ある双子兄弟の異常な日常

第三部 第5章 深淵に潜むもの

SCENE5

(誰だ…こんな朝早くから、煩いな。調子はずれな下手くそな歌を歌って…)

 窓の外から聞こえてくる、お世辞にも上手とは言えないが気持ちよさそうな歌声に、まだ夢心地のクリスターは、両手で耳を押さえて、不機嫌そうに唸った。

(ああ、レイフだな…全く騒がしい奴…)

 歌声の主が誰か分ると、クリスターは納得したようにふっと笑って、薄っすらと目を開けた。

 まだ早朝かと思っていたら、窓から差し込んでくる日差しから察するに、既に太陽は高く上っているようだ。

「レイフ!」

 クリスターが窓を開けて下の芝生を見下ろすと、ハーフパンツ一枚で、歌に合わせて体を微妙にくねくね動かしながら水をまいている弟の姿があった。

「あ、おはよー、兄貴。珍しいな、クリスターがオレより寝坊するのって」

「おまえが自発的に庭の水撒きをするのも珍しいと思うけれどね…父さんと母さんは?」

「とっくに仕事に出かけたよ。ふうん、それにも気がつかないほど、ぐっすり眠ってたんだ」

「うん…」

 クリスターは、真っ青な夏の空にも負けないほど明るい弟の笑顔を見下ろしながら曖昧に頷くと、再び部屋に引っ込んだ。

 以前はひどい不眠症に悩まされていたものだが、いつの間にかそれは治っていて、特にこの頃は夢も見ないほど深く眠れる。

(妙な話だが、ジェームズとの対面を果たしてから、僕の体調は急に回復してきたような気がするな。相変わらず抱え込んだままの悩みを紛らわせることができる、格好の遊び相手を取り戻したからという訳か…だけど、これじゃ、以前と少しも変わらない。あいつとの腐れ縁もこれを限りに終わらせるんだと自分に言い聞かせながら、全く、僕も性懲りがないな)

 軽く落ち込みながら着替えを済ませ、クリスターがキッチンに下りていくと、庭に面したガラス戸の向こうでは、レイフがまだホースをぶんぶん振り回しながら―もしかしたら、あれはどこぞのミュージシャンの真似かもしれないが―水をまいている。

 クリスターはガラス戸の前に腕組みをして立って、勢いよく飛び散る水に濡れることも楽しげに生き生きと動いている半裸の弟をじっと観察した。その眉根に次第に深いしわが寄っていく。

 ふいに、レイフが悪寒を覚えたかのようにぶるりと身を震わせ、後ろを振り返った。

「…レイフ、ちょっとここに来い」

 クリスターがガラス戸を開けて顎で示すと、レイフはホースを芝の上に置いて、おっかなびっくり、クリスターの機嫌を窺いながらやってきた。

「な、何だよ?」

 水をまくだけでどうしてこんなに濡れるのか、体からぽとぽとと雫を滴らせているレイフを、クリスターは恐い顔で睨みつける。

「おまえ、最近トレーニングをさぼっているだろう。腕や脚の筋肉量がシーズン中に比べて若干落ちているし、胸周りやウエストを見ても、これは自己管理がちゃんとできていないって、僕には分るぞ」

「ひゃー、相変わらず目ざとい奴…まさか弟の体見ただけで、スリーサイズ言い当てたりはすんなよな、こえぇよ」

「来月半ばには、選手やコーチ達も皆戻ってきて、合同練習が始まる。その頃までに、ハードな練習に充分応えられる体を作っておくよう、自分でトレーニングを続けるのが選手としての務めだ。おまえには、エースとしての自覚が足りなすぎる」

「だって…自主トレーニングって、1人でやっても退屈でつまらねぇんだもの…」

「トムが先週から寮に戻ってきただろう。1人じゃ気分が乗らないなら、彼と一緒にやればいいじゃないか」

「そう言う兄貴だって、さぼってるじゃん、トレーニング」

 唇を尖らせて不満げに訴えるレイフを、クリスターはまじまじと見返した。

「僕には、フットボール以外にもやるべきことがあるんだ。それに、心配しなくても、チームリーダーとしての責任は果たす。僕にとっても、高校最後の大切なシーズンだからね…ちょっと待て、そのままでは家の中に入るなよ、床が濡れる」

