ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第4章 黒い羊

SCENE8


 この頃、家の中の空気が何だか少しピリピリしている。

 ヘレナが妊娠して、本来なら幸福感に満ち溢れていて不思議ではないはずなのに、双子の両親は家にいても、厳しい顔つきで2人で話しこんでいることが多かった。

 原因は、ラースの会社で立て続けに起こったトラブルのせいだ。

 ラースの親友であり、長年仕事上でも彼を右腕として支えてきたブライアンが、急に会社をやめてライバル会社に行ってしまったのだが、その辞め方がよくなかったらしい。話を聞いても、あの『ブライアンおじさん』がとレイフにはにわかに信じられなかったくらいだ。ラースの信頼を裏切って社の秘密を外に漏らしたことがばれ、それがきっかけで口論した末に彼はラースに解雇を言い渡された。

 それだけでもラースにはショックだったのに、今度はやはり長い間経理を任されていたジョエルの不正行為が発覚し、こちらは訴訟問題に発展しそうだとのこと。

 古株の社員達が次々と起こした不始末は他の社員達にも影響を及ぼし、日々の業務にも支障が出始めている。こうなっては、副社長のヘレナも妊娠中だからといって家にいるわけにはいかず、毎日出社して事態の収拾にあたっている。

 レイフとしては、普通の体でない母親にそんなストレスのかかる仕事をしてほしくはなかったのだが、すっかり意気消沈したラースだけでは今の厳しい状況を乗り切れそうにないらしい。

 両親がそんな具合に仕事のことで手一杯だったせいで、クリスターの友人達が巻き込まれた事故や事件に対して、彼らがそれほど強い関心を寄せることはなかった。

 コリン達を見舞った、あの日以来、クリスターはあちこちに連絡を入れたり色んな人に会ったりと忙しい。その全てについて、彼がレイフに詳しい説明をしてくれることはなかった。

 そこまで意地になって秘密主義を通している場合ではないだろうとレイフは気をもんだが、一端こうと決めたクリスターの意志を覆すことは極めて難しいということもよく理解していた。

(ちぇっ、クリスターの奴、少しはオレを信じて、頼ってくれたっていいじゃないか。しんどい時に1人で全てを背負い込むことはないだろう。オレなんかじゃ、力にならないってことなのかよ。そりゃあ、今まで何かと兄貴に助けられてばかりだったから、そう思われても仕方ないのかもしれないけどさ)

 クリスターの頑固さに、レイフは途方に暮れるしかない。

(大体アイザックもまだ見つかってないっていうのにさ…ああ、それにしても、あの野郎、どこに消えちまったんだろ。クリスターをあんなに心配させて…拉致とか誘拐って奴とはちょっと違うみたいだけれど、行方不明ってだけでも充分不安じゃないか)

 アイザックについては、レイフも知っている人間のことだけに気になって追及すると、クリスターは不承不承ながら少しは話をしてくれた。姿を消してしまったアイザックだが、父親には数日前に一度連絡が入ったらしい。それで、アイザックが少なくとも無事でいることは分かったが、どこにいて何をしているのか、彼は父親にも充分な説明をしていなかった。

(アイザックは一人っ子で、母親も早くに亡くしているって話だったよな。親父さんもさぞかし心配してるんだろうな)

 今日は、そのアイザックの父親と会って話をするため、クリスターは朝早くから出かけていた。

 子供が行方知れずになってナーバスになっている親と一対一で会うのはプレッシャーだろう、付き合おうかとレイフが申し出ると、おまえには関係ないだろうとクリスターに冷たく拒否されてしまった。

(意地っ張りめ)

 そんな訳で、レイフは朝から家に1人でいた。両親もとっくに仕事場に出かけている。アルバイト先の獣医も今日は休診日のため、特にこれといった予定はないが、クリスターのことが気になって、友人を誘って遊びに出かける気にもなれなかった。

 手持ちぶさたで妙に腰が落ち着かないまま、レイフはぼんやりとテレビを見たりして過ごしたのだが、そんなだらだらした時間は、突然受け取った1本の電話によって中断された。

『その声はレイフなのかしら…それとも、クリスター?』

「レイフだけれど、誰だよ?」

『私よ、覚えていない…? ハニー・ヘンダーソンよ』

 予期せぬ名前に、レイフは息を飲んだきり、しばらく何も言えなくなってしまった。

『ごめんなさい、突然電話をかけたりして、驚かせてしまったかしら』

「本当に…ハニーなのか…?」

 かつて恋をした少女がこんな声をしていたのか、レイフはとっさに思い出せなかったし、どんなふうに自分が彼女と話していたかなどもっと分からなかった。

「ひ、久しぶりだな…えっと、元気でやってるのかよ…?」

 我ながらがちがちに緊張した声だなと思う。レイフは唇を舌で湿しながら、次に何を言おうかと必死で言葉を探した。

 レイフが固くなっていることは受話器を通しても分かったのだろう、ハニーもこのまま話を続けることを躊躇するように黙り込んでしまう。

『もしかして、迷惑だった…?』

「違うよ。ただ…あんまり突然で驚いただけだよ。長いこと聞いてなかったハニーの声を聞いてさ、どんな反応したらいいのか分からなくて、ちょっと固まっちまった。ああ、でも、こうして言葉をかわしていると勘が戻ってきたみたいだな」

