ある双子兄弟の異常な日常 第三部
SCENE2
僕はあなたを愛している。でも、あなたは別の人を想っている。
だからと言って、あなたが僕にすまなく思う必要なんてないんです。
僕があなたの『唯一の絶対』になれないことは、初めから分かっているから…。
ただ、せめて、あなたの役立ちたい、少しでもあなたを支えたいと、僕が願うことだけは許してください。
ドクター・キャメロンの自宅はクリニックのすぐ隣にある。
ダニエルは、灯りのついていない家に用心深く近づいて、中に人の気配がないことを確認した後、ポケットから取り出した合鍵―隙を見て作っておいたのだ―を使って扉を開けた。
時間は午後8時過ぎ。
今夜、キャメロンはボストン市内で開かれている学会とその後のパーティーに出席するため、帰りは遅くなるはずだ。
クリニックの仕事をいつも通り何食わぬ顔で終わらせ、他の従業員も皆帰った後、ダニエルはかねてからの計画を実行に移した。
ドクター・キャメロンが自宅に保管しているはずのジェームズ・ブラックのカルテを見つける。
ジェームズ・ブラックに関する重大な秘密が、そこには隠されているはずだからだ。
(そもそもブラック家が、ドクター・キャメロンをわざわざ子供達の主治医に選んだことからして怪しい、何かあるに違いないと、クリスターさんは睨んでいたんだ。普通の子供達を診てもらうのに、なぜ高名な遺伝学者を雇う必要がある? でも、実際、ブラック家には、どうしても子供達の健康に留意しなければならない切迫した事情があったんだ)
ジェームズとの最初の闘いの最中に、クリスターが可能な限り調べあげ、推理を巡らせ、ここに至ってほとんど確信するまでに至ったジェームズの秘密。それらに思いを馳せながら、ダニエルは暗い家の中にするりと忍び込み、キャメロンの研究室を目指した。
(そう、ブラック家の男子は概して長生きできない―一見どこも悪くない子供として生まれ、健康に成長していったのが、20才前後でいきなり正体不明の病気にかかり、治療の甲斐もなくすぐに死んでしまう。昔は、こんな不吉な話は公にはできない、名家の名に傷がつくからと、事故にあったとか適当な理由をでっちあげて処理されたこともあった。そして、迷信深い者達は陰でこう囁きかわした―かつて旧大陸からやってきた彼ら一族の当主は、莫大な富を得ることと引き換えに悪魔に自分の子供の魂を売った、ブラック家の不幸はその犠牲にされた子供の呪いなのだと。男子にのみ受け継がれる『ブラック家の負の遺産』…やがて、それは一種の遺伝病なのだということが分かった。そして、現代の医療技術をもってすれば治療も可能なのではないかと考えたジェームズの両親は、キャメロンにすがったわけだ。ブラック家の最後の男子、メアリ亡き後は唯一の後継者になった、ジェームズの命を救うために)
つまり、ジェームズ・ブラックは生まれた時から、いつスイッチが入るか分からない時限爆弾を抱えて生きてきたわけだ。
だが、たとえジェームズが長く生きられない体であったとしても、それがどんな性質の病であるのか分からず、ましてやいつ発症するかも知れない。現実に進行中のジェームズとの闘いにおいて、そんな不確定の要素をあてにするわけにはいかなかった。
