ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第6章 最後の闘争

SCENE10


 母屋まで半分ほどの距離を進んだ所で、レイフは車をとめた。

 ルームライトをつけて、地図を確認した後、トムと一緒に車外に出る。

 ここからは、目立たないよう、歩いていくつもりだった。

 周囲を取り囲む森林の上には上弦の月がかかっていて、レイフ達を冷ややかに見下ろしている。

 別に寒いわけでもないのにぶるりと身を震わせるトムを振り返って、レイフはもう一度確認した。

「トム、ここで待っててくれてもいいんだぜ」

「馬鹿言うなよ」

 2人はそれきり黙りこみ、歩き出した。

 足下の道路はいつの間にか砂利道になっている。なるべく音を立てないよう静かに、しかし可能な限り急いで、彼らは歩いた。

 トムは念のため懐中電灯を持ってきていたが、ほとんど猫並みに夜目のきくレイフには、月の発する仄かな明かりだけでも充分に辺りを見渡せた。

 砂利道を取り囲む木々や雑草の生い茂った林からは、時折そこに住まう小動物達がたてる物音や鳴き声が聞こえてきてレイフを一瞬警戒させたが、それ以外は至って静かなもので、とても危険が潜んでいるようには感じられなかった。

(オレ達が忍び込んだことにはまだ気付かれていないのかな…? 強引にゲートを破ったりしたから、センサーか何かが反応して、向こうに伝わったんじゃないかとてっきり思ったが…この調子で何事もなく、母屋までたどり着けないかな)

 そんな楽観的な考えが頭の中に浮かんだ、次の瞬間、レイフは、少し上り坂になった道の彼方から近づいてくる何者かの足音に気付いて、立ち止まった。

(やっぱり、そんなに簡単にいく訳なかったか…1人じゃないな、5、6人くらいか―それに、犬も連れてやがる…)

 レイフの耳は早くも敵の接近を正確に捕らえたが、トムはまだ事態が飲み込めていないらしく、怪訝そうな目を向けてきた。

「どうしたんだよ、レイフ?」

 レイフはすっと目を細めた。

 坂道の向こうに、今、小さな人影が現われた。

「見つかっちまったようだぜ、トム」

 やがて、彼らもレイフ達の存在に気付いたようだ。警戒しながらも、こちらに近づいてくる足を速めた。

「トム、おまえはちょっと避難してろ」

 先にトムを林の方に逃げ込ませ、レイフは唇を舌で湿しながら、ちょっと迷った。

(5人か…この人数なら、素手でやりあうなら勝てる自信はあるけれど、たぶん武器を持ってんだろうな。銃とかだったら、やばいしな、ううん…)

 それでも考える余裕があったのは、相手がまだ銃器など構えておらず、どのみちこの距離と暗闇では拳銃など下手に撃っても当らないだろうと踏んだからだ。

 だから、彼らの中にいた小柄な少年が、いきなり前に進み出たかと思うと、妙なものを手にして構えたのには、意表を突かれた。 

 ふいに、坂の上からこちらに向かって吹き降ろしてくる風が強くなった。

(ああ、あれって、ブーメランじゃないのかな。ガキの頃、そう言えば遊んだことが―)

 ぼんやりと思ったのは、少年が細い両腕をしならせるようにして、2本のブーメランを投じるまでの数秒のことだ。

 まだまだ距離があると高を括っていた自分のもとにまっすぐに飛来してくるブーメランのたてる、空気を切り裂く音を聞いた瞬間、レイフはうなじの辺りの毛がちりちりと逆立つのを覚え、反射的に地面に身を伏していた。

 両手で抱え込んだレイフの頭の上をブーメランは旋回しながら通り過ぎていった。

(な、何…?)

