ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第6章 最後の闘争

SCENE11


 初めは、何か確たる動機があって、こんな真似をしようと思いついた訳ではない。

 もしかしたら単純な意趣返しのつもりだったのかもしれない。

 しかし今、自分がしたことの思いも寄らぬ効果を目の当たりにしながら、クリスターは、心の中で引っかかっていた疑問が解けかかっているような気がしていた。

「クリスター、そんなことをして何の意味がある? 僕を挑発しているのだとすれば、この場合、あまり得策とは言えないな」

 ジェームズは不愉快そうに眉間に深い皺を刻んで、クリスターに手を伸ばした。

「さあ、その時計を返してくれ。僕にとっては、大切な妹の形見だ。それを奪って脅迫するなんて、いくらなんでも卑怯だし、子供じみているじゃないか、君らしくないよ」

 自分の前に差し出された白い手。その指先は微かに震えている。内心の動揺のせいか、それとも彼の体を蝕む病のせいだろうか。

「大切な妹、か…自分の手で殺しておきながら、よくも、その形見を肌身離さず傍に置けるな」

 もう一度、クリスターはジェームズを揺さぶってみた。彼が、その忌まわしい記憶に今でも封印をしたままなのか、試してみた。

「何を言っている…?」

 ジェームズは怪訝そうに聞き返した。その表情を見る限り、彼は本当に何も覚えていないようだ。嫌なことは忘れてしまうよう、自分にかけた暗示はまだ有効らしい。

 だが、その時、幽かな不安と惑いが、凪いだ水面をかき乱す微細な泡沫のように、ジェームズの仮面めいた顔に浮かびあがってくるのをクリスターは認めた。

 ふいに、ジェームズは慄いたように目を見開いた。恐怖のあまり凝固した眼差しは、今、目の前に立つクリスターではない、別の何かに向けられていた。

「ジェームズ?」

 クリスターの呼びかけに、ジェームズはぱちりと瞬きをした。まるで白昼夢でも見ていたかのような戸惑い顔をしていたが、一応の平静さが戻っていた。

 だがそれは、いつもと違って、ひどく脆く、心もとなげだ。

 ジェームズの手は、何かを探すかのようにジャケットの上を空しく滑り、ぐっと握り締められた。

(いくら大切にしていたからって時計を取られたくらいで、こんなに不安定になるなんてジェームズらしくない。だが、とにかく、彼は今すぐこれを必要としているようだ。もし、どうしても取り戻すことができないとなると…一体どうなる…?)

 クリスターは、己が手の中で、ちっぽけな時計が熱を持ち、脈打つように感じられた。ジェームズの半身の欠片がそこにある。

 おぼろげなものだった、ある可能性が、クリスターの頭の中で確かな形を持ってくる。 

(もしこれが、ジェームズにとって、ただの形見以上の意味があるものだとしたら―)

 いきなり、ジェームズは苛立たしげに金色の頭を振りたてた。

「いい加減にしてくれ、クリスター、それを僕に返すんだ。僕がこうして紳士的に頼んでいるうちに素直に従った方が、君のためだよ?」

 冷静沈着を装った物腰で辛抱強くクリスターに言い聞かせるが、瞬きも忘れたように大きく見開かれた藍色の瞳には、暴発の予兆めいた、物騒な赤い火花が散っていた。

「僕は、この間、ドクター・ワインスタインを訪ねたんだ」

 クリスターは我が身に迫りつつある危険を察知しながらも、あえて戦端を開いた。

「彼のことは覚えているだろう…? 子供の頃の君とメアリをキャメロンと共に診ていた、精神科医だよ。メアリが死んだ時、君は彼の治療を受けたそうだね?」

 ワインスタインが存命であることを、もしかしたらジェームズは今でも知らないのかもしれない。そう思いながらクリスターは手持ちのカードの1枚を切ったのだが、これに対しては、ジェームズは眉一筋動かさず、その内心も読めなかった。

