ある双子兄弟の異常な日常 第三部
SCENE3
クリスターが家に戻ってきた。
ずっと兄の帰りを待ちわびていたレイフだが、クリスターの車が家の駐車場に止まったのを感じた時、すぐに玄関先まで迎えに飛んでいく代わりに、ついベッドで寝たふりをしてしまった。
何しろ、あんなふうに激しく言い争った後だ。どんな顔をしてクリスターに会えばいいのか分からなかったのかもしれない。
たぶん、クリスターのことだから、レイフがどうしているか気にして、真っ先に様子を窺いに来るだろう。
(もしクリスターが部屋に入ってきたら、近づいてくるのを見計らって、いきなり飛び起きて驚かせてやるんだ)
そんな子供じみた悪戯が、頭の中に閃いた。
(そうしたら、クリスターはちょっと驚いたように目を見開いて、何ふざけた真似をするんだと渋い顔をしてオレをたしなめるだろう。そんなあいつにじゃれかかるように抱きついてさ、いつもと変わらぬ態度で笑いかけることができたら、気まずさを取り払って、すんなり打ち解けられそうな気がする)
どきどきいっている心臓をなだめるように、レイフは己に言い聞かせる。
(そうさ、さっきはお互い興奮しすぎて失敗したんだ。今なら少しは頭も冷えただろうから、ちゃんと正面から向き合ってオレ達の将来のこと…どうするのが一番いいのか、腹を割って話そうよ。オレ、さっきは頭ん中がかぁっとなって、うまく言えなかった…オレの気持ち、兄貴にまだちゃんと伝えてない。おまえはオレに、子供の頃からの夢を叶えるためには、たとえ1人でも迷わず天辺を目指す気概を持てと言った。おまえを乗り越えて、その先を行けと―でも、それって、ちょっと違うんだよ。クリスター、オレの本当の望みは、たぶん…)
クリスターが家の中に入ってくる。一瞬階段の下でためらうように立ち止まった後、ゆっくりと階段を上ってくる柔らかな足音に耳を傾けながら、レイフは胸から溢れ出した尽きぬ想いに浸っていた。
(おまえと同じものを見つめて、一緒に歩いていきたい。オレ達にとって、それはずっとフットボールだった。だからこそ、楽しかった、夢中になった…そのオレに、おまえなしで1人で頂上を目指せと言うのか。1人で天辺に立って、そこに一体何を見つけられるのか、オレはそんなものを欲しいと思うのか…分からない、分からないよ、クリスター)
いつの間にか部屋の扉が静かに開いてクリスターが中に入ってきたことに、レイフははたと気付いた。
クリスターは扉の前でレイフの様子を窺うようしばし佇んだ後、ベッドの方に近づいてき、床の上に落ちていた雑誌を拾い上げて、ふっと溜息をついた。
「人がせっかく買ってやったものを落とすなよ」
ごく低い声で呟き、レイフの頭の横に雑誌を戻す。そのまま、クリスターはじっと動かなくなった。
顔の上に注がれる、クリスターのひたむきな眼差し。
飛び起きて相手を驚かせるタイミングを見計らっていたはずが、兄の視線に縫いとめられたよう、レイフは身動きすることができなくなった。
じわじわとこみ上げてきた緊張感に、次第に息苦しくなってくる。
クリスターの手の指が、レイフの頬にかかった。その指先に宿った微かな震えが、レイフの心臓を慄かせる。
「レイ…フ…」
クリスターが切なげな声で呼びかける。
何だかもう堪らなくなったレイフが目を開けようとした時、クリスターの唇が彼の口を塞いだ。
瞬間、レイフの脳裏で何かが弾け、かつて聞いたことのある、遠い声が耳元に囁きかけてきた。
(僕は…アイヴァースとセックスしたけれど…彼のことが欲しかった訳じゃない。僕は…レイフ、おまえが欲しかったんだ)
2人共、まだ13才の子供だった。あの夜、今と同じほどに切迫した声で、クリスターはレイフに訴えかけたのだ。
呆然と声も出ないレイフの唇を塞いだ、クリスターの唇が微かに震えていたのを覚えている。丁度今、レイフに触れている、この唇と同じように―。
(レイフ、おまえを愛している)
尚も耳に訴えかける、ごく低く掠れた声にこもる希求の深さに、レイフは気絶しそうになる。
それは、ずっと忘れようと努力してきた、2人が犯した罪の記憶だった。
熱い、苦しい、痛い。胸の奥から奔流のように溢れ出した狂おしい感情に圧倒されながら、レイフは己の口を飢えたように貪る兄の唇を味わっていた。
突然、クリスターは激しく慄いたかのようにレイフから身を引いた。
彼は息を殺してレイフの傍にしばし佇んでいたが、やがて、ひどく打ちひしがれたような足取りで部屋から出て行った。
その後、レイフは、やっとの思いで、金縛りにあったように自由にならない体を起こした。
(クリスター、クリスター…行くな、ここに戻ってきてくれ、兄さん…!)
