ある双子兄弟の異常な日常

第三部 第5章 深淵に潜むもの

SCENE 3

 クリスターがジェームズと共に屋敷の外に出ると、そろそろ夕方に差し掛かったこの時刻、日差しはまだ強いが爽やかな風が吹いていた。

 綺麗に刈り込まれた芝の上を2人はゆっくりと歩いていく。

 広々とした丘の上では、数人の少年達がブーメラン投げをしていた。先程サロンで会った、物騒な雰囲気を漂わせていたグループのようだが、さんさんと降る陽光の下で弾んだ笑い声をあげながら遊んでいる様子は、普通の子供達とそう変わらない。

 それを横目に、クリスターはジェームズの後ろについて、庭園の奥に広がる林の中に入っていった。

 鳥のさえずりや羽ばたきが時折響き渡る、木立の間に作られた乗馬用の道を無言で進んでいくと、やがて、目の前に綺麗な水を湛えた大きな池が現れた。

 池の前の空き地には、白やピンクの可憐な草花が咲いている。

 クリスターは立ち止まって、ジェームズが何かに引き寄せられるように池に近づいていくのを眺めていた。

 ジェームズは池の畔に佇み、ズボンのポケットから取り出した金色の小さな時計に触れながら、じっと物思いにふけっている。そうすることが、ほとんど無意識の癖になっているようだ。

 クリスターはふと、先程屋敷で見かけた幼い双子の写真を思い出した。あの階段を通る度、ためらいながらも、そこに存在することを確認せずにはいられなくなって何度も眺めてしまった、ジェームズと彼の失われた半身の姿。

 ジェームズに共感してしまうのは危険だとクリスターは固く自分に言い聞かせてきたのだが、あんなものを目の当たりにすると、つい心がぐらつきそうになる。

「あ」

 いきなり手を滑らせ、時計を地面に落としてしまったジェームズは、幾分慌ててそれを拾おうとするが、また取り落としてしまった。なぜか、手にうまく力が入らないようだ。ジェームズは強張りをほぐそうとするようにゆっくりと指を曲げ伸ばししている。

 何かしら放心したように前日の雨のせいでぬかるんだ地面の上に落ちた愛用の懐中時計―彼の妹の骨が封じ込まれている―を見下ろしているジェームズの後ろ姿に、クリスターは次第に落ち着かない気分になってきた。

「ジェームズ」

 クリスターは大股で歩み寄って足元に落ちている時計を拾い上げ、ジェームズの胸の前に無造作に差し出した。

「大事なものを、こんな場所に落とすなよ」

 クリスターがしかめ面をしてたしなめると、ジェームズは驚いたように軽く目を見開き、ちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。

「そうだね。ありがとう」

 クリスターはジェームズの笑顔からとっさに目を逸らした。

「メアリはね、この池で溺れて死んだんだ」

 何かしらはっとして、クリスターは目の前に広がる森閑とした深い池を眺めやった。

「当時のメアリは、鴨の親子を見に、よくこの池に来ていたんだ。子供達だけでは行かないように母にはきつく言い聞かせられていたんだけれど、実際には、そんな言いつけなど守らないことが多かった。その時も、近くで雛達を見ようとして足を滑らせ池に落ちたということのようだった。ただ本当のところは分からない。彼女の死体を最初に発見したのは僕だった…でも、彼女の死に関しては、頭の中に濃い霞がかかったように、僕は全く覚えていないんだ。片割れを急になくしたショックのせいで、僕は記憶だけでなく言葉さえも数ヶ月間失っていた。僕の治療には主治医のドクター・キャメロンと彼の仕事を手伝っていた精神科医のドクター・ワインスタインがあたった。ワインスタインの催眠療法のおかげで僕は再びしゃべれるようにはなったけれど、それでも妹の死の前後の記憶だけはきれいに抜け落ちている。たぶん、僕にとって思い出さない方がいいことだからだろうね」

 クリスターは黙ってジェームズの言葉に耳を傾けながら、考えを巡らせていた。

 ドクター・キャメロンは現在でもブラック家の主治医を務めている、ジェームズと関わりの深い人物だ。今、ダニエルが彼のクリニックに潜入して、ブラック家の、ひいてはジェームズに関する、ある秘密を探り出そうとしている。

