ある双子兄弟の異常な日常 第三部
SCENE12
ダミアン達を撃退した後も、レイフは何の障害もなくジェームズの屋敷までたどり着くというわけにはいかなかった。
侵入者が屋敷に向かったという知らせは警備員達にも伝わったのだろう、広い敷地内に分散していた彼らは徐々に戻ってき、母屋を中心に守りを固めつつある。
先に気がつけばなるべく避けるようにして、迂回しながら屋敷に接近していったのだが、一度はそうした連中に見つかってしまい、危うく銃を向けられそうになったこともあった。
幸い、相手は2人と少人数で、本当にたまたま鉢合わせしてしまった分、向こうにも隙があり、素早く反応したレイフが発砲される前に打ち倒したが、いくら腕っ節が強いといっても素人の高校生にとってはなかなかショックが大きかったことは確かだ。
(マジで、ちびりそうになったぜ)
冷や汗をいっぱいかいたレイフは、その後ろにぴったりくっついたトムと一緒に、今、屋敷の裏手に広がる植え込みの陰に潜んでいた。
建物の付近には、ゲート前で見かけた物騒な雰囲気の男達がいて、周囲に鋭い目を向けている。
彼らがいなくならないことには、母屋に接近することなど不可能な状態だ。
(もし見つかったら、あいつら撃ってくるかな…? マフィアなんだから、その点抵抗ないんだろうな。ああ、素手での勝負なら負けない自信あるんだけれど―)
他に進入できそうな経路はないかと、建物の周囲をぐるりと回って調べてみたが、どこも同じようなものだった。
(だからって、ウォルターの言ったように無理だから引き返すなんてできない―クリスターがあの中にいる、あいつの身の何か起こりそうだって、とてもヤバイ感じは消えない…)
先程から心臓の鼓動がうるさいほどなのは、敵の近くにいる緊張感のせいばかりではないだろう。
(こんなったら一か八か、あいつらの注意を逸らして、一気に襲い掛かるか…でも、どうやって? またトムに囮になってもらうなんて、危険すぎて頼めない)
レイフが煩悶していた、その時、屋敷の正面の方で騒ぎが起こった。
警備員達の怒号や仰天したような叫びが聞こえてくるのに、レイフは胡乱そうに顔を上げて、建物の上の辺りに目をやる。
唸るような車のエンジン音が近づいてきたと思ったら、ぱらぱらと乾いた銃声が幾つかあがり、続いてずしんというような鈍い衝撃音が響き渡った。
(一体、何が起こっているんだ? まさかと思うけれど―)
用心深くレイフが様子を窺っていると、建物の扉が開いた。そこから顔を覗かせた男に、裏庭で張り込んでいた連中が訝しげに問いかける。
「おい、表の方のあれは、何の騒ぎなんだ?」
「正体不明の暴走車が中央の前廊付近に突っ込んできたらしい…ちょっと火の手があがっているが、今消火に当たっているから、たぶんすぐに消し止められる…」
扉の所に立っている男が皆まで言い終えるより先に、先程の衝撃音など比べ物にならない爆発音があがり、建物全体が揺さぶられた。
思わずあっと叫んだレイフの顔が、建物の向こう側に上った巨大な火柱によってオレンジ色に照らし出される。
「な、何事が起こったんだっ?!」
さしものマフィア達も想定外の大掛かりな攻撃に浮き足立った。
「表の様子を見に行こう」
「おい、早く火を消し止めないと大変なことになるぞ!」
自分達の受け持ち場所を守ることも、この大事の前に忘れ去り、警備員達は慌てふためいて建物の表側へと急ぎ向かった。先程扉を開けて出てきた男も一緒だった。
彼らの姿が見えなくなったのを確かめて、レイフは植え込みから飛び出した。
(あれって、もしかしたらウォルターがやったんだろうか…いや、なんぼなんでも常識のある大人が爆発物を使うようなことはしないよな…?)
