ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第4章 黒い羊
SCENE4
夏休みが始まったばかりのある朝、レイフがパジャマのままあくびをしながらぺたぺたと1階のキッチンまで下りていくと、いつもならとうに仕事に出かけているはずのヘレナがいたので、びっくりして足を止めた。
「あれ、母さん、どうして―?」
言いかけて、そう言えば、出産に備えてしばらく仕事は休むと彼女が言っていたことを思い出す。
「おはよう、レイフ。いいタイミングだったわね、丁度コーヒーができたところよ」
「なんか、母さんが家にいるって不思議…」
レイフが落ちつかなげに腕をかきながら椅子に腰を下ろすと、ヘレナはマグカップに入れたコーヒーをくれた。
いつも通り、砂糖はスプーンに2杯。一口すすって、ちょっと苦いかなとレイフは首を傾げる。
「今まで忙しかったのに、いきなり時間がたくさんできてしまって、私も慣れるまでしばらく落ち着かないでしょうね。まだ当分仕事を続けても差し支えはないと思うのだけれど、ラースはとにかく胎教に悪いことは駄目だと言うから…」
「別にいいじゃん、仕事のことなんか忘れて、のんびりすればいいよ。音楽聴いたり花いじったり、胎教って奴によさそうなことしてさ。父さんもあかちゃんのためならって張り切ってるし、この際会社は任せちまえよ」
レイフが明るく勧めるのに、ヘレナは微妙で曖昧な表情になって返した。
「ええ…ただちょっと気になることがあったから、もう少しオフィスの様子を見たかったの」
「何かトラブルがあるのかよ?」
「ううん、違うの。私の取り越し苦労かもしれないけれど―何だか、この頃オフィスの空気が変わってきたような気がするのよ」
「人間関係がうまくいかないとか? 父さんの話だと、新しく入ったインターンの子がすごく仕事ができて、性格もよくて、皆ともうまくいってるし、何も問題はない様子だったけどな」
「そうね、確かにジェイコブは何もかもできすぎるくらいによくできた子だけど…ラースや皆があんなに気に入って可愛がるのも不思議じゃないくらい…でも―」
才気に溢れたヘレナらしくない歯切れの悪い口調をレイフは不思議に思ったのだが、別にそれ以上追求しようと思うほど、親の仕事に興味があるわけでも、彼女の話を深刻に受け止めたわけでもなかった。
コーヒーをすすり、自分で焼いたトーストにたっぷりとバターとジャムを塗りつけてかぶりつくと、レイフは家の中の物音にそっと聞き耳をたててみた。
「なあ、母さん…クリスターは朝からどこかに出かけたのか?」
なるべくさり気なく聞いたつもりだが、ヘレナの耳にはぎこちなく響かなかっただろうか。
「あなたが起きてくる1時間くらい前に出て行ったわよ。どこに行くのか場所は聞かなかったけれど、あのダニエルって子と一緒に遠出をするから、帰りも少し遅くなると言っていたわね」
「そ、そうか…」
レイフは思わず顔をしかめそうになった。目ざとい母親に怪しまれないよう、とっさにコーヒーを飲むふりをしてうつむく。
「この頃、クリスターはダニエルを随分と可愛がっているのね。休みの度に2人で出かけているでしょう? 特定の友達と常に一緒に行動するということのないあの子だったのに、どういう心境の変化なのかしらね。いつも人間関係については淡白すぎて、あれで本当に心を許せる親友などできるのかしらって、心配するくらいだった…でも、ともかく大事に思える人ができたのはいいことね」
「そうだね…」
胸にわだかまる複雑な感情をもてあまし、レイフがおざなりな返事をするにとどめると、ヘレナはすかさず切り込んできた。
「…恋人なんでしょう?」
思いも寄らないヘレナの指摘に、レイフはぶはっと口からコーヒーを吹き出した。
「か、母さん、どうして知ってるんだよっ…?」