クリスターへの思慕と飢渇に身悶えながら、レイフは扉に向かって手を伸ばした。そこから出ていった者を取り戻そうとするかのごとく。
しかし、ベッドから飛び降り、クリスターを追いかけていくことまでは結局できなかったのだ。
(もしも、あのままオレがあいつを捕まえに行ってたら、どうなっていたのかな…? キスされたと俺がちゃんと分かっていたと伝えたら、あいつはどんな顔をしただろうか。もうこれ以上お互いの気持ちをごまかすのはやめようよ、忘れるなんてはなから無理だったんだ。おまえは昔と変わらずオレを愛してて、同じようにオレもおまえが欲しいんだと訴えていたら…?)
あんなことがあった翌日、レイフは珍しく自主的に朝から学校のジムにやってきて、黙々とトレーニングをしていた。
単純に、クリスターと顔を合わせることを避けたかったからだ。
(マジでこれからどうしようか…クリスターなら、オレの態度がおかしいことなんか一目で見抜いて、すぐに、昨日自分がオレにキスしたことに思い至るだろう。どうせ遅かれ早かればれるなら、オレの方から言っちまうか)
唇には、今でも兄の唇の感触が生々しく残っている。頬に触れた震える指先、唇を貪る合間に漏れた熱い吐息、己を呼んだ切なげな声が、ともすれば鮮やかに蘇ってくる。
たちまち体の芯に生じた狂おしい熱を紛らわせるために、レイフはしゃにむにトレーニングに打ち込むしかなかった。
(ごめん、実はオレ、あの時ちゃんと起きてたんだよ。寝た振りしておどかしてやるつもりが、いきなり兄貴にキスされて、びっくりして動けなかったんだ。でも、ちっとも嫌じゃなかったよ。いや、ほんと言うと嬉しかったよ。だって、オレも兄貴を愛してるから、昔と同じように今でも)
ぐっと腕の筋肉に力をこめ、バーベルを持ち上げる。これで何回目かなど、いちいち数えていない。
(そうさ、オレ達、相思相愛なのさ。だから、もうこれ以上つまらない意地なんか張るのやめて、この先もずっと一緒に生きていこうよ。同じカレッジ・チームに入って、一緒にプロになって―もちろん同じ家で仲良く暮らすのさ。オレ達きっと幸せになれるよ、そうだろ、相棒?)
一生の相棒。これまでだって、レイフはずっとクリスターにそう呼びかけてきた。
無邪気な言葉だ。まるで子供の頃から2人の関係は少しも変わっていないような錯覚を覚えさせてくれる。
(一体、オレ達は何なんだろう…ただの兄弟なんかじゃない…やっぱ恋人か…一生の伴侶っていうと何か夫婦みたいだよなぁ。一番愛している人ってだけじゃ、いけないのかな? そうさ、オレはクリスターが一番大切だ。あいつさえいれば、他には何もいらないって思える…うん、たぶん大丈夫だ…オレ達のことを知って、父さんや母さんがどんなに傷ついても、友達全員失っても、ここで暮らせなくなっても、おまえさえいれば平気だよ、きっと…)
強く己に言い聞かせたすぐ後に、迷いがすっと心の隙間に入り込んでくる。
本当に、そこまで思い切れるのか? クリスター1人を選んで、他の全てを捨てさる覚悟があるか?
兄弟で愛し合うことが、誰からも認められない、許されない罪だということくらい分かるだろう?
