ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第4章 黒い羊
怪物と闘う者は、その過程で自分自身が怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深遠を覗きこむ時、その深遠もこちらを見つめているのだ。
フリードリヒ・ニーチェ
SCENE1
僕が彼―ジェームズ・ブラックと最初に出会ったのは、アーバン校に入学した最初の年、僕達双子がフットボール・チームの有望選手として注目され始めた頃だった。
あれは他校のチームを我が校に招いての練習試合でのことだ。レイフはレギュラーとしてフル出場したが、僕は前回の試合での負傷が尾を引いて、残念ながら出られなかった。
仕方なく観客席に坐って、試合を遠くからただ眺めていた僕に、彼が声をかけてきたのだ。
「ね、今、試合に出ている、あの俊足のランニング・バック、君の弟なんだってね?」
チームへの声援でうるさいほどの観客席の只中にあって、その涼しげな声はかき消されることもなく、僕の耳にすっと入ってきた。
斜め後ろの席を振り返ると、明るい金色の髪をした少年が軽く首を傾げるようにして僕に微笑みかけていた。
天から舞い降りてきたかのような無邪気な笑顔。
「あ、いきなりぶつしけだったかな」
柔らかで心地よい響きの声に、僕は冷たく返した。
「別に」
僕は目の前で展開されている試合の方に再び注意を戻した。この日は、一緒に観戦しようと誘ってくれた友人達の誘いもあえて断ったほど、僕は1人でいたい気分だった。僕がフットボール・チームの一員だと気づいて好奇心を覚えたらしい、こんな見ず知らずの他人の相手などごめんだった。
「君は、今日の試合には出ないの?」
僕の鬱屈とした心情とは程遠いのどかな声がしつこく背中に投げかけられる。グラウンドを縦横無尽に駆け回っている、もう1人の自分の姿を目で追いながら、僕はほとんど投げやりに応えた。
「この間の試合で足首をちょっと傷めたんだ。僕はもう大丈夫々と思うんだけれど、コーチが大事を取って今日は休めと言ったんだから、仕方ないだろう」
「ふうん。それで、そんなつまらなそうな顔で観戦してるんだ」
僕は眉間に皺を寄せ、もう一度後ろを振り返った。突き上げてきた反抗心が僕の重い口をまた開かせた。
「別につまらなくはないよ。弟が出ている」
すると彼は、今まさにボールをキャッチし、押し寄せてくる攻撃を振り切って物凄い勢いで敵の陣営の奥へと突っ込んでいくレイフの方に軽く顎をしゃくりながら、揶揄するような口調で囁いた。
「片割れ君と一緒にあそこにいたかったのにって顔をしているよ」
およそ悪意などとは縁遠そうな無邪気な顔で言う彼を、僕は用心深く見据えた。
どこの誰とも知れない他人に簡単に気持ちを見透かされたことは、僕にとっては軽いショックだったが、おかげで胸に垂れ込めていた憂鬱さが少し紛れた。
そう、この頃の僕は鬱屈として、触れれば切れそうなほど、無性に苛立っていた。
志望していた高校にレイフと一緒に入学し、成績はそれまでの所トップ、フットボール・チームにもすぐにレギュラー入りできた。一見して順風満帆な生活を送っていた僕だが、内心は決して穏やかでも満ち足りてもいなかった。
大人びた顔をしていても、まだ15才の僕は、本当に欲しいもの―弟を諦める境地には到底達していなかった。レイフから離れて自立の道を探すべきだと自分に言い聞かせながら、同時にまだ弟と一緒に進む道も模索していた。
フットボールは、そのための重要な手がかりだったのだ。
実戦における僕らの力の差はほとんどないとそれまで思われてきたのだが、実はそうではないということを、この年、レイフは入学直後に受けたフットボール・チームのトライアウトで証明した。そのことで、僕は密かな焦りを覚えていた。いつもレイフの一歩前を当然のように歩いてきた僕だったのに、ことフットボールに関しては弟に取り残されてしまうかもしれない。
弟の手前、平気な顔をしていたが、こんな怪我などして、指をくわえて試合を眺めているだけの僕は、内心歯噛みする思いだったのだ。