若干の疑いと不安に首を傾げつつ、夜空に高く上っていく黒煙と火の粉を見上げ、レイフは胸に溜めていた息を吐いた。
「トム、大丈夫か?」
トムも、少々青い顔をしながらも、植え込みから出てきて、レイフの傍に立った。
2人は、警戒しながら素早く芝生の上を走りすぎ、先程男が出てきたドアに取り付く。
「おお、ラッキー」
思わず、レイフははしゃいだ声をあげてしまった。
男達はよほど動転していたのだろう、ドアに鍵はかけられていなかったのだ。
レイフとトムは、無言で視線をかわしあうと、覚悟を新たにして、敵の本拠地に飛び込んでいった。
「それで、その時父さんがあんまり恐い顔をしてレイフを叱るものだから、僕は本気で父さんのことを憎いと思ったんだ。可哀想なレイフはすっかり混乱して涙ぐんでいた…僕と同じ子供部屋にいたいって言っただけなのに、どうして駄目なのかも教えてもらえず、頭ごなしに否定されてさ」
クリスターはすっかりリラックスして、先程からずっと饒舌にしゃべり続けている。
壁に背中をもたせかけるようにして床に座り込んで、心許せる親友のようにジェームズ・ブラックと肩を寄せ合い、楽しげに語り合っている。
「君は、その時どう思ったんだい? やっぱり弟と共有できる部屋を手放すのは嫌だった?」
クリスターの膝の上に置かれた手の上にジェームズが手を重ね、優しくさすっても、それを振り払うことなど彼の頭には浮かんでこないようだ。
薬がもたらす効果は絶大で、多幸感と共に、たやすく暗示にかかる精神状態にクリスターを縛り付けている。
「それは無論失いたくなかったよ。ずっとこのまま一緒にいたいと望んだけれど、そんなことは認められないと思うくらいの分別を僕は持っていた。ただ少しでも長い間、僕とレイフの幸せな子供時代を引き伸ばしたかった。あそこから出て行かなければならなくなった時、僕達は大人として別々の道を歩き始めるのだと知っていたから―」
「同じ部屋、同じベッドの中、互いの体に回された腕の中が、子供時代の君達にとって一番安らげる小さな楽園だったんだね?」
ジェームズが共感を込めて囁きかけると、クリスターは理解してもらえて嬉しいというように無邪気に微笑んだ。
「ああ、そうだよ」
「僕にも双子の妹がいた…同じ部屋でいつも一緒に過ごして、寝付けない夜などは、時々彼女が僕のベッドのもぐりこんでくることもあった。そんなの当たり前のことなのに、親というものは、どうして訳知り顔をして禁じようとするんだろうね」
「それは、あの人達が双子じゃないからだよ、もう1人の自分と一緒に眠る安楽を知らないからだ。子供の頃の僕は、どうやって双子じゃない人達は独りきりの不安な夜に耐えて眠ることができるのだろうと不思議がったものさ」
深い優越感のこもったクリスターの含み笑いが、耳に心地いい。他者に対するここまであからさまの冷淡さを、普段の彼は意識さえしないだろう。
「ああ、全くだね」
賛同の意を表しながら、ジェームズは手元に引き寄せたトレイから新しいアンプルを取り出して、クリスターの腕に易々と注射した。
「医者でもないのに、器用だね」
クリスターは感心したように、ジェームズの手つきに見入っている。
「痛みはまだあるかい…?」
フレイに散々弄られた痕の残る顔を眺めて、ジェームズが心配そうに問いかけると、クリスターは頭を振った。
「いや、もう、あまり痛くない。その注射が効いたのかな?」
従順なクリスター。すっかりジェームズを信頼し、心を開いている。
無防備にこちらに向けられた琥珀の目は、瞳孔が異常に拡大しているせいで、いつもより深く濃い蜜色を呈していた。他人を射るかのような、あの冷たく冴えた輝きは失せ、今はとろけるように甘く、艶めいて見える。
「蜂蜜か飴玉みたいな目だね…本当に甘そうだ…」
ふっと笑って、ジェームズはクリスターの肩を抱いて引き寄せ、その目の上に唇を押し当て、小刻みに震えている睫を舌でなぞり、その陰に半ば隠れている眼球をねっとりと舐めた。
びくりとクリスターの肩が揺れたが、拒みはしない。
「まるで夢のようだな」
満足そうに呟いて、ジェームズは唇をずらし、今度はクリスターの口を覆った。
