ある双子兄弟の異常な日常 第三部


第6章 最後の闘争

SCENE13


 レイフの合図で、トムが配電盤のブレーカーを一気に下ろした途端、周囲は真っ暗闇になった。

 拳銃を手に廊下の向こうからやってきた強面の男達は、視界を奪われた瞬間、立ちすくんで、何事かと動揺した声をあげた。

 いくら銃の扱いに慣れていても、的が見えなければどうしようもない。 

 灯りを消した小部屋に隠れて、予め暗闇に充分目を慣らしながら、彼らが近づくのを待ち受けていたレイフは、そこですかさず飛び出した。

(ヤマダ先生、ごめんなさい!)

 小さい頃から世話になっている道場の師匠に心の中で一言詫びて、後は、電光石火、暗闇の中で右往左往していた男達に掴みかかり、柔道の大技をかけて、1人、2人と確実に打ち倒していった。

 うおっとか、ぐっという叫びや悲鳴がそこかしこであがり、それと共に何か重いものが床に叩きつけられる音が響いたのは、時間にしてほんの10秒程度だったろうか。

 ことがすむまで、配電盤のあった物置代わりの小部屋の中に息を殺して潜んでいたトムは、レイフが無遠慮にドアを開けた途端、文字通り飛び上がった。

「あ、ごめん、驚かせちまったな」

 大立ち回りを演じながらも無傷なレイフが現われて、すまなげに笑いかけるのに、トムはほっと胸を撫で下ろした。

「あの警備員達は全員片付けたのか?」

「うん。銃は恐いけど、それが使えないんだったら、マフィアだろうが何だろうが、オレの敵じゃないぜ」

 ちょっと得意げに胸を張るレイフをトムは頼もしげに見上げた。

「おまえが、こんなに喧嘩というか戦闘向きだとは夢にも思わなかったよ…度胸があるだけじゃなくて、何かと機転が利くし、追い詰められても色んな知恵を出して切り抜けるしさ」

「まあ、火事場の馬鹿力みたいなものだよな。とにかくクリスターを助けたい一心だから、オレ…」

 ふと遠い目になるレイフだったが、すぐに我に返って、神妙な面持ちのトムに頷きかけた。

 2人は屋敷の中の捜索を再開した。

 廊下には、例の火災現場から流れてきたものだろう、薄い煙が漂ってきている。消火活動はされているのだろうが、あの火柱の大きさから考えて、そう簡単に消し止められるものか少々怪しい。

「クリスターが閉じ込められているっていう地下室へは、ここからどうやって行くのか、分かるか?」

 灯りの落ちたままの廊下を早足で歩きながら、トムが問うてくる。ここに侵入してすぐに鉢合わせした、ジェームズの配下の1人をぶん殴って白状させた情報だった。

「ああ、オレも昔はこの屋敷には入りびたりだったからな…地下に幾つか部屋があるんだけど、そのうちの1つを、ジェームズの仲間達は制裁というか、リンチというか、他人に暴行するのに使っていたよ…。オレもジェームズに意地悪されて、ちょこっと閉じ込められたこともあったかなぁ」

 嫌なことを思い出して、胸がむかつくのを覚えながら呟いた、その時、レイフは、いきなり重いものを振り下ろされたかのように激痛を右肩に覚えて、よろめいた。

「レイフ?!」

 肩を押さえてとっさに壁に寄りかかるレイフに、トムが顔色を変えて駆け寄る。

「どうしたんだよ?」

 レイフは真っ青になっていた。あまりの衝撃に、しばし息をすることもできなかった。

「あ…」

 レイフは、体をぎゅっと縮めたまま、苦しげに喘いだ。

(おかしい。肩が、腕が思うように動かない。痛い。痛い…)

 肩を引き裂かれるかと思った感覚は、そのうち嘘のように引いていったが、レイフを襲った恐慌は収まらなかった。

 心臓の鼓動は速くなり、汗がどっと噴出す。

(な、何だったんだ、今の…? まさか―)

