ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第6章 最後の闘争

SCENE4

(ダニエル…!)

 アイザックは血相を変えて、館の2階へと続く階段を駆け上りかけた。しかし、途中にある踊り場で、丁度下に降りてきた色素欠乏症の少年と鉢合わせをしてしまった。

「アイザック、あんた、誰の許しをもらって上に行こうっていうんだよ?」

 どことなく神経のささくれ立ったような声で、ダミアンは牽制してくるが、今のアイザックはその程度の脅しに怯むどころではなかった。

「おい、ダミアン、おまえ達は昨夜、ダニエル・フォスターを拉致して、ここに連れてきたそうだな?」

 アイザックは単刀直入に問いただした。

「しかも、ダニエルは怪我をしていたそうじゃないか。ジェームズはあいつには手出しをしないと言っていたはずだ。それなのに、コリンばかりか、あいつまで襲撃したのか…?」

 今この時まで、アイザックはダニエルがこの屋敷に連れてこられたことなど知らなかった。つい先程、同じアーバン校の生徒である、ジェームズの手下達が噂をしているのを小耳に挟んだのだ。

「誰が誰を襲撃しただって? ふん、忘れたのかい、コリンとミシェル、あんたの親友達をあんな目に合わせたのは、あんた自身だよ?」

 厳しい顔で迫るアイザックに負けじとばかり、ダミアンは半分伏せた瞼の陰から酷薄な緑の瞳を光らせながら、嘲るように言い返した。

 たちまち、アイザックの顔が朱に染まる。

「何だ、そんなつまらないことでいちいちジェームズを煩わしに行くつもりなのかい? 冗談じゃない、ジェームズは今、とても疲れているんだ。あんたの相手なんかさせられないよ」

 アイザックは屈辱に頬を引きつらせながらも、ダミアンを押しのけて、ジェームズの部屋を目指そうとした。

 瞬間、ダミアンは豹変した。アイザックの手を払いのけるや、ポケットから取り出したバタフライ・ナイフを素早く構え、激しく威嚇する。

「聞こえなかったか、アイザック、おまえをジェームズの部屋には行かせない。血を見る前に、素直に下がりな!」

 そんなダミアンの憤怒に歪んだ顔を凝視した後、アイザックはひとまず引き下がった。

 今までことある毎に衝突し諍いを繰り返してきた2人だが、この時のダミアンにはいつもと違う切迫したものが感じられたからだ。

「ダミアン、俺が知りたいのはダニエルが無事でいるかどうかだ…怪我の状態はどうなんだ? 今、この屋敷の中のどこに、あいつはいるんだ?」

「ふうん」

 アイザックが大人しく引き下がったのを見るや、すぐにダミアンもナイフを下ろした。

「ダニエルはちゃんと生きてるよ。傷の手当もしてもらったし。そうか、あんたは友達のことを心配しているんだ…ねえ、あの子の声、聞きたいかい?」

「ああ」

 ダミアンの人形めいた小さな顔に、ひどく残忍な表情がうかんだ。彼はポケットから小さなテープレコーダーを取り出すと、アイザックの眼前にかざして、スイッチを入れた。

『嫌っ、嫌だ、やめて…あ、ああっ…あっ…うわあぁぁっ!』

 たちまち、追い詰められ恐怖に駆られた者の、か細い悲鳴がテープから流れ出す。

 アイザックはびくっと身を震わせた。

『いや、離せっ…ああっ…』

 ダニエルの苦しげな声に混じって、他の複数の人間達が発する含み笑いや嘲り、呻き声、そして、人の肉体がこすれぶつかる、いやに生々しい音が聞こえてくる。

 束の間、アイザックは状況を理解することを拒んだ。顔を強張らせたまま、惨く淫靡な音声が響き渡るのに呆然と耳を傾けていた。

「どう? この音声、クリスター・オルソンに生で聞かせてやったんだよ? ダニエルって、あいつの恋人なんだってねぇ…そうだと知ったものだから、八つ当たりじゃないけど、ついあの子にまで腹が立ってきて、大勢の男達に散々やらせちゃったー。あはは、どう思ったんだろうね、クリスターは…可愛がっていた子の悲鳴はさすがに胸にこたえたかな。どんな顔で聞いていたか、見られなくて残念だったさ。もっとも一度はジェームズを追い詰めたほどの怪物なら、自分の恋人が弄られても、案外何も感じていないかもしれないけれどさ」

