ある双子兄弟の異常な日常

第三部 第5章 深淵に潜むもの

SCENE10


 その日、クリスターは、アイザックの父ウォルターとケンパー警部に、ワインスタインから聞いた話を報告した。

 かつてジェームズ・ブラックを分析した精神科医の意見に深い関心を示した彼らは、しばし、クリスターを挟んで、今後個人としてどう動くべきか、警察が介入できる余地はあるのかなどを話し合ったが、現時点で具体的な打開案は出なかった。

 ジェームズの妹メアリの死に関しても、一精神科医の証言だけでは立件は難しく、ましてや当時僅か11才のジェームズを罪に問えるかという疑問が残る。

 ただ、クリスターの今後に対する大人達の意見は一致した。

『ワインスタインの話からすると、これ以上君が単独でジェームズと相対するのはやはり危険だ』

 ウォルターが言えば、ケンパー警部も同調する。

『そうだとも、この期に及んで迷うことはない、ご両親にこれまでの経緯をちゃんと説明し、その上で家族共にどうするべきか相談するんだ。いいかい、これは、もう君一人に負いきれる問題じゃない。確かに、現段階では我々警察が君らを保護するのは困難かもしれないが、しばらく家族でどこかに身を隠すなり、ボディガードを雇うなりした方がいい』

『必要なら、俺が一緒にご両親に説明しに行こう。悪い連中に息子を拘束されているかもしれない父親として、君のご両親にまで同じ思いをさせるのは忍びないからな』

 2人の助言は至極もっともだった。

 いくらクリスターが頭脳明晰で行動力にも優れ、実際一度はジェームズを撃退することに成功したといっても、18才の若者にできることは限られている。

 そして、ワインスタインによって暴き出された、ジェームズの心に潜む深い闇の正体は、さしものクリスターも怯ませていた。

 レイフや家族の安全を一番に考えるならば、ジェームズとの決着を自分でつけることにこだわるのは間違っている―そちらの方向にクリスターの気持ちも今は少し傾いている。

 しかし、それでは駄目なのだと、クリスターの理性とは別の部分が訴えるのだ。

 結局、両親に打ち明けるかどうか、もう少し考えさせて欲しいと言って、クリスターはその場を逃れた。

(実際家族そろって逃げると言っても、それなら今度は、いつまで隠れれば安全になるのかという話になる。ジェームズを逮捕できるあてもない現状では、その選択自体あまり意味がない。大体、どこに隠れ潜んだ所で、ジェームズなら難なく探し出すだろうということについては、僕はこの首を賭けてもいい。むしろ自由な行動が制限される分、僕の足枷となるだけだ)

 2人と別れた後も、クリスターは1人悶々と悩み続けていた。

(大体、そんなことをしているうちに学校だって始まる―僕とレイフにとって高校最後の大切なフットボールのシーズンも…そうだ、僕はともかく、レイフは今季こそ本来の実力を出し切らなければならない。昨年の優勝のおかげでスカウトの注目は僕らのチームに集まっているとはいえ、レイフ個人の評価はまだそれほど高くない…あいつが希望する名門チームに入るためには、これまで以上の努力が必要だ。そんな大事な時期に、あいつの集中力を妨げるような事態は何としても避けたい)

 新学期の始まりまで、いつの間にかもうひと月を切ってしまった。

 できるなら、ジェームズとの決着をこの長い夏休みの間、学校生活に支障が出る前につけてしまいたかったのだが、そんなに都合よく話が進むはずはなかったか。

(焦った所で、どうしようもない…時間は限られているし、僕にできることにも限界がある。すべきこととしたいこと、優先順位をつけて、どうしても譲れない、上位にあるものから順番に解決していくしかない―)

 対J・Bの闘いにレイフを関わらせてしまったことで、秘密を保つための苦労はなくなったものの、クリスターの胸にはこれまでにない焦りの気持ちが生じていた。

(ウォルターとケンパー警部の意見を否定するわけじゃない。僕は、もっと現実的になるべきなんだろうな。ここまで事態が逼迫して、これは僕とジェームズの個人的な闘いだから、余人に介入して欲しくないなんて言うこと自体、僕の我が侭なんだ―勝ち負けなどは、この際どうでもいい。僕が死守するべきもは何なのか、今一度思い出せ)

 クリスターがそう自らに強く言い聞かせると、車のフロントガラスに映る自分の影が、ふいにジェームズの嘲るような顔に変わった。

(いいのかい、そんなに簡単に僕との勝負を諦めてしまって―後悔するんじゃないのかい?) 