 レイフは気持ちを静めるよう深呼吸すると、今度は優しくハニーに語りかけた。

「今、どうしているんだよ? やっぱり今でも実家で暮らしているのか? 学校は…?」

『去年の秋からやっと地元に高校に通い始めたわ。実家に戻ってもしばらくは普通の高校生活なんかできない状態だったけれど、これで何とかやり直すことができそうよ』

「ほんとにハニーは大変な目にあったものな。あんな人でなしに引っかかったばかりにさ…あっ…と…ごめん」

『いいのよ、レイフ。私がジェームズの思い通りに操られる人形だったことは本当だもの。そのせいで、あなたやクリスターに迷惑をかけてしまったことがずっと悔いとして胸に残っていたの』

「何もかもとっくに終わったことだよ。気にするなよ、ハニー」

 しかし、そうハニーをなだめるレイフの胸にはまだ完全には消えていない古い傷が残っていて、彼女と言葉をかわすことによって、それが急にじくじくと痛み出すのをレイフは覚えていた。

 一時は本当に好きだと思って付き合ったこともある人なのに、こうしながら徐々に蘇ってくるのは懐かしさよりも、あの時ああしていればよかったのにという悔いを伴う切なさばかりだ。

「レイフ」

 押し寄せてきた追憶の波に捕らわれていたレイフは、ハニーの呼びかけにはっと自分を取り戻す。

「ああ、すまねぇな。つい、ぼんやりしちまって」

 女の子と接して固くなることもこの頃は少なくなってきたのに、何だか急に以前の気弱な自分に戻ってしまったかのようだ。

「ねえ、レイフ…実は、私、今あなたの家の近くまで来ているのよ。それで…もしあなたさえよかったら、今から会えないかと思って」

「えっ?」

 レイフの心臓が慄いたように小さく震えた。

「えっ、今こっちに来てるのか…1人で…? い、いいのかよ、この街に戻ることは親に禁止されてるって、確か前にクリスターから聞いたけれど」

 レイフは助けを求めるような眼差しで周囲をぐるりと見渡した。

 どうして今ここにクリスターはいないのだろう―乱れる気持ちを取りまとめようとレイフは汗ばんだ手をぐっと握り締めた。

「本当はずっと…落ち着いたら、一度あなたに会ってちゃんと話をしたいと思っていたのよ。色々あって、学校をやめて実家に戻って…それからもしばらくは自分のことだけで私は精一杯だった。一時はうつ状態がひどくて入院していたこともあったわ。それがやっと、こうして人並みの生活ができるくらいには、私は自分を取り戻すことができた。今なら、私の過去ともちゃんと向き合うことができると思うの。今だからこそ、あなたに話せることもある。お願いよ、レイフ、私と会ってくれる?」

「ハニー…」

 ハニーの切々と響く訴えに、一時ざわついたレイフの胸もやがて落ち着きを取り戻していった。

「分かったよ。そうだな、オレも…ハニーがどうしているのか気になってたんだ。いや、オレなんかが今更気にかけてもどうしてやることもできないって、胸の奥に無理矢理押し込めてただけで、とても消化しきれていなかった」

 一語一語確認し、ハニーだけでなく自分に対しても言い聞かせるように、レイフは言った。

「だからさ、オレも、やっぱり一度ハニーに会っておきたい。今のままじゃ、たぶん、あの頃起こった全てを終わったこととして片付けちまうなんて、オレにもできないんだ」

 こうしてレイフはハニーと再会することになった。

 情けないことだが、今から1人で彼女と会うのだと考えるとレイフはまた少し怯みそうになった。

 ハニーを通じて、胸の奥底に封印していた数々の辛い記憶が蘇ってくる。

(あの頃のオレは、つくづく馬鹿なガキだった。ハニーの傍にいるだけで、何の役にも立たず、オレの代わりにクリスターを危険にさらしてしまった…ああ、本当は、オレがあの役割を果たすべきだったんだ。ハニーを無理にでもJ・Bの手から救い出して、最後まで守りきって闘うべきだった。それをクリスターに肩代わりさせてしまったことが、オレの最大の後悔、そして…あいつに対する、未だにぬぐい切れないわだかまりでもあるんだよな)

 クリスターはJ・Bからハニーを解放した後、彼女と交際を始めた。今ならば、あれは仕方のないことだったのだと理解できるが、好きになった相手を兄に奪われた格好のレイフは、当時はかなり落ち込んだものだ。

(あれから、またオレの劣等感、クリスターには何をやっても敵わないって思い込みも一段と強くなったもんな。いや、まあ、実際その通りなんだけど…)

 ただ、そこで立ち止まっていてはいけないのだと、レイフは思う。

(そうなんだ、クリスターに守られっぱなしのオレじゃなくて、あいつのことも守って支えられる男になりたい。あいつを追い越そうとかあいつに勝ちたいって訳じゃないよ。同じ場所に並んで立って、互いに助け合いながら一緒に歩いていける相棒でありたい、あいつに認めてもらいたい)

 ハニーと会うのに肝心の彼女のことよりも、いつの間にかクリスターのことばかり考えてしまう自分にレイフは苦笑しそうになった。

(オレはきっと、これがきっかけになることを期待してるんだな。ハニーもさっき、自分の過去を向き合いたいって言ってた…たぶんオレと同じ気持ちでいるんだ)