こんな所で、おまえは一体何をしている? もっともっと努力して、自分を磨き、強くならなければ、レイフとの差はますます開くばかりだ。立ち止まっている暇などないはずなのに、弟のものほど頑強にはできていないらしいこの体は、容易に僕を裏切る。
「自分がプレイヤーになってこそゲームは面白い。それをただ見ているだけでは物足りないし、つまらないよね?」
生暖かい午後の日差しの中、じっと観戦していることに次第に飽きてきたのか、あくびを噛み殺しながら茫洋と呟く彼に、僕は黙り込むしかなかった。
「ああ、その通りだよ」
ささくれた気分で、ついに認めた。
周囲であがったわあっという歓声に押されるように僕はグラウンドを見下ろした。僕らのチームがタッチダウンを決めて観客席にいた生徒達は盛り上がっていたが、僕の気持ちは逆に冷めていった。
グラウンドを仲間達と共に生き生きと駆け回る弟も、今は遠い。確かに、死ぬほど退屈だ。
レイフと一緒になって無我夢中にプレイしている時はこの世にフットボールほど楽しいものはないと感じられるのに、いざ、その高揚から自分だけ切り離されてしまうと、急に魅力を失って見え、フットボールに対する自分の情熱自体に疑問を覚えずにはいられなくなる。
純粋にフットボールを愛しているレイフとは、僕は根本的に違う。そもそも、レイフぬきにして、僕がただ純粋に愛し、夢中になれるものなどこの世にあるのだろうか。もしかしたら、レイフが傍にいなければ、僕は何を見ても何をしても感動せず、喜びも満足も見出せず、生きることに飽き飽きしてしまうのではないだろうか。
弟と一緒に漂っていた仄暗く温かい羊水の記憶から出て行こうと決めた、13才のあの時からずっと重ねてきた努力を全て否定しかねない考えに、僕が思わず身震いした、その時―後ろから伸びてきた手が僕の肩にさり気なく置かれた。
「気持ちは分かるよ」
分かるはずなどないものを、あたかも僕の胸に澱のようにたまっている憤懣を掬い上げるかのごとく、優しい声が僕の耳元で響いた。
「僕もずっと…このつまらない世界に飽き飽きしていたから」
この上もなく穏やかな、完璧な調和を感じさせる声の中に一瞬混じった不協和音を感じ取って、僕はうなじの辺りがちりちりするのを感じた。
「近頃君ら双子の噂をよく聞くものだから、どんな子達なんだろうって、気になっていたんだ。天才だとか怪物だとか、期待と不安、賞賛と反発の入り混じった視線をその年で早くも集めている。今の所、あの弟君の方がスポーツ選手としては注目株のようだね。でも、焦ることはないよ。君の中には、他の平凡な人間達の中にはない凄まじい火が滾っている。無理も不可能も覆して、来年の今頃には君がフットボール・チームのエースになっていると思うよ、クリスター・オルソン。君のような子がこの学校に入学してくれてよかった。これからしばらくは、フットボールその他、君の活躍を眺めていれば、僕も退屈しないですみそうだ」
僕が彼を振り返ったのはこれで三度目だったが、今初めて見るかのような気持ちだった。
「そう言う君は、一体誰なんだ?」
やっと僕が自分の名を尋ねたのが心底嬉しいというように彼が唇をほころばすと、綺麗に整った真っ白な歯が覗いた。
照れくさそうに前髪をいらいながら、彼は十年来の親友にでもするような親愛の情のこもった口調で告げた。
「僕は、10年生のジェームズ・ブラック。ありふれた名前だけれど、できれば覚えていて欲しいな。何となく、君とは仲良くなれそうな気がするんだ」
僕は警戒心を張り巡らせながら、ジェームズのあどけないほどに明るい表情の裏に隠された真意を読み取ろうと試みた。
ジェームズは、偶然を装って僕に声をかけてきたが、それは違う。最初から僕に狙いを定めて近づいたのだ。僕は気がつかなかったが、どこかで僕を見かけ、少しは注意して観察したことがなければ、あたかも見て取ったかのように僕の心理を分析し、あんなふうに自信ありげに未来の予言めいたことを言いはしないだろう。それとも、ただのはったりだろうか。だが、それならば、何のため? 少なくとも僕の気を引くことには成功したようだが、そうまでして何故僕に関わろうとする?
