ある双子兄弟の異常な日常 第三部
SCENE5
その時オレは、何事かと周囲を取り巻く生徒や教師達のはるか向こうに、恐ろしく冷たい目をしたクリスターが佇んでいるのを見つけた。
オレ達が中学生だった頃の時の話だ。
クリスターのふりをしてカウンセリング・ルームを訪れ、アイヴァースを騙そうとしたおかげで、オレはあいつにキスされる羽目になった。
怒りに我を忘れたオレが散々騒いだ末にアイヴァースをグラウンドで追い詰め、叩きのめすのを、クリスターは校舎の陰からじっと眺めていた。
あいつはただ眺めていた。
まるで、オレの手でアイヴァースに制裁が下されることで己の深い憤りを晴らそうとしているかのような、酷薄な表情で。
突然自分が巻き込まれたショッキングな体験に心底傷ついていたオレは、クリスターにすぐにでも駆け寄って慰めてもらいたかったけれど、できなかった。
あいつの全身から放射されている、近寄りがたいほどの冷たさが、オレの足をその場に縫いとめた。
それからしばらくして、オレは、全てが兄の仕組んだ計略であることを知った。あいつは、アイヴァースを学校から追い出すために、オレを利用したんだ。
目的のためには手段を選ばない、時として、自分の大切な人達さえも利用する。クリスターの芯には、そういう情け容赦のない冷酷さがある。
当然ながらオレは傷つき、クリスターをなじったが、最後にはあいつを許した。あいつの狡さに腹を立てながらも、認めるしかなかった。
仕方ないさ、オレはあいつを愛しているんだ。
ただ、頼むから、二度とオレを騙さないでくれ、裏切らないでくれ。
クリスターはたぶん分かってくれたと思う。
それでもオレは、その後もずっと、あの場面を忘れられないでいた。まるでオレの知らない他人のような、クリスターのあんな表情を見たのは、たぶんあの時が初めてだったからだろう。
何てことだろう、あれと同じクリスターの顔を再び見ることになるなんて―。
(畜生畜生、何が一緒に闘ってくれ、だ。あれは、オレをなだめておとなしくさせるための方便で、本心じゃなかったんだ。J・Bがどんなに厄介な敵でも、オレはあいつの相棒として、あいつを守りながら2人で立ち向かうつもりだったのに―クリスターは結局、オレを認めてくれてはいなかった)
数時間前、学校の駐車場近くで偶然見つけた、クリスターの表情や態度を思い返しながら、レイフは悔しげに唇を噛み締める。
(クリスターのあの顔、どっかで見たなぁと引っかかっていたんだけど、思い出したよ。オレをはめてアイヴァースを追い詰めるために利用した時だ…心を閉ざした、オレの理解できない、他人のようなクリスター…)
そんなことを思うにつけ、怒りと哀しさがこみ上げてきて、ただでさえぐつぐつと沸騰している頭が一気に爆発しそうになる。
(おまえは、今度も勝手に自分1人で決めて、行動しちまった…それがおまえの正しい判断とやらなのか? オレを騙してまで振り切って、1人で危険の中に飛び込んでいくことがか!)
抑えても抑えても噴出しそうになる激情を静めようと震える拳をぐっと握り締めるレイフに、運転席に坐ってレイフの代わりにハンドルを握っているトムが、気遣わしげに声をかけてくる。
「そんなに心配するなよ、レイフ、クリスターならきっと大丈夫さ。だって、あのクリスターが何の考えもなしにこんな無茶な行動を取るものか、そうだろう?」
思い出したようにはっと傍らの親友を振り返ったレイフは、神妙な顔つきをして、言った。
「すまねぇな、トム…こんな面倒なことにつき合わせちまって―」
「ああ、いいから、妙な気を使うなよ。大体、あんな興奮状態のおまえにハンドルを握ることを許したりしたら、それこそ犯罪になっちまうよ」
「ごめん」
クラブ・ハウスに閉じ込められていたところを発見された時の自分の有様を思い出して、レイフは薄っすらと顔を赤らめた。
「それにしても、ひどくやられたなぁ、その顔…見事な青たんになりそうだぜ。ちったぁ手加減してもいいだろうに、クリスターの奴」
これには苦笑いしながら、レイフは、クリスターに殴られた、顔の左側を手で覆った。
レイフが意識を取り戻した時、彼はフットボール部の用具室に閉じ込められていた。しかも手は手錠によって壁の鉄製のパイプにつながれ、足はロープで厳重に縛られ、更に口にはタオルが噛まされていた。
自分の状況を理解した途端怒り狂った獣と化したレイフが、力を振り絞ってもがき、呻きながら、一時間ほど脱出を試みていたところ、たまたまクラブ・ハウスの傍を通りかかった寮生が中から怪しい物音がすると管理人に報告した。
