ある双子兄弟の異常な日常

第三部 第5章 深淵に潜むもの

SCENE4

 ジェームズの屋敷を訪れた数日後、クリスターは学校近くのカフェでダニエルと会っていた。

「一体、どうしてそんな無茶をしたんです! Jのアジトにたった1人で乗り込むなんて、無謀すぎます」

 やはり黙っている訳にはいかないかとクリスターが打ち明けた途端、案の定、ダニエルは顔を真っ赤にして、涙目になりながら怒り出した。

 そんな彼を、クリスターは苦笑を含んだ目で見ている。

「人が真剣に話しているのに、何がそんなに面白いんですか」

「すまない、つい―」

 ダニエルが細い眉を吊り上げるのに、クリスターはさすがに神妙な顔をした。

「大体、あんな広い敷地の中じゃ、何が起こったって外部には分かりようがない…Jの仲間だって大勢いたっていうじゃないですか。無事で帰れたからいいようなものの、Jがその気になっていたら、あなただってアイザックみたいに今頃行方不明ってことになっていたかもしれないんですよ」

 興奮したダニエルがうっかり口を滑らせると、クリスターは微かに頬を強張らせた。

 それに気がついたダニエルは、はっとなって口をつぐむ。

「すみません、クリスターさん…言い過ぎました」

「いや、いいんだよ、ダニエル。君が僕に腹を立てるのはもっともだし…それに、アイザックが今も尚消息不明だという現実も…辛くても、僕らは直視しなければならない」

 アイザック。夏休みに入る前までは、こんなふうなちょっとした作戦会議をする時は必ず一緒にいた友人の顔を、2人はしみじみと思い出していた。

 つい独断で行動してしまうクリスターを、アイザックがいれば、制止できていただろうか。

「アイザックが今どこでどうしているか、その手がかりはJの屋敷では見つからなかったんですか?」

 束の間漂った気まずさを払いのけるように、ダニエルは気遣わしげに聞いてくる。

「…アイザックが撮ったものらしい写真が何枚か見つかった。どういう手段でJがあんなものを手に入れたかは、気になるところだけど―」

 あの閉めきった光の差さない部屋の至る所に張られていた尋常でない数の写真を思い出して、クリスターは体中の血がひやりと冷たくなるような気がした。

「だが、それだけだ。直接アイザックの行方につながる手がかりのようなものではなかった」

「そうですか」

 ダニエルは、残念そうにかわいらしい顔を歪める。

 クリスターに対しては、言っても詮のないことを悪戯に繰り返して騒ぎ立てたりはしないが、彼もまたアイザックの身を案じていることに変わりはない。

(だからこそ、僕が推論していることは僕の胸にだけ秘めておこう。確たる証拠もないのに、この子をこれ以上心配させるは気が進まないからね。僕だって、本当はこんな最悪の可能性なんて考えるのも嫌だ…アイザックは僕達を裏切ってジェームズの側についたのかもしれないなんて―)

 クリスターは胸の内の煩悶をダニエルには気付かせまいと用心しながら、あの屋敷での出来事を思い起こしていた。

(あそこに行けば、ひょっとしたらアイザックが見つかるかもしれないとは…僕も確かに思った。結局アイザックには会えなかったわけだが…それについては安堵と落胆とが半々の複雑な気分だな。あの時思い切ってジェームズを問い詰めるべきだったのかもしれない…アイザックをどこへやった、一体彼に何をしたのかと―だが、そうしていれば…もし本当にジェームズがアイザックを押さえていた場合、僕はいきなり窮地に立たされていただろう。アイザックを盾に取られれば、ジェームズの脅しや要求を拒否しきれなくなるかもしれない…それとも僕は、必要ならば、大切な友人さえも冷酷に見捨てていたのだろうか…?)