「クリスターをジェームズと一緒にするな!」

 思わず大声で怒鳴った後、アイザックは複雑な気分になって、黙り込んだ。

「面白い男だねぇ、アイザック。自分が進んで裏切った相手なのに、まだ未練があるのかい?」

 ダミアンはくすくす笑いながら、テープレコーダーの電源を切った。

「そんなあんたにとって、いい知らせなのか悪い知らせなのか分からないけど、たぶん、もうすぐクリスター・オルソンがここに乗り込んでくるよ」

 アイザックははっとなった。

「この間は、残念なことに会えなかったものね。さあ、行方不明のあんたをこんな所で見つけたら、クリスターは一体どんな顔をするんだろうねぇ。楽しみだよ、あんたの裏切りを見せ付けられた時、クリスターがあんたをどう扱うのか…?」

 弱みを突かれ、動揺のあまり居たたまれなくなったアイザックは、ダミアンから顔を背けた。

「まあ、安心しなよ、アイザック…あいつと会いたくなけりゃ、隠れてればいいんだ。それに―」

 ダミアンの声の中に何かぞっとするような響きを聞いて、アイザックは思わず振り向く。

「クリスターがここに現われたら、オレがきっと始末してやる。あんな危険な奴をジェームズに会わせられるものか…あいつ、今度はきっとジェームズを殺すつもりなんだ」

 ダミアンはアイザックを睨みつけたまま、悔しげに歯軋りした。透けるように白い頬に血の色が差し、目尻には薄っすらと涙が滲んでくる。

「それなのに、ジェームズはあいつに執着している、あいつを欲しがってる―あの、何にも心を捕らわれたことのないジェームズが、あいつには惹かれている。ああ、どうしよう、ジェームズを取られちゃう…」

 残忍なくせに妙に子供っぽい、熱にうかされたような口調で呟くダミアンを、アイザックは危うげなものを見るかのような目で見守っていた。

「ダミアン、おまえはいかれてるよ…」

 アイザックが頭を左右に振りながらぽつりと漏らすと、今日はいつも以上に情緒不安定なダミアンはいきなり興奮しだした。

「オレがいかれてたら、どうだっていうのさ! 何だよ、嫌な目つきで見やがって…畜生、ジェームズがとめてなきゃ、あんたなんかとっくの昔にばらしてやった、他の奴らみたいに―」  

 ダミアンがうっかり漏らした、その台詞にアイザックは眉をしかめた。その時、階段の上の方から、低い男の声が彼らに向かってかけられた。

「ダミアン、そこまでにしておけ。あんまり声を高くすると、部屋で休んでいるジェームズの神経に触る」

 ジェームズの名前を出されたダミアンはぐっと言葉を詰まらせ、黙り込んだ。

「それから―さっき、クリスターを殺すとか言っていたが、それは駄目だ。クリスターは何があっても決して傷つけてはならない、それはジェームズからの厳命のはずだ」

 ゆっくりと降りてきたフレイの巨体を憎たらしげに睨みつけると、ダミアンはふいっと顔を背け、そのまま一階に駆け降りていった。

「すまんな、アイザック、あいつはジェームズに精神的に依存しきっているんだ。だから、ジェームズの関心を独占しているクリスターとその仲間達を異常なほどに敵視している」

 アイザックは激しい疲労を感じながら肩で息をついた。

「まだほんの子供のくせに、あいつは人殺しをゲームのように思ってる…まるで殺人狂だ。ジェームズがそうさせたんだな?」

「あいつに関しては、色々と込み入った事情があってな」

 フレイは無骨な顔に複雑な笑みを浮かべて、ダミアンが消えていった方を眺めやった。

「アイザック、だが、分かっているだろうが、おまえにもこれからしばらく行動を自重してもらうぞ。おまえは自ら俺達の側についたんだということを忘れるな…おまえの手は汚れている、もうクリスターのもとには戻れない」

「…分かっている」

 フレイの重々しい口調で宣告されると、今更ながら自分の犯した罪を思い知らされ、アイザックは実に暗い気分になった。

「それなら、おまえをダニエル・フォスターに会わせてやる。とりあえず生きていることを確認すれば、おまえの気持ちも静まるだろう。堪え性のないダミアンがいたぶったおかげで酷い有様だが、命に別状はない。ついて来い」

 親切とも言えるフレイの申し出は少々意外だったが、ダニエルの無事を何としても確かめたいアイザックは、素直に彼の案内に従った。

 それにフレイは、狂気じみたダミアンよりは、ずっとまともで道理の分かりそうな男に見えた。少なくとも、この男ならば、あまり無茶や理不尽なことはしないような気がしていた。

 フレイはアイザックを連れて一階まで降りていくと、いつもジェームズの手下達がたむろしているサロンや遊戯室は通らず、あまり使われることのないゲスト・ルームや美術・工芸品を納めた部屋などがある別棟へ続く廊下に入っていった。

