ある双子兄弟の異常な日常 第三部
SCENE7
「母さん、オレだよ、レイフだよ」
ウャルター達と共に、クリスターとダニエルの救助を頼みに行った警察署で、レイフは家に電話を入れた。
応対に出たのが父ではなく、いつも冷静な母親の方であったことにほっとしながら、レイフは言った。
「あのさ、オレ、今日帰りが遅くなるかもしれないんだ。ちょっと面倒なことになっちまったんだけれど、話すと長くなるから、事情は帰ってから説明するよ」
ヘレナは受話器の向こうで何事か考え込んでいるらしく、すぐに質問を投げかけてはこなかった。
「トムが一緒にいるんだ。1人で無茶なことしたりしないから、心配しないで、待っててよ」
沈黙が続くことが恐くて、レイフが付け足すと、ようやくヘレナは口を開いた。
「クリスターのメッセージが電話に残っていたのよ。今日の昼過ぎに家に電話をかけたようね…あの子も、あなたと同じようなことを言っていたわ。帰りは遅くなるけれど、心配しないでって―」
ヘレナの落ち着いた声音の中に隠された不安気な響きに、レイフはとっさに胸を突かれた。
「母さん、オレ…」
胸の奥から急にこみ上げてきた様々な感情に圧倒され、レイフは言葉を詰まらせる。
「ごめんよ、オレ、母さんとの約束、守れなかった…」
あれは夏休みに入ってすぐのことだったろうか、ある朝、ヘレナと交わした会話を思い出しながら、レイフは目をしばたたいた。
「クリスターが無茶をしないよう、傍にいて見ていてやってくれって、あの時確か母さんは言ったよな…。オレ、本気だった、クリスターを守って一緒に闘うつもりだったのに、あいつからうっかり離れちまった…あいつは1人で行っちまったんだ…」
電話をしている傍を通りかかった、婦人警官がちらちらと好奇の目を向けてきたので、レイフは壁の方に体を向けて、ぐっと涙を堪えた。
「レイフ」
ヘレナの微かな呼吸音が受話器から聞こえてきた。勘のいい彼女は、クリスターの身に危険が迫っているということをレイフの短い言葉だけで感じ取ったようだ。
「あなたは今、どこにいるの?」
しかし、語りかけてくる声は、あくまで平静だった。
「うん…サウスボストン署まで来ているよ、またすぐに出て行くけど―」
「警察に助けを求めるような事態になっているのね?」
ヘレナは一瞬間を置いた。
「…もうじきラースも帰ってくるはずよ。彼と一緒に、私もすぐにそこに行くべきかしら?」
レイフは唇を舌で湿しながら、ちょっと考え込んだ。
「ケンパー警部って人が…クリスターとも親しいんだけれど、事情をよく知っているんだ。その人がクリスターのために動いてくれている…今ちょっと手が離せないみたいだけれど、今後母さん達はどうしたらいいのか、彼に電話を入れてくれるよう頼んでおくよ。でも、たぶん、母さん達は家で待機してもらった方がいいと思う。父さんに伝える時には慎重にしてくれよ、かっとなると何をしでかすか分からないから―」
「分かったわ。父さんのことは私に任せておいて。でも、あなたはどうするの…?」
「オレは、クリスターのいる所に戻るよ」
レイフは決然とした口調で言った。
「オレは、あいつから離れるべきじゃなかったんだ。なのに、油断したせいで、あいつを勝手に行かせてしまった…オレのせいだよ。だから、何としてもあいつを捕まえてやる、あいつの暴走を止められるのは今でもオレだけだと思うから…」
「クリスターだけでなく、あなたの身にまで何か起こってしまうなんてことにはならないでしょうね?」
ここに至って、ヘレナの声に微かな震えがこもった。
「クリスターにもオレの身にも、何も起こらないよ。そうさせないために行くんだ…大丈夫だから、心配せずに待っててよ。父さんも母さんも、愛してるよ」
またちょっと胸が詰まりそうになりながら、レイフは受話器を下ろした。
後ろを振り向くと、ウォルターとトムが何と声をかけるべきか迷うような顔をして立っていた。
「待たせちまったのかな、ごめん」
レイフは潤んだ目を誤魔化すよう、笑った。
ダニエルの誘拐、そして、それを助けに単身乗り込んでいったクリスターの話を聞いたケンパーは、ブラック家の捜査令状を取るため奔走してくれている。
だが、レイフにはやはり、クリスターのことを他人任せにはできそうになかった。
「さあ、ジェームズの屋敷に戻ろう。ここ以上ここにいるとオレ、頭が変になっちまう」
この部屋に閉じ込められてから、一体どのくらいの時間が経ったのだろう。
窓のない地下室では外の様子など分からないし、腕時計を見たくても手首を頭の上で固体されているため、クリスターには確かめようがなかった。
(さすがにこの姿勢を長時間続けるのは辛いな…立たされたまま、眠ることもできず…これが数日間続けば、かなりきつい拷問になりそうだ)