(それに、以前のクリスターさんは、アイザックやコリンさんの手前、ジェームズの仕掛けた闘いに自分は仕方なく応えているだけだと装っていたけれど、実際彼との勝負そのものに結構拘っていたから…ジェームズの知略以外のところにある弱点につけこむのは、プライドの高いあの人には抵抗があったのかもしれない。ある程度調査はして、仮説を立てたりしたけれど、それはそれとして胸に留めておくだけにした。第一、そんな可能性に頼らなくても、クリスターさんはジェームズに見事に勝って、彼を施設に閉じ込めることに成功したんだ)
しかし今は、あの時とは状況が違う。
ただ閉じ込めるだけでは、ジェームズから完全には逃れられないのだと、今度のことで、クリスターにしても思い知ったはずだ。
(かつての仲間達…コリンやミシェルがあんな目にあって、アイザックも行方知れず―何よりも、自分の家族にまで害が及んでしまったことで、クリスターさんはどんなにかショックを受けただろう。何としても、今度こそはジェームズを永遠に葬り去らなければならないと、あの人は決意している)
だが、一体どうすれば、あの人間らしい恐れも迷いも持たない、限度というものを知らない怪物に勝てるのか。
突き詰めると、ジェームズの命を奪うしか、クリスターが彼から逃れる道はないのではないかとさえ思われてくる。
(恐いのは、もしかしたらクリスターさんなら本当にやりかねないということなんだ。あの人も…ある意味、ジェームズと同じ、限度というものを知らないから…そう、もしも―再びレイフさんにジェームズの手が伸びるようなことがあれば、たぶん、あの人は躊躇わない)
そこまで考えて、ダニエルは思わずぞっとしたように身震いした。
「駄目。クリスターさん、あなたをそこまで追い詰めるようなことには、絶対させない」
自分に強く言い聞かせると、ダニエルは、暗がりの中たどり着いた、キャメロンの研究室に忍び込んだ。そうして、一応用心のため灯りはつけず、持って来た懐中電灯でデスクや本棚の周りを照らしながら、目当ての資料を探し始めた。
(僕がここで、ジェームズの正確な健康状態が分かるデータを見つければ…そして、それが、僕が怪しんでいることを裏付けてくれたなら、クリスターさんにとって大きな安心材料になるはずだ。施設から出てきた後のジェームズの生活態度、父親の治療を通じてドクター・キャメロンと頻繁に会っていること、そしてクリスターさんが語った彼の印象からすると、あながち僕の思い込みとばかり言えないもの。ううん、やっぱり僕は期待しているんだ。だって、ジェームズの時限爆弾のスイッチが入ったのだとしたら、それが仮説どおりに速やかな死を彼にもたらしてくれるものなら―クリスターさんは何ひとつ犠牲にすることなく、彼の魔の手から逃げ切れるだろうから―)
人の死を、かくも切実に願う自分は間違っているだろうか。自然にこみ上げてくる人間らしい罪悪感が、ダニエルの小さな心臓を震わせる。しかし、若いだけに一途に燃える愛情は、それを凌駕していた。
(間違っていても、構わない…あなたさえ無事でいてくれるなら、何の憂いもなく幸福に暮らせるようになるのならば、僕は―)
キャメロンの机の引き出しの中にあった、大量のファイル・ケースを探っていたダニエルの指先が、ふいにとまった。
「見つけた…ジェームズのカルテだ」
机の上にそれを広げ、素早く目を通してみる。
古い日付のものには、せいぜい年に数回なされた検査の結果と異常なしというような短い所見が記されているだけだった。しかし、それが一転、ここ最近のカルテにはびっしりと書きこみがなされている。
(やっぱり、父親の往診時に、ジェームズもキャメロンの診察を受けていたんだ。自分の今の健康状態が外部に漏れた時の影響を慮って、隠してきた)
