ある双子兄弟の異常な日常
第三部 第5章 深淵に潜むもの
SCENE8
「すみません、ドクター、手伝います」
「ああ」
火にかけたポットを眺めながら思案に暮れていたらしいワインスタインは、クリスターを見て少し困ったような顔をしたが、彼がキッチンに入ってくるのを拒みはしなかった。
戸棚の中からコーヒー豆を取り出して再びコンロの所に戻る、ワインスタインが不自由な側の脚を少し引きずるようにして歩くのを横目で眺めやり、クリスターは言った。
「…その脚は、例の車の事故で傷めたんですね」
ワインスタインは胡散臭そうな目つきでクリスターを振り返る。
「ジェームズは、あなたはその事故で亡くなったものと思っているようでした…」
ワインスタインはクリスターに背を向けると、感情を抑えた声で淡々と言った。
「そうか…確かに一時は生死の境をさまよったからね。誰かが勘違いをして、私は死んだものとジェームズに伝えたのだろう…どのみち私とブラック家との縁は切れていた。催眠療法の結果があんな騒動となって以来ジェームズの両親との折り合いもよくなかったからね…キャメロンは何度か見舞いに来てくれたが…」
ワインスタインの説明はどこかぎこちなかったが、クリスターは追求しないことにした。
(ジェームズに嘘の知らせを伝えたのは…大方キャメロンあたりか)
ワインスタインはジェームズの心の深淵に誰よりも深く分け入った人間だ。その人間が、ブラック家を去って間もなく、事故に遭い、命をなくしかけた。キャメロンは、クリスターが今抱いているのと同じ疑惑を密かに覚えて、あえてジェームズに嘘をついたのかもしれない。
(考えが飛躍しすぎかな。コリン達の事故の記憶が生々しいせいか、つい深読みしてしまう。しかし、もしも―ワインスタインが、ジェームズに関する、何か知ってはならない事実を掴んでいたとしたら、口封じの対象となったということもあり得るか…)
胸にわだかまる疑念がゆっくりと形を取り始めるにつれ、クリスターは妙な焦燥感に駆られて、また口を開いた。
「ドクター、1つ、伺ってもいいですか?」
人数分のカップをテーブルの上に置くと、クリスターはワインスタインに向き直った。
「あなたはジェームズに催眠療法を施して、一度は彼の記憶を蘇らせた人だ。ジェームズ自身が恐怖のあまり再び封じ込んでしまった記憶とは何なのか、あなたは承知しているのではないですか?」
クリスターがその点を追求してくることは予想していたのか、ワインスタインは動揺こそしなかったが、後ろめたそうに視線を逸らした。
「そう容易く他人に漏らせるような話じゃない」
「生憎、ジェームズにとって、僕は他人じゃないんです。唯一無二の半身だったメアリの身代わりになることを望むくらいですからね。彼は一体―」
クリスターは一瞬言葉を途切れさせた。自らが口に上らせようとしていることに気付き、愕然となった。
(そうだ、ジェームズにとって、唯一愛した妹が池に落ちて死んでいるのを見つけたことは、確かにショックだったろう。しかし、メアリの死自体を受け入れられなかった訳じゃない―そのことはちゃんと認識できていた。ジェームズが自分に暗示をかけてまで忘れようとした、それがきっかけとなって彼を本物の怪物に変えてしまったほどの忌まわしい記憶とは、つまり―メアリが何故、どうやって死んだのかという、ジェームズだけが知っている真実そのものではないのか…?)
思い至った、ある恐ろしい可能性にクリスターは一瞬息を止めた。
(まさか…いや、まさか、そんなこと―)
いつの間にか口の中がからからに乾いていることを意識しながら、クリスターは掠れた声で囁いた。
「ジェームズはあの日…自分の妹に一体何をしたんです?」
ワインスタインのコーヒー・ポットを持つ手が震えた。
「そんなことを君が知る必要があるのかね? 私が君に話す必要があるのかね?」
怒ったように吐き捨てて、ワインスタインはカップに湯気をたてるコーヒーを注ぐ。
「僕がジェームズに関する全てを知らなければならない理由は説明したはずです。それが彼の弱みとなりうる情報ならば、尚更です。僕はレイフを守りたい。ジェームズが、自分の片割れとして僕を本気で欲しがっているのなら、弟は当然邪魔な存在のはずですからね」
言った後で、クリスターは思わず身震いしそうになった。
(冗談じゃない!)