 真っ白になっていたレイフの頭の中に、瞬間、何かが閃いた。

「クリスター…?」

 レイフは呆然と顔を上げ、何もない虚空を見据えた。慄いたよう見開かれた、琥珀色の瞳の中心にある瞳孔は、とてつもない怒りに駆られたかのように、ぐっと収縮している。

「クリスター!」

 レイフは吼えた。

 トムが、取り乱すレイフを宥めようと声をかけてくるが、親友の気遣いに満ちた言葉も、今のレイフの耳には入ってこなかった。

 金色の瞳を爛々と燃やしながら、レイフは歯軋りをした。

「あいつら、クリスターに一体何をしやがった!」

 我が身を束の間圧し拉いだ恐怖を凌駕する、迸るような激情に突き動かされて、レイフは兄のもとへと走り出した。




「うっ…ああ…っ!」

 クリスターは右肩を押さえ、床に這いつくばったまま、激しい痛みに体を震わせている。

 その口から堪えきれない声が搾り出されるのに、ジェームズは放心したまま耳を傾けていた。あれほどの感情を迸らせた記憶など、これまでほとんど―それこそ、メアリを殺した時以来なかったことなので、力尽き、すっかり空っぽになってしまったような気分だった。

「関節が外れたか…もしかしたら骨も砕けたかも知れないね。元通りに動かせるようになればいいけれど―」

 精神にかつてないほどの負荷がかかったためか、ひどい疲れを覚えながら、ジェームズは乾いた声で言った。

 心ばかりか肉体の方もぼろぼろだという点では、今のクリスターと自分とどちらがよりひどい有様なのか、ジェームズにはとっさに判断がつきかねた。

 すぐ傍でか細い啜り泣きが聞こえたので、ゆっくりと振り返ると、ダミアンが大粒の涙をこぼしていた。

「どうしておまえが泣くんだ…?」

 うろんそうにジェームズは尋ねたが、ダミアンはしゃくりあげながら頭を左右に振るばかりだ。

 自分がいなくなった後、この子は一体どうなるのだろう。これまで取り立てて関心を覚えなかったことを、ジェームズはふいに意識した。

「たぶん、僕はおまえを一緒に連れて行ってやるべきなんだろうな。ごめんよ、ダミアン…そこまでする余裕がないんだ」

 手駒に過ぎない相手になぜそんな言葉をかけたのか、自分の言動を怪しみながら、ジェームズはダミアンの白い髪をひと撫ですると、クリスターの方に向き直った。

 ちらりと視線を床に落とし、そこに散らばっているアンプルと注射器を眺めやった。

「フレイ、すまないけれど、手伝ってくれ」

 ジェームズは、クリスターの後ろで石と化したかのように立ち尽くしていた巨漢に呼びかける。

 フレイはすぐに我に返って、ジェームズのもとに駆け寄り、膝をついた。ジェームズを見下ろす彼の目は痛々しげだった。

 ジェームズは、この忠実な男に何か声をかけようと口を開きかけたが、結局黙って微笑みかけることしかもうできなかった。

 ジェームズはフレイの手を借りて、自由にならない体をどうにか動かし、床に落ちていた薬品と注射器を拾い集めながら、クリスターににじり寄っていった。

「クリスター」

 はっとなって顔を上げたクリスターに、ジェームズは手を伸ばした。ふいにバランスを崩して、そのまま彼の上に倒れ掛かった。

「うあっ…」

 壊された肩に響いたのか、仰向けにジェームズに押し倒される格好になったクリスターの口から、引きつった苦鳴が漏れる。

 脂汗のうかんだクリスターの顔を、ジェームズは上から覗き込んだ。

 警戒心にはりつめた、その表情から察するに、体の自由はまだきかないが、精神ははっきりしているようだ。痛みのせいか、それとも薬を早く解毒してしまう体質なのか。

 ジェームズはクリスターの額に浮かんだ汗を指先で優しくぬぐいながら、囁きかけた。

「僕を殺してくれ」

 クリスターの目があからさまに冷たくなったのを確認し、ジェームズはくすりと笑った。

「分かっているよ、僕をどれほど憎んでも、君は僕を殺しはしない。その手を汚すことで家族に迷惑はかけたくない、もっとありていに言ってしまえば、レイフに犯罪者の身内だなんてレッテルを貼られて、その将来にまで影響が及んでしまうのは、君が最も避けたい事態の1つだからだ」