更に、ダニエルはカルテに添付されている検査データを調べてみた。クリニックのアルバイトをしているうちに覚えた一般的な検査項目も多かったが、中にはほとんど馴染みのないものもあった。しかし、素人目から見ても、明らかな異常を呈しているのが分かる。
(血液検査だけじゃない…筋電図検査、神経伝道検査、脳波の検査までしているけれど、さすがにこれは専門家じゃない僕には分からないな。とりあえずデータを写して、後で細かく調べてみないと―)
それら検査データをカメラに収めた後、ダニエルは、また別の引き出しの中に、今度はキャメロンの手によるものらしい一冊のノートを見つけた。
ブラック家に特有のこの病気に関する、キャメロンの研究の記録のようだ。
きちんとまとめられたものではないが、一族の家系を辿りながら個々の病例についての考察を述べたものや―近い所ではジェームズの叔父の例があった―また、病気の原因と思われる遺伝子の欠損部分についても書かれている。
初めは内容を拾い読みしながらぱらぱらとページをめくっていたダニエルは、途中で目に止まった記述に思わず手をとめ、それを食い入るように読み始めた。
(発症年齢は20才前後が最も多いが、中には早くも10代半ばで症状が出た者や、30代後半まで健常者として過ごした者もある。女性にもまれに症状が表れた例はあるが、ほぼ九割がた男性に伝わる…症状としてはまず運動神経系の異常が顕著に現れ…神経の細胞死による筋力や反射機能の急速な低下。小脳、脳幹部にも萎縮・脱落が起こり、それに伴う四肢の不随意運動が強く出るケースもある…間歇的な痙攣発作を起こす…しかし、知能低下はほとんど見られない…発症した後の進行は極めて早く、予後も悪い。発症後半年程度で自立歩行は困難となり、全身の筋肉が衰え、2年以内で多くの場合死に至る。残念ながら、現時点で根本的な治療法はない)
死に至る―ダニエルは思わず息を飲んだ。そして、先程引き出しの中に戻したジェームズのカルテを慌てて取り出し、もう一度詳しく読み始める。
「3月14日…この日、ジェームズは出所後初めてキャメロンの診察を受けている。手の違和感の訴え。長引く微熱。それが病気の最初の兆候だったとすれば、発症して、そろそろ半年が経つのか。ジェームズの場合、まだ歩けなくなるほど状態は悪化していないようだけれど―」
ダニエルの可愛らしい顔に、ふっと妖しい陽炎めいた笑みがうかんだ。
「でも、いずれせよ、ジェームズ・ブラックはじきに体の自由も利かなくなって…1年かもう少し経てば死ぬんだ。J・Bがどんな悪魔だって、死んでしまえば、これ以上クリスターさんに付きまとうことなんてできない…よかった」
心から安堵して息をついたものの、自分の台詞の残酷さにふと気付いたダニエルは、さすがに少しばかり恥じ入った顔になった。
その時―低く唸るような車のエンジン音が、この家に向かって近づいてきた。
ダニエルははっとなって顔を上げた。まさかと思いつつ窓に駆け寄り、そっと外の様子を窺った。
すると、あろうことか、今夜は遅くまで帰宅しないはずのドクター・キャメロンの黒のベンツが家の前に止まり、続いて、その後ろにもう一台見慣れぬ白い車が停車した。
「どうして―学会のためにボストンに行っているはずのドクターが、急に戻ってくるなんて…」
動揺のあまり上ずった声で呟いた、その直後、ダニエルは、己が見たものに本気で喫驚して叫びそうになった。
(ジェームズ…?!)
