ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第4章 黒い羊

SCENE7


 夏の訪れを感じさせるからりと晴れた空。こんな穏やかでない気持ちを抱えているのでなければ、ドライブするには最高の日和だと思うところだろう。

(コリン達が『事故』に遭ったのが3日前…これが本当にJ・Bの仕業だとすると、狙われたのはアイザックも含めた3人全員か。運よくアイザックは難を逃れたが、2人は重症を負った…Jが彼らの命を本気で取ろうとしたとは考えにくい…というか、そこまでの関心を彼がコリン達に向けるとは思えない。おそらく助かろうが助かるまいが、どちらでもよかったんだろう。だとすれば、Jの目的は僕にプレッシャーをかけることだろうか。外堀から埋めていくようにして、僕をじわじわと追い詰めるつもりか…? それとも、別の意味が隠されているのか?)

 高速を愛車で走りながら、クリスターはJ・Bの思考パターンを分析し、その考えを読もうとしていた。もしも自分がJであればどう動くかを念頭に置いての推理は、自らを敵と同化させようという試みに等しい。こんなことを以前もよくやっていたのだ。おかげで、時折まるでJに取り付かれているような気がし、これは果たして本当に自分の考えなのか確信が持てなくなるような不安感に苛まれたものだ。

(本当はあいつのことなんか分かりたくもない…嫌悪すら覚えるというのに、勝つためには、まずあいつの心に深く分け入り理解しなければならないということだ)

 そう言えばアイザックはクリスターがどんどんJ・Bに似てくるようで見ていて不安だと訴えていたが、それも仕方のないことなのかもしれない。

(確かに、怪物を仕留めることに夢中になっているうちに、気がつけば自分自身も相手と同じ怪物に変じていたなんて、しゃれにならないけど…でも、これきり最後だから―今度こそ、あいつを二度と出てこられない場所に追いやって、後はもう綺麗さっぱり忘れてしまうんだ。J・Bの存在も、あいつと僕の間で繰り広げられる、この危険なゲームも…)

 クリスターはそう自分に向かって言い聞かせたが、どこからともなく浮かび上がった、『本当に忘れられるのか?』という問いかけに、ふと心もとなさを覚えた。

 その時だ。

 車の後部座席の方から、どんどんと何かが打ち付けられるような異音が響いた。

 コリンの事故の話を聞いたばかりなだけに、クリスターはぎょっとなって肩越しに後ろを振り返った。

 だが、座席の辺りには何もおかしなものは見えず、その音もよく聞けば車内ではなく、もっと後ろの方から聞こえてくる。

(何だ…? この音、トランクの中から聞こえてくる…ま、まさか―)

 頭に閃いた考えの奇抜さに、クリスターは一瞬ハイウェイを走っていることも忘れて固まったが、すぐ脇を他の車がクラクションを鳴らしながら通り過ぎるのに我に返った。

 こんな所で自分まで事故を起こしてはたまらないので、クリスターは少し行った先でひとまず高速を下り、出口付近にあったファーストフード店の駐車場に車を乗り入れた。

 クリスターが車外に飛び出しても、切羽詰ったようなどんどんという音は続いていた。

 間違いない。トランクの中から聞こえてくる。

(まさか…いや、まさか―)

 トランクに手をかけた時には予感は既に確信に変わっていたのだが、できれば信じたくなくて、口の中で短い祈りの言葉を呟くと、クリスターはえいとばかりに屋根を引っ張りあげた。

 瞬間、むっとする熱気が上がる。そして―。

「に、兄さん…はあ、助かった…」

 凍りついたようにその場に立ち尽くすクリスターの視線の先では、狭いトランクの中で大きな体を窮屈そうに折り曲げていたレイフが、よろよろと這い出てこようとしていた。

「こんなに蒸すなんて思わなかったよ…映画のヒーローみたいにうまくいかないのな…じっと隠れていて、ここはという場面になったら颯爽と登場して驚かせてやろうって思ったのに」