 所詮クリスターも自分と同類なのだ、それ見たことかと笑うジェームズの顔が、脳裏に白く閃く。

 クリスターは、ダニエルには見えないテーブルの下で、指先を食い込ませるように自分の脚を掴みしめた。

「アイザックのお父さんは、何か言ってきているんですか?」

 レモネードの中の氷をストローでつつきながら、半ば物思いに沈みこんだ表情で、ダニエルが問うてくる。

「うん。ウォルターとは昨日ちょっと電話で話をしたんだけれど、近いうちにボストンにやって来るそうだよ。もうこれ以上頼りない警察なんかに任せておけない、長期の休暇が取れそうだから、こっちにアパートを借りて、自分の足でアイザックを探し出してやるって息巻いていたよ。さすがに、若い頃紛争地域で命がけの取材をやっていた人は強いね」

 息子そっくりな顔をした、しかし、もっと精力的で豪胆な男を思い出し、クリスターはふと口元をほころばせた。

 ウォルター・ストーンとは、アイザックが消息不明となった時点で、クリスターは一度会っている。

 彼の顔を見た途端、あやふやな説明でごまかせる相手ではないと悟ったクリスターは、腹を括って、コリン達が巻き込まれた不審な事故から、アイザックも含め自分達全員がJ・Bの恨みを買っていること、それについては全面的に自分の責任であることまで打ち明けた。

 するとウォルターは、息子を拉致されたかもしれない父親にしては見事なほど冷静な態度を崩さず、鋭い質問を投げかけてクリスターを追及し、彼とジェームズの根の深い確執にまで及ぶ長い話を聞き出した後、しばらく考えを巡らせると

「大まかな状況は分かった。君が俺のたった一人の息子をとんでもなく厄介な事件を巻き込んでくれたことについては、今更責めても仕方のないことだから、この際水に流そう。それに、アイザック自身が進んで、そのJって悪党と戦うと決めたのだしな。確かに、あいつならそうするだろうさ」

 と、過去の経緯については、短くコメントしただけで、それ以上触れようとしなかった。

「だが、今現在息子が置かれている状況は、俺としても全く腑に落ちないだけに、どうにも気に食わん。親友のコリンが事故に遭ってすぐ、誰に何の説明もなくいきなり姿を消すなんて…一体、どんな事情があるのか―」

 ウォルターのもとには、アイザックが姿を消した後に、一度彼から連絡が入っていたらしい。その時の受け答えに違和感を覚えたものの、まさかアイザックが何事か重大なトラブルに巻き込まれているとまでは分からなかったので、追求することなく、そのまま電話を切ってしまった。

 その後クリスターからの連絡を受けたウォルターは、すぐに西海岸からボストンまで飛んでき、その足ですぐに警察に向かったのだが、誘拐事件の可能性があると訴えても、まともに取り合ってはもらえなかった。

 アイザック本人から家に電話があったのなら、単なる家出だろうと受け取られたのだ。

 それにもへこたれずに、ウォルターは自分のつてやコネを使って警察をせっつき、独自にアイザックの捜索を続けていたが、いつまでたっても埒が明かないので、ついにロサンゼルスの新聞社の仕事を放り出して、事件の片がつくまでこちらに拠点を移すことにしたのだ。

(僕が昨日話した…ジェームズの屋敷で見つかった、アイザックの写真のことをウォルターはどう考えたんだろう。彼がボストンに着いたら、これからのことも含めて話し合わなければならないな。コリンとミシェルの事故の件も、彼は自分で調査していたらしいし、何か新しく分かったことがあれば聞いておきたい。それに、彼がボストンにとどまって本格的に動くつもりなら、サウスボストン署のケンパー警部を紹介してもいい…彼ならきっと力になってくれるだろう)

 ジェームズ・ブラックの前回の逮捕時に知り合い、今また何かと世話になっている刑事のことをクリスターは考える。

 相変わらずケンパー警部は、クリスター達未成年者が犯罪に巻き込まれかねない冒険をすることを奨励しないが、コリンの事故とアイザックの失踪以来、クリスターにまで何かあってはと心配し、気がかりな情報があれば教えてくれる。

 保護観察期間中の要注意人物とはいえ、何も問題を起こしていないジェームズに対して、警察が動くことはもちろんできない。

 しかし、先日起こった、ある事件のために、ケンパー警部は再びジェームズ・ブラックの身辺を捜査し始めていた。

 それはただの偶然であったのかもしれないし、ジェームズという悪が野にとり放たれば、必然として起こったことかもしれない。

 いずれにしろ、ジェームズの弱みを掴みたいクリスターにとって、それは有用な情報だった。

「それで…Jの父親の方はどうだったんです? 本当に、ドクター・キャメロンのカルテにあるような半身不随の状態になっていたんですか、それとも…」

 ダニエルが声を低めて問うのに、クリスターは我に返った。

「ああ…残念ながら、ゴードン・ブラック氏とも会えなかった。彼の寝室だと目星をつけた部屋にもぐりこんでみたんだが、どうやら間違えてしまったようでね。ただ…あの屋敷のどこかに、話に聞くような介護を必要とする病人がいるという印象はあまりなかったな。もっとも、あんなに広い屋敷だから、奥まった場所に移されていたら、人の気配なんて分からないだろうけれどね。ただジェームズのあまり素行のよくない友人達が自由に振る舞っていたことから推測するに、やはり今のゴードン氏は心身ともに全くの無力状態なんだろう」