コーヒーが気管に入ってしまってむせながらレイフが見上げると、やけに落ち着き払ったヘレナと目が合った。レイフの反応をじっと観察している。
「やっぱり、そうだったのね」
「あうっ」
しまったと思った時には、もう手遅れだった。レイフは真っ赤になって自分のうかつな口を押さえ、恐々ヘレナの様子を窺った。するとヘレナは、取り乱すどころか、思春期の子供を持つ母親としてはあっぱれなほどの冷静沈着な態度で応えた。
「安心なさい、私は、このくらいのことでは動揺しないわ」
「そ、そうなんだ」
改めて、こういう肝の据わったところはクリスターにそっくりだなとレイフは思った。我が母ながら、全く恐れ入った。
ヘレナはレイフが汚してしまったテーブルをてきぱきと片付けて彼のために新しいコーヒーを注いでやると、その向かいに腰を下ろした。
「それにね…クリスターが男の子を好きになったことは、別にそれほど問題じゃないの。むしろ、無理して女の子と付き合って、二股こそかけなくてもひどい時には月替わりでとっかえひっかえしていた頃のあの子の方が、今よりよほど私は心配だったくらいよ。長続きはしなくとも、恋人と呼べる人が傍にいるおかげであの子が幸せなそうな顔をしていたのならともかく、デートから帰ってくる度にいつも疲れて憂鬱そうな顔をして、眉間の皺が深くなるばかりだったんですもの。一体どうするつもりなのかしらと気をもんだし、相手の女の子の立場に立って考えれば許せないものもあった…でも、クリスターは根が真面目で、真剣に付き合おうという努力が垣間見えるだけに、どう諭せばいいものかと頭を悩ませていたの。大体、あの子は私の前では今でもいい格好をしたがって、自分の間違いなど絶対認めないし、そういう空しい付き合いはやめなさいと正面から言えば、すぐに理論武装して反論しかかるでしょう。普段親に対しては言葉を出し惜しみしているのではないかと疑いたくなるほどのだんまりのくせに、いざとなると口が達者になるんだから、始末におえないわ。全く、あなたの半分でも素直に育ってくれれば、よかったのにね。それが…確か去年のクリスマス辺りからしばらく精神的に荒れた時期が続いて―最近になって、ぱたりと女の子とデートすることはなくなり、代わりに友達と一緒に行動することが多くなった。やっと自分の間違いに気がついたんだと胸を撫で下ろしたわ…初めは、気の置けない同性の友達と時間を過ごすことで精神的に落ち着きを取り戻したのだと思っていたけれど、あのダニエルに関しては、ただの友人というわけではないようだと気がついたのよ」
ヘレナの洞察力の鋭さにレイフはひたすら呆気に取られていたのだが、彼女が再びダニエルに言及したことで、またしても心をかき乱された。
「で、でもさ、ほんとにいいのかよ、母さん、クリスターの相手が男の子でも…?」
混乱するままに、レイフはヘレナに訴えかける。
「まあ、その点は、親としては複雑だけれど…でも、現にクリスターがダニエルと付き合っているのなら、うろたえても仕方がないでしょう。それに、私はセクシャリティの問題については割と鷹揚だから、あの子達が互いを思いあって、いい付き合いをするなら、頭から否定はしないわ。ただ―」
ヘレナの凛然とした顔に、ふと心もとなげなものがよぎった。
「ラースには、当分の間、黙っていた方がいいでしょうね。あの人には、同性愛なんて、きっと理解できない…その点、頑ななくらい保守的よ。他人事なら笑ってすませるでしょうけれど、溺愛している息子が…なんて、決して受け入れられないわ。あの人にとっては、今でもあなた達は、自分が肩車をして遊んでやった小さな子供なのよ。打ち明けるにしても、今は駄目…お互い子離れ親離れして、1人の人間としてちゃんと向き合えるようになるまでは」
「親父は…確かに駄目だろうなぁ。っていうか、母さんがさばけすぎてるんだと思うぜ…でもさ、つまり、母さんの目から見ると、クリスターがダニエルと付き合うのはいいことなんだ…?」
