ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第4章 黒い羊
SCENE5
ターンを30回、超えたところで、クリスターはもう数えるのをやめた。
この公営プールで出された記録が何回か知らないが、この調子で泳ぎ続けたら、たぶん50はいけるだろう。
ほとんどあらゆるスポーツに対応できる、鍛え抜かれた体は、意識して使わなくとも一番無駄のない動きを知っているかのようだ。腕は力強いストロークを描き、足は水を打ち続ける。飽くことも、疲れも知らず、しゃにむに。
水の中では、周囲の他の泳ぎ手達がたてる物音や声は遠く歪んで聞こえる。何だか自分だけ隔絶された別世界にいるような錯覚にふと捕らわれた。
伸ばした指先に固いコンクリートの感触を覚えるや、クリスターは反射的に体を捻って再びターンをきった。
ぱしゃんと上がる水しぶき。
いっそ新記録を作ってやろうか―ふっとそんな思いがクリスターの脳裏を掠めたが、たかが遊びにそこまで真剣になることはないかと思い直す。
クリスターはプールの中ほどでペースを落とし、後はクールダウンするようにゆったりとプールサイドまで泳ぎきって、水の中から立ち上がった。
瞬間、周りで彼の泳ぎを見物していた人々の間からちょっとした歓声と拍手があがった。
クリスターは顔に流れ落ちる水を振り払うように頭を振り、あがった息をしばし整えた。
頭上から差し込んでくるまぶしい光に目を細めてふと見上げると、プールを覆う高い天蓋にはめこまれた窓の向こうには、よく晴れた青空が広がっている。時間は、そろそろ正午を回った頃だろうか。
「クリスターさん」
声のした方に目を向けると、プールサイドに坐って休んでいたダニエルがこちらに向かって大きく手を振っていた。
クリスターは軽く手を上げて、彼のもとまで泳いでいった。
「クリスターさん、すごかったですね。全部で、ええっと…43回です」
クリスターがタイルの縁に手をかけてダニエルの足元に立つと彼は頬を赤くして興奮気味に伝えた。
「ああ…そんなものか」
「まだ余裕がある感じですね」
「うん…50回くらいやろうと思えばやれそうだったけれど、でも、何事も過剰はいけないと改心したばかりだから、やめたよ」
視線を感じて後ろを見やると、反対側のプールサイドに並べられた椅子に坐った女の子達が何やらはしゃいだ声をあげ、興味と期待感をこめた視線や笑顔向けてきた。少し前なら近づいて声くらいかけてみたところだろうが、今はもうそんな気分にはなれず、クリスターは無関心に背を向ける。
「…あの子達、さっき僕のところに来て、あなたのことをあれこれ聞いていきましたよ。ちょっと煩かったです」
「へえ」
ダニエルは少し拗ねたような顔をして、やり場のない鬱憤を晴らすように足先で水をかいている。
子供っぽい仕草にクリスターはつい微笑みを誘われ、ダニエルの細い足首をなだめように撫でながら優しい声で囁いた
「煩いと思うなら、君の恋人だと教えてやればいいんだよ。そうすれば、大抵女の子は怯んで逃げていくはずさ」
「こっ…恋人なんて、そんな…」
クリスターがからかうと、ダニエルはうっと言葉に詰まって、たちまち顔から白い胸の辺りまで茹でたように真っ赤になってしまう。
(可愛いな)
普通にそう思えるくらいには、この子を好きになってきたのだろうか―そんなことを考えながら、クリスターはダニエルに手を差し伸べた。
「来いよ。もう充分休んだだろ?」
「でも、あなたのあんな泳ぎを見せ付けられた後じゃ、ちょっと…」
「何だよ、少しは体力をつけたいから、水泳を教えてくれって言ったのは君だろ?」
悪戯気を出したクリスターは、躊躇うダニエルの手を捕まえて強く引っ張った。