白い車の運転席から出てきた大型な男、そして後ろの座席から外に飛び出してきた華奢な少年、彼ら2人の助けを借りて最後に車から降りたのは、誰あろう、ジェームズ・ブラックその人だったのだ。
(ど、どうして―いつも自宅でキャメロンの往診を受けてきたジェームズが、今夜に限ってここに現われるなんて―)
そんな疑問が脳裏を掠めるも、聡いダニエルはすぐにジェームズの様子がおかしいことに気付いた。
ダニエルが出所後のジェームズを目にするのが、この時が初めてだった。
確かにクリスターから、彼が会った時のジェームズの様子については聞かされていた。しかし今、実際目の当たりにするジェームズは、以前よりも痩せて体力が落ちているどころか、自分で動くのも覚束ないほど弱っているように見えた。一度は大柄な男―フットボール・チームの一員だったフレイだ―が支えようとするのを断って自力で歩こうとしたものの、結局はあきらめたのか、彼に半ば抱きかかえられるようにして、この家に向かってくる。
ベンツから降りてきたキャメロンが、心配そうに彼らに声をかけるのが聞こえた。
「私の今夜の予定を君達が把握していてくれて、全く幸いだったな。いきなりホテルの前で待ち構えられていたのには驚いたが―」
ジェームズの傍らにぴたりとくっ付いていた小柄な少年が、少女のような甲高い声でキャメロンに噛み付く。
「そんなことはどうでもいいから、早くジェームズを治せよ、このやぶ医者!」
「発作なら、見ての通り、もう収まっているよ。だが、そうだな…念のため検査をして…痙攣予防の薬を少し変えてみようか」
キャメロンのその言葉を聞いて、ダニエルは自分が置かれた状況の危うさにようやく気がついた。
4人は何事か話しながら、ジェームズの歩調に合わせて、こちらにゆっくりと近づいてくる。
ダニエルは動転しながらキャメロンの研究室から飛び出し、逃げ場を求めるように辺りを見渡した。すると階段の下に小さな物置を見つけたので、とっさにその中に隠れこんだ
狭い空間の中、みっしりと詰まった暗闇。
胸の奥の心臓が激しく打ち鳴らされるのを感じながら、ダニエルが息を殺して待ち受けていると、家の扉が無造作に開けられ、中に人が入ってくる音と気配がした。
廊下の灯りが、物置の扉の隙間から僅かに漏れてくる。
足音はダニエルの隠れ場所のすぐ傍を通り過ぎ、先程まで彼が資料を探していた研究室の隣の部屋に入って行った。そこには、簡単な診察ができるようなベッドや薬品類があったはずだ。
(こんな時間にいきなりキャメロンを訪ねてきたのは、ジェームズの容態が急変したからだろう…さっき発作がどうとか言ってたし…ジェームズ自身も動くのも辛そうに見えた。彼の病状は、実際の所、どこまで進んでいるんだろうか…?)
しばらく物置の中に身を潜めていたダニエルだったが、彼らが部屋に入ったきりしばらく動きそうにないと見定めるや、慎重に扉を開き、廊下に出てきた。
(頭では分かっていても、あのジェームズが本当に死にかけているなんて…まだ信じられない)
ダニエルはジェームズやキャメロンがこもっている部屋にそろそろと近づき、その扉に耳を押し付けて、中で交わされている会話を拾おうとした。
「…ジェームズ、これまで何度も言い聞かせてきたが、そろそろ自宅療養も限界だよ。今度の発作は単純な痙攣だったが―今後は下手をすれば突然死にもつながるような急激な容態悪化も起こりうる。私が紹介する病院ならば、君に似た病気のケアにも慣れている。この際、ちゃんとした施設に入院して治療に専念してみたらどうだね?」
医者らしい威厳の中にも真摯な気遣いのこもったキャメロンの声が、最初に聞こえてきた。そして、
「ドクター…もしも治療によって回復する見込みが少しでもあるのならば、僕はあなたの助言に素直に従っていたでしょうね」
ジェームズの声は、話すことも苦しげに、弱々しく掠れていた。それでも、自らの意思を伝えようとする力を失ってはいなかった。
