ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第4章 黒い羊

SCENE2


「うわぁっ。何これ、何これっ」

 ケージの中で母犬のおっぱいに吸い付いている、昨日生まれたばかりの子犬達を覗き込みながら、レイフは興奮した声をあげた。

 アルバイト先の獣医のケンが飼っているレトリバーが子犬を産んだというので、この日仕事が終わった後、見に来たのだが―。

「あらあら、子犬を見るのは始めてなの?」

 レイフの無邪気なはしゃぎように、ケンの奥さんや一緒に見に来た動物病院の職員のおば様達は微笑ましげに目を細めている。

「子犬を飼ったことはあるけど、さすがに、こんな生まれたてのほやほやは…わぁ、きゅうきゅういってら」

 レイフが触りたそうにしているのを見て取ったのか、ケンの奥さんは、ケージの中からミルクをたっぷり飲んで満足したらしい一匹の子犬を取り上げて彼の手の上に乗せてくれた。

「ひゃあ、ちっちぇ、ちっちぇなぁ…すげ、かわいいやっ」

 子供のように目を輝かせながら、手の平サイズのまだ目も開かない子犬に心底感心したように話しかけ、鼻先を押しつけたり、頬を摺り寄せたりしているレイフに集まる視線は、あんたの方がよほど可愛いわよと言いたげだ。

「そんなに気に入ったなら、まだ貰い手の決まってない子もいるし、君が飼ってみるかい?」

 部屋に入ってきたケンがレイフの後ろからひょいとケージを覗きこみながら提案した。

「えっ、本当…って、ううん、欲しいけど―いや、このままこっそりポケットの中に入れて帰りたいくらいだけど…」

 レイフは子犬の頭を撫でながらかなり迷っていたが、やがて思い切るようにはっきりとした口調で言った。

「いや、いいです。ものじゃないんだし、ただ欲しいからってだけで、簡単にもらうわけにいかないから―オレ、来年高校を卒業したら、どこの大学に行くにせよ、家は出るつもりだし…そうなると寮に入るかアパートを借りるかで、犬を飼える状況になるかどうか分からないから。いざとなれば親に頼めばいいんだろうけど、オレが預かった命なら、やっぱ最後まで自分で責任持ちたいし」

「ああ、そうか、夏休みが明ければ君は最上級生になるんだね。早いものだねぇ。まだどこの大学に行きたいとか、具体的な進路は考えてはいないのかい?」

 レイフは名残惜しげに子犬をケージに戻し、ケンに向き直った。

「まだ何にも―大学のフットボール・チームのスカウトから何件かコンタクトがあるくらいで…でも、どれもすごく行きたい学校ってわけでもチームでもないから」

「去年の優勝チームのエース級選手となれば、気の早いスカウトもそろそろ動き出すのかな。でもね、レイフ、大学はそもそもフットボールだけをしに行く所じゃないんだよ。何かを勉強して身につけて―プロ選手になるって夢は別にして、もしも将来職業に就くとしたらどんな仕事をしたいかと考えながら、進路は選ぶものだ」

 ケンのもっともな助言にレイフはちょっと考え込んだ後、再びケージの中の子犬達を見下ろして、ぽつりと呟いた。

「獣医だったら、なってもいいかなぁ」

「おや、それなら、うんと勉強しなきゃならないよ。でも、君なら、なかなかいい獣医になれそうだね。1つの命を預かることの重い責任をちゃんとわきまえている」

「そうですか?」

「ああ、これも、2年間ここで働いて、有能な獣医である僕の薫陶を受けてきたおかげだろうな」

 冗談めかして言いながら片目を瞑るケンに、レイフは素直に笑い返した。

「それなら、レイフ、将来はここで雇ってもらいなさいよ。若くてハンサムな先生目当ての奥様方が集まってきて、きっとここも今よりはやるわよ」

 キッチンから人数分のコーヒーとクッキーを運んできがてら奥さんが言うのに、ケンはちょっと情けなそうな顔をする。

「何だよ、それじゃ、まるで僕がもう年寄りみたいじゃないか」

「そりゃ、レイフに比べたらねぇ。お肌だって、この通りつるつるだし」

 若いレイフを可愛がっている職員達は奥さんに賛同の声をあげながら、彼の腕をぺちっと叩いたり撫でたりした。

「やめてくださいよー。それ、セクハラっすよ」

 レイフが身をよじって逃げながら言い返すと、コーヒーのいい匂いに包まれた部屋の中に楽しげな笑い声が弾けた。

 そうやって動物病院の皆としばらく談笑した後、レイフはいつものようにジョギングしながら家路についた。五月も半ばを過ぎたこの頃、夕方と言っても、まだまだ外は明るい。

(進路かぁ)

