ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第7章 FAKE

SCENE14

 色とりどりのライトが明滅する店の中、テンポのいい音楽に乗って、晴れ晴れとした表情の若者達が踊っている。

 アーバン高校の卒業記念パーティーは今がたけなわだった。

 自分に向かって親しげに声をかけてきたり、踊りに誘ったりする知り合い達にはおざなりの返事だけをして、レイフは仏頂面のまま店の奥に入っていった。

 途中、カメラのフラッシュのような白っぽい光が視界の片隅で閃いたのに、レイフが怪訝そうにそちらを振り向くと、アーバン校の関係者とは思えない、見知らぬ男がカメラを抱えて、慌てて逃げさっていった。

 レイフは軽く舌打ちをした。巷でのレイフのアイドル的な人気はまだ続いていたので、妙な記者やカメラマンに付きまとわれることは、今でも時折あった。卒業記念パーティーでの激写を狙って、どこぞの怪しいカメラマンが忍び込んでいるようだ。

「レイフ、ここだよ、ここっ!」

 声のする方を眺めやると、ダンスフロアの向こうにあるテーブル席から、トムが手を振っていた。フットボール・チームの仲間2人も彼と一緒にいる。

 レイフは強張っていた表情をほんの少し和らげて、親しい友人達の輪に加わりにいく。

「随分遅かったじゃないか、何してたんだよ」

「うん、ちょっと…」

 レイフのぎこちない態度と暗い面持ちに、トムはふと訝しげな顔をしたが、追求しかけた時に、おそらくレイフ目当てだろう、チアの女の子達がやってきて声をかけたものだから、結局親友の態度の不自然さの理由を尋ねることはできなかった。

 女の子達が加わったことで、テーブルの雰囲気は一気に華やいだものになったが、楽しげな仲間達の中で、レイフだけが心ここにあらずの物思いに沈んだ顔をしていた。

「ねえ、レイフ、さっきからずっと黙り込んで、一体どうしたのよ?」

「せっかくのパーティーなんだから、もっと積極的に楽しまなきゃ。まだ誰とも踊ってないんでしょ、私と一緒にどう?」

 女の子達は、会話の間に度々レイフをつついて、自分に関心を向けようとしたり、ダンスに連れ出そうとモーションをかけたりするのだが、あまりはかばかしい答えが返ってこないのに、ついに諦めたのか、もっと自分達に優しい他の男の子に誘われるがまま席を立っていった。

「…あーあ、野郎ばかりが取り残されちまったなぁ」

「おまえも誰かと踊りたかったら、オレに構わず行ったっていいんだぜ、トム」

「おまえがここに来るまでに、何人かともう踊ったよ。別に取り立ててダンス好きってわけでもないし、卒業前に彼女とは別れちまったし、女の子の相手はしばらくいいわ、俺も…なあ、後で退屈してそうな仲間を集めて、ゲームセンターでも行こうか?」

 トムは皿の上に残されたチキンをつまみながら、辺りの様子をきょろきょろと窺ったかと思うと、ふいに声を低めて囁きかけてきた。

「それにしてもさぁ、おまえ、一体どうしたんだよ? 昼間皆の話題をかっさらった明るくて楽しい人気者とは別人みたいじゃないか? まさか、あの後クリスターと喧嘩したってわけじゃあないよな?」

「!…な、なんで、オレがクリスターと喧嘩したなんて思うんだよっ」

 トムは別に深い意味があって言ったわけではないだろうが、懊悩の中核にいきなり触れられたレイフは、つい過剰に反応して、怒っているような大声をあげてしまった。

「レ、レイフ…?」

 トムが口に運びかけたチキンを思わず落として固まるのに、レイフはすぐにしまったという顔をした。

「あ、ごめん、トム…いきなり大声なんかあげちまって、驚いたよな…確かにオレ今、ちょっとむしゃくしゃしてるけど…大した理由がある訳じゃないんだ。気にしないでくれよ、せっかくの卒業記念のパーティーなんだから」

 全くだ。本当なら、もっと楽しい気分で、女の子と踊って、今日で別れることになる仲間達とはしゃぎまくるつもりでいたのに、どうして自分だけがこんないらいらと神経を昂ぶらせているのだろう。そう思うと、レイフは無性に哀しくなってきた。