知らせを聞いたトムは、部室の鍵を持ってすぐに飛んできてくれた。それに、手錠の鍵もクリスターがすぐに分かる所に置いていったため、レイフは程なく自由を取り戻すことができた。
その後しばらくは説明を求める管理人達との間でもめたが、とにかくレイフは荒れ狂っており、強引に振り切って出て行く彼を無理矢理引き止めるだけの勇気のある者もいなかった。
「でもさ、後でコーチにこってり絞られるくらいは覚悟しとけよ。弁償くらいですめばいいけど、おまえの破壊行動おかげで、用具室は一部損壊だし、チームの備品も中には駄目になったものもありそうだったからなぁ。全く、あの惨状を見た時には、唖然としたよ、おまえはモンスターか?」
「何だよ、オレは被害者なのに、ひっでぇなぁ。弁償なら、クリスターをとっ捕まえて、あいつのアルバイト料から出さしてやるよ」
「そうそう、ついでに慰謝料もふんだくってやれよ」
「よくもオレのこのキュートな顔にキズをつけたなーってか?」
ピリピリしていたレイフも、こうやってトムと他愛のない冗談を言い交わしているうちに少しずつ落ち着きを取り戻していった。その意味でも、この気の置けない親友が今隣にいてくれて、よかったのかもしれない。
トムには、こうやって車に乗り込んでクリスターを追いかけに行く前に、一応大雑把に事情を説明した。もっとも、口下手な上、取り乱しているレイフの言うことをどこまで彼が理解したかは不明だ。こうして今レイフに付き合ってくれているのは、とにかく1人では行かせられないという純粋な友情からだろう。
そのトムが、ふいに思い出したように提案した。
「なあ、レイフ、おまえの知り合いの刑事にもう一度電話を入れてみたらどうだ?」
レイフはちょっと迷った。
実際、学校を飛び出す前に一度、先に親や警察に知らせた方がいいというトムの主張にクリスターからもらったメモを思い出したレイフは、ケンパー警部に連絡を取ろうとした。しかし、生憎と彼が不在だったため、非常事態を知らせる短いメッセージだけを残して、電話を切ったのだ。
「うん…でも、とにかく先にジェームズの屋敷まで行きたいんだ。もしかしたら―クリスターが1人で乗り込んでしまう前に捕まえられるかもしれないし―」
だが、実際、それは望み薄だとはレイフにも分かっていた。
レイフがクラブ・ハウスに監禁されてから、やっとのことで脱出し、こうしてクリスターを追い始めるまでに、既に4時間以上経過している。クリスターがどんな方法でダニエルを救い出そうと考えているのか知らないが、レイフが間に合うほど悠長な真似はしないだろう。
(クリスターの馬鹿野郎、おまえ1人で一体何ができるっていうんだよ。こんな時こそオレを頼ってくれたらいいのに、どうして、そこまで―)
またしてもこみ上げてきたやりきれなさを堪えるよう、レイフは密かに歯を食い縛る。
車の助手席にじっと坐っていることが耐え難いほどの焦燥感に胸を焼かれながら、レイフが窓の外を見ると、ハイウェイの出口から、遠くに広がるブラック家所有の私有林、その向こうにぽつんと佇む門衛小屋が見えた。
かつてここを何度か訪れた時の嫌な記憶が、その風景の中からうかびあがってくる。
(くそっ)
レイフは軽く身震いした。
次の出口からハイウェイを下り、側道をしばらく進んでいくと、屋敷へと続くメイン・ゲートが見えてきた。だが、ひとまずそこは通り過ぎ、ブラック家の敷地である林を囲う金網を横に見ながらしばらく走った所で、一端車を停め、地図を確認する。
「メイン・ゲート付近には、クリスターの車はなかったけれど―これから、どうする?」
「正面から訪ねていっても、オレらは招かれざる客だし、追い返されるか警察を呼ばれるかが関の山だろうさ。どっかから、こっそり中に忍び込めないかな?」
そうして彼らは、しばらくフェンスの周りをぐるりと一周するように側道を走ってみた。
メイン・ゲートの他にも幾つか入り口はあったが、いずれも固く閉ざされている。
(門を破ったりフェンスを越えていったりすること自体は、それほど難しくなさそうだけれど、警備の方が気になるな。確か、昼間のうちは敷地の管理業者が働いていて、それに門衛小屋にも警備員がいるはずだ)
かっかとなっていた頭も、目の前に迫る現実について考えているうちに冷えたらしい。レイフはじっと状況を分析した末に、ぽつりと言った。