「わっ」
ダニエルは悲鳴と共に濡れたプール端から簡単に滑り落ち、クリスターの広げた腕の間に収まった。
「…強引ですね」
頭から水しぶきを浴びて濡れそぼったダニエルは、大きな目で恨めしげにクリスターを睨みあげたが、むき出しの肩に彼が掌で触れると小さく震えた。
「本当に君は華奢だね…肩も腕も…大事に扱わないと壊れてしまいそうだ」
クリスターがしみじみと呟くと、ダニエルは困ったように眉をひそめた。
「クリスターさん…僕は―」
「黙って…」
近くのプールサイドを歩いていた女性が、何をしているのかといぶかるような目を親密な様子で囁きあっている2人に向けながら通り過ぎる。
クリスターはさり気なくダニエルの肩から腕に手を滑らせ、水の中でそっと彼の指に指先をからめた。ダニエルは色白の顔を薄っすらと赤らめたが、傍目にも分かるような動揺は見せない。
(僕らが一応恋人同士だということは、やっぱり内緒にしておいた方がいいかな。この子が嫌な目に合わないよう、僕が気をつけてあげないと―)
大都会ボストンにも近く、この付近は同性愛に比較的寛容なリベラルな土地柄だとは思うが、やはり誰彼となく自分達は恋人同士だと見せ付けるような真似は慎んだ方がいいだろう。自分はともかく、幼く純真なダニエルには、まだ荷が重い。
(普通の友人のふりをして世間の目をごまかすことなどたやすいさ。ああ、これまで僕が我慢してきたことに比べたら―僕の苦しさになど気づきもしない、無邪気で鈍感なあの馬鹿に、あくまでただの兄弟として接しようとしてきた苦労に比べたら、うんと楽だよ。それに、敏感なダニエルは、僕の考えていることもこんなふうにすぐに察してくれる)
水中に隠して手を握り合ったまま、クリスターはダニエルに目配せした。
「実際、君にとって水泳は悪くないと思うよ。浮力のおかげで弱い部分に負担をかけることなく体を鍛えられる」
「は、はい」
それから1時間ほど、クリスターはダニエルにつきっきりで水泳のフォームから息継ぎの仕方から丁寧に教えてやった。
ダニエルは事故で脚を痛めて以来スポーツからは遠ざかっていたため、泳ぎも苦手なのだという。小さい頃は普通にプールに遊びに行っていたらしいから、もともと全く泳げないわけではなく、単に水に慣れていないだけなのだろう。
「…だから、水に慣れ親しんで恐怖心がなくなれば、そのうち体も思うように動かせるようになると思うんだ」
「そんなふうにあなたは簡単に言うけれど、あなたやレイフさんのようなスポーツ万能の天才のようにはいきませんよ」
教えられたように必死に泳いだものの、すぐに息があがってしまい、クリスターの腕にしがみついて引っ張られるがままになっていたダニエルは、疑わしげに言い返した。
「それじゃあ、教えるけど…レイフだってね、ああ見えて、昔は泳ぎだけは駄目だったんだよ」
「え、そうなんですか?」
「小学校に入ったばかりの頃かな、誤って池に落ちておぼれかけて、それからしばらく水を恐がって避けていたんだ。あのまま放っておいていたら、きっと今でもカナヅチだろうね。でも、夏休みに僕があいつをプールに引っ張っていって、目の前で他の友達と泳いでやったら、初めは恐がっていたくせに、そのうちじっとしていられなくなって自分から水に入ってきたんだよ。そこから勘を取り戻すまでは、やっぱりレイフだけあって、早かったな。レイフは僕がやることは何でも真似たがったからね。僕が泳げるのに自分はカナヅチだなんて、我慢できなかったんだ。分かりやすいだろ。ふふ、何て言うか、僕はあいつをその気にさせるのが昔から得意だったんだ…」
懐かしげに目を細めて語るクリスターの顔には、幸福そうな温かな笑みが広がっていた。