答えることを躊躇った瞬間、レイフは、持ち上げようとしていたバーベルを汗で滑らせてしまった。
「うげぷっ」
押しつぶされたカエルのような妙な声をあげて、ベンチプレスの下でくたっとなるレイフのもとに、一緒にジムでトレーニングをしていたトムが慌てて飛んできた。
「おい、大丈夫かよ、レイフ?」
ひょいと上から覗き込んでくるトムの目には、心配そうな表情がうかんでいる。
「うん…平気、別にどこも傷めてないし」
レイフは汗ばんだ額を覆う手の陰から、トムに向かってにこりと笑ってみせた。
「何だか、今日のおまえは変だよ、レイフ。無駄口も叩かず、一見真面目にトレーニングに打ち込んでるけれど、頭の中は他のことでいっぱいみたいだ…何かあったのか? ひょっとして、クリスターと進路のことでもめたとか?」
レイフは誠実そうな親友の顔をまじまじと見つめ、ちょっとためらった後、何気ない口ぶりで言った。
「そう、その通り、この頃ずっとクリスターのことで頭がいっぱいなんだよな、オレ。おかげで彼女を作る気にもならないくらい、いつもいつも兄貴ばかりでさ、何だかブラコンもここまでくるとちょっと恋みたいだよな?」
「恋だぁっ?」と、トムは目をまんまるくした。
「あはは、確かに、おまえのブラコンはあぶねぇくらいに重症だよな。ほんと、このままじゃ、たとえ彼女ができても、迷わず兄貴を優先しそうでしゃれにならないよ。やきもち焼きの女だったら、おまえ、きっと殺されるぜ」
レイフの言葉をただの冗談としか思っていないトムは、屈託なく笑っているが、もし本気なのだと知ったら、同じような態度で接してくれるだろうか。
(トムのことは大好きだよ。いい奴だし、オレと気があう。何でも気兼ねなく相談できる。高校を卒業したって、こいつとはずっと友達でいられそうな気がするよ。でも、このことを打ち明けたら、こいつのオレを見る目は変わってしまうんだろうな)
無性にやるせない気分に駆られて、レイフはさり気なくトムから視線を逸らした。
「おい、そこにいるのはクリスターか?」
ジムの入り口付近からいきなり自分に向かってかけられた、聞き覚えのある声に、レイフは体をよじってそちらを見やった。
「フランクス・コーチ…あぁっと、オレはレイフです」
「何だ、サボり魔のおまえがここにいるのに、真面目な兄貴は今日は来てないのか」
フランクス・コーチはなぜかがっかりした顔をして、ベンチプレスの下から這い出すレイフを手招きした。
「コーチ、何です?」
「いや、実はな―クリスターが昨日俺の自宅を訪ねてきたんだ。何でも、テキサス大のスカウトがやってきて、その件でおまえとちょっともめたらしいな」
「ああ、そのことですか。あいつ、ほんとにコーチの所に乗り込んだんだ」
正直、スカウトのことなど忘れ果てていた。そんなことまで今は考える余裕のなかったレイフだが、フランクスが何やら気がかりそうな目をしていることが心に引っかかった。
「まさか、クリスターの奴、何かコーチを困らせるようなことを言ったんですか?」
「うむ…いや、それは別にいいんだ、レイフ。だが、どうしても昨日のクリスターの様子が気になってな。ここであいつに会えたら、もう一度ちゃんと言い聞かせておこうと思ったんだが―」
昨日自分と言い争ったクリスターがどんな様子で家を飛び出して行ったか、その後しばらくして戻ってきた時彼がどんなだったかを思い出したレイフは、急に不安に駆られた。
「あいつは、一体コーチに何を話したんですか?」
フランクスは一瞬ためらいを見せたが、いつにないレイフの真剣さに負けたのか、昨日突然現われたクリスターが何を自分に訴えたのか、どんな態度だったのか、包み隠さず話してくれた。
「クリスターがフットボールは高校までと決めたことは―まあ、あいつの将来だ、あいつがそれでよしとするなら、オレには口出しすることはできないさ。確かに、本人の言うとおり、クリスターはずっとぎりぎりの所でやってきたんだろう。のしかかってくるプレッシャーに負けて折れそうになっても、チームメイトやスタッフ、誰よりもおまえの見ている前では弱音を吐くことなどできず、自分を奮い立たせて、前に立ってリードするしかなかった」
昨日クリスターが自分に向かって訴えたことを思い出して、レイフはちょっと落ち込んだ。
「オレがもっと早くに、あいつがそこまで思いつめてるって気がついてれば、よかったんだ。なのに、オレ、強いクリスターに寄りかかるばかりだった。2番目がオレの定位置だと思い込んでいたから、そこから抜け出す努力をしなかった。本当は、少しでも早くあいつに並べるくらいに強くなって、あいつが背負っているものを、オレが半分引き受けなきゃならなかったのに―」
