ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第6章 最後の闘争

SCENE8

 レイフは焦りのこもった眼差しを、森林の上に広がる、今まさに暮れていこうとしている遠い空に向かって投げかけた。

(全く、何だってこんなに夜になるのが遅いんだ。これが冬場ならとうに真っ暗になっているだろうに…)

 レイフ達は今、屋敷の業務用のゲートを見下ろせる、道路から少し離れた場所にある丘の上に待機していた。

 彼らが乗って来た車は、ここからは見えるが、私道の目立たない場所に停車させて、何かあればすぐに戻れるようにしている。

 さっきから落ちつかなげにうろうろしながら日が暮れるのを待っているレイフの傍には、トムがいて、気を紛らわせようと何かと声をかけてくれるが、親友との会話ももはや彼の焦燥感を和らげてはくれない。

 ウォルターは屋敷の周囲をぐるりと偵察に回って、今戻ってきたところだ。

 レイフは腕時計を確かめた。

(管理業者達はとっくに仕事を終えて帰っていったし、警備員の勤務時間もそろそろ終わる頃だろう…)

 レイフはじりじりしながら、ケンパー警部の到着を待っていたが、我慢もそろそろ限界に達しつつある。

 ここに戻ってから、警察には何度か確認の電話を入れてみたが、その時点では捜査令状はまだ下りていなかった。

(結構時間のかかるものなんだな…ただの紙切れ一枚じゃねぇか、さっさと出してくれりゃいいのにさ。世話になっておいて言うのもなんだけど、あんたらの仕事、遅いぜ、ケンパー警部)

 レイフがまた西の空を恨みがましそうな目で振り返った時、下の業務用のゲートの方から車のエンジン音が聞こえてきた。

 見ると、大きなバンが5台もやってきて、先頭の車両から降りてきた屈強な男が、ゲートで待機していた警備員に何やら確認を取ってもらっている。

(誰だ、あいつら?)

 レイフはウォルターに借りた双眼鏡で彼らを観察した。

 ゲートの警備員と話している男も、その他のバンの窓から顔を出している連中も何だか雰囲気が普通ではない。柄が悪いというよりも、独特の物騒な凄みがある。

「昼間は堅気の警備会社が敷地内の警備を取り仕切っているが、夜間は別の連中が交代でやってくるんだ」

 いつの間にか隣にやってきたウォルターが、レイフの肩に手を置き、言った。

「あいつら、堅気じゃないよな…?」

「ああ、そのようだ。ジェームズ・ブラックは出所後にマフィアの後ろ盾を手に入れたらしい…表向きは汚い仕事からは手を引き実業家としてビジネスを起こそうとしているそうだが、中身は昔と変わらない、表の仕事はいわば隠れ蓑だな。ジェームズには過去に暗黒街での『実績』がある。そこを見込まれて、知恵を与える代わりに、ジェームズは彼らから欲しいもの―例えば、あそこにいる闘い慣れた連中を警備員という形で送り込んでもらっているんだ」

「あいつら、武器も持ってるよな?」

「そりゃ、マフィアだからな、銃撃戦はお手の物だろう」

「…そういうことは先に言って欲しかったな」

「昼間会った時に話していたら、おまえはやけっぱちになって、昼でも夜でも危険に変わりはないならと、すぐにでも乗りもうとしただろうからな」

「ずるい大人は嫌いだ」

 レイフは顔をしかめて、ウォルターの手を腹立たしげに払いのけた。

「警察に任せておけ、レイフ、ケンパーが来るまで待つんだ」

「そんなのんびりしたことをやってる間に、クリスターの身に何かあったら、どうしてくれるんだ! それに奴らに捕まっているのはクリスターだけじゃない、ダニエルだって―それに、アイザックもたぶんここにいるんだろう? あんただって、息子を助けるために必死になって―一度は自分で忍び込んだこともあったんじゃないか。それなら、オレの気持ちだって少しは分かるだろ!」

 ウォルターはレイフに平手打ちでもくらったように顔をしかめたが、その言葉に揺らぎはなかった。

「俺は親だからな…ついおまえの親御さんのことを考えてしまうんだ。本当はもっと早くにクリスターを説き伏せて、一緒に彼らのもとに行き、事情を説明するべきだった。子供達に勝手なことをさせてしまった挙句に、この体たらくだ。この上、おまえまで危険の中に無鉄砲にも飛び込んでいかせるなんて―俺にはできん」

