ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第4章 黒い羊

SCENE3


(どこから現われるか知れない敵をただひたすら待ち続けるというのは、なかなかに神経をすり減らすものだな)

 夏休みを数日後に控えた、ある日の放課後、クリスターは新聞部の部室に立ち寄っていた。中庭に面する窓の傍に佇んで、校舎から出てそれぞれ帰路についたり寮に戻ったりあるいはクラブへ向かう生徒達を見下ろしながら考えにふけっている。

 クリスターが立つ窓から少し離れたテーブルでは、アイザックが愛用のカメラの手入れをしていた。ふと手をとめて、クリスターに声をかけようとしたが、アイザックの存在を失念しているかのように無防備なその横顔に目を奪われ、黙り込む。

(ボクシングの試合会場で一度姿を垣間見て以来、J・Bは鳴りを潜めている。施設を出所して、半年近くにもなるだろう。僕にあんな挑戦状を送りつけておきながら、何をぐずぐずしているのか。いや、水面下では動いているのだろうが―以前は同じ学校にいて、目に見える特定のグループを率いていた分、行動を把握しやすかった。今は、Jはここにおらず、学校に残っている連中の内誰と誰に彼に息がかかっているのかも判断しかねる状態だ。同じ不自由さは向こうも感じているはずだが―つまり、手に入れられる敵の情報が少ないということ。この点を解決しようとするなら、おそらく彼は―)

 いきなり部屋の中に鳴り響いたシャッター音に思考を中断されて、クリスターは目を瞬くと共に素早くテーブルの方を振り返った。

「アイザック」

 クリスターのたしなめるような呼びかけにアイザックはにやりと笑って、またしてもカメラを構える素振りをした。

「無断で写真なんか撮るなよ。大体君はカメラマンじゃなくて、ジャーナリスト志望なんだろう?」

「ううん、シャッターの調子が悪いから、そのテストさ。しかしさ、被写体としても、おまえは最高だよな。羨ましいというかなんていうか、つくづく絵になる男だよ」

 ファインダーを覗き込んでいるために、アイザックの表情はクリスターには見えない。

「下らないことを言うのは、よせよ」

 いつもの悪ふざけだと思い、クリスターは苦笑しながら、軽くあしらった。

「そんなことよりも―そうだな、コリン達は、その後何か言ってくることはないのか? J・Bが出所したからしばらく身辺に気をつけた方がいいとは、君が伝えてくれたんだな?」

「ああ。夏休みに入ったら、一応実家に戻る前にコリンの所に立ち寄るつもりにしているけれど、今の所特に変わったことはないようだぜ。そう言う俺らの身辺だって、今までと変わらず、いたって平和だけれどな」

「アイザック…」

「油断はするな、だろ。それは分かるけれど、人間、緊張状態をそう長く続けることなんかできないからなぁ」

 アイザックはカメラを下ろすと、仕様がないというように肩をすくめた。

「うん…」

 アイザックの言い分には、クリスターも頷かざるを得ない。

 日々は絶え間なく流れていく。そのどこかに悪意を持つ敵が潜んでいるとしても、姿が見えず、危険が迫っている実感がない現状では、次第に気が緩んでくるのも仕方がない。

 いや、全くJ・Bの影も形も見当たらないわけではない。それに、基本的には相手の出方を窺う構えのクリスターだが、打てる手はある程度打っていた。

 かつてJ・Bに最も近いとされていた、もとフットボール・チームのフレイの復学をはじめ、一度は解散したはずの不良グループの残党が再び活発になってきた気配はある。同じ学校の生徒である彼らの行動には、当然、常に目を光らせてきた。

 そして、これは前回のJ・Bとの闘争の過程で知り合った警察関係者から得た情報だが、近頃街の所謂ストリート・ギャングの間で少々気になる噂が飛び交っているという。J・Bは、仲間達にやらせていた賭博やドラッグの売買などを通じて暗黒街にも関わりを持っていて、結局は、そのために捜査機関から目をつけられて逮捕されるに至ったのだが、それと連動して捜査が入り解散に追い込まれた、あるギャングが復活の兆しを見せている。若さと狂暴さで一時恐れられた彼らが再び盛り返してきたのは、何者かが資金面で援助したからだと囁かれているのだそうだ。

 別にそこにJ・B本人が関係している証拠が見つかったわけではないが、そう教えてくれた刑事は、彼の年齢に見合わない凶悪さを知るだけに、一介の高校生に過ぎないクリスター達にこっそりと自分の懸念を打ち明けてくれたのだろう。

