ある兄弟の異常な日常

第三部 第5章 深淵に潜むもの

SCENE9


 どうして、こんなことをするの、兄さん…? 




 ジェームズ・ブラックは、手の内の金色の懐中時計をぼんやりと見下ろしていた。

 滑らかに白い指先が蓋の部分を愛しげになぞる。

 穏やかに優しい笑みが端正な口元にたゆとう。

 外から差し込んでくる陽光に淡い金色の髪をきらきらと輝かせ、大きな窓の前にゆったりと立つ姿は、絵画の中の聖人や天使めいて超然としている。

 ふいに、窓の下が少し騒がしくなった。

 何気なく庭の方を見下ろすと、ジェームズが先程小一時間ほど話し合ったスーツ姿の訪問客達の姿が見えた。

 ジェームズは涼しげな顔でしばし彼らを見下ろしていたが、その深沈と静まり返った藍色の瞳には何の感情のそよぎも現われなかった。

「…保護観察期間が終わったと思ったら、早速、裏世界の人間からの表敬訪問を受けるなんて、全く信じられねぇな」

「ただのビジネスの話だよ」

 背中にかけられた棘のこもった声に対し、天気の話でもするかのようなのどかさで彼は答える。

「ビジネスって言ったって、犯罪がらみのことだろう、堅気らしく装ったって所詮マフィアなんだからさ」

「彼らは、ただ純粋に金儲けがしたいだけだよ。別に犯罪そのものが好きなわけじゃない。現に彼らはもう麻薬や武器の不法売買に関わるよりも、もっときれいに儲けられる金融事業を始めたがっている。僕は、まあ、そんな彼らの相談に乗ってあげているだけだよ」

 ジェームズは体ごと部屋の方に向け、中央にある大きなソファに坐っている人物に、軽く首を傾げるようにして微笑んだ。

「もっとも君の言う所詮マフィアの作る銀行が、綺麗な金ばかりを扱うとは限らないけれどね」

 不思議なことに、ジェームズ自身が何ら喧伝することはなくとも、ある種の人間達は特定の臭いを嗅ぎつけるようにして、ここにやってくる。

 有り体に言ってしまえば、金の臭いだろうか。

 ここに来れば、己の欲望を満たすことができると何故か思い込んでいる、貪欲な犬達―。

「たぶん、僕が以前面白半分にやったことが裏世界でちょっとした評判を取ってしまったからだろうね。僕が自由の身になったら、ここぞとばかりにスカウト…と言うのもためらうけれど、何件か仕事の誘いを受けてしまってね。病床に臥せっている父親の介護もあるし、当分働くつもりはないと断ってはいるけれど、相手が相手だからむげにもできなくて―何となく相談役におさまってしまったんだ」

 少し困ったような曖昧な笑顔で言って、ジェームズは自分にずっと鋭い視線を送っている相手に向かって、軽やかな足取りで近づいていった。

「ただ、僕自身はもう裏世界に深く関わる気はないんだ。マフィア同士の血生臭い抗争も汚い金を巡る駆け引きも、もう充分に楽しませてもらったからね」

 今からほんの4年前、ボストンの闇社会において突如勃発した抗争によって、犯罪組織の構図はがらりと変わってしまった。

 ほとんど無名の存在から瞬くにのし上がったハートという青年が率いたギャング団と彼らの動きに便乗した犯罪組織は、1年足らずで、それまで利益を独占していた古参のマフィアを事実上解散に追い込んでしまった。

 ハートの背後にいて、彼のちっぽけな犯罪グループが、組織力でも資金力でも圧倒的に有意だったマフィアを切り崩して勝ち上るための戦略を練り、細かな戦術も与えていたのが、犯罪とはおよそ縁のない上流階級に育った、当時たった15歳の少年だったということは、今では知る人ぞ知る伝説となっている。だが―