 過去に犯した過ちは消せないが、それと向き合うことなしには先に進めない。だから、それを認め受け入れるだけの勇気が欲しい―レイフはそう祈念する。

 ハニーとの待ち合わせ場所は、学校から程近い、昔何度か彼女と一緒に立ち寄ったことのあるスターバックスにした。

 混んでいたら他の店にしようと思ったが、幸いいつもに比べて空いているようだ。駐車場に車を止めて、レイフは店内に足を踏み入れる。

 コーヒーのいい匂いに満ちた店内で、レイフは注文より先にまず目当ての相手を探した。

 きょろきょろと辺りを見渡しながら店の奥に入っていくと窓際の2人がけテーブルに坐っていた客が軽く手を上げた。レイフの視線は一旦その客の上を素通りしかけたのだが、明らかに自分に向けた合図に再び注意を戻す。

「ハニー?」

 レイフは目を真ん丸く見開いてその場に立ち尽くした。

 そこにいたのは、昔のままのイメージのハニー・ヘンダーソン、アッシュ・ブロンドの髪を長くのばした、陽炎じみたはかなげなイメージの華奢な女の子ではなかった。

「ほんとに来てくれたのね。嬉しいわ、レイフ」

 髪は思い切りショート・カットにして、着ている服もカジュアルなジーンズにティーシャツと少年っぽい。レイフを認めて屈託なく微笑んだ顔は健康そうで、見違えるように明るく溌剌としていた。

「女って、やっぱり化けるんだ」

「え?」

 ぼそりと呟いたレイフにハニーは不思議そうに細い首を傾げた

「あ、いや、雰囲気が随分変わったなと思って」

「そう? 昔からの友達は私らしくなったって言うわよ」

 そうすると、レイフが知り合った頃のハニーは本当の彼女ではなかったということだろうか。大勢の男達にレイプされた末、そう仕向けた張本人であるJ・Bの恋人になっていたハニー。

 春先の冷たい雨に打たれて立ちつくしていた、今にも消えてしまいそうな綺麗な女の子は、どこに行ったのだろう?

「そう言うレイフも何だか感じが変わったわね」

「どんなふうに?」

「昔は『大きな男の子』ってイメージだったけれど、今は…ちょっと大人びて、男っぽくなったような気がするわ」

 いつまでも突っ立っているのも他の客の邪魔になるので、レイフはカウンターでコーヒーとクッキーをオーダーし、再びハニーがいるテーブルに戻ってきた。

 そこからは、緊張して構えていたのが嘘のように、レイフはハニーとすっかり打ち解けて話をすることができた。

 懐かしい旧友に久しぶりに会った時にするような、互いの近況とか昔の友達の噂話とか、取り留めのない話を続けながら、レイフは、以前彼女と付き合っていた頃は、こんなふうに打ち解けた時間を過ごしたことなどなかったなと思い返していた。基本的にレイフは女の子が苦手だったし、ハニーといるといつもどきどきして落ち着かなかった。それにハニーもあの頃は情緒不安定で、こんなふうに無邪気に笑う子ではなかった。

「ねえ、レイフ…クリスターはどうしているの?」

 ハニーがおもむろにクリスターについて触れてきたのに、コーヒーを飲みかけていたレイフはちらっと目を上げた。

 そう言えば、自分達がクリスターを話題にするのは今日会ってから初めてだなと頭の片隅で思いながら、レイフは特に変わった所のない口調で答えた。

「ああ、あいつも相変わらず…文武両道のスーパーマンぶりを発揮しているよ。まあ、最近は以前ほどがつがつせずにペースダウンしてるみたいだけど。去年の大会では見事にMVPを取ったし」

「それは…雑誌か何かで読んだと思うわ。クリスターはやっぱりあなたと一緒にプロを目指すつもりなのかしらね。あなた達の夢だったでしょう、2人で一緒にフットボールを続けたいって」

「それは…よく分からねぇよ。オレがいくらそうしたいと願っても、クリスターにはクリスターの考えがあるみたいでさ。いよいよオレらも夏休み明けからは最上級生になって、進路についても真面目に考えないといけないってことや、そうなると浮ついた夢ばかり言ってないでしっかりした計画を立てなきゃいけないってことくらい俺にだって分かるけど…じゃあ将来どうするつもりなのかって相談をしたくても、あいつは腹を割って話してはくれないんだ。全く、あいつの考えることなんか大半は余計なことだよ…なんで自分に正直になれないのかな。ほんとはさ、あいつだって、オレと同じようにフットボールが大好きで、ずっと続けたいと思ってるはずなんだ。あ…と、ごめん、こんなことぼやいても、ハニーには分からない話だよな」

「ううん」

 兄のこととなるとつい我を忘れて夢中に語ってしまう。照れくさそうに頭をかくレイフを、ハニーはじっと探るような目で見つめていた。

「あなたのそんなところは変わっていないのね、レイフ…そう、あなたは今でも変わらずクリスターのことを愛している…?」

 思わずコーヒーを吹き出しかけたレイフだが、ハニーが言ったのは単なる兄弟としての愛情だろうと気を取り直した。

「そ、そりゃ、まあ…何と言っても、あいつはオレの片割れだもん」

「よかった」と、ハニーは胸に手を置き、小さな溜息をついた。

「ずっと気になっていたの。私がここを立ち去ってから、あなた達2人はどうなったんだろうって…何だか私の存在があなた達兄弟の間に余計な波風を立ててしまったんじゃないかって心配だったのよ」

