ある双子兄弟の異常な日常

第三部 第5章 深淵に潜むもの

SCENE2

 ジェームズは、非友好的な空気に満ちたサロンからクリスターを連れ出すと、2階にある一室に自ら連れて行った。

「君が今日訪ねてくることが分かっていれば、他の連中は屋敷から締め出していたんだけれどね。2階は僕と家族のプライベートな空間だから、ここなら誰にも邪魔されることなく君とゆっくり話ができる」

 ジェームズは、先程クリスターをサロンまで案内してくれた年配の使用人―執事のロバートにお茶を運んできてもらうと、ガラスのテーブルを挟んで向かい側のソファに坐っている彼に嬉々として話しかけてきた。

「ロバートの入れる紅茶はとてもおいしいから、是非君にも味わってもらいたいな。僕が施設を出てこの屋敷に戻ってから、それまで勤めていた使用人達は次々に辞めていって、今では、ロバートの他に通いの家政婦と父の面倒を看てくれる看護師がいるくらいになってしまった。他の使用人達は引きとめる気にはなれなかったけれど、このお茶を飲めなくなるのは辛いから、ロバートだけは何があっても手放せないって思うんだよ」

 クリスターは勧められるがまま紅茶のカップを持ち上げて、その香りを味わうふりをしながら、甘いメレンゲ菓子をつまんでいるジェームズをじっくりと観察した。

(逮捕される直前に会った時より少し痩せたかな…顔色が悪いわけではないが、妙に生白く光沢のある肌をして―)

 ジェームズが軽くむせたように咳込むのに、クリスターは瞬きをした。

「そう言えば、ヘレナさんはその後どうだい? まさかヴァンがあんな暴挙に及ぶなんて信じられない話だったけれど、そろそろ流産のショックも薄らいで、元気になってきたのかな?」

 クリスターの胸に、一瞬、殺意にも似た狂暴な感情が弾けた。

「おかげさまで、すっかり回復して、仕事にも復帰しているよ。活動的な母にしてみれば、家にいるより外に出て忙しくしている方がきっと気も紛れるんだろうね」

「ヘレナさんはとても芯の強い人だからね。僕には、むしろラースさんの方が心配だな。あの人は、普段タフに見せかけているけれど、感情的に不安定で脆い部分を抱えているからね。何よりも家族を大切にしているラースさんにとって、楽しみにしていた子供の死、それも自分が信頼していた部下が原因になったというのは耐え難い苦痛のはずだよ。ヘレナさんはもちろんだけれど、ラースさんのことも、君はもっと気遣ってあげるべきだろうな」

 ジェームズは同情のこもった口調で言いながら、クリスターの反応をじっと窺っている。

「父は、君が急に社をやめてしまったことをとても残念がっていたよ」

「ああ、そうだろうねぇ。ラースさんは、僕をとても気に入って、可愛がってくれていたから」

 ジェームズは何を思い出したのか、喉の奥で低く笑った。

「ラースさんはね、僕を君と重ねていたんだよ…僕と一緒にいると、君と打ち解けて話しているようで楽しいんだって。君も何かと忙しいんだろうけれど、たまには父親の相手くらいしてやれよ、クリスター。時には煩わしくても、自分を無条件に愛してくれている親の存在は、やはりありがたいものさ」

 クリスターは白々と冷めた目をしばしジェームズの優しげな顔にあてた後、おもむろに口を開いた。

「そう言えば、君の父親のゴードン・ブラック氏はどうされているのかな? 少し前までは精力的な実業家として活躍していた人が、いきなり倒れて一線を退き、すっかり世間から姿を消してしまった…氏と交友のあった人々の間では、容態はかなり悪いらしいと噂になっているようだよ。君が出所して一緒に暮らし始めてからのことだよね」

 ジェームズは殊勝な面持ちで溜息をつき、しみじみと言った。

「やっぱり、僕が色々心配をかけたのがいけなかったんだろうね。久しぶりに顔を見たら、父もめっきり老け込んでしまっていた。僕の逮捕だけでもショックだったのに、身内から犯罪者を出したせいで、社交クラブから除名されたり仕事の取引を断られたり、社交界でも実業界でもつまはじきにあったんだ…気落ちをした父はビーコンヒルにあるセカンドハウスでしばらく愛人と暮らしていたんだけれど、この女がまた食わせものでね。父が倒れ、別れ話が出た途端、態度を豹変させて、慰謝料を払えだの訴えるだの―病身の父に負担をかけるのは忍びないからと僕が対応したんだけれど…やっとその女の納得する額の手切れ金を渡して街から追い出すまでは、さすがの僕でさえ辟易させられたよ」