ジェームズが求めるがまま開いた口の中に舌を入れ、熱い口腔を思う存分に侵しても、今のクリスターは抵抗など思いつきもしないようだ。
このまま支配されることに慣れさせてしまえば、薬自体の効力が消えても、呪縛は残る。慎重に時間をかけてことを進めれば、どんなに強固な自我を持つ人間でも必ず落とせる自信がジェームズにはあった。だが、今もっとも必要な、その時間が足りない。
こんなことなら、クリスターが自ら一度この屋敷を訪問した時、あのまま捕らえこんでしまえばよかったのかもしれない。準備不足だと自分に言い訳して行かせてしまった、彼とのゲームにいかにして勝つかに拘りすぎていた。そのゲーム自体、ジェームズにはこれ以上続けられる余裕などなかったというのに。
「今更だな」
ジェームズは長嘆した。
「君をどれだけ強く僕に縛り付けることができるかな、この残り僅かな時間の中で―いや、むしろどれほど深く君の中に僕を刻み込めるか…僕がいなくなった後も、君が決して忘れることなどできないように―」
差し迫った現実を思い出しかけて、ジェームズの胸は焦燥感にちりちりと焼かれたが、せっかくの幸福な時間を、それによって台無しにしてしまうのも惜しかった。
「どうしたんだい、ジェームズ?」
「いや、君が傍にいてくれると楽しくて、時間が過ぎていくのも忘れそうだと思っていたんだ」
「じゃあ、忘れろよ」
クリスターの手がジェームズの頭を引き寄せ、深く重ねられた唇の間から漏れた熱い息が絡まる。互いの口腔を行き来する舌と舌を擦りつけ、夢中で吸いあう。
本当に、何もかも忘れて溺れてしまいそうだった。
「愛しているよ、クリスター」
しかし、唐突に扉を撃ち叩いた乱暴なノックの音に、ジェームズは我に返らされた。
扉を開いてひょいと顔を覗かせたのはダミアンだった。ぴたりと寄り添いあって、ひそひそと親密に囁きあっているジェームズとクリスターの姿に、ぎょっとしたようだ。
「な、何してるんだよ…?」
思い切り怪しげに眉をしかめて部屋の中に滑り込んでくると、ダミアンは、扉の傍で腕を組んだまま石と化したようにじっと佇んでいるフレイに尋ねた。
「知らん。俺はただ、ジェームズのしたいようにさせているだけだ」
フレイは、半ばさじを投げたかのような疲れた声を出して、もう何も言いたくないとばかりに顔を背けた。
「ちっ、指をくわえて見ているだけなんて、だらしねぇな」
ダミアンの緑の瞳に狂気を孕んだ火が揺らめきあがったが、それも切迫した事態が思い出されたためか、すぐに消え去った。
「ジェームズ、クリスターを奪還するために、そいつの仲間達が敷地内に侵入した。オレも、さっき、そいつらを狩りにいったんだけど、なかなか手強くて、返り討ちにあっちまったよ。今、あんたが雇ったプロの連中にも連絡したけれど―いざとなったら、奴らに射殺させてもいいかい?」
ジェームズはクリスターを愛しげに見つめたまま、ダミアンの話にはさして関心なさそうに答えた。
「僕の許可をいちいち求めに来るなんて、おまえにしては慎重だね、ダミアン」
大方、クリスターに丸め込まれてその脱出の手助けをしてしまったことに今更のように気付いて、後ろめたくなっているのだろう。これ以上へまをして、ジェームズの機嫌を損ねたくないのだ。
「だってさ、この獲物は特別だからね。もしかしたらジェームズは生かしておいて、道具として使いたがるかなって思ったから―」
甘えた声で媚を売りながら、ダミアンは、嫉妬の滲んだ眼差しを、ジェームズの腕に身を預けているクリスターのうつろな顔に向けた。
「ふん、薬づけにしたのかい、そいつ…? そうでもしなきゃ、いくらあんたで手懐けられそうにない、厄介な奴だもんね」
「そんなことより、クリスターの仲間達と言ったけれど―僕に知らせたい特別な獲物とは、一体誰を指しているのかな?」
やっとジェームズの関心を引くことには成功したものの、これも話題としてはあまり楽しいものではないらしく、ダミアンは険のこもった口調で吐き捨てた。
「レイフだよ、そいつの弟の―あんたに聞いた話から、てっきり役立たずのへたれ野郎かと想像していたんだけれど、実際には、とんでもなく強い奴だったよ。オレの仲間をことごとく倒しやがった。このまま放っておくのは危険だ。腕の立つ奴らを集めて、さっさと始末してしまった方がいいとは思うんだけれどー」