 ひとまず危険を回避した時、人は反射的に安全を確認しようとするもので、レイフも一瞬頭を上げかけた。しかし、続けて襲った強烈な悪寒に、ほとんど本能的に頭を地面に押し付ける。

 すると、再び戻ってきたブーメランがレイフの頭上の際どい所を、それぞれ、僅かな時間差をつけて、掠めていった。

 あのまま身を起こしていたら、少なくともどちらか1つを、レイフはもろに体に受けていただろう。

(うっ…うう…)

 どっと全身から冷たい汗が噴き出すのを覚えながら、レイフはこちらに向かって走ってくるジェームズの手勢と目の前に広がる暗い森を見比べた。

「くそうっ!」

 あんな訳の分からないもので殺されてはたまらない。

 レイフは、トムが先に隠れた林へ向かって、匍匐前進の格好で、一目散に逃げ出した。

「あはははっ! 何あれ、あの格好、すっげぇまぬけ!」

 ほうほうの態で雑草と木々の中に逃げ込んだレイフを見ていたダミアンは、おなかを抱えて大爆笑した。

 ダミアンは、道端に突き刺さっていた2本のブーメランを取り戻し、刃の状態を確かめてから、再び手に握り締める。

 砂利道に沿って広がる林の中を、目を細めるようにして眺めてみると、この辺りは特に木々の密集度が高く、雑草も生い茂っているせいもあって、逃げ込んだ連中の姿は目視できなかった。おまけにこの闇だ。

(ブーメランはもう使えない…ここは障害物が多すぎる。まさか、あのとっさの場面で、あいつがそこまで判断したわけじゃないだろうけれど―)

 諦めて愛用のブーメランを背中のリュックサックの中にしまいこみ、今度は拳銃を構えるダミアンの傍に、仲間達が寄ってきた。

「行くのかよ?」

「こう暗けりゃ、あいつらを見つけるのも困難だし、下手に銃なんか使ったら味方にあたるぜ」

 ダミアンは困ったように眉を寄せて、少し考え込んだ。

「あいつらはたったの2人だ。犬を使って、追い立ててやるんだ…いいから、行くぞ!」

 とにかくこの獲物くらいは仕留めたいという一念が、結局ダミアンを動かした。

 そうして彼らは、レイフ達を追って、暗い森の中に恐る恐る入り込んでいった。

(やっぱり追いかけてきやがったか…)

 追っ手が使うライトが、木々の間で揺れている。 

 レイフはトムと一緒に息を殺して、その様子を眺めていた。

 犬がいることを考慮して、一応風上にじりじりと移動してみたが、見つからないという保証はない。

(見つかるくらいなら、いっそ、こっちから打って出て、あいつら全員倒しちまうか。このまま屋敷に向かっても、あいつらに騒ぎたてられて、更に大勢の援軍が加勢に来ても困るし)

 そう決心したレイフは、不安そうなトムの肩を引き寄せ、その耳に低い声で囁いた。

 うんうんと頷きながら聞いていたトムは、途中でぎょっと怯んだようにレイフを見返した。

 レイフがトムに頼んだのは、囮となって追っ手の目を引き付けてくれということだった。彼らがトムにばかり気を取られて、必死になって後を追いかけている最中に、背後から密かに近づいていったレイフが1人ずつ倒していく。

 フットボール・チームでレイフに次ぐ俊足を誇るトムを見込んでの作戦だったが、もちろん危険はある。

 相手は大きな犬を二頭連れているし、視界がきかない中で無闇に発砲することはないだろうが、万が一ということもある。

「大丈夫だよ、レイフ、任せておけって」

 健気らしく笑ってみせるトムにレイフが何か言おうと口を開きかけた、その時、犬の吼え声が近くでした。

 レイフが顔を上げた瞬間、一頭の犬が高く生い茂った下生えの向こうから飛び掛ってきた。レイフは反射的にのけぞりながら、犬の胴を脚でなぎ払った。犬はギャンと声をあげて吹っ飛び、近くにあった木の幹に体を叩きつけられて、ぐったりとなった。

「あ、ごめん」

 犬好きのレイフは、思わず顔をしかめた。

「いたぞ、こっちだ!」

 追っ手の持つライトが、レイフ達の頭の上を照らし出す。

「レイフ、行くぜ!」

 腹を括ったトムが、すかさず茂みから飛び出した。

(トム…!)