 クリスターは用心深くジェームズの話を聞きながら、じっと考えを巡らせていた。

 ジェームズの父親の姿を見た者は、彼が愛人と共に住んでいたセカンドハウスを離れてこの屋敷に移って以来、ほとんど皆無だ。通いの医師と看護師が、持病の糖尿病の悪化と全身の機能の低下を外部にもらしているくらいだ。

(さっき階下のサロンで見かけた、あんな胡散臭い連中が堂々と屋敷の中をうろつきまわっている有様からも、ジェームズが誰の支配も干渉も受けず、好き勝手に振る舞っていることは明白だ。昔は、ジェームズは学校に近い場所に部屋を借りていて、せいぜい父親の不在の週末にここに戻っては、趣味の悪いドラッグ・パーティーを開いていた程度だった。しかし、今やこの屋敷の主はジェームズだ。寝たきりの父親にはもはやジェームズの暴走を止めるだけの力はないのだろう…いや、それどころか、ひょっとしたら―)

 クリスターは以前ここで働いていた使用人達から聞いた話を思い出しながら、ジェームズが戻ってこの方、屋敷内で何が起こったかについて推理を巡らせていた。

 そんなクリスターに向けられているジェームズの顔には相変わらず穏やかな笑みがあるばかりだったが、よく見れば、その瞳孔は大きく開いており、恍惚とした熱を帯び始めていた。

「レイフはどうしているんだい?」

 ふいを突かれたクリスターは、今度は感情を隠しきれず、つい反射的にジェームズを睨みつけた。

「恐い顔をするんだね。僕がレイフに関心を示すのがそんなに嫌なのかな? 別に僕は、今更彼にちょっかいを出すつもりはないんだけれどな」

「僕は、君の言うことなど何一つ信じない」

「そうなんだ。別にいいけれどね…確かに、僕も今君に嘘をついた」

 クリスターが眉根を寄せるのに、ジェームズはソファの背もたれにゆっくりともたれかかりながら、悪びれもせずに言った。

「ハニーがたぶんレイフの所に行っただろう? 僕がこの街に戻ってきたという知らせを、何も知らなかった君の可愛い弟に伝えたんじゃないのかな?」

 クリスターは思わず軽く舌打ちをした。

「やっぱり…そういうことだったのか」

 ハニーがこのタイミングで現われ、J・Bが復讐しに現われるという警告をレイフに与えたことには、クリスターは実は引っかかり覚えていた。

 クリスターは、レイフを二度とJ・Bとは関わらせたくなかったのに、おかげで真実を白状しないわけにはいかなくなった。知ってしまった以上、レイフはクリスターを守りたい一心で何としても首を突っ込んでくるだろう。

「もちろんハニーに悪気はないよ。僕はただ、今の彼女なら、僕が電話で会いたいと誘っただけで不安に駆られ、いてもたってもいられずに君かレイフに知らせようとするだろうと読んだだけだ。君には遠慮があるようだから、ハニーにとってレイフの方が打ち明けやすい相手だということも考慮に入れてね」

「君が今度もハニーをうまく使えたからといって、レイフも思い通りに操れるなんて思わないことだよ、ジェームズ。生憎、弟が何を考えどう行動するかなら、僕の方こそ、手に取るようによく分かる…君の介入できる余地などあるものか。君の相手は、望みどおり僕がしてやるんだから、この際レイフのことは放っておいてくれないか」

「相変わらず、君はレイフのためなら必死だね。今度も自分が盾になって弟を守るつもりなんだ。でもね、唯一無二の相棒のくせに、一方的に君が庇護するだけなんて、そんな関係はフェアじゃない」

「僕とレイフのことは放っておいてくれ。フェアであろうがなかろうが、それが僕のやり方だ。僕には、兄として、あいつを守り、いい方向に導いてやる責任がある」

 固い口調で言い切るクリスターを瞳の中心に映し出したまま、ジェームズはゆっくりと瞬きをした。

「兄としてねぇ…ふうん、その様子じゃ、君はまだレイフを手に入れていないのかな。よく我慢がもつものだね。君の忍耐力には全く頭が下がるよ。それとも…本気で諦めようとしているのかい?」