 レイフが何か言いかけるのをさり気なく無視して、クリスターはキッチンの奥に戻り、引き出しからタオルを一枚取ってくると、レイフの濡れた頭に被せ、力任せに拭いてやった。

「痛ぇよ、兄貴」

「後で、練習メニューを作ってやるよ。それに、明日なら、僕もおまえと一緒に学校のジムに行けるし」

「ほんとかっ?」

 タオルを持つクリスターの手を払いのけ、食らいつくように聞きなおすレイフに、クリスターはすぐに答えられなかった。

「僕がいないと練習もできないなんて、言うなよ」

 苦笑しながら、クリスターはタオルをレイフの手に押し付け、すっと身を引いた。

 その後ろを、濡れた体をタオルで大雑把に拭きながら、レイフがついてくる。

「親父がさ、今年はまたすごい量の手紙が大学から来て、リクルーターからもばんばん電話がかかってくるって喜んでるぜ。なあ、やっぱり去年の優勝校のエース、しかもMVP取ったとなると違うよな」

「そうだね」

 クリスターがあまり関心を示さないので、レイフは不服そうに唇を歪めた。

「あのさ、クリスター、そんな興味のない顔をせずに、ちっとは親父の相手をして喜ばせてやれよ。あかちゃんをなくしてから、母さんより父さんの方ががっくりきているんだから―オレ達宛に来る、大学チームからの誘いの手紙が、父さんの気分を明るくしてくれているんだぜ」

「僕の分まで、おまえが相手をしてあげればいいよ。スカウトからの手紙なんて大体似たような内容だし、いくら誉めておだててくれたって、今シーズンの状態が悪ければ掌を返すように無関心になる。そんなあてにならないものにいちいち浮かれるのは馬鹿のすることだ」

 まるで他人事のように血の通わないクリスターの応えに、レイフは驚いたように目を見張った。

「ちぇっ、冷てぇな…」

 レイフの哀しそうな呟きには心がぐらついたが、クリスターは聞こえない振りをして、コーヒーを淹れにかかった。

 トレーニングやスカウトの話にかこつけて、レイフは、フットボールをやめると宣言したクリスターの心に変化があるのかないのか確認したかったのだろうが、ここで甘い期待をさせては駄目だ。

 レイフのもの言いたげな視線を背中に痛いほど感じる。

 確かに、母の流産の騒ぎからずっと、周囲を慮って、お互い言いたいことも言わずに過ごしてきた。

(僕はともかく、レイフはそろそろ限界かな…無理に明るく振る舞っているけれど、内心では鬱屈したものが溜まっているだろう。もしかしたら、今、何か切り出す気かな…父さんも母さんも出かけていて、僕とレイフは今2人きりで…)

 クリスターは僅かに頭を動かし、後ろのテーブルに腰を落ち着けて自分の一挙一動を見守っている弟を見やった。

 一瞬、その目つきの鋭さに、クリスターはぎくりとした。

 やはり、今日のレイフは腹に何か一物あるようだ。

「なあ、兄貴」

 声だけは暢気に、レイフは話しかけてきた。

「うん?」

 緊張感に身を引き締めながらも平静さを装って、クリスターは2つのカップにコーヒーを注ぐ。

「サウスボストン署のケンパー警部って、兄貴の知り合いなんだ?」

 一瞬、ポットを持つクリスターの手が震えた。

「えっ、誰だって?」

 胸に沸き起こった動揺の小波はすぐに抑え込んだ。クリスターはカップを手に、レイフが待ち受けているテーブルに近づく。

「ケンパー警部」

「ああ…彼に会ったのかい?」

「昨日さ、トムと一緒にボストンまで行ったんだよ。シャツとかシューズとか買い物しながらコープリー辺りをうろうろしていたら、知らない男に声をかけられたんだ。オレをおまえと間違えたんだよ…オレはピンときて、しばらくおまえのふりして話を聞いてさ…まあ、すぐにばれちまったけれど―警察だって分かった時点で、ああ、これはJとつながった話だと思ったから、もっと詳しく聞かせてくれ、教えてくれないとボコるぞって、警部に迫ったって訳」