 廊下の壁には所々古い肖像画が飾ってあるが、その中の人物達の暗い色の瞳がふとジェームズのそれと重なって、アイザックを何となく落ち着かなくさせた。

「なぁ、フレイ…あのいかれたダミアンはともかく、どうしてあんたがジェームズなんかに従っているんだ?」

 何でも話せるほど気安い仲では全くないが、気分を変えたいこともあって、前を行くフレイの広い背中に、アイザックはかねてからの疑問を投げかけてみた。

「あんたは、ジェームズが俺らの学校で好き勝手していた頃からずっとあいつの傍にいたな。ジェームズが捕まった後、他の多くの仲間達はあいつから離れ、今じゃ自分らがジェームズの下でかつてどんなに非道なことをしていたのか忘れたような顔をしている。それなのに、どうしてあんたは残ったんだ? あんたは別にジェームズに騙されているわけじゃない。それに、こう言っちゃなんだが、ダミアンと比べると随分常識的でまともだ。なあ、フレイ、あんたはジェームズがどんな奴かちゃんと分かっているんだろう?」

 アイザックはどこまでこの男を追及するか一瞬迷ったが、ここまで言ったのだから最後まで言ってしまえと更に鋭く問いかけた。

「ただの悪党ですらない、あいつは―本物の怪物だ。見えない悪意を撒き散らして、周りにいる人間皆おかしくしちまう。ジェームズさえいなかったら、あいつの取り巻き連中なんか、1人じゃ何もできない、その辺にいる普通の若者達と同じさ。だが、あいつに接すれば、たちまち狂犬みたいになっちまう―フレイ、あんたもそのクチなのか? ジェームズに心を蝕まれて、人としての良心も道理も忘れちまったのか?」

 フレイは何も答えない。その寡黙な背中をアイザックはきっと睨みつけた。

「このまま、どこまでもジェームズについて行くつもりか? ろくなことにならないぞ、あいつは―あいつは既に越えてはならない一線を越えてしまった。俺が気付いていないとでも思うのか、ジェームズは、自分の父親を…いや、その前に既に父親の愛人達をダミアンに命じて始末させた、そうなんだろう? いつまでも隠し通せるものじゃない、刑事だって一度ここに来たっていうじゃないか。おまえ達は疑われているんだ。フレイ、ジェームズに付き合って、おまえもあいつと共に犯罪者として裁かれるつもりなのか? そこまで尽くす、一体どんな価値がジェームズ・ブラックにあるっていうんだ?」

 ふいに、フレイの足が止まった。

「相も変わらずよく回る口だな、アイザック、よくもそれだけ詰まりもせずにしゃべれるものだ。それも、全くくだらんことばかり―」

 うっそりとした声が呟いたと思うや、ぷんと振り回された太い腕がアイザックの痩身をなぎ払い、壁に打ちつけた。

 衝撃に、アイザックは一瞬息が止まるかと思った。その胸倉をフレイが掴み、壁にぐっと押さえつける。

 アイザックは逃れようともがくが、もとフットボール・チームのラインマンの怪力に抗えるはずもない。

「ジェームズは、他の誰とも違う特別な人間だ…おまえの言うとおり、本物の怪物なのかもしれんな。だが生憎と俺は、ジェームズのそこが気に入っているんだ。ああ、確かに俺は彼の毒に蝕まれているのかも知れん、だが、それが何だ?」

 凄まじい力に圧迫されて息も絶え絶えのアイザックに、フレイはずいっと顔を近づけた。その細く小さな目の奥には、獲物を食い殺そうとする獣めいた、ぎらつく光が宿っている。

「俺は、ジェームズと出会う以前のくだらない日々よりも今の暮らしの方がはるかに好きだぞ。家族や学校の仲間達なんて、些細なことで悩まされていた俺を楽にしてくれた、ジェームズには深く感謝しているし、大事に思っている―それに今のジェームズは、たがが外れた分、以前よりもはるかに危ないが、俺にはずっと愛しく思える。俺が傍にいて支えなければと感じられるからだ―ジェームズは俺のことなど他と同じく駒の1つ程度にしか思っていないが、それでも俺を必要としてくれている。だからこそ、彼の望みは何であれ叶えさせてやりたい。ジェームズがどこに向かうつもりか知らんが、俺は最後まで見届けてやるつもりだ」

