ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第7章 FAKE
SCENE13
(レイフ、素直で可愛い君のために、ひとつ忠告しておいてやるよ。クリスターを信じるな。忘れるな、そいつは裏切り者だ)
レイフが、夕方になってコーチ宅から一度家に戻った時、アイザックと一緒にどこかに行ったクリスターも、叔父ビョルンと食事に出かけた両親もまだ帰っていなかった。
夜は、学校が主催する卒業記念のパーティーが郊外の大きな娯楽施設で開かれるので、レイフもトム達と一緒に参加することにしている。
クリスターも後で合流すると言っていた。
卒業式やその後のパーティーでもずっと、浮かれたお祭り気分は続いていて、レイフをそわそわと落ち着かなくさせていた。今日は一日中、仲のいい友人達と思う存分はしゃぎまくるつもりでいた。
(ようやっと長かった高校生活が終わったんだ。今日は少しくらいはめを外して、夜中まで遊んだって構わないよな)
ディスコはほとんど貸し切り状態になるらしいし、アルコールはもちろん厳禁だが、食事やドリンクもついている。すぐ近くに大きなゲームセンターもあるから、踊るのに飽きたら、そちらに流れてもいい。
(オレ、今モテ期だからさ、女の子連中に踊ってくれとかせがまれそうだけど…やっぱ、そっちは適当にちょっとだけ付き合って、トム達フットボール仲間と一緒にいようっと…寮生のほとんどは明日それぞれの実家に帰っちまうからな)
仲間達と過ごせる残り短い時間をせいぜい楽しい思い出にすることで頭が一杯なレイフは、出かける前に、ひとまずバーベキューの臭いや油のついてしまった体をシャワーで流して、さっぱりした格好に着替えることにした。
(あれ?)
まっすぐ2階に上がろうとしかけたが、何となく覗き込んだキッチンのテーブルの上に、レイフは小さな荷物が置かれていることに気がつく。
「あ、オレ宛じゃん…どっから送られてきたんだろ」
親戚か友達から送られてきた卒業祝いのプレゼントか何かだろうかと、差出人を確認するが、荷札に書かれてあるのは全く覚えのない名前だった。
レイフは首を傾げながら、それを2階の自分の部屋に持っていき、無造作に開封した。
「何だよ、このテープ…?」
中から出てきたのはプラスチック・ケースに入ったカセットテープと一通の手紙だった。
ますます胡散臭そうに、レイフは顔をしかめる。直感的に、これはよくないものだと感じたのか、背中の辺りが早くもぞくぞくしていた。
(サスペンス映画みたく、いきなり爆発なんかしたりして―あは、まさかね)
テープの方は机の上にそっと置いて、レイフは取りあえず手紙の方から調べてみることにした。
タイプライターできちんと打たれた文面は、無味乾燥な事務的なものだったが、その手紙に目を通して、レイフはやっと、これが誰から自分に送られてきたものであるのか、理解した。
「ブラック家の顧問弁護士?」
喫驚のあまり上ずった声が、レイフの唇から迸った。
「ジェームズの遺言の実行って、一体何のことなんだよっ?! 一体何で、オレにこんなものを送ってきやがったんだ…?」
怖気を奮ったレイフは、反射的に、その手紙を床に投げ出し、それこそ爆発物から退避するかのように大きく飛びすさった。
「う…ううっ…」
レイフは、眉を逆立てながら、床に落ちた手紙をしばし睨みつけていた。ぐっと握り締めた手の内は汗ばみ、心臓の鼓動は速くなっている。
(やばい…よく分からないけど、何だかすごくやばいもののような気がする)
レイフは床の上の手紙から、机の上に取り残していたテープの方に視線を移した。
(送られてきた荷物は、これ1つだった…ジェームズの遺言だって? これがクリスター宛なら、まだ納得できるけど、どうしてオレなのか―あの野郎、一体何を企んでやがるんだ?)