クリスターはのしかかってくる恐れを払いのけるかのごとく頭を振りたてると、息を殺して自分の様子を窺っているワインスタインを凄みのある目で睨みすえた。
「もう二度とレイフに手出しできないよう、ジェームズ・ブラックを葬り去るためなら、僕はどんなことでもする覚悟なんですよ、ドクター」
クリスターの低められた声に今までとは違う危険なトーンが加わったことにワインスタインははっと身を固くし、慄いたように一歩退いた。
それへ、クリスターは一歩一歩ゆっくりと近づいていく。
両手はいつでも素早く使えるよう体の脇に垂らし、獲物を追い詰めていく猫さながら足音もさせず。
「くそっ、君らを家に入れるのではなかったな」
ついに降参したワインスタインが、忌々しげに吐き捨てた。
クリスターはすぐに足を止めた。
「そうかもしれませんね」
にこりと笑って何事もなかったかのようにコーヒーのカップを1つ取り上げるクリスターを恐ろしげに見守り、ワインスタインはついに重い口を開いた。
「実を言うとね、メアリの死の少し前から、彼女とジェームズの関係はかなり悪化していたんだ」
クリスターはコーヒーを口に運ぶ手をとめ、ワインスタインをちらりと見やった。
「その頃、メアリには親しくしているボーイフレンドがいたんだ。子供らしい可愛い初恋だったわけだね。でも、ジェームズには気に入らなかった。そんな折、屋敷で子供達を大勢招いたパーティーがあったんだ。メアリのボーイフレンドももちろん出席していたが、その席で、その子は大怪我をしてしまった」
「何があったんです?」
「ブラック家で飼われていた大きなグレイトデンに襲われたんだ。その犬はよく訓練されていたので、どうしていきなり子供を襲ったのか、誰にも分からなかった」
「ジェームズがけしかけたんですか?」
「証拠はないよ。でも、メアリはそう思ったようだね。嫉妬に駆られたジェームズが、自分のボーイフレンドを殺そうとしたんだとね。実際、その子の怪我は運が悪ければ死んでいたような大層なもので、しばらく入院を要したし、体にも大きな傷が残った。当然親は激怒し、散々もめた末にブラック家が慰謝料を払うことで和解したが、その子とメアリの友情は引き裂かれてしまった」
この顛末にクリスターはなぜか心を乱され、居たたまれなくなったように目を閉じた。
(ここはジェームズの異常さに眉を潜めるところのはずなのに、どうして、こんなにも切なく痛ましい気分になるのだろう…?)
片割れの心が自分以外に人間に寄せられていくのを目の当たりにし、何としても阻止しようとしたジェームズ。それに似た苦しさならば、クリスターにもおそらく馴染みがある。
「メアリの死は、その一件が解決して数週間後のことだった」
ワインスタインの言葉に、クリスターは我に返った。
「実は…ブラック夫人は最初からジェームズを疑っていた。私は初め、彼女のたわ言など信じてはいなかったんだが―しぶしぶ行なった催眠療法の結果、信じがたい事実が明らかになったんだ」
あの日、メアリはジェームズと例の池の傍で言い争っていた。
怪我をさせられた友達のことで、彼女は心底実の兄を恐れ、反発するようになっていた。
これ以上自分を縛らないで欲しいと泣きながら訴える妹にジェームズは途方に暮れ、次第に絶望感をつのらせていった。
唯一の理解者、もう1人の自分である相棒に拒否されただけでなく、もはや彼女が以前と同じではなくなっていることを悟ったからだ。
幼い子供から少女に成長しつつあったメアリはもうジェームズにあまり似ていなくなっていた。心も遠くなっていた。彼女はジェームズの分身であることをやめて独立した人格を獲得しつつあったのだ。
メアリの容赦のない非難の言葉を浴びせかけられているうちに、ジェームズはかっとなって妹に襲い掛かった。後ろには、池があった。
「池に落とされたメアリは兄に助けを求め、何度も這い上がろうとした…しかし、ジェームズは許さなかった。抵抗する妹の頭を押さえて水の中に沈めたんだ…彼女の力がつき、もはやその体が動かなくなるまで、ジェームズは泣き叫びながら、そうした」
どうして、こんなことをするの、兄さん…? どうして、どうして…?
