ある双子兄弟の異常な日常 第三部
SCENE6
屋敷の玄関ホールまで出迎えに現われた執事のロバートによって、前回ブラック家を訪れた時に通されたのと同じ部屋に、クリスターは案内された。
すると、既にそこにはジェームズがいて、彼がやって来るのをじっと待ち受けていた。
クリスターは部屋に入った所で、とっさに足を止めた。
椅子に深く身を預け、ピラミッドのような形で組んだ手の上に軽く顎を乗せるような姿勢で、何事かを思い巡らせているジェームズ・ブラック。
あの印象的な再会からそれほど日は経っていないはずなのに、急激に痩せ衰えたように見える、その姿に少しばかり虚を突かれた。
「やあ、クリスター」
作り物めいた綺麗な微笑が、ジェームズの形のいい唇にうかんだ。
「また君と会えて嬉しいよ」
その目には、うたた寝する猫の目にかかる薄膜のように、うっすらと無表情の紗がかぶさっていたが、クリスターを認めた瞬間、すっと膜が引いて、その瞳があらわになった。
クリスターは思わず身震いしそうになった。
「あれだけ酷いやり方で挑発されたんだ、普通ならばもっと感情的になってもいいはずだけれど、さすがに君は冷静だね。今度はどうやってここに乗り込んでくるのか、ちょっと楽しみにしていたんだけれど、正面から堂々と入ってくることを選んだんだ。勇敢なのかな、それとも、この期に及んで無駄な悪あがきをするつもりはないということかな」
クリスターはすぐには答えず、ジェームズの後ろの方で、壁に背中をもたせかけるようにして立っている、白い髪をした小柄な少年を見やった。
クリスターの注意が自分に向けられていることに気付いたダミアン・ハートは、威嚇するかのように白い歯を剥く。
瞬間、クリスターの脳裏に、電話の受話器越しに聞いたダニエルの悲惨な叫び声でこだました。
「…後者の方だよ、ジェームズ、この屋敷の警備をかいくぐって忍び込むなんて無駄な労力と時間をかけるよりは、正面から扉を叩いて中に入れてもらう方が簡単だからだ。第一ダニエルを人質に取られてしまっては、僕には歯向かいようがない」
声に出してはあくまで平静に、クリスターはジェームズに語りかけた。
「そうだったね…あんな詰まらない子でも、ある程度、君の足枷になるんだ。少し意外かな…そんなに簡単に他人に心を預けるような人間ではなかったと思うけれど、僕がいない間に、随分甘くなったようだね…?」
ジェームズが気だるげに手を上げて、クリスターに自分の前の席に坐るよう促す。クリスターは無言で従った。
「でも、やはり、僕にレイフを押さえられていた時ほどの深い瞋恚は伝わってこない。できることなら、あの時と同じ、うかつに触れるとずたずたにされてしまいそうな、研ぎ澄まされた刃のような凄まじい殺気を放つ君をもう一度見たかった。そう言えば、レイフは連れて来なかったのかい?」
「置いてきたよ。君も充分承知しているように、あいつは僕の最大の弱点だからね。レイフは安全圏にいてもらう方が、僕にとっては好都合なんだ。例えば、こうして君を目の前にしても、何とか理性を保って交渉に臨むことができる」
ほんの一瞬、クリスターの琥珀色をした瞳の奥にゆらりと立ち上る業火の片鱗を認め、ジェームズは喉の奥で楽しげに笑った。
「交渉? 一体、今更何をこの僕と話し合おうというんだい? ダニエルを解放して欲しいというのなら、僕はその件については吝かじゃないよ。だって、君が僕の手の内に飛び込んできてくれただけで、あの子はもう充分役割を果たしてくれたわけからね。それに、誤解してもらっては困るけれど、怪我人を更に痛めつけるような悪趣味は、この僕は待ち合わせていない」
居心地悪そうに身じろぎするダミアンを斜め後ろに軽く睨みつけて、ジェームズは再びクリスターに向き直った。
「ジェームズ」
「うん?」
「ダニエルの解放はもちろんだが、僕はそのためだけにここに来たわけじゃない」
ジェームズは問いかけるかのごとく眉を上げた。
「僕は君に、降参を告げるために来たんだよ。このゲームは、ジェームズ、君の勝ちだ」