 履き慣れたシューズにランニング用の上下に身を包み、爽やかな風の吹いてくる並木道を気持ちよく走りながら、レイフは先程ケンから受けた指摘を思い返していた。

 あっという間に三学期も過ぎ、来月の頭からは長い夏休みが始まる。それが明ければ、レイフもいよいよ最上級生シニアだ。

(いよいよ、本気で大学のこと考えないとな。確かクリスマス・ホリデイまでには願書手続きもすませなきゃいけないはずだ)

 獣医になるとはほとんど思いつきで言ったことだが、大学卒業後プロ・フットボールに進む以外の選択肢も現実としてやはり考えておくべきだろう。

(フットボールが盛んで、スポーツ推薦が取れて、なおかつ獣医学にせよ何にせよ、面白そうな学部がある所か…ううん、勉強と言われるとちゃんとついていけるかどうか悩むよなぁ。その点、クリスターはどこに行っても通用するおつむがあるからいいよなぁ)

 兄のことを思い出すとレイフの胸は疼いた。

 クリスターとは最近進路についての話はしていない。彼の志望がどこなのかも知らない。計画的なクリスターのことだから、頭の中では考えていることも色々あるのかもしれないが、それをレイフに聞かせる気はないようだ。

(あいつはオレから離れようとしている…お互い自立して、進路もそれぞれが希望する所を目指せばいいと思ってるわけか。もしかしたら、カレッジ・リーグでもっと力をつけて将来プロなるって計画は現実的ではないからと、あいつの中ではもう第一ではなくなっているのかもしれない。でもさ、クリスター、そんなこと本当にできるのかよ。一緒に叶えようと約束した夢をそう簡単に諦めきれるのか? オレには、できないよ。プロになるって夢も、おまえのことも―)

 レイフはもどかしげに唇を噛み締めた。

(頭でっかちの理屈屋め。考えなくてもいいことまで考えて、挙句の果て、煮詰まって、自分がどうしたいのかも分からなくなってやがる。なあ、おまえ、やっぱりオレと一緒にやりたいんだろ、フットボール…嘘つくのはやめろよ。だって、おまえはすごく楽しそうだったじゃないか。チェスでもボクシングでも、何をやっても一流のおまえだけど、やっぱりオレやチームの皆と一緒にプレイしている時が、いつだって一番いい顔してた。あれは絶対作ったものじゃないと思う。去年優勝してさ、おまえだって、すごく気持ちよかったろ、今まで生きてきた中で一番幸せだったろう?)

 別にクリスターからはっきりとプロになる夢は断念すると告げられたわけではない。彼自身まだ迷っているのかもしれない。あるいは、レイフに話せば強硬に反対されるのが分かっているので、打ち明けられないでいるのかもしれない。つまり、レイフの真剣な求めを拒みとおせるほど確固たるものを今のクリスターが持っているわけではないということだ。

(だったら、あえてオレの方から、この問題をあいつにぶつけて追求してやろうか…? あいつはしらを切って逃げようとするだろうけど、無理にでも捕まえてさ…自分に正直になれよ、オレと一緒に来いよって訴えて―ああ、どんなふうに言えば、あいつに分からせることができるんだろ。言葉って不自由なものだよな、オレが思うことの半分も伝えられない。ほんとは、一緒にプレイできたら話は早いんだけどさぁ。早くフットボールのシーズンになって…チームの仲間達とも一緒になってがむしゃらに練習して、また去年みたいに優勝目指して…あんな楽しい時間が戻ってきたら、あいつも思いだせるだろう…。そうさ、同じ頂上を一緒に目指すことでオレ達は1つになれる…2人ともが幸せになれる。だから、絶対にやめることなんてできないんだ)

 そんなことを考えるうちに、道路の向こうに見慣れた我が家が現れた。

 一気に足を速めると瞬く間にそれは近づき、程なくしてレイフは家の前にたどり着いた。

(あっ)