「そんなこと、ハニーが気にしなくてもよかったんだよ」

 レイフは優しく目を細めた。

「まあ、あの後しばらくオレは自分を役立たずだと責めて相当落ち込んだし、兄貴にハニーを取られたって悔しさが全くなかったわけでもないけどさ。オレも男だから、クリスターのやり方に、何ていうの、頭では納得しても心が許せない引っかかりってのが色々あるんだよ。あ、それは何もハニーについてだけじゃないから、気にしないでくれよ。あの時、あいつはオレがどうあがいてもできなかったことを鮮やかにやってのけた…実際J・Bをがつんとやっつけて、ハニーを救い出したのはオレじゃなくてあいつだったんだ。それが、しばらくの間は受け入れられなくってさ…同じように生まれてきた双子なのに、どうしてオレじゃ駄目だったんだろうって―」

「レイフ」

「それでも、実際ハニーがクリスターと一緒にいることでどんどん落ち着いて表情も柔らかくなっていくのを目の当たりにすると、これでよかったんだなと思うようになった。ていうか、認めざるをええなかったんだな…少なくともハニーに関しては、クリスターは正しいことをしたんだって。今目の前で明るく笑ってるハニーを見て、改めてそう思うよ」

 切なさとほろ苦さのこもった笑顔でレイフが話すと、ハニーは綺麗な顔を気遣わしげに曇らせた。

「ねえ、レイフ…私は、今でもクリスターにはとても感謝しているわ。でも、ひとつだけ、もしあなたが誤解しているのなら言っておきたいのだけれど、あの頃の私達は本当の恋人同士というわけじゃなかったのよ。彼が私と交際し始めたのは、J・Bから私を引き離す口実にするためだった」

 それは、レイフも何となく察していたことだったので今更驚きはしなかったが、当の本人の口から出ると一層真実味があった。

「だからって、クリスターが私に対して薄情だったわけじゃない、むしろ逆だった。そうね…私に接する時のクリスターはまるでセラピストみたいだったわ。J・Bとの付き合いでばらばらに砕けてしまった私の心を、少しずつもとにあった場所に戻す手助けをしてくれたのよ。でも、それだけよ。やがて少しは冷静にものを見られるようなった私は彼と相談して、両親のもとに戻ることに決めたの。そして、彼ともそれっきりよ」

 努めて落ち着いた態度で話そうとしていたハニーの口元にふっとうかんださびしげな微笑をレイフは見逃さなかった。

「クリスターが私に恋なんかしてなかったことは確かよ…彼が赤の他人の私にあそこまでしてくれたのは、ひとえにあなたのためだったと思うの。あなたが大事に思っていてくれた私だから、彼もできる限り大切に扱ってくれた。それほどに、クリスターはあなたを愛していたのね」

 ハニーは失恋の告白をしているのだ。そう悟ると、レイフは何だかいたたまれなくなってきた。

「ハニーは、さっき兄貴に感謝しているって言ってたけど…」

 レイフは衝動的にハニーに訴えかけていた。

「でもさ、それでいいのかよ? オレがこんなことを言うのもなんだけど…ハニーはクリスターのことが好きだったんだろ? なのに、クリスターが自分に恋をしていなかったことは確かだなんて―そんなひどいこと女に言わせるなんて、やっぱりオレには納得できないよ」

 すると、ハニーは大人びた顔で苦笑した。

「あなたは相変わらず純粋ね、レイフ…でも、確かに、そんなことあなたが私に言うべきじゃないわ」

 レイフは顔を赤らめてうつむく。ああ、こういうところが女心の分からない、無神経ってやつなんだな。

「ごめんなさい、あなたにあたるような資格は私にはないのにね」

「いや…」

「自分にあんなひどいことをしたJ・Bの恋人なっていて、彼に命じられるがまま、あなたに近づいて誘惑した…自分でも、よくあんなひどいことができたと思うわ。Jから離れて自分を取り戻していくにつれ、私はそんな自分が許せなくなって…今だから言えるけど、私、一度自殺しようとしたことがあったのよ」

「ええっ?」

「それを察したクリスターがとめてくれなければ、私は今頃ここにいなかったわ。彼は私の命の恩人よ。私が必要な時に傍にいて支えてくれたあの人に、私がそのうち好意を覚えるようになったのも無理はないでしょう? だから、次々と男を乗り換える軽薄な女だとは思わないでね」

「うん…それは分かるよ」

「クリスターを意識し始めた私は、彼の気持ちも知りたがった。どうして私のためにこんなによくしてくれるのか、あの危険なJ・Bから私を守ってくれるのか…彼が私に好意を覚えているなんてうぬぼれるほど私は馬鹿じゃなかったから。ううん、ほんとは、ほんの少しだけ…そうだったらいいのになって期待していたのかもしれないわね。でもね、クリスターの言動を観察して、彼の仲間達からも私の知らないところでクリスターがJ・Bとどんな争いをしていたのか漏れ聞いていると、決して、これは私のなんかのためじゃないって分かってきたの」

 レイフははっと息を飲むと、身を乗り出すようにしてハニーの話に聞き入った。

「それで私、彼にさり気なく聞いて確かめてみたの。どうして私と付き合うふりなんかするのって? たとえ形だけの付き合いでもあなたは弟の恋人を奪ったことになっているのよ。レイフにはちゃんと説明しているのって。 するとクリスターはこんなことを言ったわ。レイフには詳しいことは話していないし、そのつもりもない。今のレイフに全てを打ち明けても余計に混乱するだけだし、何よりやっとJ・Bの罠から解放してやれたばかりなのに、この上自分とJの争いに弟を巻き込みたくはない。クリスターはね、自分の中にある絶対的な優先順位に従って行動しているのですって。だから、私を自分の手の内に囲い込んだことで、もしかしたらレイフに恨まれるかもしれないけれど、あなたにどう思われるかは、クリスターにはそれほど重要なことではなかったの。あなたの幸福と安全を守ることが彼の全てだったのよ」