 一瞬すぐにでも出て行きたい衝動に駆られたが、じっと堪え、トムを発見した連中が慌てて追跡し始めるのを待ってから、レイフは後を追い始めた。

 並みの視力しか持たず、小さな懐中電灯を頼りに進む彼らには、自分達が今追っている獲物が1人だけだということまで分からないだろう。まさか、もう1人がこうして自分達の後を素早く正確につけてきているなど、夢にも思わないだろう。

 レイフは暗闇に強い。遥か頭上から差してくる弱々しい月明かりだけでも、その足取りは危なげなく、木々の向こうに揺れている懐中電灯の明かりを目標に、気配を殺して近づいていく。

 トムを追跡するうちに、初めは固まっていた彼らも次第に離れ離れになっていき、そうしてはぐれた奴から1人ずつ、確実に、レイフは片付けていった。

 トムを狩ることに夢中になっている少年達の背後や側面から、足音を殺して忍び寄り、声をあげる暇も与えず、飛び掛って、ほとんど一撃で殴り倒す。

 初めは5人いた仲間達の数が次第に減っていっていることに、彼らはいつ気付くだろうか。

 既に3人を仕留めたレイフが、4人目を小さな小川の手前の少し開けた場所で捕まえた時には、少々手こずり、悲鳴をあげるのを許してしまった。それでも、がつんと頭に一発くれてやると相手はすぐに大人しくなった。

(でも、たぶん今の声で残りの奴は気がついただろうな…いや、待てよ、後1人だけなのか)

 レイフは額にうかんだ汗をぬぐい、目標となる灯りを探した。しかし、この近くには見当たらない。

(遠くまで行っちまったのか、それとも今の悲鳴で異変に気付いて、灯りを消したのか―)

 その時、小川の向こうの茂みの方から、小さな枝が踏みしだかれて折れるような音がした。

「誰だ?」

 レイフが身構える前に、疲れきった様子のトムが現われた。

「よかった、無事だったのか、トム」

 トムは肩で息をしながら細い小川を跳び越して、ほっとした笑顔で待ち受けるレイフの傍にやってきた。

「何とか、無事だよ…いつの間にか、追っ手はいなくなっていたけれど、全員やったのか、すごいな」

「いや、まだ1人残っているよ」

 刹那、レイフの耳は、またあの空気を切り裂くぞっとするような音をとらえた。

「トム、伏せろ!」

 レイフは、トムを突き飛ばして一緒に地面に倒れ付した。その上を飛んでいった小振りのブーメランが、彼らの後ろにあった木の幹に深々と突き刺さった。

(げっ。単なる玩具じゃなくて、武器になるよう細工しているんだ。ああ、そう言えば、さっきアイザックが言ってたな、殺傷用のブーメランを使う危ない奴がいるって)

 呆然となりながらも、レイフが地面から体を起こそうとすると、今度は草むらから黒い犬が飛び出してきた。先程の犬よりも一回り大きい、猟犬グレートデンだ。

「レ、レイフ!」

 動転した声をあげるトムが見守る前で、レイフは喉笛に喰らいつこうとする犬の首を押さえながら、地面をごろごろと転がった。

「あははっ、そのまま、そいつを食い殺してしまえ!」

 甲高い哄笑と共に森の中から姿を現したのは、髪も肌も真っ白な少年だった。人形のように綺麗な顔をしているが、前髪に入ったメッシュと唇の赤さが、禍々しい印象を放っていた。