そこまで考えて、レイフはこれがジェームズのまさしく『遺言』であること、彼が2週間ほど前に既に亡くなっていることに気がついた。
(そ、そうか、J・Bの奴は死んじまったんだな)
レイフは唇を舌で舐めながらしばらく考え込んだ後、ゆっくりと床に散らばった手紙に近づいて、用心深く拾い上げた。
(あいつ、自分が死ぬのを予期して、こんなものを準備してやがったのか…全く驚かせやがる)
レイフは改めて、ジェームズの弁護士からの手紙を読み直した。
内容は至って、簡単明瞭なものだ。ジェームズ・ブラックの依頼に基づき、彼の死後、予め指定された日に、この遺品がレイフの手に届くよう、処理させてもらう。テープの内容については、一切触れられていない。その後、このテープをどうすればいいのかも、記されていない。
「依頼通り、送るだけ送ったから、後は好きなように処分しろってことかよ…ったく、こんな怪しいものを人に押し付けやがって、無責任な」
何のヒントも手がかりも得られない手紙に、レイフは不満そうに口をすぼめ、いらいらと頭をかきむしった。
(ジェームズの『遺品』だぜ…怪しすぎるだろ、どうせろくでもないものに決まってる。たぶん、見なかったことにして、このままゴミ箱に捨てちまう方が安全なんだろうけれど―)
レイフは迷いながら、そろそろと伸ばした手で、机の上のテープを取り上げた。
(ああ、どうして今、ここにクリスターがいないんだろう…もしあいつがいてくれたら、開封するかどうか相談して―いや…)
レイフはそこまで考えて、自分の優柔不断さを思い切り退けた。
(あいつがいたら、J・Bから送られてきた荷物など、絶対オレに開けさせはしない。自分が処理するって、強引に取り上げちまうのがオチだ…それに、実際これはオレ宛のものなんだ。ジェームズからの贈り物ならろくでもないものなのは確実だけど、これくらい自分の手でちゃんと始末をつけてやる。大体、クリスターは、この間ジェームズの死の知らせを受けとった時の様子を見ても分かるように、まだ精神的に不安定だからな…)
レイフは、ジェームズの死の知らせをクリスターから聞いた日のことをまざまざと思い出していた。
(オレはジェームズのことはもう終わった話だからと、最近ではほとんど思い出さなくなっていた…喉もと過ぎれば熱さを忘れるって、ホント、オレらしいや。だから、クリスターのあの取り乱しようを見て、すごく驚いたよ…オレに比べりゃ、あいつとジェームズの因縁はずっと深いんだろうけど、それにしたってさ…)
あれ以来、今更のように、レイフもあの怪物のことを度々思い出すようになっていた。その矢先に、こんな『遺品』が送られてきたのだから、薄気味悪く思いながらも、その内容については正直気になっている。
(去年の夏休みの話になるのか…J・Bとの『戦争』って言ったって、オレはほとんど蚊帳の外で、実際ジェームズの野郎と顔を突き合わせたのは、クリスターを助けに行ったところで出会った、ほんの短い時間だけだ。オレはすっかり頭に血が上ってて、あの場面の記憶は所々飛んでいる。ジェームズの奴、オレに向かって、何やら意味深なことをべらべらしゃべっていたけれど、大半は取るに足りないことだと聞き流してた。でも、今思い出してみると、あいつ、随分おかしなことを言いやがった…そう、クリスターを信じるなって…あんな奴の言葉をまともに受け取る必要はないのかもしれないけれど―)
レイフは、胸の奥から言い知れぬ不安感が噴き出してくるのを覚えながら、しばしテープのプラスチック・ケースの表面を睨みつけていた。脳裏に鮮やかに蘇るのは、あのぞっとするような夜―クリスターを守れなかったレイフを馬鹿にするかのように、彼の殴打を受けながらも笑い続けたジェームズが、ふいに真顔になり、謎めいた言葉を投げかけたことだ。
「やめよう…死んだ奴なんかに、今になって振り回されるのはごめんだぜ…!」
レイフは、苦々しく吐き捨てて、頭を左右に激しく振ると、ゴミ箱の中にテープを手紙ごと放り込んだ。そのまま、シャワーを浴びに、部屋を出ようとした。しかし―。
(大体、僕には君に許しを請うことなど何もないよ。ああ、実際クリスターの肩が二度と使い物にならなくなったとしても、その件については、僕は全くすまないとは思わないな)
底知れぬ暗い深淵から、永遠に葬られたはずの怪物の声が蘇り、振り切ろうとするレイフに執拗に絡みつき、その足を止めさせた。
(クリスターを信じるな。そいつは、裏切り者だ)
レイフは、実際には聞こえるはずもない、その声を遮ろうとするかのごとく、両手で耳を塞いだ。
(黙れ、この悪魔め…いいや、オレがこの手で黙らせてやる…殺してやる!)