「飽きたんだよ」

 ジェームズが近づいていくにつれ、一応平静さを装っている話し相手の顔には、隠しようのない慄きが浮かび上がってくる。

 それを涼しげに眺めながらソファにたどり着くと、ジェームズはガラスのテーブルの上のチェス盤にしなやかな手を伸ばし、素早く、駒の1つを動かした。

「今は、どんなゲームより僕を夢中にさせてくれるものを見つけたからね」

 眼鏡の下の黒い目が大きく見開かれるのを認めながら、何食わぬ顔をして、ジェームズは囁いた。

「その新しい眼鏡、似合うね、アイザック」

 じっと押し黙っているアイザックの前のソファにすとんと身を落として、ジェームズは先程執事のロバートに運ばせたばかりの熱い紅茶を一口すすり、目の前のチェス盤を指し示した。

「ほら、君の番だよ」

 アイザックは肩を落として深い溜息をついた。

 ここに来た当初に比べて随分やつれ、どこか暗くすさんだものを帯びてきたようにも見える、その顔に、ジェームズは少しばかり気を引かれた。

「…何だか疲れた顔をしているけれど、ここでの暮らしに不自由はないかい? ダミアンや他の荒っぽい連中には、絶対君に手出ししないようきつく言い聞かせてあるけれど、困ったことがあれば、遠慮なく僕に言ってくれればいいんだよ」

「別に、何も問題はないよ…」

 うつろな声が答える。かつては、とても覇気のある話し方をしていた彼が、今は全く別人のようだ。

「ところで、君の父親がこちらに来ているようだね」

 弾かれたように、アイザックは顔を上げた。

「親父が?」

「何も驚くようなことじゃない、大切な子供が突然いなくなったんだから、探しに来るのは親として当たり前のことだ。…クリスターと頻繁に会っているそうだよ」

 堪えきれずにソファから立ち上がりかけたものの、すぐに諦めたように再び腰を下ろし、膝の上で手をぐっと握り締めるアイザックの煩悶ぶりに、ジェームズはとろとろと目を細めた。

「どうしても気になるなら会いに行ってもいいんだよ、アイザック、僕は君をとめない。会って、君の愛する人達に全てを正直に打ち明ければいい」

 アイザックは食い入るように、ジェームズの柔らかな笑みをたたえた顔を見据えた。

 その目の周りは僅かに赤らみ、頬は微かに震えている。

「俺がどんな気持ちでここにいるのか分かってて、そんなことを言っているんだな、おまえは…」

 随分また無意味なことを言うんだなと、ジェームズのアイザックに対する興味は少しばかり薄れた。

「確かに、顔は合わせ辛いだろうね。尊敬する父親に自分の今のひどい有様を説明するのも辛いし…仲間達に対してはもっと顔向けができない」

 理解に満ちた聖者の顔で、ジェームズはゆっくりと頷いた。

「そして何より、クリスターは自分を裏切り傷つけた君を決して許さない、こうなった以上君も僕の仲間と見なされ、攻撃の対象になってしまったのだと―君は思っている」

 確かにクリスターは、そういう苛烈さも冷酷さも持っている。敵とみなした相手にはとことん非情になれる男だ。いざとなればかつての仲間だろうが容赦しないだろう。しかし―。

「あいつなら、裏切りがあったと分かれば、俺ごときは冷静に切り捨てるさ。俺はクリスター・オルソンの大切な人間じゃない…利用価値のある手駒の1つにすぎなかったんだからな」

「でも…会えば、それは君の誤解なんだと、クリスターは言ってくれるかもしれないよ?」

 アイザックは唇を噛み締めた。暗い瞳は葛藤のあまり揺れている。

「今更、何もかも遅すぎる…俺は、もう取り返しのつかない所に来ちまった…いくら後悔して懺悔したって、クリスター達のもとに戻ることなんかできないんだ」

 黒髪の頭が力なく左右に振られる。己が神を売ってしまった、どこにも行き場のない哀れなユダ。

「全て僕のせいなんだと言えばいい」

 アイザックは信じられないといった面持ちでジェームズを見た。

「実際、それは嘘じゃない。僕が君をそそのかせたのだと説明すれば、皆納得してくれるだろう」

 アイザックは痩せた頬を微かに引きつらせた。

「最初に君が僕を訪ねてきた時、僕はとても喜んだ。君が、クリスターの信頼厚い右腕だったからだ。そうして、何としても君を手駒にしたくなった僕は、必死になって知恵を絞り、あらゆる手段を使って、君が仲間達を裏切って僕の手を取るしかなくなるよう仕向けた。僕のやり方を心得ているクリスターならば、理解を示してくれるだろうと思わないか?」