(あのまま家で一人きりでいるのに耐えられなくなって、皆の顔を見たら、少しは気が紛れるなとも思ったのに…やっぱり来るんじゃなかったな。このままじゃ、オレのせいで、パーティーが白けちまう。もう帰ろう…それが一番だ)

 家に帰ろうと決心したレイフは、トムにもう一度謝ろうと口を開きかけた。その時、彼は、正面に坐っているトムが、何やら緊張した面持ちで、自分の肩越しに後ろの方に目をやっていることに気付いた。

「どうした、トム?」

 訝しげに眉を寄せるレイフの背中に、どこかで聞いたことのある、あまり品のよくない野太い声がかけられた。

「おい、そこの赤毛!」

 うろんそうにレイフが振り返ると、こちらに向かって近づいてくる、大柄な体格の若者達数人が目に入った。

「誰かと思ったら、やっぱりレイフ・オルソンか」

 真ん中の一番大きい黒人の若者が、やけに馴れ馴れしく、歯をむき出してレイフに笑いかけてくる。

 ゴリラに似ているなぁと思ったところで、レイフは、この相手が誰かを思い出した。

「ニック…何で、ヒル高校のおまえがうちのパーティーに紛れ込んでんだよ?」

 馬鹿正直なレイフは、ライバル・チームのエースLBとして、高校での四年間、試合の度にいつも腹立たしい思いをさせられてきた相手の出現に、思い切り嫌そうに顔をしかめた。

「うちも今日が卒業式で、この近くでパーティーをやってんだぜ。そろそろ飽きてきたんで、仲間と一緒に抜け出してぶらぶらしてたら、アーバン校のパーティーをここでやってるって聞きつけてさ。せっかくだから、どんなものかと覗きに来たのさ」

「それって、すげー迷惑。大方自分んとこのパーティーでは女の子達には見向きもされなかったものだから、代わりにうちでうさを晴らそうって魂胆だろっ」

 レイフが歯に衣着せぬ口調でずばりと決め付けるのに、ニックは一瞬顔を真っ赤にして、黙り込んだ。どうやら図星だったらしい。

「レ、レイフ…」

 レイフとニックの間の空気が険悪なものになりかけるのを見て、焦ったトムが、なだめるよう、レイフの肩に手を置く。

「こんな場所で喧嘩なんかするなよ?」

 それへ、レイフはちらりと目をやって、分かっているというように、鷹揚に頷いた。

「トム、オレ、やっぱ先に帰るわ…明日の朝、おまえが引き上げる前に寮に行って、見送ってやるよ」

「ええっ、でも、おまえ…今夜はずっと朝まで仲間達と盛り上がるぞって、遊ぶ気満々だったじゃん…おまえがいねぇとつまらないって、皆がっかりするぞ」

「うん…悪いけど、オレの代わりに謝っといてくれ…ああ、中には今夜で最後って奴もいるんだよな。でも、挨拶すると泣きそうなるから、このまま帰るわ」

 ひそひそと囁きあっている2人を遮るように、ニックが大声で話に割って入ってきた。

「もう帰るってのか、レイフ、そんな水臭いこと言うなよ。せっかく夏休み明けからは、同じテキサス大学のチーム・メイトになれるっていうのにさ?」 

 断りもなしに隣の席にどしんと腰を下ろすニックの方を、レイフはぎょっとなって振り返った。

「チーム・メイト? 何の話だよ、オレと一緒の大学って…まさかおまえもテキサス大に決まったのか?」

 にやにや笑いを貼り付けていたニックの顔が、たちまち強張った。

「信じられねぇ…おい、トム、本当か?」

 思わず、傍らの親友に確認すると、トムはちょっと呆れたように目を丸くしていた。

「おまえが知らなかったことの方が、俺には信じられないよ、レイフ…本当におまえって、世事にうといっていうか、自分に関係のない人間にはとことん無関心なんだよなぁ」

 確かにニックは、常にランキングの上位に食い込む、州屈指のラインバッカーなのだから、スカウトの目に止まっても不自然ではないのかもしれないが、自分と同じカレッジ・チームに決まっていたなどと、レイフにとっては寝耳に水だ。