クリスターが落ち着いた口調でそう言った途端、ジェームズの隙なく作りこまれた穏やかな仮面に微かな小波がたった。クリスターがいきなり何を言い出したのか理解できず、怪しんでいるようだ。
そんなジェームズの暗い双眸をまっすぐに見据えたまま、クリスターは、ここに来るまでに既に考えていただろう話をゆっくりと語って聞かせた。
「僕と君は、周り中を巻き込んでの闘いをゲームのように楽しんできた…僕が望んで始めたわけじゃないという言い訳も、この際だからしないよ。実際僕も、こんなことは間違っていると思いながらも、君との危険な係わり合いの中に、一種のスリルと快感を覚えていた。それらを、日々の空しさや苛立ちを忘れるために、時には必要とさえした。君が施設に閉じ込められても尚僕を諦めず、もう一度闘いを挑む気なんだと知った時には、正直喜びさえした。もう一度、我を忘れるほどに没頭できる、あのゲームができる…僕と対等に渡り合える、僕の心の裏の裏まで読み、本当に僕を攻略しかねない手強い敵である君を、ある意味好ましくさえ感じた、でも…」
クリスターは一瞬何かが胸に詰まったように、言葉を途切れさせた。ゆっくりと頭を左右に振った。
「僕には、これ以上続けることは出来ない。もう充分過ぎるほど、僕は、僕の家族、友人、恋人…大切な人達に犠牲を強いてしまった。彼らを守るためだと言いながら、現実には、僕はその逆の結果をもたらしてしまったんだ」
「そんな些細なことを君が気にするのかい、クリスター? 何も知らなかった君の家族はともかく、君の仲間達は自ら望んで君に従ったのだから、立場は同じはずだよ? それほどまでの責任を君が感じる必要はないと思うけれどね」
「僕は君とは違う」
クリスターは強い口調で言い切った。
「そう、違うんだ…僕にはどうしても、ダニエルやアイザック、コリン、ミシェル…大切な仲間達を僕の計略を実行するためのただの手駒として扱うことは出来ない。彼らの誰も、これ以上傷つけたくない、追い詰めたくない。ましてや僕の家族には、もう二度と決してあんな悲しい思いはさせたくない」
クリスターは両腕で己の体をかき抱くようにしながら、熱心に訴え続けた。
「君には僕の胸の痛みなど分からないだろう…それは、君が愛する者、守るべき者を持たないからだ。僕が君の心に揺さぶりをかけようとしても、実際君には付け入る隙がない。攻めるべき弱点などひとつもない、君はまさしく怪物だ。そんな君に、所詮はただの人間である僕が闘いを挑んでも、初めから勝てる見込みなんてなかったんだ」
「だが、君は一度、僕に勝った」
苛立たしげな固い声で、ジェームズは言い返した。
「あれも一時しのぎに過ぎなかったじゃないか。君からしばらくの間自由を奪うことはできたが、君は精神的には全くダメージを受けなかった。諦めるどころかむしろ嬉々として僕との再戦に期待をかけ、そして、今ここにいる。君を喜ばせるだけの戦いをこのまま続けていても、きりがない…だから、僕は降りることにしたんだ」
「そんなに簡単に諦めてしまえるものなのかい? 確かに、僕は君から大切な仲間達を1人ずつ奪い、君の使える手を封じようとしたけれど―君にはまだ僕に隠している手駒も幾つかあれば、頭の中で考えている策だってあるはずだよ? それらを試すことすらせず、君が僕との勝負を投げ出すなんて信じられないな。僕に負けを認めるだって? 冗談だろう? 第一、君の僕に対する、同族嫌悪とも言える憎悪は、それじゃあ鎮火できないはずさ」
クリスターはおもむろに椅子から立ち上がった。はっとなったダミアンがポケットに手をやりながら身構えるのを、ジェームズが手で制する。
「それでも、ジェームズ、僕の負けなんだよ」
クリスターは疑り深げに自分の挙動を見守っているジェームズに歩み寄り、その前に跪いた。
「頼むから、これ以上の無駄な争いをしかけないでくれ…僕達のゲームは終わったんだ」
クリスターは、椅子の肘掛部分をぐっと握り締めているジェームズの手を取り、その指の付け根にそっと唇を押し当てた。