 鋭い刃で切り裂かれたような痛みを胸に覚えながらも、クリスターは平然とした顔で、ジェームズの言葉を受け流した。

「君はまだそんなくだらないことを言っているのか、ジェームズ。僕とレイフは君がかんぐっているような関係じゃない。そんな馬鹿げた妄想、君以外の誰も信じるものか」

「君達の心の問題だものね。証拠などあるはずもない。よほどのへまをしない限り、誰も、君達が愛し合っているなんて夢にも思わないだろう。だが、もし知られたら―君達は終わりだよ。プロスポーツの選手になるという夢どころか、君達の周りいる全ての人達から一斉に顔を背けられ、家にも学校にもいられなくなる。ヘレナさんは理解するかもしれない…でも、頭の固いラースさんは、とてもじゃないけれど受けつけないだろうね」

「そんな心配は無用だよ。だって、僕達はただの兄弟なんだから」

 クリスターは軽く肩をすくめてみせたが、弱みを的確についてくるジェームズの言葉に、内心はあまり穏やかではいられなかった。

(こんな奴に言われなくても、そのくらいよく分かっているとも。レイフと僕は、おかしなことになりかけた所を父さんに一度見られてしまった。あの時の父さんはまるで僕らをおぞましいものを見るような目つきで見ていた…そうだ、あれがたぶん常識的な人間の反応なんだ)

 クリスターはつい心をさ迷わせかけたが、その時、自分に浴びせられるジェームズの強い視線に気づいた。心の底にわだかまる不安を読まれたかもしれないと、背筋がひやりと冷たくなった。

「ああ、そうだ」

 クリスターの瞳を捉えたまま瞬きもせず、ジェームズは唇だけを動かして、思い出したように言った。

「実は、君に渡したいものがあるんだ。以前ある人から預かったんだけれど、なかなか君に手渡す機会がなくてね。ずっと気になっていたから、今日君が訪問してくれたのは僕にとっても好都合だよ。探してくるから、ちょっと待っていてくれ」

 にこやかにそう言い残して部屋から出て行くジェームズを、クリスターは凝然と見送った。

 一体ジェームズが何を渡すつもりなのか、クリスターにはさっぱり見当がつかなかったが、どうせ後で分かることなのだから、別にいい。

 それよりも、今1人きりになれたことの方が、クリスターにとって大きな意味がある。

「僕が、おとなしく待っているはずがないだろう」

 唇の端を僅かにつり上げるようにして微笑んで、クリスターはおもむろに立ち上がった。

 ジェームズが出て行ったばかりの扉を音もなく開き、クリスターは外の様子を窺った。

 家族だけのプライベートな空間である2階では、先程下のサロンにたむろしていたジェームズの配下がいてクリスターを見張っているということもないようだ。

 クリスターは何食わぬ顔で廊下に出ると、じっと耳を澄ませて周囲の音を拾い、気配を窺った。

 ジェームズはこの部屋の向かいにある自室に入って、何かを探しているらしい。

 その部屋の前をクリスターは息を殺して通り過ぎ、屋敷の更に奥深くに入り込んでいった。

 廊下の左右には幾つもの扉があったが、それらの部屋の中はしんと静まり返って人のいる気配はない。

(僕が話を聞いて回った、もと使用人達の話では…ジェームズの父親はここで今も暮らしていることになっている―少なくともひと月前には、最後に辞めた家政婦が彼の声を聞いたと証言していた)

 大体の部屋の間取りや誰がどの部屋を使っているかも確認していたクリスターは、たぶんこの部屋だろうとあたりをつけた一室に素早くたどり着き、ドアノブを掴んだ。

(鍵がかかっている)

 クリスターはちょっと顔をしかめたが、すぐに気を取り直して、ポケットから一本のピンを取り出した。

(こんなことが特技だというのも考えものだけれど―)

 鍵の構造というのはパターンが限られていて、これは比較的簡単に開く種類のものだと見て取ったクリスターは、鍵穴に素早くピンを差し込んだ。案の定、それほど手間取ることもなく開錠することができた。

(さて、問題は、果たしてジェームズの父親が、今も無事でいるかということだな)

 大きく息を吸い込んで部屋の中に音もなく滑り込むと、クリスターは後ろ手にそっとドアを閉じた。

 窓にブラインドの下ろされた部屋の中は暗く、初めは細部まで明らかではなかったが、クリスターが視力を取り戻すのにそれほど時間はかからなかった。もともと彼は、暗い所でも猫なみによく見ることができるのだ。 

 次の瞬間、クリスターはショックを受けたように息を飲み、思わず後ろによろめいて、扉に背中をぶつけた。

(なんだ、この部屋は…?)