ちらとジェームズの感情の読めない横顔を窺って、ダミアンは語尾を濁した。
「ふうん…レイフが来たのか」
ジェームズはクリスターの紅い髪の一筋を指先に絡めながら、ふと考え込んだ。
「クリスターはレイフをここによこしたくなかったはずだけれど―やっぱりレイフも、このままおとなしく僕に相棒を奪われるのを許すほど、馬鹿じゃなかったみたいだね。さて、どうしようかな…?」
迷うような口ぶりでジェームズがレイフの名を呟くのを聞いた途端、クリスターは反応した。指先がぴくりと震え、朦朧と定まらない瞳は次第に焦点があってくる。
「あいつの使い方も一応考えてはいたけれど―何だか面倒になってきたな。僕も精神的に色々参ってしまったし、この上あの喧しいレイフの相手なんて余計に疲れるだけだ。いいよ、もう、殺してしまえ」
「ほんと?」
ダミアンの顔に喜色がうかぶのを認めながら、ジェームズは鷹揚に頷いた。
「ああ、でも、なるべく傷はつけずに、綺麗なまま、死体はここに運んでくれないか」
「クリスターに、見せ付けてやるのかい?」
「せめて最後のお別れくらい、ちゃんとさせてあげたいからね。もっとも、この状態でクリスターがどこまで弟の死を認識できるものか、怪しいけれど」
想像し喉の奥で低い笑い声を立てるジェームズの肩にかかった、クリスターの手に力がこもった。
「うっ?!」
次の瞬間、はっとなって振り返りかけたジェームズの横面に、クリスターの拳が打ち込まれた。
あっさり殴り倒されたジェームズの体は、勢いよく床を転がった。弾みで、傍に置いてあったトレイは引っくり返り、中に残っていたアンプルが周囲に散らばる。
「ジェームズ!」
ダミアンが真っ青になって悲鳴をあげ、扉に背中をもたせかけていたフレイは目を光らせながら身構える。
「痛っ…」
クリスターのパンチは破壊力があるとは聞いていたけれど、実際目の奥に火花が散ったような気がした。
床にしばし這いつくばっていたジェームズが、ぐらぐらと揺れている頭を上げると、口から溢れた血が床に滴り落ちて、赤い小さな血だまりを作った。
ジェームズは顔をしかめて、ぬるぬるになっている口の中を舌で探り、舌先に触れた異物を吐き出した。
「奥歯が1本折れた…やりすぎだよ、クリスター」
束の間の麻痺がひいた後、鈍痛が広がっていく顎に手を添えて、恨めしげにそちらに睨み付けると、クリスターは床に手をついて必死に起き上がろうとしていた。
「それにしても、大したものだね…薬が回ってすっかり正気をなくしていたくせに、レイフの名前を聞いただけで復活するんだもの、参ったよ」
燃えるような琥珀色の瞳が、ジェームズを激しく睨みつける。
たちまち、ジェームズの背中に心地よい戦慄が駆け抜けた。
従順な彼を弄ぶのもいいが、この凄まじさこそ、やはりジェームズが愛するクリスター・オルソンの本質なのかもしれない。
「ジェームズ、血が―」
動転しながらも傍に寄ってきて支えようとするダミアンの手を借りて、ジェームズは体を起こした。
「大丈夫だよ、ダミアン」
クリスターに醜態など見せられるものかと痛みに耐え、ジャケットのポケットからハンカチを取り出して口元をぬぐい、立ち上がろうとした、その時、ジェームズは脚にうまく力が入らないことに気がついた。
愕然となりながら、ジェームズは震える手で脚を押さえた。キャメロンの処方した薬が功を奏して、しばらく軽減していた麻痺が再び強く現われつつあった。
ジェームズは人知れず、口惜しさに唇を噛み締める。
(時間が尽きる…)
その実感が、微かな慄きと共にじわじわと四方から忍び寄ってき、ジェームズを圧倒しようとしていた。
(嫌だ、僕はまだ生きていたい…やっとそう思えるようになったのに、もうあきらめなくてはならないなんて)
ジェームズは狂おしげにクリスターを眺めた。
向こうは向こうで、立ち上がるだけの力はないようだ。全身を小刻みに震わせ、ともすれば崩れ落ちそうになる心を奮い立たせて、かろうじて頭を上げている。
(僕の体が壊れていく。僕の命の火が消えていく。この肉体も心も全てなくなった後、僕がこの世に残せるものが何かあるのだろうか…?)