レイフが半ば独り言のようにもらした慨嘆に、フランクスはおやというように目を瞬いた。
「―何です、コーチ?」
しげしげと自分を眺めるフランクスに、レイフは胡乱そうに顔をしかめた。
「いや、おまえもやっとそこまで考えられるくらいに成長したのかと思ったんだ。高校4年目に差しかかって、やっとエースらしくなってきたか…陸上部のコーチもおまえの態度が今までと違う、これは期待できそうだぞと言ってたが―裏にはおまえのそんな心境の変化があったんだな」
何の話か分からずきょとんとするレイフを尻目に、フランクスは何事かじっと考え込んだ。
「クリスターは、おまえを何より大切に思っている…全く過剰なほどにな。今回も、あいつは自分の進路よりもおまえの将来のことを気にしていた。おまえの才能を信じ、オレが何を言っても頑として認めない…あの理性的なクリスターが、どうしておまえに関してだけはああなのか…俺はあいつの態度や考えが理解できず、はっきり言って苛立ちを覚えた。弟のことばかりにかまけていないで、もっと自分のことこそ真剣に考えるべきだと分からせたくて―それでつい、必要以上に、おまえについて厳しい評価をあいつに聞かせたんだ。あいつの目を覚まさせたくてな。だが、今思えば、それはどうやら逆効果だったようだ」
「逆効果?」
「俺の話を聞いてから、あいつは急に様子がおかしくなったんだ…突然妙なことを言い出したかと思えば、顔色が真っ青になって、本当に気分が悪そうだった。俺は慌てて、あいつを落ち着かせようとし、水をくみにキッチンに飛んでいった。だが、再び部屋に戻ってみると、あいつはいなくなっていた。俺の言ったことに単純に腹を立てて出て行っただけならいいんだが…俺は実際、ちょっと言いすぎたと後悔して、訂正つもりだったんだ。しかし、あいつは肝心な所を聞かず、俺の意図を誤解したまま帰ってしまった」
フランクスは肩を落とし、困り果てたように頭をかいた。
レイフは何と言えばいいのか分からず、当惑顔で恩師の次の言葉を待つばかりだった。
「なあ、おまえ達は、子供の頃、一緒に柔道を習っていたんだってな?」
「えっ…? は、はい、そうですけど―」
「何で、いきなりあんなことを言い出したんだろうな、クリスターの奴…自分が柔道をやめた途端、おまえはどんどん強くなっていったなんて…本当にそうなのか、四段だって?」
「そんなことより、どんな流れで、あいつ、そんな昔話をコーチに話して聞かせたんです?」
「ああ、そうだな、確か―どうして、実力は誰よりもあるはずのおまえが、肝心な時に力を出し切れないのか…そんな話だったな。おまえの精神的な未熟さや弱さがそうさせるのか、それとも単なる怠慢なのか、どうしたら長いスランプを脱することができるのか。クリスターは、おまえが本気にさえなれば、かつての自分を乗り越えることも可能だと言っていた。だが、そのためには―」
フランクスは口にするのをためらうよう、ふっと黙り込み、何とも言えない目でレイフを眺めやった。
「身動きを封じる枷がなくなって自由になれば、おまえは本来の実力を思う存分発揮できるに違いない…」
「えっ?」
「どういう意味なんだろうな、クリスターはひどく苦しそうに、そんなことを言ったんだ。追い詰められ、途方に暮れたようなあいつを見ていて、俺はちょっと恐くなったよ。あいつの考えることは俺には到底分からんが…あの回りすぎる頭で何やらろくでもないことを考えていそうで、昨日のことを思い出すにつけ、どうにも落ち着かなくてな」
レイフは体の脇でぐっと拳を握り締め、心を静めようと深々と息を吸い込んだ。
(それは、たぶん―おまえが僕の背中をいつも見続けて、それを後から追いかけることに慣れてしまっていたからだよ)
進路について口論した時、どこか疲れたような口ぶりでクリスターが言ったことを、レイフはまざまざと思い出していた。
クリスターと話している最中、どうしても引っかかっていたことがあるが、それが何なのか今はっきり分かった。
(クリスターは、自分がいるから、オレがいつまでも実力を出し切れないんだと思い込んでいるんだ。もしもオレをてっぺんまで引っ張っていけるだけの力が自分にあればそうしただろうけど、そうじゃないから―オレの足手まといになるくらいなら、フットボールをやめると…)
レイフは目を上げて、怪訝そうに自分の反応を窺っているフランスクスを眺めた。
(柔道の話なんか引っ張り出して、あいつがコーチに言おうとしたのも、たぶん同じことなんだろう―身動きを封じる枷がなくなれば、オレはきっと本気になる。待てよ、枷がなくなればって―ど、どういう意味なんだよ、クリスター?)