 ジェームズの父親を探すつもりが、どうやら部屋を間違えたらしいということは、すぐに分かった。

 そこは病人の寝室ではなく、書き物用のシンプルな机にコンピューター、ぎっしり本の詰まった本棚にキャピネット、隅にはテレビのある、小さな書斎のような雰囲気の部屋だった。

 無論、それだけならばクリスターをかくも喫驚させることはなかったろう。

 クリスターの目が釘付けになっているのは、壁一面にピンで留められた無数の写真、新聞や雑誌の切り抜きだった。それら全てにクリスターが写っている。

 これだけの数を集めるだけでも大変な労力だったろう。それをものともせぬほどの並々ならぬ関心―凄まじい妄執が、その光景の中にはあった。

 クリスターは半ば魂を飛ばして、他ならぬ自分の展示場となっている壁を呆然と眺めていた。

 束の間彼の頭は、見たものを受け入れ考えることを拒否したかのように真っ白になっていた。

(あ…)

 クリスターは、こみ上げてくる震えと吐き気を押さえ込もうとするかのごとく我が身をかき抱き、床に目を落とした。無数の虫に肌を這いまわれているような気がする。

「落ち着け」

 クリスターは何とか気持ちを静めると、再び顔を上げ、用心深く壁に近づいて、そこにある写真や切りぬきを確認した。

 古いものでは中学時代にクリスターがチェスの世界で活躍した頃の記事の切抜きが混じっていたが、ほとんどはここ2、3年のフットボール関係のものだ。

 だが、写真の方は―。

 初めは誰かが隠し撮りをしたのかとも思ったが、すぐに、そんないい加減な撮り方をしたものではないとクリスターは気がついた。中には、いつ、どこで撮られたのか、すぐに思い出せるものもある。昨年の高校フットボール州大会決勝での数々の場面を、絶好のカメラ位置から撮った写真。そう、アイザックが撮影し、後に勝手に焼き増しをして売りさばいたものだ。学校外の人間でも、つてさえあれば、それらを集めることは別にそう難しくはない。

 胸に浮かんだ疑惑が解けて、クリスターはほっと胸を撫で下ろしかけたが、すぐに、その顔は再び厳しくなった。

 クリスターは壁に手を伸ばして、そこにあった一枚の写真をはがし、目の前に持ってきた。

 写真には、窓の前に立ってぼんやりと外を眺めながら物思いにふけっているクリスターの姿が写っている。

 嫌いなカメラを向けられていたというのに珍しくも無防備な横顔を見れば、自分が撮影者に対して心を許していたのが分かる。それに、この見覚えのある背景は、新聞部の部室に間違いなかった。

(ああ、そうだ…夏休みに入る前日、放課後の部室で撮られたものなんだ。アイザックは、時々ふざけて、あんなふうに僕の不意を突いては勝手に写真を撮っていた。あの後、僕とアイザックは些細なことでなぜか言い争ってしまって…僕が彼の姿を見たのは、あれが最後になってしまった。だが、こんなプライベートな写真がジェームズの手に渡っていたなんて)

 写真から顔を上げ、壁を覆う無数の写真の上に、急に不安に駆られたような眼差しをさ迷わせながら、クリスターは声に出してぽつりと呟いた。

「アイザック…?」

 その名を口に出した途端、急に現実味を帯びてきた不吉な予感に、クリスターは唇をきつく噛み締めた。

 その時だ。

 外の廊下に面する別の部屋のドアが開く音を聞いて、クリスターは弾かれたように背後を振りかえった。

(しまった、ジェームズが部屋に戻ってくる)