 フレイの揺るぎない声のうちに、その時、ふっと苦いものが混じった。

「終着地まで、どのみち、そう長い道のりではあるまいからな」 

 唐突に体を押さえつける力が離れ、支えを失ったアイザックは、がくりと床に崩れ落ちた。

「う…うう…」

 何か言い返そうにも声にならず、アイザックは紅潮した顔で相手を睨み上げる。

 するとフレイは、見下げ果てたというような冷たい目をして、言った。

「俺がどうしてそこまでジェームズに付き合おうとするのか、おまえなんぞに理解してもらおうとは思わん。アイザック、おまえは、自分が駒のように扱われることが許せなくて、クリスターを裏切った。おまえは結局、クリスターの信頼よりも、自分の小さなプライドを守ることを優先させたんだ。俺は、そんなおまえを心底軽蔑しているぞ」

 アイザックは震える唇をきつく噛み締めた。フレイの今の言葉に、反論などできるはずもなかった。

 フレイは、力なく項垂れるアイザックから廊下の向こうへと視線を移した。

「見えるか、この廊下の突き当たりの部屋にダニエルは監禁されている。あそこに見張り2人がいるが、俺の許可をもらっていると言えば、数分くらい中に入れてもらえるだろう」

 フレイが指し示した方向を見ると、確かに廊下の一番奥の部屋の前にはジェームズの配下の若者2人がいて、訝しげにこちらの様子を窺っていた。

 フレイは、これで役目は果たしたとばかりに、アイザックをその場に残して、もと来た道を引き返していった。

「裏切り者、か…」

 フレイをぼんやりと見送り、ようよう身を起こしたアイザックは、自嘲的に呟く。

 ジェームズ・ブラックのような悪魔に付き従うフレイにさえ、たとえ相手からどんなふうに扱われようと問題にせず、忠誠を尽くそうとする、一種の信念なり誇りがあった。それに引き比べて、自分はどうなのか。

「俺には、フレイやダミアンを責める資格さえない。俺の方こそ、悪魔に誇りも何もかも売り渡してしまった、最低のくずなんだ…」

 アイザックはゆるゆると頭を振った。

 それから、用心深くこちらを注視している見張り達の方へ、ゆっくりと歩いていった。

「フレイがおまえをわざわざここまで連れてきたなら、別に会わせるくらい構わないだろう。ただし…いいか、5分だけだぞ」

「どうせ、今会っても話なんかできないはずさ、ダミアンとこの連中に随分ひどくやられたからなぁ」

 にやにやと嫌な笑いを浮かべている見張り達―ダミアンが連れてきた下町の若いごろつきではなく、アイザックも顔見知りのアーバン高校のもと生徒だ―は、すんなりとアイザックを部屋の中に通した。

「ダニエル?」

 ベッドと椅子があるだけの殺風景な部屋に足を踏み入れた途端、アイザックは空気の中に微かに残る嫌な臭いに、思わず鼻をしわめた。

 だが、乱れたベッドの上にぐったりと壊れた人形のように横たわっているダニエルの無残な姿を見つけると、すぐにそんなことは意識の外に飛んでいった。

「ダニエル、おい、しっかりしろ…!」

 慌ててベッドの近くまで駆け寄ったアイザックだが、何かつまずいたように足を止めると、それ以上近づくことはできなくなった。

 ダニエルは、今は真新しいシャツに着替えさせられているが、それを脱がせて確かめなくても、その体がどんなふうに痛めつけられたかは、か細い首や手や足に残る鬱血した跡や顔に残る傷を見ても明らかだった。

「ひどいことをしやがる」

 アイザックは低く呻いた。

 ダニエルは肩や胴に包帯を巻かれていた。血と消毒薬の臭いが生々しい。

「これは、昨日ここに運び込まれた時に既に負わされていた傷か。やられたのは肩と胸…いや、背中の方か―」

 少しためらった後、アイザックはベッドの傍まで歩み寄り、ダニエルの体をそっとうつ伏せにしてみた。案の定、背中の傷は、一度ちゃんとした処置は受けたのだろうが、ここに来てから受けた仕打ちのせいで再び開いたらしく、新しい血がシャツにまで染みてきている。

「畜生、無茶苦茶しやがって―」

 さすがに堪え切れなくなったアイザックは、声を震わせた。こみ上げてくる熱いものを抑えつつ、扉に向かって怒鳴りつける。

「おい、ダニエルが出血しているぞ! 新しい包帯と消毒薬を持ってきてくれ…それから、できれば誰か、傷の手当のできる人間を頼む…!」

 胡乱そうに扉を開けた見張りは、アイザックの切迫した表情を見てちょっと考え込んだ後、執事のロバートがたぶん簡単な傷の処置ならばできるはずだと言って、彼を探しにいった。 

