ある双子兄弟の異常な日常
第三部 第5章 深淵に潜むもの
SCENE7
ワインスタインは、クリスターとレイフを、いつも患者との面接に使っているらしい、落ち着いた雰囲気の応接室に通した。
ソファの上には一匹の大きなレトリバー犬がいて、犬好きのレイフは目を輝かせると親しげに話しかけたり頭を撫でたりしはじめた。
ワインスタインは、この自宅兼仕事場に1人で暮らしている。妻とは数年前に離婚したが、現在大学生の娘は、体の不自由な彼を心配し、時々様子を見に来てくれるという。
まだ動揺が収まらないらしいワインスタインはタバコを一服し、その間に、クリスターは一連の事情をかいつまんで説明した。
常識も分別もある大人からしてみれば眉を潜めたくなるようなジェームズとクリスターの関わりあいを、ワインスタインは余計な感想は交えることなく辛抱強く傾聴していた。しばし考えを巡らせるように黙りこみ、ようやく重い口を開いた。
「それで、一体君は、私から何を聞きたいんだい?」
「ジェームズ・ブラックに関して、あなたが知る全てを」
医者には守秘義務というものがあるから、何でも教えてあげられる訳ではないよといなすワインスタインに、患者が反社会的な行動をするのを阻止するのも医者の義務ではないですかとクリスターは言い返した。
「あなたにとってジェームズは過去に診た患者の1人かもしれませんが、僕にとっては現在身近に迫っている危機なんです。僕だけですむならともかく―弟にまで火の粉が飛んできはしないかと心配です」
犬が外に出たがるのでドアを開いて出してやった後、レイフはソファに戻ってきた。
それを斜めに見ながらクリスターが付け加えると、ワインスタインもようやく決心したようだ。
「私がブラック家の双子兄妹、ジェームズとメアリに初めて会ったのは、彼らが9才の時だ。キャメロンは、大学時代、私の科目選択指導教授の1人でね、卒業後も親交が続いていたんだ―恩師からの依頼ということで、軽い気持ちで引き受けた仕事だった」
「ドクター・キャメロンはあなたが助手につくずっと前からブラック家の主治医になっていたんですよね」
「そう…双子が生まれてすぐくらいからではなかったかな…。彼らの両親が、キャメロンの経歴を調べ上げたうえで、主治医となり双子の健やかな成長を守ってくれと頼み込んだんだ。だが、それは…まあいい…」
口に上らせかけた何かを飲み込むと、ワインスタインは神妙な面持ちでソファに並んで腰掛けているクリスターとレイフを見比べた。
「とりあえずジェームズとメアリの話をしよう…初対面の私には、君とジェームズの共通点と言えば双子だということしかとっさに思いつかないが、話を進めていくうちに、ジェームズがどうして君に目をつけたのか、何らかのヒントが見つかるかもしれないからね」
そう前置きして、ワインスタインは幼い頃の双子兄妹について語りだした。
「初めて彼らを見た時の印象は、ありきたりだが、驚くほどそっくりだなということだったよ。性別は違っても…おとなしく優しい印象のジェームズと溌剌としておはねなメアリは、どちらが兄で妹か一目では分らなかった。特にメアリは、髪型も服も、男の子っぽいものを好んでいるようだったからね。第一印象では、双子のうち優性なのは、物怖じせずによくしゃべるメアリの方かと思った。ジェームズは傍らで妹の話を微笑みながら静かに聞いているだけだったからだ。私はたちまち彼らを好きになったよ…2人とも可愛く、素直で利発な、とてもいい子達だった。互いにくっついていることで安心する、依存しあう双子の典型のようでもあったが、その年頃では、まあそれも不自然ではなかった。だが、二度三度と彼らと面接し、様々なテストを受けさせていくうちに、私の精神科医としての自信は崩れていった」
「どうしてですか?」
「これは予めキャメロンから聞いていたのである程度予想してのだが、彼らの知能は非常に高く―特にジェームズの方は、そのIQも軽く200を越えていた。それに加えて、他人の心の裏側を読んで、自分の思うように操ることも、信じられないほど巧みだった。要するに、嘘や演技で大人を上手に騙してしまうんだ。だから、双子の間で実際に主導権を握っているのがジェームズだということに気がつくのに、しばらく時間がかかった」