ヘレナが2人の交際を認めたことが何だか悔しくなってきて、レイフは駄目押しのように聞いてみる。
「たぶんね。なぜかと言うと、近頃のあの子は、前ほど無理はしなくなった、自分だけで全てを背負い込もうとすることもやめて、少しは他人に対して心を開こうとしているような気がするからよ。ダニエルと付き合いだしてそうなったのか、それとも、そういう心境の変化があった末にダニエルの手を取ったのか、その辺りは分からないけれど―クリスターは器用そうでいて、人と心を通わせることはとても下手な子よ。何かにつけ頭が切れすぎものだから、つい他人の心も先に先にと読んで結論を素早く出してしまう…でもね、人間関係において大切なのは結論よりむしろ過程の方でしょう。数式を解くようには人の心ははかれないわ。クリスターが、あの調子で自分の考えを押し進めていけば、あの子にそのつもりがなくても、周りの人間は自分の気持ちをないがしろにされたと誤解しかねないわ。クリスターはクリスターで、他人から思わぬ非難や反発を受けて戸惑うし、どうせ自分の思いなど誰にも理解してもらえないと心を閉ざし、表面だけの付き合いにとどめてしまう。これじゃあ、本当の親友や恋人を作ることは難しいでしょうね。たぶんダニエルは…あの子にとって、自分を取り繕って接する必要がない相手なのよ。もしかしたら、ちょっと似たところがあるのかもしれないわね…一度会って話した時、とても利発で人の気持ちを察することに長けた子だと思ったわ。残念ながら、今まで付き合った女の子の中で、そこまでクリスターの心を思いやれる人はいなかったんでしょう。ダニエルと一緒にいることでクリスターが心を癒され、自分や周りの状況を冷静に見つめなおす余裕を取り戻すことができるのなら…私は2人の関係にとやかく言うつもりはないわ。それに、先のことはどうなるか分からないでしょう…長く付き合うかもしれないし、そのうち別れて違う人を選ぶかもしれない…2人ともまだ10代の少年よ。ただクリスターは今、自分の心に寄り添ってくれる誰かを切実に必要としているんだと思うわ」
「でもさ…」
焦燥感にも似た切迫した感情に駆られて、レイフは思わず口走った。
「でも、それは別にダニエルでなくっても、よかったんじゃないのかよ」
ヘレナの琥珀色の瞳が瞬くのに、レイフは怯んで、のろのろとうつむいていく。
(ああ、情けねぇな。やっぱり、オレ、やきもち焼いてんのかな、あの2人にさ)
生まれた時から寄り添いあって生きてきた、レイフの半身は、今は他の人を必要としている。そう考えることは、やはり辛い。
(クリスターは、オレの手を振りほどいて、ダニエルの所に戻っていった…要するに、オレから離れるため、あいつは他の誰かに支えてもらうことを必要としているんだ。ここまで本気であいつがオレとのつながりを断ち切ろうとするなんて…こんなこと、初めてだ。それも、心境の変化って奴なのか…? ああ、どうすりゃ、あいつの心を引き戻せるんだろう…オレはこんなにクリスターが必要なのに、あいつは、もうオレを求めてくれないんだろうか)
そんなことをぐるぐると思い悩むうちに、レイフは自分をじっと見守るヘレナの存在も忘れていった。
(クリスター、おまえに必要とされないオレなんか、生きてても意味ねぇよなぁ)
感情の起伏の激しいレイフは、落ち込む時は一気にどん底まで落ち込んでしまう。母親がクリスターとダニエルの付き合いを好意的に見ていると知って、たちまち自分の存在意義に自信をなくして、しょげかえってしまった。
そんなレイフに向けられたヘレナの聡明な瞳は気遣わしげに揺れていた。感情を隠すことのできないレイフの思いなど、彼女には、手に取るようによく分かっただろう。嫉妬などというさもしいものではなく、身を切られるような激しい痛みを覚えている息子に、しかし、母として一体どんな助言ができるのか。