(最悪…うわぁ、すごいテンション下がったぞ、今…予め知ってたら、シュミットさんには悪いけど、テキサス大は辞退したかも…)

 ショックを受けたことを隠しもしない、頭を抱え、口の中で小さく悪態をつくレイフを、ニックは一瞬殺してやりたそうな目で睨みつけた。

「また、随分嫌われたものだなぁ、レイフ…だが、これからは仲間になるんだ。これまでのことは水に流して、仲良くしようぜ」

 ニックは、もしかしたらレイフが嫌がることを承知でやっているのかもしれないが、ますます馴れ馴れしさを増してきた。レイフの肩に太い腕をかけ、ぐっと顔を近づけて、耳障りな猫なで声で囁きかけてくる。

 レイフはぞっとしてニックから身を引き、鼻をしわめながら、威嚇するように言い返した。

「おまえと馴れ合う気はねぇよ、ニック」

「つれねぇなぁ…せっかく俺が下手に出て、親睦を深めようとしてやってるのにさ。ふん、名門大学に三顧の礼で迎えられた、今季一番の注目株だからって、お高くとまりやがって…去年までは、全然ぱっとしなかった、へたれ野郎だったくせに、何が全米ベスト選手だ。どうせ、たまたま調子がよかっただけで、大学に入れば、すぐにぼろが出るのがオチさ」

 次第に本音を明らかにしだして、レイフに憎まれ口を叩くニックに、風向きが怪しいと見て取ったのだろう。彼の注意をレイフから逸らそうと、トムが落ち着いた態度で話しかける。

「おい、ニック、レイフに絡むなよ。おまえの言ったとおり、レイフとはチーム・メイトになるんなら、そんな喧嘩を売るような態度はやめろってば。レイフはさ、今夜はちょっと虫の居所が悪いみたいなんだ。少しくらい態度がカリカリしてたって、許してやってくれよ」

「おまえは黙ってろよ、チビ!」

 ニックが目をむき、吼えた。トムは顔を引きつらせ、黙りこんだ。

「トムにまであたるなよ、ニック」

 目の前で親友を脅しつけられたレイフは、剣呑な目になり、低く抑えた声でニックを恫喝した。

「トムの言ったことは本当で、オレは今、めったにないってくらい機嫌が悪いんだ…だから、試合中におまえが散々やったような下手な挑発はするなよ、ニック…」

 先程のニックの怒声を聞きつけたのか、レイフのフットボール仲間が心配そうに近づいてくる。

「おい、レイフ、大丈夫か」

「ヒル高校の奴らが、何でここに紛れ込んでるんだよ」

 彼らの呼びかけに冷静を取り戻したレイフは、沸点に達しかけた怒りを抑えこみ、仲間達に向かって手でそっと押さえるような仕草をした。

「さて、オレは本当にもう帰るよ。このままここにいて、おまえの下らない話を聞かされても、楽しくないし」

 レイフが立ち上がるのと一緒にトムも席を立った。彼が仲間達の輪の中にすっと入っていくのを見届けて、レイフはくるりと背を向け、ニックとその仲間が居座っているテーブルから立ち去ろうとした。

 しばしそのままぽかんとレイフを見送りかけたニックだが、自分が散々馬鹿にされ無視されたことに、やはり腹の虫が収まらなかったのだろう。仲間達の制止の手を振り切って、テーブルから荒々しく立ち上がり、レイフの背中に向かって嘲りの声を投げつけた。

「逃げるのかよ、この臆病者!」

 ニックの挑発に、レイフは一瞬足を止めたものの、そのまま振り返りもせず、再び歩き出した。

「ふん、俺が恐いのかよ。試合中何度も俺にぶっつぶされてたものなぁ、おまえ…その度に、悔し泣きしてクリスターになだめられてたよなぁ。その甘ったれのブラコンが、頼りにしていた兄貴が脱落した途端、えらく人が変わっちまったじゃないか。不思議なものだよなぁ、ずっとスランプだって言われて、二流止まりの選手だったおまえが、クリスターがいなくなった途端、一気にスターになっちまった。どうだい、兄貴のかわりにちやほやされて、いい気分だろう?」