 汗びっしょりになりながら、そんな馬鹿を言うレイフには、下手をしたら脱水症状を起こすところだという考えはないようだ。もっと運が悪ければ、死ぬぞ、本当に。

「そんな格好の悪いヒーローがいるものか。大体、トランクに閉じ込められて運ばれるのは、映画でも、死体と相場が決まっているものだよ」

「ああ、そっか…」

 こんな暢気な会話をしている場合ではないかとクリスターはぐらぐらする頭を押さえた。

「なぜ、おまえがここにいるんだ、レイフ? 僕が出発する前に、見つからないようこっそりとトランクに隠れていたのか…信じられない…よくも、こんな非常識な真似ができるな!」

 言っているうちに段々腹がたってきたクリスターは、最後の方は大声になって弟を怒鳴りつけた。しかし、レイフが青い顔をして手で口を押さえ気持ち悪そうにあえぐのに、はっとして黙り込んだ。

「う…変な姿勢で揺られたから酔ったみたい…気持ち悪い、吐きそう…」

 ううっと呻く弟の肩に手をかけて、クリスターはちょっと泣きそうな気分で叱りつける。

「こら、待て…ここで吐くな、ここで!」

 それからしばらくファーストフード店でレイフを休ませた後、クリスターはまた改めて車に乗り込んだ。

 狭苦しくて蒸し暑いトランクの中から解放され、汗で失われた水分をたっぷり補給したレイフは、もうけろりとしている。

「だってさ、こうでもしなきゃ、クリスターはオレを連れていってくれないもの」

 クリスターに散々説教されてしょんぼりと項垂れたレイフはそう言い訳をした。

「こんな無茶をしてまで、僕についてきたがるおまえの気が知れないよ。昨日も言ったように、僕は遊びに出かけるわけじゃないんだ。コリン達の見舞いと彼らに付き添っているアイザックが心配だから様子を見に行くだけで―おまえにとって面白いことは何もないんだよ。大体、大怪我をした人間のもとに何の用事もないおまえまでもが押しかけるのは迷惑だと考えないのか」

 いかにももっともなクリスターの言葉にレイフは少し神妙な顔になったが、心底反省はしていないようだ。

「でも、オレは兄貴が心配だったから―そんなに怒るなよ、向こうに着いたら、オレは邪魔にならない所でおとなしくしているからさ」

「別にもういいよ。ここまで来てしまったら、おまえを追い返したくても追い返せない」

 それに、あまり頑なにレイフを拒み続けるのも不自然で返って怪しまれるだろう。それならば、レイフが安心するまでしたいようにさせてやった方がいいと、クリスターは密かに考える。

 しかし、それでも、クリスターのお許しが出たことで安心したレイフが先程の店で買ったスナック菓子の袋を早速破って食べ始め、『兄貴と2人きりでドライブするのって久しぶりだな』とか呑気なことを言うのには、こめかみの辺りに癇筋がうきそうになった。

(全く、こいつがいると調子が狂うな。さっきまでの緊迫感が嘘のようだ…自分が何を考えていたのかも忘れてしまったよ)

 助手席におさまっても少しもじっとしていない。ラジオをつけてみたりCDを物色したりすることに飽きると、今度はしきりとクリスターに話しかけたり笑いかけたりするレイフをちらちらと見やりながら、クリスターは昨日アイザックの知らせを聞いた時からずっと張り詰めていた気持ちがふと和むのを覚えた。

(これが…本当にただのドライブだったらよかったのにな。レイフと2人きり、気の向くまま、こんなふうに車を走らせて、他愛のない話をして1日過ごすんだ。ああ、僕達のことなど誰も知らない、どこか遠くにこのまま2人で行けたら―馬鹿、何を不謹慎なことを考えているんだ。コリン達が大変な目にあったばかりだというのに―)