「明るいうちは、忍び込むのは無理そうだな。暗くなるまで待つしかないか…夜になれば、敷地の警備員達は帰っていくし、これだけ広い所有地なら、1人や2人忍び込んでも見つからないと思うぜ」
自分で言った後、レイフはふいに堪らなくなって、黙り込んだ。
(クリスターはおそらくもう屋敷の中に入っちまったんだろう。あの下手なストーカーよりたちの悪いジェームズに会って、一体どんな目に合わされるか知れたものじゃない…一刻も早く助けに行きたいのに、ここまで来ていながら、待つしかないのか…)
レイフは焦燥感に駆られながら車の外を見やった。
「レイフ?」
不審そうなトムの呼びかけにも応えず、車の外に出たレイフは、高いフェンスに近づくと、金網にすっと手を伸ばし、掴んだ。
(この向こうにクリスターがいる)
我慢しきれなくなったレイフが衝動的にフェンスによじ登ろうとした時、トムの緊張した声が背中にかけられた。
「レイフ! 戻って来い、誰かがこっちにやって来るぞ」
弾かれたように、レイフはフェンスから飛びのいた。素知らぬふうを装って車に戻っていきながら、運転席から顔を覗かせているトムが示す方を見やる。
少し離れた路上に停車していた一台のバンの方から、1人の男がこちらにゆっくりと近づいてくる。
レイフがじっと凝視していると、相手もこちらが何者か確かめようとするかのごとく見返してきた。
(ブラック家に関係のある奴かな…オレ達がこんな所をうろうろしているから、怪しまれたんだろうか)
レイフは思わず舌打ちした。
(何をしているんだと追求されたら、道を間違えたとか何とかしらを切って…それが通じなきゃ、一発がつんとやって、のしてしまうしかないか)
クリスターの安否が気遣われる非常時であるせいか、つい殺気立ったことを考えてしまうレイフがぐっと拳を握り締めた時、その男がいきなり足を止めた。
「クリスターか?」
「え…?」
「何だ、やっぱりおまえか…よかった、少し前にメイン・ゲート近くでおまえと同じ車を見かけたものだから、気になっていたんだ。あれがもしクリスターだったとしたら、こんな時にブラック家を訪れて、一体何をしでかす気なんだろうとな」
レイフの姿を見て警戒を解いたらしい。その中年の男は軽快な足取りで近づいてきながら、親しげに話しかけてくる。
一方、レイフの方にも、男の姿にどこかで見覚えがあった。
(あれ…このおっさんの顔、誰かに似ている―そうだ、あいつにそっくりなんだ)
レイフははたとなって手を打った。
「そうだ、あんた、アイザックの親父さんだろっ?!」
レイフの言葉に男は再び立ち止まった。
「あー、そういや、本当にアイザックによく似てら」
様子を見て車の運転席から出てきたトムも、感心したように呟く。
「そうすると―君はクリスターではない、ああ、そうか、クリスターの弟のレイフか…!」
後20年くらい経ったアイザックという容貌の、知的で、痩せてはいるが芯に強いものを感じさせる男は、にやりと笑いながら、レイフに手を差し出した。
「驚いたな、てっきりクリスターかと思って声をかけたんだが、まさか弟までがここに乗り込もうとしているとはな。俺はウォルター・ストーン、アイザックの父親だ。俺のことは、クリスターから聞いているのか?」
レイフはこんな場所での思わぬ出会いにまだ少し戸惑いながらも、ウォルターとしっかり握手を交わした。
「うん、一応は…アイザックを見つけるために、仕事を休んでボストンにやって来て、どこかに部屋を借りてるって…あ、ちょっと待てよ、ウォルターさん、あんた、今確か、クリスターの車を見かけたって…オレ、クリスターをとめるつもりで追いかけて来たんだ」
はっとなって聞き返すレイフに、ウォルターは神妙な顔になって、頷いた。
「近くで見たわけじゃないから、確信は持てなかったんだが…そうすると、やはりあれはクリスターだったのか。メイン・ゲートから屋敷の方に確認を取って中に入れてもらったようだぞ。だが、一体なぜクリスターは急にここに来る気になったんだ? 俺は何も聞いていないぞ?」
レイフはウォルターに促されるがまま、ダニエルが拉致されたことなど、昨夜からの急展開について説明した。
「そんな大変なことになっていたのか…しかし、クリスターの奴、無防備のまま1人で乗り込んでいくなんてどういうつもりなのか。せめて、先に俺やケンパーに相談してくれてもいいようなものだが…」
無念そうに呟いて、ウォルターは考えを巡らせている。