しかし、そんな自分を澄んだ瞳でじっと見守っているダニエルの存在を思い出し、クリスターはちょっときまりが悪くなった。
「ごめん、ぼんやりして…」
「…それじゃ、クリスターさん、僕の泳ぎを見ててくださいね。せめて一往復くらいはできるよう、がんばりますから」
クリスターの無防備な笑顔の裏に隠された心情になど気づかぬふりをして朗らかに言うダニエルに、彼は少しほっとした。
「無理はするなよ」
本当に察しのいい―人の気持ちに敏感な分、繊細すぎる心を持つ子だ。だからこそ、もう二度と傷つけたくない。
反対側のプールサイド目指して一生懸命に泳ぎだすダニエルを見守る、クリスターの心中は恋人に対するすまなさと自嘲とに揺れていた。
(可愛いダニエル…君のことだけいつも考えてあげられればどんなにかいいだろうに、あいつの面影が僕の胸から離れない。恋人と2人きりの時でも、実際にはいつも3人一緒にいるようなものか…ダニエルは何も言わないけれど、聡いあの子には分かっているだろう)
ゆらゆらと揺れる水面を見下ろすと、ぼやけた自分の影が映っている。
傷口から溢れる鮮血を思わせる紅い髪、引き絞られた弓のような、実に無駄のない筋肉のつき方をした逞しい体、長く伸びた手足―。
(切り離すことのできない影のように、いつも僕に寄り添っている。完全に忘れることも、心から閉め出すこともできない…他でもない僕自身の姿が、この顔も手も体も、見るたびにもう1つの似姿を思い出させずにはおかない。分かっている。それでも、僕は決めたんだ―)
大きな水音が上がったのに、はっとしてクリスターが顔を上げると、プールの真ん中辺りでダニエルの腕がもがくように上がるのが見えた。
クリスターは瞬時に水の中に飛び込み、脚を不自然に折り曲げながら何とか水をかこうとあがいているダニエルに素早く近づいて、その背中を抱きとめた。
水面に引き上げるや、クリスターの腕の中でダニエルは激しく咳き込んだ。
「足がつったんだね?」
「は、はい…やっぱり、こっちの脚が僕は弱いみたいで―ごめんなさい…」
「謝るようなことじゃないよ」
しょんぼり項垂れるダニエルの頭を見下ろしながら、人目がなかったら優しく抱きしめてキスしながら慰めてあげられるのにとクリスターは思った。だが、こんな感情もこの子に対する後ろめたさの裏返しなのかもしれない。
ふいに、プールの塩素の匂いが鼻について感じられた。
クリスターは、ダニエルの細い肩に腕を回して囁いた。
「そろそろ、上がろうか」
プールに併設されているカフェテリアで2人は昼食を取った。
いつもはもっと空いているのだが、夏休みが始まったこともあって親子連れが多く、少々騒がしい。
「…アイザックは今、コリンさん達と一緒にいるんでしたよね」
「ああ、彼らのアパートでしばらく過ごして、それから3人一緒に1週間ほどどこかにキャンプに出かけるとか言っていたな」
ハンバーガーのつけあわせのポテトをフォークの先でつつきながら、クリスターは何気ない口調で答えたが、後味の悪い別れ方をした友人がどうしているのか、実は気になって仕方がなかった。
「連絡はないんですか?」
「ああ」
ダニエルは大きな目をくるりと回して、いぶかしげに小首を傾げた。
「それは、ちょっと変ですね。まめなアイザックらしくない…J・Bのことがあるだけに、別にコリンさん達の身辺で変わったことが何もなくても、それならそれで、こっちはいたって平和に夏休みを楽しんでいるとか、報告くらいあってもおかしくないのに…」
夏休みに入る直前アイザックとクリスターの間で何かあったらしいと察しているのか、クリスターの反応を窺うダニエルの表情は気遣わしげだ。
「そうだね」
クリスターはこの話題をこのまま続けるべきかどうかしばし逡巡した後、躊躇いがちにぽつりと漏らした。