「君の妹の突然の死から、ブラック家にはしばらく不幸が続いたそうだね。すぐ後に君達の家庭教師が自殺し、君を治療したその精神科医も確か自動車事故にあって…」

「ああ、ワインスタインも亡くなった。僕の母もずっと後に神経衰弱が高じて自殺してしまったし…あんまり悪いことが続くものだから、周囲に変な噂をたてられて父も困っていたようだよ」

 クリスターはふと眉を顰めた。ジェームズの今の言葉とクリスターが調査したことの間には僅かに差異がある。精神科医のワインスタインが事故に遭ったのは事実だが、かろうじて命は助かったはずだ。

「噂というのは、でも、あながち馬鹿にできない時もあるよ。君の周りは実際、常に不慮の事故や死や痛ましい事件に溢れているじゃないか、ジェームズ。子供の頃だけでなく、それは今も変わらない」

 皮肉を込めて言うクリスターに、ジェームズは痛烈な揶揄で返した。

「そう言う君だって、同じようなものだろう? 家族があんな事件に巻き込まれただけでなく、ついこの間、君の友人達が不慮の事故に遭ったばかりだよね、クリスター」

 瞬間クリスターの胸の奥で燃え上がった瞋恚の炎を感じ取ったかのように、ジェームズは素早く身を引いた。

 2人は池の畔に立ったまま、しばし無言で睨みあった。

 池の周りに生い茂る草や木々の梢を風が揺らし、ジェームズの柔らかそうな金髪を撫でている。足元の水の中では、魚が水飛沫を上げて跳ねる音が聞こえた。

 世界はこんなにも穏やかに見えるのに、相容れない敵同士である自分達だけが、そこから隔絶した存在であるかのようだ。

「君は、僕をどうしたいんだ? 一体…僕にどうして欲しいんだ?」

 クリスターが思わず率直な問いを投げかけると、ジェームズは何か言いたげに唇を動かした。しかし、すぐに気を変えたかのようにクリスターから目を逸らし、池の方に体を向けた。

「ジェームズ」

 ジェームズは黙然として答えず、池の中をじっと覗き込んでいる。

 クリスターはジェームズの隣に立って、彼が何をそれほど熱心に見ているのか確かめようとしたが、明るい光の踊る水面にはぼやけた自分達の影が映るばかりだ。

「僕は昔からちょっと変わっていたんだ」と、ジェームズが静かな声で語りだした。

「普通の子じゃないと、母は小さな頃から僕を毛嫌いしていた。僕自身も、自分が周りにいる他の人達とどこか違うということは早くから感じ取っていた。1人だけ違う星から来て偶然ここに迷い込んでしまったかのような疎外感にいつも付きまとわれていたけれど、周りにうまく合わせて溶け込む努力は怠らなかったよ。おかげで友達はできたし、母以外の大人達からも可愛がってもらった。でも、僕は誰のことも本当に好きなわけではなかったし、他人になど何の興味も関心もなかった。僕の仲間はメアリだけだった」

「君の妹も…『普通』の子供ではなかったのかい?」

「いや、メアリは僕と違って、ここにちゃんと居場所を持っていた。友達のことも好きだったし、彼らに共感することもできた。一方で僕の疎外感も理解していたから、僕が寂しがらないように傍にいて、僕とこの世界の橋渡しになろうとしてくれたんだ。だから、メアリを亡くすことによって、僕はこの世界との接点も完全に失ってしまった…何だか糸が切れた凧にでもなったような気分だったよ」

 ジェームズの手はまたポケットの中の時計を神経質に探っている。

「僕はこの先死ぬまで独りだと自覚した途端、何だか自分を歪めてまで周りに合わせようとすることが急に馬鹿らしく思えてきた。もう、いい。僕は彼らに何の期待もしない。僕の人生だ、好きなように生きて何が悪い。そう割り切った途端、急に心が軽く、晴れわたったような気がしたよ。確かにメアリの死は辛かったけれど、おかげで僕の魂は解放されたんだ。僕はもう何も恐くない…いいものだよ、自由は」