人畜無害な外見をしたジェームズ。いかにも育ちのよさそうな、おっとりと品のよい物腰、柔らかな口調。親しげな態度を取っても礼儀正しさは崩さず、高い知性を感じさせる涼しげな目は笑うと少し目じりが下がるために見る人に親しみを覚えさせるはずだ。
それなのに、何かがとても不自然で、彼とじっと見詰め合っているだけで、僕の中で発せられている警告音は次第に高まっていく。
ジェームズは、他の人間とは何かが根本的に異なっている。本能的に反発せずにはいられない危険が、彼の中には潜んでいるような気がした。
僕がいつまでも頑なさを崩さずに押し黙っていたからか、ジェームズの顔がふっと曇った。
「ごめんね、いきなり見知らぬ人間から馴れ馴れしく声をかけられて、不愉快な思いをさせてしまったのかな」
すまなそうにわびると、ジェームズはおもむろに席から立ち上がった。
「たぶん君は、今日は誰とも話したくない気分でいたのにね」
ジェームズは握手を求めるように手を差し出したが、僕がそれを取ろうとはしなかったので残念そうに顔をしかめた。
「それじゃ、また近いうちに…今度は、君の機嫌がいい時を見計らって声をかけてみるよ。それなら、君も少しは僕に心を開いて、ちゃんと話してくれるかな」
まだ試合はやっと中盤に差し掛かった頃だったが、ジェームズはそちらにはもともとあまり関心がなかったのか、何の心残りもなさげにさっと後ろを向いて、そのまま立ち去っていった。
彼が遠のいていくにつれ、僕の中で鳴り響いていた警告音は次第に収まっていった。
ジェームズの金色の頭が人波の向こうに見えなくなった頃、やっと僕は、ずっと拭いきれなかった違和感の正体に思い至った。
ジェームズの瞳だ。態度や口調ではちゃんと表されていた感情の起伏が、そこには全く反映されていなかった。
ほとんど瞬きもせずに僕にずっとあてられていた暗い藍色の瞳に、何だか底のない井戸を覗き込んでいるような不安をかきたてられていたのだ。それは、彼の明るい髪の色や温和な表情や物腰とは全く異なった印象を放っていた。
全ての光を飲み込む暗黒―それが、僕がこの最初の出会いから覚えたジェームズの心証だった。ただの一会でそこまで他人を判断するのは禁物だ、誰かに話せば僕の考えすぎだと笑い飛ばされそうだが、第一印象というものは案外正鵠を射ていることが多いのだ。
さて、ともかく、こうして僕達は出会った。
僕にとっては全く喜ばしい巡り会わせではなかったが、ジェームズは、それを長い間待ち望んでいたのかもしれない。
つまらない世界に飽き飽きしていたのだと共感を求めるように囁いた彼は、望むことすら許されない想いに胸を焼き、自分を抑えつけながら過ごす日々に鬱屈としていた僕の中に、果たして何を見つけたのか―あまり考えたくもないことだ。
その最初の邂逅から、僕はジェームズの姿が近くに見えないかいつも探すようになった。進んで彼と近づきになりたいわけではなかったが、あんなふうに思わせぶりな接触をされては意識せずにいるのも無理な話だった。それに、得体の知れないジェームズという少年の正体を突き止めたいという好奇心も働いていたのだろう。
ジェームズは、僕の予想に反して、すぐにまた自分から僕に近づいてくることはなかったが、大勢の生徒達で込み合うカフェテリアや僕がよく利用する図書館で、彼の姿を見かけることなら時々あった。向こうの方でも僕に気がついて、何度か挨拶代わりの短い言葉を交わしたこともあった。
そうしながら、僕は周りの友人や知り合いにさり気なく、ジェームズについて尋ねまわった。思いの他ジェームズを知っている人間は多く、また好意的な見方をしている者がほとんどだった。
それらの意見をまとめると、ジェームズ・ブラックは決して自分から目立つ行動をして他人の注目を集めようとするタイプではなかったが、自然と周りに人が集まり、気づけばその中心にいるような、磁力めいた不思議な魅力がある人物のようだった。
穏やかで優しい人柄だと口をそろえて言う友人達には、僕が感じ取ったような違和感をジェームズに覚えている節は全くと言っていいほどなかった。そう感じたのは、どうやら僕だけのようなのだ。やはり僕の勘違いかと思い始めた矢先、僕は、そのジェームズと同じクラスを受けることになった。
僕が所属している英才クラスでは、上の学年とも合同でクラスが持たれることがある。一学年上の英才クラスにいたジェームズとは、ディベートのクラスで一緒になった。
アーバン高校は名門校で、その中でも選りすぐりの生徒を集めた英才クラスの連中は、そこにいる僕が言うのもなんだが、エリート意識が強い。自分は優秀だという自負もブライドも持っている。英才クラスでは、そんな秀才達が、個々の能力を一層伸ばし、それぞれが目指す分野で将来指導者的な立場に立てるよう、実践的な訓練を含めた授業をする。生徒の希望や自主性に重きが置かれているため、特に定められた授業計画はほとんどなく、そのディベートのクラスでも教師はオブザーバー役でしかなかった。