 ジェームズはクリスターの無事な方の腕をさすりながら、静かに語りかけた。

「他にも君には多くの制約があったのに、それらを巧妙に避けて、僕をここまで追いこんだ。守るべき者を持たない僕は君より優位にあったはずなのに…大したものだと素直に賞賛するべきなのかな」

 ジェームズはクリスターの胸の上に頭を置いて、目を閉じた。

 クリスターの力強い心臓の鼓動、その高い体温が伝わってくる。若く、迸るような生命力がはっきりと感じられる。ジェームズがいなくなった後も、彼はずっと生き続けるのだろう。

 このままここで眠り込んでしまったらきっと心地いいだろうと思ったが、ジェームズはそうはしなかった。どうせ、じきに永い眠りが訪れるのだから、今は這いつくばってでも現実にとどまり、何かを成し遂げたい。

「もうじき、レイフがここに来そうだな」

 ジェームズがぽつりと呟いた途端、クリスターの胸が戦慄くように大きく上下した。

 ジェームズは、クリスターには見えない所で注射器とアンプルを持つ手を動かし、彼が自分の言葉に気を取られている隙に、その腕に素早く針を埋めた。

「ジェームズ…!」

 クリスターに力いっぱい押しのけられて、ジェームズは易々と床に転がった。

 クリスターは怒気をはらんだ目をして起き上がろうとするが、いきなり膝が砕けて、再び倒れこんでしまう。

 ジェームズはそれを見て、満足そうに笑った。

「君にはしばらくおとなしくしてもらうよ、クリスター。今度は絶対動けない量の薬を投与しておくからね」

 更に新しいアンプルから薬液を吸い上げ、ジェームズはクリスターの腕に突き刺した。

「この期に及んで、一体何をするつもりだ…?」

 薬液が自分の中に注入されていくのを呆然と見ながら、クリスターは恐れの滲んだ声で問いかけてくる。

「大したことじゃないよ、クリスター…どのみち闘いの勝者は君だ。ただ僕としては、君の書いたシナリオ通りにこのまま動いてやるのも癪だから、ささやかな変更を最後に書き加えてやろうかなと思いついたんだ。まあ、どんなラストシーンになるのか、黙って見ておいでよ」

 更にもう1本、クリスターに薬液を投与し終えると、ジェームズは彼の顔を両手で挟みこんで、切々と囁きかけた。

「愛しているよ、クリスター。叶うならば、君とずっと一緒にいたかった。けれど、僕にはもうほんの僅かな時間しか残されていない。君を手に入れることができないのなら、せめて―僕が死んでも、忘れないで欲しい」

