ある双子兄弟の異常な日常
第三部 第5章 深淵に潜むもの
SCENE6
ドクター・ワインスタインの現住所は、予め調べ上げていた。
子供時代のジェームズに深く関わった人間。また精神科医という観点から彼がジェームズをどう分析するのか、クリスターは興味がある。
(ジェームズは、ワインスタインを事故で亡くなったものと認識していた。もし本当にそう信じていたとしたら、僕がワインスタインに接触することは、ジェームズにとって想定外の出来事ということになるな)
滑らかに愛車のハンドルを操りながら、クリスターは助手席の弟をちらりと見やる。
(僕にとっての想定外は、今ここにこいつがいることか。いや、こんな状況を全く考えなかった訳じゃない…大丈夫だ、僕なら、こいつをうまく操縦できる)
レイフの懇願を受け入れて、共にJ・Bと闘うと誓ったクリスターだが、それは言わば見せ掛けで、本当に危険な部分にまで弟を深入りさせる気はなかった。
クリスターを信頼しきっているレイフは、彼がうまく促すのに乗って、ケンパー警部から何をどこまで聞きだしたのか、素直に話してくれた。
一方で、クリスターもレイフに乞われるがまま、ジェームズからのクリスマス・カードを受け取って以降今に至るまでの経緯をざっと説明してやった。
レイフが胸に抱いていた疑問―アイザックの失踪やコリン達の事故にジェームズがからみ、それに対してクリスター達がどう動いているかが明らかになって、レイフはこれでやっと腑に落ちたと満足したようだが、弟に知られてはまずいことは、クリスターはやはり伏せていた。
例えば、ヘレナの流産の陰に密かに両親の会社に潜り込んでいたジェームズの暗躍があったなどとは、口が裂けても言えない。
(もし知ったら、レイフは必ず逆上し、僕がどんなにとめても、ジェームズの屋敷に殴りこみに行こうとするだろう。駄目だ、想像するだけでぞっとする…そうだ、こうして手元に置くことにしたからには、レイフが暴走しないよう、僕がしっかりと見張ってやる)
しばらくは興奮状態が続いて、クリスターにしつこいくらいの質問攻撃を浴びせたり、彼がまたしても自分に隠れて危険を冒してきたことをなじったり、ジェームズとクリスターの対決が既に警察まで巻き込んだ大事になりつつあることに驚いたりとうるさかったレイフだが、今はひとまず落ち着いて、窓の外を流れすぎていく風景をぼんやりと眺めている。
その横顔には、これから未知の冒険に乗り出そうしている子供のような溌剌とした昂揚感が溢れ、何の憂いも翳りもない。
J・Bがどれほど危険な人間か、一度は彼の罠に落ちて苦しめられた経験があるレイフなら分かっているはずだが、不安は感じていないのだろうか。
「ねえ、レイフ…僕は、おまえが以前ジェームズにどれだけひどい目にあわされたのか覚えている。だからこそ、二度とあの時のような思いはさせたくなくて、ずっとおまえをこの件から遠ざけていたんだよ」
「うん」
「今でもまだ心配なんだけれど、本当に大丈夫なのかい? また、あのジェームズと顔をつき合わせることになったり…ましてや争ったりなんて耐えられる…?」
そこまでレイフにさせることはないだろうと思いながら、クリスターは確認のために聞いてみる。
するとレイフは、クリスターが少し拍子抜けするくらい簡単に答えた。
「オレのことなら心配しなくていいよ、兄貴。J・Bとの間で昔あったことは、そりゃ、嫌〜な記憶として忘れてないけど、別に恐がってなんかいないよ。今度はあの時みたいにいかないぞ、見てろよ、Jって、ボコる気満々だし」
「おまえの腕っ節だけで易々と決着のつく相手なら、僕もここまで悩まされないよ。大体、ジェームズの周りには、あいつの息のかかった不良グループだけじゃなく、もっと物騒な―ジェームズが関わっていたストリート・ギャングの残党らしい連中もいて、念入りにガードしている。そうなると、どんな武器を所持しているか知れない…真っ向から力で勝負とはいかないさ」
「銃で撃たれるのはぞっとしないけど…でもさ、今は警察だって動いてるんだろ? 行方不明になったのは誰だっけ…ええと、ジェームズの親父の愛人だったよな、Jの奴が何かしたに決まってるよ」
「警察にあまり過度な期待はできないよ。行方不明になったエバ・ハミルトンとその情夫の捜索のため、ジェームズにも一応聞き取り調査をしたようだけれど…それだって、担当のケンパー警部が奴に特別な関心を持っていたからだ。これ以上の介入は現実として難しい…例えば―そうだな、いっそ2人の死体が見つかるとか、犯罪の動かぬ証拠が見つからない限り、捜査はひとまず打ち切られるだろう」