突然、言い知れぬ震えがレイフの全身を襲った。
「まさか―いや、全く冗談じゃねぇけど、あいつ…本気でオレの傍からいなくなるつもりじゃないだろうか…?」
からからに渇いた喉から搾り出すように、レイフは呟いた。
「レイフ…?」
激しい焦燥感に駆られながら、レイフはフランクスに言った。
「すみません、コーチ、オレ、これで失礼します。クリスターを捕まえて、確かめないと―」
レイフの瞳の中に何を見たのか、フランクスの顔も厳しいものに変わる。
「待て、レイフ―あいつがおかしな真似をしでかしそうなら、俺も一緒に行って―」
「あなたは来なくてもいい!」
他人の話を聞く余裕などなかったレイフは、つい激しい口調で怒鳴ってしまい、フランクスを怯ませた。
ジムの中でトレーニングしていた、数人のチームメイトが驚いたように一斉に顔をこちらに向ける。そこに不安そうなトムの姿を見て、レイフは恥ずかしくなった。
「大声を出して、すみませんでした、コーチ。でも、クリスターのことは俺に任せてください。あいつの態度がおかしいのは、全部オレのせいなんです」
そうフランクスに素早く詫びると、レイフはもう一秒たりとも無駄にしたくないとばかりに、足早にジムを離れた。
(兄貴、頼むから、そんな一方的な思い込みで早まったことするなよ。大体、オレは昨日おまえに訴えたよな、おまえがオレの邪魔をしているなんて、おかしなこと言わないでくれって…人の話、少しはまともに聞いてくれよ、おまえはなんて独りよがりな奴なんだろう)
クリスターと向き合うことをためらう気持ちは、この得体の知れない危機感の前に消し飛んでしまっていた。
(クリスターの考えの全てを理解することは、オレには難しいけれど、昨日あった色んな出来事が、どれだけあいつを揺さぶったかは分かる気がする。突然のスカウトの訪問がオレではなく自分目当てだったこと、それをオレが焦るどころか暢気に喜んでいたこと、その後での口論の末にフランクス・コーチに会って―あいつの心はぐらぐらになっていたんだ、いつものように自分を保てなくなるくらい。だから、家に戻ってきた時、眠っているオレを見つけてつい、あんなことをしちまったんだろう。普段のあいつなら、決してあんなふうにオレに触れることはなかったはずだ)
レイフは体育館のロッカー・ルームで着替えをすませると、荷物を引っつかんで、急いで駐車場に向かった。
(まだ昼前けれど、クリスターは家にいるだろうか? いなかったら、あいつが行きそうな場所を片っ端からあたって、必ず見つけ出してやる)
クリスターの誤解を解かなければ、自分の正直な気持ちを今伝えなければ―言いようのない焦燥感がレイフの足を速める。そして―。
「あれっ?」
車に乗り込みエンジンをかけようとした時、レイフは、同じ駐車場の端に見慣れた車が止まっていることに気がついた。慌てて外に飛び出し、その車に早足で歩み寄る。
「クリスターの車じゃん…なんだ、あいつ、学校に来てんのか。ジムには現われなかったけれど、一体何の用事だろ…コーチにでも会いに来たんだろうか?」
首を傾げはしたものの、とにかく意外と近い場所に求める相手がいるらしいことに安堵し、レイフはもう一度学校の方に戻りかけた。
その足が、途中でぴたりと止まった。
「クリスター?」
レイフの目は、駐車場を出てすぐの道路脇にある電話ボックスの中に、自分とそっくり同じ、背の高い赤毛の青年の姿を捉えていた。
「嘘…何だか今日はついてるみたいだな、オレ」
暗雲が垂れ込めていた胸は、兎にも角にも無事な兄の姿をすぐ目の前に発見したことで、瞬く間にすっきりと晴れ渡り、レイフは物凄く嬉しくなった。
「兄貴、兄貴っ!」
両手を天に向かって突き出し、ぶんぶん振り回しながら、自分の存在をアピールするが、背中をこちらに向けて誰かと真剣に話しているクリスターはなかなか気づいてくれない。
仕方なく手を下ろし、レイフは電話ボックスに向かってまっすぐ走っていった。
すると、丁度受話器を下ろして、クリスターが外に出てきた。
「ク、クリスター…!」
歓喜の声をあげかけたレイフだったが、電話ボックスの外に立ち尽くして考えに沈んでいる、クリスターの顔に浮かぶ厳しい表情を見て、何かしらはっとなった。
(クリスター?)
そこにいるのは確かにレイフの双子の兄のクリスターなのだが、久しく見たことのないような冷たい眼差しをして、どことなく近寄りがたいような冷厳な空気さえまとっていた。
(何だろう、オレ、前にも一度見たことがある…クリスターのこんな顔―一体、どこでだろう…?)