 ジェームズは両腕を大きく軽く広げて、清々したというように微笑んだ。

「何だか君は、妹の事を大切な片割れだと言っておきながら、一方でその死を歓迎しているかのようだな」

 ジェームズの態度に不快感を覚えたクリスターの口調は固い。

「結果として、僕のためにはよかったのかもしれないというだけの話だよ。もっとも、いいことばかりではなかったけれどね。どうせ僕と分かり合える人間などいるはずがないと割り切って付き合っていても、そうなるとやっぱり退屈でつまらないんだ、毎日が…学校でも、社交界でも、気晴らしに通い始めた夜の街でも…会う人間会う人間、簡単に底が見えてしまって、僕を倦ませる。そろそろ本気で生きることにうんざりし始めていたんだ。君を見つけるまではね、クリスター」

 ジェームズの矛先がまた自分に回ってきたことを感じて、クリスターは気持ちを引き締める。

「自分の望むままに生きてきたつもりでも、僕はこれまでの人生で、どんな満足も幸せも得られはしなかった。一体僕は何のための生きているのだろう。退屈しのぎの悪戯やゲームで時間を費やしてきただけで、僕の心はいつも空っぽのまま、満たされたことなど一度もない…死ぬまで、こうなのか…嫌だ!」

いきなり激しい焦燥感に駆られたかのように、ジェームズは叫んだ。

 そのまましばし、ジェームズは放心したような眼差しを周囲に彷徨わせていたが、やがてクリスターに辿りつくや急にまた生き生きとしてきた。

「独りでいることにもすっかり慣れたと思っていたのに…僕は結局、なくしてしまった自分の半分を無意識にずっと探してきただけのような気がする…メアリが欠け落ちた部分にぴたりとあてはまってくれる誰かを―そう、クリスター、君は僕の理想の相棒に限りなく近いんだ」

 全身の血が逆流するかのような嫌悪感に、クリスターは鼻をしわめ、歯を剥いて、吼えるように応えた。

「生憎だな、ジェームズ。僕は、僕だ。君の死んだ片割れの身代わりになどなれるものか」

「今はそんなことを言っている君だって…唯一無二の相棒を失えば、自分の胸にぽっかりと開いた空虚を満たしてくれる、他の何かを求めてさ迷うことになるんだよ。もしかしたら、その時にこそ、僕達は本当に分かりあえるのかもしれないね。クリスター、もしも君が本当にレイフを諦めるつもりなら、自分の半分をなくしたもの同士、僕達はきっといい一対になれるはずだと思うけれどね」

「僕にも選ぶ権利はある」

「もしも君が僕のものになってくれたら、僕は君の家族や友人達にこれ以上危害は加えないと約束する。そして、君が他の何にも増して守ろうとしているレイフからも永遠に手を引く」

 とっさに言い返せなくなって黙り込むクリスターに、ジェームズは悪魔のような甘い声で更に言い募った。

「クリスター、君さえよかったら、このままここに残って僕と一緒に暮らさないか?」

 石と化したかのように立ち尽くしているクリスターの肩にジェームズの手がかかり、全てを飲み込もうとする貪欲な闇を秘めた双眸がクリスターの見開かれた目を捉えようと迫ってくる。

 そして―。

「断る」

 鋼を思わせる、びんと響く声が、クリスターの口から放たれた。

「僕は、何があろうと決して君のものになどならない。それだけは、死んでもごめんだな」

 一片の迷いも共感もない冷然とした態度で、彼はジェームズの手を払いのけ、その体を池の方にぐっと押し返した。ジェームズは池の縁で足を踏み外しかけ、軽くよろめいたが、その目は執拗にクリスターの冷たい顔にあてられている。

「何があろうと決して、か」

 体勢を立て直したジェームズは、胸に手をあてながら、感に堪えないといった口調で囁いた。

「ああ、それでこそ君だよ、僕の愛するクリスター」

 ジェームズの白面に、実に愉快で満足そうな笑みが広がる。

(この…!)