レイフは混乱していた。あの夜怒りに任せてジェームズを殺そうとした、荒れ狂う獣と化した自らが再び戻ってきたような、激烈な怒りに駆られて身震いした。
(何、馬鹿なことを言いやがる…どうしてクリスターがオレを裏切るはずがあるんだ? あいつはオレの相棒、この世で一番信頼できる相手じゃないか。たとえ世界中の人間がオレの敵に回ったって、あいつだけはオレの味方でいてくれるはずさ。そうとも、オレはあいつを信じている。いつだって、あいつはオレのために…)
そこまで考えた、次の瞬間、レイフは何か重大な事実に気付いたかのように、愕然と目を見開いた。
(ああ、そうだ…あいつはオレにためだと思えば、いくらでもオレを騙し、嘘をつく…いつだって、そうだったんだ)
胸に芽生えた小さな疑惑を駆り立てようとする亡霊の囁きに対して、レイフは必死に抵抗しようとする。しかし、自分の主張する信頼が現実にはことごとく裏切られてきたことを、彼は今思い出していた。
クリスターはレイフを異常なほど愛し、常に最優先する。だが、クリスターの優先順位の一番上にあるということが、レイフをいつも幸せにしたわけではない。実際、クリスターはレイフの気持ちなどお構いなしに、勝手に自分1人で決めた正しいことを強引に押し通す。
そんなクリスターの独りよがりなやり方に、レイフがこれまで、どれだけ傷つき、失望してきたか。
(あの時も、クリスターはオレを騙すようにして、ジェームズと一騎打ちするため、敵の只中に乗り込んでいった。クリスターに出し抜かれたおかげですっかり出遅れたオレが、あの忌々しいジェームズの屋敷の地下室でようやく見つけたのが、あいつのあんな変わり果てた姿だった)
レイフは、完全に消えていたかに思われていた心火を再びかき起こされ、何とか制御しようとぐっと拳を握り締める。
(オレのために、他の皆のために、自分1人で何もかもをひっかぶって、あんな怪我を負ったクリスターを責めることなんて、オレにはとてもできなかったけれど―それでも、心の底では悔しくて腹が立って仕方がなかった。どうして、あの時オレを連れて行ってくれなかったのか…一緒に戦わせてくれなかったのか…オレがついていたら、絶対クリスターをあんな悲惨な目には合わせなかったのに…)
認めたくはないが、レイフにも本当は分かっている。
目的のためには手段を選ばない、時として、自分の大切な人達さえも騙し、道具として利用する。クリスターの芯には、そういう情け容赦のない冷酷さがある。
これまで、クリスターに何度も欺かれながらも、レイフはずっと彼を許してきた。全ては、自分を愛するがための行為と分かれば、許すしかなかった。それに、詰まるところ、レイフ自身、どんな怒りも及ばぬほどクリスターを深く愛していた。
(だからって、あいつのやり方そのものを許したわけじゃない。あいつにしてやられたって気付く度、オレは心の底から願った。頼むから、これを最後にしてくれ、もう二度とオレを騙さないでくれ、裏切らないでくれと―)
死んだ人間の残した囁きが、何をもってしても揺るがすことはできないと信じてきた強固な壁に、疑いという名の小さな穴を開ける。