「じゃあ、その動かぬ証拠になりそうのものを見つけ出して、Jを警察に突き出してやればいいんだ」
ぽんと手を叩いて、名案だろうとばかりにちょっと得意げに眉を跳ね上げるレイフに、クリスターは苦笑した。
「おまえのようにすっきり明快に答えを出せたら、さぞ気分がいいだろうな」
「クリスターは何でも複雑に考えすぎるんだよ…J・Bについても、そうさ。オレに言わせりゃ、おまえの方こそ、そんな調子でJとぶつかって大丈夫かなって、心配だよ」
「僕が?」
「勝つために敵を分析するのはいいけど、そもそもJを心底理解してやる必要なんてねぇんじゃないか。普通の人間相手なら通用しても、Jの頭の中はやっぱりまともじゃない。そういや、オレも昔、Jの傍にいた時、一体こいつ何考えてるんだろって悩まされたものだけれど…Jの奴さ、例えば目の前で誰かがひどいリンチを受けても、ちょっと興味深い見世物が演じられている程度にしか感じていないようだった。そんな時のJは、まるで本当に心を持たない怪物みたいで…ええと、つまりオレの言いたいのは、そんないかれた奴の考えをまともに読み解こうとしても、クリスターが混乱するだけで、それこそ逆にJの思う壺になるんじゃないかってことだよ」
そう言い切るレイフを、内心ぎくりとしながら、クリスターは横目で素早く眺めやった。
「ふうん…あいつは心を持たない怪物、か…また、おまえにしては、随分と容赦のない言いようだね。だから、理解しようと努めること自体必要ない―相手が憎いJ・Bだからかな?」
「だって、オレはクリスターほどあいつに特別な関心を持っている訳じゃないから、あいつのやることに意味なんか求めねぇの。あいつが何者であろうと興味ないし…ハニーのこととかで恨みはあるけど、それも終わったことだ。Jが本当に改心して二度とオレ達の前に現れなかったら、おまえにしつこく付きまとって復讐しようなんて企んでいなかったら、たぶん、あいつの存在自体今頃はきれいに忘れさることができていただろうさ。って、今だから、ここまで言い切れるんだろうな…一時は、J・Bのことを思い出すだけで、あの頃の悔しさや苦しさが蘇って、どうしようもなかったもんな」
屈託のない口調で語るレイフには、実際J・Bの影に脅かされていた頃の片鱗もなく、そんな弟が、何だかクリスターは少し羨ましかった。
(よかった…レイフは、もうすっかりジェームズの呪縛から解き放たれている。そうだ、レイフもあの頃と同じ不安定な子供じゃない…まっすぐで闊達な本来の自分を取り戻したレイフなら、あんな奴に捕まるはずがないんだ。むしろ僕の方が、その点は危ういのかもしれないな…僕の心はジェームズに近い…だからこそ、レイフのようにあいつに対して無関心を保つことができないんだ)
何も分かっていなさそうで、時々妙に鋭く核心の部分に切り込んでくるレイフは、先程もクリスターの密かな懸念を見抜いたかのようなことをさらりと言ってのけた。
(このままJの心の闇に近づいていくのは危険だ、下手をすれば、この僕があいつに取り込まれてしまう…僕の抱いた漠とした不安をこいつがちゃんと理解しているとは思えないけれど―今の僕に、何となく危ういものを感じ取っているということか)
クリスターが前方を睨みつけたままじっと押し黙っていると、レイフはまた何かを嗅ぎつけたかのように鼻をぴくぴく動かして、クリスターに絡んできた。
「ん、また何か余計なことを考えているな、クリスター?」
遠慮のない手がにゅっと横から伸びてきて、クリスターの肩にかかる。
レイフにとっては普段どおりのスキンシップだろうが、触れた先から自分の不安定な心が彼に伝わってしまいそうな気がして、クリスターは思わず身を固くした。
「なあ、どうしたんだよ?」
「…運転中にじゃれつくなよ、危ないだろ」
しかめっ面をしてたしなめると、クリスターはレイフの腕を邪険に振り払い、運転に集中するふりをした。
「ちぇっ、愛想ねーな」
レイフは不満そうに唇をすぼめ、クリスターの不機嫌な横顔をじっと見ている。
これ以上何も気取られまいと、クリスターは思わず身構える。溜息が漏れそうになった。
(やっぱり、何だか、やりにくい)
レイフを傍に置くということは、これまでのように心の秘密を保てなくなることでもあり、それを考えると、果たしてうまく弟を御しきれるのか、クリスターは心もとないような気分にさせられるのだった。
閑静な住宅街の外れにある、赤煉瓦の古い一軒家の前でクリスターは車を停めた。
門扉には、ワインスタイン・メンタル・クリニックの小さなプレートがはめ込まれている。