 温かな幸福感に満たされたクリスターの心に、後ろめたさの影が差し込めてくる。

 だが大方は和やかな雰囲気で取り留めのない話をして過ごしながら、正午過ぎに、クリスターとレイフはコリン達が入院している病院に到着した。

「おまえは、しばらく席を外してくれ。1階にカフェテリアがあったから、そこで待っていてくれたら後で迎えにいくよ」

「ん…分かったよ」

 レイフが素直に聞き分けてくれたのにほっとしながら、クリスターは1人、コリンの病室のドアをノックした。

 ドアを開けてくれたのは、コリンの母親だろう、中年の女性だったが、クリスターが高校時代の友人だと名乗ると中に通してくれた。

「クリスター…」

 クリスターの姿を認めるやコリンは驚いたように目を見開いた。

「久しぶりだね、コリン。まさか、こんなひどい姿の君と再会することになるなんて…」

 クリスターのぎこちない挨拶に、ベッドに体を固定されたコリンは、力なく笑った。かつては明るく溌剌とした印象だったコリンの顔には疲労と不安の色が濃く表われ、彼の受けた衝撃の強さがうかがい知れた。

「昨夜、アイザックから君とミシェルの事故の知らせを受け取って、心配になって、様子だけでもと来てみたんだが…長時間話すのは君が辛いだろうから、後でアイザックにも詳しい話を聞いて、すぐに帰るよ。とにかく、大変だったね」

「ああ」

 コリンはぐったりと目を閉じた。

「でも、俺はいいんだ。命は助かったんだし、もとの体にだって時間をかければ戻れるだろう。ただ、ミシェルのことが気がかりで―」

「そうだな」

 コリンは、しばらくクリスターと2人きりで話したいからと、心配そうな母親には病室から出てもらった。

 クリスターは彼の神経に触らぬよう静かに動いて、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。

「アイザックは…君が奇妙なことを言ったと教えてくれた。車のブレーキが壊れていたというのは本当なのか?」

「そんなことも、あいつ、おまえに話したのか…。誰に言っても信じてもらえない、下手な言い訳はよせって、言われそうだよな。あれは、俺の不注意が招いた事故なんだ。そのせいでミシェルまで、あんな―」

「だが、少なくとも僕やアイザックは君の言い分を信じるよ。むしろ、君達が受けた被害を事前に阻止できなかったことが残念なくらいだ」

「被害…?」

「誰かが君の車に細工をしてあの事故を引き起こした。確かに警察に話してもなかなか信じてはくれないだろうけれど、僕達にはその心当たりがあるからね」

 当然相手にも分かるものと考えて話を進めようとしていたクリスターだったが、コリンの顔にうかんだ当惑の色に気づいて、ふと口を閉ざした。

「心当たりって、何の話だ、クリスター?」

「コリン」

 クリスターはしばし絶句した。

「まさかと思うけれど―アイザックから何も聞いていないのか? J・Bが戻ってきて、僕達への復讐を目論んでいるらしいということを…?」

 アイザックがJ・Bの出所の知らせを持ってきたのが、春休みが明けて間もない、3月の下旬ごろだった。ダニエルも含めた3人でこれからどうするか話し合い、その時、アイザックは自分からコリンにも伝えると言っていた。慎重なコリンならば、警告さえ与えておけばとりあえず安心だろうとクリスターもその時は考えた。

 だが、実際には、コリンは、J・Bが自由の身になったことすら、アイザックから聞かされていないと言うのだ。

(どういうことだ…?)

 そればかりか、アイザックとコリンは最近までずっと音信不通の状態だった。

「ミシェルと付き合っていることが後ろめたくてさ、俺も卒業後は何となくあいつとは連絡を取りづらかったんだ」

 それが、夏休みが始まる少し前に突然アイザックが電話をかけてきたのだ。

「あいつは以前と少しも変わらない打ち解けた感じで話してくれて…正直、嬉しかったよ。俺達は親友同士だったから、女のことで仲違いしたまま縁が切れちまうってのも残念だろ。互いの近況とか話しているうちに、あいつが夏休みにこっちに立ち寄るって話になったんだ。ミシェルはちょっと気まずそうな顔をしたけれど、約束どおりアイザックはやってきた」

 キャンプの計画や準備をしながら1週間ほどアイザックはコリン達のアパートで過ごしていた。しかし、その間もJ・Bについての話は彼の口からは出なかった。

「そんな大切なことを、どうしてアイザックは黙っていたのかな…何か事情があって隠していたんだろうか。それとも、もしかしたら…あいつを裏切ってミシェルを奪った俺に対して…恨みのような感情があったんだろうか…どう思う、クリスター?」