9年生と10年生が一緒になった、そのクラスは全部で10人。ジェームズの他に、後にレイフや僕自身に深く絡んでくるハニー・ヘンダーソンもいたが、それはまた別の話だ。
僕にとって、そのクラスはジェームズを詳しく観察するためのいい機会になった。
自意識の高い生徒ばかりが集まったクラスの中にあって、リーダー・シップを発揮するには並みの器量では難しい。それでも、新しいクラスが落ち着く頃には、ジェームズを中心とした人の輪ができあがっていた。押し出しが強いわけでは全くないのに、ジェームズが口を開くと、それまで自分の主張に夢中になっていた者もなぜかおとなしく黙って、素直に彼の言葉に耳を傾け、最後には従った。人身掌握術に長けた政治家やカリスマ的な宗教指導者が支持者や信者に対して発揮する魔力のようなものを、僕はジェームズがクラスをまとめあげる様子を見ながら、ふと思い出していたものだ。
ジェームズが、能力は高くともまだ十代半ばの揺れやすい心を抱えた少年少女達の中にあって一目置かれたのは、おそらく彼がその年齢では考えられないほど全てにおいて超越して見えたからだろう。
少なくとも、彼ほど物に動じず、他人にかき乱されることもなく、いつでも、どんな状況にあっても、自らを確固として保ち続けることの人間は、僕も見たことがなかった。クラスメート達が、そんな彼に素直に尊敬の念を覚え魅せられたのも、ある程度ならば、やむを得なかったと言えるだろう。
ジェームズは、ディベートにおいての進行役もつとめていたが、誰かが自分の意見を無理に通そうとごり押ししても、やんわりとした態度で退け続け、決して折れなかった。一方で人の話をよく聞き、それに理解や共感を示すことも忘れない彼は、どんな反応をすれば人が自分に心を開くのか熟知しているようだった。経験を積んだ優秀なカウンセラーもかくやという程にだ。
「ジェームズといると不思議なことに、他の人には黙っていた悩みでもつい打ち明けてしまうの。彼なら分かってくれると思うのかしら、心を覆っていた殻を外してもいいような気になるのね」
そう語ったのは、当時はまだ情緒不安定でもなんでもなかったハニーだが、僕はその言葉に共感できなかった。
僕は、ジェームズとの最初の出会いで抱いた警戒心を忘れてはいなかった。あれ以来、ジェームズが僕に直接怪しげなことを言ったりしたりしたことはなかったが、彼に対する疑念を払拭するだけの材料もなかった。
何よりも、いつの間にかクラスにいる僕以外の者全てがジェームズを無条件に信頼するようになっていたのが、妙に気持ち悪かったのだ。
実際、僕の目の前で、クラスの様子は回を重ねるごとにどんどんおかしくなっていった。
たとえば、クラスが始まったばかりの頃は、やたらと場を仕切りたがり、討論が高じて他のクラスメートと言い争いになることも多かったやんちゃな生徒もいつの間にかしつけの行き届いた子犬のようにおとなしくなって、ジェームズの言うことに嬉々として従っていたというような具合にだ。彼だけでなく、他の生徒達も似たようなものだった。皆一様にジェームズに心酔し、彼は正しい、とにかく彼の言うことに従えば間違いないのだと思い込んでいた。
クラス全体がジェームズの都合のいいように変わっていったが、誰もそれに気がついていなかった。オブザーバーの教師でさえも、クラスから見る見るうちに活気がなくなっていく現実が分かっておらず、あまつさえ実にまとまりのいいクラスだと皆を誉める始末だ。
未来の指導者になるべく教育を受けている若者達が、自分の意思をなくし、他人に唯々諾々と従っている現状が正しいことか?
もしかしたら、ジェームズは一種のマインドコントロールを皆に仕掛けていたのかもしれないが、こんな短期間で、別に特殊な状況下にあるわけでもなく、知的水準も高い生徒達が、かくも簡単に操られてしまうものか、僕にも確信は持てなかった。
もう1つの疑問は、そもそも他人を自分の思い通りに動かせる精神状態に持っていく、ジェームズの真意は何なのかということだった。
いまやただの馬鹿のようになってしまったクラスメートを案じるほど親切でも彼らに関心があったわけでもない僕は、取りあえずジェームズの好きにさせることにした。薄情なようだが、彼の目的を突き止めることの方が先決だった。
クラスメート達とは距離を置いて付き合っていた僕は、クラスの中ではういていた。おかげで数人の上級生から非協力的だと非難されたり嫌味を言われたりしたが、だからと言って僕に正面から喧嘩を吹っかけるほど度胸のある奴もなく、僕は自由な一匹狼の状況を有効活用させてもらった。時々、ジェームズならば彼らを集団で僕に敵対させることができるのではないかと不安にかられたが、それが現実になることはなかった。彼の力でもそこまで人を操ることできなかったのだろうか。それとも、あえてしなかったのか。