やっぱり子供の時から嘘吐きだったんだとレイフがぼそりと感想を漏らすのに、黙っていろと目配せをして、クリスターはワインスタインに注意を戻す。
「つまり、実際にはジェームズが妹のメアリを支配していたと…?」
「そう…メアリが男の子のような格好をしていたのも、むしろジェームズがそう望んでいたからだ」
「彼女は嫌がらなかったんですか?」
「そうなんだよ…彼らは、一心同体だった。生まれた時から傍にいる自分そっくりな相棒と一緒にいることで、完璧な安心感を得られる。ジェームズだけでなくメアリも、それを望んでいた。彼らは時々、自分達だけに分かる奇妙な遊びをしていた…顔を寄せ合ってひそひそと何事かを囁きあっているだけなんだが、どういう意味か初めは分からなかった。だが、気をつけて観察していると、双子はそれぞれ、自分ではなく相棒の口調を真似て、相棒に成り代わって、会話を楽しんでいたんだ。つまりジェームズがメアリを演じる、妹は兄に変身する―だが、その会話には不思議と整合性があり、まるで本当に双子の中身が入れ替わったかと疑うほど自然だった。たぶん、あれは…彼らがひとつであることの確認の行為だったんじゃないかと思うんだが…」
自分達にだけ分かる奇妙な遊び―どんな内容だったのか、細かいことは忘れてしまったが、クリスターにも心当たりがある。
クリスターが複雑な感慨に捕らわれていると、傍らのレイフが猛烈な悪寒を覚えたかのように身震いした。
「ですが、いつまでもそんな関係を2人が続けることは、結局できなかったんですよね?」
「その通りだよ…彼らにはひとつ、決定的な違いがあった。つまりジェームズは男でメアリは女だというね…。思春期を迎えれば、嫌でもその違いが目立ってくる。身体的な成長と共にそれぞれ自我も強くなってくる…メアリが、ジェームズの分身以外の何者かになろうとしたのも当然の流れなんだ」
「ジェームズはどんな反応をしたんです? 自分から離れていく妹、自分を映し出す鏡でなくなっていく相棒を見ることは彼にとって苦痛だったでしょう?」
ジェームズが以前語ったことをそっくりそのまま質問にして投げかけながら、クリスターは何だか息苦しいような気分を味わっていた。
「ああ、もちろん妹の変貌は彼を混乱させ、悩ませ、怒らせただろうと思うよ。裏切りとさえ、思ったかもしれない。ある時メアリは、『兄さんは、私がいっそ男の子だったら満足したのかしら』とこぼしたが…当時のジェームズの心に生じた恐慌は、そんな生易しいものではなかった。それはジェームにとって足元を根底から覆されるような恐怖だったんだ」
ワインスタインの目が、クリスターの顔からレイフの顔に移る。おそらく彼は今、彼らとブラック兄妹を比較しているのだろう。
果たして、ワインスタインは二組の双子の間に何か相似点を発見しただろうか?
「ここで、ジェームズ個人の人格についても触れた方が、後に双子に起こった悲劇を理解しやすいかも知れないな。君は…おそらくもう、彼がどこか普通でないことに気がついているんだね?」
クリスターが何と答えるべきか迷っているうちに、ワインスタインはゆっくりと話し出した。
「メアリに関しては、ジェームズの片割れであるという以外、特に他の子供達と大きな相違は見られなかった。私と打ち解けるにつれ、彼女はよく私に悩み事を相談してくれたが、その気持ちはとてもよく理解できるものだったよ。だが、ジェームズは2年もの間傍にいたというのに、その心は最後まで謎のままだった。ジェームズはあまり積極的に友達を作らなかった…彼に言わせると他の子達なんか面倒でつまらないからだそうだ。ただ、それではいけないのだという自覚はあって、メアリに倣って、友達と遊ぶ努力をしていた。単に妹にとって当たり前の世界が自分にとってそうでないことに焦りを覚えていたからかもしれない。それでも、友人達は皆、ジェームズを好きになったよ。普段の彼は、とても優しく親切で、一緒にいると心がほっと和らぐような温かな魅力に溢れていたからね。だが、彼自身は誰のことも本当に好きなわけではなく、心の底ではおそらく軽蔑していた。そんな対人関係はジェームズを時に苛立たせた。その頃から、彼は次第に自分が周囲から遊離していることに気づくようになったからだ。時々ジェームズは、わざと露骨に他人の悪口を言って、私を戸惑わせることがあったんだ。