 ウォルターは俯き、足元の草を睨みつけるようにしながら、低い声で言った。

「俺は…アイザックがあそこにいるだろうことは、ほぼ確信できている。だが、どんな状況にあるのかは分からない…コリンの事故を調べていて引っかかる点も出てきたが、それもあいつに会って話を聞かないと確かめようがない。そもそも、あいつは今も無事でいるのか―アパートに戻って、1人、色んなことを考え出すとたまらなくなってくる。この際、どんな形でもいいから、あいつの命さえ無事なら、俺は―」

「ウォルター…」

 悄然と頭を垂れるウォルターに、レイフは何と声をかければいいのか分からなくなって、黙り込んだ。

(こんなふうに、オレ達の父さんや母さんを苦しませるのは嫌だよ、クリスター)

 物騒な男達を乗せたバンはゲートを潜り、屋敷の方へと向かって行った。門番は、それが今日の最後の仕事だったのか、ゲートを閉じて鍵をかけると帰っていった。

 いつまで時間がかかるのかとじりじりしながらレイフが見ていた夕陽も、やっと地平の彼方に沈み、次第に濃さを増していく闇が訪れた。

 そして―。

「おい、また車がこっちに来るぞ」

 黄味がかったカーライトがゲートに向かってくるのを見つけたトムが、声をあげた。

 今度はウォルターが双眼鏡で様子を窺っていると、ゲートの少し手前で止まった車から1人の中背の男が降りてきて、辺りをきょろきょろと見渡した。ぼさぼさした髪、疲れたようにネクタイを緩めて、まだ三十代半ばの若さだが実際より少し老けて見える。

「ケンパーだ」

 ウォルターの呟きを聞いた途端、レイフは転がるように丘を駆け下りた。その後をウォルターとトムが慌てて追っていく。

「ケ、ケンバー警部!」 

 暗闇の向こうから駆け寄ってくる人影に、初めケンパーは警戒したようだ。しかし、レイフがライトの前に身をさらし、手を振りながら近づいていくと、ほっと緊張を解いた。

「よかった…。ずっと待ってたんだよ、警部。…で、令状は出たんだよな、今からクリスターを助けに行けるんだよな?」

 息せき切ってレイフが尋ねるのに、しかし、なぜかケンパーは顔を曇らせた。

「どうしたんだよ、警部?」

 怪訝に思いながらレイフはケンパーの後ろに目をやった。車には他に誰も乗っていないし、後から続いてパトカーがやってくる気配もない。

「おい…まさかと思うけれど…」

 ケンパーは言いにくそうに口ごもった後、息を吸い込み、告げた。

「すまない、レイフ…ブラック家の捜査令状は出なかったんだ」

「何でだよ?!」

 レイフは思わず、ケンパーのシャツを引っ掴んで、激しく詰め寄った。

「俺も上層部に掛け合って、やれるだけのことはやったんだ…だが、どうやら相手の方が一枚うわてだったらしい」

「だから…どうして―」

 頭の中がかっと熱くなってまともな言葉も出てこないレイフの肩を、後ろからウォルターが叩いた。

 やっとケンパーの胸を締め上げる手を離したレイフは、気持ちを静めようと、肩を震わせながらゆっくりと息をつく。

 すぐにトムが傍に寄ってきて、何か声をかけながら腕をさすっていたが、レイフの耳にはほとんど入ってこなかった。

「ケンパー、どういうことなのか説明してくれ」

 代わりに事の次第をちゃんと聞きだしてくれたのは、ウォルターだった。

「俺はずっとジェームズ・ブラックには目をつけていたんだが―今回は、相手にそれを逆手に利用されてしまった」

 ネクタイを指先で更に緩めながら、忌々しげにケンパーは吐き捨てた。

「上層部に、奴の父親のゴードン・ブラックから苦情の電話があったそうなんだ。俺に付きまとわれて、息子共々大変迷惑しているとな。向こうは、俺が変な言いがかりをつけて、自分達を強請っている、深夜にも訳の分からない脅しのような電話をかけてくるので困ると主張したそうだ…確かに、俺は一度ブラック邸に行方不明のエバ・ハミルトンの件で話を聞きにいったことならあるが、直接ジェームズ・ブラックに接触したのはその時だけだ。それを、とんだ嘘っぱちを並べ立てやがって―」