「あなた達を初めからひとつに産んであげられたらよかったのかしらね」
ヘレナの唇から溜息混じりにポツリと零れ落ちた言葉に我に返ったレイフは、問いかけるような表情をうかべた。
ヘレナは迷うような目でしばしレイフを見つめていたが、やがて、ごくさり気なく尋ねた。
「ねえ、レイフ、あなたとクリスターは…この頃一体どうなっているの…?」
「ど、どうって…」
「うまくいってないんでしょう? あの子と喧嘩でもしたの…?」
「あ、分かるんだ?」
「あなたが、そんな切なそうな顔をしてクリスターのことを話すのを聞けばね…ダニエルが原因…?」
ヘレナがあくまで穏やかなのは、レイフにとって救いだった。おかげにあまりうろたえることもなく、落ち着いて、こんな話をすることができる。
「まあ、クリスターがホモに走ったなんて―うわぁ、言っちまった―知った時にはかなり動揺したけれど、でも、それ自体が許せないって訳じゃないし、ましてやダニエルを憎んだり恨んだりはしねぇよ。クリスターがそれで楽になれるなら、しばらくの間恋愛ごっこでも何でも好きにすりゃあいいって思いもしたよ。ただ―」
レイフは、とつとつと語りながら、自分の思いを再確認していた。
同性愛というのは、そう言えば、長い間2人の間で話題にすることすらタブーになっていたのだ。それは、どうしても、2人が4年前に犯した、あの過ちの記憶につながっていくからだ。
(クリスターが女の子達と付き合っていた時は、オレはまあ多少ひがんだり寂しがったりはしたけれど、こんなにうろたえたことはなかった。女が相手なら仕方がないって、自分を無理にでも納得させることができたのかもしれねぇな。それは、オレ達が昔やっちまったことに比べて圧倒的に正しいことなんだから、太刀打ちできないって思おうとしていた―だからクリスターがダニエルを選んだことが…あいつ今でも、男相手にそういうことができるんだって分かったことが、すごいショックだったのか)
そう考えると、クリスターとダニエルのキスを目撃してしまった時の自分の理不尽なまでの憤りと取り乱しようにも納得がいく。
(畜生)
今更のように何だか腹が立ってきて、レイフは憎々しげに舌打ちをした。
(何だよ、クリスターの奴、ちゃんと男ともやれるくせに、どうしてオレを素通りして違う所に行っちまうんだよ―って、ち・が・う・だろっ!)
いきなりレイフが、あうっというような奇声を発してテーブルの上に突っ伏してしまったのに、静かにコーヒーを飲んでいたヘレナはぎくりとしたようだ。
「レ、レイフ…?」
額をテーブルにぐりぐり押し付けて1人で身悶えしているレイフに、ヘレナは用心深く呼びかけた。
「ううん、やっぱり、朝っぱらから、この話題は重過ぎる…」
どきどきいっている心臓の鼓動がヘレナに聞こえるのではないかと疑いながら、レイフはちらっと彼女を見上げた。
(並みの母親よりよっぽど理解のある母さんでも、自分の息子達が実はできていたなんて知ったら、こんなふうに落ち着き払ってはいられないよなぁ)
火がついたように熱い頬を指先でそろりと撫でて、レイフは溜息をついた。
(あれは、オレ達2人だけの秘密…もう決して蘇らせてはならない、忘れようと胸に刻んで、つのる気持ちをごまかしごまかし、普通の兄弟として、ここまで何とか来られた…でもさ…)
再び目を伏せ、ざわめく心を静めようと胸をぐっと掴みしめると、ヘレナにというよりも、ほとんど独り言のようにレイフは呟いた。
「オレは、やっぱり今でもあいつにとって一番の相棒でいたいんだ…あいつが弱っているなら、オレのこの手で支え、守りたい。そのために、たぶん、一緒に生まれてきたんだ。他人から見りゃ幼稚な独占欲だ、たわ言だって言われるかもしれないけど、この役割は、他の誰にも譲れない…悪いけど、ダニエルにだってやれねぇよ」