 クリスターの名前が出た途端、レイフは、背中に鞭の一撃でも受けたかのように硬直した。

「クリスターの代わりに周囲の注目を集めて、チャンスを掴んでさぁ…これも皆、あいつが大怪我したおかげだよな、レイフ。もしもクリスターがフットボールをやめていなかったら、やっぱり、おまえは今でもうだつの上がらない二番どまりのへぼプレイヤーだったことだろうさ!」

 レイフは体の脇に垂らした手をぐっと握り締め、何とか気持ちを静めようとしたが、今度はどうしても抑えきれなかった。

「おい…どういう意味なんだよ、それ…?」

 ゆっくりとニックの方に体を向け、今にも吹き出しそうな破壊衝動と必死になって闘いながら、レイフは唸るように問い返した。

「だから、クリスターが大怪我をして一番得をしたのはおまえだってことさ。皆、陰で噂していたぜ…クリスターっていう邪魔者がいなくなったから、おまえはスターになれたんだって…」

 ニックには、自分が今、もろに地雷を踏んだことなど分からなかっただろう。レイフの顔が悲痛に引き歪むのを見て、満足そうにせせら笑いながら、他の2人の仲間と一緒にこの場から立ち去ろうとする。

「おい、ニック、おまえよくも…そんな酷いことを言いやがって…!」

 堪えかねたかのように叫んだのはトムだった。自分達のエースを目の前でひどく侮辱されたことに気色ばんでいる、他のフットボール仲間と一緒にニックの前に立ちふさがり、今にも殴りかからんばかりの激しさで、相手を睨みつけた。

 ニックは、相手と自分達とどちらが強いかと推し量るかのように、しばしトム達をじっと観察した。やがて、馬鹿にしたように鼻を鳴らして、ずんと前に進み出、一番前にいたトムの胸倉を掴んだ。

「邪魔だから、そこをどけよ、雑魚ども…俺らラインマンとおまえらじゃ、まともにぶつかるにゃ、パワーが違いすぎる。怪我するぜ!」

 どんと突き飛ばされてよろめいたトムは、後ろにいた仲間にとっさに抱きとめられた。

「おい、誰か、うちのライン連中を呼んで来いっ」

 めったに怒らないトムが顔を真っ赤にして、後ろの仲間に向かって叫んでいる。ラインを連れてくると言われて、さすがに、敵の只中で多勢に無勢となれば形成不利と悟ったのか、これ以上の騒ぎになることを恐れたのか、ニックは他の仲間に頷きかけて、足早に店から出て行こうとした。

 その時―。

「逃がさねぇ…!」

 打たれたようにその場に立ち尽くしていたレイフの口から、深い憤りを含んだ、押し殺した声が発せられた。

「レ、レイフ!」

 トムの動転した声を聞いたような気がしたが、レイフは構わず、電光石火の動きで、こちらを振り向こうと仕掛けるニックに殺到し、強烈な体当たりを食らわした。

「うわぁっ」

 不意打ちを喰らったニックの巨体は簡単に吹っ飛ばされ、近くにあったテーブルの上に倒れこんだ。そのテーブルの近くにいた連中は悲鳴をあげて、逃げ出す。

 この有様に、ニックの仲間達はたちまち殺気立った。

「レイフ、てめぇ、よくもニックを…!」

「もう遠慮なんかしねぇぞ。おまえのことは、前から気に入らなかったんだ…」

 かっとなった大柄なラインマンが2人がかりで飛び掛ってくるのを、レイフは素早く身を引いてかわした。次の瞬間、逆に2人を、ほとんど間髪をいれず、続けざまに投げ飛ばしていた。

「立てよ、ニック…」

 床の上に這いつくばって喘いでいる他の2人には目もくれず、レイフは、ほうほうの態で、割れたグラス類が散乱するテーブルから起き上がろうとあがいている、ニックの前に立ちはだかった。