僕がジェームズの術中に引っかからなかったのは、別に僕の力によるのではない。ジェームズが僕にだけは分かるような秘密のメッセージを送ってきたからだ。最初の出会いからして、彼はあえて不審な言動を取り、僕の関心を自分に引き付けた。
そんなジェームズの行動を観察するうちに、僕にもやがて彼のやりたいことが分かってきた。ジェームズは僕を、彼の仕組んだ一種のゲームのようなものに誘っていたのだ。それがどんな類のものなのか確かめたい気持ちもあったが、彼の誘いに乗るなという直感の方が強く働いた。だから、彼が僕の目の前で、自分の手の内をあえて見せるような形でクラスを支配していっても、それを黙認し続けたのだ。
だが、ジェームズの挑発を受け流すのは、時として難しかった。
例えばある日、彼はクラスでこんな提案をした。
「今日のディベートのテーマは死刑制度について。人が人を裁き殺すことが許されるのか、皆で討論しないか」
ジェームズが明るい春の日差しのような眼差しを皆に投げかけながら言うと、彼の坐る椅子の周りを取り囲んでいたクラスメート達は、さながら神の声を聞いたかのように迷わず賛同した。
この頃になると、クラスは僕にとって退屈なばかりではなく、そこで時間を過ごすこと自体が耐え難いものになっていた。皆仲がよく、満足で幸せそうな顔をしていたが、討論自体はさして盛り上がらず、まとめ役のジェームズが導くままに先の見える形ばかりの話し合いをするだけだ。
今にも腐り落ちそうな甘ったるく怠惰な空気がクラス中に蔓延していた。そこに浸っていると自分の感覚まで次第に鈍磨していきそうで、僕をぞっとさせた。
「クリスター、君はどう思う?」
まるでクラスの中で孤立しがちな僕を気遣うかのように、ジェームズが話を振ってきた。すると、皆の視線が一斉に僕に集まった。僕があからさまに反対しようものなら、それを寄ってたかって封じ込めそうな気配だ。
僕がすぐには応えず、担当の教師の方をちらりと見やると、信じられないことに、彼は窓の傍の椅子に坐ってうたた寝をしていた。このクラスの受け持ちになったばかりの頃は、溌剌として仕事熱心な人だったのだが、こちらも見事に変わっていた。
腐ったリンゴは全てを駄目にすると言うが、ジェームズがいたために、このクラスはどうしようもない所まで腐敗した。
瞬間噴出しそうになった感情を抑えかね、僕がジェームズを睨み付けると、彼の深沈とした昏い瞳の表面に仄かな火が揺れた。
「別に構わないよ」
気のない声で応える僕に、やる気のない奴は出て行ってもいいんだぞと誰かが非難がましい声を投げつけた。実際、僕の胸中は煮えくり返っていたのだが。
僕に何をさせたいのか知らないが、一度だけジェームズの誘いに乗ってやろう、こいつと勝負してやろうとその瞬間思った。
ジェームズは、僕らを二組に分けた。テーマは死刑制度の是非について。一方は擁護派に他方は反対派の立場に立って、相手に自分の主張を納得させるべくとことん議論を戦わせる。ジェームズは反対派のグループに僕は擁護派のグループに入った。
そして、僕達は初めて真っ向から対決した。
ジェームズの議論の進め方は、それまでじっくり観察していたので把握できていた。初めから筋書きの決まっている茶番劇に合わせるのが嫌で、あまり積極的に討論に参加したことのなかった僕だが、今度ばかりは彼の思い通りに話を進めさせるものかと本気を出した。
それまでは、僕はどちらかと言うと寡黙なイメージで見られていたのだろう。いきなり人が変わったように積極的に討論に参加し、相手グループの意見に鋭く反論しはじめる僕に、クラスメートは呆気に取られたようだが、僕は頓着しなかった。ジェームズに牙を抜かれて飼いならされた連中など、仲間としても初めから当てにしていなかったし、また敵に値するとも思わなかった。
僕の攻略すべき敵はただ1人、ジェームズだけだったのだ。
ジェームズと僕を中心に、議論は白熱した。生半可な攻撃では論破できないような主張を組み立てて激しく論戦を演じる僕らに触発されたのか、他の連中もなかなか熱心に主張を始め、だらしなくも眠り込んでいた教師は何事かと目を覚ました。
たっぷり40分間あったクラスの間、僕はほとんどジェームズしか見ていなかった。神経を集中させて彼の言葉を聞き、その理論を素早く読み解いてはすぐに反論にかかる。そうしながら相手の次の一手を予想し、頭の中で更に次の戦術を立てる。その繰り返しだ。ジェームズも僕の思考を読んで先手を打とうとしているのが分かるだけに、一層緊張感があった。
何だか、僕が中学時代に熱中したチェスの大会での張り詰めた空気を髣髴とさせるものがあった。フルスピードで思考する頭の中は沸騰し、全ての感覚が切れそうなほど鋭く研ぎ澄まされていく。
いつの間にか、僕とジェームズの討論は、初めに与えられた死刑制度の是非というテーマからは次第に外れ、人が人を殺す行為そのものの是非にとすり替わっていった。自然と横道に反れていったかのようだが、僕にはジェームズが自分のやりたいテーマへと僕を誘導していったのが分かった。それでも、僕は流れにあえて逆らおうとはしなかった。この際、ジェームズの真意を突き止めるいい機会だと思ったのだ。