「催眠状態のジェームズは、呆然と彼の告白を見守る私の前で、涙に掠れ震える声で何度も何度もそう叫んでいたよ」
かつて妹との2人だけの遊びの中でそうしたように、メアリの口ぶりを真似て、彼女の恐怖を絶望を自分のものとして味わいながら―。
「そう、ジェームズは、もはや自分のものではなくなった半身をその手で葬り去ったんだ」
沈痛な面持ちのまま語り終えると、ワインスタインは深い溜息をついた。
長年胸の奥にしまいこんでいた暗く重過ぎる秘密をついに誰かに打ち明けることができたという安堵も少し混じっていたかもしれない。
やがて彼は、自分の前で石と化したかのように立ち尽くしているクリスターに気がついた。
「どうした、また調子が悪くなったのかい?」
ワインスタインの心配そうな声を聞かなくとも、自分が今ひどい顔色をしていることはクリスターにも察しがついた。
クリスターは自分のものとは思えないほど重い手をのろのろと上げ、額を覆った。冷たい汗が噴き出している。
「大丈夫です…ただ、ちょっと―色々想像してしまって…」
気持ちを静めようと固く目を瞑り、深呼吸をするが、胸を圧迫されるような苦しさは収まる気配がない。
瞼の裏には、あの池の畔に放心したように佇んでいたジェームズの姿がまざまざと映し出されていた。
(メアリはね、この池で溺れて死んだんだ)
その姿がかき消えたかと思うと、今度は、少年の姿になったジェームズが双子の妹を泣きながら池に沈めようとしている場面が、まるで見たことがあるかのように鮮やかに浮かび上がる。
変わってしまった相棒。昔のように心の通じ合わなくなった半身。彼女はジェームズを捨てて、手の届かないどこか遠くへ行ってしまうのだ。
(愛している、でも、僕のものでないおまえなら、いらない。僕ではない他の誰かとおまえが一緒に生きていくのを見ることには、とても耐えられないから―)
ジェームズが決して語らなかった言葉が、異様な生々しさを持って、クリスターに頭の中に流れ込んでくる。
クリスターは強烈な寒気に駆られてがたがたと震えだした。もはや抑えることはできなかった。
(そう、殺したんだ、おまえは…自分と同じ唯一のもの、同じ血、骨、肉を―おまえ自身をその手で殺した!)
体が鉛の塊にでも化してしまったかのようにひどく重い。膝から力が抜け、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
(生身の彼女が僕の傍にいないことは今でもやっぱり寂しいけれど、同時に安心もできるんだ。死んでしまったおかげで、僕は彼女が変わっていくのをあれ以上見ずにすんだわけだし、それに、メアリはもう僕以外の誰のものにも永遠にならないわけだからね)
クリスターに死んでしまった双子の片割れのことを懐かしげに打ち明けたジェームズは、彼の共感を引き出せることを確信していた。
共感どころか激しい反発を抱いたクリスターだが、実際のところ、それは同族嫌悪に他ならない。
(そうだ、許されない恋に身を焼くくらいなら、いっそ君も僕に倣ってみたらどうだい、クリスター? きっと、楽に、なれるよ)
クリスターも、いつか同じ状況に立たされれば、自分と同じ相棒殺しになるかもしれない―からかい口調でジェームズが仄めかしていたのは、つまり、そういうことなのだ。
(どうして、こんなことをするの、兄さん?)
冷たい水の中で苦しげにもがいている女の子がいる。
助けを求めて伸ばされる、その手を振り払い、空気を求めて浮かび上がろうとする、その頭を何度も執拗に押さえつけている、あれは―誰?
歪んだ鏡に映るもう1人の自分。もしかしたら、いつかああなるかもしれないクリスター自身―。
あり得ない話だと分かっているつもりなのに退けることができない。圧倒的な恐怖がクリスターの全身をひしがせていた。
(どうして、こんなことをするんだよ、クリスター?)