それで私が、そんなことではいつまでたっても心を開ける親友なんてできやしない、君が寂しい想いをするんだぞと言い聞かせると、ジェームズは次第に青ざめ、困惑し、ついには黙り込んだ。自分の何が悪いのか、どうしたらメアリのようになれるのか、彼は本当に分からなかったんだな。高い知性と洞察力、鋭い感受性を持っているにもかかわらず、この心の成り立ちのアンバランスさはどういうことだと驚いたよ。友達だけでなく他の誰に対しても同じだった…表面的には何の問題もない、皆から好かれるいい子を演じているが、他人と深く関わろうとしない…そんなジェームズの行動を時間をかけて観察し、面接を繰り返していくうちに、この子はもしかしたら人の心にうまく共感することができないのではないかという気がしてきた」
「人と共感する能力の欠如…? それだけ聞くと、何だか、アスペルガー症候群のような発達障害にも聞こえますが…?」
「だが、ジェームズの場合、心の理論が分からないがために対人関係に不自由をするという訳ではないようだ。むしろ、我々が何を感じ、どう考え、どんな行動に移るのか、空恐ろしいほどに熟知している。ひょっとして読心術でもあるのではないかと勘ぐりたくなるほどにね」
「…そうやって、人を思うように操っちまうんだ」
ふっと思い出したように漏らすレイフを、クリスターは訝しげに振り返る。
「いや、前にハニーと会った時、彼女が言ってたことをちょっと思い出したんだ。人の心を読んで、本人も知らないどろどろした部分を見つけ、引き出してしまう、違う人間に作りかえちまう…それが、J・Bの才能なんだって」
レイフの言葉にワインスタインは瞬きを繰り返した。一瞬彼を追及しようとするかのように口を開きかけたが、気を変えたようだ。
「私は、ジェームズの内面を分析するため、面接を更に繰り返した」
ワインスタインは再び遠い目になった。
「時としてジェームズは、私の自尊心を満足させる好ましい味方のようであり、別の時には、どんな理論も通用しない、私の無能ぶりを痛感させる苦々しい敵のように振る舞った。やがて私は、自分がジェームズに遊ばれていたことに気付き、怒りのあまり身悶えたものだが、そんな反応すら、ジェームズの謎めいた笑みを深くさせるばかりだった。ジェームズは、私という人間の心を見透かしていたんだ。よい仕事をして上司であるキャメロンに認められたい、子供の相手をするだけで安定した収入まで得られるのだから楽なものだ、その上、双生児の相互依存に関する論文のひとつでも書ければ儲けものだ―僅か10才の子供にそこまで指摘されたら、精神科医としての面目は丸つぶれというものだ。一瞬そのままブラック家を去ることも頭に浮かんだが、その後にジェームズが投げつけた言葉を聞いて、気を変えた。『医者としてのプライドを傷つけられたと怒る前に、ドクター、もっと必死になって、僕が何ものなのか分析して、どうしたら普通になれるのか突き止めてよ』愛らしい天使の顔で皮肉るジェームズに、私は何かしらはっとさせられたんだ。ジェームズは悩んでいた。妹以外の誰とも心を通わせることはできずに孤立し、疎外感と不安に駆られ、どうか助けて欲しいと切実に訴えていることが分かったからだ」
ワインスタインの口調から、なんだかんだ言いながら、彼が幼い頃のジェームズを親身に気にかけていたことが窺えた。
「そうして、あなたはもう少し真剣にジェームズと向き合い、彼の問題解決に力を貸そうと決意したんですね?」
ワインスタインは自嘲的に微笑んだ。
「今思えば、私はとんだお人よしだったのかもしれないが、患者にすがられたら果然奮起するのが医者というものだからね。だが、ともかく私は、それ以来可能な限りの時間をジェームズと過ごすようになった。ジェームズはその頃には、急に大人びてきたメアリともぎくしゃくしてくさっていたし、心を通わせることのできない友達と過ごすよりは私と一緒にいる方が気が紛れていいようだった。私はジェームズに振り回されながらも、その話に耳を傾け、助言を与えながら、理解しようと努めつづけた」
「それで、あなたは、ジェームズの願いに少しは応えられたんですか?」
ワインスタインは眉間に深いしわを作った。