 何気なし覗き込んだガレージにクリスターの車を見つけて、レイフの心臓の鼓動は急に速くなった。

(珍しいな。兄貴の奴が、こんな早い時間に、もう家に帰ってるなんて―そうだっ)

 クリスターが家にいるのなら、いい機会だ。その気になっている今のうちに、先程考えていたことを彼に正面からぶつけてみようとレイフは瞬間的に決意した。

「ただいまっ」

 レイフは勢いよくドアを開いて家の中に入ると兄の姿を求めて階段を駆け上がった。リビングの方から、こちらももう帰宅していたらしい父親が呼びかけるのが聞こえたが、とりあえずそれは後回しだ。

「クリスター、いるのかよっ」

 レイフが2階に到達するのと同時にクリスターの部屋のドアが音もなく開いて、中からするりと出てきた彼とレイフは鉢合わせをした。

「あ…に、兄さん…」

 クリスターとほとんどぶつかるように顔を突き合わせしまい、レイフはとっさに言葉を詰まらせて立ち尽くす。それを、クリスターは僅かに目を見開いてじっと凝視した。

「何をしていたんだ、遅かったじゃないか」

「へ?」

 予想外の兄の切り返しに、レイフは目をぱちくりさせた。

「今朝家を出る時に、母さんから、今日は僕達に何か大切な話があるから早めに帰るように言われただろ?」

 渋い顔をしたクリスターに嗜められて、レイフは戸惑う。

「そ、そうだっけ…?」

 クリスターはやれやれというように溜息をついた。

「やっぱり、ちゃんと聞いていなかったんだな」

「うん…ごめん。ああ、それで、今日はクリスターも、研究室にも寄らずにまっすぐ帰ってきたんだ。おまえの帰りをまともに待ってたら、下手したら真夜中になるものな。でも、話って、何だろ?」

「そんなこと、僕が知るものか。ともかく下に行こう。リビングで父さんと母さんが待っているから」

 レイフの肩を軽く叩いて、クリスターはそのまま先に階段を下りていく。その後ろ姿をぽかんと見送りかけた後、レイフも慌てて追いかけた。

 クリスターと2人で進路のことから何から腹を割って話すいい機会だと思ったのだが、取りあえず、それは後回しにするしかなさそうだ。

(母さん達が、こんなふうに改まってする話だなんて…オレ達の進路のことって訳じゃないよな。仕事の方も万事うまくいってるらしいし…そういや、ちょっと前に母さんが体調悪そうにしてたことがあったけど、まさか、どこか悪いとか…?)

 色々考えを巡らせてみたものの心当たりがなくて、レイフは首を傾げるばかりだった。

 しかし、両親が待つ階下では、レイフの想像をはるかに超える展開が待ち構えていた。全くそれは、レイフの胸に引っかかっている、クリスターというもっか最大の懸案事項も一瞬吹き飛んでしまうほどの驚きだった。

「子供?」

 思わず、レイフはコーヒーカップを口元に運びかけた手をとめて、聞き返した。

「ええ」

 にこにこ笑っているラースと並んでソファに坐ったヘレナは落ち着き払った態度で頷きながら、もう一度繰り返した。

「今日、病院に行ってちゃんと検査をしてもらったの。三ヶ月だそうよ。来年の頭頃には、あなた達に弟か妹ができるわけね」

「………」

 レイフは目をすがめるようにして、目の前で仲良く寄り添いあっている両親を見比べながら、言われたことの意味を咀嚼していた。

 病院。検査。三ヶ月。弟か妹―。

 次の瞬間、レイフの頭の中に、先程獣医のケンの家で見せてもらった生まれたての子犬の映像がうかびあがった。レイフの手から落ちまいと小さな足で必死に踏ん張っていた、ほんのり甘いミルクの匂いの―。

「あ、あか…ちゃんが、できたってことかよっ?!」 

 思わず後ろにのけぞりながら裏返った声でレイフが叫ぶのに、ヘレナはおかしそうに言い返す。

「さっきから、そう言ってるじゃないの」

「うわぁ…」

 呻くように呟いたものの、何とコメントしたらいいのか、適当な言葉が見つからない。レイフがひたすら絶句していると、天にも舞い昇りそうほど幸せな顔をしたラースが駄目押しのように付け足した。