「やっぱり、こんな所で時間をつぶしてられない、早くクリスターを助けなきゃ。J・Bは頭がいかれてて、クリスターに何をするか知れない、とても危ない奴なんだ…もしかしたら本当に、あいつ、クリスターの心を壊しちまうかもしれない…」
ワインスタインから聞いたぞっとするような話を思い返して、ますます不安に駆られたレイフは苛立たしげに訴えるが、冷静で現実的なウォルターは反対した。
ここしばらくこの辺りに張り込んで、ブラック家の動きを監視していたウォルターが言うには、数日前からいきなり敷地内の警備が厳しくなったという。
アイザックが屋敷内にいるのではと疑っていたウォルターは、一度は強硬手段さえ講じて、自ら侵入しようとしたこともあった。近くの町で知り合った若者達数人に頼んで、酔っ払いのふりをして敷地内でちょっとした騒ぎを起こしてもらった。その隙に、ウォルターは別のルートから忍び込み屋敷を目指したのだが、予想外の警戒態勢に阻まれ、結局建物までたどり着くことはできなかったのだ。
「平時でも、まだ明るいうちから、こんな大邸宅に忍び込むのは計画としてあまりに無謀だ。どうしてもやるなら暗くなってからだがーそれも、俺が今話したような状態だから、難しいぞ。人間の見張りだけでなく、大きな犬まで何頭も放してあったからな」
「だからって、クリスターがJ・Bに傷つけられるかもしれないって時に、何もせずにここで待っている訳にゃいかないんだ! あいつに何かあったら、オレ…」
「確かに、差し迫った状況ではあるな…昨日拉致された、ダニエルの状態も気がかりだ…しかし、やはり、まずは警察に行こう」
「ここまで来て、引き返せって言うのか?!」
「ここにいても、日が沈むまでは動きようがない。それなら、先にケンパーに会って事情を説明し、警察に介入してもらえるなら協力を頼んだ方がいい」
互いに一歩も引かず、睨みあっている2人の間に、おろおろしながらトムが入って来る
「おまえの気持は分かるけど、ウォルターさんの言うとおりだよ、レイフ…J・B相手に、俺達だけじゃどうにもならない。何も考えないで突っ込んでいっても、返り討ちにあって、とっ捕まるのがおちだよ。そうなりゃ、クリスターとダニエルを助けようって人間は誰もいなくなる。頭冷やして、よく考えてみろよ、レイフ」
トムにまで反対されては、さすがのレイフの心も揺らいだ。
「まあ、他に手段がなけりゃ、最後には力づくで押し入ってみるのも仕方ないがな。他にもっと有効な手が使えるなら、それを試みるのが賢明だろ?」
しょんぼりと頭を垂れるレイフの肩を叩きながら、ウォルターは明るく前向きに付け加えた。
「心配なら用事を済ませてすぐに戻ってくればいいんだ、レイフ。ケンパーに話を通しても、捜査令状やら何やらの手続きには相応の時間がかかる。それまで待ってはいられないから、後は彼に任せて、すぐに引き返そう…なあに、日暮れまでには余裕で帰ってこられるさ」
「分かったよ…」
ついに観念したレイフはうつむいたまま、口惜しげに呟いた。頭では正しいことだと分かっていても、レイフにとっては辛い決断だった。
(クリスター)
レイフは狂おしげな眼差しをフェンスの向こうに広がる林の方に送った。
(この先に、おまえはいるはずなのに…今すぐにでも、こんな柵なんか飛び越えて、おまえの所までまっすぐ走って行きたいのに、畜生…!)
腹立ち紛れに、レイフは足元に転がっていた石を蹴飛ばす。
傍にすっと寄ってきたトムが、そんなレイフの腕をそっと掴んだ。
「さあ、行こう、レイフ。ここで夜になるまで粘っていても、時間の無駄だし、万が一にも警備員に見つかったりしたら、それこそ厄介だろ?」
「トム…」
レイフは切なそうな顔で親友を見返して、溜息をついた。
(クリスター、頼むから無事でいてくれ…おまえもダニエルも、何とかそこから無事に助け出してやるから、それまでは無茶なことはするなよ)
レイフは最後にもう一度ジェームズの屋敷の方向を見やった後、くるりと踵を返し、トムと一緒に車に乗り込んだ。
(そうだ、警官に来てもらえたら、クリスターとダニエルの救出もきっとうまくいく…そのままJの野郎を逮捕してもらって、クリスターに二度と近づけないよう、刑務所にぶちこんでやるんだ)
そう言い聞かせることで自分を無理に納得させた。
そして、先に車を発進させたウォルターに続いて、後ろ髪を引かれながらも、レイフ達はひとまず警察に向かったのだった。