「そうだね、私が想像するに…ジェームズの心にある重大な欠陥とは、要するに、他人の感情を自分のものとして実感することができないという点に尽きる。他人の喜怒哀楽は、彼の表面を掠め過ぎていくだけで、その胸を揺さぶらない。現実ではない、自分から切り離された別世界の出来事、せいぜい映画や本の中の登場人物に対するような捉え方しかできないんだ」
だからこそ、あんなふうに人の心の痛みに対して無感覚なのだ。
かつてディベートのクラスで見たことや、ハニーや他の被害者達に対するジェームズの態度を思い出しながら、クリスターは胸がしんと冷えるのを覚えた。
「しかし、だからといってジェームズに人間らしい感情がなかった訳ではない。彼だってちゃんと心を持っていたんだ。しかし、それは完全に内側に向かい閉ざされていた。彼の抱いた感情は彼の中で孤立し、他の人間達のそれと響きあうことはなかった」
「ただ、メアリだけは、例外だったと?」
クリスターがつい傍らのレイフを振り返ると、彼は神妙な表情でじっと考え込んでいた。この話、どこまで弟に聞かせていいものか、クリスターは今更ながら躊躇った。
「ああ。それこそが、あの双子の興味深い所であり、ジェームズが妹を決して手放そうとしなかった理由でもあった。さっき、双子がしていた奇妙な遊びのことを話しただろう…あの遊びの中では、ジェームズは妹とひとつになって、同じように笑ったり、悲しんだり、怒ったりすることができた。人間らしい感情は彼の中でも生き生きと花開いていたよ。だが、そんな人並みの喜びすら、彼は妹の助けなしでは味わえなかったんだ。メアリは、周囲とのつながりが希薄なジェームズにとって、仲立ちのような役割も果たしていた。だから、彼女がいなくなることで、ジェームズは完全にこの世界から切り離されてしまったんだ」
またしても、クリスターは何とも名状しがたい息苦しさを覚えた。
心を見透かすような笑みを湛えたジェームズの顔が脳裏に蘇り、クリスターにそっと囁きかける。
(ほら、君も今、僕に深く共鳴しただろう?)
隣に坐っているレイフが胡乱そうにクリスターを振り返った。
「どうしたんだよ、兄貴、気分悪そうじゃん?」
クリスターがぐっと掴み占めていた手の上に、レイフは無造作に自らの手を重ね、宥めるようにさすった。
レイフの手の暖かさに、クリスターを捕まえていた緊張状態はゆっくりとほどけていく。
「別に、何でもないよ」
強がるように、クリスターは呟いた。
「…そう、メアリの突然の死こそ、その後のジェームズを形作る、決定的な出来事だった」
自分の話に没頭しているワインスタインは、小声で囁き交わす双子には気がついていないようだ。
「メアリの突然の死はジェームズにとって大きな衝撃だったということは、僕も彼の口から聞きました。事故があった日の前後の記憶とともに言葉も失って…あなたが治療にあたられたんですよね?」
気を取り直したクリスターは、ワインスタインの話に再び神経を集中した。
「ああ…数ヶ月間をかけて幾つかの心理療法を試みたが、なかなか功を奏しなかったので、最後に催眠療法を使ってみた。迷ったんだがね…言葉を封じ込んでしまうほどのトラウマであるメアリの死の記憶を蘇らせるのは精神的なダメージが大きい…ジェームズが耐えられるか確信が持てなかった。だが、最終的には彼の母の意向で、ジェームズの記憶を蘇らせることにしたんだ。メアリの遺体を最初に発見したのはジェームズだったから…愛娘の上に一体何が起こったのか、夫人は知りたがった。ジェームズよりもメアリの方を偏愛していた彼女にとって、彼の受けた心の傷などどうでもよかったのさ」
ワインスタインの静かな声に隠しきれない非難が滲んだのにクリスターは気がついたが、それより今は話の続きを知りたかった。
「それで、ジェームズの記憶は戻ったんですか? あなたの治療は成功し、彼は再び話せるようになったと…」
ワインスタインは言いにくそうに口ごもった。
「声を取り戻せたんだから成功だとは言い切れないな…あの治療には、いまだに後味の悪さを覚えている…。あんなふうにジェームズの心を無理矢理こじ開けるのではなかった…パンドラの箱を開いたようなものだ…中から溢れ出したものに、我々は愕然とするしかなかったし、ジェームズはといえば術中であるにも関わらず錯乱状態に陥って、私に襲い掛かった」