(あいつはある日突然現われたかと思うと、たったの1年足らずで街の名もない若いごろつきどもを本物のマフィアも青ざめるほどの極悪非道の犯罪グループに仕立てちまった。それが捕まえてみたら、名の知れた一流校の現役高校生だったっていうんだから、驚きさ。刑事生活を長いことやっていたが、あんな―あんな化け物を見たのは初めてだったよ)

 気をつけろ。おまえ達は今でも奴に目をつけられているかもしれない―J・Bの出所の知らせに顔を曇らせた刑事、サウスボストン署のケンパー警部は、クリスターにそう警告し、もしも本当に彼が暗黒街に舞い戻ったと分かれば、すぐに知らせると約束してくれた。だが、それ以上、危険な犯罪者達の蠢く裏社会に未成年のクリスター達が入っていくことを許さなかった。

 現在のJ・B、ジェームズ・ブラックについて表向き知ることのできる情報といえば、ごく限られている。ジェームズは広大な敷地を誇る実家に父親と共に暮らしている。この父親は持病の糖尿病が悪化して事業から引退、今年に入ってからは公の場で姿を見られることもなくなった。出所後のJ・Bは、この父の介護をしながら、ひっそりと暮らしているということだ。名門の出の母が遺した遺産と事業で成功した父の財産を合わせれば、何もしなくても一生優雅に暮らして尚あまるほどの金が彼にはある。

「正直、相手の出方を窺うことがこれほど辛いなんて思わなかったよ。やはり僕はディフェンスには向かないのかな」

 クリスターは窓辺から離れると、手近に会った椅子を引き寄せ、アイザックと向かいあうように腰を下ろした。

「だからと言って、一応こちらは学校にもちゃんと通っている真面目な高校生だからな、表立っては何も仕掛けてこない相手にあんまり乱暴な攻撃をしかけるわけにはいかない。せめてJ・Bが俺達を実際どうしたいのか分かれば、対策も立てやすいんだがな」

 アイザックは銀縁の眼鏡の下の目をすっと細めて、自分の正面に長い脚を組んで坐っているクリスターの冷静な顔を観察しながら、用心深く問いかけた。

「なあ、クリスター、おまえは以前、奴は終わってしまったゲームの続きをしたがっているんだって言っていたが…おまえらのゲームって結局何なんだよ? おまえとJの因縁も、俺には未だに理解しがたいものがあるんだけれどさ」

 アイザックの鋭い追及を受けたクリスターは一瞬何と答えようかと迷ったが、やがて、自分の言葉を自分で確認するかのようにゆっくりと語りだした。

「こんなことを言うと、僕まで人でなしの片棒を担いだと非難されそうで嫌なんだけれど…つまり、僕らがやった闘いとは、言わば生きたチェスのような、生身の人間を駒として使い、頭脳戦を楽しめる…それ自体一種のゲームだったんだ。現実では成り立ちそうもない、Jの頭の中にだけ存在した夢想だったが、僕という格好の相手を見つけたことで、俄然その気になったようだ。僕はなぜかJに見込まれてしまったらしい…理由なんか分かるものか」

 クリスターは一瞬暗い目になって黙り込みそうになったが、それをアイザックには気取られまいとすぐに話を続けた。

「ともかくJは、無関係の大勢の人間を巻き込み、学校中を引っ掻き回し混乱させても構わず、無茶を突き通して自分の楽しみを追求しようとした。僕はと言えば、決して挑発には乗るまいと考えていたけれど、レイフに害が及んだことで気を変えた。とにかくJをどうにかしないことには、僕にもレイフにも平穏な学校生活は望めないと悟ったんだ」

「それでおまえは、俺達新聞部に協力を求めた上で、Jのアジトに乗り込んで、あの大博打を打ったわけか」

「そう…Jの筋書きでは、僕は、もうちょっと正攻法を重んじる敵として、彼を追い落とすために論理的に動くはずだった。でもね、そんな読みやすい戦術で挑んでも到底勝ち目はないと思ったから、僕はことごとく彼の読みを裏切り、裏をかくような奇策を講じることで、強引に勝ちを取りにいったんだよ。あのロシアン・ルーレットもね、Jにとって想定外の攻撃になるだろうと思ったから、あえて危険を承知でやったんだ。フットボールの試合でもそうだけれど…作戦より戦術より、とにかくまず相手にショックを与えて怯ませることができた方の勝ち、なんだよ。頭で考えた理論ばかりで実際に他人との戦いを、僕にとってのチェスやチームスポーツのような経験を積んでこなかったことが、彼の弱点だった。まあ、相手の意表をついた奇策なんてものは二度と使えないし、彼自身僕のやり方から学習しただろうから、今度同じような条件で戦っても、僕が楽に勝てるとは思えないけれどね。自分が思い描いたゲームなのに、その主導権を握らないままに、Jは僕に負けてしまった。さぞかし無念だったことだろうと思うよ」