 大量の麻薬を投与されて早くも朦朧と霞んできた琥珀色の双眸に己の目を近づけて、まるで愛の告白のように、ジェームズは告げた。

「君の胸に深く刻み込まれて一生消えることのない傷跡に、僕はなりたい」

 外の廊下の方から、見張り達がどよめきたつ声が聞こえた。

 涙の収まらないダミアンが怯えたように扉を振り返り、黙って動いたフレイが扉の前に敢然として立った。

「やっと、たどり着いたようだね」

 一瞬、クリスターの手が狂おしくジェームズの腕を掴み、そして力を失って滑り落ちた。

 浮き足立ったような若者達の怒号、人と人が争い合う物音、叫び声が続けてあがり、そして静かになった。

 ダンと、何者かが扉を外から打ち付ける音が部屋に響いた、次の瞬間、それは勢いよく開け放たれた。

 ジェームズは前後不覚に陥ったクリスターの頭を撫でていた手をとめ、顔を上げた。

 開いた扉の所には、鮮血のような紅い髪をした長身の男が、肩を怒らせて立っていた。

「やあ、久しぶりだね、レイフ」

 ジェームズは楽しげにまなじりを下げながら、呼びかけた。

「残念だけれど、君がここに来るのは、少しばかり遅かったようだよ」




 無我夢中で、ひたすら走ってきた。

 どうやってここまでたどり着いたのか、レイフはよく覚えていない。

 背後には人のうめき声がいくつもあがっているが、自分が彼らを叩きのめしたこともほとんど記憶に残っていない。

「クリスター」

 重たい鉄の扉を恐れ気もなく開いた後、レイフは数瞬の間、そこに立ち尽くした。

 不安定な感情が明滅する瞳を動かし、他の一切を避けて、その人の姿のみを探す。

 すると、部屋の奥の方に、ぐったりと横たわっているクリスターを見つけた。顔や体のあちこちに殴打の痕が残っている。目は開いているが何も映し出してはおらず、こちらに向けられた顔はうつろだった。

「兄さん…?」

 レイフは喘ぐように息をして、とっさに自分の右肩を押さえた。そこは、まだ少し熱を持っていた。

「やっぱり、伝わったんだね…」

 やけに冷静な声のした方をほとんど反射的に見やると、クリスターの傍らに座り込んでいた金髪の青年が、レイフに意味深長な言葉を投げかけてきた。

「そんな、どうでもいい感覚よりも、もっと大切な想いが互いに伝わればよかったのに―いや、本当に大切なことは、やはり言葉でこそ伝え合わなければならなかったのかな」

 あれは誰だ。そうだ、J・Bことジェームズ・ブラックだ。レイフの記憶にあるよりも随分線が細くなっているが、人の心の隙間に入り込んでこようとする嫌な響きの声は変わっていない。

「クリスターに…何をした…?」

 レイフは自分の中で何か危険なエネルギーが蓄積されていき、それが体の外にじわじわと染み出して、皮膚が電気を帯びたようにピリピリしだすのを覚えていた。

「何をした?!」

 レイフの怒号を聞きながら、ジェームズは猫のように怪しく目を細めた。血の滲んだ唇には、あからさまな嘲笑がうかんでいる。

「だから、君は一足遅かったんだよ、レイフ。僕はクリスターを壊してしまった」

 レイフの頭の中が真っ白になった。

(クリスターを…壊した…?)

 レイフは、もう一度、確認することが恐いというようにゆっくりと、倒れているクリスターの上に視線を戻した。

 不自然に捻じ曲げられたクリスターの右腕。

(あ…)

 束の間の空白の後、これまで感じたことのない強烈な破壊衝動が突き上げてき、レイフの体を隅々まで満たしていく。

 薄い笑いを貼り付けたジェームズの顔に、幽かな動揺がよぎった。

 レイフのすっと細められた双眸の奥に灯った、冷酷で情け容赦のない輝きは、その兄のものにひどく似通っていた。

 危険を察知したフレイが、レイフとジェームズの間に割り込み、逞しい腕を伸ばして彼に飛び掛ってくる。 

 レイフは敵の顔を見もしなかった。反射的に体を低めて、素早くフレイの腕を捕まえるや、見事な背負い投げをかけた。

「ぐあっ!」

 背中からコンクリートの床に叩きつけられたフレイは思わず声をあげたが、レイフはまだ許さなかった。捕らえたままの彼の腕を捻り、そのまま一気にへし折ってしまう。

 フレイの口からあがった絶叫に反応したのか、クリスターの頬が微かに震えた。彼の黒ずんだ瞳には、歯を剥いて唸りながらこちらにじりじりと近づいてくる、レイフの凄惨な姿が映し出されている。