苦渋の表情を浮かべて、ワインスタインは右瞼の引きつれた傷跡に触れた。
「これはジェームズにやられたんだよ。治療中、失語状態のジェームズには筆記によって、彼の思ったことを書かせることにしていたんだが…突然叫び出したかと思うと、その時使っていたペンを私の目に突きたてようとした。驚いた私が椅子から転げ落ちなければ、きっと失明していただろうな」
ワインスタインは重々しい溜息をついた。
「予想外のアクシデントで治療は中断されてしまい、その後はもう滅茶苦茶だった。ジェームズは極度の興奮状態でずっと叫び続け、近づこうとする人間は誰彼構わず攻撃しようとしたし、自分自身も傷つけようとした。何とか取り押さえて、薬で眠らせたが…目が覚めればまた泣き叫ぶので再び強い薬を投与するしかなかった…だが、眠りの中ですら悪夢に襲われているようだった。もしかしたら、このまま精神崩壊をきたすのではないかと本気で恐れたよ。そんな状態が2日続いた末に、ようやくジェームズは目覚めた」
ワインスタインはこみ上げてくる後悔の念を堪えるように、身を2つに折って深々と項垂れた。
「私はあの子の心に取り返しのつかない傷をつけてしまったのではないかと心配したが、意識を取り戻した少年は、私の知るジェームズ・ブラックとは全く様子が変わってしまっていた。感情を激しく爆発させて取り乱したのが嘘のように平然としていたし、その瞳は深沈と静まり返っていた。以前と同じように話せるようにもなっていた。催眠療法をしたことは覚えているかと私が尋ねたら、彼は治療のこともその後自分がどうなかったかも覚えていると答えた。次に、メアリが死んだことは分かっているかと尋ねると、はいと答えた。ほとんど他人事めいた冷めた口調に驚かされたよ。では、メアリの遺体を発見した時の状況を思い出したかねと、最後に確認してみた。彼は少し考え込んだ後、いいえ、覚えていませんと答えた」
「覚えていない…? 錯乱したのは、ジェームズが一度記憶を取り戻したからでしょう…? 思い出してはみたものの、やはり直視するには辛すぎる記憶だったから、また忘れてしまったとでも?」
「記憶というのは我々が思う以上にあいまいなもので、自分の望むように作り変えられたり捏造されたりする…ジェームズの場合、厳密に言うと、彼の記憶喪失は治ったはずなんだ。だから、彼が嘘をついているのでなければ―ジェームズの意識のより深い部分で、彼の脳が、耐え難いショックを回避するために、問題の記憶にブロックをかけているのかもしれない。無意識に、そこに至る神経の経路を断っているのもしれない」
クリスターは疑わしげに首を捻った。
「…自分で自分に暗示をかけているようなものですか…?」
「おそらく、そんなところかな…だが、私には、眠りから覚めた後のジェームズについては、全く分からないというのが本音だ。あれきりジェームズはがらりと変わってしまった。あれほど愛したメアリの死さえ、完全に克服したかのようだった。私はメアリという仲立ちを失った彼が果たして周囲とちゃんとつきあっていけるのかを案じたが―ジェームズはもはや以前のように悩み不安に駆られることも、劣等感に苛まれることもなくなっていた。表面上は好ましいようでいて、その変化は、私をひどく落ちかなくさせたよ。少し前までは何とか分かることのできていた彼の心が全く見えなくなった…さながら、半身の死と共にジェームズ・ブラックという人間も死んでしまったかのようにね」
「それからしばらくして、あなたはブラック家での仕事を辞めたんですよね?」
「ああ、ジェームズの状態を見て、私のできる仕事はもう何もないと悟ったんだ。彼はもう誰からの助けも導きも必要としていなかった。この先ジェームズが一体どんな大人に成長していくのか考えると暗澹たる気分にもなったし、正直危惧したが、本人がこれでいいと言うのなら、もはや精神科医の出る幕はないよ」
「そう…ですね…」
ぼんやりと相槌を打ちながら、クリスターは、ワインスタインの理解も及ばなくなったジェームズの変化に思いをはせた。唯一無二の半身を失った彼が、何を考えたのか想像した。
(おそらくジェームズは、その日を境に、何かを吹っ切ってしまったんだ。こちら側に引き止めてくれる相棒はもういない…人間として大切な部分が欠落したままでも、それが己の自然な姿であるならば、あるがままに受け入れ、後はひたすら突き進むしかなかった)