分かたれた双つ身への度を越した恋慕は、自分達以外の誰にも理解できないだろう。たとえどれほど身近で、自分達を愛してくれている人達であろうと、受け入れられるとは思わない。
だからレイフは、我とも分からぬ衝動のままに、心の中でダニエルに、母や父に、自分を取り巻く漠とした人々に対して、詫びる。
(ごめん、ごめんよ…あんたたちを全員敵に回しても、傷つけても、たぶんオレは―)
あまり物事を深く考えたり、結果を考えて行動したりすることの苦手なレイフでも、この想いを貫いた末に待ち受けているものについて、漠然とした予感はあったのかもしれない。
レイフが柄にもなくしんみりと物思いにふけっていると、ヘレナの感慨深げな呟きが聞こえた。
「クリスターの後ろをいつもついて回っていた、甘ったれのあなたが、あの子を守りたいなんて言うようになったのね。今までずっとクリスターの方があなたを守ってきたのに…」
レイフはまだ少しぼんやりとした顔でヘレナを眺めやった。
もっと批判めいたことを言われるのを覚悟していたのに、そうじゃないんだと少し意外に思った。
「ねえ、レイフ…あなたが、そうまで強くクリスターを思っているのなら―ちょっと相談というか、あなたに確認したいことがあるのだけれど」
「へ?」
母から相談など持ちかけられたことなど初めてだったので、レイフは少々面食らった。
「クリスターのことよ。近頃、あの子―様子がおかしい、何か隠しているようだと思うのだけれど、あなたが見ていて気づいたことはない?」
「クリスターが変なのは、しょっちゅうだよ」
「私は真面目に聞いているのよ?」
母の目が細く鋭くなったのに、レイフはおっかなそうに首を縮めた。
「隠しているって…ダニエルとの付き合いを内緒にしているとかいうレベルの話じゃなくて?」
「私も、初めは、あの子の態度が妙に頑なであったり、話していても他のことに気を取られて心にここにあらずだったり、家と学校以外の場所での行動に不明な点が多かったりするのも、思春期によくあることだと思っていたのだけれど―何だか、違うような気がするの。それで、もしかしたら、あなたに何か心当たりがないかと思って」
「心当たりって…」
母が言わんとすることがなかなか飲み込めず、レイフは首を傾げるばかりだった。
「以前にも確か似たようなことがあったのよ…家族には隠して、何かを企んでいるというか、秘密の計画を進めているような…もっとも、怪しいと思った時には、あの子は既に自分で全てを終わらせていて、何食わぬ顔で普通の生活に戻っていたのだけれど」
「それって、いつ頃の話だよ」
「そうね…確か2年ほど前かしら、あなたが学校に馴染めずにちょっと荒れていたことがあった…その辺りよ」
「あ…」
瞬間、レイフの顔色が変わった。母が言及したのは、丁度、レイフがJ・Bの手に落ち、それをきっかけにクリスターとJ・Bの間で闘いが勃発、レイフが解放された後も2人の争いが水面下で繰り広げられていた時期だと気がついたのだ。
「あなたを、あの頃付き合いのあった悪い仲間達から引き離すために、あの子はあまり大きな声では言えないような危ない橋を渡った…大まかに言うとそんなようなことだったんでしょうね。でも、私は昔のことを蒸し返してあなた達を困らせる気はないから、そんな苦しそうな顔をするのはおよしなさい、レイフ」
「う、うん」
少しほっとしながら、レイフはいつにも増して鋭く勘の冴えまくっている母の様子を窺った。賢明なヘレナは、事情が分かっていても、口にすべき時期や相手ではないと判断すれば、多くを胸に秘めておく。特に、精神的にクリスターよりずっと未熟で幼いレイフに対しては、自分の懸念をこんなふうに打ちあけることは、これまでなかった。
「ダニエルと付き合いだしたことで精神的に安定したように見えて…一方でこの頃のクリスターからは、2年前のあの時期と同じ危険な匂いがする…とても気がかりよ」