「この野郎、よくも…ぶっ殺してやるぞ…!」

 ガラスで切ったのだろう、手や顔から出血したせいで、ニックは完全に理性を失っているように見えた。

 頭を低くして身構え、自分に向かって突っ込んでくる機会を窺っているニックを、しかし、レイフの方は、ここに至って急に冷静さを取り戻した冷たい目で眺めていた。

 この騒ぎに驚き怯えたアーバン校の生徒達は店の外に逃げ出すか、安全な距離を保った場所から恐々レイフ達の様子を窺っている。

「おい、誰か、店員を呼んで来い…!」

「一体、何事だよっ?」

「大変だ、ヒル高校とうちのフットボール・チームの連中が大喧嘩を始めたぞ」

「レイフ、レイフ、そのゴリラ野郎をぎゃふんを言わせてやれよっ」

「待てよ、卒業記念のパーティーで喧嘩沙汰なんて起こしたら、後が大変だぞ。皆、やじってないで、とめてやれっ」

 様々な野次や怒号、静止の声が飛び交う中、レイフは奇妙なほど冷めた頭の中で、今の状況を分析していた。

(ここで大騒ぎを起こしたら、大変なことになる、か…もし、本当にこれが皆が青ざめるような事件になったとしたら、騒ぎを引き起こした張本人であるオレはどう責任を取ることになるのかな…?)

 怒れる野獣のようなニックから目を離し、ぼんやりと周囲を見渡してみると、生徒達の向こうに、カメラを構えた見知らぬ男の姿が見えた。

(ああ、そうだ…いっそのこと、取り返しのつかないような大騒ぎになっちまえばいい…)

 その瞬間、レイフの頭の中に、ある考えが閃いた。普段のレイフならば決して思いつかないような、悪辣な計画―レイフを裏切り傷つけた者に対する、強烈な意趣返しだった。

「うわぉぉっ!」

 雄叫びと共に、ニックがレイフに頭から突っ込んでくる。レイフはとっさにそれを受け止めたが、受け止めきれず、ダンスフロアの真ん中まで吹っ飛ばされた。

 とっさに急所を庇って仰向きに倒れたレイフの上に、ニックの巨体が襲いかかる。

 周囲にどよめきが走った。

「きゃああっ、レイフ!」

「け、警察を呼べ!」

 腹の上に乗られたニックから、強烈なパンチを何度か受けた後、レイフは更にもう一発食らわそうとする相手の拳を掴み、捻りあげた。

「調子に乗るな、このデカブツ!」

 体のばねを使って起き上がりざま頭突きを食らわせると、ニックは額を押さえてぎゃっと叫び、レイフの上から転がり落ちる。

 今度は、レイフの猛攻が始まった。

 よろよろと立ち上がるニックの胸倉を素早く掴み、柔道の大技をかけて、一回、二回と投げ飛ばした。

 ニックはふらふらになりながらも、レイフに向かってパンチを繰り出し攻撃してくるが、レイフの体には一発もヒットせず、逆にレイフのかけた足払いに引っかかって、またしても転倒してしまう。