クリスターは体の奥底からこみ上げてくる得も言われぬ怖れを抑えようとするかのごとく、己の腕を強く掴んだ。
(そうして、僕が知るジェームズ・ブラックが生まれた―かつてワインスタインに助けを求めた、ちょっと風変わりな子供は、今や立派な『怪物』にまで成長したということだ)
ぎこちない沈黙がしばし流れた。やがて、ワインスタインが耐え切れなくなったかのように口を開いた。
「…別れる際に、私は、ジェームズに今どんな気分がするかと尋ねてみた。すると彼は『あなたが心配するほど悪くないですよ』と答えた。『この世で僕はたった1人、完璧に自由な存在だから』と、晴れ晴れとした顔で笑うジェームズは幸福そうにさえ見えたよ。我々には理解のできない幸せだがね」
クリスターはワインスタインの顔をちらりと一瞥すると、視線を床の上に落とした。
ジェームズの心情がゆっくりと足元から這い登ってくる。押しやることもはね除けることもできない、執拗にまつわりつき、絡みつき、やがてそれは、クリスターの胸の奥にすっと忍び込んできた。
(ほら、君の心を捕まえたよ、クリスター。言っただろう、僕達は互いに分かり合うことができるんだ)
勝ち誇るかのようなその囁きは、これまでになく身近に、まるで自分の内側から発しているかのようにクリスターには感じられた。
(そうだな、ジェームズ、確かに僕には、君がその時何を思ったかが分かるよ。いっそ自ら怪物になってしまえば、楽になれる、瑣末な悩みに足をとられることも、悪夢に苦しめられることもなく、ぐっすりと眠れる…)
クリスターは顔をしかめ、嫌なものを振り払うかのごとく頭を振った。
「どうかしたかね?」
ワインスタインは真っ青になっているクリスターの顔色に気付いて、眉を潜めた。
「一体何がジェームズ・ブラックのような怪物的な人物を作り上げたのか、僕はずっと疑問だったんです。僕にとってジェームズは、関心はあったけれど知るのが恐いような謎でした。あなたの話で、少しずつ彼の隠された貌が明らかになってくるにつれ、僕の理解は深まっていく…そのせいでしょうか、何だか彼の心が僕の中に流れ込んでくるような錯覚を覚えるんです」
額に浮かんだ冷たい汗をぬぐうと、クリスターは心を落ち着けるため大きく息をついた。
「それは、あまりぞっとしない気分だろうな」
ワインスタインは、そんなクリスターの反応に興味を引かれたような顔をした。
「ところで、ドクター、さっきから話を聞いていると、あなたは随分ジェームズに対して、好意的…いや、同情的なようですが…?」
気分を切り替えるためにも、クリスターは何か質問をせずにはいられなかった。
「私は、幼い頃のジェームズの相談相手として、彼の置かれた状況もよく見てきた。感情移入しすぎたんだろうね。君が、ジェームズを嫌悪し恐れるのはよく分かるが、彼だとて、自ら望んでああ生まれついた訳ではない。それに私は今でも、やりようによってはジェームズを正しい方向に導くことも可能だったのではないかと思うんだ。未発達な共感能力も、訓練によって少しずつ改善できるはずだった。周りが彼の状態をちゃんと理解し、愛情と忍耐によって必要な援助を与えてくれればね。だが、彼の場合、それは難しかった」
「どうしてですか?」
「彼の母親だよ」
ワインスタインはもはや腹立たしさを隠しもしなかった。
「彼の母は、自分の生んだ子供だというのに、『普通』じゃないという理由で、ジェームズをひどく忌み嫌っていた。初めから、彼がいつか何か恐ろしいことをしでかすと決めてかかっていた彼女は、いずれはジェームズをメアリから引き離しどこか遠くにやることを考えていた」
「どうして、そこまでジェームズを疎んじたんです?」
「それには、彼女の兄―つまりジェームズの叔父だがね―に原因があったんだ」
「若いうちに病気で亡くなったという…?」
キャメロンの研究対象にもなっていた人物が出てきたことに、クリスターはつい耳をそばだてた。
「そんなことまで知っているのか…全く、君も得体の知れない子だな、クリスター君」
「それより話の続きを…」