 枕元であれだけ騒いだのに、ダニエルは意識を取り戻す気配もない。心身ともによほどひどいショックを受けたか、消耗しきっているのだろう。

「ダニエル…」

 アイザックは傍にあった小さな椅子を引き寄せて腰を下ろし、目の下に黒い隈のできた、見るからに痛々しいダニエルの顔を見下ろしながら、その手をそっと握り締めた。

「何てこった、おまえまでこんな酷い目に合わされるなんて―クリスターが知ったら、何て言うか…いや、あいつはもう知っているのか。そうして、ここにやってくる―おまえを助け出すため…いや、あいつのことだからそれだけではすまさないだろう。たぶん、今度こそジェームズとの決着をつけるつもりで―」

 フレイやダミアンにほのめかされたことを思い出して、アイザックは瞳を揺らした。

(ここに来て、俺の裏切りの事実を突きつけられたら、あいつは何と言うだろう…そして、その時、俺はどうする…?)

 アイザックは深々と頭を垂れ、胸の奥から搾り出すような深い溜息をついた。

「いや、別に、俺は今更どうなってもいい…だが、ダニエル、おまえのことは…」

 アイザックの暗く沈んだ瞳に、その時ふいに、かつての才気煥発とした切れ者を髣髴とさせる、強い光が灯った。

「そうだ、おまえだけは、俺が何とかしてやる―ジェームズ達はおまえを人質にしてクリスターに脅しをかけるつもりだろうが、こんなろくでもない場所に、傷ついたおまえを閉じ込めておけるものか。隙を見て、何とかおまえだけは脱出させてやるからな」

 アイザックはダニエルの頭に手を置き、いたわるような指先で、彼の栗色の髪をすいてやった。

「すまない…ダニエル…」

 眼鏡の下の黒い瞳がふいに潤んだかと思うと、一粒の涙がアイザックの頬に零れ落ちた。

(コリン、ミシェル…そして、クリスター)

 アイザックは顔を手で覆い、声を殺して、しばらく泣いた。

 後悔の念というにはあまりに重く、絶望的な感情にかられながら、自分が裏切り捨ててきた、愛する者達に向かって、彼は謝り続けていた。





 ジェームズは窓の傍に持ってこさせた、大きな革張りの椅子に身を預け、深い物思いにふけっていた。

 窓の向こうに広がるブラック家の所有地―緑の美しい森や丘陵が作る風景はこの上もなく心安らぐ魅力に溢れているが、ジェームズの放心したように見開かれた双眸は、それらを見ても何の感慨も覚えおらぬかのように乾いていた。

 ふと思いついたように、己の左手を目の前に持ってくる。

 ドクター・キャメロンが新しく処方してくれた薬が効いたのか、あの忌々しい痙攣も痺れもひとまずおさまっている。だが、いずれにせよ、それは対症療法に過ぎず、我が身を蝕む病気の進行を止めるものではないということは、ジェームズにはよく分かっていた。

「どこまでもってくれるかな、この体…」

 ひっそりと呟き、色味のない唇を噛み締める。

「全く、皮肉なものだな―以前の僕ならばきっと、こんなふうに自分の終わりが見えてきたからといって、特に何の感慨も覚えず、心静かにその日を待ちうけることができただろうに…でも、今の僕は、死の運命に対して必死に抵抗しようとしている。どうか、せめていま少しだけの猶予が欲しい」

 ジェームズはゆるゆると瞼を伏せ、金色の頭を垂れた。新しい薬に慣れていないせいか、頭の芯が重く、ともすれば眠りこんでしまいそうになる。

 クリスターとの最後の闘いを控える今、あまり好ましい状態ではないが、他に選択肢はなかった。

 ジェームズは薄手のジャケットのポケットの中に手を差し入れ、そこにいつも入れてある、妹の形見の懐中時計に触れた。

「メアリ…」

 ジェームズの口元に、ほのかな笑みがうかぶ。

 大切な半身との思い出は、今も胸の中の引き出しにちゃんとしまってあって、そうしようと思った時にいつでも、こうして取り出して、好きなだけ眺めることができる。

 ジェームズにとって、それは、ごく限られた癒しの時間だった。彼自身にその自覚はなかったかもしれない。他人とつながっているという感覚を味わうことで得られる、孤独からの束の間の脱却。

(ねえ、ジェームズ、一体母さんになんて言われたの?)