「ふうん。つまり負けっぱなしじゃ気が治まらないから、雪辱戦をしたいと思っているというわけかい? 全く、何がゲームだよ。奴の退屈しのぎの遊びのために、どれだけの人間が傷ついて、中には人生狂わされた奴までいるか考えると、今更ながらぞっとするぜ」

 アイザックが憮然とした面持ちで呟くのに、クリスターは複雑であいまいな笑みを唇にうかべた。

「ぞっとする、か…」

 何だか少し後ろめたくなった。アイザックの言うように、人として誉められたものではないゲームに深く関わった当時の自分。そして、今また同じことを繰り返そうとしている自分は、果たしてJ・Bを責められるような人間か。

「それでさ、J・Bの心理をそこまで理解しているおまえなら、奴が今度はどう出るか、ある程度予想は立てているんじゃないのか?」

「推測できることは幾つかあるよ。彼の出方によって、それぞれ打つ手も考えている。ただ、中には、できればこれだけは使って欲しくない、ほとんど打つ手なしの最悪のパターンもあるんだけれどね」

 アイザックは興味を惹かれたように軽く片方の眉を跳ね上げた。

「何だよ、それ?」

「いや―」

 クリスターは言葉を濁すと、アイザックの探るような眼差しをさり気なくかわしながら、また別のことを言った。

「それよりもね、僕の悩み所は別にあるんだ。つまり、僕は一体いつまでJ・Bとの、こんなろくでもない関わり合いを続けなればならないのか。どこまでやれば彼は引き下がるのか。僕が負ければJは満足するのかもしれないけれど、そんなことは論外だ。僕は、あいつにだけは負けたくない」

 クリスターがつい強い口調で呟くと、アイザックは虚を突かれたように瞬きし、ふっと皮肉っぽく笑った。

「ふうん。クールなふりして、結構闘争心がめらめらになってるのな、おまえ。そんな台詞、今までボクシングでもフットボールの試合でも、おまえの口から聞かれたことはなかったのにさ」

「そんなことはないよ。ただ、僕としても、かかる火の粉は振り払わなければならないというだけさ」

 クリスターが素っ気無く否定すると、アイザックはテーブルの上に肘を着き、顔の前でピラミッドの形を作るように指先を重ね、その上からクリスターをじっくりと眺めた。

「本当に、そうかな?」

 アイザックのほのめかしに、クリスターはわざと気がつかないふりをした。

「Jとの因縁を断ち切るには、どうすればいいんだろう。この点について、僕はずっと悩んでいるんだ。前回は、僕はJを学校から追い出して犯罪者として施設に閉じ込めることで、一度は退けた。しかし、それでも彼は戻ってきた。次は、どうすればいい? 例えまた同じやり方でJに勝っても、いつか彼が舞い戻ってくるという予感に脅かされて暮らすのは真っ平だ。そして、僕を壊したいと言った、Jは僕をどうすれば満足するのか? 僕の体を傷つけたいのか、この心を突き崩したいのか、それとも―敵の命を奪うことが彼の目指す究極の勝利なのか」

 記憶の奥底から、あの深淵めいた藍色の瞳が浮かび上がり、クリスターの全てを飲み込もうとするかのように迫ってきた。思わず、ぞっと身震いしそうになる。

「おい…そんな物騒な話はよせよ」

 アイザックの声にこもった不安を聞いた途端、クリスターは無性に苛立って、冷ややかな声で言い返した。

「それくらいの覚悟は必要だということだよ。Jだって、今度こそ僕に勝つため、もっと悪辣な手を使ってくるだろう。以前は、自ら重犯罪に手を染めることは慎重に避けていたJだけれど、一度犯罪者として強制的に施設に入れられた経験で、その辺りの考えは変わったのかもしれないね。出所してきて早々にまたストリート・ギャングに接触したなんて噂が本当だとすれば…今更もう何をやっても恐くないというくらいに、たがが外れたんだ。だとすれば厄介なことだが、それを逆手にとれば…そうだな、彼が再び罪を犯すよう煽ってやるのも1つの手かもしれないね。いっそ人の1人でも殺すようなへまをしてくれればいいんだけれど。残念ながらマサチューセッツ州は死刑を廃止しているけれど、そこまで道を踏み外せば、そう簡単には社会に出てこられないだろうから」