 言いがかりをつけられたのは、それこそケンパーの方だったが、上層部は明らかにブラック家を庇う態度だった。病床にあって一線から引退したとはいえ、大富豪で有力者のゴードン・ブラックの鶴の一声はまだまだ効力があるらしい。それに、誘拐容疑と言っても、実際にジェームズがダニエルを拉致したという証言はない―ダニエルが行方不明になる前にアルバイトとして出勤していたクリニックの職員達も、何も知らないと言ったそうだ―確かな証拠が見つからない以上、現時点で警察の介入は難しい。

「だが、その苦情を申し立てたのは本当にゴードン・ブラック当人なのか? 噂では、ほとんど寝たきりで表には全く出てこないということだが―」

「そこまでは知らんよ…どうせ電話でのことだろうしな…」

 大人達が話しこんでいる間、俯き、我が身をかき抱くようにしてじっと考え込んでいたレイフが、おもむろに顔を上げた。

「レイフ…?」

 トムが訝しげに呼びかけたが、答えず、レイフは少し離れた場所にとめてある自分の車の方へまっすぐ歩いていった。

 慌てて、その後をトムが追いかけてくる。

「ど、どうしたんだよ、レイフ?」

 レイフは無言のまま、次第にその足を速めていった。

「レイフ、どこに行くんだ?」 

 ウォルターの不審そうな声が後ろから聞こえたが、レイフは構わず、走り出した。

 木の陰に隠すように停めていた車に乗り込み、エンジンをかける。ようよう追いついたトムの切羽詰った顔が、ライトに照らし出された。

「どうする気なんだよっ?」

 トムは、息を乱しながら、助手席に滑り込んだ。

「今から、クリスターを助けに行く」

 レイフは微動だにしない瞳で前を見据えたまま、やけに冷静な声で答えた。

「ウォルターが言ってたように、こっから先は、どんな危険があるか知れない。だから、トム、おまえは残れ」

 トムははっと息を吸い込んだ。

「レイフ…」

 そんな無茶なことはやめろ―トムもとっさに言いかけたかもしれない。しかし、レイフのいつになく厳しく張り詰めた横顔を見て、気持ちを変えたようだ。

「おまえが行くなら、俺も付き合うよ」

 レイフはトムを振り返った。何か言いたげな顔をした。

「仕方ないよ、やっぱおまえを放っておけないもの、俺」

「トム」

 レイフはちょっと照れくさそうに笑った。

 フロントガラスの向こうに、ウォルターとケンパーが走ってくるのが見えた。

 レイフは構わず、車を発進させた。

「おい、待て、レイフ!」

 動揺するウォルター達の傍らを走り抜け、レイフはそのまま閉ざされたゲートへ向かった。

 業務用道路を守る鉄製のゲートは、昼間見た時は、古く、錆びついていたように思う。車で突っ込めば、破れないことはないとレイフは思った。 

 単純に、アクション映画やドラマのワンシーンから出た発想だろう。スタントマンならうまくやるだろうが、普通人がやって成功するものか、かなり怪しい。しかし、今のレイフにそこまで突き詰めて考えるゆとりはない。

 どんどんスピードを増しながら、レイフの車は暗闇の向こうに浮かび上がるゲートに迫っていった。

「トム、歯を食い縛って、しっかり座席に捕まっておけ!」

「レイフ…!」

 レイフが何をやるつもりか悟ったトムは、肝を潰して悲鳴をあげる。

 次の瞬間、レイフの愛車は凄まじいエンジン音をあげながら、行く手を遮るゲートへと突入した。




 ダミアンが去った後、クリスターの脱出は、拍子抜けするほどうまくいった。

 見張りに立っていた連中は、ジェームズに感化されて凶悪化したとはいえ、もともとは普通の高校生だ。それほど闘い慣れしているわけでもなく、捕虜の扱い方を知っているわけでもない。

 彼らが食事から戻ってきた時、既に自分で手枷も扉も開錠して自由の身になっていたクリスターはすかさず飛び出し、声をあげさせる暇も与えず、打ち倒した。

 後は部屋の中に引きずり込んで、先程まで自分がつながれていた鎖に1人を拘束し、声を出せないよう口も塞いだ。

 もう1人はどうするかと、クリスターはちょっと考え込んだ末、ダニエルが監禁されている部屋に向かう際のカモフラージュに使うことにした。

 人目につかないように用心して、目的の場所まで行けたとしても、部屋の前には見張りが立っている。彼らに騒がれるのはまずい。

 そういう訳で、その青年を叩き起こして、彼から没収したナイフで散々脅しすかして震え上がらせた後、クリスターは前に立って歩くよう命じた。

 ナイフはぴたりと青年の背中に押し付けたまま、しかし、前から見るとクリスターの方が彼に連行されて見えるようにした。ダニエルを見張っている連中を油断させるためだ。

 ダニエルの監禁場所にたどり着くまでの間、幸い、フレイはおろか、ジェームズの他の配下と出くわすことはなかった。皆がたむろしているだろう、遊戯室やサロンはここからは離れているせいもあるだろう。