レイフが声をかけることをためらっているうちに、クリスターの方が彼の存在に気付いた。
「レイフ…?」
感情を抑えた低い声。レイフに向けられた、琥珀色をした瞳は揺らぎもせず、いつもよりも心なしか黒ずんで見えた。
「何だ、朝から一体どこに出かけたのかと思ったら、おまえも学校に来ていたのか」
クリスターは目を細めるようにしてレイフを眺めながら、何か他のことに心の半分を捕らわれているかのような、乾いた口ぶりで言った。
「ジムでトレーニングしてたんだよ」
そんなクリスターの反応を注意深く観察しながら、レイフは返した。
穏やかに微笑んで頷くクリスターは、どこにもおかしな所は見当たらない、いつも通りの彼に見えた。だが、昨日2人の間で起こった一連の騒動の後では、その落ち着きは返って不自然に感じられた。
「クリスター…おまえこそ、どうしてここに…?」
妙に緊張して、レイフは問いかけた。
「今朝、寮の管理人から電話があったんだよ。ダニエルが昨日出掛けたきり、未だに戻ってこないそうだ」
レイフは目を見張った。
「えっ、ダニエルが? そ、それって、まさか―」
「行き先は誰にも分からず、それで、彼と親しい僕に心当たりがないかと尋ねてきた。そう、心当たりなら、僕にはある…それを確かめるためにダニエルの部屋を調べてみたら、僕宛にこんな書き置きを彼は残していた」
クリスターがポケットから出した手紙を、レイフは引っ手繰るようにして読んだ。
そこには、今夜(つまり昨夜だ)、アルバイトという名目で近づいた、ドクター・キャメロンの自宅に忍び込んで、そこに保管されているはずのジェームズ・ブラックのカルテを探すつもりだと、ダニエルの丁寧な筆跡で書かれてあった。
もしもの場合に備えて、自分の行方を知らせる、この手紙を残しておいたのだ。
「この手紙で、ダニエルの身に何が起こったか、大方理解した僕は、今そこの電話ボックスからジェームズに電話をかけて、ダニエルが無事でいるか確かめたんだ」
ここに至って、クリスターの冷静沈着な仮面に小さなひびが入った。
一瞬黙り込んだ後、彼は何か激しいものを堪えるかのごとく拳をぐっと握り締め、悔しげに吐き捨てた。
「ダニエルは、ジェームズ・ブラックに拉致されたんだ。誰もいないキャメロン宅に忍び込んだはずが、これまでクリニックに顔をみせたことなどないジェームズ達が昨夜に限ってやってきて、見つかってしまった」
レイフは悔しげに舌打ちをし、感情を抑えて立ち尽くしているクリスターの腕を強く掴んだ。
「それで…ダニエルは大丈夫だったのか?」
すると、クリスターは暗い瞋恚をはらんだ目をして、皮肉っぽく呟いた。
「ああ…無傷とは言いがたいけれど、ダニエルはちゃんと生きていたよ。彼の声を…聞かされたからね」
「あいつらに傷め付けられていたのか?」
クリスターは答えたくないというように顔を背けた。その固く強張った横顔を見たレイフは居たたまれない気分になったが、すぐに気持ちを切り替えた。
レイフは、クリスターの正面に回りこみ、その両肩をしっかりと抱いた。
「ダニエルを助けに行こう、クリスター」
レイフが決意に満ちた声で囁くのに、クリスターの肩が僅かに揺れた。
「もともとそうするつもりだったんだろう? ダニエルがあいつの手の内に捕らわれているって分かった以上、おまえは奴のもとに乗り込んで、一戦交えてでもあいつを取り返すつもりでいる」
クリスターは何も言わず、レイフの言葉にじっと耳を傾けている。
「だが、もちろん、そんなこと、おまえ1人じゃ無理だ。オレも行くよ、兄さん、当然だろ?」
クリスターが答えないので、ちょっと焦れたレイフは彼の体を揺さぶろうとした。その手を、クリスターが押さえた。
「僕達だけで動く前に、まずケンパー警部に連絡を取った方がいいな。ダニエルがアルバイト先から強制的に連れ去られたことが立証できれば、誘拐事件として警察の介入する余地もできる」
レイフが鼻白むくらい、クリスターの応えは冷静だった。
「う、うん…そうだな、おまえの言うとおりだ」
クリスターは素っ気無くレイフの手を振り払って、身を引いた。レイフは訳もなく不安になった。
「警察に行く前に、ちょっとクラブハウスに立ち寄って、僕のロッカーから持っていきたいものがあるんだけれど、レイフ、おまえも付き合ってくれるか?」
「ん、別にいいけど」
クリスターの態度に何となく釈然としないものを感じて、レイフは首を傾げた。