「おまえも、これでお兄ちゃんになるんだなぁ、レイフ」

 レイフは喉に何かが詰まったような心地になりながら、助けを求めるように傍らの兄を振り返る。

「ク、クリスター」

 するとレイフの呼びかけで我に返ったように、クリスターははっと息を吸い込んだ。どうやらこちらもしばらくの間固まっていたようだ。

「あ…その…びっくりしたけれど、ともかくおめでとう、父さん、母さん」

 クリスターは神妙な面持ちになってしばし黙り込んだかと思うと、困ったように首を傾げた。

「ううん、いきなり弟か妹ができるなんて言われても、正直ピンとこないけれどね」

「うん…オレも…」

 思わずレイフはクリスターと顔を見合わせ、苦笑しあった。

「子供の頃のおまえは、一時、弟が欲しいって母さんにせがんでいたものだがな、レイフ」

「そんなこともあったかなぁ」

 しかし、まさか今になってそれが実現するとは夢にも思わなかった。若くして結婚したヘレナはまだ38才で、子供を産めない年ではないが、立派な高齢出産だ。18年ものブランクもあるわけで、それはきっと大変なことだろうと、分からないなりにレイフも心配してしまう。

 それでも、満ち足りた幸福感に包まれている両親―仕事による疲労も消し飛んで溌剌とした顔になっているラースと、体に新しい命を宿したことで内側から輝くように一層美しくなったヘレナを見ていると、次第に、そんな心配をする必要もないのかなという気がしてきた。

 かなり年の離れたきょうだいを持つことになる双子の反応をそっと窺っている両親を、レイフは今度は満面の笑顔で祝福した。

「うん、おめでとう。まだ実感ないけど、新しい家族ができるって嬉しいことだよ。な、クリスター」

「ああ、そうだね」 

 レイフが明るく賛同を求めて腕を引っ張るのに、じっと黙って何事か考え込んでいたクリスターは目が覚めたような顔をして、ややぎこちなく頷いた。まだ現実を受け止めきれていないのだろうか、彼の反応は鈍い。

(まあ、確かに変な気分ではあるよなぁ…母さんのおなかが大きくなるってのも何だか想像つかないし、家に赤ん坊がいる生活ってのも…年明けくらいにはもう生まれているのか…ううんと、そしたら、それから高校卒業して大学に行きだすまでの八ヶ月くらいは一緒にいてやれるんだ。でも、まだ遊んでやれるほど大きくはならないよなぁ)

 その後は、久々に家族そろっての夕食を取ったが、別にそれ以上新しい家族についての会話が弾むわけでもなく、いつも通りの夜を過ごした。クリスターは勉強のためにさっさと自分の部屋に引っ込んでしまったし、レイフもいつも見ているクイズ番組をリビングで見た後は、部屋に戻って、雑誌を読みながら眠り込んでしまった。

 幸せそうな両親を素直に祝福したものの、2人とも、まだ見ぬきょうだいに対する実感など、やはり持てなかったのだろう。

 別にそれで毎日の暮らしに目に見える変化が現われるわけではない。いや、そのうち変わってくるのだろうが、それこそ妊婦にも赤ん坊にも縁のない男子高校生には、何が起こるのか想像もつかないことだ。

 翌日。結局レイフは、学校の同じ年頃の友達には、そのことを話さなかった。どうせ彼らにも分からない話だし、興味本位でからかわれそうで、何となく照れくさかったのだ。

 だが、アルバイト先の動物病院の女性職員には、あっさり打ち明けた。育児の真っ最中であったり、あるいは子育ても一通り終えたりと、経験豊富な彼女らは、うちの親にあかちゃんができたんだけれどどうしようと不安そうに訴えるレイフに、これから何が起きるのか、どんなことに気をつけてあげればいいのかなどの具体的なアドバイスを、自分達の体験を交えて懇切丁寧に―生々しすぎてレイフが怯みそうになる話までしてくれた。

 その詰め込み教育のおかげか、単純で、もともと子供好きでもあったレイフがその気になってくるのに、それほど時間はかからなかった。

(そういうことなら、レイフ、君もご両親とベビーに何かお祝いをしてあげないとね。夏休みの間ここでしっかり働いて、アルバイト料をためることだよ)