ジェームズは、奥底から沸きあがってくる名状し難い感情に突き動かされるよう、クリスターに手を差し伸ばした。
あまりに切なく、苦しく、絶望的で、もともと感情というものとは疎遠だったジェームズには、自分の今の気持ちを正しく分析することもできない。
ただ胸が痛かった。
「許さない、よくもジェームズを…!」
いきり立ったダミアンが腰から拳銃を抜き構えようとする。その手をとっさに押さえ、ジェームズは頭を振った。
「駄目だよ、ダミアン…クリスターは僕の大切な人だ、殺さないでくれ」
「ジェームズ…」
ダミアンは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「それじゃあ、一体そいつをどうするつもり…? 何をしたって、クリスターは絶対あんたのものにはならないよ。そいつの目を見りゃ、分かるだろ…飼いならそうとして、逆にあんたが食い殺されることになっちまうよ」
無知なダミアンにしては、なかなか的を射たことを言う。それとも、単純な者の方が、得てして真実を見抜くのだろうか。
答えずに押し黙っているジェームズの脇を、フレイが肩をいからせて通り過ぎた。
訝しげに眺めやるジェームズの前で、フレイはクリスターの右腕を乱暴に捕まえ背中で捻りあげた。更に、空いた方の腕で、後ろから首を締め付けにかかる。
「ジェームズが何と言おうと、もう許さんぞ、クリスター」
クリスターは顔を真っ赤にして、左手でフレイの腕をかきむしるが、思うように力が出ないのか、その抵抗は弱々しい。
「いいぞ、フレイ、そのままクリスターを絞め殺してしまえ…!」
ダミアンはジェームズを抱きしめたまま、ヒステリックな笑い声をあげた。
(クリスターの命を奪うことは僕の目的ではない…だが、どうしても手に入らないのならば、いっそ殺して、僕がじきに行くだろう場所に、彼も連れて行こうか。それとも―?)
ジェームズは、大きく見開いた藍色の瞳にクリスターの苦闘する様を映しこみながら、煩悶した。
その時だ。
ずしんと地面を揺るがすような音が、ここからさほど遠くない場所から響き渡った。
ジェームズは夢から覚めたように瞬きをし、何事かと扉の方を振り返った。
「な、何、今の音…?」
フレイもクリスターを締め上げる腕を緩め、辺りの気配を窺うかのようにじっと聞き耳を立てている。
しばらくすると部屋の外が急に騒がしくなり、神経質な顔をした見張りの1人が扉を開けた。
「どうしたんだ? さっきのあれは爆発音みたいだったけれど、何が起こった?」
鋭い声で、ダミアンが追求する。
「正体不明の暴走車が、屋敷の前廊辺りに突っ込んできたそうです。初めはちょっと煙が出ていただけなんで大したことはないと思ってたら、いきなり爆発して―とにかく火がすごいんで、母屋に燃え移る前に皆で消火にあたっているところです」
ダミアンは忌々しげに唸った。
「きっとクリスターを奪い返しに来たんだ! 車を運転していた奴は捕まえたのか?」
「いえ、それが―どうやら突っ込む前に脱出したらしくて…それに火災の方に気を取られたせいで、犯人には逃げられてしまったようです」
ジェームズは、フレイに腕を捕まれたままじっと考えを巡らせているクリスターを、ちらりと眺めやった。
「…消火には引き続き全力であたって欲しい。けれど、それとは別に屋敷内に進入した者がいないが至急確かめるんだ。状況からして、その暴走車が起こした火災は、警備の目を逸らすのが目的のものだろう」
ジェームズの冷静な指示に、見張りははっとして姿勢を正し、彼の命令を伝えるべく、慌てて外に出て行った。
「何だか、色んな所から邪魔が入ってきたね。君と過ごす貴重な一時に水を差されて、僕は大変不本意だよ」
軽い口調で言いながらも、ジェームズの胸をちりちりと焼く焦燥感はますますつのってきた。
(ああ、僕は、一体クリスターをどうすればいい…?)
