドアの方に体を向けて、クリスターが中に入ってくるのをじっと見守っている。

「レイフ…」

 クリスターが呼びかけるのを遮るよう、レイフは手を上げた。当惑して黙り込むクリスターに、レイフは低く押し殺した声で、牽制するかのように囁いた。

「まだ、何も言うなよ、クリスター…まず先に、このテープを聞くんだ。その後で、オレの質問に今度こそ正直に答えてもらう」

 レイフは作業台の上に置いたカセット・デッキにおもむろに手を伸ばし、クリスターに刺すような一瞥を向けた後、スイッチを入れた。怒りのせいか緊張のせいか、その指先は微かに震えていた。

(レイフ、おまえも苦しんでいる…僕に対して怒り、僕を憎まなければならないことで、傷ついている…)

 クリスターが思わず、打たれたような気分で、そんな感慨を覚えた時、それは何の前触れもなくいきなり始まった。

『…それでも、ジェームズ、僕の負けなんだよ』

 己の声がザーッというノイズの中から聞こえてきたのに、クリスターは小さく息を吸い込んだ。

『頼むから、これ以上の無駄な争いをしかけないでくれ…僕達のゲームは終わったんだ』

 レイフは一瞬、このテープを止めるかカセット・デッキごと壊したい衝動に駆られたようだ。逞しい肩を震わせ、たまりかねたように音声の流れ出るデッキから顔を背けた。

『そんな言葉は信じられないな、クリスター…君は僕を欺こうとしているだけじゃないのか?』

 己の声に続いて聞こえてきた、ジェームズの台詞に、クリスターはこのテープに録音されている会話が、いつ、どこでなされたものであるのか、完全に理解した。

(そうか、これは…僕がブラック邸に乗り込んでジェームズと対峙した、あの日に録られたものなんだ。僕が、皆には秘密で、ジェームスに取り引きを持ちかけた…)

 クリスターは雷に打たれたかのように身を震わせ、目を閉じた。テープから流れ続ける音声に耳を傾けなくても、あの時の記憶は封印した扉を打ち破ってあふれ出し、クリスターの脳裏に鮮やかに蘇る。

(そうか、あの一部始終をジェームズは密かに録音していたのか。全く、してやられたな…最後の最後で僕の企みを一気に覆すため、僕には決して知られないよう安全な場所に保管し、自分が死んで、さすがに僕もそろそろ警戒を解き始めた頃になって―誰よりも知られたくないと僕が願った、レイフの手に渡るよう取り計らっていた)

 あの怪物が己に一矢も報いることなく、こんなにも呆気なく死んでしまうなど信じられない。ジェームズの死の知らせを聞いてからずっとクリスターが感じていた、得体の知れない不吉な予感はどうやら的中してしまったようだ。

(この期に及んで、ここまで僕を追い詰めるなんて―大したものだと言うべきかな、ジェームズ、そして…)

 クリスターはゆっくりと目を上げ、己の反応を少しも見逃すまいと爛々と燃える目で観察しているレイフを、そっと窺い見た。

(レイフ…もしも、このやり取りをそのまま素直におまえが受け取ってくれていたら、事態は、僕が恐れるような最悪なことにはならないかもしれないが―)

 だが、レイフの全身から揺らめきあがるかのような瞋恚の炎をこうして肌で感じては、己の期待通り簡単に片付けられるような話ではないと判断するしかなかった。

(そうだったな、レイフ…子供の頃から、僕はおまえを最後まで完璧に騙しとおすはできなかった。僕がうまく秘密にしていたつもりでも…おまえ自身すっかり僕を信じ込んで騙されていたはずでも…いつの間にか、おまえは僕の隠し事の核心に辿り着いて、全てを明るみにしてしまうんだ…)

 敗北感を伴った複雑な感慨を噛み締めているクリスターの口辺に、笑みというにはあまりにも苦い、仄かな歪みが生じるのを、レイフは怪訝そうに眉をしかめて見つめている。

(ああ、でも、僕はもう後戻りすることも、全てをなかったことにしてやり直すこともできない。この肩と引き換えにしても…結果的に、レイフや僕を愛してくれる他の大勢の人達を裏切ることになっても、どうしても僕は…レイフには夢を叶えて幸せになって欲しかった)

 すっかり打ちのめされ、うつろな表情で言葉もなく立ち尽くすのみのクリスターだったが、このままなす術もなく破局を迎えるわけにはいかないとの一念で、悪夢の淵から浮上しようとしていた。

(そうだ、僕にとって本当に重要なのは、レイフ、おまえだけ…おまえの輝かしい将来を守るためなら、今までもそうだったように、これからも僕は何だってやってやる。ああ、僕は少しも後悔などしていない…陋劣な裏切り者だと、おまえに憎まれそしられたって構わない。僕は正しい…少なくとも一番肝心な点では、決して誤ってはいないのだから―)

 クリスターの体の脇にだらりと垂らされていた手が上がり、頭にかかる。熱く沸騰しているような頭蓋の内で、彼の脳は必死になって回転を続け、この場を切り抜けるための策を弾き出そうとしている。

 だが、そうやって非情になろう、ここまで来たなら最後まで裏切り者で徹しようとしながらも、クリスターは一瞬挫けそうになった。

(ああ、僕は一体なぜ―こんな大きな犠牲を払ってまで、本当は何をしたかったのだろう…? いや、そんなことは考えるな。今は、どうやってレイフを落ち着かせるかだ。こうなったら、これ以上耳障りのいい話で誤魔化すことはできない。もう一度僕を信じさせることができるか確かめてみてもいいが、それが駄目なら…本当の話を聞かせた上で、無理にでも納得させるしかない…)

 レイフを騙すことなど所詮できないのなら、どんなにひどい真実でも、全て打ち明けて直面させるしかない。その結果、レイフがクリスターを見限り、その心が離れていったとしても、それが最終的にレイフのためになるのであれば、構わない。

(今でも、僕はレイフをうまく誘導できる…レイフの怒りの理由が分かったなら、僕には、こいつが何をどう考えるか読むことも容易い。大丈夫だ、こいつがこれ以上道を踏み違えないよう、今からでも修正できる)

 意を決したクリスターは、目を瞑ってゆっくりと深呼吸した後、再び瞠目した。

 クリスターの気持ちの変化を敏感に察したかのように、レイフが椅子の上でぶるりと武者震いをし、警戒を込めて身構える。

 いつの間にか、テープは終わっていた。全ての物音が絶え、緊迫感の漂う静寂の中、双子兄弟は互いに相手の出方を窺いながら、対峙していた。

「レイフ」

 クリスターは、緊張のあまり張り詰めたレイフの顔を、食い入るように鋭く睨みすえた。乾いた唇が動き、静かなだけに異様なほど奇妙な迫力のある声で、じっと待ち受ける弟に正面から問いかけた。

「それで―この僕に、一体何を尋ねようというんだい?」


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