 クリスターは忌々しげに舌打ちし、怒鳴った。

「うるさい!」

 何となく気持ちが落ち着かないまま、クリスターは家に帰る途中に、よく利用する書店に立ち寄った。

 特に目的があったわけではない。好きな本を物色すれば気分転換になるだろうと思いついただけだ。

 奥にある専門書のコーナーにまっすぐ向かおうとしたクリスターだが、入り口近くにあった雑誌コーナーに平積みされていたスポーツ誌がふと目に付いた。

 レイフがよく購読しているフットボールの専門誌だ。

(ああ、そう言えば、今日が発売日だったかな)

 クリスターは最近この手の雑誌は読まないようにしていた。レイフが話を振ってきても、興味のない態度を取り続けてきた。

 この時も、一瞬その雑誌の前で歩く速度が落ちかけたものの、そのまま立ち止まらずに通り過ぎた。しかし―。

「………」

 クリスターは、次のコーナーを右に曲がり、本棚をぐるりと回りこんで先程通り過ぎた雑誌コーナーにまた戻ってきた。

(全く、何をやっているんだろう、僕は…)

 溜息をつきながら、その雑誌を1冊取り上げる。ちらっと目に付いた、表紙の文句がどうしても気になってしまったのだ。

「名門カレッジのスカウトが選ぶ、今シーズンの注目選手か…」

 プロの記事に混じって、大学・高校リーグに関しても最新情報が掲載されていて、シーズンが始まる直前ともなれば、昨年活躍した有力校の戦力分析や選手個人のデータ、現時点でのランキングも発表されている。

 クリスターはぱらぱらとページをめくりながら、自分に関係のありそうな記事を探して、ざっと目を通していった。

 さすがに去年の州大会優勝校だけあって、ポジション別のランキングに知った名前が幾つも出ている。MVPを取ったクリスター自身もマサチューセッツ州のナンバーワンQBに堂々と輝いていた。

 問題は、ランニング・バック部門だ。

(ああ、レイフの名前もちゃんとあった…けれど、3位とは微妙だな。あれでもうちのオフェンスの要なんだぞ、もうちょっと上でもいいんじゃないか? 確かに悪くはないけれどよくもない、何とも中途半端なところがあいつらしいか。ベスト・スリーには入っていても、州の中だけの話だし、全国レベルで考えると、どの辺りの実力と考えられているんだろうか)

 はぁっと溜息をついて雑誌を閉じかけたが、その時、めくりかけていたページの下の方にあった、小さな記事が目にとまった。

「ネブラスカ大のスカウト―注目選手として、レイフの名前をあげている…?」

 思わず食らいつくようにその小さな記事を読んだクリスターは、まるで自分が誉められたようにちょっと得意になった。

 レイフに触れられていた箇所はごく僅かだったけれど、単純にこれまでの成績をベースにしたランキングによるのではなく、潜在的な期待値が大きい選手として今季の活躍に注目していると書かれていたからだ。金の卵達を必死になって探している名門校のスカウトの評価だから、ある程度信用してもいいだろう。

 これが自分のことだったら、ここまで嬉しくならない。実際、これまで自分宛に送られてきた大学チームからの手紙やスカウトからの電話にはそれほど心を動かされたことはなかった。

(ネブラスカ大はレイフが行きたがっている名門校の1つだ。これまでもあちこちの大学から手紙くらいはもらっていたかもしれないけれど、希望校のスカウトからのコンタクトはまだなくて―あいつはやきもきしながら待っているはずなんだ)

 クリスターはその雑誌をそのままレジに持っていって購入した。もしかしたらレイフも既に手に入れているかもしれないが、そうでないなら少しでも早くこの記事を見せて喜ばせてやりたい。

 再び車に乗り込んで家に着くまでの束の間、クリスターは目の前に差し迫った問題を忘れることができた。

 日曜の午後遅く、ひょっとしたらレイフは出かけているかもしれないと思ったが、家の駐車場に弟の車はあるので、ほっとする。

 だが、その傍に見慣れない車が一台止まっているのに、クリスターはふと眉を潜めた。

(誰だろう…?)