 そう語るクリスターの口元に閃いた氷の刃めいた冷酷さに、アイザックは顔を強張らせた。まるで自分がよく知っているはずの友人が突然見知らぬ怪物に変貌してしまったのを目の当たりにしたかのような、隠しようもない畏怖と疑念が、今まで自分が忠実に尽くしてきたクリスターを見守るアイザックの黒い瞳に過ぎる。

 やがて、アイザックは躊躇いがちに口を開いた。 

「なあ、クリスター、もしもの話だけど―そんな無意味な闘いを繰り返すなんてやっぱり馬鹿馬鹿しいと目が覚めて、奴が素直に更生して社会復帰の道を歩いていたとしたら、どうする? おまえに送りつけたカードやら何やらは嫌がらせ程度の意味しかなくて、実際全ては俺達の取り越し苦労だとしたら?」

 いきなりこんなことを試すような口ぶりで言うアイザックに、クリスターは戸惑った。

「まさか…J・Bが悔い改めてまともな人間になるなんて、想像できないな。そんなの全く彼らしくないよ。父親の面倒を見ながら、世間から隠れてひっそりと暮らすなんて、Jには無理だ。彼が一番嫌うのは、無為に過ぎていく日々の退屈…それを紛らわせるためだけに、他人の平穏な暮らしをぶち壊して省みない。そんなJが、僕との決着をつけずにいられるものか、僕が生きている限り、彼は必ず―」

「まるで奴にそうしてもらいたいような口ぶりだな、クリスター」

 明らかに非難の混じった口調で、アイザックはクリスターの熱心な主張を遮った。

「アイザック?」

「いや、やっぱり、そうなんだ。向こうが仕掛けてくるんだから仕方がないなんて言い訳しているけれど、もしも奴が先にこのゲームから下りてしまったら、おまえはさぞかしがっかりするだろう。その点、おまえとJはやっぱり同類なんだよ。互いに憎んで、相手を追い落とそうと喰いあい、傷つけあって―でも、そうすることが楽しい。前の時にも、そう感じることはたまにあった。おまえは正義のために俺達と共闘しているわけじゃないと知って落胆もした。けれど、あの時はまだおまえの気持ちも分からないでもなかった。大切なものを守るために戦うってのも、しごく人間らしい動機だからな。けれど、今は…時々おまえが恐くなって、ついていけねぇって思う。何だか、この頃のおまえは以前にも増してどんどんJ・Bに似てくるような気がするんだ。人を人とも思わない、あの冷酷な怪物に…。やめろよ、そっちに行くなって、おまえを引きとめたくなる…けれど、おまえは俺の言うことなど、絶対聞きやしないんだ」