プライドの塊のようなクリスターにいきなり恭順の姿勢を取られて、ジェームズは困惑したようだ。
「そんな言葉は信じられないな、クリスター…君は僕を欺こうとしているだけじゃないのか?」
「信じてもらうしかないよ、ジェームズ…何なら、君の勝者としての権利を行使してみるかい?」
クリスターはジェームズの手を捕らえたまま身を乗り出すと、反対側の手で彼の肩を捕らえ、そっと引き寄せた。
2人は今にも触れ合いそうなほど顔を接近させて、互いの瞳の奥にある深淵を覗き込みながら、囁きかわした。
「僕は今、君の手の内にある。君はそうしようと思えば、僕を傷つけることも殺すことも好きにできるんだ」
「まさか、本気で言っているのか?」
「殺されるのは困るけれどね。でも、君の期待に反して一方的にゲームを降りたペナルティは受けるつもりだよ」
クリスターの声が一層低く、深遠な響きを帯びた。
「君が僕から奪うことで、ある程度満足できるものだ―この条件で僕を取り巻く全てから手を引いてほしい」
クリスターは、その時頭の中に浮かび上がった、レイフの責めるかのような顔に向かって謝りながら、ジェームズに告げた。
クリスターの語ることにじっと耳を傾けていたジェームズの藍色の瞳が、次第に大きく見開かれていく。
これほどまでに驚かされたことは生まれて初めてだというように、ジェームズの顔は束の間全くの空白になった。
「クリスター、君は―一体どういうつもりで、そんな…?」
呆然と呟いた後、ジェームズは軽い眩暈でも覚えたかのように目を閉じ、眉をきつく寄せて、じっと思考を巡らせ始めた。
「ほんと、いかれてやがる」
クリスターの提案を耳にしたダミアンまでが唖然となってそんな言葉を漏らす。
ふっとクリスターが苦笑した時、突然、ジェームズは彼の腕を指先が食い込むほどの強さで握り締めた。
「ああ、君の考えが読めたよ、クリスター…なるほど、そういうことか…!」
ジェームズはクリスターの腕を掴んだまま、くすくすと笑い出した。
「全くろくでもないことを思いつくね、君は―自分の目的を果たすために、この僕まで利用しようとはね! そして、そんな身勝手な頼みごとをこの僕に面と向かってするとは、呆れるのを通り越して感服するよ」
「だが、君にとってもこれは悪い話ではない…そうだろう、ジェームズ?」
束の間剥き出しになっていたジェームズの顔が、再び用心深く閉ざされた。
「君の提案を僕が素直に受け入れるなどと、本気で思っているのかい?」
「さあ、どうかな…だが、少なくとも君は今迷っているように見えるよ?」
黙りこむジェームズの顔を覗き込んだクリスターは、誘いかるように目を細めながら、その手を引き寄せて自分の頬に触れさせた。
「僕が欲しくないのかい、ジェームズ?」
ジェームズは食い入るようにクリスターの顔を見つめた。その喉が、渇きを覚えたかのように上下する。薄く開いた口からは、蛇めいた紅い舌がちろりと覗いて唇を舐めた。
「クリスター」
クリスターは軽く伸び上がってジェームズにキスをした。微かに唇の表面を擦り合わせた後、開いた唇の間に舌を差し入れてやる。
外側はひんやりと冷たげなのに内側に入ってみると意外と熱いのだなと、クリスターは思った。
ジェームズの手がクリスターの頬を這うように動いて、頭の後ろに回りこんだ。指先にぐっと力がこめられ、それにも増して貪欲さを発揮した唇がクリスターの唇を吸い、舌に舌を絡ませてくる。
己の全てを呑み尽くさんとする巨大な空虚の存在を、今、自分がかき抱いている痩せた体の内に確かに感じ取ったクリスターは、本能的な恐れに思わず肌を粟立たせた。
塗れた唇と舌が触れ合う音が響く合間に、漏れる吐息。
ジェームズの柔らかな金髪の中に指を入れたクリスターは、薄っすらと目を開いて、壁際に硬直したように立ち尽くしているダミアンを見やった。
自分でも抑えられないかのように小刻みに体を震わせ、嫉妬のあまり狂わんばかりの形相をして、ダミアンはクリスターを睨みつけている。