 ジェームズは一度、先程クリスターと一緒にいた部屋を覗いたが、そこに彼がいないことに気づいて、また廊下に出てきたようだ。

 ひたひたという足音は、今度は迷いもせず、こちらに近づいてくる。

 クリスターはほとんど反射的に扉から身を引いたが、そんなことをしても意味はないということは分かっていた。

 手にした写真を見下ろしてふと考え込んだ後、クリスターはそれをもとあった場所にピンでとめなおした。

(この部屋で、ジェームズはずっと僕のことを調べ研究し、どうすれば攻略できるのかというようなことを考えて過ごしていたんだろうか…)

 薄ら寒いものを見るような目つきで、クリスターは改めて部屋をさっと眺め回した。

 キャビネットにあるビデオテープは、おそらくクリスターの出ていたテレビのスポーツ番組などを録画したものだろうと見当がつく。

 ふと、クリスターは右手の壁にドアがあることに気がついた。写真のインパクトがあまりにも強すぎて、つい見過ごしていたが、続き部屋があったようだ。

 クリスターは何かしら気になるものを感じたのだが、その時、後ろの扉が音もなく開き、外の明かりがこの部屋に満ちる暗がりに中にすうっと差し込んできた。

 クリスターは、うなじの辺りの皮膚がちりちりとそそけ立つのを感じた。

「クリィ…スター…?」

 どこからこんな声を出しているのかというような猫なで声に呼ばれ、つい激烈に反応してしまいそうになる自分をなだめながら、クリスターは肩越しにゆっくりと扉の方を振り返った。

「ほおら、見つけた。ごめんよ、僕があんまり待たせたものだから、退屈したんだね?」

 明るい光に淡い色の髪を半ば溶け込ませながら、ジェームズはまるでかくれんぼ遊びに熱中している子供ように屈託なく笑って、手にした大きな茶封筒をクリスターに見えるように高く差し上げた。

「これだよ、僕が君に渡したかったものは」

 その後、クリスターはジェームズと共に再び先程の部屋に戻った。

 ジェームズはクリスターが何をかぎ回っていたのか追求してこなかったし、クリスターも自分に関する夥しい資料で埋まっていたあの部屋に言及しようとはしなかった。

 もっとも、どうしても胸に引っかかって離れない疑惑が、クリスターにはあるにはあったのだが―。

「さて」

 新しいお茶を用意させてソファに落ち着くと、ジェームズはテーブルの上に例の大きな封筒を置いて、両手の指先をすり合せるようにしながらおもむろに切り出した。

「これは僕がある人物から手に入れた、とても興味深い資料なんだ」

 クリスターは、目の前に置かれた封筒とジェームズの顔を用心深く見比べた。

「ドクター・アイヴァースのことは覚えているかい?」

 クリスターは思わず目を見張った。

 デイビッド・アイヴァース。忘れられるはずがない。13才のクリスターの心の闇を、誰よりも鋭く的確に見抜いた精神科医。そして、クリスターに初めて同性愛を教え込んだ男。

(一体なぜアイヴァースのことをこいつが知っている…? ああ、成程、僕の過去についても詳しく調べあげた訳か。あの常軌を逸した部屋を見た後では、それくらいやるだろうとすんなり納得がいくな。だが、今ここでアイヴァースの名前を出す意図はなんだ?)

 胸に沸き起こった小波を落ち着き払った仮面の下に封じ込めたまま、クリスターは顎に手をやって、しばし考えを巡らせるふりをした。

「ドクター・アイヴァース…僕が中学時代に世話になったカウンセラーだよ。有名な精神科医であり心理学者だった彼の著作を、僕は何冊も読んだし、心理学に興味を抱いて本格的に勉強し始めたのも彼の影響からだった。何だか懐かしいな」

「随分彼を好いていたような口ぶりだね」

 意味ありげなジェームズの口調に、クリスターは焦燥感が次第に喉もとにせりあがってくるのを覚えたが、彼の胸倉を掴んで追究したい気持ちをぐっと堪えた。

「つまり君はアイヴァースと個人的にとても親しかった。彼が不始末を起こして君の学校を追放同然に辞めてからどうなったのか、知りたいんじゃないかい?」

「そうだな…興味がないとは言わないが…」

 ジェームズはクリスターの刺すように鋭い眼差しも気にせずに、ティーカップの中に角砂糖を1つずつ落としこんでいる。

 ひとつ、ふたつ、みっつ…おい、その辺りでやめろよと、甘いものの苦手なクリスターがとめたくなるくらいに甘みをつけた紅茶を一口すすって、ジェームズは満足そうに頷いた。