「夫人の話から考えるに、どうやら彼女の兄もジェームズと似た障害を抱えていたらしい。いや、こちらはもっと明白に人格異常者と言ってもよいくらいの極端な人物だったらしいが、夫人の思い込みも多分あるようだから、よく分からんよ。ただ、彼女がこの兄から虐待を受けていたのは確かなようだ…二十歳そこそこで兄が死んでやっと解放されるまでね。ところが、結婚して自分が産んだ子は、どうしてもその兄を思い出させる…気性も話し方も何から何までそっくりでぞっとすると言っていた。そして、メアリのことを案ずるあまり、一層ジェームズには辛くあたったんだ」
「彼女は、かつて自分が兄から受けたような仕打ちを、今度はジェームズがメアリに対してするのではないかと恐れていたんですね」
「全く、とんだ妄想だよ…夫人にも同情はするが、そのとばっちりを受けた子供達こそ哀れだ。あんな偏見に凝り固まった母親の監視下で育てられては、ジェームズ自身がまともな人間になろうと努力したところで、望ましい成長を遂げることなど土台無理だったのさ。夫人はメアリにもジェームズから離れるよう、ことあるごとに悪意のある考えを吹き込んだ…双子の絆は固かったから、メアリは母の言うことなど受け付けなかったが、思春期になって、何となくジェームズとの仲がうまくいかなくなってくると次第に影響されるようになった。あんなに仲のよかった子達が大人の思惑に左右されて…全く、不幸な話さ。そうこうしているうちに、メアリがあんなことになって―」
ワインスタインはふいに寒気を覚えたかのように、ぶるりと身を震わせた。
その様子を、クリスターはじっと押し黙ったまましばし凝視した。
ジェームズ・ブラックを哀れだと、この男は語る。果たして、自分はどう思う?
「ドクター」
「うん?」
クリスターは床の上の一点を睨みつけながら、固い声で言った。
「たとえ、ジェームズがどんな家庭環境で育ったのだとしても、僕は、あなたのように簡単に、彼に同情することはできません」
そうして、ともすれば萎えそうになる気概を奮い起こして、自分に言い聞かせる。
(そうだ、ジェームズに感情移入した男の話を鵜呑みにしてどうする…僕は必要な情報を手に入れるためにここに来たんだ。この男の下らない感傷に引きずられるためじゃない)
強引に気持ちを切り替えて、クリスターはこれまでワインスタインが語った話を思い返し、その内容を吟味し始めた。
すると、すぐに、ひとつの疑問に行き着いた。
(ワインスタインの催眠療法によってメアリの死に関する記憶を蘇らせたジェームズは、精神崩壊寸前になるまで錯乱した。彼にとってそれほど辛い記憶、ワインスタインが開いたパンドラの箱の中から溢れ出したものとは、一体何だったのだろう…?)
ふと、クリスターが顔を上げると、ワインスタインが奇妙な顔で自分の横をじっと眺めていた。
訝しく思って彼に声をかけようとした時、規則正しい寝息が隣から漏れていることにクリスターは気がついた。
「レイフ…?」
まさかと思って隣を見たクリスターはちょっと唖然となった。
しばらくやけにおとなしいと思っていたら、レイフはがっくりと頭を垂れてゆらゆらと舟を漕いでいたのだ。
「お、おい…」
思わず顔を赤らめ、焦ったクリスターがレイフの肩を掴んで揺り起こそうとすると、ワインスタインが小さく吹き出した。
「…目覚ましにコーヒーでも淹れてこよう」
立ち上がってキッチンに向かうワインスタインを見送った後、クリスターはすやすや眠っている弟の暢気な顔を睨みつけた。
確かに、レイフには小難しい話が多かったかもしれない。それに、ジェームズ・ブラックの内面になど彼ははなから興味はなかったのだから、長い話につきあわされて退屈もしただろう。しかし―。
「僕がワインスタインとあんなに重い話をしていたのに勝手に寝てしまうなんて、信じられない…大体J・Bと闘う気満々の割には、おまえ、緊張感がなさすぎないか…?」
脱力するやら無性に腹が立つやら、クリスターはレイフの前に仁王立ちになって、その向こう脛を思い切り蹴りつけてやろうかとしばし迷ったが、何だかそれも馬鹿馬鹿しいのでやめた。
代わりに、ワインスタインの消えたキッチンの方に向った。
ワインスタインは、これまでクリスターの心の中にあって、形にならず、混沌のままとどまっていたものを言葉にしてくれた。
しかし、彼はまだ何か大事なことを隠している―そんな確信にも似た思いが、クリスターを急き立てていた。