 アイザックは聞くに堪えないというかのごとく、ジェームズの話を遮るよう、荒々しく手を振った。

「どうやら、納得できないのは君自身のようだね、アイザック」

「俺は、自分が何をやったのか、ちゃんと認識している…クリスターに協力するなんて言いながら、同時に、あいつには黙って、おまえとも会っていた…そこまでおまえに強要されたなんて言い訳はしねぇよ。危険だと分かっていながら、おまえに近づいていったのは、やっぱり俺の意思だったんだ。それに…」

 アイザックはこみ上げてくる感情を堪えるかのごとく肩を大きく上下させた。

「コリン達をあんなひどい目に合わせたのは…他の誰でもない、俺だ。俺が、この手で親友を殺そうとした…」

「それこそ、ダミアンに脅しすかされて嫌々やったことだろう。銃口を頭に突きつけられたら、誰だって、自分の命が助かることを優先してしまう。それほど恥じることはないと思うけれどね」

「そんなふうに俺をあやすように言うおまえが、腹の底では別のことを考えていることを俺は知っている」

「ふうん」

「おまえは、俺がコリンの車に細工をする間、何も言わなかったけれど―俺の心をちゃんと見透かしていた。今でもそうだ。俺が決して自分からここを出て行かないと分かっているから、そんな同情的な口ぶりで、俺に仲間のもとに戻ってもいいなんて促すんだ」

 ジェームズは伸びかけて額に落ちかかる髪をいらいながら、困ったように笑った。

「うーん、君もなかなか難しい人だね、アイザック。もっと楽に考えられたら、そんなに苦しむことはないのに」

 ジェームズは紅茶のカップを持ち上げ、そこにぼんやりと映る自分の影を見下ろしながら、あまり関心のない口調で言った。

「いずれにせよ、どこにも行き場がないのなら、君はここにいたいだけいればいいよ。僕は近いうちにクリスターとの決着をつけるつもりだけれど、君を刺客にして彼に差し向けるとか、そんなひどいことをするつもりはないから、その点は安心してもらっていい。それに君も、ここまで深く僕とクリスターの双方に関わってしまったのなら、どうしても見たいだろう…?」

 カップの中のジェームズの顔は、心から楽しそうに笑っている。

 これほどの高揚感は、己の知略だけでギャングやマフィア相手に渡り合っていた時でさえ得られなかった。

「僕とクリスター、一体どちらが最後に勝つのか」

 アイザックははっと息を飲んだ。

「ジェームズ、おまえ…おまえはクリスターを―殺すつもりなのか…?」

 まるで言葉にするのが恐ろしいかのようにおずおずと尋ねるアイザックに、ジェームズは少々苛立った。

「全く、どうして皆、僕がクリスターを傷つけるとか殺すとか、そんな野蛮で物騒なことばかり言うのかな。物凄く心外だよ」

 珍しくも強い口調で慨嘆するジェームズを、アイザックは、その本心を必死に読もうとするかのごとく凝視している。

「それなら、一体どうするつもりなんだ…?」

「僕は、クリスターの全てが欲しいんだ。彼の心も体も意思も、僕のものにして、取り込んでしまいたい。そうすればきっと、僕も―この胸の巨大な空虚を満たされて、ああ、こんな人生でも生きてきてよかったと本当に実感できるような気がする」

 アイザックの顔に、困惑と共に、理解できないものを前にした言い知れぬ慄きが広がっていく。

 それを、いつも他人に対して感じてきた、諦めにも似た達観の境地から、ジェームズは眺めた。

 並の人間よりよほど切れるとは言っても、所詮はこの程度だ。

 クリスターのように、鋭く、深く、この胸に切り込んでくることはできない。 

「難しく考えることはないよ。要するに、僕はクリスターを愛していて、彼の一番の相棒になりたがっているんだと思ってくれればいい」

「クリスターは…おまえを望んでなんか、いない…!」

「さあ、それはどうかな。確かに、僕らの間には今まで争いしかなかったけれど、ほら、よく喧嘩するほど仲がいいと言うじゃないか。僕とクリスターも、実は結構気があうんだよ」