「クリスターと瓜二つのその顔、噛み裂かれて、二目と見られないようになっちまいな!」

 少年の爛々と輝く緑の瞳に宿る狂気に圧倒されて、トムはつい後ずさりしてしまう。

 もつれ合うようにして地面で暴れていた1人と1頭は、やがて、力尽きたかのようにじっと動かなくなった。

「レ、レイフ」

 トムが真っ青になり、ダミアンはにんまりと笑う。

「ああ、また犬を苛めちまった…」

 情けない声をあげて、レイフは身を起こした。その左手は、大きくこじ開けられた犬の口の中に深々と差し込まれている。

「殺しちゃいないぜ、こうして気道をふさいで、失神させたのさ」

 誰にともなく言い訳をして、そろそろと腕を引っこぬき、肌に残った牙の跡を指先でぬぐうと、レイフはおもむろに立ち上がった。

「そこのクソガキ、オレのこのキュートな顔をどうするって?」

 しばし呆気に取られていたダミアンは、レイフが中指を立てて凄んでみせるのに、くるりと背を向け逃げ出そうとした。

「おっと、待てよ」

 しかし、レイフは逃がさなかった。ダミアンの首根っこを素早く掴んで、引っ張り上げた。

「は、離せ!」

 レイフは、じたばた暴れるダミアンを苦もなく引きずって、大きな木の幹に押さえつけた。

「クリスターは屋敷のどこにいる?」

「そんなこと、オレが教えると思うのかい?」

 狂暴なダミアンが歯を剥いて言い返すと、レイフは恐い顔をして、固めた拳を振り上げてみせた。

「言わねぇと、さっきの犬みたいに、このゲンコを口ん中に叩き込むぞ!」 

 ダミアンはさっと青ざめ、ウサギのようにぶるぶると震えだしたかと思うと、いきなり泣き叫びだした。

「ジェームズ、ジェームズ、助けて!」

 何だか子供を虐待している気分になってきたレイフがつい力を緩めると、ダミアンは彼の手に思い切り噛み付いた。

「いてーっ!」

 レイフは思わずダミアンから手を振りほどいた。

 その隙に、ダミアンは身を翻し、暗い森の中へ逃げ込んでいった。

「あのガキ…!」

 気色ばんだレイフは一瞬追いかけようとするが、ここであんな奴のために時間を費やすのも惜しいと思ってやめた。

(オレ達の接近は向こうにもばれている。あんな奴らが偵察に来たくらいだものな。当然屋敷の外だけじゃなくて中の警備も強化されてるだろう。うまく侵入できたらいいが…そうだ、ウォルターがさっき言ってたような陽動作戦を仕掛けてくれたら、助かるんだけれどな。勝手に飛び出してきちまったから、確認できなかった。まあ、助けがなけりゃないで、何とかするしかないさ)

 しっかり歯型のついた手を痛そうにさすりながら、レイフは傍らのトムを振り返った。

「母屋に急ごう、トム…こうなったら一刻も早くクリスターを見つけ出して、助けないと」




 再び地下室に連行されたクリスターは、既にそこに来ていたジェームズが、感慨深げに部屋の中をじっと眺め回しているのに出会った。

 ジェームズはこちらに背を向けて部屋の中央に立ち、空になった鎖に目を留め少し首を傾げた。その下に目を落とし、気になるものを見つけたように歩み寄ると、床から何かを拾い上げた。

 針金だ。クリスターが鍵を開けるのに使った。

「わざとこんな所に落としていくのが、いかにもカムフラージュのようにも思えるけれどね。…君が脱出する前に、ダミアンが君に会いにここに来たそうだね、クリスター?」

 ジェームズは頭を巡らせて、クリスターの方を眺めやった。その顔には、いつもと変わらぬ柔和な笑みが湛えられている。

「でも、そんなことは、もうどうでもいい」

 天使の顔をした悪魔は、滑るような足取りで、彼の手下達に拘束されているクリスターに近づき、その顔に手を伸ばした。

「血が滲んでいるよ…可哀想に、誰にやられた?」

 気遣わしげに眉を寄せて、ジェームズはほっそりと長い指でクリスターの口元にこびりついた血をぬぐい、それを舐めた。

 ジェームズの落ち着いた物腰には怒りを感じさせるものは少しも見当たらないが、それだけに一層ぞっとする深い瞋恚が感じられた。

「フレイ」

 ジェームズの呼びかけに、忠実なフレイはすぐに動き、クリスターの腕を掴んで部屋の中に引っ立てた。

「あ、鎖でつなぐのはちょっと待って…このままで彼と話したい」

 クリスターは、ジェームズの手が薄手のジャケットのポケットの中に差し込まれ、無意識にそこにある何かを探っているのに目を留めた。

 あの懐中時計だろう。ジェームズの双子の妹メアリの骨を封じ込んだ、彼の宝物。

 ジェームズは、あの時計に触れていると心が静まるのだと言っていた。彼にとって亡くしてしまった半身への思慕はかくも強いのかと、つい共感しそうになったこともあるクリスターだが、その愛する妹を手にかけたのは他ならぬジェームズ自身なのだと知った今は、また別の感慨を覚えてしまう。