 訝しく思いながらクリスターが家に入ると、奥のリビングから父親の上機嫌な笑い声が聞こえてきた。ラースがこんなふうに楽しげに話しているなど、ここしばらくなかったことだ。

「ただいま、父さん」

 クリスターがリビングを覗くと、そこにはラース、レイフと一緒に、1人の見知らぬ男がソファに坐っていた。

「おお、お帰り、クリスター、おまえを待っていたんだぞ。マイク、これが上の息子のクリスターだ。上といってもレイフと12分しか違わんのだがな」

 昼間から少し赤い顔をしているラースの前には缶ビールが置かれている。

 ウイスキーでないだけましだなと内心溜息をつきながら、マイクと呼ばれた男にクリスターは向き直った。

「こんにちは、クリスター君、私はマイケル・シュミット。大学時代、ラースのチームメイトだったんだ」

「はじめまして、シュミットさん」

 立ち上がって握手を求める男に礼儀正しく挨拶をしながら、クリスターは相手が自分を値踏みするような目で見ていることが気になっていた。

「マイクは今テキサス大のスカウトをやっているんだよ。今朝電話があって、この近くに仕事で来ているんだが、大学時代のよしみで話をさせてくれないかと頼まれてな」

 これでラースの機嫌がいい訳が分かった。彼自身の母校でもある、カレッジリーグの名門校からのスカウトが直々にやってきたのだから。

 クリスターは、素早くレイフに目をやった。

(テキサス大学もレイフの希望校だったな。すごくいいコーチがいて、その下でやってみたいと言ってた)

 レイフはにこにこしながらクリスターを見返している。その屈託のない顔を見る限り、これはレイフにとっていい話のように思われるが―。

 先程読んだ雑誌記事の影響もあって、クリスターの心臓の鼓動は僅かに早くなった。

「クリスター君、昨年の君の成績は大変素晴らしいものだったようだね」

 クリスターがレイフの隣に坐るのを見計らって、シュミットは切り出した。

「実は、君のチームのフランクス・コーチに頼んで昨シーズンにおける君のプレイを記録したテープを送ってもらったんだ。それで、君に興味を持ってね」

「フランクス・コーチが?」

「ああ、君なら自信を持って推薦できると言っていたよ。確かに、君のパス・コントロールは実にいいね。それに、これはフランクス・コーチも絶賛していたが、君はどんな時でも平常心を失わない、自分をコントロールする術を知っている」

 何やら風向きはクリスターが予想したものとは違うようだ。

「そう言ってもらえて…光栄です」

 クリスターは幾分ぎこちなくなりながら、もう一度隣に坐っているレイフを横目で見た。

 レイフは、シュミットが兄を褒めちぎるのを自分のことのように嬉しそうに目を輝かせながら聞いている。

(この…馬鹿…!)

 思わず、クリスターは舌打ちをしそうになった。

 シュミットの目当ては、レイフではなくクリスターの方だったのだ。

 そうと分かった時点で、クリスターの期待感は瞬く間に萎み、ここにおとなしく坐って、いい年をしてうかれた父と自分の気を引こうと躍起になっているシュミットに合わせて話をすることはたまらない苦痛になった

 何より、クリスターに舞い込んだ大きなチャンスを素直に喜んでいる、レイフの暢気さに腹が立った。

「…君が今シーズンも立派な成績を残して、卒業後の選択には是非ともうちを考えてくれることを願っているよ」

 もちろん悪気はないのだろうが、シュミットの期待を込めた訴えは、クリスターを居心地悪くさせるばかりだ。

(いっそ、僕の進路はもう決まっているからと、はっきり断るべきだろうか。でも、この場で僕がそんなことをぶちまければ、父さんとレイフが一緒になって興奮して騒ぎ出すのは目に見えている。家族の修羅場に、何の関係もない、この男を巻き込むのも気の毒だ。それにしても、父さんも父さんだ。フットボールは今シーズン限りにやめるという僕の宣言を、レイフと一緒に耳にしたはずなのに、まるで綺麗に忘れ去ったような顔をして―)