 ダニエルがきらりとした眼差しで言った。

「それは…あの噂が本当で、もしかしたらゴードン・ブラックは今生きているかも怪しいということでは…?」

「そこまでは言い切れないよ。ジェームズにとってはたぶん、一線を退いたとはいえ、地元の名士であり有力者の父親は生きている方が何かと都合がいいはずだから―」

 クリスターがジェームズの屋敷に入り込んだ直接的な理由は、実は、彼の父親に接触を試みることだった。

 世間に全く姿を見せなくなり、友人達や親戚でさえ連絡を取れなくなったゴードン・ブラックについて、近頃では、実はもう亡くなっているのではという気味の悪い噂が囁かれるようになっていた。

 それだけならばまだしも、更に、ゴードンに近い人間達が、ごく最近続けざまに失踪していた。ゴードンの愛人だった女とその情夫だ。

(この女がまた食わせものでね。父が倒れ、別れ話が出た途端、態度を豹変させて、慰謝料を払えだの訴えるだの―病身の父に負担をかけるのは忍びないからと僕が対応したんだけれど…やっとその女の納得する額の手切れ金を渡して街から追い出すまでは、さすがの僕でさえ辟易させられたよ)

 世間話をするようなのどかな声の裏に冷ややかなものを感じさせる口調でジェームズが話していたことを、クリスターは思い出す。

 ジェームズがあえて話題にしたのは、クリスターの疑惑を薄々感じ取っていたからか。

 あの時のジェームズは自分の身辺に警察の捜査が及んでいる気ぶりも見せなかったが、一度はケンパー警部が彼を訪ねているはずだ。

(別に今のところ、ジェームズ・ブラックは事件の容疑者でもなんでもない、行方不明者の捜査の一貫として、参考までに話を聞きに言っただけがな)

 かつてジェームズを逮捕した警部を再び彼に引き寄せた新たな事件―それは、ゴードン・ブラックの元愛人エバ・ハミルトンの謎の失踪から始まった。エバと深い付き合いのあった男が捜索願を出したことで明らかになったのだが、彼女は多額の慰謝料を要求してブラック家とトラブルを起こしていた。そして、その支払いの件で父親の代理人であるジェームズを訪ねていったきり、エバは二度と戻ってこなくなったのだという。

 だが、その時点では警察はまだ、事件性は薄いと判断して動かなかった。

 その態度が急変したのは、エバの行方を追いながら一方でジェームズを恐喝していたらしい、その男までがある日忽然と姿を消してしまったからだった。

 エバについては、多額の慰謝料を独り占めするために愛人を置いて一人姿を消したとしても説明がつくが、男の場合はそうもいかなかった。 

(ゴードンの愛人だったエバという女もその情夫だった男もどちらもあまり素性のよくない連中だったという…金を搾り取れるとは思ってジェームズに近づいたのだろうとは、ケンパー警部も言っていたが…すると、そんな低俗な連中に強請られる材料をジェームズは抱えていたということになる。父親の世話をしていた相手に謝礼を払うくらいなら、別に揉め事にするようなことはないはずだ。だが、もし何か知られてはまずいことを彼らに知られて、そのために恐喝されていたとしたら? どうしても彼らの口をふさぐ必要があると考えた時、ジェームズならどうするだろう? いや、まさか…とは思うけれどね。あの用心深いジェームズが、そこまで荒っぽいことをするだろうか。少なくともかつての彼なら、自分の立場を危うくするような、そんなへまはしない。だが、もし今のジェームズが、僕が疑っているような状態にあるとすれば―焦りや自棄の気持ちから、何をしでかすか分からない…)

 1年半ぶりに再会した時のジェームズの様子を頭の中に思い浮かべながら、クリスターは自分が仮定した1つの可能性を検証してみた。

 どうしても引っかかるのは、別れ際にジェームズが垣間見せた、その肉体的な脆弱さだ。以前のジェームズには決して、あんなことはなかった。

(ジェームズは僕より1つ年上だから、今年で19才になるのか。ブラック家の男子は総じて短命…彼の母の兄も21才で病死していた―ブラック家の『負の遺産』を受け継いだ男子としては、ジェームズもそろそろ危険な年齢に差し掛かってきたことになるな)