いまや、水の中で溺れかけている者のイメージは、レイフだった。
クリスターは、自分の手がもがく弟を執拗に水の中に沈めようとしているのに気付いて、声にならない悲鳴をあげた。
(あ…あぁっ…)
頭ががんがんと痛む。世界がゆっくりと回転し始める。
まともに立っていることすらできなくなってきて、クリスターは後ろに大きくよろめいた。
その時、転倒しかけたクリスターの背中を誰かがぶつかるように支え、左右にぐらぐら揺れている肩をしっかりした手が支えた。
「兄貴!」
耳元で聞きなれた大声に呼ばれ、クリスターははっと目を見開く。
自分の体を支えていた腕に、クリスターはそれこそ溺れていた人がするようにすがりついていた。
「ど、どうしたんだよ、クリスター?」
クリスターはゆっくりと目を上げて、レイフの心配そうな顔を認めた。それから頭を巡らせて、ワインスタインがやはり喫驚した、しかし同時に医者らしい冷静さで自分を観察していることに気付き、唇を噛み締めた。
「あんた、一体クリスターに何をしたんだよっ?!」
兄がこれほどショックを受ける理由がさっぱり分からず、つい矛先をワインスタインに向けるレイフの手を、クリスターはなだめるように叩いた。
「ドクターのせいじゃないよ、レイフ。彼はただ、僕の求めに応じて、ジェームズの秘密を教えてくれただけなんだから」
「あいつ、妹を…殺したって…?」
クリスターはついレイフの腕を強く掴んでしまった。
「聞いてたのか…」
「うん…うっかり居眠りしてたのに気付いて、慌ててキッチンの方に行ってみたら、何か、兄貴達が深刻そうに話しているから入りづらくなって…タイミングを窺っているうちにクリスターの様子がおかしいことに気付いて、とっさに飛び込んできたんだよ」
「そうか…」
クリスターは溜息をついた。
「おい、しっかりしろよ、クリスター…ったく、何でおまえがここまでショックを受けるんだよ。そりや、オレも、いきなり妹殺しなんて聞いて、えっ、マジかよってびっくりしたけれど…」
レイフの声を聞いているとクリスターを捕らえていた束の間のパニック状態は収まり、あの生々しいジェームズの声も潮が引くように遠ざかっていった。
それでも、ジェームズの感情をしばし共有してしまったことで、クリスターは精神的にひどく消耗していた。
「…君のお兄さんはおそらく、ジェームズ・ブラックに対し、ある意味感情移入しすぎたんだよ」
ワインスタインが口を挟むのに、レイフはうろんそうな目を向ける。
「犯罪者の心理を分析する捜査官や心理学者には、そういうケースが時々出るらしい。相手の心の深淵を覗き込んでそこにあるものを理解するため、自らを相手の心理に同化させる。謎の解明のために必要なプロセスだが、それが高じて、分析する相手との間に一種の共感状態が生じてしまうんだ。分析する側が主導権を握っている限り弊害は少なかろうが、万が一にも相手の方が強かった場合、心を取り込まれ、支配されることにもなりかねない。察するに、そういうことなんだろうね、クリスター君?」
先程脅された意趣返しだろうかと、したり顔のワインスタインをクリスターは軽く睨みつけた。
「クリスター、気分が悪いなら、向こうの部屋のソファで休ませてもらえよ」
レイフがクリスターの手を励ますようにぐっと握り締める。
「いや、もう大丈夫だ」
クリスターがきまり悪くなりながら身を引くと、レイフはまだ納得できないように手を伸ばして彼の腕に触れ、寄り添ってきた。
「クリスター君」
ワインスタインの眼差しが興味深そうに自分達に当てられていたことに気付き、クリスターは少し不愉快な気分になった。
「ひとつ聞いていいかな…君とその弟君は、いつも、そんなふうに一緒に行動しているのかい?」
「片時も離れずに一緒ということはないですよ。この年になって、そんなの無理でしょう」
「子供の頃、君達のご両親は君達に同じ服を着せたのかな? 友達と遊ぶよりも、兄弟2人でいる方が好ましかったんじゃないかい?」