 遊ばれたと気づいた瞬間、憎悪の奔流がクリスターの胸の奥から迸り、体の隅々まで流れていった。

「僕がこう答えるだろうと初めから分かっていたくせに…あえて言わせたな…!」

 芝居がかったジェームズのやり方に辟易しながら、クリスターは吐き捨てるように言い返した。

「あはは、ごめんよ、君との会話自体が僕には楽しくてならないものだから、つい回りくどくなってしまう。でも、君の方にも、僕の答えなど分かっているくせに、どうしても言っておきたい一言があるんだろう? せっかくだから、言ってしまえよ、もしかしたら僕の気持ちを変えられるかもしれないし?」

 クリスターは、悔しげに唇を噛み締めた。

「僕のことはいい…だが、僕の愛する人達にはもう手出しはするな、ジェームズ」

「さあ、どうしようかな…残念ながら、その件についての交渉は既に決裂している。君が今、僕の妥協案を断ったことによってね」

「そう返すと思ったよ」

「うん、だからね、後はやっぱり、僕達のゲームで決着をつけるしかないよね」

 浮き浮きとした声で告げるジェームズは、大好きな遊びに夢中になっている無邪気な子供のような顔をしていた。

 それを、煮えたぎるような気持ちで眺めながら、クリスターは密かに思った。

(ジェームズは、僕達はよく似ていて、その気になればいい相棒になれると言った。しかし、僕達が分かり合えるのはお互いを陥れ、食い合おうとする、こんな殺伐としたゲームを通じてのみだ。それさえも一種の魂の交感なのだとジェームズには感じられるのだろうか。吐き気がする…ジェームズの狂気にも、当たり前のように、そんな彼に対応している自分にも―)

 クリスターは、身の内で、今にも爆発せんばかりに膨れ上がってくる激情を必死で押さえ込もうとしていた。しかし―。

「クリスター」

 愛しげに自分に呼びかける、ジェームズの声を作る音のひとつひとつに肌が粟立つ。

(僕にだって、どうしても我慢しきれない、許せないものがある。感情をさらけだすのは得策でないと分かっていても、こいつだけは、どうしても無視しきれない)

 じっとりと汗ばんだ掌の内に、クリスターは何かを掴みしめ、押しつぶそうとした。

(そうだ、僕は、こんなにも他人を憎んだことなどない。こいつの発する悪魔のような一言一言が、僕の神経を逆撫でしてくる…いっそ、こいつの喉を握り潰してでも黙らせてやりたいほど、僕は―)

 そんなにも憎いなら、いっそ殺してしまえばいい! クリスターの中に巣食う凶暴な獣がそう叫ぶ。

 クリスターは、がんがんと鳴り響き、激しく痛みだす頭を手で押さえた。

 そんなクリスターを見守るジェームズの双眸が妖しく細められる。 

「君は今、僕を殺したいほど憎悪しているね。嬉しいことだよ、クリスター、そんなにも強い感情を君が僕に向けてくれるなんてね。あんまり心地よくて、つい、君になら殺されてやってもいいかなと思ってしまいそうだ」

 一体何を考えているのか、ジェームズは陶然と目を閉じて、爆発寸前のクリスターに両手を差し伸べながら誘うようにそっと喉を反らせた。

(この…何て奴だ…!)

 挑発だとは分かっていたが、ここに至って、クリスターは自分をもはや制御しきれなくなった。

 正常な判断を狂わせるもとだと、ここに乗り込むにあたって退けてきた記憶、何を見聞きしても揺るがぬよう押さえつけてきた感情が一気に弾け、激しい波となってクリスターに押し寄せてくる。

(こんな奴の口からいきなりアイヴァースの死を聞かされるなんて…あの原稿は、僕のために彼が残してくれたものなのに、それを勝手に盗み読んで、僕の全てを知った気になっている…許せるものか)

 一端堰を切って溢れ出した熱い感情のうねりの前には、それを堰きとめようとする理性や知性の力など何の役にもたたない。クリスターはもはやなす術もなく、押し流されるしかなかった。

(あの閉めきった暗い部屋の壁一面に張られていた写真…ああ、アイザック、君はどこに行った…今も無事でいるのか?)