 何だか、弟と父親の2人にタッグを組まれプレッシャーをかけられているような気がして、クリスターはますます憂鬱になった。

「…そんなこと、まだシーズンが始まらないうちから僕には何とも言えません。もちろん今季もチーム一丸となって優勝を目指すつもりですが、僕個人の成績なんて、蓋を開けてみないと分かりませんからね」

「うむ…それは確かにその通りだが―」

 クリスターの人事めいた冷めた口調にシュミットは少し鼻白んだような顔をした。

「すみません、まだ今シーズンも始まらないうちから、その先のことまで僕には考えられないんです。昨シーズンがチームも僕自身も絶好調だっただけに、周りからはかなりのプレッシャーを感じますし、チーム・リーダーとしての僕の責任は重大ですから」

 しょんぼりとほとんど同時に肩を落とす、似たもの父子の方は、とりあえず見ないことにする。 

(まあ、確かに僕もあれきり、はっきりと今後の進路についてレイフや父さんに話したわけじゃなかったから―それに、フランクス・コーチは、僕が大学でもフットボールを続けるつもりだとまだ思っているはずだ。だから、親切心で、このスカウトに僕を薦めたんだろう。でも―レイフのことは、推薦しなかったんだろうか? コーチなら、レイフの実力も分かってくれているだろうに、どうして…?)

 無性に腹立たしくて、悪気のない父親やフランクス・コーチまで恨めしく思ってしまうのは、この突然の申し出にクリスターも少なからず動揺させられたからだろう。

 やっとの思いでフットボールをやめると決心した自分のもとに、こんな話が舞い込んできて、肝心のレイフにチャンスはまだ来ない。

 その後しばらくして、昔話をしたいからとラースはシュミットと連れ立って外に飲みに出かけていった。

 遠方の友人を見舞いに行った母も、まだ帰ってこない。この家には今、クリスターとレイフの2人だけが残った。

 そうと悟ったクリスターは、父達を玄関先まで見送るや、すぐに厳しい面持ちになってリビングに戻っていった。

「レイフ、話がある」

 膝を抱え込むようにしてソファに坐ってテレビを見ていたレイフはきょとんと兄を見上げたが、その表情に何かを感じ取ったのか、すぐにリモコンのスイッチを切った。

「何だよ、えらく機嫌が悪そうじゃん」

 クリスターはむっつりと黙り込んで、レイフの前の席に腰を下ろした。

「さっきだって一応礼儀は守っていたけれど、内心ものすごく苛々してたよな? おい、分かってるのかよ、テキサス大だぜ? そのスカウトがわざわざおまえのために、こんな遠い所まで足を運んでくれたんだ。何で、もっと素直に喜べないんだよ?」

 クリスターは視線を落とし、膝の上で手を組んだり解いたりしながら、一呼吸置いた。

「僕は、ちゃんと分かっている。分かっていないのはおまえの方だよ、レイフ」

「はん?」

「スカウトなんて、今更、僕にはもう必要ないものなんだ。それを、あんなふうに周りが勝手に盛り上がったら、困惑して当たり前だろ」

 努めて淡々と語りながらも、クリスターはなかなかレイフと目を合わせることができなかった。

 レイフは一瞬言葉を失ったようだ。しかし―。

「嘘だっ」

 すぐに、噛み付くように言い返してきた。

「クリスターだって、自分がちゃんとカレッジでもやっていける実力があるって評価を受けて、嬉しくないはずがない。いいから、正直に認めちまえよ。オレに遠慮することなんかねぇんだ」