「もしかしたら、アイザックはまだ僕を許していないのかもしれないな」
「許すって?」
「うん…どうやら彼には、僕に対して思うことが色々あったようなんだ。アイザックは、もともと自分の信条ややり方にとてもこだわるタイプの人間だ。それなのに、本当に誠実に僕につくしてくれた…取材させろだのなんだのと交換条件をつきつけてきたけれど、あれは単なる照れ隠しの口実だってことは僕も分かっている。だが、その裏には、僕に対する小さな不満や苛立ちが隠されていたんだね。もしも僕が―アイザックのそんな気持ちを汲み取ることができていたら…いや、もっと心を開いて彼に接することができていれば、あんな他愛もない口論があそこまでこじれてしまうことはなかったんだろうな」
胸のうちに溜め込んでいたものを爆発させてクリスターをののしったアイザックの口惜しげな顔を思い出し、クリスターの心は沈んだ。
(一度でも、おまえが俺を友人として仲間として信頼してくれたら―そうさ、俺を納得させるのに大儀も正義もいらない。1人でJと戦うなんて無理だから、一緒に来てくれと素直に手を差し伸べてくれりゃ、それでよかったんだ)
他人を信頼せず、心を開こうとしてこなかったことの報いだろうか。大切な友人の心をこうしてなくしつつあるのも―。
「この頃の僕はどんどんJ・Bに傾倒していくようで見ていて危うい、ついていかれない言うアイザックに、僕は、それならもう無理に付き合ってくれなくてもいいと答えてしまったんだ。僕は…そんなつもりで言ったわけではないんだけれど、アイザックは僕に突き放されたように感じたんだろう。使い捨ての駒のように扱われたと思ったんだ」
「クリスターさん…」
「自分でも馬鹿だなと思うよ。アイザックがいなければ、僕はとても困ってしまうのに、傍にいてくれと素直に頼む代わりに、それとは正反対のことを言ってしまった。これだから、僕には友達ができないんだね」
実に情けない気分で溜息混じりそう呟き、茫洋と周囲を見渡すクリスターに、ダニエルはふいに決然とした顔つきになった。
「そんなふうに愚痴るくらいなら、自分から早くアイザックに連絡すればいいじゃないですか」
ダニエルには珍しい厳しい口ぶりに、クリスターはちょっと驚かされた。
「コリンさんの連絡先は分かっているんでしょう? それなら、帰ったらすぐに電話を入れてください。そんなふうに諦めてしまうことなんかないんです」
「ダニエル」
「なぜなら、あなたは、本当はそうしたいと思っているからです。アイザックを失いたくないんでしょう? それなら、彼の声を聞きながら、あなたの言葉でちゃんと謝ればいいんですよ。この際、少しくらいみっともなくても恥ずかしくてもいいじゃないですか、人の心というかけがえのない宝物を手に入れるために、少しは努力してみてください」
胸の深いところを突かれて、クリスターは一瞬黙りこんだ。
小さな手をぎゅっと握り締めてクリスターに分かってもらおうと全身で訴えているダニエルを、彼はつくづくと見つめた。
「友情を求めるのに手を抜くなということか…何もせずに他人同士が分かり合えるはずもない。確かに、そうだ…僕が傲慢だった」
ダニエルの言葉を吟味しながら、クリスターはあの眼鏡で痩せぎすの、皮肉っぽく輝く黒い瞳が魅力的な、毒舌家だが頼りになる友人のことを考えた。
アイザック。まだ間に合うものならば、取り戻したいとは思う。テーブルの上に乗せた手をクリスターは握り締めた。
(それに―最後に会ったアイザックは、今から考えてもどこか様子がおかしかった。うっかり口を滑らせた僕の一言を真に受けて、あんなにかっとなるくらい神経が張り詰めていた…僕と口論する前に、彼を追い詰めるような何かがあったんじゃないだろうか。そう、やはり、一度彼を捕まえて確かめた方がいい。これは僕の杞憂であってほしいけれど、もしかしたら―)