「メアリを突然喪った君は、ショックのあまり、しばらく失語状態に陥った。妹の死の前後の記憶も失った。それをワインスタインが催眠療法を使って治療した。その結果、君は言葉を取り戻した。しかし―」

 クリスターは一瞬躊躇した。錯乱したジェームズに襲い掛かられたという、ワインスタインの告白が脳裏を掠めたのだ。その顔にいまだに残っていた傷跡は、ジェームズにつけられたものだった。

「メアリがどうして死んだのか、今の君は覚えているのか、ジェームズ? ワインスタインは、君の記憶喪失は治療によって治ったはずだと言っていた。そう、少なくとも一度は思い出したんだ。だのに君は、耐えられなくて、メアリの死の真相に自ら再び封印してしまった」

 ジェームズに懇々と語って聞かせながら、クリスターは頭脳をフル回転させて、彼の弱みとなりうる、最後の秘密を暴き出そうとしていた。

 ジェームズは背中で手を組んだ姿勢で立ち、クリスターが言うことにじっと耳を傾けている。顎を深く引いて、クリスターの上で眼差しを凍りつかせたまま微動だにしない、彼の心の中では今何が起こっているのだろう。

 ジェームズと対峙するクリスターの背は、いつの間にか冷たい汗でびっしょり塗れていた。

 そのうち、部屋の扉がそろそろと開いて、外で見張りとして立っていた連中が不安そうに顔を覗かせた。先程から中が騒がしいものだから、気になったのだろう。

「ねえ、君達、銃を持っていたら、僕に貸してもらえないかな?」

 その見張り達に向かって、ジェームズは穏やかに呼びかけた。視線はずっとクリスターに固定したままだ。

 若者達は泡を食ったようだが、その内の1人がびくびくしながら中に入ってきて、ジェームズに小型の拳銃を手渡した。

「それから、ロバートを探して、ここに例のものを持ってきてくれと伝えて欲しい」

「例のもの?」

 愚鈍そうな若者が問い返すのに、ジェームズはちらりと冷たい目を向けた。

「そう言えば、ロバートには分かるよ」

 ジェームズの微笑を間近で直視した若者は、見てはならないものを見たかのように震え上がった。そして、この場所から逃げるように出ていった。

「さて、下らない話はそろそろおしまいにしよう、クリスター」

 ジェームズは、先程の若者から借りた銃を迷いのない動きでクリスターに向けた。

「ジェームズ…!」

 動揺の声を発したのは、傷めた左腕を押さえながら、傍らで固唾を呑んでことの成り行きを見守っていたフレイだ。

「僕が自分を撃つはずがないと君は思っている。僕も、できれば、そんなことはしたくない…君を殺すことは僕の究極の望みとは異なるからね。でも、今となっては…そんな終わらせ方になったところで、この際仕方がないのかなとも思うよ」

 これは単なる脅しか、それとも本気だろうか。

 クリスターの心臓を正確に狙う銃口。その向こうにある、黒々とした深淵を宿す双眸―人食いのホオジロザメならばこんな目をしていそうだなと思いながら、クリスターは一際激しくなった胸の鼓動を感じていた。

「さあ、最後にもう一度言うよ、その時計を返してくれ」

 クリスターを襲った、その声に屈したいという誘惑はあまりにも大きかった。しかし、かろうじてクリスターは踏みとどまった。

「使い慣れない銃で脅してまで、僕の口を塞ぎたいのかい、ジェームズ?」

 乾いた唇を舌で湿すと、用心深く身構えながら、クリスターはもう一度囁きかけた。危険な賭けだが、せっかく掴みかけた、ジェームズの弱点から手を引く気にはなれなかった。

「君は、メアリを殺した」

 銃を持つ、ジェームズの手が震えた。

 クリスターの投じた、たった一言が、その真実が深い衝撃となって彼を揺さぶるのが分かる。

 一部の隙もなく作りこまれたジェームズの顔に、小さなひびが走った。動揺を押さえ込もうと彼も努力しているのだろうが、今度はうまくいかないようだ。

 クリスターに突きつけられた銃口は、次第に下がっていく。

「君はメアリを深く愛していた。でも、自分のものでない彼女なら、いらない。自分ではない他の誰かと彼女が一緒に生きていくのを見ることには、とても耐えられない。だから―」