宗教的なタブーの話から果てはハンムラビ法典の時代の法体制まで飛んでしまった僕達2人の議論に入れるものはそのうちいなくなり、皆、僕らを遠巻きにして不安そうに決着が着くのを見守っていた。
だが、僕にとって、もはや討論の決着などさして重要ではなくなっていた。与えられた時間内では、到底僕とジェームズの論戦は終わりそうもなかったのだ。ならば討論の最中に相手がぽろりと漏らした本音が聞かれればいい。
感情的になった人間は本性をさらけ出しやすい。ジェームズにもそれを期待したのだが、その点について、僕の当ては外れた。
僕は、ジェームズの気持ちを揺さぶろうと相当プレッシャーをかけたつもりだったのだが、彼は、これが自己抑制の賜物だとしたら感心するしかないほどの穏やかな態度を終始保ち続け、感情の揺れなどほとんど示さなかったのだ。
僕が口先だけでいかにジェームズを挑発し追い詰めようとしても、彼の心の深淵には届かないと悟った時、どうやら、この勝負に負けたのは僕の方だという苦い事実を飲み込むしかなくなった。
やがて、ジェームズとの果てしのない議論は、クラスの終了のベルと共に打ち切られたが、僕はそれで救われたような気がした。
ジェームズの誘いになど乗るのではなかった。用心していたのに、ついつい相手の思惑通りに動いてしまったと腹立たしい思いでクラスルームを出た僕の後を、そのジェームズが追いかけてきた。
「ありがとう、クリスター」
ジェームズは素早く僕に追いついて、廊下を歩いていく他の生徒の邪魔にならないよう僕を壁の方に引っ張っていくと、はにかむような笑顔で礼など言った。
「何が?」
気持ちを抑えようとしても、僕の口から出る声は尖った。
「その…すごく面白かったんだ、君と2人で討論していて…何と言うか、君は本当にすごかった。ぼんやりとしていると負けるなとさすがの僕も緊張したくらいさ。それに、僕を本気で打ち負かしてやろうとする君の強い感情がビリビリと胸にリアルに伝わってきて…人と会話するのをこんなに心地いいと思ったのは、初めてだったよ。他の子達には悪いけれど、正直言って、彼らと話すのは物足りなくて退屈だったから」
誰のせいだと思っているんだとジェームズの言いぐさに半ば呆れ半ば怒りを覚えた僕は、まだ何か言いたげな彼を振り切って、その場を立ち去ろうとした。
「待ってくれ、クリスター」
僕の腕をジェームズが掴んだ。逃がすまいというように力のこもった指が食い込んで、僕は痛さに顔をしかめた。
「ね、せっかくだから、さっきの話の続きをもう少ししないか? カフェテリアに行こうよ、何かおごるから」
「どうして、僕がそこまで君に付き合わなきゃならないんだ!」
さすがにかっとなった僕はジェームズの手を振りほどきざま怒鳴りつけた。
「君だって、僕に負けっぱなしじゃ、気持ちがおさまらないだろう?」
罪のない笑顔で言われた途端、僕の胸でくすぶっていた火が燃え上がった。
「あんな討論くらいで、勝つも負けるもないだろう。僕も君も別に本当の死刑反対派でも擁護派でもない、ただその立場を演じて、もっともらしい主張を戦わせていただけだ。人を殺していい論理、殺してはならない論理、そんなもの、三十分も時間があれば、それぞれ十通りでも二十通りでも考え出してやる。そんな…たかがゲームに何の重要性があると言うんだ」
「僕が気遣うのは、僕に負けたと思い込んで傷ついた君のプライドだよ」
僕の顔色が変わったのを見て、ジェームズは少し困ったような顔をしたが、そのあらゆる光を飲み込む深淵めいた瞳には、やはり何の感情も浮かんでいなかった。
それを間近で覗き込んだ瞬間、熱くなった僕の頭の芯が一気に冷えた。冷静になれ。これ以上挑発に乗ってはならない。
「クリスター、そんなに嫌なら別にさっきの討論の続きをなんて言わないけど、取りあえず、場所を変えないか。ここで、これ以上険悪な会話を続けたら、僕達が喧嘩をしていると思われそうだよ」
僕が大声を上げジェームズを睨みつけている様は確かに目立ったのだろう、通り過ぎる生徒達がちらちらと不審そうな視線を向けてくるのに、僕は仕方なく、ジェームズの提案に従った。
僕とジェームズは校舎を出ると、カフェテリアの方へ、中庭を通って歩き始めた。ジェームズの知り合いらしい学生達が擦れ違いざま声をかけてくるのへ、彼はにこやかに応えていた。その様子だけを眺めていると、この人当たりのいい少年が、どうして僕達のクラスをあんなふうに悪辣に弄ぶのか、疑問に思わずにはいられなかった。
「どうしてなんだ?」
僕が押し殺した声で尋ねると、ジェームズは不思議そうに振り返った。
「なぜ、あんな悪趣味なまねをするんだ? 君が皆の心を支配してふぬけのようにしてしまったおかげでまともな話し合いにもなりやしない、退屈極まりないクラスになってしまった。一体、何が面白いのか、僕には理解できないよ」