「…刑事を脅すなよ」

 ふっと溜息をついて、コーヒーカップを口に運びながら、クリスターは静かに考えを巡らせていた。

 自分の手持ちのカードを突きつけたレイフは、もっと激しくクリスターに詰め寄りたいのを堪えるかのごとく肩にぐっと力を入れながら、彼の応えを待ち受けている。

(フットボールや進路についての話し合いより、先にこちらから片付けないと駄目かな。J・Bが戻ってきたことを知ってしまったレイフに何もせずにおとなしくしていろと言い聞かせても無理だし、その上、僕の知らない所でケンパー警部にまで接触してしまった。警部を通じて、レイフがどこまで、僕がこれまで秘密にしていたことを知り得たのかも気になる。こうなった以上、何をしでかすか分らないレイフを野放しにするよりは、僕の目の届く範囲に置く方がまだましだ)

 あまり気の進まないクリスターが吐息を漏らすのを見咎めたレイフは、形のいい眉をきっと吊り上げる。

「クリスター…」

 しかし、弟が口を開くより先に、クリスターは上から被せるようにして言った。

「レイフ、今日一日、何も予定がないなら、僕に付き合ってくれないか?」

「え…えっ…?」

 クリスターの切り返しに一瞬反応できず、レイフは戸惑うよう、目を泳がせる。

「J・Bと僕の確執におまえを巻き込むことは避けたかったんだけれど、そうも言っていられない状況かなと思い直したんだよ」

 ゆっくりと噛んで含めるように、クリスターはレイフに向かって囁いた。

「おまえがケンパー警部に偶然会って話をしたことで、僕もやっと決心したよ。確かに、ダニエルやケンパー警部達に助けられても、あいつと戦って勝つには、僕の方がまだ不利だ。だから、この際、おまえの力も借りたい」

「そ、それじゃあ、クリスター…」

 クリスターの言わんとしていることを理解したレイフの顔に見る見るうちに朱の色が上り、琥珀色をした瞳は火が灯ったようにきらきらと輝きだす。

「ああ、僕が今度こそJ・Bの手から永遠に逃れられるよう、一緒に闘ってくれないか、レイフ」

「やっほうっ!」

 待ちに待ったクリスターの一言がよほど嬉しかったのか、レイフは椅子を蹴倒すように立ち上がってガッツポーズをする。

 さすがのクリスターも一瞬唖然となった。

「いや、その…そんなふうに浮かれはしゃぐような話ではないと思うのだけれど―要するに僕は、おまえの手も借りたいほどの窮地に立たされているということなんだよ?」

「へへ、ごめん…でもさ、やっとクリスターがオレの手を取ってくれたことが、物凄く嬉しいんだよ。オレの手の届かないどこかでおまえが危険にさらされているかもしれないと想像して苛々もやもやするより、たとえどんなに危険でも、おまえの傍にいて一緒に何かに立ち向かえる方が、ずっと楽なんだよ」

 言いながら、感極まったらしいレイフは、照れくさそうに鼻をすすった。

「レイフ…」

 その素直な反応に、クリスターはまだ弟を騙しているような気がして、何やら後ろめたくて仕方がなかった。

「細かい事情はおいおい話すとして…ともかく、食事をすませたらすぐに出かけるから、おまえも着替えて来いよ」

 気を取り直して、クリスターは話を元に戻す。

「出かけるって? どこに、何しに?」

「ジェームズ・ブラックの謎を解きに行くのさ」

 クリスターの脳裏に、瞬きもせずに自分をじっと見つめるジェームズ・ブラックの光の差さない深い藍色の瞳が浮かび上がった。

「実はね、レイフ、4日前に僕はジェームズに会いに行ったんだ」

 思いもかけないクリスターの告白に、レイフは目を剥いた。

「ク、クリスター?! 冗談じゃないぜ、おい…あいつはおまえを狙っているんだろ。会いにって、1人で行ったのか、まさか、何もされなかったろうな?」

 真っ青になって、手を差し伸ばして駆け寄ろうとするレイフから逃れるよう、クリスターは椅子を引いて立ち上がった。

「こうして無事に帰ってきているんだから、今更、そんなふうに顔色を変えるなよ」

「だってさ、まさか、そこまで兄貴とあいつが接近しているなんて、思ってなかったんだもの」

「このくらいのことで怯んでいたら、僕と一緒になんて戦えないよ。まあ、何にせよ、ブラック邸でジェームズと色々話してみて―やっぱり、何がどうあっても、あいつは僕を放っておいてはくれないってことを実感した。もう一度僕と戦い、僕を攻略して打ち負かした上で―あいつは、たぶん、それ以上のことを僕に求めてくる」