 ダニエルの部屋の前、退屈そうに小さなテーブルの上でカードゲームをしていた見張り達は、自分の仲間がクリスターを連れてくるのを見て、怪訝そうな顔をした。しかし、怪しいとまでは思わなかったようだ。危険に対する反応は、彼らもまた鈍かった。

『ジェームズの許可が出たので、クリスターをダニエルに面会させる』

 ジェームズの名前を聞いただけで納得したのか、クリスターを近づくのを許した連中は、続く数秒のうちに悲鳴もあげずに殴り倒された。

 最後に、ここまで同行してくれた気の毒な青年をもう一度意識不明にしてしまうと、クリスターは部屋の扉を開けた。

「ダニエル…!」

 ここまで冷静沈着にことを進めていたクリスターも、いざ目の当たりにした恋人の哀れな姿に、さすがに気持ちを抑えきれなくなった。

 ベッドまで駆け寄り、そこに壊れた人形のように力なく横たわっているダニエルを呆然と見下ろした。

「よくも…ひどいことを―」

 わななく唇を噛み締め、クリスターは床に膝をついた。

 ダニエルはこちら側に体を向けて、深い眠りに沈んでいる。鎮静剤でも投与されているのかもしれない。

「いや、ジェームズやダミアンだけじゃない、これは僕のせいでもあるんだ」

 真新しい包帯の巻かれた、哀しくなるくらいにか細い腕、殴られた跡の残る小さな顔を凝視しながら、クリスターは罪悪感に打ち震えた。

(どうして、僕はこの子をこんな危険なゲームに巻き込んだ…? 恋人としてつき合いながら、こんなことになる前に、どうしてやめさせなかった…?)

 自分の中にあるあざとさに吐き気を催しそうになる。

「僕には、君に好きになってもらう資格なんてない…ジェームズと同じ、人でなしの冷血漢、それが僕の本性だから―」

 クリスターは、自分が触れることで壊してしまうのではないかと恐れるように、ダニエルの頭に指先を置いた。

 すると、ダニエルの長い睫が震え、閉ざされていた瞼がゆっくりと上がっていった。

「クリスター…さん…?」

 朦朧と定まらない青い瞳が、それでもクリスターを愛する人と認める。

「ダニエル」

 クリスターが固唾を呑んで見守っているうちに、ダニエルは唇をほころばせ、花のようにふわりと笑った。

「よかった…もう二度とあなたに会えないかと思ってた…」

 何だかもうたまらなくなったクリスターは、ダニエルの体をすくい上げるようにして抱きしめた。しかし、ダニエルが痛みを覚えて小さく叫ぶのに、慌てて腕の力を緩め、傷ついた体に響かないよう慎重に抱きなおした。

「ダニエル、すまない、こんなひどいことになってしまって―僕は君にどうやって詫びたらいいのか…」

 先程までかけ布の下に隠れていたダニエルの体が思っていた以上にダメージを受けていることに気付いて、一層居たたまれない気分になりながら、クリスターは彼の傷の状態を確認した。

(まるで拷問を受けたようだ…抵抗できない弱い相手にここまでするなんて―)

 肩や背中に受けた傷からの出血は、今のところ止まっているようだ。しかし、傷口からの感染かショックのせいか、発熱している。それに、もともと不自由な脚をひどく傷め付けられたようだ。今、自力で歩くことはまず無理だろう。

「クリスターさん、どうして謝るんですか…? 最後にせめて一目、あなたの顔を見たいとずっと僕は祈っていたんです。あのまま本当に殺されてしまうかと恐かった―あっ…?」

 熱にうかされたようにクリスターに向かって語りかけていたダニエルが、その瞬間、大きく目を見開いた。

「あ…ああっ…嫌ぁ…!」

 自分が何をされたか思い出したのだろう、ダニエルは細い悲鳴をあげて、逃げようとするかのごとく必死にもがいた。

「ダニエル…!」

 ぷつりと糸の切られた人形のように、そのまま再び意識を失うダニエルの体を受け止め、クリスターは瞳を揺らした。

 その時、後ろの扉の方で物音がした。

(しまった…!)