 アルバイトの帰りにレイフがショッピング・モールに立ち寄ったのは、別にそのためではなく、クリスターに贈るバースデー・プレゼントを買うためだった。

 以前クリスターが欲しいと漏らしていた、ナショナルジオグラフィック誌によく掲載される写真家の写真集を購入し、書店を出たレイフの目に、大きなベビー用品専門店のウインドウが飛び込んできた。こんな店、以前なら決して目に付かなかっただろう、果たして昔からそこにあったかも定かでないほど馴染みがなかったが、見た瞬間、ケンに言われた言葉を思い出し、レイフはふらふらと近づいていった。

(プレゼントって…何を贈ったらいいんだろ…?)

 乳幼児の写真の入った大きなポスターや色とりどりの玩具や服やベビーカーが飾られた明るい大きなウインドウの前にレイフはしばしぼんやりと立ち尽くした。

(中に入ってちょっと見てみようか…い、いや、さすがにそれは恥ずかしいよなぁ)

 入ろうかとどうしようかとドアの付近を落ち着きのない熊のようにうろうろしていると、そのうち、そのドアが開いて、中から1人の背の高い客が出てきた。

 その姿を認めた瞬間、レイフは真っ赤な顔になって、げほっと咳込んだ。

「ク、クリスター?!」

 弾かれたように振り返ったクリスターは、ぽかんと口を開けて立ち尽くしているレイフを見つけるや、目を見開いた。

「レイフ? こんな所で一体何をしているんだ?」

「おっ、おまえの方こそ、こんな店に入って何やってたんだよっ? 想像できねぇっ、クリスターがあかちゃん用品を物色してる図なんて!」

 レイフの大声に辺りを歩いていた人々が何事かと振り返る。クリスターは赤面し、慌ててレイフに歩み寄ると、まだ何か叫ぼうとする口を無理矢理手でふさいだ。

「この馬鹿っ」

 そのままクリスターは、じたばた暴れるレイフの首根っこを掴んで、傍にあったドーナツ店に連れ込んだ。

「…商品カタログをもらいにちょっと立ち寄ってみただけだよ」

 クリスターのおごりだと言うのでトレイの上に山のように積んだドーナツを頬張りながら、レイフは更に追求を続けた。

「カタログって何のだよ?」

「だから―たぶん、おまえがあそこに突っ立っていたのも同じ理由だと思うけれど、母さん達に子供が生まれたら、出産祝いに何か贈ろうかなって、ふと考えたんだよ」

「へぇ。気が早いじゃん」

「お互いさまだろ。それに、別にそのためだけにわざわざここに来たわけじゃない…他に買うものがあったから、そのついでで…」

 そう言い訳じみたことを言うクリスターの傍らにはタワーレコードの包みが置かれている。それを見て、レイフはピンときた。

(あ、オレへのプレゼントだ)

 確か、レイフが欲しがっていたCDの発売日が今日だった。

 毎年、誕生日が近くなると、2人はお互いに自分が欲しいものをさり気なく相手に伝えるようにしている。黙っているとせっかく贈ったプレゼントを相手が既に自分で買っているということがままあるからだ。

 レイフは自分の隣の椅子の上にある、つい先程クリスターのために買った写真集を意識した。互いの心も体も遠のいていくような気がしていたのに、今でも2人は同じようなことを考えて、行動に移しているわけだ。

「何、にやけてるんだよ。気味が悪いな」

「えへへ…」

 レイフがささやかな幸せを噛み締めていると、クリスターは軽く咳払いをして話をもとに戻した。

「それで、おまえもその気なら、2人で一緒に少し大きなものを買って贈ったらいい。細々としたものは母さん達が用意するだろうし、どのみち、そんなもの僕らには見当もつかないからね。チャイルド・シートなんていいかなぁと僕は思っているんだけれど―」

「相変わらず計画的だよな、兄貴。昨日はあんまり興味なさそうな顔してたのにさ」

「実感なら、今でもやっぱりないよ。今更どうして子供なんて作ったんだろうと思うし…むしろ母さんの体の方が心配だよ」

「うちの母さん、若いし元気だし、きっと平気だよ」

「それにしてもね、やっと僕らがそれなりに一人前になって独立しようという時に、また一からなんて…初めに聞いた時は、その…間違いでできてしまったのかなって思ったよ。でも、よく考えれば、このタイミングを見計らって計画的に作ったんだろうね」