(まるで平気な顔をして、僕の前でメアリの思い出を語ったジェームズ…自分が彼女を殺したのだという自覚は今でも全くないんだろうか…? ワインスタインはジェームズの記憶喪失は治ったはずだと言っていたが…)

 クリスターはワインスタインが語った話を思い起こし、吟味してみた。

(記憶というのは我々が思う以上にあいまいなもので、自分の望むように作り変えられたり捏造されたりする…ジェームズの場合、厳密に言うと、彼の記憶喪失は治ったはずなんだ。だから、彼が嘘をついているのでなければ―ジェームズの意識のより深い部分で、彼の脳が、耐え難いショックを回避するために、問題の記憶にブロックをかけているのかもしれない。無意識に、そこに至る神経の経路を断っているのもしれない)

 一種の自己暗示をかけているのだろうかと、その意見を聞いた時にクリスターは思ったものだ。だが、自分でかけた暗示などというものが、それほど強い効果を何年もの間持続させ得るだろうか。 

(いずれにせよ、ジェームズは、メアリを手にかけた時の記憶に何らかの方法で封印をしている。さもなくば、いくらジェームズでも平気ではいられないだろう…かつてワインスタインの催眠療法で記憶を取り戻したジェームズは、ショックのあまり錯乱した。妹殺しは、彼にそれほどのダメージを与えうる出来事だったんだ)

 じっと思索を巡らせながら、クリスターは、ジェームズの神経質な指先が執拗な程にポケットの中を探っているのを観察し続けた。

 メアリの骨。死んだ妹とどうしても離れがたかったジェームズは、彼女の小指を切り落とし、片時も離さずに持ち歩いている。

「他の皆は、もう解散してもらっていいよ。ああ、3人ほどは残って、部屋の前で見張りとして立っていてくれ。手間をかけたね、ありがとう」

 ジェームズの手下は、彼の命令に何も疑問も持たず、素直に部屋から出て行った。

 フレイだけは何か言いたげにジェームズを見返したが、結局言われたとおり、クリスターを彼の正面に立たせた。そうして、何かあればすぐにでもクリスターに飛びかかれるよう、自分はその後ろに立った。

「本当に君は油断ならないね、クリスター。僕を驚かせたあの提案には、時間稼ぎの意味もあったんだね? 首尾よくダニエル、そしてアイザックまで脱出させることが出来て、さぞ満足だろうね?」

 ジェームズはやっとポケットから手を出し、軽く腕組みをしながら、クリスターの冷たい顔を見上げた。

「アイザックにあそこで遭遇できたことは僥倖と言うしかなかったけれどね―彼は彼で、自分の意思で君の呪縛を振り切り、ダニエルを救出しようとしていたんだ」

 平然と返すクリスターに、ジェームズもまた世間話でもしているかのような口調で言った。

「ああ、そうなんだ。彼もダニエルの酷い扱いには相当ショックを受けていたらしいからね…今度は、それを口実にした訳だ。別に驚かないよ、アイザックはもともと僕のものではなかったし、それに、裏切り者はどうせまた同じことを繰り返す」

 クリスターは眉間に皺を寄せて、不愉快そうにジェームズを睨みつけた。

「でも、そうすると君は、ダニエルを救う計画は頭にあっても、アイザックのことまでは考慮に入れていなかったんだね? この間僕に会いにここまで来た時も、アイザックの行方を僕に直接尋ねることはしなかった…君は、真実を知ることが恐かったんだ。アイザックは君を裏切ったのか、どうして裏切ったのか。敵としてのアイザックに相対することが嫌で、避けていたんだね。もし偶然が君達に味方しなければ、君は今でもアイザックと和解できないままだったろう…おや、どうしてそんな苦しそうな顔をするのかな、よかったじゃないか、大切な友人と仲直りできて―」