 コリンはしばしじっと考え込んだ後、すがるような目でクリスターを見て、そう尋ねる。

 アイザックとコリンとの間に確執はないとクリスターは思っていたが、それはどうやら大間違いだったようだ。少なくともコリンには、今回のように何かあれば、アイザックに恨まれているのではという考えにすぐに至るほどの後ろめたさがある。つまり、それなりの修羅場が、かつて親友同士だった2人の間で繰り広げられたのだろう。

「そんなことを僕に聞かれても、それこそ答えようがないよ。アイザックに直接確かめるしかないんだろうな」

 怪我人相手だとは承知していたが、つい尖った声が口から出るのをクリスターは抑えることができない。

「アイザックは、今、どこにいるんだ?」

 訳もない焦燥感に駆られてクリスターは問いかけるが、それに対するコリンの答えは満足できるものではなかった。

「病室の付近にいないのなら、俺のアパートに戻ったか、事故車や事故を起こした現場を調べに行ったのかもしれないな。そう言えば、昨日の夜以来、俺はあいつの姿を見ていないよ。詰め所の看護師に聞けば、何か伝言を受け取っているかもしれないけれど」

 これ以上コリンと話していても彼を疲れさせるだけで埒が明かないと判断したクリスターは、彼からアパートの鍵を借りて、ひとまず病室を出た。

 ミシェルは今も面会謝絶の状態のため、会うことはできない。

 幸い、詰め所の看護師の1人がアイザックのことを覚えていた。ここ数日、事故に遭った友人達のために寝る間も惜しんで奔走している彼のことを気にかけていたらしい。だが、その彼女もアイザックを最後に見かけたのは昨夜遅く、時間からすると彼がクリスターに電話を入れた直後だった。

 コリンの病室の傍の椅子に疲れた顔でぼんやりと坐っていたアイザックに、その看護師は声をかけた。そこでしばらく2人で話しこんでいたが、アイザックは時計を見て急にそわそわしだしたかと思うと、どこかに電話をかけてくると言い残して立ち去り、それきり戻ってこなかった。

(僕が今日ここを訪ねるということは知っているはずなのに、何の伝言もなく、どこかに姿を消してしまうなんて、これもまたアイザックらしくない)

 昨夜アイザックと言葉をかわした時に覚えた違和感も相まって、クリスターの疑念はますます深くなるばかりだ。

(さっきの看護師がアイザックを最後に見たのが昨夜の10時過ぎ…電話をかけにいくと言い残したそうだが―誰に電話をするつもりだったのか。コリンの両親は事故のあったその日にすぐ駆けつけたそうだし、西海岸にいたミシェルの親も、翌日、彼女のオペが終わる頃には何とか間に合った。もちろんアイザックの家族や僕の知らない友人だっているわけだけど―何だろう、コリンからあんな奇妙な話を聞いたせいかな、アイザックの行動がいちいち引っかかる)

 直接会って話せば、こんな釈然としない思いはすぐに晴れるのかもしれない。だが、クリスターが捕まえる前に、アイザックはどこかに姿を消してしまった。

(ダニエルの言うとおり…悩んでいる間があったらさっさと彼に連絡を取って、腹を割って話すべきだった…いや、夏休み前のあの日、口論してしまった後、僕はアイザックの様子がどこか不自然だと思ったのに―そう、あのまま行かせるべきじゃなかったんだ。後悔しても、もう遅いけれどね)

 クリスターはコリンから預かったアパートの鍵をポケットの中でぐっと握り締めた。先程電話をかけてみたが、やはり誰も出なかった。念のため、これから自分の足でコリン達の部屋に行ってみようと思うが―。