「計画的って?」

「僕らが巣立っていなくなれば、父さんはきっとすごく寂しがるだろうからね。あの人は、自分が守ってやれる家族がいないと駄目な人なんだって、いつだったか、母さんが言ってたよ。子煩悩で、小さい頃の僕らのことも馬鹿みたいに可愛がって、あんまり甘やかしすぎて駄目にしてしまうんじゃないかと心配するくらいだったそうだよ」

「そんな記憶はあるよなぁ」

「だから、母さんは父さんのためにあえてもう1人産むことにしたんじゃないかな。今なら、会社も軌道に乗っているし、母さんが一線から退いても回っていきそうだしね」

 淡々と分析するかのような口調でクリスターが言ったことに、しかし、レイフはすんなりと納得できなかった。

「ううん、クリスターの話も分かるけどさぁ」

 レイフはドーナツをつまむ手をふととめると怪訝そうな顔をするクリスターに向かって、ゆっくりと噛み締めるように言った。

「オレさ、そういう言い方好きじゃねぇよ。子供を…作るってさ、何か、ものみたいじゃん。オレ達の弟か妹になるんだぜ?」

「おや…僕は別に、そんなつもりで言ったわけじゃないけど…いきなり、どうしたんだよ?」

「オレのアルバイト先にさ、昔児童福祉関係の仕事をしていた年配のおばさんがいるんだけど、その人が、昔は子供は授かるものだって言ったのに、今の親達は子供をものみたいに作る話をするって嘆くんだ。自分が作ったものだとしか考えないから、その子が思い通りにならないとすぐ虐待に走る…神様から授かった大切な命と考えれば、大事に育てて、どんな苦労をしても手放そうとはしないはずだって」

 他人からの受け売りだが、その言葉はよほど、今のレイフの胸に響いたのだった。

「なるほどね…それも一理あるか。しかし、レイフ、おまえ、たった一日で随分と様子が変わったじゃないか。昨日は、新しいきょうだいと言われてもピンとこない顔をしていたのに、今は楽しみでならないって口調になっている。おかしなものだね」

「ちっともおかしくないよ。何だよ、クリスターは楽しみじゃないのかよ」

「弟なんて手のかかるもの、おまえ1人で充分だよ。まあ、可愛い妹なら、いてもいいかな…それにしたって、これだけ年が離れてしまったらね。せめて言葉が通じるくらいにある程度大きくなってくれるまでは、どう扱えばいいのか、僕は困ってしまいそうだ」

 クリスターは何を思い出したのか、遠い目をして、ふっと笑った。

「そう言えば、中学校の社会奉仕の時間にさ、幼稚園に行ったことがあったよね。子供って結構鋭く人を見る生き物なんだなって、あの時思ったよ。おまえは皆に好かれて、せがまれるままに遊んでやってたけれど、同じ顔をした僕のところには誰も来なかった。苦手に思われていることが分かったんだね」

「頭で理解しようと思うから、苦手になるんだよ。オレは、子供達とする遊びを自分も楽しんでしまうからさ」

 クリスターは目を細めるようにして、つくづくとレイフを眺めた。

「おまえはきっと…将来は、父さんみたいな子煩悩のいい父親になるんだろうな。僕はそれも無理そうだ…子供自体苦手だし、ましてや自分の子なんて、考えるだけでぞっとする」

 穏やかな声の中にある羨望と諦念の響きは、レイフをうろたえさせた。

「な、何言ってんだよ。子供だなんて、オレだって、今はごめんだよ。ていうか、親になった自分なんて、想像もつかないし…それより先に、産んでくれる相手を見つけなきゃ、話にならないだろ」

 するとクリスターは視線をテーブルの上に落とし、コーヒーのカップの縁に指を滑らせながら、何気ない口調で言った。

「相手か…そう言えば、レイフは、その後気になる女の子は見つからないのかい? アリスのことは忘れたのなら、早く新しい相手を探して付き合えよ」

 レイフは思わず、何を言うのかとまじまじとクリスターを見つめてしまった。クリスターは顔を上げようともレイフと目を合わせようともしない。

 ちくんと、レイフの胸の奥の心臓が痛んだ。

「ちぇっ…ひでえよな…」

 おまえが、オレにそれを言うのか―舌の先まで出掛かった恨み言を飲み下し、レイフはわざと明るい調子で返した。

「何だかさ、取りあえず一回経験したことで安心したのかな、今は別に彼女なんて欲しくないよ。気になる子が傍にいるなら、話は別かもしれないけど、わざわざ探すほどのことはないし」