 どうして、こんなにも的確に人の弱みを突けるのか―今更ながら、クリスターはジェームズを憎いと思った。

 そんなクリスターの心の揺れを見透かすよう、ジェームズは目を細めた。

「君が、素直に喜べない理由を言い当ててみせようか、クリスター? 聡い君は、アイザックが何をしてしまったのか気付いているからだ。それは、彼が僕から離れられなかった理由でもある。そう、事故を装ってコリンとミシェルを殺しかけたのは、アイザックだよ。僕が無理矢理そうさせた? そうかもしれないね。しかし、アイザック自身が望んだ復讐も兼ねていたんだよ…?」

 クリスターはついに堪りかねて、ジェームズの話を鋭く遮った。

「そんな話は聞きたくない…!」

 ジェームズはおやおやというように肩をすくめた。

「では、なぜアイザックが君を裏切ったのか、教えてあげるよ。ねえ、クリスター、アイザックと僕は一体いつからつながっていたんだと思う?」

 クリスターがじっと押し黙っていることなどお構いなしに、やけに楽しげな調子でジェームズは続けた。

「あれは、以前僕が逮捕された時―つまり、僕と君の闘いが一度決着を見た直後だった。アイザックの方から、拘留されている僕に面会を求めてきたんだよ。あの事件の当事者の1人として、自分なりに記録をまとめたい、敵側の話も一度聞いておきたい―ジャーナリスト志望の彼らしい言い訳だったね」

 クリスターは思わず目を瞬き、探るようにジェームズを見返した。

「ああ、やっぱり、これは君にとっても意外な話だったんだね。そんなに早い時期から、アイザックが僕と接触を持っていたなんて―」

 ジェームズはふいに真顔になった。

「初めから君を裏切るつもりではなかったと思うよ。ただアイザックは知りたかったんだ―僕と君との間にあった、あの闘いの意味は何だったのか。もっと突き詰めると、君のことを知りたかったんだと思うよ、クリスター…アイザックは君が好きだったんだ。君に近づきたかった、信頼してもらいたかった、友人として心を開いて欲しかった。そこで、相談を持ちかけたのがよりによってこの僕だったというのが、何とも皮肉だけれどね」

 クリスターは、動揺している心臓に向かって、落ち着けと念じずにはいられなかった。

「でも、せっかく頼りにしてもらったのだから、僕は誠実に彼の悩みに応えたよ。クリスターの心を手に入れようなんて無駄な努力だと教えてあげたんだ。なぜなら、クリスターは根本的に他人を必要とはしていないからだ。彼の世界は、自分とその片割れであるレイフだけで完結している。それ以外は、余分なものなんだよってね」

「ジェームズ…!」

 ぐっと拳を固めるクリスターに、ジェームズは尚も容赦なく語り続けた。

「アイザックを絶望させたのは君だよ、クリスター…その結果、彼は道を大きく誤った。僕が導くままに、ついには取り返しのつかない罪に手を染めてしまった。僕と手を切ったところで、もうもとには戻れないんだ。君には分かっている。だから、そんなにも深い罪の意識に苛まれているんだ」

 クリスターは奥歯を噛み締めて、激情のまま怒鳴り返したくなる衝動を堪えていた。ここで感情的になっては相手の思う壺だと、必死に自分に言い聞かせていた。

「僕に言わせれば、中途半端に情を介在させるくらいなら、初めから距離を置いた付き合いに留めておけばよかったのさ。愛憎が絡むと人間は簡単に間違いを犯す。ダニエルについても同じ過ちを君は犯したね?」