(クリスターを信じるな、そいつは裏切り者だ)
放っておけば、それは次第に亀裂を広げ、2人の関係を決定的に打ち崩す致命傷になるだろう。
だから、一刻も早くこの疑いを晴らして、穴を塞がなければ―レイフは訳の分からぬ焦燥感に駆られ、身震いした。
そうして、頭を抱えて低く唸るや、いきなり踵を返して、部屋の中に戻っていった。
「ああ、くそっ、忌々しいっ」
腹立たしくてならないというように、ゴミ箱からテープを拾い上げ、ベッドサイドのカセット・デッキにセットする。
すぐにスイッチを入れようとして、レイフはためらった。これを聞けば、きっとジェームズの思い通りになってしまう。ジェームズが、あの時、レイフにほのめかしたことの意味が分かってしまう。
レイフは喉をごくりと鳴らした。
「何も怖がることなんかない…J・Bは死んだ。こんなテープ1つで、オレやクリスターをどうこうすることなんか、できやしない」
つい怖気付きそうになる自分を励まして、スイッチをオンにすると、レイフは引き寄せた椅子に坐り、身を乗り出すようにして、何が始まるのか待ち受けた。
あまり状態がいいとは言えないテーブらしく、ザーッという低いノイズがしばらく続く。
もしかして何も録音されていないのではないかと、レイフが早送りにして確かめようとした時、突然スピーカーから、緊張感の欠片もない、やけにハイな声が流れ出した。
『サプラーイズ!』
緊張のあまりがちがちに固まって待ち構えていたレイフは、泡を食って、椅子からずり落ちそうになった。慌てて坐りなおす間にも、まるで彼の今の動揺振りを見透かすようなくすくす笑いがテープから流れてくる。
『やあ、卒業おめでとう、レイフ。この晴れの日を、君はどんな気分で迎えたのかな?』
のんびりと明るい口調でからかい混じりの言葉をレイフに投げかけてくるのは、紛れもないジェームズ・ブラックだ。
「な、何だよ、いきなり…びっくりするじゃねぇか、この野郎!」
思わず、顔を真っ赤にして怒鳴り返して、レイフはこれがただの録音された音声であることを思い出した。振り上げた拳をのろのろと下ろして、やり場のない怒りをぐっと堪えた。
『君が、このテープを僕の指示通り卒業式の日に受け取り、聞いているのだとすれば―僕はクリスターとの最後の闘いに負けたのだろう。そして、もちろん、この世にはもういないはずだ。今日は、8月6日。今現在、クリスターは僕の手の内に従順に捕らえこまれている。僕には、このゲームがどんな形で収束するのか、いまだ定かではない。だが、レイフ、このテープを聞いている君は、もう知っているよね?』
実に奇妙な気分だった。死んだ人間が、こうして自分に向かって語りかけてくる声に、耳を傾けるのは―。
(8月6日…すると、このテープは、クリスターがブラック邸に乗り込んでいった、あの日に録音されたものなんだ。ジェームズの奴、まるで自分がクリスターに負けて、警察にとっ捕まるってことを予期したみたいに―いや、もし自分が勝てなかった場合の可能性まで視野に入れて、こんなサプライズを用意してやがったんだ。でも、一体、何のために…?)