「あいつ、そんなこと考えていやがったのか」

 レイフは少し呆然となりながら呻くように呟いた。

(兄貴らしいといえば、その通りか…あいつはこうと決めたら限度というものを知らない―でも…)

 クリスターの凄まじい愛情を今改めて眼前に突きつけられたレイフの心中は複雑だった。

(何だろう、少しも嬉しくない。むしろもやもやしたものが胸に広がっていく…クリスターのやり方はやっぱりオレには受けいれられねぇ。いつだって勝手に独りで決めて独りで行動しちまう…オレは蚊帳の外にいて、あいつが何を考えているのか今どこで何をしているのか、やきもきしながら心配して…)

 今でも続くクリスターの秘密主義。ことはアイザックの失踪にまで発展しているというのに何かを頑なに隠し続ける態度を思い返して、レイフは突き上げてくる苛立ちのままに吐き捨てた。

「ああっ、畜生、腹が立つ!」

 イライラと頭をかきむしりながらいきなり大声を発するレイフに、目の前にいるハニーだけでなく他のテーブルの客達まで怯んだようだ。

「あ、ごめん、ごめん」

 凍りついたその場の空気をほぐそうとへらへら笑って周囲に愛嬌を振りまくと、レイフは改めてハニーに向き直った。

「何だかさ、クリスターの込み入った考えや行動を理解しようとすると、オレの脳みそはすぐ熱くなっちまってさ」

 冗談めかして微笑んだ後、レイフはふと真顔になってポツリと呟く。

「いや、ほんとは笑い事じゃない、それこそオレの悩みの種なんだよ。ハニーが今話してくれたことでもそうだけど…あいつ、大切なことでもオレにはいつも黙っているんだ。オレのためだ、それが正しいんだって、あいつは思ってるらしいけど、それこそ大間違いなんだよ」

「レイフ…?」

 レイフは眉間に皺を寄せて、ううんううんとしばし唸った。

「やべぇな、何かマジで知恵熱が出てきそう…やっぱ考えすぎて煮詰まる前に、クリスターを捕まえて色々問い詰めてやるよ。その方がすっきりしそうだ」

 ハニーはレイフが何を言わんとしているのか理解しようとしばらく考え込んでいたようだが、やがて諦めたのか、話題を変えてきた。

「ねえ、レイフ…実は、私がここに来て、あなたに会おうと思い立ったのはあるきっかけがあったからなの」

「きっかけ? 何だよ、それ?」

 頭の中はまだ半分以上兄のことで占められていたため、レイフは上の空で答える。

「あのね、ついこの間なんだけれど、あいつが突然電話をしてきたのよ」

 何かに怯えるかのごとくふいに声を潜めるハニーにレイフもやっと注意を戻した。

「あいつって?」

「ジェームズ・ブラックよ…矯正施設から出てきたのね。あなたは知ってた?」

 瞬間、レイフの全身に悪寒が走った。

「J・Bが出所したって…それは、いつのことだよっ?」

 またつい大きな声を出してしまったレイフは慌てて手で口を押さえた。

「ごめん、つい興奮して…」

「そうすると、あなたは知らなかったのね? 電話では、自由の身になってもうじき半年になると彼は言っていたわ」

「半年…」

 そうするとレイフがJ・Bに似た人影を見た、あのボクシングの試合の時点で既に彼は施設を出ていたことになる。クリスターは否定したが、やはり、あれはJ・B本人だったのではないか。

(あいつが、クリスターの試合を見に来ていた)

 レイフは冷たい水を頭から浴びせられたかのように身震いして、思わず自分の腕を強く掴み閉めた。

「それで…あいつは何と言ってきたんだ?」 

 気を取り直してレイフが尋ねると、ハニーはいつの間にか真っ青な顔になっていた。

「ジェームズは、私に会いたいと言ってきたの…ずっと私のことは気になっていた。一度会って話をしたいって」

「馬鹿な!」 

 こみ上げてくる吐き気を抑えるかのように喉もとを押さえるハニーをレイフは気遣わしげに見つめる。

「ハニー、あいつの誘いに乗ったら駄目だ。何があっても、絶対J・Bと会うんじゃない」

「うん…分かってる」

 弱々しい声ながらもそう言って、ハニーは健気らしく微笑んだ。

「あいつの声を久しぶりに聞いて、私は改めてJ・Bの恐さが分かったの。すっかり立ち直ったつもりでいたのに、もしあいつと直接顔を合わせたら、その時自分を保てるか急に確信が持てなくなってしまった。いえ、きっとまた私はあいつに捕まってしまう。そうなることが恐いから…彼とは会わないわ。決して」

「ハニーがあいつにたぶらかされるなんて疑ってはいないけど…」

「ううん…あいつと出会って、私が学んだことがあるとすれば、自分に関して絶対はありえないということよ。私は弱い…だから、うんと用心して二度とあんな奴に捕まらないようにしなくては駄目なの」