クリスターは眉根を寄せて、何か言いかけるレイフを後ろに隠すようにワインスタインの前に立った。
「ドクター、そんなことは、あなたには関係ない話でしょう?」
「君が一方的に私に質問を投げかけるばかりではフェアじゃない。それに、君はそもそも何故ジェームズが自分に執着するのか、一体自分をどうするつもりか、知りたいんだろう? 私にも少しはヒントをくれないと答えようがないよ」
クリスターは言葉に詰まって、黙り込んだ。
「クリスター君、君は今まで、弟のガールフレンドや彼が特別親しくしている友達に対して嫉妬を覚えたことはあるのかい?」
即座にアリスのとの一件が思い出され、クリスターはワインスタインの追求から思わず顔を背けたくなった。
背後にいるレイフをひどく意識してしまう。答えることをためらっていると、後ろから、あっけらかんとした声が代わりにその質問に答えた。
「やきもちなら、オレは、しょっちゅう焼いてるよ。クリスターがつきあってきたガールフレンドや恋人…オレよりもそっちの方を優先されると、仕方ないとは思ってもちょっと寂しいよ。そんなの当たり前じゃん」
クリスターがじっと耳を傾けているとレイフの腕が無遠慮に伸びてきて再び彼を抱き寄せた。
「でもさ、クリスターの一番の相棒はやっぱりオレだって思ってるから。こいつの隣の場所は誰にも渡さないよ」
ふざけるようにクリスターの肩に顎を乗せたまま、レイフは明るい口調で言って、ぎゅうっと抱きしめる腕に力をこめた。
「ふむ…」
自分よりも大きな双子が目の前でじゃれあっている光景に、ワインスタインは微妙に目を泳がせながら、指先で頬の辺りを引っかいた。
「レイフ、分かったから、もう、離せよ…!」
「やだ」
恥ずかしさのあまり本気で怒ったクリスターが足を踏みつけると、レイフはぎゃっと叫んでやっと彼を解放してくれた。
「ドクター?」
片足で跳ね回りながら痛い痛いと大げさに騒ぎ立てるレイフは放っておいて、クリスターが恐る恐る呼びかけると、ワインスタインはコーヒーをゆっくりすすりながら何事か考え込んでいた。
「メアリという唯一無二の半身を自ら殺してしまったジェームズ…彼女と同じものなど二度と手に入らないと諦めていたはずだ。その彼が、今、君を選んだ…ジェームズと同じように双子の相棒がいて、その絆はとても強い。クリスター君、ジェームズは確かに君をメアリの身代わりにと言ったのだね…?」
「は、はい…正確には、メアリが欠け落ちた部分にぴたりとあてはまってくれる者と―」
「ジェームズは君に、かつてメアリの上に投影したような、自分の似姿を発見したのかもしれないな…。あるいは、永遠に失ってしまったはずの己が影、復活した半身を君の中に見たということか…?」
ワインスタインはまたしばし黙り込んで、思案に没頭した。
「だが、それだけでは腑に落ちないな。メアリがジェームズにとって特別な存在だったのは、彼女との間にのみ、ジェームズは感情の共有ができたからだ。私はジェームズとは随分長い間会っていないから、この推論がどこまで正しいか分からないが―ジェームズが他人である君にそこまで本当に執心しているとすれば、ジェームズは君とならメアリの間に成立したような何らかの心の交感ができると思っているのかもしれない…」
「心の…交感…?」
背筋に薄っすらと寒いものを覚えて、クリスターはまた少しレイフの温かい手が欲しくなった。
「その点については、君の方こそ心辺りがあるんじゃないか? 先程の君の動揺ぶりを見る限り、ジェームズの感情を君は共有することができるようだ。彼の閉ざされた心に深く食い入り、孤立した感情に直に触れることができる、君だから―ジェームズはかくも強く欲するんじゃないのかね」
「僕はジェームズに共感を覚えたことなど一度もありませんよ」
クリスターは言葉では頑として否定したが、ジェームズの過去を聞いてあんなふうに取り乱してしまった後では、そのことに自信が持てなかった。
ワインスタインはふっと苦笑した。