 ふいに、気の強そうな女の子の声が胸の引き出しの中からこぼれ、ジェームズの頬に淡い影を落とす長い睫を震わせた。

 これは一体いつの頃の記憶だろうか。ジェームズがじっと意識の中を探っていると、その周辺に散らばっていた記憶の断片が1つまた1つと浮かび上がり、ある場面を形作っていった。




 両親が僕のことで言い争うのはいつものことだ。珍しくはない。

(君は自分の子供が可愛くないのか! ジェームズをどこか遠くの病院にやるだって? あの子はまだ9才だぞ! ジェームズが問題の遺伝子を持っているといっても、発病するにはまだまだ時間がかかる、その間に治療法を探せばいいんだ、諦めることはない。そのためにこそ、あの医者を高額の報酬を払って雇ったんだろう? それを、こんなにも簡単に見捨てるのは、親としてあんまり薄情じゃないか)

(私達の子供はジェームズだけじゃありません。メアリのことも考えてやらなければ―幸い、メアリには何の問題もないということが分かったんです。それでも、肉親が遺伝性の疾患を抱えているなどという噂が立てば、メアリの将来が心配です。それに、私がジェームズをここから離そうと考えるのは、病気のためだけじゃありません―あなたには分からないんですか、ジェームズは普通の子ではないんですよ。あの子の心には恐ろしい怪物が住まっているんです。本当にあの子は私の兄にそっくり…きっと病気だけでなく、歪んだ心根も受け継いでいるんですわ。兄と同じように、放っておけば、いつかジェームズは、メアリや私達に害をもたらすに違いありません)

 夜半、喉が渇いて目を覚ました僕は、両親の部屋の傍を通りかかった時、中から聞こえてきた声に思わず足を止めた。すると、少しだけ開いた扉の隙間から、まるで憎みあっているかのような激しい口論をしている2人が見えたのだ。

(いい加減にしないか、君が君の兄さんからどんなひどいことをされたか知らんが、それがジェームズと一体何のかかわりがある? それに、あの子は私の子でもあるんだぞ、君の勝手にはさせん)

(あなたには、ジェームズの本性が分からないんです。ええ、あの子には人を騙す才能がありますものね。でも、私にはあの子の心が透けて見える…無邪気な子供のふりをして、盲目的に自分を愛するあなたを嘲笑っているんですよ。でも、あなたがそうまでおっしゃるのなら、いいでしょう、これ以上無理は言いません。ただし、メアリとはなるべく近づけないようにしますわ。でも、そうね―確かに、あの子を恐れる必要はあまりないのかもしれませんわね。どうせ、長くは生きられない子なんですから…)

 僕は、自分の母親が皮肉っぽく笑って言い放つのを、まるで他人事のように冷めた気分でただ見守っていた。

(君は―君と言う女は、全く信じられない…)

 僕に同情的な父親の嘆きも、やはり自分のこととは思えず、遠く感じられる。

(君はジェームズを怪物と呼んだが、私の目から見れば、わが子を少しも愛せないばかりか、その死を待ち望む君の方こそ、怪物と呼ぶにふさわしいよ)

 そこまで非難しながらも、父は母とは別れないだろう。自分の子をまともに育てたいと本当に望むならば、僕を連れてここから出て行こうとするはずだが―。

 いずれにせよ、この辺りでもう充分だと思った僕は、扉から離れ、自分と妹の部屋に戻っていった。

 僕には、さっき母が言った言葉の意味は、全て理解できていた。

 僕らの主治医、ドクター・キャメロンは様々な検査を僕ら兄妹に施してきたが、彼の専門を考えてみれば、それらが何を目的とするものであったのか、容易に分かる。

 僕の中には、目覚めればすぐに死に至る、特別な遺伝子が組み込まれている。だが、双子の妹のメアリにはない。

 若くして亡くなった叔父の話は知っていたが、僕も彼と同じような運命を辿るのだろう。

 しかし、だからと言って、特に何の感情も沸いてこなかった。

 母は、僕には人間らしい心がないのだとよく言った。その通りなのかもしれない。

 おそらく、普通の子供ならば、こんな時僕と違った反応をしたはずだ。

 哀しいとか怒りとかいう感情を爆発させて、たぶん泣くだろう。頭では僕もある程度理解できるが、それを我がこととして感じるのは難しい。そう、分かりたくとも、分からないのだ。

 しかし、この場合、僕の胸が人間らしい痛みとは無縁であるということは、不幸か、それとも幸運か?