 行方知れずの友への思いに心が締め付けられた後は、愛する家族を襲った辛い出来事が、クリスターの脳裏にフラッシュ・バックのようにうかびあがっては消えていった。

(死んでしまった小さな命…母さんも父さんも深く傷ついて悲しんでいる…そして、レイフ―なあ、死んじゃったあかちゃんって、結局どっちだったのかなぁ―そうだ、レイフは泣いていた…もっと早くに僕がジェームズの存在に気づいていれば防げたかもしれないのに、母さんも僕達のきょうだいも守れなかった…)

 クリスターの中で、ふつふつと煮えたぎる泡の中で生まれた怒りがやがて純粋な殺意にまで昇華されていくのを見透かすかのように、ジェームズは楽しげに囁きかけた。

「あ、君の瞳の色が今変わったよ、クリスター。攻撃行動に出ようとする時の虎の目のような金色に輝いて、ぞくぞくするくらいに綺麗だ。ねえ、知っていたかい、君は元来とても感情的な人間だってこと? クールぶってはいるけれど、本当はすごく激情家で、一端感情の堰が切れるととどめることができず、行き着くところまで行ってしまう。そんな自分が恐いから、常に抑制しようとするんだろ?」

 クリスターは、唇の端を僅かにあげながら悠然としゃべり続けるジェームズの唇を見、シャツの間から覗くすっきりとした白い喉を見た。

(この距離ならジェームズに逃げる暇も与えずに飛び掛って、その首をへし折ることくらい容易いな)

 熱くなっているくせに妙に芯の冷めた頭で、クリスターは想像した。

「僕は今でも忘れられないよ。君が銃を片手にここに乗り込んできた夜のことを…今にも火を噴きそうな目で僕を睨みつけながら自分の頭に銃口を突きつけて、ためらいもなく引き金を引いた。罠だということは僕も薄々感じ取っていたんだ。でも、どうしても…命がけのゲームに僕を引き込もうとする君を拒めなかった。僕はとても興奮していたし、それにたぶん生まれて初めての恐怖を他人に対して覚えた。だってね、君は…あの時、僕を殺してもいいと半ば本気で思っていたんだ。銃に細工をしていたんだって? だから、君には何発目で弾が出るか予め分かっていた。僕の番でそうなるはずだったんだろう? 僕が途中で降りたからいいようなものの、もし僕が降りなかったら…君は果たして僕が自分の頭を撃ちぬくのをとめただろうか? いや、とめなかっただろうと思うよ。だって僕は、あの時の君の瞳を間近で覗きこんだんだ。僕の頭蓋が砕けて脳漿が飛び散る瞬間を待ちわびて、凄まじい殺気を放っていた。今の君は、それと同じ目で僕を睨みつけている。隠すことなどない、そう、一度くらい自分に正直になれよ、クリスター…僕を殺したいんだろ?」

 なぜ、こうまでして自分を煽ろうとするのか―そんな疑問が一瞬クリスターの脳裏に浮かんだが、突き上げてくる破壊衝動の前に雲散霧消した。

 ほとんど意識もせず、腕に、脚にぐっと力が蓄えられるのをクリスターは感じた。すっと上げられた右手が、凶器と化して、吸い寄せられるようにジェームズの喉笛に伸びていこうとする。

(駄目だ、やめろ!) 

 自分の理性の叫びを空しく聞いた、その刹那、クリスターの耳は、空気を切り裂く異様な音が後方から迫ってくるのを捉えた。

「!」 

 反射的に体をずらして危険を回避したクリスターのすぐ脇を、物凄い勢いで飛来した物体が掠めた。それは旋回しながら、池の上で大きなカーブを描いて再び戻ってきたかと思うと池の傍の茂みの中に突っ込んだ。衝撃音と共に、断ち切られた小枝や草の葉が飛び散る。

 ふいを突かれたクリスターは喫驚したが、その目はしっかりと今見たものの正体を捉えていた。

「ダミアン」

 ジェームズがたしなめるような声音で呼びかけた先を振り返ると、1人の小柄な少年が木の陰からひょいと姿を現した。

「悪戯が過ぎるな。僕の大切な客人に向かって、なんてことをするんだ」

 ジェームズに叱られた少年は不服そうにちょっと唇をすぼめた。そうして、先程茂みの中に墜落した飛行物体―競技用の大きなブーメランを拾いあげ、池の畔に立っていたジェームズのもとにまろび寄ってきた。