 ニックはレイフよりも大柄で逞しく、確かに膂力は優れていそうだが、レイフのように子供の頃から格闘技を習っている訳でも、闘いのセンスがある訳でもなかった。

「ち、畜生…この野郎、おまえなんか、俺は認めちゃいない…クリスターと離れて、カレッジ・チームに入って1人でやったって、どうせ、おまえは長続きなんかするものか…」

 レイフは思わず顔をしかめた。自分達の事情などニックが知る由もないのに、意外と勘がよいのか、鋭いところをついてくる

「ああ、確かに、そうかもな。でも、カレッジ・チームなんて、オレには、もうどうでもいいことなんだ」

 ふっと苦い思いを込めて呟いた後、レイフは床で這いずっているニックを引きずり起こし、その顔を思い切り殴りつけた。

「安心しな、ニック…おまえのチーム・メイトになんて、オレはならねぇよっ」

 更にもう一発、レイフは手加減なしのパンチをニックの血まみれの顔に打ち込んだ。その間、カメラのフラッシュらしい光が何度か瞬くのに気付いたが、あえて無視した。

「レイフ、もう、やめろっ!」

 さすがに見かねた生徒達から、制止と非難の声があがる。

「いくらなんでも、やりすぎだぞ、レイフ」

 レイフは最後に、これで仕上げとばかり、ニックの腹に重いパンチをくれてやった。

 ニックはううと呻いて、腹を押さえて床に倒れ付し、げえげえと吐いている。

「ふん、汚ねぇ奴」

 レイフは散々叩きのめした相手を冷ややかに嘲笑い、拳をさすりながら、ゆっくりと身を引いた。

「警察だ! この騒ぎを起こしたのはどいつだ?」 

 いつの間にか音楽も止められ、しんと静まり返った店の中に、厳しい誰何の声が響き渡った。

 不穏にざわめきたつ生徒達の向こうから、数人の制服警官が用心しながら近づいてくるのが見えた。

「あぁ、全く、ガキ同士の喧嘩にしちゃあ、ハデにやったものだなぁ」

 床に伸びている、真っ先にレイフが倒したニックの仲間2人を床から起こして同僚に任せ、残りの警官達がまっすぐに、ダンスフロア真ん中で仁王立ちしているレイフとその足元にうずくまっているニックのもとに近づいてくる。

「レ、レイフ…!」

 トム達フットボール仲間が血相を変えて、レイフに駆け寄ろうとしたが、それも警官に阻止された。

「おまえか、こいつらにこんな怪我をさせたのは?」

「はい」

 警官は大げさな溜息をついた。

「若いうちは、ついかっとなって喧嘩に走ることもままあるものだが、ちょっとやりすぎだぞ。見たところ、おまえさん、武道か何かやってるだろう? たとえ挑発したのが向こうだったとしても、この状況を見れば、おまえさんが加害者だということになってしまう」

 レイフはおとなしく黙り込んだまま、俯いた。

「まあ、詳しいことは署で聞こう…さあ、ついてくるんだ」

 レイフは逆らう様子も見せず、警官の誘導に従って、店から出るため歩き出した。事の成り行きを、固唾を呑んで見守っていた生徒達は、潮が引くように両脇に退いていく。

 その時―。

「レイフ!」

 レイフがずっと待ちわびていた、一体いつになれば現われるのだろうと待ちかねていた、その人の声が耳に届いた。

 レイフを遠巻きにしている人垣をかき分けて現われたのは、そう、紛れもないクリスターだった。傍らには、呆然とした面持ちのアイザックもいる。

 厳しく引き締まった顔をした警官がクリスターをとめるべく近づこうとしたが、制止されるよりも先に、クリスターはレイフのもとに素早く駆け寄り、その肩を掴んでいた。 

「レイフ、レイフ…一体どうして…どうして、こんな馬鹿なことを…?」

 いつもは雄弁なクリスターも、この騒動を引き起こした張本人がレイフであり、実際警察沙汰にまでなってしまったことの衝撃に、なかなか言葉が出てこないようだった。

「こら、その手を離しなさい…! おっと…同じ顔、双子の兄弟か…」

 警官にレイフから無理矢理引き離されそうになると、クリスターは奪われまいとするかのように弟を抱き寄せて、相手を鋭く睨みすえた。

 そんなことをしても無駄なのに―いつも冷静なクリスターの取り乱しようを乾いた目で眺めながら、レイフは皮肉っぽく笑った。

「いい加減、その手を離せよ、兄貴」 

「レイフ?」

 思いもかけぬレイフの冷たい声に、クリスターは戸惑ったようだ。一体どうしたのかと怪しむような、揺れる琥珀色の瞳で彼はレイフを見つめた。

「離せって言ってんだよ。オレがどうなろうが、おまえには関係ないだろ!」

 ついに、ずっと抑えつけていた感情の堰が切れたように、レイフはクリスターを怒鳴りつけ、その手を荒々しく振り払った。

「レイフ…」

 クリスターは、一体何が起こったのか分からないという顔をしていた。レイフに打たれた手を無意識に押さえたまま、言葉を失い、立ち尽くしている。

 そんな様子の兄に、冷ややかな蔑みのこもった一瞥を最後に投げかけて、レイフは警官達に連れて行かれるがまま、店を出て行った。

 レイフ、そして、ニック達騒ぎの原因となった他の連中も続いて連れて行かれた後、店の中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

「レイフ!!」

 尚も必死に追いすがろうとするかのようなクリスターの悲痛な叫びを耳にしても、一切心を閉ざしたレイフは、足を止めることも後ろを振り返ることもなかった。


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