「ともあれ、私が君から聞いた話から察するに…君は、やはりジェームズにとって特別な存在となってしまっている。君とジェームズの間で持たれた闘いも、彼の思い込みを助長してしまったんじゃないかな…? 君とジェームズは、お互いの心に深く分け入り分析することで勝ちを取ろうとした―これもある種の心の交感と言えないことはない。そして何より、ジェームズにとって、君が現れたことによって、妹の喪失以来すっかり色あせてしまった世界が急に生き生きと輝きだしたように感じられるようになった。純粋に楽しかったし、嬉しかったんだ…彼の心を理解し、対等に渡り合える者…君は確かにジェームズが切望した理想の相棒なんだろうな」
つい怖気を振るいそうになっていたクリスターの傍らに、いつの間にかまたレイフがぴたりと寄り添っていた。
(しっかりしろよ、クリスター、オレなら、ここにいるからさ)
(うん…)
ほんの一瞬交し合った眼差しだけで気持ちが通じ合う心地よさに、クリスターの肩の力がすとんと抜け落ちる。
(違う…ジェームズと僕の間に、こんな温かな心の交流はない―何が理想の相棒なものか、あいつは単に僕を玩具にして壊したいだけなんだ)
クリスターが微笑むとレイフは分かっているというように頼もしく頷き返してくれた。
そのままレイフは、ワインスタインの方に目を向けた。彼の語ったぞっとするような説を、レイフならすぐさまむきになって否定しかかるかと思ったが、その横顔は厳しく引き締まっていたものの、いつになく冷静だった。
「まあ、私の推測はそんなところだよ。当っている部分もあるかもしれないし、間違いもあるだろう…多少なりとも君が答えを導き出す一助になれはいいがね」
簡単に締めくくるワインスタインに、レイフは目をきらりを光らせ、すぐさま食らいついた。
「待てよ、まだ、教えてもらってないことがあるぜ」
ワインスタインは虚を突かれたようだ。
「あいつは、要するに、クリスターをどうするつもりかってことだよ…相棒にって望んでいるのなら傷つけるつもりはないのか…? 妹相手にしてたみたいに、仲良くしたいって? でも、実際、あいつのやっていることは、クリスターを苦しめ、傷つけることばかりだ。一体何がやりたいんだよ、あいつは?」
「うむ…」
ワインスタインはレイフの素直な疑問に眉を潜め、ポケットからタバコを取り出すとそれに火をつけた。
「ジェームズが君をどうしたいのか…君から何を手に入れれば、彼は満足できるのか…それこそ、私などより、彼の心の深淵を覗き込んだ、クリスター君、君の方が答えを容易に導き出せそうだがね?」
「おい、肝心な所で、逃げるなよ」
「逃げているんじゃない…私にも本当に分からないんだ…いや、待てよ…ジェームズは自分にないものを欲しがっている―メアリが死んでからずっと、その大切なものが欠けたままで生きてきた…彼は、ひょっとしたら…」
ワインスタインはタバコをふかすのをふいにやめた。
「ひょっとしたら?」
ワインスタインは自分の頭に閃いた考えに唖然としたようだった。その顔をゆっくりと、固唾を呑んで見守っている双子兄弟に向けた。
「ジェームズ・ブラックは、君の感情を喰らいたがっている」
レイフが怪訝そうに顔を歪めた。
「何だ、そりゃ?」
「今ちょっとおかしな連想をしてしまったんだが、獏という中国の伝説上の生き物がいてね、夢を喰うと言われているんだ。よい獏は悪夢を喰って人を助けてくれるが、悪い獏は人の精神そのものを喰らってしまう。よって、人間の精神崩壊は、人知を超えた何か邪悪なるものの仕業だという訳だ」
早口になって説明した後、ワインスタインははたとなって、苦笑いしながら頭を振った。
「発想が飛躍過ぎたな…人の精神を喰らう怪物か―」
「なぜ、そんなことを思いついたんです、ドクター?」
黙っていられなくなって、クリスターが尋ねた。
「ジェームズの胸を占める、もっとも大きな衝動は何だと思うかね、クリスター君?」
クリスターは自分の心臓が石となった気がした。答えずにいると、ワイスタインは言った。
「飢えだよ」