「なぜだ、アイザック…?」

 途方に暮れたようにクリスターはつぶやく。宙にういた問いかけの答えがおぼろげに見えたような気がしたが、クリスターはそこで無理矢理思考を遮断した。

 直視したくない、最悪の可能性。

「クリスター、こっちだよ、こっち!」

 はしゃいだ声がかけられるのに、クリスターは何やら助けられたような気分で顔を上げた。

 考え事をしていたので気づかなかったが、クリスターはレイフとの待ち合わせ場所のカフェテリアにいつの間にか着いていたらしい。

 入り口の傍で立ち尽くしているクリスターに向けて、窓の近くのテーブルから、レイフが手を大きく振っていた。

「何だよ、恐い顔して…コリンの容態、あまりよくなかったのか…?」

 眉間にしわを作って黙然とテーブルに近づいてくる兄を、レイフは心配そうに見上げた。

「レイフ、悪いけど、もうしばらく、ここで待っていてくれないか。僕はちょっと出かけてくるから―」

「ええっ。出かけるって…どこに、何しに行くんだよっ?」

「アイザックを探しにコリンのアパートに行こうと思うんだ。昨夜僕に連絡をくれた彼なのに、その後どこかに行方をくらましてしまったようなんだ。アイザックのことだから、事故の後始末とかで飛び回っているのかもしれないけれど―ここまで来たんだから、彼にも会っておきたい」

「それなら、オレも一緒にいくよ。こんな所で1人でぼうっとしているのも退屈だし」

「勝手についてきたんだから、それくらいで文句を言うなよ。それに、もしアイザックが病院に戻ってきた時のために、おまえにはここにいてもらいたい。彼を見つけたら、僕が帰ってくるまで捕まえておいてくれ」

「何だよ…えらく焦ってるじゃないか、兄貴。アイザックをどうしても見つけたいんだ?」

 弟の勘のよさにクリスターは密かに苦笑するが、言い訳もちゃんと考えているから、大丈夫だ。

「実は、夏休み前にアイザックとちょっと言い合ってね…そのこともあって、できれば彼と直接話をしておきたいんだ。喧嘩したまま夏休みの間ずっと会えないなんて、気になるだろ」

「ふうん」 

 レイフは胡乱そうに目を細めてクリスターの顔を覗き込んだが、やがて、仕方がないというように手を上げた。

「分かったよ。でも、用事が済んだら、寄り道せずにすぐ戻って来いよ」

「子供に言うみたいなこと、言うなよ」

 その後、レイフを病院に残して、クリスターはコリンのアパートを訪れた。治安のよさそうな閑静な住宅街の中にある、なかなか大きな建物だ。

 駐車場に車を止めた時、クリスターはまずアイザックの車を探したが、見つからなかった。やはり、彼はここにはいないようだ。

 そして、教えられたコリンの部屋に上がる。

「残念だけれど、これも予想通りか」

 コリンはゲスト用の部屋をアイザックに提供していたが、その部屋に彼の持ち物はなかった。衣服も愛用のカメラもIDも…。

 空っぽになった部屋の真ん中に立って、ぐるりと周りを見渡しながら、クリスターは思考を巡らせる。

 状況から判断する限り、アイザックは昨夜から今日にかけてこのアパートに一度戻り、荷物をまとめて出て行ったように見える。

「問題は、なぜ誰にも何も言わず、急にここを出て行ったのか。そして一体どこに行ったかだ」

 クリスターがアイザックについて今まで思っていたことと、ここで知ったこととの間にはいささかの隙間があった。疑念を晴らそうと調べていけばいくほど、その隙間はますます広がっていくばかりだ。

 警察やコリンの事故車を調べた保険会社にも立ち寄ってみた後、クリスターが再び病院に戻ったのは、午後も遅い時間だった。

 別に約束を破って寄り道をしたことが後ろめたかったわけではないが、クリスターはまっすぐにカフェテリアに向かった。だが、そこにレイフの姿はなかった。

(まあ、あいつが何時間も1つの場所でじっとしていられるわけはないか。車はないから、病院内か、外に出ても遠くまで行っていないと思うけれど…)

 アイザックに続いてレイフまで行方不明ではたまらないなとクリスターはふと思ったが、こちらは程なくして見つかった。

「レイフ!」

 病院の中庭の芝生の上で、入院患者なのだろうか、10才くらいの2人の子供達と遊んでいたらしいレイフは、クリスターの呼びかけにすぐに反応して、こちらを向いた。

「兄貴、遅かったじゃん」

 クリスターがやってくると、レイフにじゃれついていた男の子達は、2人を見比べながら、そっくりだ、双子だぁと目を真ん丸くして囁きあった。

「アイザックは…って、その様子だと見つからなかったみたいだな」

「うん…コリンのアパートはもぬけの空だったよ。荷物も全てなくなっていた。ジャーナリスト魂を刺激されて事故の調査をしているって訳では、どうやらなさそうだ。一体どこに行ったのか…何の手がかりもなしだ」 