母の呟きを聞きながら、レイフは胸の奥に得体の知れないもやもやが広がっていくのを覚えていた。
「心当たりなんだけど…もしかしたら、オレ、あるのかもしれない。はっきりとした証拠があるわけじゃないけど…」
J・Bの姿を一瞬垣間見た時から、あの怪物の影が密かに身近な場所に忍び寄っているのではないか、そんな嫌な予感はレイフの胸にとりついて離れない。以前、クリスターに、この漠然とした危機感を訴えたことはあったが、彼は心配性だと笑って取り合ってくれなかった。クリスターがそう言うのなら間違っているのは自分の方かと、その時はレイフも納得した。しかし、実際クリスターは、いつもレイフに本当のことを話してくれるわけではないのだ。
「ただ、クリスターの腹の底で考えてることや、あいつがオレに見えないところで何をしているかまでは分からないよ。この頃のあいつは何かと理由をつけてオレを避けてるし…大体、クリスターが本気で隠し事をしようと思ったら、オレなんかに、簡単に尻尾を捕まえられないよ」
今度もクリスターに騙されていたのかなと悔しく思いながら、レイフはぷっと頬を膨らませた。
「それでも、クリスターが自分でも思いも寄らないような隙を作るのは、あなたに対してだけなのよ」
レイフはきょとんと瞬きをした。
「どうしてだか、クリスターはあなただけは最後まで騙しきることができない…心を隠し切ることができないの。あなたは、そう意識もせずに、あの子の心を覆う殻を簡単に破って、するりと中に入ってしまうのね」
「そ、そうかなぁ」
こんな言葉で気をよくしている場合ではなかったろうが、レイフはつい顔をほころばせ、照れくさそうに頭をかいた。
「だからね、あなた、クリスターにくっついてなさい」
「は、はい?」
「たぶん、クリスターがあなたを避けるのは、あなた相手に秘密など保てるはずがないという危惧もあるからよ。ダニエルをだしにしているとまでは言わないけれど、あなたとの関係がぎくしゃくしている現状を利用して、あなたを遠ざけ、その隙にまた何か大それたことをしでかそうとしているのではないかしら」
「大それたことって…?」
「それは、あなたしか突き止められないと思うわ」
ヘレナは当惑するレイフの目を正面からしっかり捉えると、穏やかな理解に満ちた態度で、辛抱強く彼に言い聞かせた。
「あなたの中にもためらいや迷いはあるでしょうけれど、たとえクリスターが嫌がろうとあなたは今彼から離れるべきではないの。あの子を守り、支えるために一緒に生まれてきたのだと言ったわね。だったら、これがあなたの果たすべき役割よ…そう、あなたにしかできないの。だから、レイフ、クリスターの傍にいて、あの子が道を過たないよう、見ていてあげて…クリスターは時々自らをあえて危険にさらすような無謀なことをする傾向があるから―もしもあなたの手に余ることがあれば、私に話してくれればいいわ。いざとなれば、私はどんなことをしても、あなた達を守るつもりよ」
「母さん」
堂々たる母親の姿に、レイフはちょっと感動してしまった。改めて、クリスター、オレ達の母さんはすごいと心の中で感嘆の声をあげていた。
クリスターが同性の恋人と付き合っているなどという些事には捕らわれず、あくまで大所高所から物事を見ている。誰にも言えない問題を抱えた子供達に対して、思うことはあっても、あえて過剰な干渉はせず、おぼつかなげな足取りで少しずつ大人になっていく彼らが、道を踏み外さないよう、本当に危険な目には合わないよう、傷つかぬよう、温かな愛情のこもった揺るがぬ眼差しで見守ってくれている。