「レイフ…!」

 堪りかねたかのように、クリスターは手を上げてレイフの言葉を遮ろうとしたが、彼は黙らなかった。

「これは、おまえがこれまで積み重ねてきた努力の成果なんだよ、クリスター。ちゃんと実力で勝ち取ったものなんだから、後ろめたく思う必要なんて、これっぽっちもない。それにオレも、おまえが認められて心から嬉しい…オレの兄貴はやっぱりすげぇんだって誇りに思ってる」

 クリスターは途方に暮れたような顔を上げて、尚も熱心に訴えかけているレイフを見た。

「おまえは、本当に…僕にチャンスを奪われて悔しいと思ったり、腹が立ったり、焦ったりしないのか…?」

 苦しげに掠れた声で問いかけるクリスターに、レイフは少し戸惑ったようだ。

「え…? そんな訳ないだろ、自分にチャンスが回ってこなかったからって兄貴を恨むなんて、全く筋違いじゃねぇか。大体ポジションだって違うのにさ。他のガッコのランニング・バックなら、ライバルとしてはよほど気になるし、スカウトが殺到しているらしいなんて噂を聞いたら落ち着かないけど―でも、クリスターのことは、そんなどろどろした感情抜きで、素直に祝福できる。うん、今ちょっと思ったけど、おまえが早いうちにQBにポジション替えしてくれてよかったよ。おまえと争いあうなんて、オレにゃ、絶対無理だもん」

 レイフが何気なく口にした台詞に、クリスターの怒りの堰が切れた。

「レイフ…!」

 次の瞬間、クリスターはソファから立ち上がりざま、レイフの顎の辺りを拳で殴りつけた。

 中途半端な一撃だったが、ボクシングの練習で研ぎ澄まされたクリスターのパンチをまともに受けたレイフは、ひとたまりもなく、ソファごと後ろにひっくり返った。

 何が起こったのか、レイフは一瞬理解できなかったようだ。床にはいつくばったまま、呆然としている。

「いっ…てぇっ…な、何するんだよ、クリスター?」

 レイフは痛みに顔をしかめて起き上がり、口元に手を持っていく。唇が少し切れたのだろう、滲んだ血を手の甲でぬぐって、自分の前に立ち尽くしている兄を恐る恐る見上げた。

「どうして―どうして分からないんだ、レイフ…? 一体、いつになったら、おまえの目は覚める?」

 琥珀色の双眸を火のように爛々と燃やし、胸の前で拳を震わせながら、クリスターは喘ぐように訴えかけた。

「レイフ、おまえは―カレッジでもフットボール続けて、その次はプロを目指すつもりなんだろう? それが、おまえの子供の頃からの夢だったんだろう? その夢にようやく現実味が出てきた今、本気で叶えたいと思うなら、そんな甘ったれた考えは捨てろ! 大学の名門チームなら、それこそ全国から選りすぐりの選手が集まる。その中から頭角を現すには、並の能力では不可能だ。これまでみたいに手を抜くことなんて許されない、ライバル達より一歩でも先に出るために、相当の努力が必要になるんだ。ましてや将来プロを目指すつもりなら、尚のことだ。相手が誰でも負けるものか、自分こそがナンバーワンなんだ―おまえ自身がそう信じられずに、夢など叶えられるものか! 僕と同じポジションを争う羽目にならずにすんでよかっただって? 違うだろ、たとえ相手が僕でもチャンスを掴むためなら蹴落とすんだ、僕を乗り越えてその先を行け、たとえ1人でも―おまえが目指す頂上にいつか立つために…」

 そうクリスターが熱を込めてかき口説くのを、レイフは床に座り込んだまま呆気に取られて眺めていた。

「クリスター…」

 ふいに喉もとを震わせたレイフは、掠れた声で兄に呼びかけるが、途中で唇を噛み締めた。

 胸の中にはたくさんの言葉が詰まっているのにそれをうまく伝えれられないのがもどかしいというかのごとく、口を開きかけては閉じ、感情の昂ぶりにあわせて微妙に色を変えていく目を見開く。