 レイフの前であんまり深刻な口ぶりで話すのはまずいと分かっていたつもりだが、クリスターはつい、ぽろりと本音を漏らしてしまった。

「アイザックの身に何かあったんじゃないかって、おまえは心配してるんだな?」

 レイフにしてもやけに鋭すぎると思って、クリスターが訝しげに見返すと、彼は芝生の上から身を起こし、ポケットをごそごそ探った。

「なあ、これに…見覚えないか…?」

 レイフが手の上に乗せて差し出したものに、クリスターは目を見開いた。

「眼鏡…?」

 クリスターははっとなって、すぐにレイフからその眼鏡を引ったくって、確かめた。ツルのデザインが特徴的なシルバーフレーム。アイザックのものと同じだ。

 しかも、どうしたことかレンズはひび割れ、ツルの部分も変形している。

「レイフ、一体これをどこで見つけたんだ…?」

 レイフはどうやって説明しようかと悩むように指先で頬を引っかいた。

「ううんと、見つけたのは正確にはオレじゃなくて、この子達なんだ。今朝、病院の庭で拾ったんだって」

「えっ?」

「初めっから話すとさぁ…クリスターが行っちまった後、オレは退屈して、病院の中をうろうろしてたんだ。この病院広いよな…歩き回りながら、アイザックの奴、その辺にいないかなって探してたわけ。コリンの病室にも…中には入らなかったけど、その近くには行ってみたよ。で、この子達の病室はコリンの部屋の隣なんだ。2人で廊下を走り回って看護師に注意されてたから、そんなに元気なら外で遊ばないかって誘って、仲良くなったんだ。それで、もしかしたらアイザックのことを知っているかって聞いてみたんだよ。そしたら、こいつら…ここ数日コリンの所に入りびたりだったアイザックとは何度か話したことがあるって―それどころか、昨日の晩、大変なところを目撃したって言うんだ」

「大変な所って…一体、何を見たんだい?」

 思わずクリスターが厳しい顔を向けて追求すると子供達は恐がってレイフの後ろに隠れた。その頭をなだめるように撫でてやりながら、レイフはクリスターを眺めやった。

「兄貴って、ほんとに子供の扱い下手だなぁ」

「悪かったな…いや、それよりも話の続きを聞かせてくれ」

 クリスターが真剣な顔つきで頼むと、レイフは素直に話を再開した。

「夕べ遅く…消灯時間はとっくに過ぎてたんだけれど、この子達はまだ起きていたんだ。暑くて窓を開けっぱなしにしていたら、人の言い争うような声が聞こえたんだって…それで窓の下を覗き込んでみると数人の人影が見えた。何をしているんだろう、喧嘩だろうかと気になって、病室を抜け出して様子を見に行ったんだそうだ。カフェテリアの近くの窓が丁度現場に近くて、外をそっと窺ってみると若い数人の男達が言い争いあっている…よくよく見ると、その内の1人がこの子達の知っている、あの眼鏡野郎だったというわけ。ただならぬそいつらの雰囲気に、初めはただの好奇心で眺めていたこの子達も次第に心配になってきた。その時、アイザックと言い争っていた1人の男が奴を殴りつけたそうだ。一瞬喧嘩になるかと思ったが、その場はそれで収まった。それから、またしばらく低い声でひそひそと何かを話し合っていたが、話に決着がついたのか、そいつらは連れ立ってその場を離れていった」