こんな直截的な追求をしても、どうせ軽くかわされてしまうだけだろうと思ったが、ジェームズは意外な反応をした。
「理解できないだって?」
いきなり僕の前に回りこんでじっと顔を覗き込んでくるジェームズに、僕は思わず息を止めた。
「君に分からないはずはないと思うけれどね、クリスター、とぼけるのはよせよ。君は、僕がちょっと誘導しただけで、あっさり自分で考えることを放棄して羊のようにおとなしく飼いならされてしまった、あの馬鹿達とは違うだろう?」
温和な表情はそのままに、とてもクラスの皆には聞かせられないような蔑みのこもった口調で言う彼を、僕は呆気に取られて見返した。
「君は僕を警戒して、一度もちゃんと話をさせてくれなかったけれど、口に出さなくとも僕の意図は君には伝わるようヒントはあげてきたじゃないか」
僕は悪寒に身震いしそうなりながら威嚇するようにジェームズを睨み付けたが、やがて、躊躇いがちに口を開いた。
「君は、あのクラスを使って、一種のゲームに僕を誘っていた…クラスの人間を駒に見立てた、チェスのような戦術的頭脳戦が楽しめるゲームだ…あっという間に彼らを自分の都合のいいように動かせる手駒にしてしまう君を見て、孤立させられた上に全員から攻撃されるのはまずいかなと僕が不安を覚えたのは確かだよ。だけど、君のやり方に倣って、彼らのうちの何人かを僕の味方につけて、それでクラスを二分してしまったら、君の思う壺だと危惧した。僕は君の誘いに乗って、他の人間を巻き込むような…そんな悪趣味なゲームなどしたくない。大体、現実において人を思い通りに操るゲームなんか成立するものか。君が思い描いているのは、やみくもに秩序を混乱させるだけの破壊行為にすぎないんだ」
ジェームズの行動からある程度立てていた推測を僕が述べると、彼は感心したような顔で頷いて、小さく拍手をした。
「ほら、やっぱり分かっていたじゃないか。クリスター、君が僕の見込んだ通りの人間でいてくれて嬉しいよ。でも、まだ君は嘘をついているね」
「嘘?」
「ゲーム理論を現実にそのまま当てはめることができないのは、人間が必ずしも常に自らの利益のために合理的に動くとは限らないからだよね。だから、常に人間の心理を分析しながら動くことが重要な訳で…その辺り、チェスのもと全米チャンピオンの君なら、よく分かってるんじゃないのかな?」
どうやら冗談ではなく本気でジェームズが人間を使ったゲームをしたがっているのだと知って、今更ながら僕は愕然となっていた。
「チェスの場合は対戦相手の癖や心理を分析しながら、次の一手を考えていくわけだけれど…もしもゲームの駒自体が一つ一つ意思や心を持っていて、その心理も分析しながらゲームを進めなければならないとしたら、ボードゲームとは比べ物にならないほど、より高度で複雑なゲームができそうじゃないか。といっても、まだイメージだけで、僕にも、どんなルールにしようとか具体的には決まってないんだけれど。だってね、一人遊びならこれまでもしてきたけれど、僕と互角に対戦できそうなプレイヤーを見つけたのは、初めてだから」
「とても正気だとは思えない」
僕はうめくように呟いていた。そうか、ジェームズは、一人遊びならば、これまでもしてきた―おそらく、それは、彼が、いかにして他人の行動を支配し操れるか、時間をかけて研究し、実践してきたということなのだろう。複雑な人の心を思い通りにできるとは到底信じられないが、ジェームズはそれに近いことを僕らのクラスで証明してみせた。僕の関心を引くためだけに。
「ねえ、君だって、本当は興味があるだろう? そんないい子の顔をしていないで、正直になれよ。それに人間を駒として使ったゲームが現実に存在しない訳じゃない、戦争なんか、その典型だよね。だから、それをネタにしたゲームが数多く作られているわけで―」
強烈な嫌悪と反発に肌が粟立つのを覚え、ジェームズから少しでも離れたいとばかりに僕は後ずさりした。
「ジェームズ、君が何をしたいのか、僕には理解できないし、分かろうとも思わない。クラスをかき回したいなら、勝手にすればいい。僕には関係のないことだ」
「まだ、そんなたてまえを言うんだ。自分に正直に生きないと疲れるだけだよ、クリスター。それとも、本当に…気づいていないのかな?」
ジェームズは唇に浮かべた柔らかな笑みはそのままに、僕に当てられた目をすっと細めた。そうすると、優しい顔立ちが、何やら飽食した悪魔めいた禍々しい印象に変じた。