「違う…そうじゃないんだよ、クリスター…」

 レイフが苛々と激しく頭を左右に振るのを、クリスターはきつい目で睨みつけていた。

「何が違うと言うんだ? ただ漠然と夢を見ているだけじゃなく、それを叶えるためには、何をどうしなければならないか、おまえは自分の頭で考えなくてはならない。当たり前のことじゃないか。もう子供じゃないんだぞ、僕に頼らず、おまえは自分の意思で将来どうするか決めるべきなんだ」

 頭ごなしに否定されたレイフの頬に、さっと朱の色が上った。

「オレの意思だって? そんなことを言うおまえが、オレの気持ちをちゃんと確認してから物事を決めたことなんて、これまでにいっぺんだって、あったのかよ!」

 感情を爆発させると同時に床から飛び起きたレイフは、自分を威嚇するように睨みすえている兄に激しく詰め寄った。

「いつだって、おまえは、それがオレのためだからって、何でも勝手に決めてやってきたんじゃないかっ! 大事なことでもオレには黙って、自分1人で背負い込んで―今もまた勝手にオレの将来を決めようとしている」

「馬鹿なことを言うな! 確かにジェームズとの確執を長い間おまえに黙っていたことはすまなかったけれど、それとこれとは別問題だ。僕はただ―おまえにはちゃんと子供の頃から追ってきた夢を叶えてもらいたいだけだ。僕の陰に隠れてしまうことなく、おまえの本当の力を十二分に発揮して、大好きなフットボールを続けて欲しい…僕にはとても望めないような栄冠をいつか手にして欲しい―」

「だから何で、オレとおまえが離れることを前提にして、話を進めるんだよっ!」

「駄目なんだ…僕には、おまえほどの能力はない。去年出した成績が、僕の限界なんだ。これ以上やると僕はきっと壊れてしまう…たとえおまえと一緒にカレッジに進んで、プロになろうとしても、僕はきっとおまえの足枷にしかならない。おまえにはまだまだ伸びる余地があるけれど、僕は―」

 プライドの高いクリスターにとって、こんなことをレイフの前で認めるのは耐えがたかった。

 レイフを納得させるためならと血を吐くような思いで告白したのだが、とにかく兄の気持ちを変えたい一心のレイフには伝わらなかったようだ。

「そんなのやってみなきゃ分からないじゃないかっ。大体、自己評価が低い割にオレのことは買いかぶりすぎるなんて、おまえ、変だよ。それに、全く現実を見てない。さっきのスカウトもフランクス・コーチだって、おまえの実力を認めているっていうのに―」

「彼らの判断が常に正しいとは限らないよ。少なくとも僕には納得できない―おまえが正当に評価されないなんて…そうだ、フランクス・コーチを一度問いただしてみるよ」

「いい加減にしてくれよっ!」

 レイフは悲鳴のような声をあげ、クリスターの肩を掴んで揺さぶった。

「おまえの方こそ、いつもの冷静な判断なんか吹っ飛んでるぞ、クリスター。自分が俺を差し置いてチャンスを掴んだのが許せないから、フランクス・コーチに文句を言うだって? そんなの全く理屈にあわねぇじゃんか」

「レイフ…」

「オレの成績が高校1年目をピークに後はがたっと落ちて、今でも伸び悩んでいるのは全てオレの責任だ。他の誰のせいでもない。まして、おまえがオレの邪魔をしているなんて、おかしなことを言わないでくれ…もしも本気でそう考えているのなら、おまえはオレを馬鹿にしている…!」

 一瞬心底憎らしそうにクリスターを睨みつけたかと思うと、レイフはすぐに表情を和らげ、深い溜息をついた。

「小さな頃から身体能力に関してだけは少し勝っていたはずのオレが、何でいざとなると、いつもクリスターより劣るのか…オレだって、考えないでもないよ。もしかしたら、さっきおまえが言ったような、相手が誰でも蹴落として一番になろうとする気概がオレにはないのかもしれない―心の強さって奴が足りないのかもしれない。確かに、おまえほどの精神力がオレにあればとは思うけれど―」