クリスターは冷たく目を細めながら、少年に見せ付けるよう、更に強くジェームズを引き寄せた。
緑の瞳の奥に殺意が灯る。
ジェームズが苦しげに息をついたところで、クリスターはようやく彼の体を押し返した。
「参ったな…」
ぽってりと紅く塗れた唇を舌先で舐めながら、ジェームズは苦笑の含んだ眼差しをクリスターに投げかけた。虚無的な瞳は常になく熱っぽく潤み、人工物のめいた白い肌さえも薄っすらと赤味を帯びている。
「僕の中に君が付け入る隙がないなんて、本当は思っていないだろう…? 実際、僕は君には弱いようだ…罠だと分かっていても、つい飛び込んでみたくなる」
乱れた髪を手で撫で付けながらジェームズが椅子に坐りなおすのを見て、クリスターは立ち上がった。
「それにしても、本当に、君をどうすればいいのかな、僕は―君をずっと手に入れたいと願ってきたはずが、こうして君が実際手の中に飛び込んできて、しかも僕の好きにしていいなんて言い出すと、どうすればいいか分からない…夢に見るほど、あまりにも深く君を想いすぎたのかな」
ひんやりとしたものを肌のすぐ下に感じながらも、クリスターは表面上平静さを保ち続けた。
「ゲームを打ち切る代償に君を―確かに、多少心を引かれることは認めるよ、しかし」
ジェームズは瞼を半分下ろしながら、意味ありげな含み笑いをした。
「それだけで君との縁を断ち切るなんて、あんまり呆気なさ過ぎて、僕は諦めきれそうにない…もう少し君には僕に付き合ってもらいたいな…」
「いつまでだい? ジェームズ、君の諦めがつくまで何なら僕は待ってやってもいいが、君の方には果たして、そんな悠長なことをしている時間はあるのかい…?」
引っ掛けるつもりでクリスターが尋ねると、ジェームズの顔にふっと微妙な表情が過ぎった。だが、更に追求する前に、ジェームズは会話を一方的に断ち切った。
「フレイ」
ジェームズが声をあげると部屋の扉が開いて、無表情を装ったフレイがのっそりと姿を現した。
「クリスター、君の申し出については、少し考えさせてもらうよ。その間、君にはこの屋敷に留まってもらう。悪いけれど、しばらく不自由な思いをさせるよ。油断をすると、君はまた策略を巡らせて、僕の懐から勝手に飛び出し、何かとんでもないことをしてくれそうだからね」
「僕1人で何ができるというんだい、君の考えすぎだよ」
ジェームズはあいまいな笑顔を見せると、無言のまま待ち受けているフレイに頷き返した。
「来い、クリスター」
感情を抑えた低い声が呼びかけるのにクリスターは素直に従って、部屋を後にした。
扉を潜る時、ふと後ろを振り返ると、消耗しきったようにぐったりと椅子に身を預けたジェームズが片手で頭を押さえるのが見えた。
クリスターも疲労を感じながら、肩でほっと息をついた。
「…ダニエルには会わせてもらえないのか?」
フレイの後について階段を降りていきながら、クリスターは慎重に尋ねてみるが、それに対しては素っ気無い返事が返ってくるだけだった。
「そんなことはジェームズから命じられていない。それに、腹に一物ありそうなおまえに、ダニエルの居場所を教えることが懸命だとも俺は思わん」
クリスターは僅かに苦笑した。
「相変わらず、ジェームズに忠実なんだな」
どこに連れて行くつもりかと思いながらついていくと、フレイはクリスターを物置やワインセラーの他、使われていない部屋が幾つかある地下へと導いた。
「おまえは油断ならない。だから、念のため、逃げられないよう体を拘束させてもらうぞ。部屋の前にも見張りを立たせる。ジェームズからの呼び出しがあるまで、居心地は悪かろうが我慢しろ」
クリスターが脱出をはかるとフレイは疑ってかかっている。だからこそ、逃げ道の限られた地下室に厳重に閉じ込めるつもりなのだ。
「ここだ」
扉の1つの鍵を開けて押すと、ぎいっときしむような音を立てて、それは開いた。
長い間閉めきったままだったのか、やけに黴臭い湿った空気を感じ、クリスターは鼻をしわめた。