 ジェームズは震える手を上げて、頭を押さこんだ。激しい痛みでも覚えているかのように、その顔は苦しげにゆがみ、薄っすらと汗ばんできている。

「クリスター、黙れ…!」

 蘇りつつある悪夢を必死になって消し去ろうとするかのごとく、ジェームズは固めた拳を何度も頭に叩きつけた。

「黙れ、黙れ!」

 ジェームズの取り乱しように、忠実なフレイは慌ててその傍にて近寄ったものの、どうしていいか分からぬようにおろおろするばかりだ。

 クリスターは構わず、容赦のない口調で、ジェームズを断罪し続けた。冷静な計算に基づいてばかりではなかった。彼自身も随分と感情的になっていた。とても他人事とは思えなかったからだろう。

「殺したんだ。その手で、君の半身を、もう1人の自分を葬った…それを忘れて、あまつさえ自由になったと嘯いて、自分1人がのうのうと生き長らえるなんて―メアリは決して許すものか!」

 ジェームズは鞭を振り下ろされたかのように、びくっと肩を震わせ、黙り込んだ。

 しばし頭を抱えたまま凍りついたように身動きしなかったが、ふいに、全くの空虚になった顔をクリスターの方に向けた。

 クリスターは息を飲んだ。ジェームズではない、別の誰かの顔をそこに垣間見たような気がした。

「どうして、こんなことをするの、兄さん…?」

 色を失った唇が微かに動き、そこから、まるで少女のようなか細い声が溢れ出した。

「どうして、どうして…どうして―!」

 ジェームズの見開かれた目から、突然、一筋の涙がこぼれた。たちまち堰を切ったように溢れ出し、涙は滂沱の滝となった。

 がくがくと揺れる体に腕を巻きつけ、咽ぶように泣き出すジェームズを前に、クリスターは呆然と立ち尽くしていた。

(まさか…ジェームズ・ブラックが泣いている? 心を持たないはずの怪物が泣けるのか?)

 クリスターは、自分が今見ているものが全く信じられなかったが、頭の片隅では冷静な分析を続けていた。

(メアリの死の真相を思い出したから…いや、これはむしろ、死の瞬間のメアリの感情と共鳴を起こした結果なのか?)

 双子の妹のメアリを通じてのみ、ジェームズは人間らしい感情を実感することができた。だから、妹の死と共に、ジェームズの心は完全に閉ざされ、その感情も枯れ果ててしまったように見えた。

 それでは、今ジェームズの身に起こっていることは何だ? 胸の底から迸り出た圧倒的な感情に振り回され、ずたずたに引き裂かれようとしている。

(記憶と一緒に、ジェームズはなくした感情を取り戻そうとしている…それが彼自身のものなのか、それとも死んだ妹が残していったものなのか区別することは容易ではないし、彼らにとって、たぶん意味のないことなんだ)

 鏡のこちら側と向こう側。いつでも同じように動いて、考える、2人でひとつの生き物だから―。

「クリスター!」

 ジェームズの反応にすっかり気を取られていたクリスターの隙を突いて、フレイがまた襲い掛かってきた。

 フレイは、クリスターの手からジェームズの時計を奪い取ろうとする。そうはさせじと、クリスターは抵抗する。

 フレイには、ジェームズのこの突然の変貌振りの理由まで分かっていなかったかもしれない。ただ感覚的に、ジェームズにこの時計を返さなければ、更に何かとんでもないことが起こりかねないと悟ったようだ。