(オレが一緒に行くって言った時、てっきりまた反対されるかと思ったのに、クリスターの奴、何も言わなかった。そりゃ、ここまで切羽詰った事態になれば、オレの手だって借りたいところなのかもしれないけど―なんか、引っかかるんだよな。いや、オレが疑いすぎるのか。クリスターはオレに言ってくれたんだ、一緒にJ・Bと闘おうって…)
レイフは、自分の脇を通り過ぎようとするクリスターの腕をとっさに掴んだ。
クリスターが訝しげに眉を寄せて振り返る。
「兄さん…オレさ、さっきフランクス・コーチに会って、話を聞いたんだ。昨日、クリスターが訪ねてきたって言ってた…」
こんなことを話している場合ではないと分かっていたが、レイフはなぜか言わずにはいられなかった。
「クリスターの様子がおかしかったって、コーチは随分心配していたよ。おまえともう一度話したがっていた。オレのことでおまえと口論になったらしいな…どんなに言い聞かせても聞く耳を持たないおまえの態度に腹がたって、つい言いすぎたって、後悔してた―おまえが、思いつめているんじゃないか、何か馬鹿なことをしでかすんじゃないかと心配してた」
「僕が、一体何をするっていうんだい? コーチの考えすぎだよ」
クリスターは唇を皮肉っぽく歪め、まるで他人事のような冷めた顔で返した。
「で、でも―オレと口論した時からおまえ、言ってることがおかしかったじゃないか。さっきコーチの話を聞いて、オレ、マジで恐くなったんだ…おまえがはやまった真似しちまうんじゃないかって…」
クリスターは呆れたように目を丸くした。
「僕が自殺でもするつもりじゃないかと疑ったわけかい?」
「ク、クリスター…!」
「全く、馬鹿なことを考えるね、おまえ…それを言うなら、フランクス・コーチもだ。いや、僕がおかしな態度を取ったばかりに、余計な心配をかけて、コーチには申し訳ないことをしたと思うけれど―安心しろ、レイフ、僕は自殺なんて無意味な真似はしないよ」
「でも、それなら、どうしてあんな昔話をコーチに―なあ、おまえ、自分がいるせいでオレが伸びないとか何とか、とんでもない勘違いをしているぜ、オレはな―」
レイフの言葉を途中で遮るように手を上げ、クリスターは強い口調で言った。
「レイフ、いずれにせよ、今はそんな話をしている場合じゃない…今ここで昨日の口論の続きをする余裕は、僕にはないんだ。頼むから、ジェームズの手からダニエルを救い出す方策を考えることに集中させてくれ」
「う…うん、ごめん」
「おまえの言いたいことは分かっているよ、レイフ―この件が片付いたら、もう一度ゆっくりと話し合おう。フランクス・コーチにも…あんな形で挨拶もせずに飛び出していったのはまずかったと思うし、改めてちゃんと謝りに行って、その時にコーチの話も聞かせてもらうよ」
優しい口調で言い聞かせるクリスターを前に、レイフはそれ以上食い下がることはできなくなった。
だが、それでもークリスターに向かって溢れ出していきそうな感情を堪えかねたレイフは、彼が戸惑うのもお構いなしに、その体をぐっと抱き寄せた。
「クリスター、クリスター…なあ、約束してくれよ、おまえ、オレの傍から勝手に消えたりしないって」
クリスターの肩に鼻先を押し付け、レイフは心の底から懇願する。
「レイフ…」
クリスターは言葉を詰まらせたかと思うと黙り込み、レイフの抱擁にじっと身を委ねた。やがて、自らも手を上げ、弟の体を強く抱きしめた。
「この僕がおまえから離れようなどとするものか、レイフ、そんなことできやしない…僕はいつでもおまえの手の届く場所にいて、おまえを見守っている…この気持ちに嘘はないよ」
まるで子供をあやすようにいとおしげで、どこか寂しい、クリスターの声を耳元で聞きながら、レイフは訳も分からず無性に哀しくなってきた。
抱き合っているために、相手の表情は見えない。クリスターの顔を覗き込んで、そこにどんな感情が浮かんでいるのか確かめようと、レイフがほんの少し体をずらすと、それが合図と受け取ったようにクリスターはレイフから離れた。
「時間が惜しい。行こう、レイフ」
またしても取り付くしまもない冷徹な態度に戻ったクリスターは、レイフに背を向け、さっさと歩き出した。仕方なく、レイフもその後に続く。
(なぜだろう、この違和感…クリスターが何を思っているのか、分からない。今オレに話してくれたこと、全く正しく耳には聞こえたのに、なぜか胸に入ってこなかった。どうしてなんだ、クリスター…おまえの心は今オレから閉ざされている…)
体育館とそこに併設されているジムから、クラブハウスのある場所は少し離れている。