そんなことを考えていた時、クリスターは扉の向こうにいる見張り達が動揺したような声を発し、しばし、何者かともめているのを聞いた。
(やっと来たか)
クリスターは頭を上げると、唇に挑戦的な笑みを浮かべて、正面にある扉が開かれるのを待ち受ける。
複数の足音が部屋の前から遠ざかっていくと思った途端、扉はゆっくりときしむような音をたてて開いていった。
「クリスター・オルソン…」
扉の陰から顔を出したのは、らんらんと目を光らせたダミアン・ハートだった。
身動きできないよう天井から垂らされた鎖によって手首を拘束されているクリスターを見つけて、ダミアンはチェシャー猫のようににいっと笑った。
「いい様だね」
するりと部屋の中に入って扉を閉めると、ダミアンは背中で手を組んで、軽くスキップするようにクリスターの前までやって来た。
「その顔、フレイがやったのかな? ちぇっ、あいつ、オレにはクリスターには絶対手出しするなってうるさいくせに、ずるいな」
ダミアンはゆっくりとクリスターの周りを回りながら、彼の全身を舐めるように眺めた。
「こうして近くで見ると、あんたって、すごいハンサムだね…セクシーだし、もてるだろ? でも、さすがに大きすぎて、ダニエルみたいに皆に輪姦させて遊ぶのは無理っぽいな…下手に近づくと、並の男じゃ、返り討ちあいそうだ。薬か何かで自由を奪ったら、できないことないかな…? ねえ、ダニエルみたいな可愛い子を抱いてやることはあっても、自分が男に弄られたことなんて、ないだろ? 試してみる?」
クリスターは顔色も変えず、ダミアンの今にも爆発しそうな狂気を内包した目が見開かれ、その白い頬が時折ピクピクと痙攣する様を観察していた。
「何、すました顔してんだよ!」
ダミアンはいきなりヒステリックな声をあげた。
「あんた、自分の立場が分かってるのかい? たった1人で敵の中に飛び込んできて、そんなふうに縛り付けられて、恐くないの? それとも、ジェームズが命令してるから、誰も自分に手を出せないって、高を括っているのかい?」
「だが、それは本当なんだろう? 僕に手出しをすることを、ジェームズに禁止されているのは? だから、僕を殺したくてならないのにできなくて、君はそんなにイライラしている」
図星をさされたダミアンはますます激昂した。ポケットから取り出したバタフライ・ナイフを、クリスターの目の前にかざすようにしながら凄んだ。
「その目をくり抜いてやる! ジェームズが大好きだって言ってた、あんたの琥珀みたいに綺麗な目…でも、オレは大嫌いだ。さっきはよくもオレの目の前でジェームズを誘惑しやがって…許せない! その代償にあんたの片目をもらう。ジェームズにあんないかれた提案をした、あんただ…そのくらい、構わないだろ?」
怒りに我を忘れたダミアンなら本当にやりかねない、ぞっとするような宣言を、クリスターは、しかし、冷然と受け止めた。
「僕を傷つければ、確かに君の溜飲は下がるだろうね。でも、ジェームズが知れば、彼は二度と君を愛してくれなくなるよ。それでも構わないなら―やれ」
クリスターの低い声はまるで恫喝のように響いて、ダミアンは思わず立ちすくんだ。
「う…う…」
朱の色に染まっていたダミアンの顔が、瞬く間に紙のように白くなっていく。
(もしもクリスターの髪一筋、傷つけてごらん、僕は二度とおまえを可愛がってあげないからね)
クリスターの警告はそのままジェームズが放った冷淡な言葉に重なって、ダミアンの動きを封じた。
「畜生…畜生…!」
いきなり足元にナイフを投げ捨てて、ダミアンはクリスターの体に闇雲に打ちかかった。拳を固めてクリスターの胸や顔を殴りつけ、足で蹴りつけた。だが、小柄な少年には肉体的なパワーはさほどなく、これらの攻撃をクリスターは黙って耐え忍んだ。
「悔しい、悔しい…あんたを生かしておいたら、ジェームズはもう俺なんか構ってくれなくなる…でも、殺してしまったら、ジェームズは俺を絶対許してくれない…ああ、あんたが憎いよ、クリスター」
身も世もなく泣き出すダミアンを、クリスターは苦笑混じりに見守った。
「そういう単純で分かりやすい愛し方をする人間は、ジェームズはきっと嫌いではないと思うよ…」
やがて、クリスターは、穏やかな声で、泣きじゃくっているダミアンに向かって語りかけた。
「なんで、そんなこと、あんたに分かるのさ」
涙に潤んだ目でダミアンはクリスターを睨みつけるが、そこにはもう先程までの力はない。
「僕もジェームズと同じで、そういう人間が好きだからだよ…複雑な思考をする相手とは、たまに会うには刺激になっていいけれど、長くは一緒にいられない。だから、ほら、僕とジェームズなんて惹かれる以上に反発しあって、いつも互いに相争うことでしかコミュニケーションを取れないだろう?」
ダミアンは悩ましげに眉根を寄せた。