 眼差しを伏せ口惜しげに唇を噛み締めるアイザックを静かに見つめながら、クリスターはその心情をじっと推し量っていた。

 J・Bとの戦いを通じて知り合ってから、いつもクリスターの味方になってくれたアイザック。その彼が、今、クリスターにこのまま従い続けることに不安を訴えている。

 この期に及んでどうしてと思わないでもないが、彼がついていかれないと思うほど、この頃の自分は、見ていて危ういのだろうか。

「アイザック…」

 しばらくためらった後、クリスターは思い切って口を開いた。

「そう思うのなら、君はもう僕達の争いからは手を引け。僕にとって君を失うことは痛いけれど、無理に引きとめはしないよ」

 弾かれたようになって、アイザックはクリスターを見上げた。その顔は一瞬青ざめたかと思うと怒気をはらんで赤く染まり、悔しげに歪んだ。

「俺が言ったことが気に入らないからって、ずいぶん簡単に人を切り捨てるんだな…つくづく冷めてぇ奴だぜ」

「違う。僕にとって、これは簡単なことじゃないよ、アイザック。ただ僕は今、君やダニエル、そして、コリンやミシェルに対して負い目を感じている。君の言うとおりだよ―もともと僕にとって、J・Bとの争いはごく個人的な問題だった。それを自分だけで彼に対抗するのは無理があるからと、正義感に燃える君らを意図的に引きずり込んだんだ。結果として、君らは危険にさらされている。僕のせいだよ。こういう僕のやり方に君が不満を覚えたとしても無理はない。それでも今まで僕についてきてくれて、何かと助けてくれたことにはとても感謝しているよ。だが―そうだな、あの時と今とでは状況が違う。僕も精神面で大きく変わってしまった。今の僕には、君を納得させられる大儀などない。無駄な争いは避けたいと言いながら、一方でJが現われるのを心待ちにしている自分がいる…奴のことを考えて頭が一杯になっているうちは、胸に溜め込んだ鬱憤を忘れられそうな気がするから―それでも、君の口から僕とJは同じ穴の狢なんだと言われると、正直本気で落ち込むよ。でも、これ以上僕に付き合うことが君の信条に反するというのなら、あえて強要はしないから…」

 冷静に話していたつもりでも、最後の方の言葉はふと寂しげに響いて、クリスターは我ながら意外に思った。他人を当てにせず、1人でも立っていられると豪語できるほど自信過剰の自分知らずではもうないということか。それとも、常に自分を支持し補佐してくれた、頭が切れて行動力もあるアイザックを無意識のうちに頼りにしていたのか。 

「畜生」

 アイザックが苦々しげに吐き捨てるのに、クリスターは束の間の物思いから引き戻された。

「どうして―そんな言い方しかできないんだよ。格好つけて心を隠すのも、いい加減にしろよ。今まで付き合ってきてさ、おまえの中のどろどろした部分に全く気がつかないほど俺は馬鹿じゃねぇよ。それでも、俺はおまえに心底惚れ込んでたから、おまえのためにできることは何だってやってきた。別にさ、ダニエルみたいにおまえとどうにかなりたいなんて思っちゃいない。ただ、一度でも、おまえが俺を友人として仲間として信頼してくれたら―そうさ、俺を納得させるのに大儀も正義もいらない。1人でJと戦うなんて無理だから、一緒に来てくれと素直に手を差し伸べてくれりゃ、それでよかったんだ」

 アイザックは噴き出す怒りに任せて拳をテーブルに叩きつけた。

 クリスターと同様に自己抑制しがちなアイザックがこんなふうに感情的な姿を見せたのは初めてだったので、クリスターは動揺し、思わず椅子から腰をうかせた。

「アイザック…」

 両手で頭を押さえ込み、こみ上げてくる衝動が止められないというように肩を震わせているアイザックにクリスターは思わず手を伸ばした。しかし、アイザックはそれを荒々しく振り払い、呆然となるクリスターを睨みつけた。

「なあ、クリスター、おまえにとって俺は一体何だったんだ…? 利用価値のある手駒以上の意味なんか、あったのか?」

 クリスターははっと息を吸い込んだ。

 怒りを閃かせた瞳がふと悲しげに曇ったかと思うと、アイザックは椅子から立ち上がり、クリスターが凍りついたように見守っているうちに、カメラをリュックサックの中に押し込んで、そのまま部室を出て行こうとした。

「アイザック…!」

 彼をこのまま行かせてはならないと直感的に思った、瞬間、クリスターは動いて、ドアに向かって歩き出したアイザックに追いつき、その腕を掴んだ。

「待てよ、アイザック…誤解しないでくれ、僕は、君をそんなふうに思っていたわけじゃない。君が僕をJ・Bの同類だと責めるのも、そのせいなのか? 違う、僕は、他人を駒のように操ったり弄んだりはしない…むしろ、それだけはすまいと思ってきた。君に僕らの争いから手を引けなんて言ったのは、いつだって僕が何も言わなくても自分の意思で僕についてきてくれた、君の気持ちを尊重すべきだと思ったからだ。僕は君を―」

 アイザックを引き止めたい一心でクリスターにしては精一杯の素直さで本心を打ち明けようとしたのだが、硬化したアイザックの心には響かなかったのか、暗い火をはらんだ声が彼の言葉を途中で遮った。

「違うな、おまえが必要としているのは、この世でただ1人レイフだけだよ」

 虚を突かれて、クリスターは絶句した。なぜと問いかけるような目で、頑なに閉ざされたアイザックの顔をつくづくと眺める。

「どうして―そこで、レイフが出てくるんだ、アイザック…?」

 アイザックは、言ったことをすぐに後悔したかのように顔をしかめ、黙り込んでしまう。居たたまれなくなったように、すっと目を逸らすアイザックの態度には、何かしら、いつもの彼とは違う不自然さがあった。