「アイザックは…その男達に連れて行かれたのか…?」

 呆然とクリスターは呟いた。

「そうなるのかな。ただ力づくで強引に拉致されたって感じではなかったらしいよ。一応合意の上でついていった雰囲気だった。そうだよな?」

 レイフが後ろを振り返り、もっと優しい言葉に変えて確認すると、男の子達は真面目な顔つきでこくりと頷いた。

「その後は、この子達も何だか恐くなって病室に逃げ帰ったんだそうだ。朝になってから、やっぱり気になるんで、男達が口論していた場所を確かめに行ったら、近くの植え込みの中にその眼鏡が落ちていたんだって…たぶん、殴られた時にアイザックが落としたんだろうな」

 クリスターはアイザックが残したものらしい眼鏡をじっと見下ろしながら、考え込んだ。

 つまり―時系列で並べるとこういうことか。

 夕べ、クリスターへの電話を切った後、アイザックは他の誰かに電話をすると言ってコリンの病室を離れた。そのしばらく後に病院の敷地内で何者かと会い、口論になったが、結局は彼らと一緒にここを立ち去った。更に、その後、昨夜遅くか今日になってコリンのアパートに一度戻り、荷物をまとめ、今度こそ行方をくらましてしまった。

 果たして、その時、アイザックは1人だったのか、それとも誰かと一緒だったのだろうか。

「なあ…アイザックって、おかしな奴らに関わって、厄介ごとに巻き込まれたんじゃないだろうか?」

 不安そうに問いかけるレイフにクリスターは思わず肩を震わせた。

「兄貴は、何か心当たりがあるんじゃないのかよ?」

 こちらにまっすぐに向けられているレイフの瞳には、クリスターの本心を読み取ろうとする色がある。

「まさか」

 クリスターは抑揚のない声で言った後、弟から視線を逸らし、見舞い客や患者達が散歩をしている中庭の平和な情景をぐるりと見渡した。

「僕には分からない…アイザックの身に何か起こったことは確かなようだけれど、一体どういうことなのか、見当もつかないよ」

 この大嘘つきめと心の中で自らをなじる。

 クリスターは自然な動作でアイザックの眼鏡をポケットにしまいこんだが、ふとすると指先が震えそうになった。

「ただ、どうやら、アイザックが姿を消したのは彼自身の意思でもあるようだ。その理由が何なのか、どこに行ったのか…もしかしたら、彼は―」

 語っているうちに胸が塞がれるような暗澹たる気分になってきて、クリスターは途中で言葉を切った。これ以上は言いたくない。 

「クリスター」

 レイフにいきなり手を捕まえられて、クリスターは我に返った。

「何、力こめてるんだよ。ああ、手のひらに爪食い込むまで握り締めてさ」

 指の色が白くなるほどきつく握り締められていたクリスターの手を広げさせて、レイフはその手のひらの上に自分の手を重ねた。

「握り締めるなら、オレの手にしろよ。な?」

 冗談めかして笑いかけ、片目を瞑ってみせるレイフに、クリスターは口元を僅かにほころばせた。ありとあらゆる悲観的な考えの淵に沈みこみそうになっていたところを、すくい上げられたような気がした。

「馬鹿…」

 何となくレイフと手を取り合ったまま見つめあっていると、2人の様子を興味津々眺めていた男の子達が、双子って仲がいいんだねぇと感心したような声を漏らしたので、クリスターは急に恥ずかしくなって弟から身を引いた。一方そんなことは気にしないレイフの方は、もの欲しそうな目でしばらくクリスターの手を追っていたが。

「これから、どうするんだよ?」

 やがて薬の時間だと看護師が中庭まで探しに来たので、まだ遊び足りない子供達に言い聞かせ、手を振って別れた後、レイフは傍らでじっと思索を巡らせているクリスターを振り返った。

「アイザックが行きそうな場所の心当たりがあるなら、片っ端から探してみるか? オレも手伝うぜ」

 今日一日、兄にくっついてここまで来たものの、ずっと病院に足止め状態で鬱憤が溜まっていたらしいレイフのやる気満々の顔を眺めながら、クリスターはこれをどうしたものかと思った。

 傍にいてくれて助かった部分も確かにある。ほとんど何も教えていなかったにもかかわらず、動物的な嗅覚で、クリスターが欲しがっていた、消えてしまったアイザックに関する情報を探し当ててきた。それに、精神的な部分でもレイフのおかげで多少救われたことは認めざるを得ない。レイフがいなければ、クリスターは考えなくてもいいことまで考えて、さぞかし辛い気分を味わっただろう。