 だが、2人が格闘しているうちに、ちょっとした弾みで、金色の懐中時計は床に転がり落ちてしまった。

 必死になって取っ組み合いをしている彼らは、そのことに気がつかなかった。

 振り下ろされる拳を頭の上でブロックしたクリスターが、フレイの腹に膝蹴りを見舞ってやると、彼は身を2つに折って呻いた。

 更にもう一発、頭を狙ったクリスターの拳を、今度はフレイが捕らえこむ。

 万力のような力でぎりぎりと締め付けられる痛みに、クリスターは顔を歪めた。

「パワーでは俺の方が上だな、クリスター」 

 フレイはがっちりとした腕にクリスターを囲みこんで、圧殺しにかかった。またしても、クリスターには不利な接近戦だ。何とか隙を見て、身をもぎ離し、自由になったところで反撃したいのだが、相手もクリスターの得意な戦法は心得ているらしく、チャンスを与えてくれない。

「降参しろ、クリスター、そうしてジェームズに許しを請え…! 貴様のせいで、ジェームズはおかしくなったんだ」

 フレイが呪詛を含んだ言葉をクリスターに投げかけていた時、ようやく感情の噴出が収まったジェームズは、疲れきった体を立ち直らせようとしていた。

「あ…」

 ジェームズは、揉み合っている2人の傍に、大切な金の懐中時計が落ちていることに気がついた。

 あれを取り戻さなければという強い衝動に突き動かされて、ジェームズはふらつく足で近づこうとする。

「メアリ、メアリ…僕から離れていくなんて許さない…おまえは僕で、僕はおまえ―独りで生きていくことなんてできやしないんだ」

 ぶつぶつと夢にうなされたような口調で呟きながら、ジェームズは床に跪き、時計に手を伸ばした。

(悪夢が、すぐ後ろにまで迫ってきて、僕を捕まえようとしているのが分かる。捕まりたくはない。ほんの断片が戻ってきただけでも、僕はこれほどの打撃を受けた。これ以上の痛みには耐えられない)

 あの仄暗い水底に、無数の泡に包まれて沈んでいる、忌まわしい何かが急速に浮かび上がってくるのが感じられた。

(ああ、そうだ、僕はあれが何なのか知っていた。けれど、無理矢理忘れたんだ。記憶の一番深い場所に封じこめて、うっかり取り出してしまうことがないように、用心深く鍵をかけた)

 ジェームズは自由に動くこともままならない体を叱咤して、時計を掴もうと試みる。

(鍵はあそこにある…あれさえ手に入れれば、もう一度閉じ込めることができる、忘れることができる。今までだって、何度も危ない時はあったけれど、あの時計に触れ、あの中にあるメアリの骨のたてる音に耳を傾けていれば、いつの間にか僕を脅かす影は去った。今でも遅くない、あれを取り戻しさえすれば、この混乱も収まって、僕はまた楽になれる)

 そう言い聞かせることで、ジェームズは自分に信じ込ませる。強く、深く、暗示のように、呪いのように。

(あんなこと、忘れてしまわなければ、僕は1人でとても生きていけなかった)

 メアリは死んだ。だが、どうやって死んだのか、誰のせいで死んだのか?