「君はジェームズを愛している」
「そうだよ」
「それなら、ジェームズを自分だけのものにしたいはずだよね…?」
「もちろんさ」
「できれば、邪魔者である僕を排除したいと思っている」
「それは、そうだけれど―できないから、腹が立つんじゃないか!」
癇癪玉を破裂させて足を踏み鳴らすダミアンを、クリスターは目を細めるようにして眺めた。
「できないことはないと思うよ」
「えっ…?」
戸惑うダミアンを見据えながら、極力相手の反発を招かないよう、クリスターは用心深く切り出した。
「もしも僕がここから逃げ出せば、ジェームズは当然腹を立てるだろう。しかし、それは君のせいではなく、うかつにも僕をここに閉じ込める際、ボディ・チェックをしなかったフレイの責任だ」
「何を言ってるんだよ、あんた…?」
ダミアンはいまや不安そうで、クリスターを恐がっているようにさえ見えた。
「僕のベルトに針金が一本仕込んである。面倒をかけるけど、それを引っ張り出して僕の手に握らせてくれないかな?」
クリスターは目に力を込めながら、ダミアンに向かって優しく穏やかな口調で語り続けた。
「本当は手錠の鍵が欲しいんだけれど、そこまでは頼むと君に迷惑がかかりそうだ…針金さえあれば、ちょっと時間はかかりそうだけれど、僕は手かせを外せるし、どうにか自力でこの部屋からも脱出することができるだろう」
「このオレに、あんたを逃がせって言うのかい? そんなこと―」
ダミアンの言葉を途中で遮り、クリスターは畳み掛けるように言った。
「このままでは、君は僕に指一本触れることはできない。けれど、もしも僕が勝手にここを抜け出し、ダニエルを連れて逃げ出そうとすれば―君には僕の脱出を阻むという大義名分ができる。君の仲間達と一緒に僕を追い詰め、捕まえようとしたものの、つい誤って僕を殺してしまった。こんな筋書きならば、ジェームズも納得するしかないだろう。君が1人で僕を襲ったのではなく、ちゃんと仲間も目撃していれば、言い訳だって立つしね?」
「オレに―ジェームズを裏切れって言うのか?」
ダミアンはその考えにはどうしても抵抗を覚えるらしい、反抗的にクリスターを睨みつける。
「つまるところ、これは君の大切なジェームズのためだ。ジェームズはあんなふう傍目にも分かるほどに僕にぞっこんだけれど、僕をこのまま生かしておいて、果たして大丈夫だと思うのかい? 僕は一度彼を打ち負かした人間だ、二度目はないと言い切れるか?」
ダミアンの中に渦巻いている混乱と迷いを見透かしながら、クリスターは悪魔のように甘い声でもう一度囁いた。
「ジェームズを愛しているんだろう? 僕さえいなくなれば、失意落胆した彼はきっと君を一番好きになるよ」
ダミアンの顔から険が消えた。彼は、果たしてこれは一体何者なのだろうと探るような眼差しを、おずおずとクリスターに向けてくる。
「あんたって…まるでジェームズそっくりな話し方をする…」
鋭い牙も爪もすっかりおさめ、飼い猫のように大人しくなってしまったダミアンが、そんなことを不安そうに呟いた時には、クリスターも自嘲的に唇を歪めずにはいられなかった。
「そうだよ、僕はジェームズに近いからね…彼の心の動きなら、手に取るように感じられる。だからこそ、どうすればジェームズが僕を諦めて君を振り向いてくれるかも分かるんだよ」
ダミアンはいまや瞬きも忘れたようにクリスターの顔に見入り、その語る言葉にじっと耳を傾けている。
思ったとおり、この少年は非常に依存心が強く、流されやすい。何かあればすぐに武器をかざして自分を強く見せかけようとしているが、その心は実は弱く、不安定だ。他人を怯ませる狂暴さも攻撃性も、むしろ内面のもろさを隠すための擬態に過ぎない。隙があるからこそ、こんなにも徹底的にジェームズに心を預けてしまうのだ。
ジェームズの被害者や部下達には、ここまで極端ではなかったものの、同じように彼に依存しきっている人間がよく見られた。初めから精神的に不安定であったがためにジェームズのカリスマに魅了されてしまった者。ハニーのように暴力によって徹底的に自我を踏みにじられた末に、彼の思い通り動くようになってしまった者。
彼らの多くと実際に接してきたクリスターには、ある意味、扱いやすい人間だった。
(僕には、こういう人間のツボが分かる…ジェームズが駆使しただろう手管なら、僕にも使えるんだ。そう、自我の脆弱な人間達は確信のこもった強い言葉に惑わされやすい。ましてや、それが自分の望みに沿うものであれば、たとえ見え透いた嘘であっても本当だと信じ込んでしまう…なぜなら、彼らはそうだと信じたいからだ)
クリスターは、まるでジェームズのように考え行動しようとしている自分に些かの嫌悪感を覚えながらも、心の中で念じた。
(ジェームズの操り人形よ、さあ、今度は僕の思い通りに動け…!)