 テーブルの上で固く組まれたハニーの手が微かに震えているのをレイフは認めた。

「私をあんなふうにしたのはJ・Bだけれど…彼にだって、1人の人間を全くの別人に作り変えることができるわけじゃないのよ。私があんなふうに身を持ち崩したのは、認めるのは辛いけど、ああなる素養があったからよ。ずっといい子を演じていることに疲れてしまって、自分に正直に振る舞ってみたかった。そんな私を分かってくれたジェームズに惹かれたの。そうして彼は見事に、私自身も知らない、私の中のどろどろと醜い部分を引き出すことに成功したわ。あれは、ジェームズの一種の才能なんでしょうね。でも、全ての人間がジェームズの思い通りに変えられてしまうわけじゃない。あなたは、ジェームズの罠に落ちて、誘惑されたり脅迫されたりして、かなり追い詰められていたけれど…最後まで彼には影響されなかったわ。ジェームズの傍にいてここまで自分を保ち続けることのできた人を、私は他には知らない」

「だって、オレはあいつに共鳴するとこなんかこれっぽっちもなかったし…いや、普通に無理でしょ。ハニーはきっと、あいつにあんまりひどい目に合わされて、ちょっと感覚がおかしくなっていたんだよ」

 きょとんと瞬きするレイフをハニーは羨ましげに眺めた。

「J・Bがあなたには執着しなかったのも無理はないわね。あなたを堕落させるなんて絶対無理だって見切りをつけていたのよ」

「それなら、さっさと解放してくれたらよかったのにな」

「そうはいかなかったのね…だって、あなたは彼の関心からは外れていても、クリスターはまた別だもの」 

 レイフは嫌そうに顔をしかめた。

「なあ、ハニーはクリスターとJ・Bの戦いがどんなだったのか、詳しいことを知ってるのかよ?」

「ああ、あなたは知らないのね。クリスターはあなたには隠し続けていたから…でも、私もはっきり知っているわけじゃないのよ。当時彼と一緒に闘った仲間達なら傍で見ていたわけだから、詳しいでしょうけど」

「仲間って…アイザックとか…?」

「そう、当時の新聞部の部員だった、アイザック、コリンとミシェル、それから、クリスターを慕っていたダニエルって年下の子がいたわ」

「え、ダニエルもかよ」

 クリスターに憧れて、いつも熱心に彼の後を追っていた。その延長で、J・Bとの闘いにも自分から進んで入っていったのだろうか。

(でもさ、ダニエルはまずいだろ。そりゃ頭はいいかもしれないけど、オレ達より2才も年下のほんの子供なんだぜ。兄貴の奴、オレを庇おうなんてするよりも、むしろダニエルを気遣ってやれよな。どっちがか弱いか、一目瞭然じゃねぇか)

 一瞬憤然となった後、レイフは、クリスターのかつての仲間達の名前を頭の中で並べ、ああ、なるほどそういうことかと、目の前が急に晴れて、今までおぼろげにしか分からなかったものがはっきり見えたような気がした。

「レイフ…私にジェームズが接触しようとしてきたなら、あなた達にももしかしたら彼の手が伸びてるんじゃないかって…そのことがすごく心配になって、私、どうしてもここに来なくちゃって思い立ったの」

 レイフはしばし、ハニーに自分の懸念を打ち明けるべきかどうか迷ったが、これ以上彼女の不安を煽ることはないだろうと、近頃身辺にちらついているJ・Bの影やクリスターの不審な行動、先日起こったかつての彼の仲間達の事故や失踪事件については胸に収めておくことにした。

「私、どうして今更ジェームズが私に連絡など取ったのか考えたの…きっと、あいつは以前のように私をまた道具にしようと思ったのよ。かつてあなたを罠にかけるのに利用したようにね。レイフ、気をつけて、ジェームズはあなたやクリスターに復讐するつもりなのよ」

 復讐。J・Bの手が、今こうしている間にもクリスターに伸びているような気がして、急に胸が苦しくなったが、レイフは何とか気持ちを静めた。

「ハニー、分かったよ。ありがとう、オレ達のことを気遣って、わざわざ訪ねてきてくれて…オレ達のことなら、心配いらないよ。だから、ハニーはもうこれでジェームズのことなんかすっかり忘れて、生活を新しく立て直すことに専念しろよ。な?」

 レイフが心からの思いでそう言うと、ハニーはじっとうつむいていた顔を上げ、まっすぐに彼を見返した。

「ええ、そうね。ありがとう、レイフ、私もあなたに会って話すべきことを話せて、ほっとしたわ。これできっと後ろを振り返らずに歩いていける」

 ハニーは長い間垂れ込めていた雲が晴れたようなすっきりした顔をしていた。

 レイフはぱちぱちと瞬きをしたかと思うと、頬の辺りを指先で引っかきながら、ふっと笑った。

「うん…オレも、ハニーと会えてよかったと思うよ。これで、やっとオレも吹っ切れるかな」

 2年近くもレイフの胸を離れなかった、数々の失敗や後悔、失恋の苦い記憶…これでやっと終わらせることができる。

(ハニーのことなんかとっくに諦めて、ほとんど忘れたつもりでいた…でも、ほんとは、あのままじゃ何一つ終われていなかったんだ)

 何も言わずに、ある日、いきなり学校を辞めて故郷に帰っていったハニー。レイフは、彼女が親元に戻ったことを後からクリスターを通じて知らされたのだ。

(ハニーはオレにさよならを言わなかった。オレはハニーにさよならを言えなかった…だから―)

 レイフはハニーとスターバックスの駐車場で別れた。せっかくだから懐かしい街を一緒に巡ってみないかと誘ったのだが、ハニーはまだそこまで穏やかな心で思い出に浸ることはできないからと断った。