 クリスターは険しい顔で振り返った。

 誰かがこの部屋の様子を見に来たのだろうか。うかつなことに、見張り達は外に放置したままだ。ダニエルのあまりに悲惨な有様に心を乱されて、人が近づいてくることにも気がつかなかった。

 クリスターはダニエルをベッドの上に静かに戻すと、見張りから奪ったナイフを手に、ゆっくりと開かれていく扉に向き直った。

「ダニエル…?」

 用心深く低められた、その聞き覚えのある声に、クリスターは胸の鼓動が一際激しく打つのを覚えた。

(この声…まさか…?)

 そうして開け放たれた扉の向こうに、ひょろりと痩せた青年の姿を見出した時、胸に押し寄せた感情はあまりに複雑で、さしものクリスターもどんな反応をしたらいいのか分からず、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 そして、それは相手にとっても同じようだった。

「アイザック…」

 やっとの思いで胸から押し出した声は、我ながら滑稽なほど動揺していた。

 クリスターの呼びかけに、アイザックは大きく身を震わせた。信じられないとばかりにもう一度クリスターを見つめなおしたかと思うと、この場から消えてなくなりたいような恥辱に頬を赤らめ、一歩後ろに下がった。

「何てこった…おまえがここにいるなんて…」

 しかし、つい怯んでしまう自分の弱さを払いのけるように頭を激しく振ると、アイザックは再び部屋の中に入ってきて、親指を立てて扉の向こう側を指し示しながら、淡々とした声で言った。

「外で、ジェームズの部下達が3人のびてるけど、あいつら、とりあえず部屋の中に隠しちまわないとまずいんじゃないか?」

 クリスターはほっと息を吐いた。

「そうだな」

 ゆうに二月ぶりに顔を合わせた2人は、気を失ったままのジェームズの配下を部屋に運びこんだ。力を合わせて彼らの体を拘束し終えると、改めて向き直った。

「アイザック…やはりここにいたのか…無事でいてくれて、よかった…」

 クリスターのぎこちない言葉に、アイザックは唇を皮肉っぽく歪めた。

「クリスター、今更オレに気遣いなんてしなくていいんだぜ。おまえには、分かっているんだろう、俺がどうしてここにいるのか…?」

「ああ…君は僕を見限って、ジェームズの側についたということなんだね…?」

「そうだ、弁解はしない、俺はおまえ達を裏切った」

 体の脇に垂らした手をぐっと握り締めながら固い声で告げるアイザック。

 それを凝然と見つめるクリスターの胸には、とても一言では説明できない様々な感情が去来していた。

『なあ、クリスター、おまえにとって俺は一体何だったんだ…? 利用価値のある手駒以上の意味なんか、あったのか?』

 夏休みの直前、アイザックと最後に会ったあの日、彼が自分に叩き付けた、悲しみと怒りのこもった言葉がまざまざと脳裏に蘇った。

『ただ、一度でも、おまえが俺を友人として仲間として信頼してくれたら―そうさ、俺を納得させるのに大儀も正義もいらない。1人でJと戦うなんて無理だから、一緒に来てくれと素直に手を差し伸べてくれりゃ、それでよかったんだ』

 確かに、これまでクリスターは、アイザックにそう誤解されるような態度や言葉を取ってきた。

 だが、本当は、クリスターはアイザックを深く信頼し、頼りにしていた。自分で自覚していた以上に、彼を好いていた。クリスターが間違ったのは、それをちゃんと伝えようとしなかったこと、アイザックなどいなくても少しも構わないかのように振る舞い続けたことだった。

(どうして、こう僕は素直じゃないのかな…本音とは逆のことばかりして、それで大切な人の心を傷つけ、遠ざけてしまう…) 

 後悔と呼ぶにはあまりにも深く、ほとんど絶望的な無力感が、クリスターを圧し拉ごうとする。

 アイザックの存在は、クリスターの心に深く突き刺さった棘だった。彼の無事を祈りながらも、こうして実際に顔をあわせることが恐かった。

 こうして今、避けようもない現実として、かつての右腕、クリスターの数少ない友であった男と向き合いながら、突き刺さった棘の痛みはいや増したようだ。しかし―。

「クリスター、おまえには俺に言いたいことが山ほどあるだろうが、今は堪えてくれ。先にダニエルを何とかしなきゃならないからな―」

 クリスターの沈黙を誤解したらしいアイザックの言葉だったが、そのおかげで、クリスターも現実を思い出した。

「そうだ、ダニエル…」

 ちらりと後ろのベッドに寝かされているダニエルを振り返り、クリスターは再びアイザックの方を向いた。

「すると、アイザック、君もダニエルをここから逃がしたいと思っているわけか…?」

 アイザックの頬が、今度は怒りのあまり赤くなった。

「当たり前だ! こんな状態のダニエルを、いつまでもこの悪党どもの巣窟に置けるものか! あの狂犬ども、ジェームズの言いつけも無視して、ダニエルを弄びやがった…今は大人しくしているけれど、堪え性のない奴らのことだ、放っておくとまた何をするかしれない…」