「さっき、僕と論戦を繰り広げながら、僕の心理を読んで、弱みを掴んでやろう、僕を打ち負かしてやろうとしていた君は、とても楽しそうだったよ。あの時君が僕に向けてきた目―君が自分で見られなかったことが残念だね。あれは、獲物を狙う獣の目だった。闘争本能に燃え上がって、そのくせひどく冷酷で容赦のない。僕の考えたゲームは、きっと君の気に入るはずさ。チェスやフットボールよりずっとはまることをうけあうよ。だって、僕達の思考形態はとてもよく似ているんだからね。騙されたと思って、僕の誘いに乗れば、君にも僕の言うことが正しかったと分かるだろう。退屈そうに自分が出られなかった試合を観戦していた君は本当に可哀想だった…だが、僕の手を取れば、つまらない日常はたちまち生き生きと、充実したたものに変わるだろう。君にとって、悪い話じゃないはずだ」
それは違う。僕は反論しようとして、黙り込んだ。
僕が高校生活に満足していなかったことは確かだ。本当に欲しいものを諦めるために、少しでも興味の持てそうなものには手当たり次第に挑戦して、結局長続きしないでやめてしまう。人間関係でも似たようなものだった。思春期の只中だったのだろう、生きる理由が分からないと自分の殻に閉じこもったまま思いつめ、それを紛らわせるための刺激を求めていた。
だが、その空虚を、ジェームズが提供しようというような刺激で満たそうとは思わない。僕は、そこまで人間失格者ではない。
「僕は、君とは違う」
僕は用心深く目を細め、ジェームズの一見温和で人好きのする笑顔の裏に隠されたもう一つの貌を睨み付けた。
「ただの退屈しのぎのために、他人を操ったり弄んだりしない」
ジェームズは白々とした目で僕を見返した。
「何だ、残念だな。君とは気があいそうな気がしたんだけれど…」
悲しそうに顔をしかめるジェームズは悪意の欠片もなさげに見えたが、それだけに一層怪物じみて思われ、続いてその唇から出た言葉は僕をぞっとさせた。
「それなら、君がその気になるような、別の手を考えてみるよ。近いうちに、また改めて君を誘いにくるから、楽しみにしておいてくれ」
「何を考え付こうと、僕は君の誘いには乗らない。君の相手など絶対にごめんだ」
いらいらと吐き捨てると、これ以上ジェームズと話していることが耐えがたくなった僕は、くるりと踵を返して歩き出した。
足早にその場を離れながら、僕は、じっと僕を見送っているらしいジェームズが微苦笑めいた吐息と共にこんなことを呟くのを聞いた。
「強情なクリスター、君を本当の本気にさせるには、さて、どうすればいいんだろうね」
瞬間、思わず足を止めて振り返りたくなったほど、僕はその言葉に胸騒ぎを覚えた。
僕を、本気にさせる?
そう、この頃の僕には、まだジェームズと本気で相争う気はなかった。そして、彼の方も、すぐに僕に何かしかけようという気配は見せなかった。
クラスメートとしての当たり障りのない付き合いをそれからも続けたし、もう少し踏み込んだ話をすることも時にはあった。はたから見れば、僕とジェームズは仲良く付き合っているようにさえ見えたかもしれない。
そんな関わり方を変えることになったのは、ディベートのクラスが終了してずっと後―ジェームズと会う機会も少なくなり、もしかしたら彼は僕のことを忘れてくれたのではないかと安心し始めた矢先だった。
僕の代わりに、レイフがジェームズの仕掛けた罠に落ちたのだ。
僕を振り向かせるにはどうすればいいのか、ジェームズは的確に捉えていたわけだ。実際、僕を本気にさせるのに、これ以上の手段はなかっただろう。
レイフには、本当にすまないことをしたと思う。僕のせいで、あんな危険な奴に目をつけられることになってしまった。レイフはその辺りを誤解して、自分が悪いのだと、逆に僕に対して負い目を感じているようだが、事実は違う。明るい光の中で生きるのがふさわしい、無邪気でまっすぐなレイフだけならば、ジェームズの気を引くことはなかったはずだ。認めたくないことだが、僕の中で抑圧され封じ込められた何かぞっとするようなもの―ジェームズに似た資質が彼の興味をかき立てたのだろう。
この頃までに、僕に向かって宣言したとおり、ジェームズは時間をかけてゲームの体裁を整えていた。校内の不良分子を集めて凶悪化させ、ディベートのクラスメート達よりもずっと攻撃力のある手駒とした。本格的にその力を発揮しはじめた彼は、瞬く間に生徒も教師も取り込んで、学校全体を自分の影響下に置くことにほぼ成功した。J・Bという通称で囁かれる見えない恐怖が、あらゆる場所を席巻していた。ディベートのクラスで彼が僕に見せたのは、ほんの小手調べ、あくまでゲームの実験でしかなかった。学校という世間からは隔離された閉鎖社会が、彼が選んだゲームの舞台だ。後は、用意されたそのゲームボードの前に僕が坐ればいいわけだ。
こうまでされてしまっては、僕も黙って見ているわけにはいかなかった。何よりもレイフを奪還するために、僕は反撃を開始した。
ジェームズを最初に惹きつけたのは僕だった。だから、僕には、あの怪物を始末する責任と義務があった。
怒りを通り越した後にくる、氷が張り詰めたような冷静さで、僕は静かに決意していた。僕が持てるあらゆる知略を尽くして、ジェームズ・ブラックを追い詰め、その存在を僕とレイフの前から永遠に抹消してやると―。