「そんな辛そうな顔をしないでください。あなたが子供の頃からずっと僕を見守り、この病気の発症を抑える方法を真剣に探し続けてくれたことは、ちゃんと承知しています。残念ながらあなたは間に合わず、僕は発病してしまった。でもね、ドクター、たとえあなたがそのことについてどう感じていようが、僕自身は長生きしようなんて無駄な希望は初めから抱いていない…んです」
乾いた咳によって、ジェームズの言葉は一瞬途切れた。そして、今度はゆっくりと、一語一語胸の内から押し出すように、切々と彼は訴えた。
「ねえ、ドクター、僕は別に、命を助けてくださいなんて、あなたに頼んでいるわけじゃないんですよ。ただ、せめて後ひと月、いや2週間でもいいでいいから、僕が自由に動けるよう、この体を保たせてほしいんです。僕の人生最後の望みを叶えるために、そのくらいの時間は必要なんです。その後は、たとえ廃人になろうが死のうが、僕は全く構わないから―」
ダニエルは一瞬、今この扉の向こうで語っているのは、本当にあのJ・Bだろうかと疑った。こんなにも切迫した声をジェームズが出すなんて、信じられなかった。
「ジェームズ…君がそんなにも必死になって私に頼みごとをするのは初めてだな。子供の頃から自分の背負った宿命を知っていた君は、それを受けいれ、超越してしまったかのように、私の与える助言や忠告にもずっと無関心だったが…いや、それこそ私の思い込みだったのだろうかね…?」
「いいえ、ドクター。確かに僕は、ずっと自分の生にも死にも無関心でしたよ。特にメアリがいなくなった後の僕は、何もかもどうでもよくなってしまったから―下らない連中相手のゲームや悪戯で退屈を紛らせながら、空しく日々を過ごすだけでした。あんまりつまらなくて、どうせ、こんな毎日はそう長く続くわけじゃないんだと自分に言い聞かせる僕にとって、いっそ、その日が待ち遠しいくらいでしたよ。それが、ここに至って、僕にももっと生きたいという欲が出てきてしまったんですね。全く、こんな僕にもやっと生きがいが見つかったと喜んだのに、この体はもうもたないなんて、残念でならない…人生のうちの満ち足りた時間というものは、誰にとってもごく短いものだと聞いてはいたけれど―」
ジェームズの慨嘆に、ダニエルはつい夢中になって耳を傾けていた。
だから、廊下の突き当たりにある裏口の扉が音もなくゆっくりと開いて、暗がりの中から人形めいた白い顔が現れ、緑色の双眸が自分を見据えてきらりと不吉に光ったことには気がつかなかった。
ひた、ひた、ひた。猫のように音もさせず、ダミアン・ハートは無防備なダニエルの背中に近づいてくる。
ふいに、ダニエルは得体の知れない寒気を覚えて身震いした。
その肩にじゃれかかるように絡まる細い腕。耳にかかる、熱い吐息―たちまちダニエルは硬直した。
「ね、こんな所でこそこそと何してるのさ、うさぎちゃん? かくれんぼのつもりなら、オレが一緒に遊んでやるよ?」
くつくつという笑い声を頭のすぐ後ろに聞いて、ダニエルの中の恐怖が一気に爆発した。
ダニエルは無我夢中で自分の体に巻きつく腕を振りほどき、ダミアンを突き飛ばした。思ったよりも小柄な相手は、バランスを崩してよろめき、床にしりもちをついた。
「痛ぁいっ」
甘えた声で叫びながらも、ダミアンは、どこか面白がるような、残忍な笑みを浮かべてダニエルを見上げている。
「どうした? ダミアン?」
部屋の中から、フレイのものらしい太い男の声がした。ダニエルは弾かれたように体を反転させて駆け出し、玄関から外に飛び出した。
(クリスターさん、クリスターさん…)
目立たないよう、クリニックから少し離れた路上に停めてある、友人から借りた車を思い描いた。
そこを目指してダニエルは懸命に走るが、もともと左脚の不自由な彼のことだ。追っ手がすぐに行動し、本気になって後を追えば、簡単に捕まってしまっただろう。
しかし、一向に誰も追いかけてこない。
ダニエルも多少不審の念を覚えはしたが、ここから逃げ切らねばと焦る思いの方が強かった。