ダミアンはしばし逡巡するように瞳を揺らしていたが、やおらクリスターに近づいてきた。クリスターが見守る前で、その小さな手が彼のベルトにかかる。程なくして、ダミアンは、ベルトの裏側に隠されていた針金を指先で探りあてて引っ張り出すと、無言のままクリスターの手に握らせた。
「いい子だ」
クリスターの全身をダミアンは神妙な顔で見ていたが、ふいに思い切ったように、ポケットから鍵束を取り出した。
「片手だけでも先に自由にしてやるよ。そうすれば脱出しやすいだろ?」
「そうしてもらえると助かるよ、ありがとう」
そこまでやるなら両手とも戒めを解いて欲しかったが、たぶん完全に自由になったクリスターが自分に襲い掛かってくるのを警戒しているだろう。ならば、これ以上強く要求するのは控えた方がいい。
「外の見張りは何人だい?」
「2人だよ、オレが飯でも食って来いって追い払ったけれど、じきに戻ってくるよ」
2人ならたとえすぐにここに戻ってきても、どうとでもできるとクリスターは内心ひとりごつ。
「それから、ダニエルの監禁場所を教えてくれないか…?」
これだけは何としても聞き出しておきたかったので、ダミアンが意外なほどあっさりと彼が閉じ込められている部屋への行き方を教えてくれたことには正直ほっとした。
「ダニエルの部屋の前にも、やっぱり見張りはいるのかな?」
「そうだよ。2人立ってる。オレの仲間じゃなくて、あんたと同じ学校出のなよなよした奴らだよ。あんたなら、簡単にのせるだろ」
「ダニエルの部屋へは、一端外に出て、窓から侵入することはできるかい?」
「小さい窓はあったけど、しっかりした鉄格子がはまってるから、無理だろうね。昔、頭のおかしくなったジェームズの母さんを一時閉じ込めていた部屋らしいからな」
クリスターはダニエルを連れての逃亡計画を頭の中で練り始めた。ダニエルの部屋までたどり着くことはできたとして、問題は、その後だ。もしもダニエルが1人で動くことも困難な状態なら、追っ手に捕まる前に敷地内から脱出するのは少々困難かもしれない。
「あんたはダニエルを連れてここから脱出する。その後を追いかけて、オレはあんたを―殺す…ゲームみたいだね、面白そうだ」
クリスターの思案になど何の興味も示さず、夢見るように呟くダミアンに、クリスターは鷹揚に頷いた。
「ああ、きっと楽しいだろう。そして、僕を首尾よく殺してしまえば、何もかも君の望みどおりになるよ」
ダミアンは屈託のない笑顔を見せた。そうして、くるりと踵を返すと、うきうきとした軽い足取りで部屋から出て行った。
ダミアンはクリスターの言葉にすっかり魅了され、暗示にかかったような状態になっている。そのうち目が覚めて、自分が騙されたことに気がつけば、烈火のごとく怒るだろう。クリスターとしては、願わくば、できるだけ長い時間楽しい夢を見ていてくれという気持ちだった。
(さて、まずはここから脱出し、ダニエルのもとに行こう。それから―)
再び1人になったクリスターは自由になった左手で針金を操り、もう片方の手を戒める枷を外しにかかった。
これからの計画を冷静に組み立てている頭の片隅に、もう1人、どうしても忘れることのできない人間の面影がふと掠め、彼の指先を鈍らせた。
(アイザック、君はどこにいる…?)
もしも、ここでアイザックを見つけることができればという可能性も、捨てきれない。しかし―。
クリスターは絡み付いてくる何かを振り払うように頭を振って、再び作業に専念し始めた。