 そう言えば、今日のアイザックは、何から何まで彼らしくなかった。クリスターのやり方は承知してこれまで一緒に行動してきたものを、急に、やはりついていけないなどと言い出したことも妙だ。それに、クリスターのレイフに対する執着ぶりもアイザックはずっと承知していた。面白くは思っていなかっただろうが、今更言っても仕方のないことを蒸し返して人を責めるような男ではない。一番引っかかるのは、クリスターにとっての自分の立ち位置について、彼がやけに否定的な感情を漏らしていたことだ。

 まるで、アイザックの胸の奥にばらまかれた、1つ1つはごく小さな不満の火種が、何かに刺激されて、一気に膨らみ爆発したかのような―。

「一体、どうしたんだ、アイザック…さっきから君らしくないことばかり言っているぞ。そうだ、お互い頭を冷やして、よく話し合おう…何か、あったのか…?」

 アイザックはのろのろと頭を巡らせ、クリスターを見た。大きく見開いた黒い瞳は、自分でもどうすればいいのか分からないというような、惑いと迷いに揺れ動いている。

「クリスター、俺は―」

 アイザックの喉が大きく上下した。意を決して彼が再び口を開きかけた、その時、部室のドアが軽くノックされた。

 アイザックはぎょっとなってドアの方を振り返った。クリスターも思わずそれにつられて目を上げたが、まるで何かに怯えているようだと、アイザックの緊張ぶりに思わずにはいられなかった。

 ドアが開いて、何も知らないダニエルがひょこっと顔を覗かせると、怒らせていたアイザックの肩から力がぬけた。

「あ、やっぱりここにいたんですね、クリスターさん」

 ダニエルはクリスターの姿を認めた途端、素直な喜びに瞳を輝かせたが、すぐに、この場の只ならぬ雰囲気に気づいて眉をひそめた。

「どうしたんですか、2人とも、そんな恐い顔をして…まさか喧嘩をしていたって、訳じゃないですよね…?」

 クリスターはアイザックの腕を掴んだままでいた手を離すと、幾分ぎこちなくダニエルに笑いかけた。

「違うよ」

 アイザックを見ると、彼は一瞬何か言いたげな表情をしたが、やがて諦めたように頭を振った。

「僕は、しばらく席を外しましょうか?」

「いや、その必要はないぜ、ダニエル」

 遠慮して出て行こうとするダニエルに親しげに腕を広げて近づいていくアイザックは、一見、いつも通りの余裕を取り戻していた。

「俺の方こそさ、邪魔者は早々に退散するわ。クリスターを見つけた途端、あんな嬉しそうな顔で笑いやがって、何だか見てるのが馬鹿馬鹿しくなるくらいだったぜ。おお、そういや、おまえ、夏休みは親元には戻らず、寮に残るんだってな。片時もクリスターとは離れたくないってか?」

「な、な、何を言うんですかっ」

 アイザックがいつもの調子でからかうと、ダニエルはすぐに真っ赤になって、むきになって否定しかかる。彼らの普段どおりの軽いスキンシップだ。

 そうしてアイザックは、ダニエルが本気で憤慨するまで一通りからかうと荷物をひょいと肩に引っ掛けて、先に部室から出て行った。

 クリスターに対しては、ダニエルの手前だろうか、何事もなかったような態度で、コリンの所に立ち寄った際にまた連絡を入れるとか、実家にしばらくいるつもりだが、なるべく早くにこちらに戻るようにするとか言い残したが、その際にも彼はクリスターの目をまともに見ることを慎重に避けていた。

 そんな彼に、クリスターもつい普段どおりの態度で返してしまった。

 だが、もしも―。

 もしも別れ際、一瞬でもアイザックが振り返ったり足を止めたりして、追いすがる余地をクリスターに示してくれれば、すぐに彼はそうしただろう。

 しかし、アイザックは追い立てられるように素早く部屋を出て行ってしまい、クリスターはと言えば、器用そうでいて、自分から断ち切られていく人の心を繋ぎ止める術にはあまり長けてはいなかった。

 そして、間もなく彼は、この時アイザックを黙って見送ってしまったことを後悔することになるのだ。




 数日後。11年生としての最後の学期をクリスターは滞りなく終え、三ヵ月間の長い夏休みが始まった―。



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