「アイヴァースはネブラスカ州のオマハに移り住んでいた。しばらく病院勤めをした後、自身のクリニックを開いて、それがなかなかの評判だったそうだよ。一度は挫折したものの、もともとはとても優秀な精神科医でありセラピストだ。仕事に対する情熱が戻れば再び成功することもそう難しくはなかった。恋人もいたようだし、なかなか充実した生活を送っていたのではないかな」

 ジェームズの口からアイヴァースのその後について聞かされるのは複雑な気分だったが、昔の『恋人』であり恩師の再起を密かに願っていたクリスターにとって、本当ならばほっとできる知らせだった。

「13才の悩める子供だった君は、尊敬するドクターに自分の悩みを色々打ち明けて、救ってもらおうとしたそうだね。でも、結局君はアイヴァースが突きつけた真実を受け入れられず、彼の全てを拒否した」

 ジェームズが砂糖壷を自分の方へさり気なく押しやるのを、クリスターは視線を逸らして無視する。

「双子の弟への許されない恋情について、君は思い悩んでいたんだ。アイヴァースは君をどうにか救ってやろうとしたものの、結局彼が果たした役割といえば、レイフに対する執着心の凄まじさを君に自覚させたことくらいだった。アイヴァースは、君のその後をとても気にかけていたよ。成長して大人に近づくにつれ君の苦悩も深くなっていくだろうと、慧眼のドクターは当時から既に予想していたんだね。そして実際、大当たりだったわけだ」

「ジェームズ」

 ついに忍耐の限界に達したクリスターは、忌々しげに口を開いた。

「でたらめを言うな」

「でたらめなはずがないだろう。だって僕はドクター・アイヴァースその人に会って、直接彼の口から君のことを聞いたんだから」

 クリスターの双眸がすっと細く冷たくなった。

「それこそ大嘘だな。僕の知るドクター・デイビット・アイヴァースは本物のプロのセラピストだった。何があっても、君のような人間に患者の秘密を漏らすことなどありえない」

 ジェームズは白々とした目でクリスターを眺め、軽く肩をすくめた。

「君にそこまで信頼してもらえていると知ったら、アイヴァースはさぞ喜んだろうな。彼は、できることなら君に再び会いたいと願っていたようだよ。残念ながら、それはもう永遠に不可能になってしまったけれどね」

「え?」

「アイヴァースは2年前に亡くなっているんだよ」

 クリスターはしばし息をすることも忘れ、痛ましげに頭を振るジェームズを呆然と眺めた。

「ジェームズ、まさか…まさか、おまえが…?」

 すぐに思い至った恐ろしい可能性に、クリスターが呻くように呟いた途端、ジェームズは慌てて手を振り否定した。

「違う、違う、僕がアイヴァースを手にかけたなんてとんでもない誤解をしないでくれ。僕がアイヴァースの居場所を突き止めて会いに行った時、彼は病床に伏していたんだ。末期の肺ガンでね」

「そんな」

「僕は、アイヴァースの著作に感銘を受けた、心理学を学ぶ学生を装って彼に近づき、その信頼を勝ち取って何とか君に関する情報を引き出そうとしたけれど―ああ、確かに君の言うとおり、彼は絶対口を割らなかった。それどころか僕に何か危険なものを感じ取ったようだ。自分の死期が近いことを知っていた彼は、過去に診た患者に関する個人情報は全て処分するよう即座に手配したんだ。ただ、彼が特別思い入れのある1人の少年のケースについて記した原稿だけは、どうしても燃やしてしまうことはできなかった。その代わり、アイヴァースはその原稿を、モデルになった人物の手に渡らせようとした。だが、アイヴァースはそれらをまとめて送る前に力尽きて亡くなってしまった。そして、死後の整理を頼まれたアイヴァースの恋人は、残念ながら、脅しに屈しない強い意志など持ち合せてはいなかった」

 クリスターはテーブルの上に無造作に置かれている封筒を凝然と見下ろした。

「そう、それは君をモデルに書かれたアイヴァースの遺稿なんだ。彼には別にそれを出版しようというつもりはなく、ただ自分のための記録として残そうとしていたようだけれどね。万が一にも君に迷惑がかからないよう、場所も人物の名前も変えている。もっとも読む人が読めば、このモデルは君だとすぐに分かってしまうけれどね」