レイフがあの悪夢のようだった日を振り返って考えこむのを見計らったかのように、絶妙の間を取って、ジェームズの声は続けた。
『僕は、クリスターが僕とのゲームに勝利し、全てを彼の思い通りに終わらせてしまった場合、おそらく誰にも知られることのないままに葬り去られるであろう真実をここに残しておこうと思う。そして、他の誰でもない君にこのテープを贈るのは、君こそ、その隠された真実を知る権利を持つ人間だからだ。クリスターが君だけには決して知られてはならないと恐れている事実をね。僕にとっては、クリスターに対するちょっとした意趣返しくらいにはなるかな…もっとも、僕が投じた一石が君達の間にどんな波紋を作るのか、僕自身は見届けることはできそうもないな。ねえ、レイフ、君も知りたいだろう…? あの日、君の知らない所で実際僕とクリスターの間で何があったのか…』
ジェームズの独特の唄うようなリズムを含んだ声に、レイフはいつの間にか引き込まれてしまっていた。すぐには話の核心に入らない、含みを持たせた言い方に苛立ちながらも、どうしても先を聞きたいという気持ちに駆られてしまう。
『レイフ、どうしてクリスターは君を置いて、危険も顧みず、わざわざ1人で僕に会いにきたのだと思う?』
まるでレイフの心の中でもやもやと形をなさないままにわだかまっている疑念をすくい上げるかのように、ジェームズ・ブラック―既に死んだはずの青年は語り続ける。
『警察に通報することもせず、身を守るための策を全て放棄して、無防備のまま敵の巣窟に飛び込むなんて、あの用心深いクリスターらしくない…自分の弱点である君は安全圏に置きたいという気持ちは確かにあったろうし、ダニエルの無事を一刻も早く確認したい思いもあったろう―しかし、何よりも、彼には、どうしても仲間達の介さない場所で僕と2人だけで話す必要があったからなんだよ』
レイフは、ジェームズの語ることに耳を傾けながら、あの日の記憶を必死になって手繰り寄せていた。
クリスターはレイフを意識不明にしてクラブハウスに閉じ込め、その隙に、ジェームズの館に向かった。やっとの思いで脱出したレイフが、クリスターの後を追い、警察にも通報した、その間に、4、5時間もの時間のロスがある。クリスターがどうしても自分の力でジェームズとの決着を付けようなどと早まった真似をしなければ、事態は別の形で推移したかもしれない。
(もっともオレがクリスターを助けようと警察の協力を求めたって、結局捜査令状は出なかったんだけれどさ。ダニエルを連れて脱出してきたアイザックの証言があって初めて、警察の介入できる余地ができたんだ。するとクリスターは、警察に期待をかけても望み薄だからと、さっさと見切りを付けて、あんな無謀な真似を―?)
レイフは何だかしっくり来ない考えに首を傾げた。確かに、クリスターに限って、焦りや怒りのあまり早まった行動に出てしまうことはない気がする。
その間にも、ジェームズの不安を煽るような語りは続いた。
『クリスターはさっき、僕にこんなことを言ったよ、レイフ。僕とのゲームをもう終わりにしたい、打ち切らせてくれとね。驚いたことに彼は、僕に自分の負けを認めた上で、家族や友人達からは手を引いて欲しいと懇願した。しかも、僕を満足させるために、一方的にゲームを降りた相応の代償は払うというんだよ。そんなことを訴えるために、彼はわざわざ僕のもとに来たわけだ。全く、信じられるかい?』
何がそれほどおかしいのか、ジェームズは堪えきれなくなったかのように吹き出し、声をたてて笑った。
(くそっ、この笑い声、人の神経を逆撫でしやがる。オレに教えたいことがあるなら、さっさと言いやがれっ!)
たまりかねたレイフが、テープを早送りしようと指を伸ばしかけた、その時、ジェームズは一転、真剣味を増した口調で言った。