夏休み中のことであり、クラブハウスの周囲は静まり返っていた。ジムの方には何人かチームメイトがいて、トレーニングに励んでいたが、皆わざわざフットボール・チームの部室にまで足を伸ばすことはなく、体育館内のロッカーを使っているようだった。
その人気のないクラブハウスに、レイフはクリスターと共に入っていった。前を行くクリスターはあれから一言もしゃべらず、レイフを振り返りもしない。
「ロッカーに、こんな時にわざわざ取りに来なきゃならないような、何を置いていたんだよ?」
何となく気詰まりになってきたレイフが声をかけると、クリスターはさらりと答えた。
「拳銃」
「ええっ?!」
「…は、さすがにないけれど、家に置いて、うっかり父さんや母さんに見つかったらちょっとまずいようなものを隠してあるんだよ。護身用のアイテムや盗聴器や簡単な発火装置まで―」
「な、何で、高校生がそんなものを隠し持ってんだよ」
レイフのうろたえぶりに、クリスターは小さく笑ったようだ。
「以前、新聞部の連中とJ相手に共闘した時に、ちょっと必要になってね」
フットボール・チームのロッカー・ルームに入ると、クリスターはレイフが見守る前で自分のロッカーの鍵を開けた。
「レイフ、ケンパー警部の連絡先は分かるか?」
唐突に聞かれたレイフは目をぱちくりさせた。
「ええっと…いや、電話番号までは聞いてないけど―サウスボストン署のどこの部署だったかな…?」
「おまえにも一応ケンパー警部やウォルターの連絡先を教えておくよ、何かあった時のために―」
クリスターはロッカーから取り出したメモに2人の電話番号を書いて、レイフによこした。
レイフはそのメモを見下ろし、眉根を寄せた。何かあった時のためというのは分からないでもないけれど、どうして今、こんなものをくれるのだろう。
「なあ、兄さん…」
得体の知れないもやもやした感情を胸に抱えて、レイフが呼びかけた時、クリスターはロッカーの奥から黒いスポーツバッグを取り出すところだった。
顔を上げたクリスターとレイフの目があった。すぐに、クリスターは視線を逸らした。
「これ、持ってくれ」
無造作に投げよこされたバッグを受け止めようと慌てて腕を伸ばしたレイフは、前のめりの姿勢になる―クリスターのコントロールが悪かったのか、危うく荷物を取り落としそうになった。
(あれ、おかしいな、クリスターの奴が投げそこなうなんて―)
そんな小さな疑念がレイフの脳裏を掠めた。
次の瞬間、目にも止まらぬ速さで動いたクリスターのパンチが、レイフの横面をまともに捕らえた。
がつんと、肉と骨がぶつかりあう鈍い音が響く。声はあがらなかった。
レイフはどうっと横様に倒れこみ、そのまま動かなくなった。
「ふう…」
クリスターは肩で大きく息をつき、拳をさすりながら、床の上でぐったりと白目を剥いて失神している弟に歩み寄った。
「レイフに見つかるなんて、危うかったな…一撃でこいつを倒せるのか、僕にも自信はなかったけれど、何とかうまくいったか」
クリスターは床に膝をついて、レイフの顔を覗きこんだ。何しろボクシング部のエースの渾身のパンチをもろに食らったのだ、頬骨の辺りは既に赤くはれてきている。しばらくの間は、ずきずきと痛むだろう。
「ごめんよ、レイフ」
すまなげに眉を寄せ、クリスターはレイフの口元に滲んだ血を指先でそっとぬぐってやった。
「でも、おまえをあそこに連れて行くわけにはいかないんだ…本当にごめん…」
クリスターはレイフの頭に手をのせ、いとおしむようにゆっくりと撫でた。
「大丈夫、あいつとの決着をつけた後、僕はちゃんとおまえのもとに帰ってくるよ…死んだりして、おまえを哀しませるものか。ただ、僕は決めたんだ、おまえの将来に影を落とす邪魔者は今度こそ完全に取り除く―そう、1人はジェームズ」
胸の深い所で密かに重大な決断を下してしまったクリスターの瞳は、今は静かな海のように凪いでいる。嵐の前の一時の静寂だろうか。
「そして、もう1人は―」
クリスターの指先が滑り、レイフの唇にかかった。つい昨日、溢れ出した衝動のままに思わず触れてしまった、この唇―。
クリスターは火傷でもしたかのように指を引っ込め、苦笑しながら頭を振った。
「愛しているよ、レイフ、僕はおまえのためだけに生きている。昔も、今も、これからもきっと―」
クリスターは力をなくしたレイフの手を優しくすくい上げ、両手で押し戴きながら唇を押し当てた。
「だから、もう何も恐れはしない」
クリスターはおもむろに床から立ち上がり、辺りを見渡した。そうして、まずは、気を失ったままのレイフの体を後ろから抱くようにして引きずりながら、どこかに移動しにかかった。