 しかし、今後どうするかというと話は別だ。

 クリスターが眉間に皺を寄せてかぶりを振ると、レイフは焦れたように再び口を開こうとする。

「クリスター…」

「いや…今日の所は、もう帰るよ」

「えっ? いいのかよ、アイザックを放っておいて?」

「今の段階で、僕ができることは何もない。おそらく…アイザックはここに戻ってはこないだろう」

「でも、あいつがどこに行ったとか、それこそ、もし事件に巻き込まれたなら無事でいるのか気になるだろ? それこそ、警察とかに相談した方が…」

 痛い所を追求されて、クリスターはまた気が塞ぎそうになった。

「それは…もちろん僕だって心配しているよ。だからと言って、今の状況では、警察はまず動かない。 18才を越えた青年が自分から進んで出て行ったのなら、事件性はないと判断されてしまう…!」

 クリスターが苛立たしげに吐き捨てて見せると、レイフは口をつぐんだ。

「本当はね、アイザックがどこに行ったのか、心当たりが全くないわけじゃないんだ」

「え、そうなのか?」

「あくまで僕の推理した、幾つかある可能性の1つなんだけれどね。ただ、考えられる限り最悪なケースの場合でも、彼の命が危うくなるような可能性は低いと思うんだ」

 だが可能性はあくまで可能性にすぎないと、クリスターはこみ上げてくる慙愧の念を握りしめた手の内に押しつぶす。

「それでも、まあ、こっちには何回か通うことにはなりそうだけど。コリンや…意識が戻るようであればミシェルとも話したいし、調べたいこともある。でも、その前に、アイザックの親に連絡を入れたり、彼の友人達にも心当たりがないか尋ねてみるよ」

「そうか…」

 アイザックの親―考えると、クリスターは軽い眩暈を覚えた。

(アイザックを愛する人達に、僕のせいで、もしかしたら彼が大変な窮地に立たされているかもしれないなどと…どんなふうに伝えたらいいのだろう)

 今更のように、自分達を取り巻く人達に対する罪悪感がクリスターの胸にこみ上げてくる。

(周囲の目から隠れて自分達だけで解決しようとしてきた、そのつけを払わされているのかもしれない。確かに、大っぴらに話せない部分も多すぎる―母さんはともかく、父さんに話しても悪戯に話を大きくしてしまうだけだ。普通の大人では、Jには歯が立たないからね。だからと言って、僕が愛する人達を騙していることに変わりはない)

 頭の中に浮かび上がっては消えていく幾つもの顔に対して心の中で詫びて、クリスターはレイフを振り返った。

「だから、僕と一緒に帰ろう、レイフ。僕はともかく、おまえは何も言ってこなかったんだろう? あんまり遅くなると父さん達が心配する」

 クリスターらしくない気遣いにレイフは不思議そうに瞬きし、それから彼の横に立って、その肩に懐っこく腕を巻きつけた。

 押し付けられるレイフの体の重みと力を感じながら、不思議な安心感をクリスターは覚えた。そんなクリスターの耳に、レイフは低い声でとつとつと訴えかけてきた。

「おまえの抱え込んでいる事情は複雑すぎてオレには全部は分からねぇ。聞いても、どうせおまえははぐらかすんだろ。ただ、1つだけ言わせてもらうなら…あんまりへこむなよ、兄貴。さっきから、オレも…何だかすごく胸が苦しい」

「レイフ…」

 一瞬不覚にも目の裏がじんと熱くなったが、クリスターはそれを弟には悟られまいと顔を背け、ゆっくりと駐車場に向かって歩き出した。

 コリン達を襲った災難だけではない。これまで自分を支えてくれたアイザックまで見失って、これから先のことを考えるとクリスターはひどく心もとないような、足元が覚束ないかのような不安に駆られる。

 しかし、今、レイフと2人並んで歩きながら、もしここで自分1人だけで同じ道を鉛のような心を抱えて歩いていくことを思えば、足取りもそれほど重く感じられないのが、クリスターは不思議だった。

NEXT

BACK

INDEX