 レイフは我ながら不甲斐なさそうに唇をきゅっと噛み締めた。

「それは、たぶん―おまえが僕の背中をいつも見続けて、それを後から追いかけることに慣れてしまっていたからだよ」

 どこか疲れたようにクリスターがぽつりと漏らすのに、レイフは不思議そうに顔を上げた。

「おまえにとって二番目というのはさぞかし楽で、安心できる位置なんだろうね、レイフ。僕を追いかけていれば間違いないと素直に信じてついてきて、それで今まで、そこそこうまくやってこられた。でも、おまえを高い場所に連れて行くために常に能力以上のものを出さなければならなかった僕は―いつものしかかってくる責任とプレッシャーに押しつぶされそうだった。それでも僕に、プロという遥かな頂上にまでおまえを引き上げてやるだけの力が本当にあれば、僕は最後までずっと先頭に立っておまえを導いてやったと思うよ。でも、現実には、そうじゃない」

 クリスターは肩を掴むレイフの手を引きはがした。

「だから、僕は、フットボールをやめる」

「ク、クリスター!」

 慄いたように目を見開くレイフを見るのは辛かったが、心を鬼にして、クリスターは決然と言い渡した。

「今の自分よりもっと強くなりたいなら、僕の背中ばかりを追っていては駄目だ。これからは夢を追うことに伴う責任は自分で負い、自分の力で道を切り開いていけ」

「待ってくれよ…そ、それなら、オレだって、もっと努力するから―今までクリスターにばかり負担をかけてたなら、謝るよ。これからは自分の面倒は自分で見れるようにする、兄貴にいちいち頼ったり、甘えたりしない。何だか当たり前すぎるけど、自主トレーニングだって1人でちゃんとやるし、面倒くさいからってミーティング勝手にさぼったりしない―とにかく、今季は死ぬ気でやって去年以上の成績出すから―」

 捨てられまいとしている子供のように、目を潤ませ鼻の頭を真っ赤にして、レイフは、たどたどしい口調で必死に訴えている。

 それをしばし見守ったクリスターは、苦笑しながら、身を引こうとした。

「それはいいことだな。おまえが本当の本気になれば、僕の助けなんかなくったって、どこのカレッジ・チームに入っても立派にやっていけるよ。スカウトの目にだって、きっととまる」

「おい、オレの話をちゃんと聞けよっ」

「何が話なものか、駄々をこねているだけだろ」

 かっとなったレイフは、手を伸ばしてクリスターを捕まえようとしたが、クリスターは素早くそれをかわした。

「よせよ、レイフ」

 途端にレイフの目の色が変わる。その射すくめるような強い眼差しに、クリスターははっと息を飲んだ。

「クリスター!」

 レイフの手がまたクリスターを求めて伸ばされる。クリスターはすかさず払いのける。

 クリスターの足がさり気なく後ろに引かれる。すぐにレイフの足が追ってくる―。

 ついに壁際にまで追い詰められたクリスターは、こんなふうにレイフに迫られて、つい理性のたがが外れそうになった、いつかの夜のことを思い出した。

 とっさに、クリスターは弟から顔を背けた。緊張感に身がすくむ。

 己を捕まえようと肉迫するレイフが、くすんと鼻を鳴らすのを聞くまでは。

「レイフ…?」

 クリスターは背中にあたる壁を感じながら、恐る恐る振り返った。

「駄目だ、クリスター、オレを置いていかないでくれよ…おまえなしで1人で生きていくなんて…オレには、できねぇ…」

 心細げに肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔をして、自分の目を捉えようと必死に追っている弟の目をクリスターは見返した。

 一瞬、2人の視線は重なり、絡まりあって、言葉以上に雄弁に互いを希求する心を伝えようとする。

 クリスターの唇が震えた。

(おまえなしで1人で生きていくなんて、僕にも、できない…)

 喉の奥から熱い叫びが迸りそうなる。

 しかし、それをかろうじて飲み込むと、クリスターはレイフを力づくで押しのけて、よろめくようにリビングから出て行った。

「オレは、兄さんと一緒じゃなきゃ嫌なんだ!」

 途方に暮れたレイフの発する声が、その背中に叩きつけられる。

 クリスターは一瞬立ち止まったものの、弟のもとに戻りたがる足を叱咤し、何も言わず、そのまま逃げるように家を後にした。


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