「どおりで…!」

 乾いた笑いを漏らすクリスターを、ジェームズは得体の知れぬ深い微笑をたたえた瞳で見守っている。

「他人が知るはずもない僕の事情や背景に君が異様に詳しかったり、まるで心を読むかのような心理分析をしたりするはずだ。こんな参考資料を隠し持っていたなんて、ずるいな」

「そう、邪魔者のドクターがいなくなった後は、僕はこの原稿を易々と手に入れ、じっくり読み込んで、君の心の深淵に潜むものを知るに至った。そこに描かれていた13才の少年には、とても親近感を覚えたよ、クリスター…君の苦悩は僕にはとてもよく理解できる。もしかしたら、僕になら…アイヴァースは結局失敗した、救いの手を君に差し伸べることもできるのではないかと思うくらいに―」

「だが、君の望みは、僕を救うことではなく壊すことなんだろう?」

 クリスターが皮肉をこめて言い返すと、ジェームズは謎めいた表情をうかべ黙り込んだ。

「まあ、そういう訳でこの原稿をずっと手元に置いていたんだが、僕にはもう用のないものだし、本来これを持つべき君に返そうと思ったんだよ。実際僕は、そこに書かれていた内容ならば一字一句暗記してしまった」

 ジェームズは封筒を取り上げ、クリスターの胸元にぐっと突きつけた。

「受け取りたまえ、クリスター、この原稿にはアイヴァースからの最後のメッセージがこめられている。彼はこれを君に託したがっていた。君の彼に対する感情は好意的なものばかりではないだろうが、少なくとも1人のプロとして君の抱えた問題に向き合いながらこれを書いた彼の姿勢は真摯なものだ。君はこれを読むべきなんだ」

 いやに誠実そうな顔をするジェームズと突き出された封筒をしばし逡巡しながら見比べた後、クリスターは彼の手からためらいがちに封筒を取り上げた。

「一応もらってはおくが…僕がこれに目を通すと君は思うのか?」

 ジェームズはこれをもとにしてクリスターを分析し、その弱点や癖などを研究して攻略にかかろうとしている。興味がないわけではないが、そういう観点に立ってこの原稿を読めば、どうしても、クリスターが書かれた内容に捕らわれてしまう。

「さあね。君が今はその気になれないのなら、いずれ読みたくなった時に読めばいいんじゃないかな。アイヴァースはきっと待ってくれるさ」

 飄々と捕らえどころのない口ぶりで言って、ジェームズはソファから立ち上がり、窓に向かって歩いていった。

 屋敷の外に広がるブラック家の広大な敷地を眺めながら何事か考えているジェームズの背中を、クリスターは無言で睨みつけていた。

「すまないね」

 ジェームズはクリスターに背中を向けたまま、気遣わしげな声で囁いた。

「アイヴァースの死の知らせも、僕を通じて彼の遺稿を手にしたことも、君にとってはショックだったり不愉快だったりしただろう。どうだい、気晴らしに一緒に外を散歩しないか、クリスター?」

 ぬけぬけとよく言う。クリスターは膝の上に軽くのせていた拳にぐっと力をこめたが、それに対して応える声はまだ冷静さを保っていた。

「…そうだな」

 大丈夫、予想外の事実を前に動揺したのは確かだが、取り乱すまでには至っていない。ジェームズと顔を突き合わせて話し合えば、これくらいの精神的ダメージは被るだろうと覚悟の上で、あえてここに乗り込んだのだ。

 そう自分に言い聞かせるクリスターの脳裏をアイヴァースの懐かしい面影がふと掠めたが、彼はそれを無理矢理頭の片隅に追いやった。

(果たして、ジェームズは、今度はどんな手を使って僕を揺さぶるつもりなのか…毒を食らわば皿までだ、おまえの手の内を僕にもっと明かしてみろ)

 体を半ばこちらに向け、瞬きもせずじっと自分の反応を窺っているジェームズに、クリスターは無性に挑戦的な気分に駆られながら微笑みかけた。

「そう言えば、ここに着くまでに通り抜けてきた林も庭園も、とても素晴らしかった。君と2人、歩いてみるのも悪くないだろうね」


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