 幼い頃から、ブラック家の双子兄妹には主治医として著名な遺伝学者でもあるドクター・キャメロンが、その私的な研究費の援助を受けることを条件に雇われていた。それほどに兄妹の両親は彼らの健康状態を気にかけていた訳だ。

(ジェームズの妹のメアリは子供の頃に事故で亡くなっているから、彼女にまでその危険性があったかは結局分からなかっただろう。それに双子とはいえ、二卵性なら普通のきょうだいと変わらない。『男子にのみ表われる』という口承が真実なら、ジェームズのみがそれを受け継いでいることになる。確か、ブラック家の血を引く男性はもう本当に彼だけで…傍系の家もほぼ途絶えている。結婚しても子供を持つこと自体を恐がるケースもあったというし、ジェームズの叔父のように独身のまま亡くなった者も少なくない…年を取った、ジェームズの遠い親戚が何人か生きているだけだ)

 考えてみれば、これだけ子孫を残すことが困難な一族がこの時代まで細々ながらも血脈を保ってこられたのは、奇跡のようなことかもしれない。そのことで、莫大な財産を分与によって先細らせることもなく、裕福であり続けたわけだが。

(施設を出所した後、ジェームズは以前よりも頻繁に主治医のドクター・キャメロンと会っている。表向きは定期的な往診を受けている父親の付き添いという形だが、実は、むしろジェームズ自身の健康状態の方をチェックしているのではないか?)

 ゴードン・ブラックのカルテならば、キャメロンのクリニックでアルバイトを続けているダニエルは何度か目にする機会があった。だが、ジェームズのカルテはドクターが自宅の方にいつも保管しているため、一度も見られないそうだ。

(ドクター・キャメロンが保管している、ジェームズのカルテか…。何が書かれているのか、見たいな…)

 クリスターは自分をじっと見守っているダニエルを急に意識したが、一瞬脳裏を過ぎった考えを激しく退けた。

「クリスターさん、難しい顔をして、何を考えているんですか?」

 聡明で人の心の機微に敏感なダニエルに、自分の胸の内を悟られたのではないかと、クリスターはひやりとした。

「ん…ごめんよ、ダニエル、せっかくのデートなのにね。僕ときたら、こんな殺伐とした話ばかりするかと思えば、君を無視して黙り込んだり…本来は楽しいはずの夏休みなんだから、君と2人、せめて近場でもドライブかキャンプくらい行けたらいいんだけれど」

「何を言ってるんですか、クリスターさん。あなたがのんびり羽伸ばしなんてできる状況じゃないことくらい僕も分かっています。それに僕は、こうしてあなたの傍にいて、少しでもあなたのために動いていられるだけで嬉しいんですから、余計な気遣いはなしですよ」

 薄っすらと頬を赤らめ屈託なく返すダニエルを見ていると、クリスターは、こんなに素直でいい子を自分のために危険にさらし続けていることに、今更のように罪悪感に駆られた。

「ダニエル、ジェームズと会ってみて実感したことなんだが…何だか、今のジェームズはかつて僕らが学校から追放したJ・Bよりもずっと危険で厄介な存在になった気がするんだ。君のような子が不用意に近づいていいような相手じゃない…だから、ダニエル、そろそろドクター・キャメロンのクリニックは辞めて欲しいんだ」

「辞めません」

 きっぱりと言い切って、ダニエルはレモネードのストローに杏色の唇を寄せて、ちゅっと吸った。

「僕が頼んでも、駄目なのかい?」

「だって、あなたは、口で言うことと本音とが正反対ということがよくありますから」

 クリスターは先程頭に閃いた身勝手な考えを思い出して、つい押し黙った。

「それに、不用意に近づいていい相手じゃないなんて、僕に内緒でジェームズの屋敷にまで行ったあなたが言うのはおかしいです」

「まだ怒っているのかい?」

「だって」

 クリスターが機嫌を取るように飛び切り優しい声をかけると、ダニエルは顔をうつむけ、ストローの先でグラスの中の氷を突きまわしながら、じっと考え込んだ。

 しかし、クリスターがテーブルの下でそっと脚を動かしてダニエルの脚に触れさせると、すっと逃げてしまった。その手の懐柔策には乗らないということらしい。

「参ったな」 

 クリスターがふっと溜息をつくと、ダニエルは気になるらしく、ちらっと大きな目を向けてきた。

「もう少しだけ…続けさせてください。どうしても気になることが、1つ残っているんです。それさえちゃんと調べられたら、あなたの言う通りにします」

「この上、何か無茶をする気じゃないんだろうね?」

「僕は、あなたより、よっぽど慎重な性質ですよ。それに、仕事をやめると言っても、すぐには無理でしょう。今丁度レセプトの計算をしなきゃいけない時期で忙しいんです、周りに迷惑をかけてしまいます」