 怖気を奮って、ジェームズは思わず肩を震わせる。

 考えないようにしようとすれば、余計に考えてしまう。こんな厄介な記憶を、我ながら、よくも今まで遠ざけることに成功してきたものだ。

「ジェームズ、やめて…わたしを殺さないで、兄さん…」

 勝手に動いてメアリの言葉をつむぐ口を押さえ、ジェームズは涙で霞む目で、それをひたすら追い続ける。

 一方、争い続けている2人には、今、目の前の敵しか見えていない。

 さすがに体力が続かなくなったクリスターの息は上がり、足元が僅かにふらつきだした。

 それを見逃さず、フレイはその腹に重いパンチを打ち込んだ。

「うっ…ぐ…」

 腹部を押さえてよろよろと後ろに下がるクリスターを、勝ち誇った顔をしたフレイが追い詰めていく。

 その足が、床に落ちたままの、ジェームズがもう少しの所で触れようとしていた、金の懐中時計の上にかかった。

「あっ…」

 ジェームズの喉が、恐怖に駆られたように、ひくりと鳴った。

 ぱりん。

 彼の目の前で、メアリの骨を封じ込んだ小さな時計は踏み潰された。内部にはめ込まれたガラスが割れる脆い音が、そこに隠されていた骨の砕ける様を連想させた。

 瞬間、ジェームズは妹の悲鳴を聞いた。もはや避けることはできなかった。

 ジェームズが水の中に沈めて殺したメアリの断末魔の声が、彼の心臓に深く突き刺さり、切り裂いた。

「あ…あああぁっ…!」

 ジェームズは床にもんどりうって倒れ伏し、我が身をかき抱いたまま、振り絞るような絶叫をあげ出した。

 クリスターの腕を捻り上げていたフレイが、はっとなって、そちらに目を向ける。

「ジェームズ?!」

 クリスターもまた、一体何が起こったのかと当惑しながら、この世の終わりのように叫び続けるジェームズ・ブラックを眺めた。

 フレイは一転、クリスターの体を床に投げ出すと、錯乱するジェームズに駆け寄った。

「ジェームズ、しっかりしろ、ジェームズ!」

 クリスターは視線を動かして、床に転がっている懐中時計の残骸を見つけた。傷ましげに顔をしかめ、もう一度ジェームズを見やった。

(ワインスタインの催眠療法で記憶を取り戻した時も、ジェームズはこんなふうになったんだろうか…? 錯乱と昏倒を繰り返し、このままでは精神崩壊をきたすのではないかと、ドクターが恐れるほどだったという―)

 今から振り返れば、おそらく、妹の形見であるあの時計が、ジェームズが自分でかけた暗示なり催眠なりの条件付けに必要なキー・アイテムだったのだろう。

 それが壊れてしまったことで、ジェームズの術は解けた。本来ならば、とうに克服していなければならないトラウマは、なまじそのままの形で凍結されていたがために、蘇った今、事件当時と同じほどの打撃をジェームズの心に与えている。

 少しばかりしんみりと考え込んでしまったクリスターは、そんな自分を叱りつけた。

(いや、同情などするな、こいつには相応の報いだ)

 クリスターは痛む体を引きずるように歩いて、床から時計を拾い上げると、頭を抱えて呻いているジェームズの目の前に差し出した。

「君の心を守る鍵は壊れてしまったな、ジェームズ…今、どんな気分だ?」

 ジェームズはクリスターの手の上の時計を食い入るように見、それからクリスターを見上げた。これがあのJ・Bかと驚くほどの無防備な顔をしていた。

 何とも苦い微笑が、ジェームズの口元に浮かんだ。

「ああ、痛いよ、とても…」

 双眸から溢れた涙が、傷つき疲れきった白い顔を塗らす。

「思い出したよ…泣いて助けてくれと懇願していたのに、僕はあの子を許さなかった…裏切られたと思ったから、いや、むしろあの子に置き去りにされるのが恐かったんだ。だから、殺した…ひょっとしたら一緒に死ねると思ったのかな。僕はあの子で、あの子は僕―メアリだけが死んで僕は生き残るなんて、考えられなかった」

 クリスターの手からもう動かない時計を受け取り、ジェームズはそっと胸に押し当てた。

「ごめんよ、メアリ、僕はひどいことをしたね…でも、ずっとおまえを愛していた」

 まともに見ていられなくなったクリスターは、哀しげな独白を続けるジェームズから顔を背けた。

「おまえをなくした後の空虚を埋めようと僕がこれまでしてきたことは、ほとんど無駄な努力だったけれど、最後の1つだけ、どうしてもやり遂げておきたいことがある。それが終われば、僕にも思い残すことはない…今後こそ、おまえに会いに行けるよ」