沈思黙考をしばし続けた後、クリスターは、我慢強く自分の答えを待っているダニエルに微笑みながら頷き返した。
「分かったよ、ダニエル…とりあえず今夜にでも電話を入れて、アイザックと話してみるよ。コリンのアパートに彼がまだいるなら、一度こちらから会いに行ってもいいな」
ダニエルはよほど安堵したのか、怒らせていた肩を下ろして溜息をついた。
「心配かけてすまないね、ダニエル」
するとダニエルは苦笑を含んだ眼差しをクリスターに投げかけた。
「だから―そういうところがあなたは水臭いって、不満の種になるんですよ。ほとんど弱点なんかない、完璧に見えるあなただからこそ、もっと他人に甘えたり、時には弱さを見せたりする方がいいんですね、きっと」
クリスターがじっと押し黙るとダニエルは顔を赤らめ、慌てて否定するように手を振った。
「ご、ごめんなさい…生意気なことばかり言って…ついさっきも、まともに泳ぐこともできないで、おぼれかけてクリスターさんに助けてもらったような僕なのに―」
「さっきは僕が君を助けて、今は君が僕に必要な助言をくれた―それだけのことだよ。ねえ、ダニエル、僕達は何だかことあるごとに謝りあっているような気がするけれど…そういうのはもうやめないか。水臭いだろ。そう、ここはむしろ…こうすべきだろうな」
クリスターはテーブルに置かれたダニエルの手をそっとすくい上げるようにして握り締めた。
「ありがとう、ダニエル」
「は、はい」
ダニエルはクリスターに手を取られたまま、おずおずと頷いた。
それからしばらくして、クリスターは車でダニエルを寮まで送っていった。
今日は、午後からアルバイトが入っているのだと言うダニエルに、クリスターはつい心配そうな目を向けてしまう。
「ダニエル…何度も言うようだが、その仕事、やめてくれないか」
「大丈夫ですよ。あなたの思うような危険な目に僕があうことなんてありません。J・Bが僕の仕事場に現われることなんて…まずないんですから」
助手席に坐ったダニエルは自信ありげに笑うが、クリスターの懸念はぬぐいきれない。
こんな会話を2人はこれまでことあるごとに交わしてきたのだが、仕事を続けるというダニエルの意思は固かった。
クリスターが心配するのも無理はなかった。最初に聞いた時には、また思い切ったことをするものだと耳を疑ったほどだ。ダニエルのアルバイト先―それは、ブラック家の主治医を勤める医師のクリニックなのだ。
Jの最近の動向を探るために、ダニエルはあれこれ手を尽くし、ひと月ほど前からそのクリニックにうまく潜り込んでいた。よくよく話を聞けば、面接を受けた時には既に他の学生に採用が決まっていたところを、ダニエルが直接そいつと話をつけて仕事を譲ってもらったのだそうだ。どんな手を使ったのか、ダニエルはクリスターにも教えてくれなかった。
ダニエルの雇い主である医師キャメロンは、重い糖尿病を患っているJの父親を診るために週に一度ブラック家に往診に出かけている。時折Jの健康状態も診ているようだが、ブラック家の人間が自らクリニックを訪れることはないのだという。
クリニックで受付やカルテの整理などの仕事をしながら、ダニエルは医師から間接的にブラック家の内情を知ることができるというわけだ。もっとも守秘義務のある医師の口から患者のプライバシーに関わる情報を聞きだすのは難しいだろうが。
「Jの父親の病状は、そんなに悪いのかい?」
「そのようですね。カルテを見てみると、投与されているインスリンの量もどんどん増える一方でしたし…服用している薬の数もかなり多かったです。年齢はまだ57才なのにほとんど寝たきりの生活のようですよ。ああ、そうすると、Jは随分遅くに授かった子供なんですね。Jの他に子供はいないようですけれど…」