「こら、お客様にちゃんと挨拶をして、それから今の非礼を詫びるんだ」

 少年はジェームズの背中に取り付いて、どうしようかと迷うようにじっとクリスターを窺い見た。

 突然の新手の乱入のおかげですっかり正気を取り戻したクリスターは、つい興味を引かれて、しげしげと少年を観察した。

 背格好がダニエルに少し似ているが、年は彼よりもっと下かもしれない。

 銀というよりほとんど白に近い髪は、前髪の一房に紅いメッシュが入っている。肌の色も異様に白い所を見ると色素欠乏症なのかもしれない。人形のように整った顔立ちの中で印象的なのが、生き物の目というよりも鉱物めいた無機質な光を放つ、鮮やかな緑色の瞳だ。

 先程丘の上でブーメラン遊びをしていたグループの1人だろう。クリスターとジェームズが2人で歩いていくのを見咎めて、後をつけてきたのか。

「ごめんなさい」

 少女のように甲高い声で少年はクリスターに言ったが、こんなふうにじっと身構えられていては、少しも謝られている気がしなかった。

「でもさ、何だか、あんたがJに襲い掛かろうとしているように見えたから」

 クリスターの頬が僅かに引きつった。

 確かに、その通りだった。怒りのあまり、危うく我を忘れそうになっていた。この少年が止めなければ、クリスターは本当にジェームズを傷つけていたかもしれない。

「僕からも謝るよ、クリスター。怪我がなくて何よりだった」

 故意にクリスターを煽っておきながら、ジェームズは何事もなかったかのような和やかさで続けた。

「この子は、ダミアン・ハート。僕の友人の弟でね、色々事情があって、今は僕が預かっているんだ」

「ハート?」

 聞き覚えがある名前だったので、クリスターはつい聞きなおした。

 そうだ、ジェームズが関わっていたストリート・ギャングのボスがそういう名前の青年だったはずだ。麻薬の売買、武器の不法所持、殺人の容疑で逮捕され、今は刑務所に収監されている。

(そいつの弟か)

 ジェームズの陰にじっと隠れている少年のまだ幼さの残る顔を、そこに自分に対する恨みはないかと探るようにクリスターは見てしまった。

「ねえ、J、そろそろ屋敷に戻ろうよ。あんまり長く姿を見せないと、フレイだって心配するよ」

 ダミアンはクリスターよりジェームズの方が気になるらしく、彼の服の裾を軽く引っ張りながら、甘えた声で訴えかけている。

「…そうだね」

 何とも子供じみた少年の仕草に警戒心を緩めかけたクリスターだが、その時、自分を見やった鮮やかな緑色の瞳の奥に閃いた残酷な光に、はっと息を飲んだ。

「この人のことは、結局、どうするの? 今、ここで始末をつける?」

 一瞬耳を疑うような恐ろしい台詞を、あどけない顔をした少年はさらりと言って、ジェームズの指示を待つかのように首を傾げた。

「ダミアン」

 ジェームズは少年の不調法をたしなめるかのように顔をしかめ、それから、改めてクリスターに向き直った。

「君をどうするか…確かに、せっかく僕の手の内に飛び込んできてくれたものを、このまま何もせずに返すのは惜しいかな」

 クリスターは一瞬、ジェームズの見開かれた瞳の中に広がる暗黒に引き寄せられ呑み込まれてしまいそうな感覚に襲われた。

 無傷ではここを出られないかもしれないとクリスターは半ば覚悟を決めたが、意外なことに、ジェームズはあっさり引き下がった。

「本当は君を離したくはないけれど、でも…そうだな、今日の所は帰りたまえ、クリスター。屋敷にはもう戻らない方がいいだろう…僕はともかく君を快く思っていない他の連中が何かしでかさないとも限らないからね。このまま林を抜けてまっすぐ駐車場に行くんだ。アイヴァースの残した原稿は、僕がロバートに頼んで、すぐに君のもとに持って行かせるから」