 そう呟きながら、ジェームズはすっと顔を動かし、こちらも魂を飛ばしたように呆然と立ち尽くしていたフレイの方を向いた。

 何か問いたげなフレイにジェームズは目配せし、手で合図を送った。

 すぐにフレイは顔を引き締め、深く頷き返す。

「ジェームズ?」

 不穏な気配を察したクリスターが身構えるより先に、体当たりをしてきたフレイによって、彼は床に叩きつけられた。

 更に、フレイの足が情け容赦なくクリスターの体を蹴った。もう手加減など一切なかった。

「ジェームズ…!」

 急所を庇うのが精一杯のクリスターが叫ぶ。

 ジェームズはすっと立ち上がった。まるで、クリスターの感じる痛み、苦しさを全て味わいつくそうとするかのごとく熱心な眼差しを、その暴力的な光景に注いでいた。

 その時、部屋の扉を遠慮がちにノックする音がした。この凄まじい修羅場にはやけに場違いに響いたが、フレイの一方的な暴力に晒されているクリスターには、注意を向ける余裕はない。

「ジェームズ様?」

 開いた扉から躊躇いがちに顔を覗かせたのは、執事のロバートだった。

 ジェームズは嬉しそうにそちらに近づいて、穏やかな口ぶりで礼など言いながら、忠実な使用人から何かを受け取った。

 頭をやられたのだろう、クリスターの意識は一瞬途切れた。

 ロバートに持ってきてもらった蓋つきのトレーを手に、ジェームズはクリスターのもとに戻っていった。

 フレイは、ぐったりと床にのびて動かなくなったクリスターの髪を掴んで、顔を上げさせた。唇から赤い血の筋が伝っていく。

 クリスターの前に跪いたジェームズは、その頬に手を添えて、愛しげに囁きかけた。

「汝の敵を愛せ―君がどんなに僕を憎もうと僕は君を愛するよ、クリスター」

 ジェームズはクリスターの傷ついた唇に己の唇を重ね、抵抗をなくした口腔に舌を差し入れると、そこに残る血を味わうように探った。

「君の血は甘い…」

 陶然と微笑んで、ジェームズは床に置いたトレイの蓋を開け、そこから注射器と薬品の入ったアンプルを取り出した。

 クリスターの腕を引き寄せて裏返し、ジェームズは、素人にしてはなかなかの手つきで、注射器の針を綺麗に浮いた血管に沈めた。

 ちくりとした感触に、クリスターは瞼を震わせた。

「あ、ごめんよ、痛かったかい?」

 クリスターが目を開けると、自分の腕から注射器の針が抜き取られるのが見えた。

「何を…した…?」

 慄然となりながら問いかけるクリスターの頭を、ジェームズは宥めるように撫でた。

「本当はこんなものを君に使うのはぎりぎりまでよそうと思っていたんだけれど、残念ながら僕にも余裕がなくてね」

 すまなげに顔をしかめるジェームズの腕を、クリスターは強く掴んだ。嫌な予感などという生易しいものではない、確信だ。

「最強の洗脳薬―そう言えば、君には大体どんなものか察しがつくかな…? 君のために、懇意にしているマフィアからわざわざ譲ってもらったんだよ、クリスター」

「ジェームズ…!」

「これを与えてバッドトリップをさせると、どんなに意志の強い人間でも子供のように素直になってしまうんだってね」

 悪名高い幻覚剤の名前が思い出され、クリスターは背筋を凍りつかせた。

 とっさに、彼はジェームズに掴みかかろうとしたが、すぐに手に力が入らなくなり、ずるずると服の上を滑るように落としてしまう。

「大丈夫、恐がらないで、君に地獄を見せるようなひどいことはしないよ。もっとも、何度か実験はしたけれど、僕にも完璧にやれる自信があるわけじゃない。万が一君が悪夢に襲われて、心を壊されてしまったら―その時は、僕がばらばらに砕け散った君の自我を拾い集めて、新しい君を再構築してあげよう。僕の大切な相棒としてね」