(何としても、あなたに知らせなければ…あなたの推理は正しかった。ジェームズの命はもう長くない―)
ダニエルが広い庭を突っ切って敷地の外に逃れようとしていた時、そのずっと後ろ、彼が今しがた飛び出してきた家の前では、ダミアンが伸び上がるようにしながら逃亡者を見送っていた。
「ダニエル・フォスターか」
うっそりとした声がつぶやくのに、ダミアンが後ろを振り返ると、苦虫を噛み潰したような顔のフレイが佇んでいた。
「クリスター・オルソンの仲間だね?」
ゆるゆると目を細めながら、ダミアンが確認をする。
「どうして、すぐに捕まえなかった?」
「だって、暴れる相手と取っ組み合いなんて、疲れるから、嫌だもん」
ダミアンは悪びれもせずに言い放って、ますます渋い顔をするフレイにからかうような眼差しを投げかける。
「でも、今からでも遅くないから捕まえろって言うなら、一発でちゃんと仕留めるよ? どうする?」
足元に置いた黒いスポーツバッグを足でつついて、ダミアンが無邪気に促すと、フレイは迷うような素振りを見せた。
(こいつ、図体はでかいけれど、根は臆病者だな)
ダミアンが再び口を開きかけた、その時、家の中からジェームズが姿を現した。
ダミアンとフレイは、とっさに姿勢を正した。ゆったりと前に進み出るジェームズの両脇に素早く控える様子は、まるでよく躾けられた二頭の猟犬のようだ。
「ジェームズ…大丈夫か、中で休んでいた方が―」
おろおろと手を伸ばして支えようとするフレイをそっと制して、ジェームズは、逃げていくダニエルの姿を別に意外でも何でもなさそうに眺めやった。
「ジェームズ、ねえ、やってもいいだろ?」
期待に満ちて、ダミアンが訴えかける。フレイは口を挟むことなく、諦めたように地面に目を落とす。
ジェームズは、ふっと微笑んだ。
「いいよ。ただし、絶対に殺しては駄目だからね」
それが目的でわざと逃がしたんだろうと言外にたしなめるよう、ジェームズはダミアンの頭を軽く小突いた。
「うん、分かってるって!」
ダミアンは嬉々としてしゃがみこみ、黒いスポーツバックを開けた。
中から取り出された、殺傷用のブーメランのブレイドが、後ろから差してくるポーチの灯りを受けて、不吉なきらめきを放つ。
皮の手袋をはめた両手に2本のブーメランを携えて、ダミアンは芝生の上に立った。
狩りを前にした昂揚からか、滑らかな白い頬は赤味を帯び、息も僅かにあがっている。
ダミアンは慣れた所作で大型ブーメランを滑らかに操り、構えた。視線の先には、次第に遠く小さくなっていく、ダニエルの姿がある。
(あれは、ただのちっぽけなウサキだ。仕留めることなんか、簡単だ)
ダミアンの華奢な体が、鞭のようにしなう。細い腕が素早く旋回する。
凶器は放たれた。
一方、全力で駆けて行くダニエルは、まさか、そんな恐ろしいものが自分に向かって投じられたなどと夢にも思わない。
振り返りもせず、何としてもクリスターのもとに辿り付かねばという一念だけで動いていた。
(大丈夫、きっと、このまま逃げ切れる…もう少しがんばれば、僕の車が見えてくる)
次の瞬間、空気を切り裂く異様な音をダニエルは聞いた。
反射的に振り返りかけた、その肩を熱い衝撃が掠めていく。
「あぁっ!」
肩先がかっと燃え上がったかに思われた。
血しぶきが上がり、綺麗に刈られた芝生の上に飛び散った。
ダニエルの肩を切り裂いたブーメランは、大きく弧を描いて、再び彼のもとに戻ってくる。
ダニエルは信じられないように目を見開くと、血の噴きだす肩を庇いながら、何とかそれをかわした。
だが、そのすぐ後、ダミアンが放った2本の目のブーメランが、彼の背中に命中した。
「あぁぁぁっ!」
絶叫をあげ、ダニエルは地面に倒れ付した。二、三度体を痙攣させ、そのまま動かなくなった。
「やった! ほら、ジェームズ、見てよ!」
親に誉めてもらうのを期待する幼児のような表情で、ダミアンは後ろに静かに佇んでいるジェームズを振り返る。
その妖しく光る緑の瞳が、心もとなげに翳った。