それをひょいと覗き込んだレイフが、何となく面白くなさそうに顔を歪めた。
「心理カウンセラーとかセラピストって奴は今でも苦手だよ、オレ…」
むっつりと呟くレイフの念頭には、彼にとっては悪党以外の何者でもない、デイビット・アイヴァースの印象があるのだろう。
今はもうこの世に存在しない男に対する複雑な想いをクリスターはふとよみがえらせそうになったが、すぐにそんな感傷を振り払った。
「嫌なら車の中で待っているかい?」
「まさか。おい、待て、置いてくなよ」
さっさと門をくぐって家の玄関へ向かうクリスターを、レイフが慌てて追いかけてくる。
クリニックの診療日を避けてのアポなしの突然の訪問だが、ガレージに車があるところを見ると、おそらくワインスタインは在宅中だろう。
クリスターがドアの横のインターフォンを押すと、犬の鳴き声が家の中から聞こえた。
しばらく待っていると、扉の向こうから、何か固いものが床にあたる音と共に人の気配が近づいてきた。
「どなたかな?」
温和そうな男の声が呼ばわった。
「ドクター・ワインスタインですか? 突然で申し訳ありません。実は、あなたにどうしても聞いていただきたい話があって―」
「診療の希望なら、先に電話で予約を取ってもらわなくてはいかんよ」
「患者として、あなたのカウンセリングを希望しているわけではありません。ですが、あなたの助言を必要とする大変な問題を抱えていることには違いありません」
ワインスタインは、謎かけめいたクリスターの言葉を吟味するかのようにドアの向こうで黙り込んだ。
レイフは心配そうな眼差しをクリスターの冷静な横顔に向けている。
ゆうに十秒は待った後、ドアが半分だけ開いて、その向こうから松葉杖で体を支えた痩せた中年の男が姿を現した。家の中でも身なりはきちんとして、髪も綺麗に撫で付けてある。職業上、人に好感と信頼感を抱かせるような外見を心がけているのだろう。
「それは一体、どういう意味なのかな?」
ワインスタインは品のよい顔に微かな戸惑いと不審の色をうかべながら、クリスターの全身をじっと観察した。
ジェームズ・ブラックの治療終了後ブラック家を去ったワインスタインは、それから間もなく交通事故に遭い、以来、片足が不自由となった。今でも杖なしで歩くのは困難で、自宅でひっそりと精神科医としての仕事を続けている。
(ここでも、また『事故』か…ジェームズに深入りしすぎた人間は、いずれこうなるということか)
その右瞼のすぐ上にある古い傷跡に、クリスターはふと気がつく。これも事故の時に受けたものだろうか。
「僕は、クリスター・オルソン。あなたがよくご存知のジェームズ・ブラックの―友人です」
ワインスタインは表情こそ変えなかったが、考え深げな瞳に一瞬隠し切れない動揺が過ぎったのを、クリスターは見逃さなかった。
「ジェームズ・ブラック…? 知らんな、そんな名前は」
「あなたは、かつて、ドクター・キャメロンの助手としてブラック家に雇われていた。キャメロンが、精神科医であるあなたを自分の仕事に誘ったのは、ブラック家の双子兄妹の精神面での成長と発達を分析させるためだった」
傍らで息を詰めてクリスターとキャメロンのやり取りに耳を傾けていたレイフが、さっと兄を振り返った。
「どうして君が、そんなことを知っているんだ?」
ワインスタインの声のトーンが僅かに高くなった。
「ある事情から、ジェームズのことを僕は色々調べ上げたんです。ジェームズの過去、彼の背後に隠されたブラック家の複雑な事情も…彼が一体何ものなのか、どうしても知る必要があった。実を言えば、僕は今ジェームズに脅かされています。僕だけでなく、僕の家族や友人達までが危険にさらされているんです。ですから…」
「確かに、一時、私はブラック家での仕事についていたが、それはもう随分昔の話だ。今の私はキャメロンとも一切連絡を取り合っていないし、ブラック家とも何のかかわりもない。君が何の目的でここに来たのか知らんが、君に教えられることなど何もない。帰ってくれ」
ワインスタインは固い声でそう言ってドアを閉じようとするが、クリスターはそれを手で押さえた。
「その手を離して、おとなしく帰りなさい…私に警察を呼ばせたいのか…!」
威嚇するように叱りつけるワインスタインの顔を冷静に見据え、クリスターは底冷えのするような低い声で言った。
「ドクター、ある時、ジェームズは僕にこう囁いたんです…彼が子供の頃になくした妹の代わりに自分の半身になってほしいと…どういうつもりで彼はそんなことを言ったのでしょうか?」