「確か、もう1人、Jの双子の妹がいたはずだけれど、その子は早くに亡くなったんだよ、事故か何かでね」
クリスターの瞳にふっと不安そうな翳りがさした。何かにつかえたように一瞬言葉を切ったが、ダニエルが気付く前に、彼は再び話を続けた。
「妹だけじゃない、母親も…Jが中学生の頃に亡くなっている。彼女の場合は自殺だったそうだ」
「ブラック家は不幸続きだったんですね。それで、今では父1人子1人ですか…でも、唯一残された身内があんな悪魔のような奴だなんて、その父親こそ気の毒ですね」
Jの育った家庭環境は、以前色々調べたのだが、なかなか複雑なものがある。そもそもブラック家という一族が、何かしら得体の知れない背景を持っているのだ。
ヨーロッパの名門の流れをくむ旧家―と言っても、なかなかピンとこないのだが、それはどうやら事実らしい。先代の当主であった女性が、事業の才を見込まれたある男と結婚し、彼らの間に男女の双子が生まれた。その内の男児がジェームズというわけだ。
一体いつの時代の話かと思うが、ブラック家は旧大陸から持ち込んだ幾つかの奇妙な習慣を近代まで頑なに守っていた。その1つがかつてのヨーロッパの王族の間で繰り返されていたような血族婚。さすがにこれは今ではなかったろうが、それでも二十世紀の初頭までは続けられていたそうだ。また女当主のもとで家が栄えるとされており、主に女性が後を継いできた。実際、なぜかブラック家の男子は短命で、成人を迎えずに夭折するものも多かったという。単に、男が育たないのなら女が継ぐしかないという、実際的な事情があったのかもしれない。
それゆえ、ブラック家の跡取りも初めはジェームズではなく、彼の双子の妹と見なされていた。母親はこの娘のみを溺愛し、ジェームズのことはなぜか疎んじたという。だが、期待をかけた娘は呆気なく死んでしまい、落胆のあまり、彼女も精神に変調を来たし、娘の死の数年後に自殺を遂げてしまう。
1人残された息子にはとにかく不憫がかかったのだろう、ジェームズの父親は彼にありったけの愛情を注いだ。もとからブラック家とは血縁関係もなければ古風な価値観も共有していなかった彼は、妻が死んだ途端、それまで婿として抑圧されてきた反動もあったのか、優秀なジェームズが才能を伸ばせるよう最高の教育を受けさせ、また彼の望むものは何でも与えるようになった。アーバン校に多額の寄付をし、理事になったのも、息子可愛さからだ。しかし、どうやら彼にはジェームズの本当の姿は見えておらず、自分の庇護の下で息子がどんな非道なことをしていたのか、彼が捕まり告発されるまで気がつかなかった。
そして今、施設を出所して戻ってきたジェームズと父親は改めて向き合うことになったわけだ。果たして、彼らの親子関係はどんな状況にあるのだろうか。
「その辺りも、また探りを入れてみますね。ジェームズの父親ならまだ彼に対して大きな力を持っているかもしれないですし…いくら親馬鹿だって、息子の数々の悪行の事実を突きつけられていい加減もう目が覚めたでしょう。Jがまたしても何かしでかそうとしていると気づいたなら、彼を阻止するために動いてくれるかもしれません」
ダニエルは楽観的にそう言うが、寝たきりの病人にそこまでの力があるだろうかとクリスターの胸には疑問が生じた。
(むしろ、たとえ父親でも自分の邪魔をしようとすれば、Jなら容赦しないような気がするな)
クリスターの沈思は、ダニエルの声によって遮られた。
「クリスターさん、あの…僕が今のアルバイト先に固執するのは、他にも理由があるんです」
「うん?」