「そんなの、どうしても親元に帰らなければならなくなったとか、いくらでも言い訳はできるだろ」

 クリスターが語気を強くしても、ダニエルは、彼に心配してもらえて嬉しいとでもいうように、優しげに微笑むだけだ。

「僕なら、本当に大丈夫ですから、心配しないでください」

「しかし―」

 ダニエルの状況判断能力を疑っているわけではないが、恋人に尽くしたいという一途な幼い恋心に、クリスターはふと危うさを覚えた。

「そんなことよりも、クリスターさん、レイフさんとは、その後ちゃんと話し合ったんですか?」

 ふいを突かれて、クリスターはコーヒー・カップを持つ手を震わせた。

「レイフと…?」

「ええ。ジェームズの企みでヘレナおばさんがあんなことになって、家族としては大変な時期なのは分かりますけれど…そのごたごたに紛れて、あなたはまた一番苦手な問題を先送りにしているんじゃないですか?」

「また随分と手厳しいね、ダニエル」

 そこはダニエルにでもあまり追求されたくない所だったので、クリスターはつい嫌そうに顔をしかめた。

「確かに、あいつとの間にある齟齬やら軋轢やらは、棚上げにしたままだけれどね。このままにはできないと分かっているよ。でも、せめて家の中が少し落ち着くまではと一時休戦中なんだ。この上僕らの仲まで悪化して、ただでさえ気落ちしている両親に心配はかけられないからね。目下の所、僕もレイフも周りの様子を窺いながら、話を切り出すタイミングを見計らっているというところかな」

「また、そんな理由をつけて…ねえ、クリスターさん、あなたのせっかくの決心を挫くことを言うようで悪いんですけれど、あなたはやっぱりレイフさんを必要としているんですよ。よほど考え抜いた末に進学やフットボールでも、レイフさんと決別する選択をしたんでしょう。…僕も、そう思い切った方があなたのためだと考えていたこともありました。でも、結果として、あなたが少しも幸せになれないのなら、やっぱり、そんな無理を自分に強要することはないんです」

 クリスターはダニエルの優しい言葉をほろ苦い気分で聞いていた。

 レイフを失った後、自分にまだできることを積極的に探そうとか幸せになろうとか、もともとクリスターは考えていない。むしろ、半ば自棄的な気分で諦めている。

(せめて、この子のことは、できるなら幸せにしてあげたいとは思うけれど…こんな抜け殻のような僕に、他人を愛して幸福になどできるのだろうか…?)

 クリスターの瞳が暗く沈んでいるのにも気付かず、ダニエルは真剣に彼の説得を続けている。

「それに―僕も、今あなたが置かれている状況を見れば、やっぱりレイフさんに傍にいてもらいたいと思います。あなたは、どうしてもJ・Bとの争いにレイフさんを関わらせたくないようだけれど…1人でJと対峙するのは、いくらあなたでも負担が大きすぎる。あなたには、自分の考えを素早く読み取って一緒に動いてくれる、あなたを補助し、時には守ってくれる…そうして、あなたが暴走しそうな時は阻止してくれる…それだけの能力があって、あなたの信頼も厚い、副官の役割を果たせる人が必要なんです。残念だけれど、僕には、そこまでの力はありません。せめてアイザックがいればと口惜しく思うけれど、今それを言っても仕方がない…ケンパー警部やアイザックのお父さんは頼りになりそうだけれど、それぞれまた違った立場にいる人達ですし…ねえ、クリスターさん、あなただって、レイフさんがいてくれたらどれだけ助かるだろうって思うでしょう?」

 その一瞬、ダニエルの何気ない言葉がクリスターの胸を揺さぶった。

(辛い時、哀しい時、こんなふうに何も言わずにただ一緒に時間を過ごすだけで癒される相手がいる…何て幸せなことなのだろうね、レイフ)