(オレらくらいの年ならもっと親に反抗するものだろうけど、さすがに母さんに歯向かう気にはなれないや…いや、普通に勝てないっしょ。それに、母さんの言うことなら正しいし信用できる…クリスターが危なっかしいからオレに見ていてやってくれなんてさ、何だかお墨付きをもらったみたいだよな。自信持っていいのかなって、我ながら単純だけど、思っちまう。でも―)
レイフはちらっとヘレナのまだ全然目立たないお腹を見やった。
「あのさ、母さんは別にオレ達を守ろうとしてくれなくてもいいよ。自分達の問題くらい2人で何とかしてみる…だから、クリスターのこともしばらくオレだけに任せてくれよ。だって、オレ、今の母さんに余計な心配も負担もかけたくないよ」
真顔で訴えかけるレイフを、ヘレナはつくづくと眺めたかと思うと、嬉しそうに口元をほころばせた。
「あら、気遣ってくれて、ありがとう。まだまだ子供だとばかり思っていたけれど、あなたも随分しっかりしてきたのね」
ヘレナが楽しげに囁くのに、レイフは不満そうに唇を尖らせた。
「ちぇっ。オレだって、いつまでもガキじゃねぇよ。もう18才になるんだぜ、立派な大人だよ」
ヘレナがすっかり冷めてしまったレイフのコーヒーを新しいものに取り替えてくれたので、レイフはまた砂糖を放り込んでかき混ぜ、揺らめく黒い液体の表面をぼんやりと覗き込んだ。
(オレの役割、か)
ヘレナに言われたことを一生懸命に考えているうちに、レイフの顔から次第に迷いは消え、自信を取り戻した、晴れ晴れとしたものになっていった。
思わず、一気にコーヒーを飲もうとしかけて、レイフはあちっと悲鳴をあげる。
「レイフ?」
洗い物をしていたヘレナが振り向くのに、レイフは照れくさそうに笑いかけた。
「ううん、クリスターが離れていくってうじうじ悩むより、オレがあいつのために今やれることをやってみるんだと、自分に発破をかけてたんだ。ダニエルとは違うやりようで、あいつを支えてみるよ。そうすりゃあさ、あいつもそのうち思い出してくれるかもしれない、オレ達が―」
マグカップをテーブルの上に戻しかけたレイフの手が微かに震えた。調子よく言いかけた言葉を、彼は途中でぐっと飲み込む。
(ひとつだということを―)
ふいに、体育館の裏でクリスターをじっと抱きしめていた時の記憶が蘇り、レイフは赤くなって咳込んだ。
「大丈夫?」
ヘレナが胡乱そうな顔をして体の向きを変えるのに、レイフはうろたえた。
「あ、いや…とにかく、そういうことで、オレ、がんばるよ。母さんは心配しないで、あかちゃんのことだけ考えていればいいからさ。さてと、休みだからって、いつまでもパジャマのままでいるのもなんだし、着替えてくるよ」
何だか、このまま母と向き合っているとまたしても気持ちを見透かされそうで、レイフは幾分慌てて席を立った。
「ありがと、母さんのおかげで、少し吹っ切れたよ」
レイフは素直な感謝の言葉をヘレナに投げかけて、そのままあたふたとキッチンを出て行った。
(母さんの前で、あんまり、ああいったやばいことを考えたり想像したりするのは、まずいよなぁ。オレ、絶対顔に出るし)
廊下に出たところで、レイフはふっと溜息をついた。そのまま少しぼんやりとした。
(クリスター)
今家にいない片割れが、レイフは急にたまらなく恋しく感じられた。
(オレ達は違う体を持った、ひとつの生き物で…だから、もとのひとつの状態に戻りたがるし、離れていると不安になる。それはとっても不自由なことだし、いつまでも一人前の人間にはなれないってことなのかもしれない。でもさ、片割れが弱って倒れそうになった時に支えられるこの体があることに、母さんがオレ達を別々に産んでくれたことに、やっぱりオレは感謝したいよ、クリスター)
とりあえず、クリスターが家に帰ってきたら、どんなに遅くても不機嫌な顔などせずに、戻ってきてくれて嬉しいという正直な気持ちで迎えようとレイフは思った。
いつだって、レイフが心を開いて接すれば、クリスターも、おまえに会えて嬉しいという心を隠し切ることなどできないのだから。