『クリスターは、あたかも愛する者達を守るために自分が犠牲を払うのだというかのように、僕にこんな交換条件を突きつけた。僕も最初は戸惑ったけれど、彼の意図することはすぐに分かったよ。クリスターも僕と同じ、ある行動を取る際、その目的は1つとはしない…これから君にも、僕とクリスターが交わしたやり取りを聞かせるけれど、果たして君に、クリスターがこんな常軌を逸した提案をした、本当の目的が読み取れるだろうか。物事の表面を単純に捉えることしかできない君には、クリスターの複雑で深遠な考えを汲み取ることは難しいかもしれないね。せっかくだから、ヒントを与えてやるよ。全ては、レイフ、君のためにさ…全く、この僕まで利用しようというんだから、呆れるほどの徹底ぶりだね。だが、僕も―このままでは、結局クリスターの思い通りにしてしまいそうな気がするよ。罠だとは分かっているのに…馬鹿だな、僕も…』
ジェームズらしくない、妙に自嘲的な、どこか諦めたような口調で呟いた後、ぷつりと、テープが途中で切られたようなノイズが入った。
レイフが、ここで終わりかと怪訝そうに身を乗り出しかけた時、これまでのジェームズの独白とは違う、別の人物の声が聞こえてきた。
『…それでも、ジェームズ、僕の負けなんだよ』
クリスターだ。レイフははっと息を飲んだ。
『頼むから、これ以上の無駄な争いをしかけないでくれ…僕達のゲームは終わったんだ』
胸の中の心臓が次第に鼓動を早めていくのを感じながら、レイフは、今テープによって再現されている場面を頭の中に思い描こうとした。
(さっきのジェームズの前置きから察するに…オレを置いていったクリスターが、ジェームズと対面した時だろうか…これ以上身内に犠牲者が出ないよう、あいつはジェームズに闘いをやめさせるため、直接交渉しようとしたんだ。別に少しもおかしな話じゃない。でも…)
レイフは神経を集中して、テープから流れてくる、クリスターとジェームズの会話にひたすら聞き入っている。
『そんな言葉は信じられないな、クリスター…君は僕を欺こうとしているだけじゃないのか?』
『信じてもらうしかないよ、ジェームズ…何なら、君の勝者としての権利を行使してみるかい?』
クリスターの声は、己の身を危険にさらしている人間とはとても思えない、冷静すぎるほどに冷静だった。
『僕は今、君の手の内にある。君はそうしようと思えば、僕を傷つけることも殺すことも好きにできるんだ』
ごく低く柔らかな声に相手の神経に触れる挑発をこめて、ジェームズに働きかけるクリスターはひどく冷酷そうで、何だかレイフの知らない人間が話しているように感じられた。
(やめろよ、クリスター、そんなふうにそいつを煽るな。J・Bの奴は、頭がいかれてるんだから、おまえに何をするか分からない…ああ、くそっ…!)
レイフははらはらしながら2人の会話を聞いていた。自分がクリスターの傍についていたら、きっと黙らせていただろう。現実には阻止できなかった結末を思い、唇を噛み締めた。
『まさか、本気で言っているのか?』
ジェームズが珍しくも動揺している。状況的にはジェームズの方が有利なはずなのに、不思議なことに、このやり取りの主導権を握っているのはクリスターのように感じられる。
『殺されるのは困るけれどね。でも、君の期待に反して一方的にゲームを降りたペナルティは受けるつもりだよ』
レイフは、おやというように首を傾げた。どこかおかしい。クリスターの主導でなされる、この会話自体ひどく芝居がかって、不自然な気がする。
他人めいて響く兄の声に耳を傾けるレイフの眉間には、いつの間にか深いしわが刻まれていた。
『僕の最大の楽しみを勝手に奪っておいて、それに見合う代償だなんて、そう簡単に見つかるとは思えないけれど?』
ジェームズにもクリスターの誘導に自分が乗せられていることは分かっているのか、言い返す口調はどこか腹立たしげだ。
『そうでもないさ、君の気持ちなら、僕はちゃんと見通せるからね。僕が差し出すのは、君が僕から奪うことで、ある程度満足できるものだよ―この条件で僕を取り巻く全てから手を引いてほしい。僕の未来を君に潰させてやる』
『君の未来?』
不思議そうに問い返すジェームズがいっそ無邪気に感じられるほど、クリスターの言葉は賢しく、悪辣だった。
『ああ、そうさ…君も知っているだろう、僕が幼い頃からずっと弟と一緒に追っていた夢…フットボール・プレイヤーとしての僕の命とも言える、この右腕を君にやるよ、ジェームズ』