石の心臓ががちがちとぎこちなく動いて鼓動を打つのを感じながら、クリスターはワインスタインの指が新しいタバコを取り出して火をつけるのをぼんやりと見ていた。
「ジェームズはきっと自分の中に、ぽっかりと空いた巨大な空虚を感じているのだろう。メアリを亡くした直後、彼は、これでやっと自分は解放された超然として笑っていたが、彼の得た自由とはすなわち孤独の裏返しだ―不幸なジェームズは自覚することすらできないが、それは我々には想像もつかないほどの圧倒的な空しさに違いない。外界から感情を切り離されているがゆえに自分の状態を正しく認識できず、しかし、何かを強烈に求めずにはいられない衝動のみが肥大している。空っぽな胸を再び豊かな感情で満たしたい…心の共鳴版であるメアリが傍にいた時のように…。おそらく、ジェームズが他人の精神を支配し、操り、弄ぶことに異常な関心を示すのも、その辺りに根があるのだろう。そうして、クリスター、君を通じてジェームズは感情を取り戻したがっている…だが、他人の人格に全く配慮しないジェームズであればこそ、君にとっては恐ろしいことになるだろう。それで私はつい、君の心を喰い尽す怪物を想像してしまったんだよ」
クリスターが堪えきれなくなったように微かな喘ぎを漏らすのに、レイフがすかさず、その体を支えるよう、手を添えた。
「クリスター、落ち着けよ、ここにジェームズの奴はいねぇ、おまえに手出しすることなんか、できねぇんだ」
いつもは心の揺れ幅の大きいレイフが今に限って動揺もせず、しっかりした声で自分を励ましているのがクリスターはちょっと不思議だった。
「それに、あいつがいかれた頭で何を夢想していようが、オレがおまえに絶対手出しさせねぇよ。おまえの相棒はオレなんだ、奴の割り込む余地なんかありはしねぇ―そうだろ?」
クリスターの背中をなだめるように叩きながら辛抱強くかき口説いたかと思うと、最後はやけに強い口調になってレイフは兄に言い聞かせた。
「ああ」
クリスターはぐったりと目を閉じて、レイフの言葉にのろのろと頷いた。
自分を捕らえ引き寄せようとする得体の知れない触手の気配をまだ身の回りに感じる。しかし、それ以上、その見えない悪意がクリスターに近づくことはなかった。
そうこうしているうちにクリスターは落ち着き、自分の足で再びちゃんと立つことができるだけの力も戻ってきた。
すると、レイフの前で不様な姿をさらしてしまったことが、急に腹立たしくなってきた。
(何をやっているんだ、僕は―レイフに頼るなんて、どうかしている…。大体、ジェームズの魂胆も僕には何となく分かってはいた…直視するのを避けていただけで―こんなに取り乱すようなことじゃないし、レイフに守ってもらうなんて、論外だ)
思わず舌打ちするとクリスターはうるさげに弟の手を振り払い、ワインスタインに向き直った。
レイフの心配そうな視線を感じたが、これ以上弱い自分を見せるのは我慢ならなかった。
「ドクター、貴重な意見をありがとうございます。確かに僕は、とてつもない怪物に見込まれてしまったのかもしれないですね」
思わず、自嘲のこもった苦い溜息を漏らす。
「ついでにうかがっておきたいのですが、ジェームズ・ブラックを退けるために、僕は一体どうすればいいと思いますか?」
「なかなか難しい質問だな。私が君なら、とにかく逃げて、ジェームズが絶対に突き止められない場所に身を潜めることを考えるだろうね。あるいは、彼の身柄をどこかに物理的に隔離してしまうか」
クリスターの顔に浮かんだ微笑を見て、ワインスタインは肩をすくめた。
「だから、君がジェームズを施設送りにしたのは、無茶なようだが、正しいやり方だったと言えるな。だが、いずれ自由の身になってしまえば、再び君を悩ませることになる」
「だから今度は、僕はもっと徹底的に奴を叩かなくてはならない…二度と再び僕の前に現われることがないよう―」
「あまり、物騒なことを考えてはいけないよ」