「ならば、ダニエルを助けたいという点では、僕達の思いは一致しているわけだね、アイザック」

 アイザックは、クリスターの気持ちを推し量ろうとするかのごとく目を細めた。

「そのようだな…まさか、おまえとここで鉢合わせするとは思ってなかったが…ダニエルを助けるために忍び込んだのか? よく、警備をかいくぐって、ここまで来られたな」

「僕は、ジェームズと話し合うために正面から訪問したんだよ。ジェームズには僕を拒む理由はないからね、すぐに通してもらえたさ。そこで、彼をちょっと悩ませる課題を突きつけてやったんだ。案の定、彼は少し考えさせてくれと言って、僕を地下室に閉じ込めた。そうして時間稼ぎをしているうちに、僕はダニエルを助けるために監禁場所から脱出して、まっすぐここに来たんだ」

 アイザックは軽く眉を跳ね上げた。

「へえ、それはまた大胆なことをやったな…そう言えば、さっきサロンの傍を通りかかった時、連中、妙にざわついているなとは思ったんだが、おまえの噂で持ちきりだったんだろうな。俺は、ちょっと脱出の準備や何やらで忙しかったものだから、生憎気付かなかったが―」

「なら、ここで僕を見つけて、さぞ驚いただろうね」

「全くさ。気を失うかと思ったよ」

 クリスターが微笑むとアイザックもほんの少し固い表情を和らげたが、すぐにまた暗く沈みこんでしまう。

「脱出手段は、一応確保しているんだ」

 アイザックはクリスターから目を逸らしながら、努めて感情を排除したような声音で言った。

「屋敷の裏手に車を用意してある。これはブラック家のものだし、ジェームズの仲間としてここに居候していた奴が運転してくれるから、カムフラージュにはなるだろう」

「ジェームズの配下を懐柔したのか?」

「予め、このままジェームズについていくことに不安を覚えてる、うまくつついてやれば裏切りそうな奴は、何人か目星をつけていたんだよ」

「それでも、よく協力なんてしてもらえたな」

 するとアイザックは、かつてクリスターと共にJ・Bと闘っていた時の鋭い参謀役の面影を蘇らせた、きびきびとした口調で言った。

「一口にジェームズの仲間や配下と言っても、決して一枚岩じゃないのさ。2つの派閥に見事に分かれている。もともとうちの学校の生徒で、昔ジェームズが率いていた不良グループにいた奴ら、そして、ジェームズが深く関わりを持っていたストリート・ギャングの残党…今、ここで力を持っているのは専ら後者の方だ。ジェームズが彼らの再建に力を貸すと約束して資金援助をしたり、彼らの仲介でマフィアと接触を持ったり、お互いに持ちつ持たれつの関係だからな。それが、ほとんどただの居候のような前者のグループには不満なんだ。ジェームズが以前のように頻繁に仲間達に接して、彼らの間の軋轢をうまく調整していれば、それなりにうまくいったんだろうが、この頃のジェームズは何故か自分の部屋に引き篭もることが多くてな。末端の部下達の細々した所にまで、その影響力は及んでいないのが現状なのさ」

 ここで、アイザックはどうにも腑に落ちないといった顔をした。

「昨日、俺はダニエルの件でジェームズを問いただそうと思って、彼の部屋に向かったんだが、途中でダミアンに追い返されてしまった。どうやらジェームズは体調を崩しているらしい…だが、それだけにしては、何だか様子が変なんだ」