 ジェームズが、今度はクリスターの別の弱点を突こうとしてくる。クリスターは警戒したが、やはりジェームズの心理攻撃は巧みだった。

「どうして君がダニエルを恋人にしてしまったのか、初めは疑問だったんだけれど―君、弾みで彼をレイプしてしまったんだね? 君らしくもない馬鹿なことをしたものだ」

 ジェームズは、ちらと冷たい一瞥を、石像と化したように身動きしないクリスターに投げかけた。

「ダニエルは5月頃にしばらく体調を崩して、授業を休んだことがあった。心配した寮長が医者を呼んだけれど彼は頑なに体を見せなかったそうだよ…でも、大勢が集団生活している場所だから、ちょっとした隙に他人に見られたり、それが噂として人の口に上ることは完全には阻めないんだよね」

 困ったように眉根を寄せて、ジェームズは大げさな溜息をついた。

「ともかく、その後、君は償いのためにダニエルと付き合い始めた。だが、これも本当は口実だったよね? 君は、レイフへの許されない想いを断ち切るために、ダニエルを恋人にして、愛情を注ごうと努力した。嘘でも貫き通せばいつか本当になるかもしれないと思ったのかい? そんなごまかしなど一番信じていないのは君だったくせに、とんだ偽善者だな。ダニエルは君の傍にいて、少しは幸せになれたのかい? 君にただ騙されているだけの馬鹿な子だとは思えないけれど?」

 瞬間、ダニエルの、いつもクリスターに対して遠慮がちで控えめな、どこか寂しそうにも見える笑顔が脳裏に蘇った。

「黙れ、僕は―あの子を大切に思っている…」

 言葉に出せばまたジェームズに付け込む隙を作ってしまうと分かっていたが、クリスターはどうしても黙っていられなくなった。

「君は、ダニエルを大切に思っている」

 ジェームズは鸚鵡返しに言った。

「ならばなぜダニエルをとめなかった? なぜ、僕に近い、あんな危険な場所に―キャメロンのクリニックに彼を通わせ続けた? やめさせることはいつでもできたはずだ。だが、君はそうしなかった。これがレイフなら、君は全く違った行動を取ったはずだ。ダニエルがこんなひどい目に合うことまで予想しなかったなんて言い訳は、君に限ってはできないよ。君はその可能性も充分考えた上で、愛情を餌にして、ダニエルを操り、利用したんだ」  

「違う…!」

「違わないよ、クリスター。本当に愛していたのなら、どうして君は今、そんな追い詰められた目をしているんだい?」

「僕は、あの子を―」

「利用したのさ、クリスター…その結果は、君もさっき目の当たりにしたよね。可哀想なダニエル…あんなに華奢で可愛かったのに、玩具されて、壊された。もともと不自由だった左脚は大丈夫かな、ダミアンは人の弱い部分を徹底的に痛めつけるのが大好きだからね」

 慄いたように瞠目するクリスターの耳に唇を寄せ、ジェームズは悪意に満ちた声を吹き込んだ。

「そう、君のせいだよ。アイザックもダニエルも、君のせいで運命を狂わされた。君が…君が、君が―彼らの人生を滅茶苦茶にしたんだ…!」

 ジェームズは、クリスターの強張った肩を愛しげにかき抱いて、くすくすと笑った。

「けれど、君のそんな人でなしのところが、僕はとっても好きだよ、クリスター。鏡に映った像のように、僕にそっくりだからね」 

 かっとなったクリスターは、ジェームズに激しく掴みかかった。

「この…!」

「あはは、君でもそんなふうに直情的な反応をすることがあるんだ! よほど僕の言ったことが癇に障ったのかな。人は本当のことを言われて傷ついた時にこそ、攻撃に出るものだからね」

 ジェームズはクリスターに振り回されながらも、おかしくてたまらないというように肩を揺らせて笑い続ける。

 クリスターがついに拳を振り上げた時、低い唸り声と共にフレイが突っ込んできた。

 彼は、強引に2人の間に入って引き離し、尚もジェームズに迫ろうとするクリスターに渾身の体当たりを食らわせる。

 もともとフットボール・チームのラインマンあがりの力技に、クリスターは壁にしたたかに打ち付けられた。

 衝撃にぐらつく頭を上げると、またしてもフレイの巨体が肩から突っ込んできて、さすがのクリスターも思わず苦鳴をあげた。

「この…」

 クリスターは、フレイの太い腕に締め上げられながらもがくが、体格差がある相手にがっちり捕らえこまれた状態は、明らかに彼に不利だった。

 気がつけば、クリスターのつま先は僅かに床を離れ、フレイに持ち上げられる格好になっていた。格闘でも他人に後れを取ったことのないクリスターだけに、これには軽いショックを覚えた。