「それくらい面倒くさがるなよ」

「オレはさ、兄貴みたいに器用じゃないから、一度に色んなことに手は出せないの。実際、女の子なんかよりずっと気になることがあるからさ…頭の中はそいつのことで一杯で、他のことを考える余裕はないよ」

 レイフがクリスターに向けた眼差しに力を込めると、彼はそれをかわすように店の中を眺めやった。

「なあ、クリスター…」

 一瞬ためらった後、レイフが意を決して口を開きかけると、クリスターは話を遮るかのようにおもむろに立ち上がった。

「さて、僕はこれから約束があるから、先に出るよ」

「え、もう…?」 

 どこかぎこちない態度で早々に立ち去ろうとしているクリスターを見守りながら、レイフはふと思った。

(約束って、ダニエルとかな…?)

 あの利発で可愛い後輩の顔を思い出すとレイフの胸は複雑な感情に揺れる。しかし、それよりもクリスターの余所余所しさの方が、よほどレイフにはこたえた。

 クリスターは、レイフと先程のような家族として兄弟としての当たり障りのない会話ならば普通にできる。しかし、レイフが一線を越えてクリスターの触れられたくない所に手を突っ込もうとすると、心を閉ざして逃げてしまう。

 クリスターがレイフの傍を通り過ぎようとした時、レイフは思わず手を伸ばして、クリスターの腕をつかんだ。

「兄さ…」

 レイフに触れられた瞬間、クリスターは体に電流が走ったかのように身を震わせ、振り返った。その顔は強張り、大きく見開かれた瞳には不安と慄きが溢れている。

 そんな兄にかけるべき言葉を、レイフはとっさに見失った。

「あ…いや、その―なるべく早く帰れよな。大体、おまえ、高校生のくせに門限も何もあったものじゃないような生活だろ」

 張り詰めた空気が流れたその場を取り繕うように、レイフはたどたどしく続けた。本当は、こんな意味のない言葉をかけたかったわけではない。

「ああ、分かったよ」

 いつ追求されるかと恐れていたことをレイフが口にしなかったので安心したらしい、クリスターは再び落ち着きを取り戻した。

「レイフ…」

 すまないと思ったのだろうか、しょんぼりとうなだれてテーブルの上に視線を落とすレイフの髪の先を軽く引っ張って、クリスターは優しい口調で囁いた。

「母さん達へのプレゼントの件、今夜にでもカタログを見ながら相談しようよ」

「ん」

 店のドアへ向かって歩いていくクリスターの後ろ姿を、レイフは切なさに胸を塞がれながら黙って見送った。

(さっきオレを振り返った、クリスターのあの顔…あいつ、本気で恐がってた)

 レイフの脳裏に、学校の体育館裏で去っていこうとするクリスターを捕まえて、しばしじっと抱きしめていた時の記憶が蘇る。

 このままクリスターと1つに溶け合ってしまえればよいとレイフは確かに思った。クリスターも同じ欲求に心が揺らいでいたはずだ。しかし―。

(レイフ…レイフ、離せ…!)

(兄さん)

 クリスターはぎりぎりのところで踏みとどまって、レイフを振り切って行ってしまった。レイフはそれ以上後を追えなかった。

(あの時みたいな危うい状態になることが恐いって訳か。オレに腕つかまれただけで、あんな過敏な反応しちまうほど…)

 レイフは、テーブルの上に置いた両手を広げて、途方に暮れたように見下ろした。

「一体オレがおまえに何をするっていうんだよ、クリスター」

 そのままずるずると崩れるようにテーブルの上に突っ伏して、レイフはしばし目を瞑った。

「マジ、へこむぜ…」

 瞼の裏には、レイフが常に自分の一歩前に見てきた、クリスターの力に溢れた頼もしい背中。見失うことなどありえなかった。当然のようにいつもそこにあったのに、今のそれは、レイフの手が届かないほど遠くあるように感じられた。


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