何の躊躇いもなく無造作に投げ出された提案に、ジェームズはすぐには答えなかった。
『どうだい、命以外のもので僕が君に支払うことのできる、最大の代償だと思うけれどね? どうせ君は、僕をただ殺してしまうだけでは満足できないだろう…むしろ、僕から最も大切なものを奪った上で尚も生かしておきたいはずだ。君の手から離れても、僕が一生君を忘れることなどできないように…』
ジェームズはさぞかし困惑しただろうが、これは悪い冗談ではなく本気なのだということを相手に執拗に理解させようとする、クリスターが何を考えているかなど、レイフにも全く分からなかった。
『僕との縁を断ち切るために、君の腕を引き換えにすると…? 二度と以前のようにプレイできなくなって、もちろん将来プロになるという夢も断たれ―確かに、僕はこの手で君に一生消えない深い傷をつけることができるというわけだ。だが、クリスター、君は―一体どういうつもりで、そんな…?』
ジェームズの声が低くなり、ふっと途切れる。深い沈思黙考に沈みこみ、クリスターの真意を解き明かそうとしている、怪物の密やかな吐息まで感じられるようだ。テープによって再現された場面に漲る緊張感に耐え切れず、レイフは思わず喘いだ。
『ああ、君の考えが読めたよ、クリスター…なるほど、そういうことか…!』
突然、ジェームズの毒々しい含み笑いが発せられたのに、レイフはぎくりとなった。
『全くろくでもないことを思いつくね、君は―自分の目的を果たすために、この僕まで利用しようとはね! そして、そんな身勝手な頼みごとを僕に面と向かってするとは、呆れるのを通り越して感服するよ』
ジェームズの耳障りなくすくす笑いがしばらく続いた後、クリスターの少しも動じない鋼のような声が覆いかぶさるように言った。
『だが、君にとってもこれは悪い話ではない…そうだろう、ジェームズ?』
ジェームズは再び黙り込んだ。
『君の提案を僕が素直に受け入れるなどと、本気で思っているのかい?』
『さあ、どうかな…だが、少なくとも君は今迷っているように見えるよ?』
『クリスター…』
ジェームズの喉に絡んだような呼びかけを最後に、テープは唐突に終わった。
レイフは、椅子に坐ったまま、スイッチの切られたカセット・デッキを凝然と眺めていた。
「えっ…」
レイフの手がのろのろと上がり、赤い髪をくしゃりと掴んで、かき回した。
「え…えっ…何だよ、これ…? て、おい、これで終わりなのかよ、ジェームズ…何がなんだか、さっぱり訳が分からないぜ」
今聞いたやり取りを思い返して反芻しているうちに、混乱の極みに達したレイフは、椅子から跳ね起きるようにしてカセット・デッキに掴みかかり、荒っぽくテープを巻き戻した。
(果たして君に、クリスターがこんな常軌を逸した提案をした、本当の目的が読み取れるだろうか)
テープの前半に入っていたジェームズの意味深な言葉が、レイフの熱くなった脳裏に蘇る。
(一体、どういうことなんだよっ…クリスターの言ってること、全然意味が分からねぇ…! ジェームズの奴に自分の右腕をやるって…そんな馬鹿なこと、あいつが自分から言ったのか?! 何でそんな…嘘だ、信じられねぇよ)
レイフの震える指が再びテープをオンにする。
『…しかないよ、ジェームズ…何なら、君の勝者としての権利を行使してみるかい?』
レイフはもう一度問題の部分を最後まで聞き、それが終わると、またテープを巻き戻した。
『…この条件で僕を取り巻く全てから手を引いてほしい。僕の未来を君に潰させてやる』
終わったら、すぐに巻き戻して聞きなおすことをレイフは何度も繰り返した。執拗なほど、何度も何度も―。語られる言葉の表面だけでなく、その裏に隠された、クリスターが意図する本当の目的は何なのか、彼は懸命に探り続けた。
(…せっかくだから、ヒントを与えてやるよ。全ては、レイフ、君のためにさ…)
ジェームズの揶揄するような声が頭の中に鳴り響き、レイフを一層激しく揺さぶる。
(オレのため…? 何で、こんなことがオレのためなんだ…自分の腕とオレの安全を取り引きしたってことか…? いや、違う、そんな単純なことじゃない…あいつが自分の選手生命と引き換えにしてまで果たそうとした目的は…?)