「クリニックに入って分かってきたことなんですけれど…ブラック家の主治医である、このドクター・キャメロンなんですが、もとの専門は遺伝学で、その専門性を見込まれてブラック家との付き合いが始まったらしいんです。ライフワークだと言って、ブラック家の援助を受けながらずっと何かの研究をしているという話もあるくらいで…」
頭の中の考えをまとめながら一言一言確認していくように語るダニエルをクリスターはちらりと見やった。
「あの…クリスターさん、あなたが以前気にしていた、ブラック家の血統にまつわる謎というのがありましたよね…? あなたは興味を持ったけれど、突き詰めて調べるまでもなく、前回はJ・Bを退けることができた」
「ああ…」
「まだ確信があるわけではないけれど、このドクターを手がかりにして調べていけば…その謎が何なのか、突き止められるかもしれないって僕は思うんです。もっとうまくいけば、Jの弱点が分かるかもしれない。あなたが以前推理したことが、もし当たっていれば―あなたは彼に対して圧倒的な優位に立てる。たぶん、この先二度とJ・Bの影に脅かされずにすむ…」
「ダニエル」
次第に訴えることにのめりこんでいくダニエルにふと危うさを覚えたクリスターは、強い口調で彼の話を遮った。
「いいかい、これは探偵ごっこじゃないんだよ。子供じみた冒険心で関わっていいような相手じゃない。こんなろくでもないことに…Jとの体を張ったゲームなんかに、一度ならず二度までも君を巻き込んでしまった僕のせいかな。君にまで悪い影響を与えてしまったようだ」
「クリスターさん、僕だってもちろんこれが遊びではないってことくらい分かっています。僕も、本当はJが恐い。でも、放っておいたら、Jはあなたに何をするか知れない…自分だけ安全圏にいてあなたの身の心配をするくらいなら、こうして少しでもあなたが彼に対して優位に立てるよう、僕にできる範囲で動いていたいんです」
懸命にかきくどくダニエルを、しかし、クリスターはぴしゃりとはねつけた。
「君は、決して無茶はしないと僕に誓ったはずだ。その約束を守れないなら、やっぱり君にはこれ以上この件に関わらせることはできない。ダニエル、夏休みなのにここに残ってまで、そんな危険を冒すことはない。いっそ、両親のもとに帰ってくれ。その方が、僕も安心してJとの闘いに集中できる」
クリスターの言葉は冷たく響いたのだろう、ダニエルははっと息を吸い込んだ。もどかしげに唇を噛み締めて、クリスターの怜悧な横顔を見開いた目でしばし睨みつけた後、震える言葉を搾り出した。
「そんなふうにして…あなたはアイザックのことも退けようとしたんですか?」
瞬間、クリスターはダニエルに引っぱたかれたかのように顔をしかめた。
「痛い所を突くんだな」
自分の望みどおりにたやすく折れてはくれないダニエルに苛立たしげに舌打ちをして、クリスターは荒っぽくハンドルを切った。
確かにこれと同じような状況で、アイザックに対してクリスターは失敗したのだ。この場合、失われるのはダニエルと一緒にいることで得られるささやかな安らぎか。だが、そんな自分勝手な都合とこの子の安全と、どちらがより大事なのか。
クリスターが葛藤していると、ダニエルは全てを分かっているかのような真摯な口調で言った。
「だって、あなたがまた自分の首を絞めるようなことを言うからですよ。アイザックと喧嘩して、その上僕までいなくなったら、あなたはたった1人でJと対峙しなければならなくなる。僕としては、あなたをそんな窮地に陥らせることはできません」
クリスターは複雑な表情で傍らの少年を見やった。ふと躊躇った後、ごく低い声でそっと囁きかけた。