「J・B、よくも―てめえだけは、許さねぇ!」

 鬼の形相をしたレイフに、今度はダミアンが手にしたナイフを突き出し襲い掛かったが、これも簡単に振り払われた。

「きゃあっ」

 か細い少年は壁に体を打ち付けられて、ぐったりしてしまう。

「許さないって―どうするつもり?」

 ジェームズは、自分を守る忠実な部下が2人とも叩きのめされても、顔色1つ変えなかった。いかにも無邪気に小首を傾げて問いかけながら、クリスターの頭を愛しげに撫でた。

 瞬間的に、レイフは飛び出した。クリスターに触れているジェームズの手を掴んで、その体を引きずり上げ、無造作に床に投げ出した。

「乱暴だな」

 自分のすぐ前で、拳を震わせながら仁王立ちになっているレイフを恐れ気もなく見上げると、ジェームズは何の迷いもなく言い放った。

「大体、僕には君に許しを請うことなど何もないよ。ああ、実際クリスターの肩が二度と使い物にならなくなったとしても、その件については、僕は全くすまないとは思わないな」

「何だと?」

 レイフのこめかみの辺りに、太い血管がぴくりと浮き出す。

「自分の失敗を棚に上げて、僕ばかりを責めるのかい、レイフ。クリスターをこんな危険な場所に1人で来させてさ、おまけに助けに来るにも遅すぎた…大方、役立たずの警察なんかに頼んだせいで時間を浪費したんだろう、このグズ」

 レイフの顔がはっと強張るのを認め、ジェームズは堪えきれなくなったかのように、ぷっと吹き出した。

「全く、何て正直な…」

 レイフは血走った目でジェームズを睨んだ。

「この野郎!」

 喉をのけぞらせて笑い出すジェームズに、レイフは掴みかかった。胸倉を締め上げ、拳を振り上げる。

 ふいに、ジェームズは笑うのをやめて、真顔になった。

「レイフ、素直で可愛い君のために、ひとつ忠告しておいてやるよ。クリスターを信じるな」

 レイフはかっとなって、ジェームズを殴った。何度も何度も殴りつけた。

 ジェームズは抵抗の素振りも見せず、レイフの暴力に身をさらしている。唇が裂け、鼻から血が出ても、殴打の合間に語る言葉は、ひどく冷静だった。

「忘れるな、そいつは裏切り者だ」

 この忌々しい悪魔を黙らせようとするかのごとく、レイフはジェームズの首に手をかける。

「黙れ」

 レイフは呪いのように呟きながら、ジェームズの首を締め上げにかかった。

 瞬く間にジェームズの白い顔は朱の色に染まり、ほとんど無意識に上がった指が、喉に食い込むレイフの手を外そうと引っかく。

「もう我慢ならない、おまえはオレが殺す…クリスターにこれ以上付きまとうな…!」

 まるで頭蓋の中で脳がぐつぐつと沸騰しているかのようだった。

 生まれて初めて覚える殺意に突き動かされるがまま、レイフはジェームズの首を更に強く締め続ける。

 そのうち、ジェームズの喉がごろごろと異様な音をたてだした。

 殺せ殺せ殺せ―レイフの中で目覚めた狂暴な怪物が叫びたてている。

 この瞬間、レイフはジェームズを消し去ろうという衝動以外の一切を忘れ果てた。

 すぐ傍で、全ての力を失って横たわっているクリスターが、殺人者になろうとしている弟を見守りながら、声にならない声をあげて、必死にとめようとしていることにも気付かなかった。

 そう、クリスターは全てを見ていた。起き上がることはおろか、声を発することもできなかったが、ジェームズが最後に仕掛けた、この悪夢のような展開を何としても阻止しようとしていた。

 レイフ。

 その手の指先が小さく動いて、床を打った。コツコツ。

 ごく小さな指の動きなど、この凄絶な場面に居合わせた者は誰も気付いていなかった。

 それにも拘らず、クリスターの指は動いた。コツコツ。

 コツコツ。荒れ狂うレイフの心の扉をノックするように、辛抱強く。

 コツコツ…レイフ、頼む…やめるんだ…コツコツ…。

 純粋な殺人衝動に支配されていたレイフの中に、何かがするりと入り込んできて、麻痺していた心に触れた。

 レイフはぶるっと身震いした。何度も目を瞬いた。

「クリスター…?」

 彼に呼ばれたような気がして、レイフはそちらを振り向く。

 クリスターの様子にほとんど変化は見られなかったが、その時レイフは、大きく見開かれた兄の瞳に映っている、今の自分の姿に気がついた。

(あれは何だ…オレなのか…?)