 ヘレナが流産した夜、病院の薄暗い階段の片隅でひっそりとレイフと寄り添い会っていた時に感じた温かさの記憶を、クリスターは蘇らせていた。

 あんなふうに2人で支えあって生きていきたい―胸の中心に隠された、クリスターの本心は今でもそう叫んでいる。しかし―

「弟に支えてもらおう守ってもらおうなんて期待するほど、僕はまだ落ちぶれてはいないつもりだよ」

 クリスターが固い声で苛立たしげに吐き捨てるのに、尚も言い募ろうとしていたダニエルは顔を強張らせ、黙り込んだ。

 気まずい空気が、向かい合って座っている2人の間に漂う。

 クリスターはしばし瞳の奥に熾火をくすぶらせながらダニエルの青ざめた小さな顔を睨んでいたが、やがて、そんな自分に恥じ入るかのように頭を振った。

「クリスターさん…」

 胸の奥から振り絞るように、クリスターは言った。

「ごめんよ…レイフのことを追求されるとつい僕は感情的になってしまう」

 理不尽な当り方をしたのに少しも揺るがないダニエルの澄みきった眼差しを避けるよう、クリスターは視線を窓の外に向けながら付け加えた。

「心配しなくてもいいよ、ダニエル…進路のことはともかく―ジェームズ・ブラクの復活に気づいてしまったレイフを今更1人蚊帳の外にはできないことは、僕も充分分かっている。僕の気が進まなくても、多かれ少なかれあいつにも一定の役割を課さないことには、あいつは自分勝手に動き出すだろう―そちらの方が僕には恐い」

「それじゃあ、レイフさんにもちゃんと事情を打ち明けて、協力してもらうんですね?」

 ダニエルはほっと胸を撫で下ろしたようだ。

「助けになるどころか、むしろ足を引っ張られかき回されそうな気がして、嫌なんだけれどね」

 むっつりとクリスターは呟く。

「フットボールの試合でもいつも、あんなに息のあっているあなた達じゃないですか。きっと大丈夫ですよ」

 ダニエルがいやに嬉しそうなのは、これをきっかけにクリスターとレイフが歩み寄って再び絆を確認することを期待しているのだろう。

 だが、ダニエルはそれでいいのだろうか。いつも弟のことばかり考えている恋人に、普通なら不満や怒りを覚える所だろうに、こんなふうに気遣ってばかりいる。

(どうしてこの子は、もっと僕の心を自分に向けさせようとしないのかな…僕達が付き合い始めて二月以上経つ。そろそろ気安く打ち付けてきてもいい頃なのに、そういう意味では、全く進展がない。大体2才も年下のダニエルが僕に対して物分りよく振る舞う必要なんかないんだ、もっと正直な感情をぶつけてくれたっていいのに)

 クリスターは、奇妙な苛立ちともどかしさを覚えていた。

(もしかしたら、この子は…僕に愛されることなんか全く期待もしていないのか…?)

 クリスターは、はっと胸を突かれて、ダニエルの透き通るように綺麗な笑顔を見返した。

 本当なら、恋人に対してもっと素直な我が侭や甘えを見せて当たり前の年頃なのに、ダニエルはいつも気持ちを抑えている。自分達が今もって、自由で伸びやかな恋愛関係を構築できていないという証拠だ。

(だとすれば、僕のせいだ…この子を可愛いと思いながら、それ以上に愛することはできず、不自然な関係を続けている。もしもダニエルがもっと馬鹿な子だったら、この期に及んで誠実ぶることもないからと僕もいっそ割り切って、うまく騙すこともできただろうか…たとえ嘘でも、その方がダニエルにとってはまだ幸せだったろうか…?)

 恋人と呼ぶ人すら幸せにできない、自分の無能さ加減に腹が立つのを通り越して哀しくなりながら、クリスターは堪らず、テーブルの上のダニエルの手を強く掴んだ。

 ダニエルは不思議そうに首を傾げて、クリスターの思いつめた顔を見上げた。

「ダニエル、僕は―」

 その表情のあどけなさに胸を塞がれ、ともすれば口をついて出そうになる様々な言い訳やごまかしや嘘を飲み込むと

「…すまない」

 クリスターは、やっとの思いでそうとだけ言った。

 使い古された言葉だと我ながら苦々しかったが、クリスターには他にダニエルにかけるべき適当な言葉が見つからなかったのだ。



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