ジェームズは唇を噛み締め、疲れたような笑みをクリスターに向けた。
すると、自分を食い入るように見ているクリスターと目が合った。
そうして視線と視線を交し合うだけで、ジェームズにはクリスターが何を伝えようとしているのかが分かり、クリスターにもジェームズが何を思いつめているかが分かった。
「ジェームズ…おまえには、もう僕を自由にできる時間はない」
まだ薬の効果は続いているはずだが、クリスターは驚くほど明瞭な言葉でジェームズに語りかけてきた。
「僕の仲間達がすぐそこまで僕を助けに来ている。それに、アイザックとダニエルが脱出に成功した今、じきに警察が捜査に乗り込んでくるだろう。そんなことになれば、もう言い逃れもきかないほどの犯罪の証拠が明るみに出、君はきっと逮捕される」
ダミアンがびくっと身を震わせたかと思うと、守ろうとするかのごとくジェームズの肩をかき抱いた。
「そうすれば、君は二度と僕には会えない…長い拘留生活を経て再び僕のもとに戻ることも、君にはもう望めない」
黙れ。我知らず、ジェームズは口の中で小さく呟いていた。
白い眉間に皺を寄せて、彼は、クリスターの唇が冷然と動き続けるのを見据えた。
「ジェームズ、君は発病している…ブラック家の血を引く者の宿命である病気は君の体を蝕んで、やがて…殺すだろう」
ほんの一瞬、クリスターは口に出すことを躊躇った。だが、そんな感情の揺らぎは、すぐに、鋭い刃先のような冷徹さに取って代わられる。
「君は死ぬ。僕には二度と触れられない…分かるだろう、ジェームズ、君にとって、これが最後のチャンスなんだ」
ジェームズは愛しげに目を細めながら、自分を挑発するように轟然と顔を上げているクリスターをつくづくと眺めた。
(ああ、君は何て冷酷で、情け容赦なく、そしてずるいんだろうね。僕までそうやって利用しようとする…ここに至って、僕が君の意図に逆らうことはあるまいと確信して―)
クリスターならば、自分の体に隠された秘密を探り当てるのはそう難しくないはずだとは思っていた。だが、このタイミング、この場面で、最後の切り札のように目の前に叩きつけられるのは、何とも胸にこたえた。
(だが、罠だと分かっていながら君の言葉に耳を傾けた時から、僕には選択の余地など残されていなかったのかもしれないな)
ジェームズの体から緊張が抜け、強張っていた顔が緩んで、諦念したような淡い微笑がうかぶのを、クリスターを羽交い絞めにしているフレイは息を飲んで眺めた。
「分かったよ…もう、いい…」
誰に聞かせるともなく、自嘲的にジェームズは呟いた。
「ジェームズ、どうしたの?」
ジェームズの中で何かが起ころうとしていることを敏感に感じ取ったダミアンが、不安そうに肩をさすったが、それをジェームズはわずらわしげに振り払った。
「いいんだ、もう、これで終わらせる…」
ジェームズは小さく痙攣している脚を指の関節が白くなるほどの力を込めて押さえ込み、振り絞るようにして囁いた。
「フレイ…クリスターを壊して…」
信じられないことを聞いたかのごとく、ダミアンは目を瞬き、ジェームズの顔を覗き込む。
フレイでさえ、ジェームズの口からその命令が出されることを待ち望んでいたにも関わらず、とっさに怯んだような表情をした。
「そうだ、右肩がいいな…もう二度と大好きなフットボールができないよう、弟と一緒にプロになる夢など見られないように…」
ジェームズはすっと手を上げて、小さな震えを帯びている指先でクリスターの右肩の輪郭を愛しげになぞった。
「君がフィールドでプレイをする姿…僕も好きだったよ…」
夢みるようにうっとりと目を細め―転瞬、ジェームズは、心が振り切れるのではないかと思うほどの激情を迸らせて、叫んだ。
「そいつの肩を壊すんだ!」
ジェームズの口から無情な命令が発された瞬間、それを聞いたクリスターは、乱れかかった前髪の陰で何事か呟いたようだった。
彼は何と言ったのか、その瞳に過ぎった感情は一体何であったのか―恐怖か絶望か、あるいは、ある種の深い満足感であったのか。
ジェームズが見極めようと身を乗り出した時、主人の命令を得て鎖から解き放たれたフレイは、低い唸り声と共にクリスターの頭を床に叩きつけた。そうして、彼の右腕を不自然な形に捻じ曲げると、渾身の力を込めて、一気に引き上げた。
ごきりというような鈍い音が、いやに生々しく、無機質な地下室に響き渡った。