クリスターの口ぶりに何かしら危険なものを感じ取ったのか、ワインスタインは素早く釘を刺した。
「まあ、ジェームズを再び何らかの方法で拘束するのは妥当な手段だろうな。もしも君の言うとおり、彼が何らかの犯罪に手を染めているとしたらね。そして、今度はちゃんと精神鑑定をしてもらい、しかるべき施設に強制的に隔離する」
ワインスタインは複雑そうな顔をした。
「ジェームズの精神鑑定か…事情を知らない医者では、騙されてしまいそうだな。かと言って、私も―あの子にとって不利な証言をするのは気が引けるよ」
「ジェームズを怪物とまで言っておいて、まだ庇うのかよ、気が知れねぇや」
「レイフ…」
レイフがなじるのにワインスタインは少し哀しそうな顔になって、視線を伏せた。
「クリスター君」
「はい?」
「君のことだから、おそらく、キャメロンの研究についても調べが及んでいるんだろうね」
「え、ええ…どういう内容のものかは、大方つかめていると思います」
ワインスタインが自分から触れてくるとは思っていなかったので、クリスターは少しばかり虚を突かれた。
「私だけでなくキャメロンにも意見を聞いてみろと言いたいところだが―おそらく彼は私以上に深くジェームズに心を取り込まれているだろうから、君の助けになってはくれまい」
事故で傷めた脚を無意識にさすっているワインスタインを神妙な気分で眺めながら、クリスターは頷く。
「そうでしょうね」
「だが、ジェームズの年齢を考えると―そろそろ彼にもタイムリミットがいつ来てもおかしくはないとは思う…君が彼の手から逃げ切れるかどうかは、結局、時間こそが最大の鍵かもしれないよ」
クリスターははっと目を見開いた。
「私が言えるのはここまでだ。どのみち私は、キャメロンがあの双子相手にどんな研究をしていたのか、ちゃんと教えられていた訳ではないからね」
これで話は終わったとばかりに、ワインスタインがくるりと背中を向けると丁度庭の方から先程レイフが外に出してやった犬が吼えた。
「おお、中に入りたいのか」
ワインスタインはガラス戸を開けて愛犬を入れてやり、尻尾を振りながらまつわりつくその犬の頭を両手で撫でてやった。
場の緊張感が一気に解けていく。
クリスターはテーブルの上からカップを取り上げ、すっかり冷めてしまったコーヒーを一口すすった。顔をしかめて、呟いた。
「随分苦かったんだな、これ…」
先程はコーヒーの味も分からないほど緊張していたのだろうか。
「クリスター…」
レイフの指が今度は少し遠慮がちに手の甲に触れるのに、クリスターは肩で息をついた。
「うん」
一呼吸おいて、クリスターはレイフを振り返った。
「今日はこんな所までおまえをつき合わせてしまって、悪かったね」
「何、水臭いこと、言ってんだよ」
レイフはくしゃっと顔を歪めて笑った。ここに来る前と少しも変わらない、おおらかなレイフの笑顔を眺めていると、自分ばかりが意地を張っているのが随分小さいことのように思われてきた。
「それに」とクリスターは言いよどみ、俯いた。唇を噛み締めた。
レイフは唐突に黙り込んでしまった兄を前に、いつもように焦れることもなく、我慢強くその言葉を待ち受けている。
(たまには、少しくらい素直になってみろ、簡単な一言だろう)
黙っていても気持ちが通じあうことのできる相手。それは、時に恐くもあり、時に自分を甘やかす―都合によって遠ざけてみたり、こんなふうに傍に置いてみたり。
レイフをここに連れてきたのは彼との約束を履行するためだったが、おそらく、ジェームズの心の闇に迫ることで動揺するであろう自分を支えて欲しいと無意識に望んでもいたのだ。
(レイフ、僕は、おまえがいたから、自分を保つことができた)
クリスターが思い切って顔を上げてみると、ひたむきに自分を見ているレイフと目があった。
途端に、何かが吹っ切れたような気がした。
ごく自然に手を伸ばしてレイフの肩に置くと、クリスターは、言葉では言い尽くせないほどの深い感謝を込めて囁いた。
「おまえが傍にいてくれて本当に助かったよ。ありがとう、レイフ」