「それじゃ、気をつけて帰れよ。その…元気でな」

「あなたもね。さよなら…レイフ」

「ああ、さよなら」

 レイフはハニーにくるりと背中を向けて、自分の車の方へ歩いていった。ちくんと心臓が小さく痛んだが、思ったほどひどくはなかった。

(つまり、オレ、今度こそ完全に失恋しちゃったわけか…ああ、なんか、すっきりしたような、物寂しいような…)

 車の運転席に坐って、しばらくの間ぼうっとした。別に哀しくなどなかったつもりだが、目がじわりじわりと濡れてきて、しまいには鼻水まで出そうになってくる。

「うちに…帰ろう…」

 くすんと鼻を小さく鳴らして目元を手の甲で荒っぽくぬぐい、レイフはエンジンをかけた。

「兄貴、もう戻っているかなぁ」

 クリスターに対して言いたいことは山ほどあったが、それより何より、今のレイフはただひたすら彼に会いたかった。




 彼がコーヒーを淹れて社長室に持っていくと、仕事をするでもなく暗い顔をしてデスクに座りぼんやりと物思いにふけっていたラースが少しほっとした表情になった。

「そんなに気落ちしないください、オルソンさん。ブライアンさん達があんなひどい辞め方をしたのは彼らに問題があったからで、あなたは何も悪くないんですから」

 金髪の若者が同情のこもった柔らかな声で囁くとラースは微かに目元を潤ませる。親友達に裏切られたせいか、随分感傷的になっているようだ。

 ラースに勧められるがまま、彼は来客用のソファにそっと腰を下ろした。

「そんなことより…そうだ、あなたの自慢の子供達の話をしてくださいよ。この間見せてくれた小さい頃の写真、ほんとにヘレナさんにそっくりで、お人形のように可愛かったですね。それが今ではあなたよりも背が高いだなんて、イメージがわかないです。いつか実物と会ってみたいなって思います」

「おお」

 息子達の話を振られると他のことに気を取られていてもラースは大抵乗ってくる。よほど件の双子兄弟を愛しているのだろう。相好を崩してソファの所にやってくるラースを、彼は温和な笑みの陰に隠した冷静な眼差しで観察していた。

 この男のことなら、今ではもう、何から何まで手に取るようによく分かる。単純で読みやすい男。その点、今はもうここにはいないブライアンやジョエルよりも扱いは簡単そうだ。

 始まったら止まらない息子達の自慢話に適当に相槌を入れながら、彼は出そうになるあくびを噛み殺すのにちょっと苦労していた。

 弟はきっとこの大らかで愛情深い父親と気があうだろうが、明晰すぎる兄はどうだろうか。愛すべきだが尊敬できない人物と思っているのではないだろうか。

 ラースは目の中に入れても痛くないほど息子達を溺愛しているが、彼らのことを理解しているかというとそうでもない。実際、もう18才になった立派な青年達が、彼の頭の中では依然として幼い子供でしかない。子供が誰かとキスしたりセックスしたりするなどと、ラースが知ったらさぞかし困惑するのではないだろうか。いや、それよりも、息子達がひた隠しにしている、あの秘密を知ったら彼がどんな反応をするのか。想像できるだけに、おかしい。

 ラースはことセクシャリティについては保守的で徹底したホモ・フォピアだ。

 息子達の関係についても、全くの盲目というわけではなく、大きくなっても子供の時と変わらない『親密すぎるスキンシップ』をする彼らに、訳もない不安や不快感を覚えているらしい。親の勘というやつだろう。もしかしたらラースが彼らをいつまでも子供と見なしたがるのは、過剰な触れあいを説明する正当な理由が欲しいからかもしれない。

「…何と言っても2人きりの兄弟だ。もちろん仲がいいに越したことはないんだが、ちょっとばかり仲がよすぎるのが、どうしたものかと思うことがあるんだ。やっぱり双子だからかな…お互いに対する執着が普通の兄弟以上というか…考えすぎたとは思うがな」

 歯切れの悪い口調でこんなことをラースが漏らす度、彼の胸の中の嗜虐心が頭をもたげそうになる。

「そうですねぇ…ああ、以前読んだ本にこんなことが書いてありましたよ」

 ねえ、ラースさん、本当のことを教えてあげましょうか。

「…一卵性双生児は総じてナルシストで同性愛に陥りやすい」

 あなたの子供達は恋人同士なんです。あの2人は愛し合っているんですよ。

「冗談じゃない」

 明らかにむっとなるラースに、彼は慌てて訂正するように両手を振ってみせた。

「まあ、心理学者の言うことをそのまま鵜呑みにすることはないですから…話に聞くところではラースさんの息子さんにはちゃんとガールフレンドもいるようだし、心配することはないんじゃないですか」

「うむ。そうだ…そのとおりだ」

 やはり少しは疑っている。信じたくない現実から目を逸らしている、この男に秘密をばらしてやりたくてたまらない気分に彼は駆られた。

 自分の口から真実を明かしても少しも面白くないとは分かっていたけれど―。

「でもね、オルソンさん…」

 誘惑に耐えかねて口を開きかけたが、その時、外に向かって半分開かれたまままのドアが軽くノックされたので彼は出掛かった言葉をとっさに飲み込んだ。

「ラース、そろそろ時間よ」

 ドアの向こうから姿を現した紅い髪の女は、ラースと親しげに話しこんでいた様子の彼を見つけて僅かに冷たい目になった。

「おお、もうそんな時間か。ジョエルの件で弁護士と相談しなきゃならんのだ。コーヒーをありがとうな、ジェイコブ」

 ラースは慌ててソファから立ち上がるとヘレナから車のキーを受け取り、部屋から出て行った。

「ラースと…何を話していたの、ジェイコブ?」

 コーヒーのカップを片付けようと身を起こす彼にヘレナが何気なく声をかけてきた。

「取り留めのない話ですよ…ラースさん、かなり落ち込んでいるようでしたから、何か話しかけて気を紛らわせてあげた方がいいような気がして…余計な気遣いだったでしょうか?」