「しかし、ダニエル…もしも君の身に何かあれば、僕は今度こそ自分を許せなくなるだろう。僕のためと言うのならば、君には第一に自分の安全を考えていて欲しい。これが、僕の正直な気持ちだよ」
「クリスターさん」
ダニエルは何かしら胸に詰まったように黙り込んだ。目の周りを薄っすらと赤くしてうつむいたまま、やがて学校の寮に着くまでの間、助手席でおとなしくしていた。
「クリスターさん、ありがとうございました」
ダニエルは窓の向こうの寮の方をちらっと眺めると名残惜しげにクリスターを振り返った。クリスターはハンドルに手を置いて前方を見据えながらじっと考えに沈みこんでいる。
「それじゃ、また…」
はにかむように微笑んで、ダニエルはシートベルトを外そうとしたが、その手をふいにクリスターが捕まえた。
「クリスターさん?」
何か言いたげな神妙な面持ちを向けるクリスターにダニエルは首を傾げた。
「あの…分かっています、アルバイト先ではくれぐれも慎重に行動するようにしますから…あなたの迷惑になるようなことは決して―あっ…」
クリスターの気持ちを一生懸命に汲み取ろうとしながら賢しげな言葉を続けるダニエルを見ていると、何だかたまらなくなってきて、クリスターは彼を衝動的に抱きすくめた
「馬鹿な子だ」
無性に苛立ち、無性に哀しくやりきれないような気持ちに駆られながら、クリスターはダニエルのか細い体を抱きしめ、その頭を撫で、頬や額、震える瞼にキスを落としながら呻くように囁いた。
「いつも、そんな気遣いばかり…僕のために君が必死になることなんかないんだ…むしろ、何も考えずにいてくれ。ダニエル、君は僕と一緒にいて幸せか? 大切にしているつもりが、僕はまた君を苦しめていないだろうか…? それとも、やっぱり僕には他人を幸せにすることなどできないのかな」
この子を愛しいと思う気持ちに偽りはないと思うのに、ダニエルのひたむきさに接するたび言いようのない後ろめたさに駆られるのは何故か。
「クリスターさん…」
ダニエルの滑らかな指先が煩悶するクリスターのうなじの辺りを慰めるように撫でた。
「僕の方こそ、あなたに同じことを訴えたい…どうか何も考えないでください…ましてや僕を幸せにしようなんて思いつめて、自分を苦しめるのは…」
クリスターが思わず顔を覗き込むと、ダニエルは切なげな淡い笑みを浮かべていた。
「それにね、僕は充分幸せですよ。だから、あなたは何も気にせずに、自分の思うとおりにすればいいんです」
クリスターはかけるべき言葉をなくししばし途方に暮れて黙り込んだ後、諦めたように呟いた。
「僕達は、こういうところは似たもの同士なのかな…お互いに対する気遣いばかり、何かある度謝りあって…こんなこと、いい加減にやめようと言ったばかりなのに」
そうして、ダニエルの額に自分の額をそっと押し当てて目を閉じ、ひっそりと溜息混じりの微笑を漏らすのだった。
「ごめんよ、ダニエル…」
その日、家に戻ると、クリスターはダニエルに約束したように、アイザックが滞在しているはずのコリンのアパートに電話を入れてみた。
しかし、その時も、また後に何回か電話かけてみたものの、結局つながらなかった。アイザックはコリンやミシェルと一緒にしばらくキャンプに行く計画を立てていたから、タイミングが悪く、彼らは出かけた後だったのかもしれない。
ふっと訳もない不安がクリスターの胸を掠めたが、それを確かめる術はなかった。
そして、それから3日後のことだ。
クリスターがずっと気にかけていたアイザックから、緊急の連絡が入った。
『悪い知らせだ』
そう告げたアイザックは、これまでクリスターが聞いたことのないような弱々しく掠れた声をしていた。
『コリンとミシェルが自動車事故にあったんだ…2人とも重傷を負って病院に搬送されて―畜生、やられたよ!』