 母は、どうせ僕は長生きできないのだと言った。彼女は僕を見捨てた。

「ああ、そうなのか」

 口に出して呟いてみた。それでも、やはり胸に迫ってくるほどの実感はない。

「どうせ長く生きられないから、僕が何をしようと少しくらい大目に見るつもりか、ふん…僕にとっても、望むところかな」

 僕は淡々と自分に言い聞かせながら、子供部屋の扉を開けた。

「つまり、僕は何をしても許されるんだ―どうせ、すぐに死んでしまうから」

 僕が部屋に足を踏み入れると、2つ並んでいるベッドのうちの1つから、人が身じろぎをする気配が伝わってきた。

「うーん、ジェームズ?」

 僕によく似た声が、僕を呼ばわる。

「ごめん、起こしてしまったかな、メアリ」

 僕は妹のベッドを覗きこんで、眠たい目で僕を見上げる片割れの頭を撫でてやった。

「どうかした?」

 僕が触れると妹はすぐに反応した。眉をしかめ、ぱちぱちと瞬きしたかと思うと、すぐに僕に問いかけてきたのだ。

「別に、何でもないよ」

「嘘。ジェームズ、何かあったんでしょう? 何を見てきたの?」

 メアリはむくりと起き上がって、僕の目をまっすぐに見据えた。

「父さんと母さんが、僕のことで喧嘩をしていたんだ、いつものことだよ」

「あなたを傷つけることを言ったのね?」

 メアリは自分が傷ついたかのように可愛らしい唇を噛み締めた。

「傷つく? 僕が?」

 僕はふっと鼻先で笑った。

「母さんの言葉なんかで傷つくものか、僕は―心を持たないんだ。だから、あの人に何をされても言われても、平気だよ、少しも痛くない」

「それも嘘ね」

 確信のこもった妹の言葉に、僕は少しばかり苛立ちを覚えた。

「心を持たない人間なんか、いないわ。母さんは、間違ってる」

 それなら、僕は人ではない別の何かなんだろうさ―言いかけた僕の手を妹が引っ張った。僕は仕方なく、彼女のベッドによじのぼった。

 こんな時に彼女の傍に行くのは少しばかり恐かったが、僕がその温もりに接したがっていたこともまた事実だ。

「ジェームズ」

 メアリの温かい手が僕の頬に触れた。僕とそっくり同じ顔で近づいてきて、額に、ちゅっと小さなキスをくれた。

「あなたは痛がってる…私には分かるわよ、ほら」

 メアリはふいに声を震わせ、大きく目を見開いた。

 僕は呆然となりながら、メアリが喘ぐように肩で息をつくのを、その顔にさっと赤味が差してきたかと思うと、大きな目からたちまち涙が溢れ出すのを眺めていた。

「どうして…どうして、こんな―ああ、ジェームズ、あの人、あなたに一体何を言ったのよ!」

 僕の頬に押し当てられたメアリの手は、熱を帯びて震えている。

 まるで、その震えが伝わったかのように、僕の体もがたがたと揺れだした。

 鼻の奥がつうんとなって、目の周りがずきずきしてきた。僕の顔をじっと覗き込んでいる妹の顔が急に霞む。

 そして僕は、何か熱いものが目から溢れ出して頬を濡らすのを感じた。

「可哀想なジェームズ…わたしの前でまで意地を張らないで。嘘をついたって、こうすれば、あなたがどう感じているのかくらい、すぐに分かるんだから…」

 泣き笑いのような顔を囁くメアリの優しい指先が、僕の流した涙をそっとぬぐってくれた。

 母親とは名ばかりのあの女が発した悪意の滴る言葉もはね付けるほど、固く凍りついた心の表面を温かなものがそっと洗い、たちまちのうちに溶かしていく。

 メアリ、メアリ、普段は自覚しようもない、我が身が置かれた現実がもたらす数々の苦痛に、かくも易々と僕を直面させる、愛する妹。切り離された僕の魂の半分。おまえが傍にいることは、僕にとって幸福か、それとも不幸なことなのか。

 胸の奥からこみ上げてきた、耐え切れないほどの苦しさに、僕は顔を歪め、身悶えした。

「…痛い」

 悲鳴のように呟くと、僕は妹の体にひしと抱きついて、咽ぶように泣き始めた。




 ジェームズは、半ば夢見心地のまま、遠い子供時代の追憶に浸っている。

(あれから、随分長い時間が過ぎた。僕のメアリはもうどこにもいない。そして、僕だけが1人、ここに取り残されている)

 かつてジェームズは、妹の喪失によって自分はやっと解放されたのだとうそぶいたものだが、彼が得た自由は、実際それほど具合のいいものではなかった。

 この茫漠たる広い世界を、ジェームズはずっと独りきりで彷徨ってきた。幸せどころか、時が流れていくほどに、圧倒的な空しさばかりがつのっていく。 

 この空虚を、たぶん、人は孤独と呼ぶのだろう。

(だが、それも仕方のないことだ、僕はそんなふうに生まれついたのだから…このまま死ぬまで独りきり、そう諦めていた。けれど、僕はクリスターを見つけた)