「ジェームズ…?」
ジェームズは、自分が命じるがまま倒されたダニエルの無残な姿も、興奮のあまり頬を紅潮させて自分にじゃれかかろうとしているダミアンも、全く見てはいなかった。
その深沈と暗い闇を湛えた藍色の瞳は、今周囲で展開している現実を突き抜け、その先に横たわる何か、彼にだけ見える未来の啓示を凝然と見据えているかのようだ。
「ついに時は満ちたということかな」
心ここにあらずのジェームズはひっそりと呟き、胸の辺りに持ってきた左手を見下ろした。依然として微かな震えの残っている指先を、もう片方の手でそっと包みこむ。
「僕にとってか、それともクリスターにとって…?」
誰に問いかけるふうでもなく問うてみた後、ジェームズは胸の前で重ねた手の上に頭を垂れ、瞑目した。
あたかも神に祈りを捧げるかのような厳かな沈黙がしばし流れ、そして―。
「ダミアン、フレイ」
じっと息を殺してジェームズの様子を窺っていた2人は、つい反射的に、びくっと身を震わせた。
そんな彼ら1人ずつにゆっくりと顔を向けながら、ジェームズは何事もなかったかのように、にこりと笑いかけた。
「そろそろ屋敷に引き上げるよ。フレイ、あそこに倒れているダニエルを拾ってきてくれ、彼も連れて帰るから…ああ、でも、その前にドクターに頼んで手当てをしてもらわないといけないかな。出血が結構ひどいようだ。ダミアン、か弱い獲物相手には、もう少し手加減してほしかったな」
まるで、少し前に自分が病人としてここに運び込まれたことなど忘れ去ったかのように、ジェームズは生き生きとして、楽しげだった。
「だって…血が出なきゃ、おもしろくないじゃん」
不服そうに唇を尖らせるダミアンの顔には安堵の色が浮かんでいた。彼の唯一の神は蘇った。そう、ジェームズが死ぬなどありえない。
「ジェームズ…君らはまた何と言うことを―」
部屋にいるよう言い含めていたのが、いつの間に外に出てきたキャメロンは、フレイが血まみれのダニエルを抱えてこちらに戻ってくるのを見て、ショックのあまり言葉を失った。
ジェームズは、そんなキャメロンの肩に手を置いて、なだめるようにさすりながら、その耳に唇を寄せた。
「こんな時のためにあなたがいるんですよ、ドクター…どうか余計なことは何も言わず、ダニエルの処置をしてください。後のことは僕がいいようにしますから―あなたは何も聞かなかったし、見なかった―これまでずっと、僕のすることに対して、あなたが保ってきた態度を変えないでください。僕は、僕を死なさぬようあなたが払ってきてくれた努力には心から感謝しています。でも、それらが全て水泡に帰そうとしている今、どうか、最後の望みを叶える時間を僕から奪わないでください」
深く、静かに浸みていく水のように、ジェームズの優しい声は人の心の隙間にすっと入り込み、人を呪縛する。まさに、これこそ悪魔の囁きだった。
キャメロンは体を強張らせ、拳をぐっと握り締めるが、結局ジェームズに反論はしなかった。
「ありがとう、ドクター、あなたは二重の意味で僕の恩人です」
力なく項垂れるキャメロンに、謝辞を述べながら無邪気に笑いかける彼は、すっかり、もとどおりのジェームズ・ブラックだった。
完璧な調和を体現するかのような優雅さを身にまとい、人の心を震撼させる底知れぬ邪悪さを滴らせて―彼は、フレイが連れ戻ったダニエルをちらりと一瞥すると、すぐに全ての興味をなくしたかのように素っ気無く肩をすくめ、扉の内側に再び戻っていった。
それから小一時間もしないうちに、ジェームズ達は意識を失ったままのダニエルを連れて、キャメロン宅を後にした。
日常の静けさが戻った今、ここであった凄惨な出来事の痕跡はほとんど見当たらず、ダニエルが密かに拉致されたことを知る者も、今のところ、貝のように固く口を閉ざすことを決め込んでいるキャメロン以外にはいない。
じきにクリスターはダニエルの身に起きた異変を知らされることになるが、それには翌日まで待たねばならなかった。