「いいざまだな、クリスター。おまえなぞ、その気になれば、俺はいつでも捻りつぶせるんだ」

 憎い敵を力でねじ伏せることで溜め込んでいた怨みを晴らそうというのか、にやりと不敵に笑うフレイの顔を、クリスターは睨みつけた。

「あまり…調子に乗るな…」

 次の瞬間、クリスターは己を締め上げる2本の腕の間に腕をねじ込み、捻った。とっさに離れたフレイの左腕を捕まえ、肘の裏側に腕を添えて、梃の原理でへし折りにかかる。

 今度はフレイの口からうめき声が漏れ、顔が朱の色に染まった。

 床に膝をつき、クリスターに締め上げられた喉が苦しいのか軽く咳き込んでいたジェームズは、この有様にちょっと顔をしかめた。

「フレイ、その辺りでやめておけ…クリスターを離すんだ」

 ふらつきながら立ち上がったジェームズは、つい癖で、ジャケットのポケットの中に手を差し入れた。

 その頬が僅かに震えた。いつもそこに入れてある懐中時計にあたるはずの指先は、空のポケットの内側を滑っただけだった。

「まさか…?」

 数瞬の間呆然と固まっていたジェームズは、見開いた目をゆっくりと壁際で格闘している男達の方へ向けた。

「う…おっ…!」

 フレイは、悲鳴と共にクリスターを突き飛ばすと、腕を押さえて、よろよろと後じさりした。

「この野郎…ふざけた真似を…」

 だらりと垂らした左腕を庇い、脂汗を流しながら、壁に手をついて喘いでいるクリスターをねめつける。

「フレイ、いいから、そこまでにしろ!」

 何かしら切迫したものを含んだジェームズの命令に、もう一度クリスターに襲いかかろうとしていたフレイは、はっとなって身を引いた。

「クリスター」

 ぎこちない足取りでゆっくりと近づいてくるジェームズを見ながら、クリスターはフレイに傷めつけられた体をようよう起こした。

「さっき僕ともみ合っていた時に、すり取ったのか?」

 用心深く尋ねるジェームズの低められた声には、ふつふつとたぎるような憤りと共に、恐れにも似た微かな震えがこもっていた。

 人間らしい感情を超越したはずのジェームズにも、恐れるべきものはあったということだろうか。

 そんなジェームズに冷徹な眼差しを向けながら、クリスターは悪びれもせずに言った。

「ああ、君の大切なものを拝借したよ」

 クリスターはズボンのポケットから、先程盗み取ったばかりのものを取り出し、ジェームズの目の前に掲げた。

 メアリの骨が封じ込まれた、金の懐中時計だ、

 ジェームズの顔からあらゆる表情が消え、すうっと細くなった目は、クリスターが手にしている時計を食い入るように見ている。

「さっきは僕の弱みをあれこれ突きまわして、随分と悦に入っていたね、ジェームズ…」

 クリスターは懐中時計を右手に包み込み、それを胸の前まで持ってきたところで、やにわに、ぐっと力を込めた。

 彼の手の内で、小さな時計がみしという小さな悲鳴をあげた。

「クリスター…!」

 たちまち、ジェームズの顔が紙のように白くなる。まるで自分の喉を締め上げられたかのように、彼は苦しげに喘いだ。

 ジェームズの体からひしひしと伝わってくる慄きを味わいながら、クリスターは冷たい嘲笑に唇を歪めた。

「君の妹の形見をこのまま握りつぶしてやろうか…君が殺したメアリの骨を今ここで僕が粉々にしてやろうか…?」

 底光りする目の中心にジェームズの青ざめた顔を映しこんだまま、クリスターは凄みの含んだ声で、そう恫喝した。


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