 慈しみに溢れた天使のように、ジェームズは笑う。その輪郭が光を放ってぼやけて見えてきたのは、早くも体に回ってきた薬のせいだろうか。

 激しい眩暈に襲われながらも、クリスターは、残った力を振り絞ってジェームズを突き飛ばした。

「わっ」

 ジェームズは、後ろざまに倒れ掛かった所をフレイに支えられた。威嚇するように自分を睨みつけているクリスターをつくづくと見返しながら、軽く肩をすくめた。

「こんなことをしても…無意味だ、ジェームズ…僕を君の思い通りにすることなんかできない…」

「そうだね、時間が絶対的に足りないことは認めるよ。でも、無意味かどうかは僕が決めることだ」

 ジェームズはフレイの腕から離れると、自力で身を起こすことも出来ずにもがいているクリスターに向かって、じわりじわりと這うように迫っていった。

「こうやって君に近づき、君の更に奥深い所に入り込んで、そこにある柔らかな部分に直接触れられる…この一秒一秒が僕にとっては至福の時間だ。これまでの無味乾燥な人生を耐えてきたかいがあったと思えるほどにね」

 クリスターはがちがちと鳴りそうになる歯を食いしばり、体を引きずるようにしてジェームズから逃げる。それを、やけに楽しげなジェームズが追いかける。

 悪夢のようだった。

「ほら、捕まえた」

 ジェームズは、壁に行き着いたクリスターの顔に両手を添え、ぐいと身を乗り出して、その目を覗き込んだ。

 喉から出かかった叫びを、クリスターはぐっと飲み込む。

「僕を見て、僕の目を見て、クリスター、そこに何があるのか確かめて…!」

 ジェームズの大きく見開かれた藍色の瞳がすぐそこにある。ほとんど光の差さない底知れぬ井戸のようだ。

 その真闇の中になす術もなく落ちていきそうな錯覚に、クリスターは見舞われた。

「何が見える? 君にとって馴染み深いものがあるんじゃないか?」

 ジェームズの熱心な囁きに呆然と耳を傾けながら、クリスターは瞬きもできず、眼前に広がる深淵を見つめ続けた。

 淵の底には怪物が潜んでいる。だから、長く見つめ続けてはいけない。気がついた時、自分自身もまた相手と同じ怪物になってしまっていることがないように―。

(僕は君、君は僕―)

 誰かが、唄うように囁きかけている。

 そうして、クリスターはジェームズの内なる深淵に潜む者の正体を認めた。

(僕…?)

 そう、他ならぬクリスター自身がこちらをじっと見返していた。

 ひどく酷薄で、情け容赦のない顔をした、我ながらぞっとするほど邪悪な者。ジェームズに負けず劣らずの怪物がそこにいた。

(ああ、君の目に宿る僕はこんなにも恐ろしい…そして、それは、僕が見る君の姿にそっくりなんだ。まるで、鏡に向き合っているかのように―)

 認めざるを得ない。確かに、命がけのゲームにジェームズを引き込んだ時、クリスターは半ば本気で彼を殺してもいいと思っていた。

「君は僕で、僕は君―ほら、僕達はこんなにもよく似ている…」

 ジェームズの瞳を映し出す、クリスターの瞳がゆらゆらと揺れだした。

 薬は確実に、クリスターの精神に効果を及ぼしている。彼の視界はあり得ない形に歪み、見えるはずのないものが見え、何よりも心の中の恐怖が具現化したものに支配されていた。

「僕の愛しい半身」

 クリスターにそっくりな顔をした男―しかし、レイフでは決してありえない―底知れぬ悪意を感じさせる笑みを湛えた、その男に抱擁された瞬間、言語に絶する恐怖の前に心がついに折れたかのように、クリスターは完全に意識を手放した。

 束の間とは言え、逃避が叶っただけ、クリスターにとって幸いだったろうか。

 だが、そのことによって、彼の全てを貪欲に取り込もうとする怪物の手を退けられたわけではなかった。


NEXT

BACK

INDEX