 クリスターは眉根を寄せた。

「アイザック、それは―」

 クリスターが追求しようと口を開きかけた、その時、後ろのベッドの方から、弱々しいながらもしっかりとした意思を感じさせる声が聞こえてきた。

「ジェームズは…病気なんです…それも非常に悪性の…」 

 クリスターもアイザックも、弾かれたようになって、そちらを見た。すると、ベッドから半身を起こしたダニエルが、必死の形相でクリスターに何かを伝えようとしていた。

「クリスターさん…あなたの考えた可能性を僕は何としても確かめたくて…ドクター・キャメロンの家を調べて、分かったんです…ジェームズの命はもう長くない…」

 しかし、やはり自力で動くことは辛いのか、ぐらりと体を傾がせるダニエルに素早く駆け寄って、クリスターはその肩を抱いた。

 微かに震えている肩をいたわるように撫でながらも、クリスターは問いかけずにはいられなかった。

「今、何と言ったんだ、ダニエル…?」

 ダニエルは、細かな汗のういた小さな顔を上げ、クリスターの目を見据えながら、驚くほど明瞭な声で言った。

「クリスターさん、ジェームズは発病しています」

 そうして、ダニエルは、残った力を振り絞るように、自分がドクター・キャメロンの家で見つけた資料や検査データ、そして、たまたま現われたジェームズ自身がキャメロン相手に話したことなどを打ち明けた。ジェームズがブラック家の男子の宿命である遺伝病を受け継いでいること、既に半年前にそれを発症し、ここに至って、急激に病状が悪化してきていること―。

「なるほどな、『ブラック家の負の遺産』ってのは、そういう意味だったのか…」

 それについては、クリスターから聞かされていたものの、ダニエルほどの深い関心を持っていたわけではないアイザックは、まだ信じられないような顔をしていた。

 無理もない。不治の病に蝕まれて余命幾ばくもないなどと、あの怪物J・Bらしくない話だった。

「だが、それが事実だとすると、出所した後のジェームズの変わりようも納得がいくな」

「彼は変わったと…どんなふうに…?」

「何だか、保身に関心がなくなったというのかな…以前のジェームズは仲間の非道は許しても、自分がそれに関わることはなかった。巧妙に立ち回って自分にまで火の粉が降りかかることは避けていた。ましてや、決して自らの手を汚すことなんてなかった。その辺りが、今のジェームズには欠けているんだ…一度施設送りになって、表向きの輝かしい経歴に傷がついちまったせいかなと思ったりしたんだけれど―むしろ、自分の命の期限が分かったせいなんだろうな。今更何をして、どんな罪に問われようが、どうせ死んでしまうんだから、誰もジェームズを裁くことはできない」

 クリスターは奇妙に心乱されながら、アイザックの話に黙って聞き入った。

(ジェームズが死ぬ…?)

 ふと腕の中のダニエルを見下ろすと、彼はやっとクリスターに伝えるべきことを伝えられた安堵感からか、また失神していた。

「アイザック、ともかく、ここを早く出よう。君が味方に引き込んだ奴だって、あまり待たせておくと、やっぱり恐くなって、気を変えないとも限らない」

「そうだな」

 クリスターはぐったりしているダニエルを抱き上げ、アイザックに頷きかけると、周囲の様子を窺いながら用心深く部屋の外に出た。

 ここの見張りの交代の時間がどうなっているのか知らないが、そのうち誰かが様子を見に来るだろう。見つかる前に、ダニエルを無事に脱出させなくてはならない。

(そして、アイザックもだ…ウォルターはこの近くで張り込んでいるはずだから、屋敷の敷地を出てしまえば、きっと保護してもらえる)

 先頭に立って脱出路を案内してくれているアイザックの背中を見つめながら、クリスターは胸の奥に刺さったままの棘を意識する。

(そうだ、僕はアイザックにまだちゃんと自分の気持ちを伝えていない)