 クリスターは当惑しながらジェームズの親切そうな申し出を聞いていた。

「よかったね、あんた、命拾いしたよ」

 ジェームズの腕に自分の細い腕を巻きつけながら、ダミアンがチェシャー猫のように笑った。

「ジェームズ」

 まだ納得しきれていないクリスターが呼びかけるのに、ジェームズはくるりと背中を向けた。

 その時、以前に比べて彼がかなり痩せていることにクリスターは改めて気がついた。細い首、骨ばった手。その華奢な肩がゆっくりと上下するのを、今初めて見るかのような不思議な気持ちで見守った。

「いいから、帰れ。僕も今日は興奮しすぎて疲れてしまったし、君にも心の整理をする時間が少しばかり必要だろう…焦って今決着をつけようとしなくても、どうせ、すぐにまた僕達は対峙することになるんだ」

「では、次に会う時が君の最後だな、ジェームズ。こんな不毛な闘いはさっさと終わらせて、今度こそ君との因縁を断ち切ってやる」

 ジェームズはしばし黙り込んだ。

「確かに、僕も…これ以上君との勝負を長引かせることはできないだろうな。終わらせてしまうのは惜しいけれど、人生のうちの楽しい時間は、いつだってとても短いものらしいから」

 その声はふいに弱々しくかすれて、ジェームズが本当に疲れきっているのが感じられた。

 ダミアンが、支えようとするかのようにジェームズの体に手を回す。

(クリスターさん、あなたが以前気にしていた、ブラック家の血にまつわる謎というのがありましたよね…?)

 そんな2人の様子を眺めながら、クリスターは、いつだったか、ダニエルが熱心にかき口説いていた言葉を思い出していた。

(うまくいけば、Jの弱点が分かるかもしれない。あなたが以前推理したことが、もし当たっていれば―あなたは彼に対して圧倒的な優位に立てる。たぶん、この先二度とJ・Bの影に脅かされずにすむ…)

 クリスターが口を開こうとすると、それより先にジェームズが別れを告げた。

「近いうちにまた会おう、クリスター」

「ああ、ジェームズ」

 ジェームズがそのまま後ろを振り返ることなく、白い髪の少年に伴われて屋敷の方に向かって歩き出すのをクリスターはその場で見送った。

 クリスターがジェームズ・ブラックとこんなふうに直接会って話をしたのは、およそ1年半ぶりのことだった。

 年月は人を変える。ジェームズも昔のままの彼ではないということだろうか。

 内面から滲み出る禍々しさは以前と同じ、もしかしたら一層強烈なものになって、クリスターを翻弄した。だが、それに反して、肉体的にはむしろ脆弱さが目立つ。

(あいつが僕に弱みを見せるまいと無理をしていたとすれば、余計に消耗して、後でどっと疲れが出るのも当然だが…)

 ゆっくりとした足取りで林の中の乗馬道を歩いていくジェームズの後ろ姿を冷静な観察者の眼差しでしばし探ってみた後、諦めたように頭を振ると、クリスターもまた池を後にし、車をとめてある駐車場を目指して歩きだした。

(どうやら本当に、このまま無事に帰してもらえるようだ)

 ジェームズと別れてしばらく歩いた所で、クリスターはやっと肩の力を抜いた。たちまち、ひどい疲れを意識する。消耗したのはお互い様だったのかもしれない。

(それにしても、我ながら思い切ったことをしたな…後でダニエルに聞かせたら、何て無茶をしたんだと涙ながらに叱られそうだ

 駐車場でしばらく待っていると約束どおりロバートが現れたので、アイヴァースの遺稿を受け取り、クリスターはそのまま屋敷を後にした。

 ジェームズが最後に何か仕掛けてくるという危惧も少しはあったが、結局、何も起こらなかった。

 つまり、クリスターとジェームズが本当の決着をつけるのは、次回に持ち越しということだ。





 疲れた目を傷めない程度に照明を落としたリビング。ステレオからは心を落ち着かせるピアノ曲の旋律が流れている。

「…本当に、あいつをあのまま帰してしまってよかったのかよ、J?」

 皮張りの大きなカウチに身を横たえて静かに目を閉じているジェームズに、その傍に寄り添うよう、床にぺたんと座り込んでいるダミアンが緑の瞳を妖しくくるめかせながら問いかけた。