「あいつが聞いたら、さぞ、胸糞悪くしたことだろうさ」

「クリスターは素直じゃないからね。僕を必要としていると認めるのが、悔しいのさ」

 思わずかっとなったのか、アイザックは大声を出した。

「レイフがいるだろう! クリスターはレイフ以外の誰も必要としていないし、愛してもいない!」

 ジェームズはすっと目を細め、怒気をはらんだアイザックの顔を冷たく睥睨した。 

 たちまちアイザックは青ざめ、自らの激昂を後悔するように黙り込んだ。

「レイフね…クリスターの唯一無二の相棒―確かに、大きな障害だ。君は、彼らの結びつきの固さを思い知って…いや、クリスターがあれほど深く弟を想う一方で、その同じ心の欠片すら君には与えなかったことに絶望して、ついには彼のもとを離れる決心をしたんだものね。そして、いまや、あれほど心酔していたクリスターの敵に回った。全く、大した悲劇だ」

「ジェームズ…頼む、黙ってくれ…」

 アイザックは両手で顔を覆い、震える声で懇願するが、ジェームズは彼の言葉など虫の鳴く声ほどにも気にとめていなかった。

「だけど、僕は諦めないし、場合によっては、僕の存在がクリスターを救うことにもなるんじゃないかとさえ思っている。だってね、僕は知っているんだ…唯一無二の半身を失った後の圧倒的な虚無感を―それでも生きようとするのならば、結局、空っぽな胸を満たしてくれる他の何かを探すしかないということもね」

 確信のこもった口調でジェームズが言い切ると、アイザックは顔を伏せていた手の平からゆっくりと目を上げた。

「クリスターはね、自分の度を越した愛情がいつかレイフを潰すと思い込んでしまっているんだ。だから、レイフに幸福な未来を確約してやるために、その人生から身を引こうと努力している。我が身の一部を自分で切り離そうとするようなものさ―とても、とても痛いんだよ―だが、意地っ張りな彼のことだから、ぼろぼろになっても最後までやり遂げるだろうな」

 ジェームズはつい想像してしまって、低い含み笑いを漏らした。

「本当は、クリスターを手に入れたいだけなら、僕は何もせずにただ待っていればよかったのかもしれないね―本当に1人きりになって、孤独と絶望に打ちひしがれた彼を迎え行けばよかったのかも」

 ジェームズの言葉がよほど癇に障ったのか、再び反抗心を取り戻したアイザックは噛み付くように言い返した。

「ありえねぇ…それこそ、おまえの都合のいい妄想だろっ」

 すると一瞬、ジェームズの端正な口元に苦い笑いが浮かんで、消えた。

「ああ、そうだね、確かに―のんびりと待つなんて、今の僕にはできそうもないことだものね」

 軽く肩をすくめるジェームズをしばし睨みつけると、アイザックは今頃になって気がついたように目の前のチェス盤に手を伸ばして、腹立たしげに駒を動かした。胸の底に煮えたぎる感情を抑えた低い声で言った。

「確かに、おまえはゲームの天才なのかもしれない。けれど、人間はチェスの駒じゃないんだ。誰も彼もが、俺のように、おまえに心を掴まれて思うように操られてしまうわけじゃない」

 ジェームズが何も答えずにいると、アイザックは我慢の限界がきたというかのようにソファから立ち上がった。

「チェスの決着はつけなくていいのかい?」

「ああ、どのみち俺じゃあ、おまえの相手をするには役不足だからな」

 何かを堪えるような固い表情に戻ったアイザックは、ポケットに無造作に手を突っ込んで、そのまま部屋から出て行った。

「…一応、自分の身の程は分かっている訳だ」

 アイザックが退出していった扉に、ジェームズは無感動な眼差しをしばしあてていた。

「だったら、初めから、手に入りそうにないものを高望みしたりしなければよかったのにね」

 アイザックには、もともとクリスターに対して、心酔すると同時に、この男には何もやっても敵わないという諦め混じりの羨望と嫉妬があった。そんな負の感情をクリスターの信頼を勝ち取ることで封じ込もうとしたのだが、いくら尽くしても一顧だにされず、所詮自分は駒の1つでしかないと悟るに至って、それまで溜め込んだ憤懣が一気に爆発した。