瞬間、ドアを掴んでいたワインスタインの手が震えた。
「何だと…?」
ワインスタインは、ゆっくりと目を見張った。
クリスターの真剣そのものの厳しい表情、ここまで来て簡単に引き下がることはできないという、彼の覚悟と決意のほどに、ワインスタインも気付いたようだ。
「ジェームズ・ブラックか…何年ぶりで聞く名前だろうな…君、クリスター君だったね―ジェームズに脅かされているといったが、彼は一体君に何をしたんだい…?」
「一言では説明できませんが、もうずっと僕はジェームズの影に悩まされています。一度は、さすがにもう諦めたかという所まで彼を退けることに成功しましたが、また戻ってきてしまいました。ジェームズはどうしても僕を逃がさないつもりなんです…正直、これ以上、どうやって彼に対抗したらいいのか…」
「ふむ」
興味などないふりをしていても、そこはやはり医者だからだろう、かつての患者であるジェームズについて無関心を通すことはできないようだ。
「君の目を見ればとても嘘をついているとは思えないが…しかし、あのジェームズが、そこまで1人の人間に没頭するというのが、私にはまず想像できない。君をメアリの身代わりにだと…あり得ない。そもそもあの子は、メアリ以外の誰にも決して心を開かず、何の興味も示さなかった。君はさっきジェームズの友人と名乗ったが…実際あの子には、メアリ以外の仲間はいなかったんだ」
「しかし、現にジェームズは、僕に常軌を逸した執着をしています…僕がどんなに拒否しても執拗に僕に迫り、決して諦めません」
「…にわかには信じられないな…君が本当のことを言っているとして、ならば、どうしてジェームズは君を選んだのか、納得のいく理由がなければね」
「でしょうね。僕が知りたいのも、実は、その点についてなんですよ」
ここで、クリスターは賭けに出ることにした。
どうしても腑に落ちないような疑い深い目で睨みつけているワインスタインを軽く牽制しながら、クリスターはドアを大きく開いて、自分だけでなく、傍らでじっと息を殺して様子を窺っていたレイフの姿も、彼が見られるようにしたのだ。
たちまち、ワインスタインの両目が大きく見開かれた。
「僕がジェームズの半身になれるはずがない…僕の片割れはここにちゃんと存在している。それなのに、一体、彼は僕にどうしろと言うんでしょうね、ドクター?」
自分の前にそそり立つ、そっくり同じ姿をした兄弟を、ワインスタインはぽかんと口を開けたまま凝視した。そのまま石と化したかのように、しばし身動きも息をすることすら忘れたかのように固まってしまった。
その瞳は、クリスターとレイフを通して別の誰かを見つめているかのようだ。
レイフを連れてきたのはある程度の計算の上でのことだったが、ここまでの衝撃をワインスタインに与えたことに、クリスター自身少なからず戸惑っていた。
「なあ、そのおっさん、どうしたんだよ…? それに、おまえをJの半身にって、一体何の話なんだよ…?」
レイフが我慢しきれなくなったようにクリスターにそっと耳打ちをした瞬間、ワインスタインは大きく身を震わせた。
「何てことだ、またしても双子とはな」
忌々しげに吐き捨て、自らの言葉にまたぞっとしたかのように腕を体に巻きつけると、ワインスタインは改めてクリスターとレイフをしげしげと見比べた。
「ドクター…」
口を開きかけるクリスターをさっと手を上げて制すると、ワインスタインは観念したように肩を落とし、言った。
「いいだろう、2人とも、中に入りなさい。私が君達の助けになれるかどうかは分からんが、少なくとも話だけは聞こうじゃないか」
「感謝します、ドクター」
家の中に引っ込むワインスタインに続いてドアをくぐろうとするクリスターの腕を、何か訴えたそうな顔をしたレイフが捕まえた。
「あいつが双子だったってこと、何で、オレには黙ってたんだよ?」
何となく言いにくかっただけだが、深く追求されるのもまた嫌で、寝耳に水の話に戸惑うレイフに対しては、クリスターは素っ気なく答えるのみにした。
「全てを説明する時間がなかっただけさ。ともかく、ここで質問攻撃はなしだよ、レイフ。いいから、黙ってついておいで…ワインスタインと僕の話に耳を傾けていれば、おまえの疑問も解けていくはずだから」
「何だか、またちょっと兄貴に騙されたような気がする…」
「騙すつもりがあったら、そもそもおまえをここに連れて来たりしないよ」
恨みがましそうな顔で睨みつけてくるレイフの肩を軽く叩き、腕にかかった指をはがすと、クリスターは先に立ってワインスタイン宅に足を踏み入れるのだった。