 訳もない焦燥感に駆られて、クリスターは口を開いた。

「アイザック…」

 その時、アイザックがいきなり立ち止まったので、クリスターも足を止めて顔を上げた。すると、長い廊下の終わりに、1人の青年がこちらをぽかんと見ながら凍り付いていた。

 アイザックとその後ろにいるクリスター、そして彼の腕に抱かれたダニエルを見比べると、彼はさっと顔を紅潮させた。

「だ、誰か、来てくれ! クリスターが逃げ出したぞ!」

 クリスターの腕っ節はよく知っているのか、転がるように逃げ出す相手を見送った後、クリスターは苦々しげに顔を歪めた。

「しまった…!」

 アイザックが、厳しい顔つきでクリスターを振り返る。

「急ごう」

 アイザックはホールの近くにある1つの部屋の扉を、予め手に入れていた鍵を使って開け、クリスター共々中に飛び込んだ。

 そこは個人所有のちょっとした美術館になっていて、ブラック家が集めた貴重な絵画や調度品の類が納められている。

 廊下の反対側には大きな張り出し窓がついていて、車を待たせている裏庭へもここからなら近いそうだ。

 少々がたのきている窓を、体をばねのように使ってこじ開けると、アイザックは素早くクリスターを振り返った。

「さあ、おまえが先に行けよ」

 クリスターはすっと目を細めた。

「いや、君が先に出てくれ、アイザック。外でダニエルを受け止めてもらった方がいい」

「そうか」

 アイザックは微妙な顔をしたが、ここでぐずぐずしている訳にはいかないので、すぐに窓を潜って、外に立った。

 続いて、クリスターは、ダニエルを壊れ物でも扱うようにしながらアイザックの腕に渡した。

「さあ、早く来いよ、クリスター」

 じりじりしながら促すアイザックの顔をクリスターはじっと見つめた。

「何だよ?」

 アイザックは怪訝そうに眉を寄せる。

「いや、どうして僕はいつも、君に自分の本心を打ち明けることを怠ってきたんだろうとつくづく思っていたんだ。君のことを頼りにしている、君が必要なんだと、もっと早くに素直に言っておけばよかった」

 クリスターの真摯な気持ちのこもった言葉に、アイザックは怯んだようだ。

「突然、何を言い出すんだよ、クリスター…大体、そんな話をしている場合じゃないだろ?」

 しかし、クリスターは一向に動こうとはせず、アイザックの動揺する顔にまっすぐな眼差しを当てたまま、続けた。

「僕は君がいてくれることを当たり前のように思っていた…何も言わずとも、君なら僕の気持ちを察してくれるなんて、とんだ甘えだった。すまない、アイザック…僕のために君まで窮地に追い込んだ。今更許してもらえるとは期待しないが、僕にとって、君は今でも大切な友人だよ」

 アイザックは瞠目した。穏やかに微笑むクリスターの顔を前に、どうしても言葉が出てこないようだった。

「ダニエルのことを、くれぐれも頼む」

 一転、クリスターは表情を引き締めて、そう言った。

「クリスター?」

 クリスターは、人の怒鳴り声や足音が近づいてくる、扉の方を肩越しに振り返った。

「追っ手の注意は僕が引き付ける…その隙に君はダニエルを連れて、ここから脱出するんだ」

 アイザックは喘ぐように息をした。

「おい…待てよ、冗談じゃないぜ、おまえを置いて行けって言うのか」

 自分の手をぐっと握り締めるアイザックの手を見下ろしながら、クリスターはふと目を和らげた。

「彼らの目的は僕だ。君らには人質としての価値も、今ではそれほどない。だから、僕に構わず、行け…!」

 クリスターの思惑を察したアイザックは顔色を変え、必死で食い下がった。

「おまえ、1人でジェームズとの決着をつける気だな! それは危険すぎる―ジェームズはもう以前と同じ奴じゃない…避けられない死を前に、本当にたがが外れちまった。…あいつはな、自分の親父も殺しているんだぞ。それだけじゃなく、邪魔な人間を何人もダミアンに始末させている。今あいつに捕まったら、おまえ、何をされるか分からないぞ」

「分かっている。でも、僕はやらなければならないんだ」

 離すまいとするアイザックの手から自分の手をもぎ離して、クリスターは決然とした態度で言った。

「頼むから、行ってくれ、アイザック。このままじゃ、3人とも捕まるぞ」

 アイザックの顔が一瞬悲痛に歪んだが、クリスターの揺るぎもしない瞳が物語る決意の程を理解するのも、彼はまた早かった。

「分かったよ、クリスター…ここを脱出して、すぐに警察の保護を求める。俺とダニエルが証言すれば、ジェームズには逮捕されて充分すぎるほどの罪状があるからな。…その証拠も俺は持っている」 

 アイザックは確かめるようにズボンのポケットに触った。

「必ず、おまえを助けるために戻ってくる。だから、それまでくれぐれも無茶な真似はするな」

「ああ」

 クリスターが分かっているというように頷き返すと、アイザックはダニエルの体を抱き上げて、窓の前から立ち去っていった。

「さて…」

 クリスターは自分達を探しているらしい連中のたてる物音で騒がしい、廊下側に体を向けた。

 足音もさせず、滑るように扉に近づく―その途中で目に付いた、壁にかけられた中世の武具から、小振りの剣を手に取った。刃の部分は模造品だが、振り回せば脅しくらいにはなるだろう。

「アイザック、ダニエル―どうか無事に逃げ延びてくれ」

 口の中で小さく祈った後、意を決したクリスターは、荒々しく扉を開け放ち、とっさに凍りつく敵達の只中に飛び込んでいった。

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