(君にそう思い込ませたのは僕なんだけれどね、アイザック…君の中に、クリスターへの払拭できない不信の種を見つけた時から、その種が芽をふき、君の中で根を張り巡らせるよう、用心深く育て続けた。あんまり思い通りになりすぎて、むしろ拍子抜けしたくらいさ。それほどまでに君はクリスターを愛し、また憎んでもいたわけだ)

 かつての恋人ミシェルを奪った親友コリンに対するわだかまりも、ジェームズがアイザックの心に食い込む余地を作ってくれた。

(確かに、僕はアイザックの手を無理矢理汚させることで彼の逃げ道を断った。だが、僕には分かっていたんだ、アイザックが心のどこかでコリンとミシェルの2人に復讐したがっていたことを―分かっていたから、あえて、やらせた。そして、アイザックが溜飲を下げるのを黙って見守った。アイザックは、自分の屈折した満足感など誰にも悟られないと思っていただろう、だからこそ、僕には全てお見通しだったと分かって一層居たたまれなくなったろう。強制されたわけではなく、自分が望んで、裏切り者の友人殺しに成り下がったのだと思い知って―)

 ジェームズは、アイザックが逃げたくても逃げられないことを、よく分かっている。

 強いられたわけではなく自ら望んだこと―己の心が犯した罪の重さに打ちのめされた彼は、そのことを知りながら自分を受け入れてくれているジェームズから離れることができない。

 だが、それもまたジェームズの計算のうちなのだ。

「君が特別悪人だったわけじゃないよ、アイザック…誰だって、多かれ少なかれ、心の内にどろどろとした負の感情を秘めている。君が堕落したのは、僕がそれを見つけて、引きずり出したからだ―そう、君のせいじゃない」

 まるでまだアイザックが目の前に坐っているかのように、優しく慰めるようにジェームズは囁き、そして一転、冷たい口調で付け加えた。

「だが、それでも、君には責められて然るべき非が1つだけある」

 ジェームズは薄手のジャケットのポケットの中から一枚の写真を取り出した。以前アイザックが写したクリスターのスナップ写真だ。

「全く、君ほど聡い人間が、どうして気がつかなかったのだろうね。よく目を凝らしてみれば、すぐに分かったろう。こんなに近くに、君の疑いを晴らしてくれる証拠はあったんだよ」

 写真の中では、クリスターはごく自然にくつろいで、無防備な横顔を撮影者であるアイザックに対して向けている。

 こんな写真、他の誰にも、あの用心深いクリスターは決して撮らせなかったろう。

 クリスターがアイザックを深く信頼し、心を許していた証だ。

「クリスターには、君を簡単に切り捨てることなんて、できやしない。敵に回ったら回ったで、君の存在は彼の動きを鈍らせる枷になる。こんな簡単な答えすら見過ごすほど、君の目は瑣末に不満に曇らされていた。君は大切な友人なんだとちゃんと口に出して言わなかったクリスターも悪いけれど―いずれにせよ、ちょっとしたボタンのかけ違いがこんな結果を招くなんて、やりきれない話だね」

 深く項垂れて、溜息混じり、ジェームズは呟く。

「もっとも、だからと言って、僕は同情なんかしないけれど―」

 額に落ちかかる柔らかな金髪の陰。僅かにつりあがった唇にうかぶ笑みには人間味の欠片もない。

 半ば開いた藍色の瞳は相変わらず虚無的で、何も持たないがゆえに一層何かを強烈に欲し、喰らい尽くそうとする巨大な闇だけが黒々と広がっていた。

 ジェームズはおもむろにソファから起き上がり少しばかり乱れた髪を手で整えた。ふと、テーブルの上に放置されたままのチェス盤を見下ろすと、しなやかな指先で駒をつまみ上げ、迷いのない滑らかさで動かした。

「チェックメイト」 

 特に感慨もなく呟いて、ジェームズ・ブラックは、己が貪欲な空虚を満たしてくれる好敵手を追い詰めるための次の一手を考えながら、その場を静かに立ち去っていった。


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