 人一人の命をその手で奪おうとしている、恐ろしく残忍で邪悪な怪物を、クリスターは見ていた。

 その事実に、瞋恚の炎に満たされていたレイフの胸は、一気に冷えた。

 レイフを正確に映し出す、もう1人のレイフがそこにいる。

 その瞳に宿る自分が、こんな恐ろしい者であっていいはずがない。

 コツコツ。クリスターの指は尚も動き続けている。

 こんなひどい有様になっても、彼は、その指先を小さく動かして床を叩きながら、身を落とすな、怪物になどなるなと、必死になって訴えているのだ。

「そんな目で見ないでくれ…とめないでくれよ、クリスター…」

 ジェームズを殺したいという願望はまだレイフを突き動かしている。しかし、その顔には次第に、本来のレイフらしい表情が蘇ってきた。

「どうしても、こいつだけは…オレの手で…」 

 レイフはくしゃっと顔を歪めた。目から熱い涙が溢れ出し、クリスターの顔もぼやけて見えなくなった。

 レイフ、レイフ…クリスターの声が聞こえてくる。自分をなだめるように抱きしめる、温かなものを確かに感じる。

 レイフは、唐突にジェームズから手を離した。

 力を失ったジェームズの体は無造作に床に崩れ落ちる。

「くそっ!」

 レイフは流れる涙をぬぐおうともせずに、足元に倒れているジェームズを見下ろした。その呼吸がとまりかけているのに気付いたレイフは、憎々しげに舌打ちしながらも、どすんと体重ごとその胸に腕を打ち下ろした。

 すると、ジェームズはうっと叫んで息を吹き返し、身を2つに折って、激しく咳き込んだ。

 レイフが冷ややかに見守っていると、ようやく落ち着いたジェームズは、訝しげに顔を上げた。

「何だ、僕を殺すんじゃなかったのかい?」 

 喉を傷めたのか、ジェームズの声は、老人のようにしわがれていた。

「オレはおまえを殺さない。誰が、おまえの思い通りになどしてやるものかっ」

 レイフが獰猛に歯を剥いて威嚇すると、ジェームズは心底残念そうに肩を落とした。

「惜しいところだったのに…」

 ジェームズが口惜しげにクリスターを眺めやる。

 その視線からクリスターを隠すように、レイフは兄の傍に跪いた。

「兄さん…」

 レイフが恐る恐る頬に触れても、クリスターは何も答えなかった。ただ、その瞼がゆるゆると下りていって、心配そうなレイフの顔を映し出す琥珀色の瞳を覆った。ついに力尽きたのか、それとも安堵したためか。

 床に落ちている注射器と空になったアンプルに目を留めて、レイフは眉をしかめた。

「おい、クリスターに一体何を注射したんだ?」

 レイフが焦りつつ後ろを振り返ると、ダミアンに助け起こされたジェームズが疲労困憊の態で答えた。

「LSDだよ。ああ、クリスターを助けたいなら、早く病院に運んだ方がいいかもしれないね…思ったような効果が出ないものだから、常人なら中毒を起こしかねないほどの薬液を投与してしまったから―」

「な、何だって?!」

 たちまち顔を強張らせ、クリスターの体に取りすがり、その名を呼ぶレイフを、ジェームズはつくづくと眺めた。

 彼らを通して一体何を見つめているのか、焦がれるような熱を帯びた、奇妙な表情をしていた。

「それほどクリスターが大切なら―レイフ、これから先何が起こっても、彼から離れないことだよ。他の全てを犠牲にしても死ぬまで相棒の手を離すな…周り中から拒絶されても、独りきりでこの広い世界を彷徨うよりは、よほど幸せになれるだろう」