「そうだねぇ。今思うと、惜しかったかな」

 ジェームズは少年の柔らかな髪をぼんやりと手で撫でてやりながら、うつらうつらしていた。この頃彼は非常に疲れやすくなっており、今日のようにとても興奮する出来事があった日の終わりには、心身ともにぐったりしてしまうのだ。

「でも、それではやっぱり面白くないと思うんだ。クリスターを精神的にもっと追い込んでやるような舞台と仕掛けが…まだ足りないから―」

「いつになく慎重だね。やっぱり一度失敗して返り討ちにあった相手だから、今度はなんとしても勝ちたいって訳? もっともあんたの勝ち負けの基準って、オレにはよく分からないんだけれどさ。憎い敵だっていうなら、オレなら、さっさとこの世から消しちゃうけど」

「別に僕は、クリスターを憎んではいないからね。むしろ、自分の一部であるかのように愛しているんだよ

 ダミアンは解き明かせない難題を突きつけられたようにちょっと悩ましげに眉をひそめたが、すぐに考えることを放棄したようだ。床の上に広げたマンガ本に目を落としながら、チョコレートを口に運んだ。

 すると、誰かが部屋の扉をノックして、ジェームズの応えも待たず、慌てた様子で中に入ってきた。

「あいつが来ていたのか?」

 部屋に入ってくるなり何の前置きもなく開口一番にそう尋ねてくる相手に、ジェームズは目を瞑ったまま苦笑した。

「残念だったね。もう少し早くここに戻っていたら、あんたも、あいつに会えたろうに」

 ダミアンがからかうように声をかけると、彼は明らかに怯んだようだ。

「あいつ、あんたを探して、ここまで乗り込んできたんじゃないのかなぁ。何の説明もなくいきなり姿を消したものだから、すごく心配してるんだよ、きっと」

 くつくつと喉の奥で笑うダミアンの声は耳障りで、せっかくの美しい音楽を損なってしまうなと、ジェームズは少し苛立ちをこめて白い髪の一房を指先で引っ張ってやった。

「きゃっ、何すんだよ」

 ダミアンが大げさな悲鳴をあげる。

「あまり彼を苛めるものじゃないよ、ダミアン、可哀想じゃないか。僕達に関わったがために、なかなか辛い立場に立たされてしまったんだからね」

 同情的な台詞が我ながら白々しかったが、自分の手の内にある限り、彼のことは大切にしてやろうとジェームズは思う。

(だって、クリスターを追い詰めるための、これもなかなか役に立つ道具のひとつだからね。せっかく手に入れたのだから、せいぜい有効活用させてもらおう。それにしてもクリスターは、あれだけ圧倒的なカリスマを備えているくせに、案外人心を掌握して使うことが下手だな。でも、まあ、キリストだって最後には身近に侍っていた人間に裏切られて死んだ訳だし、放つ光があまり強すぎると、それによってできる影もまた濃くなるもの…心を許した相手に、そうとは知らないうちに裏切られて、足をすくわれることになるんだよ)

 ジェームズはゆっくりとカウチから身を起こし、あくびを噛み殺しながら、強張った肩を手で揉み解した。

(クリスターはこのことに勘付いただろうか? おそらくもう気づいているだろうな。あの部屋を見つけておきながら、僕に何も聞いてこなかったことからも、そう推測できる。ふふ、意地っ張りめ…本当は僕を締め上げてでも白状させたかったくせに…それとも、こんな残酷な真相を目の前に突きつけられるのが恐かったのかな)

 ジェームズは漏れそうになる笑いをあくびでごまかし、首だけを動かして、扉の前に青ざめた顔で立ち尽くしている痩身の青年に向けて、親しげに笑いかけた。熱のせいで微かに潤んだ瞳には、あからさまな侮蔑の色がある。

「お帰り、アイザック」

 裏切り者のユダ―。


NEXT

BACK

INDEX