窓1つない部屋は暗かった。フレイが壁のスイッチを入れると天井の裸電灯がつき、内部を照らし出した。
クリスターは眉をしかめた。家具らしいものはひとつもなく、がらんとした部屋で唯一クリスターの目についたのは、黒っぽい染みのついた壁の近く、天井から垂らされている二本の太い鎖だった。端にはしっかりとした手かせがついている。
「…なかなかいい部屋だな。ジェームズの手下達が誰かを監禁して制裁を下したか、あるいは単にいたぶるのにでも使っていたのか」
冷気と共に足元から這い登ってくる嫌悪感を押し殺しながら、クリスターが感想を漏らした、その時、いきなり傍らにいたフレイが体を捻り、クリスターの腹に拳を打ち込んだ。重いパンチにクリスターは身を2つに折って、呻く。
「う…っ…」
フレイはすかさず、喘ぐクリスターの横っ面を殴りつけた。
さすがに持ちこたえられず、クリスターはよろめいた。その体をフレイは乱暴に掴み、部屋の奥へと押しやった。
「あまり調子に乗るなよ、クリスター」
乱暴に壁に背中を打ち付けられたクリスターは、軽く咳き込む。
フレイはクリスターの両手首を頑丈な鎖に固定すると、彼の胸倉を引き寄せ、唸るように言った。
「俺がおまえをこの場で八つ裂きにしないのは、ジェームズの命令があるからだ。だが、もしも、おまえがジェームズに逆らい、彼に害を及ぼそうとするなら、俺はおまえを今度こそくびり殺してやる。脅しではないぞ」
フレイの落ち窪んだ小さな目の奥にちろちろと燃えている燠火を、クリスターは冷ややかに見返し、何も言わず顔を背けた。
「それにしても、なぜジェームズはここまでおまえに甘い…? どれほど危険な奴か分からないジェームズではないだろうに、なぜ無傷のまま捕らえこんでおこうとする…? クリスター・オルソンはジェームズにとって何なんだ、おまえを一体どうすれば、彼は満足できるというんだ?」
そうフレイは口惜しげに呟いたが、クリスターは無関心のまま、目を上げて彼を見ようともしなかった。
その態度に怒りを掻き立てられたものの、ジェームズの命令があっては、さすがのフレイもそれ以上クリスターに何もできなかったようだ。クリスターを鎖につないだまま放置して、腹立たしげな足取りで部屋から出て行った。
後に残されたクリスターは、やっと一人になれたことを確認すると、全ての緊張を解いて、長嘆した。
それきり、後は、特に戒めを解こうとあがくわけでも、ここから出すよう扉の外に向かって訴えるわけでもなく、ひたすら静かに、深く、己の思考の中に沈んでいった。
そして、その頃、クリスターと同じほど深い物思いにふけっていたジェームズは、今にも泣き出さんばかりに気持ちを昂ぶらせたダミアンが足元に身を投げ出すように跪き、膝に顔を埋めるのに、ちょっと眉をひそめた。
「今は、おまえの相手をしてあげる気分じゃないよ、ダミアン」
声までもつい尖ったものになってしまう。それほどにクリスターが先程示した意外な提案に心を乱されているのだろう。
「ジェームズ、オレにあいつを殺らせてよ、お願いだから―」
クリスターとジェームズの親密な接触を目の前で見せつけられてしまったダミアンは、身の内から噴出してくる殺意を抑えきれなくなっているようだ。
「何度も言っているけれど、駄目だよ、ダミアン。ダニエルを勝手に痛めつけたことは僕も大目に見てあげるけれど、もしもクリスターの髪一筋、傷つけてごらん、僕は二度とおまえを可愛がってあげないからね」
「そんな…」
よほどショックだったのか、幼児のようにめそめそ泣き出すダミアンの白い髪を、ジェームズは指先で撫でてやる。
「あいつ、あんたを騙そうとしているんだよ、ジェームズ…あんな奴の言葉を信じちゃ駄目だ。あんな常識外れの取引を持ちかけるなんて、あんたを惑わすための罠じゃないなら、クリスター・オルソンは頭がおかしいんだ!」