 レイフは憤然とジェームズを睨みつけるが、こちらに向けられた白い顔にあの毒を含んだ嘲笑はなく、代わりに、切なげな淡い微笑が漂っていることに虚を突かれた。

「ジェームズ…?」

 レイフは思わず、彼の名前を呼んでいた。そう言えば、J・Bではなく、ファースト・ネームで彼に呼びかけたことなど、これまでほとんどなかった。

 今のジェームズはひどく弱々しくて、調子が狂うのだろうか。もはや怪物じみた所はなく、やけに人間臭く感じられる。

 ジェームズは、ひっそりと鼻をすすっているダミアンに何事か囁きかけ、レイフにへし折られた腕を押さえながらよろよろと近づいてきたフレイに手を差し伸べた。

 その時、どこからともなく近づいてくるサイレンの音に、レイフは気がついた。そして、開いたままの扉から流れ込んでくる煙に軽くむせる。結局火災は食い止められず、誰かが消防を呼んだのだろうか。

「いや、あれは多分パトカーだろうね」

 まるでレイフの心を読んだかのように、ジェームズは答えた。そうして、傍らに跪くフレイの腕に身を預けながら、静かに目を閉じた。

「クリスターを早く連れて行け、レイフ…意識不明とはいえ、彼の前で警察ごときに一度ならず二度までも捕まるのは、僕にも抵抗があるからね」

 レイフはクリスターを用心深く抱き起こし、背中に背負った。さすがに、自分とほとんど変わらない体格の兄を軽々と抱き上げるというわけにはいかなかった。

「おおい、レイフ、レイフ、そこにいるのかっ?!」

 必死に自分を呼ぶトムの声が、近づいてきた。途中ではぐれたが、レイフの後を一生懸命に追いかけて、ここまでやってきたのだろう。

 レイフは何だかほっとしながら、叫び返した。

「オレは無事だ、トム。今からクリスターを連れて、そっちに行く」

 そうしてレイフは、このぞっとする地下室から出て行こうと歩きかけた。しかし、つい気になって、観念したようにじっとうずくまったまま動かないジェームズ達を見下ろし、疑わしげに尋ねた。

「おい、まさか、とっ捕まるのが嫌だからって、馬鹿な真似しようなんて考えちゃいないだろうな?」

 するとジェームズはぱっちりと目を開けて、呆れたように眉をはねあげると、幾分彼らしさを取り戻した皮肉っぽい口調で言い返した。

「この僕が自殺でもするって言うのかい? よしてくれ、そんな無意味な真似はしないよ」

 似たような会話をどこかで交わしたことがあるなと嫌な気分になったレイフは、思わず顔をしかめ、慌ててジェームズから離れた。

 その背にひたと注がれる、哀切な眼差し。

「さよなら、レイフ」

 …クリスター。

 ジェームズの寂しげな声にこもった別の響きを感じながら、レイフは、ようやく奪還した相棒と共に地上を目指した。




 その後間もなく到着した警察によって、ブラック邸は麻薬の不法所持及び売買に関わったとして強制捜索された。

 その過程で、彼らはすぐに屋敷内で一体の死体を発見する。ジェームズの父親のゴードン・ブラックだった。一部で囁かれていた噂どおり、既に死去したいたわけだ。

 死後一月以上が経過した遺体は半ば腐乱していたが、特に目立った損傷はなく、病死か殺人か判断するのに、更なる時間を要した。

 だが、続いて、敷地内の詳しい捜索の末に見つかった、更に二体の死体―行方不明のエバ・ハミルトンとその情婦だ―によって、ジェームズ・ブラックとその仲間が関わった犯罪は確かなものとなった。

 地下室に潜んでいた所を発見されたジェームズは、彼の仲間達と共にその場で拘束され、後に殺人容疑で正式に逮捕された。

 もっとも、起訴されるより前に、もとから重病を患っていたジェームズは急に体調を悪化させて病院に収容され、そこから再び外に出ることは二度となかったのだが、それはまた別の話となる。


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