「それ以上のことって?」

 レイフは気味悪そうに顔をしかめた。

「その辺りが僕にもはっきりとは分らない。ジェームズが、結局僕をどうしたいのか―僕を傷つけるか殺すかして満足するただの復讐者なら、その行動も読みやすいし、もっと闘いやすかったろう。だが、ジェームズの僕に向かう感情は複雑で、二重三重の謎を秘めている…そもそも、どうしてあいつは僕に目をつけたのか、対等に渡り合える敵手として永遠に僕と遊んでいたいのか、僕を憎んでいるのか、それとも別の想いがあるのか―だから、一度ジェームズのことを昔からよく知る人物に会って、意見を聞いてみようと思うんだ。ジェームズが僕に異常な執着を示す理由を、もしかしたら彼は知っているかもしれない…もっとうまくいけば、ジェームズの心の深淵に潜む、彼の弱点もね…」

 クリスターの声には、何かしら逡巡するような響きが混じっていた。

「はっ、あいつの頭の中にあることなんて、たとえ誰かに解説してもらったって、理解できるなんて思わねぇよ。でもさ、クリスターは闘う相手のことは事前にできるだけ調べて、作戦練っておきたいって考えなんだな?」

「要するに、そういうことかな」

「うん、分った。それが必要だって言うなら、オレもクリスターと一緒にどこにだって付き合うよ…でもさ、そのジェームズをよく知っている人物って、何者?」

「昔、ジェームズの主治医の助手をやっていた男だよ。精神科医で、ジェームズが妹を亡くしたショックから一時失語症に陥った時、その治療にもあたったらしい」

「へー、あいつ、妹なんていたの」

 双子のとは、なぜか、クリスターは言い出せなかった。

(あいつは、僕に―亡くしてしまった半身の身代わりになってほしいと言った。何を馬鹿げたことを言うんだと、僕は初めから取り合わなかった…どうせ、僕を混乱させて隙を突こうとする罠か何かだろうとさえ疑って、あいつがほのめすことを考えまいとしてきた。だが、もし、あれが本気だとしたら、恐ろしい…)

 あの藍色の双眸を覗き込んだ時、クリスターがそこに見出したのは、黒々と広がる闇に投影された他ならぬ自分のもう一つの顔、影の半身―そんな想いが、この所ずっと心のどこかにつきまとっている。

(馬鹿な、何を不安がっているんだ、僕は…ジェームズの妄想に僕まで影響を受けてしまったのか…。だとすれば、これもあいつの罠だろうか。気をつけろ、あいつに付け入る隙を与えれば、僕もアイザックのように取り込まれてしまうぞ)

 本音では、ジェームズのことなど何一つ知りたくない。謎は謎のままで永遠に葬り去ることができれば、いっそ清々するだろう。

 実際、一度はそうしてジェームズを退けることに成功したのだ。しかし、彼はまた舞い戻ってきてしまった。

(敵を攻略するにはまず敵のことをよく知らなければならない…いつだったか、ジェームズの奴にそう言われたけれど、そんなこと、僕だって分かっている。ただ、そうやって、あいつに深入りしすぎることが嫌なだけだ)

 ジェームズに打ち勝つために必要だからと、彼のことを深く知ろうとすればするほど、その得体の知れない心の闇に引きずり込まれてしまうような、言いようのないうそ寒さを、クリスターは感じている。

「何、また難しい顔しているんだよ、クリスター」

 服を着替えて再びキッチンに戻ってきたレイフは、2人で力を合わせてJ・Bと戦うことに決まったというのに、妙にうかない面持ちの兄を見て、怪訝そうに言った。

「ああ、うん…ちょっとね、これからのことを色々考えていたんだ」

 穏やかに微笑んでレイフの追求を避けると、クリスターはテーブルから離れ、弟に歩み寄った。

「ったく、1人で悩むなよ、兄貴。ほら、オレも準備できたし、早く出かけようぜ。これからのことなら、道々一緒に考えようよ」

 レイフはじゃれかかるようにクリスターの肩に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。

「うん…そうだね」

 クリスターの悩みなど夢にも思わぬだろう、レイフの顔はお日様のように明るい。

(ジェームズの心の深淵に潜む闇は、僕がこの胸に密かに飼っている闇とどこか似通っている―そんなこと、レイフにはとても打ち明けられないな)

 唯一無二の相棒と思う弟の手前、クリスターは、ともすれば不安の檻に囚われそうになる自らを強いて奮い立たせるのだった。


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