考えれば考えるほど、レイフは次第に気分が悪くなってきた。当時の状況を鮮明に思いだすにつれ、見えてきた真実を受け入れることを、レイフの感情は頑なに拒否しようとする。
(ああ、そうだ、あの事件の直前にオレ、クリスターと大喧嘩したんだ。シュミットさんがクリスターをスカウトに来て…あいつ、自分がオレを差し置いてチャンスを掴んだことで、ひどく腹を立て、取り乱してた―オレを殴りつけて説教しただけでは飽き足らず、コーチにまで抗議しにいってさ…)
レイフの胸の中で、その心臓はどくどくと激しく打ち鳴らされている。
(コーチもひどく心配したくらい、あの時のクリスターは言ってることもやることもおかしかった。オレもあいつがひどい勘違いをしているんじゃないかと恐くなって…自分が足かせになっているせいで、オレがいつまでも伸びないんだとか、だから、フットボールをやめるんだとか―)
突然、頭の中に閃いた考えに、レイフは慄いたかのように目を見開き、何度も瞬きした。
(あいつは、オレにはフットボールでいつか成功して欲しいと願っていた。カレッジ・チームで活躍することも、プロになることも、オレが本気になれば可能なはずだと、例え周りの評価がどうであれ、あいつだけはずっと信じていた…なかなかスランプを脱することができず、自信も持てないオレをどうにかして奮い立たせようとしてきた。高校最後のシーズンは、オレに残された唯一のチャンスだったから、あいつはあんなにも焦っていたんだ)
レイフは己の体に両腕を巻きつけ、ぶるりと身を震わせた。
(だから…なのか…? オレが本当の本気になるためには、邪魔だと思ったから…だから、消し去ろうとした…?)
レイフの将来に影を落とす、邪魔なものは取り除く。あの当時のクリスターにとって、その1つは紛れもなくジェームズ・ブラックであり、そしてもう1つ、おそらく彼自身でもあったのではないか。
(そうだよ、レイフ、全ては、君のために、クリスターが仕組んだ計略なのさ)
ジェームズが生きていたら、きっとそう言って、どうしても信じたくないレイフの葛藤を嘲笑ったことだろう。
(まさか、そんな―いくらあいつでも、そこまでするものか、そんな酷いこと…)
レイフはぜんまい仕掛けの人形のようなぎこちなさでテープをもう一度巻き戻して、最初から最後まで聞いた。
どんなに否定したくても、信じたくなくても、クリスターがあの日、レイフが見ていない所で何をしたのか、その証拠は歴然として残っている。
一縷の希望さえ打ち砕くような、確信犯的な冷たさで響く兄の声に耳を傾けるうち、初めは混乱だけに満たされていたレイフの顔に、次第に圧倒的な空しさが広がっていった。
くっと、レイフの喉が鳴って、まるで自らを哀れむような短い苦笑が漏れた。
(ああ、オレ、またしてもクリスターに騙されてたってことなのか…ほんとに何度も何度も凝りねぇよな)
クリスターの言葉や行動の、一体どこからどこまでが本当で、嘘なのか―レイフには、本当にもう分からなくなった。いや、これまでだって、真実理解したためしなどなかったのかもしれない。
(おまえはオレを愛している…何度欺かれても、一番大切なそのことではおまえは嘘をつかないって分かってたから、オレは今まで我慢できた。ああ、でもさ、クリスター、愛してさえいれば、他には何をしたって許されると思うのか…? どんなひどい仕打ちでもオレが認め、受け入れると…? いいや、今度ばかりはやりすぎだよ、クリスター)
テープが切れた後、レイフはがっくりと頭を垂れて椅子に坐ったまま、微動だにしなかった。
その暗く虚ろな顔は、いつの間にか目からあふれ出した涙で濡れていた。明るく屈託のない普段のレイフを知る者がその姿を見たら、別人のようだと思うに違いない。彼は深く傷ついていた。
いきなり、レイフは机の上においていたカセットデッキを手で荒々しく払いのけた。
音をたてて床に落ちたデッキから、反動でテープが飛び出す。
怒りの発作に身を震わせながら、レイフは両手で頭を抱え込み、食い縛った歯の間から深い恨みのこもった言葉を押し出した。
「裏切り者…!」