 死ぬほど退屈な無彩色の世界の中で、クリスターの姿だけは、いつでも、強烈な鮮やかさを放って網膜に焼きついた。遠いざわめきのような有象無象の声の中でも、彼の語る言葉だけは胸の奥にまで届き、時には傷みを伴って突き刺さった。

(もしも、クリスターを手に入れたら、メアリが抜け落ちてしまった後、この胸にぽっかりとできた巨大な空洞を満たすことができるだろうか。人間臭い痛みや苦しみとは永遠に無縁になった代わりに何の喜びもない、この心…クリスターを取り込むことで、僕はまた豊かな感情を取り戻せるかもしれない)

 貪欲な飢えのままにクリスターを欲すると同時に、ジェームズはまたこうも思う。

(かつて、僕と共鳴し合うことのできる相手は、メアリだけだった。彼女が死んで久しいけれど、もしも、今でもその代わりが見つかれば…遠くに行ってしまった彼女の魂は再びこの世に戻ってくるかもしれない。肉体は魂の入れ物に過ぎないのだとか…ならば、滅んだ体の代わりになる、別の器を用意してやればいいんじゃないか…?)

 真に望むのは死者の復活か。今の自分には手の届かない場所にある、あの温かな記憶の再生か。荒唐無稽な想像に思わず苦笑するジェームズの耳に、その時、どこからともなく悲しげな少女の声が聞こえてきた。

(ねえ、どうして、こんなことをするの、兄さん…?)

 ひやりと、冷たい感触が肌を撫でるのを覚える。

 子供の頃の優しい思い出に混じって、何か別の、恐ろしく忌まわしい記憶が、深く暗い水底から浮かび上がってこようとしていた。

(どうして、どうして…?)

 いつも静かに凪いでいる、ジェームズの心にさざなみがたった。

 いわく言いがたい恐れをかきたてる、その声を振り払おうと、ジェームズは重たい頭をゆらゆらと動かした。

 遠くに聞こえる水しぶき。女の子の切迫した悲鳴。狂ったように泣き叫んでいる少年の声―ジェームズは思わず両手で耳を塞いだ。

 水中を一杯に満たす泡のイメージが脳裏に広がる。

 ここは池の中だ。小さな見た目よりもずっと深さがあって危ないと、両親によく言われた。それにも関わらず、メアリとよく遊びにいった、家の敷地にある池だ。

 ふと、池の底の方に何かが沈んでいるのにジェームズは気がついた。それは、たくさんの泡に包まれて、ゆらゆらと揺れながら浮上してくる。

 あやふやな影めいた形が、水面に近づくにつれ、次第にその正体を明らかにしていき―だが、いきなり電源が落ちたかのように、ジェームズの頭の中から何もかもが消えうせた。

(思い出してはならない。さもないと、蘇った悪夢は、僕自身を今度こそ粉々に打ち砕くだろう)

 ジェームズは溺れかけていた人がやっとの思いで手がかりを掴み、水面に顔を出したように、はっと息を吸い込んだ。その瞬間、彼は覚醒した。

「あ…」

 本当に息が苦しく、ジェームズはしばし呼吸を整えることに集中しなければならなかった。

「これも薬の副作用じゃないだろうね、キャメロン」

 忌々しげに吐き捨てると、ジェームズはゆっくりと頭を傾け、壁の時計を確認する。まどろんでいたのは、ほんの数分間のようだ。

 背中がじっとりと汗ばんでいるのを気持悪く思いながら、ジェームズは椅子の背もたれから身を離した。

 胸の上に手を置いてみる。動悸がまだ収まらない。

 何となく落ち着かないまま、ジェームズはポケットの中から金色の懐中時計を取り出し、その冷たい表面にそっと耳を押し当てた。

 規則正しく秒針が刻む音を聞いていると、不思議とジェームズの心は静まってきた。まどろみの中で危うく蘇らせそうになった忌まわしい記憶は、彼を責める少女の声と共に急速に退いていった。

「全く、何だったんだろうね、今のあれは―」

 完全にもとの落ち着きを取り戻したジェームズは、当惑顔をして、手の下の懐中時計に向かって囁きかけた。

 その時、部屋の扉を叩く音がした。ジェームズは顔を上げた。

「ジェームズ様、よろしいですか?」

 執事のロバートが、扉の外から遠慮がちに呼びかけてくる。

「ああ、大丈夫だよ。どうしたんだい?」

 どういう知らせか、ジェームズにはもう察しがついていた。懐中時計をポケットに戻し、落ち着いて返事を待ち受けた。

「クリスター・オルソン様がおいでになられました。今正面ゲートにて待たれていますが、お通ししてもよろしゅうございますか?」


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