「あの申し出自体は、クリスターは本気で言ったんだと思うよ。ただ、ここで気をつけなければならないのは、クリスターがある行動に出る時、その目的は大抵ひとつだけはないということなんだ。自分の愛する者達にこれ以上迷惑をかけないために、ゲームを打ち切りたい、そのための代償は払うから―これだけを額面どおりに受け取ると、その裏に隠された、もう1つの目的を見過ごす。幸い僕にはクリスターの真の目的まで読めた…いや、クリスターは僕に心を見透かされることまで予想しただろう。それでも僕は拒否しないと、彼は踏んだんだ」
「断っちまいなよ、あんな奴の思い通りにしてやることはない!」
ジェームズはここで悩ましげに眉根を寄せ、ゆらゆらと頭を左右に振った。
「僕が今一番困っているのは、僕自身クリスターの妥協案に惹かれていることなんだよ」
「まさか、本気なの?」
「少し前までは、受け入れることなど全く考えられない、馬鹿げた申し出だと拒否するところだけれど、今の僕にとっては―」
自嘲的に呟きながら、ジェームズは、またしても微かな痺れが戻ってきた指先を掌に包み込んだ。
「この機会を逃せば、僕は二度とクリスターと対峙することはできないだろう。僕達のゲームを、こんな呆気ない形で終わらせるのは悔しいけれど、実際問題、僕に残された時間は僅かだ…ならば、せめて、クリスターから奪えるものは奪っていこうか―ああ、でも…」
激しいジレンマに陥ったジェームズは、何かを振り払おうとするかのごとく乱暴に頭を振りたてた。
気持ちの昂ぶりが体にも影響するのか、彼は苦しげに呼吸を乱し、椅子の背に力なく寄りかかった。
「ジェームズ、ジェームズ…大丈夫かい? クリスターを相手にすると何だかあんたはとても消耗するみたいだ…部屋でちょっと休んだらどうだい?」
おずおずとジェームズの脚をさすりながら、ダミアンが訴える。
「そうだね…」
ほんの僅かな時間クリスターと話しただけなのに、体力が続かなくなってきたことを、我ながら情けなく思いながら、ジェームズは頷いた。
その時、ジェームズの傍らにかしずいたダミアンの服のポケットから、カチッと何かのスイッチが切れるような音がした。
「あ、忘れてた」
ジェームズが訝しげに見やる前で、ダミアンはポケットから小型のテープ・レコーダーを取り出した。
ジェームズは呆れたように目を丸くした。
「なんだ、クリスターと僕の会話を録音していたのかい? 全く、盗聴なんて悪趣味な遊びを覚えてしまって―」
「ごめんなさい、つい…」
悪戯っぽく舌を出してみせたダミアンは、テープを適当に巻き戻した所で再生スイッチを押した。すると、クリスターの落ち着き払った声が掌よりも小さな機器から流れ出した。
『―君が僕から奪うことで、ある程度満足できるものだ―この条件で僕を取り巻く全てから手を引いてほしい。僕の未来を君に潰させてやる。それは―』
クリスターの声によって再び語られる、あの信じがたい申し出に耳を傾けながら、思わず想像してしまったジェームズは、ぞくりと戦慄にも似た甘美な感覚が全身を走り抜けていくのを覚えた。
「やっぱり、何度聞いても、あいつの言うこと、おかしいよ」
普段は、他人の目から見ればよほどいかれているはずのダミアンが、しごくまともな感想をもらすのを聞きながら、ジェームズはじっと考えこんだ。
「そのテープ、僕にもらえないかな、ダミアン」
思いつくままに頼み込むと、余計な勘繰りをしたらしいダミアンはちょっと嫌そうに顔をしかめたが、ジェームズの頼みを彼が断れるはずはなかった。
「どうするのさ、それ?」
「何かあった時のために、取引の証拠は大切に保管しておかないとね」
意味ありげに微笑んでテープを受け取ったジェームズの脳裏には、クリスターが考えたであろうよりも更に先の未来予想図があった。
(何もかも君の思い通りにはさせないよ、クリスター。もっとも、君が気づくのはずっと先になりそうだけれどね…僕という毒は遅効性なんだと君はやがて思い知る。この頃の君は余計なことにばかり気を取られて、僕のしかけた罠を見過ごしがちだから―)
そう、ジェームズもまたクリスターと同じ、行動を起こす際、その目的は常に1つとはしない人間だったのだ。