「いいえ…もちろん、あなたを咎めているわけではないわ」

 ヘレナの口調は穏やかだがほとんど瞬きもせずに彼にあてられている目は異様に鋭い。彼が示す僅かな反応も見逃すまいとしている。

「ただ、どうして、アンチゲイのラースにあんな話をしたのかなって思ったの…」

 いきなりストレートで来たかと彼は少しひやりとした。

「ああ…聞いていたんですか、ヘレナさん…?」

 ばつが悪そうに顔をしかめて見せるとヘレナも少しすまなそうな顔をする。

「立ち聞きするつもりじゃなかったのよ…私は聴力が人並み外れていいの。息子達もそうだから、きっと遺伝的なものでしょうね」

 息子達と聞いて、彼は思わず好奇心をかきたてられたが、ヘレナに見抜かれるのを用心して目は伏せたままにしておいた。

「本気で言ったわけじゃないですよ。もちろん。気を悪くしたなら謝ります」

 ヘレナはじっと黙り込んで彼を見守っている。この沈黙は結構なプレッシャーになるなと彼はこの場から逃げる口実を探した。

「残念だけれど…僕はヘレナさんに嫌われているみたいですね」

 ふっと溜息をついて、彼はヘレナの前まで歩いていった。

「いいえ。どうして、そう思うの? だって、私があなたを嫌う理由なんてないでしょう?」

「そうですねぇ」

 彼は首を傾げて考え込むふりをした。

「ただ、僕がここにやってきてからですから―立て続けに人間がらみの問題が起こって、ブライアンやジョエルのような、ラースさんが信頼していた古株の社員達が辞めることになったのは。僕がここに不運を運んできたのだと受け取られても仕方がないのかもしれません」

「私は、運とか不運なんて、理屈にあわないことは信じないわ。だから、その点はどうか安心してちょうだい、ジェイコブ。ただ…気になることがないわけではないのよ」 

 彼は問いかけるかのように首を傾げた。

「ラースはあなたをとても信頼しているわ。出会ってまだふた月にもならない相手だとは思えないほど、あなたを信じきっている。長年の親友達に裏切られたのがショックで気弱になっているせいかもしれないけれど、あなたの言葉を鵜呑みにしかねない今のラースは見ていてとても危ういの。だから、あなたにも言葉は慎重に選んでもらいたい。特に、さっきのようなことを、うかつに口に出されては困るわ。あなたを責めるつもりではないけれど、分かってちょうだい」

「はい…。分かりました、気をつけます」

 この女はやはりクリスターを思い出させるなと、緊張感と共に言いようのない興奮が沸き起こってくるのを意識しながら、彼は胸の内でひとりごつ。

 内面に限って言うならば、あの脳天気な弟よりもずっとこの女の方がクリスターに近い。

 どうする。感情を隠し通すのはどうやら無理そうだ。

「でも、ヘレナさん、僕は別にあなたの息子さん達を同性愛者だなんて決め付けたわけじゃないんですよ。うっかり口を滑らせたことをそんなふうに深刻に捕らえる必要はないじゃないですか。それが、別に本当じゃないんなら?」

 ヘレナはぴくりとも表情を動かさなかったが、意志の強そうな瞳がほんの僅かだが心もとなげに揺らめいた。

 勘のいいこの女は薄々知っているのかもしれない。

「それに、ラースさんが僕を信頼して傍に置きたがるのはあっちの責任で、僕にはどうしようもないことです。大体、あそこまで無条件に他人に心をさらけ出すなんて信じられない。よほどのお人よしか馬鹿のどちらかです。…誤解しないでください。僕はこれでもラースさんが好きなんですよ…子供のまま大人になってしまったような人だから、どうか誰にもあの純真な心を傷つけて欲しくないと思う。あなたもきっと、そんな母親にも似た心情であの人のことを心配しているんですね?」

 これもどうやら図星だったのか、ヘレナの冷たい琥珀色の瞳の奥に今度は明らかな怒りの火が揺らめいた。

「だからと言って、あまり無理はしないでくださいよ、ヘレナさん。今のあなたは普通の体じゃないんだし、ラースさんの言う通り、やはり家にいた方がいいんじゃないかと僕も思います」

「あなたが、そんな心配をする必要はないわ」

 ヘレナが軽く片方の眉を跳ね上げて微笑むとますますクリスターを思い出させ、これ以上傍にいるのが辛くなってきた彼は、軽く会釈をして彼女の脇を通り過ぎた。

「ラースはあなたのことを…クリスターにどこか似ていると言っていたけれど」

 ヘレナが低い声で漏らすのに彼は思わず足を止めた。

「それは間違いね。あなたは、あの子と似ても似つかないわ」

 ヘレナが苦々しく呟くのを背中に聞いて、唇の端を冷たい笑いに引き上げると、彼―ジェイコプならぬジェームズ・ブラックはそのままゆったりと歩き去った。


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