ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第4章 黒い羊
SCENE11
「君達のお母さんは、大丈夫だよ。目立った外傷はないし、精神的にも落ち着いている。明日の朝もう一度検査をして、異常がなければ、そのまま家に帰れるだろう。相当ショックな出来事だったろうに取り乱しもせず…気丈な人だね」
病院に駆けつけた双子は、担当の医師からヘレナの無事を聞かされ、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、続いて彼の口から出た哀しい知らせには、思わず言葉をなくした。
「ただ、残念なことに…おなかの子供は助けられなかったんだ。我々も手を尽くしてみたんだが―彼女を襲った犯人と揉み合っているうちに階段から落ちたと聞いているよ。その時に腹部をひどく圧迫してしまったようだね」
ヘレナは流産していたのだ。
しばし2人とも呆然となった。
だが、ともかく母の様子を見に行かなくてはと、クリスターはぼんやりしているレイフを急かして、ヘレナの病室に向かった。
すると、病室の前では、先程家に電話をしてくれたラースの部下が、他のもう1人の社員と一緒に彼らを待ち構えていた。
「クリスター君、こんなことになってしまって何と言ったらいいのか―」
沈痛な面持ちをする社員達に、クリスターはなるべく動転した様子を見せないよう感情をコントロールしながら接した。
「いいえ、ともかく母の命が助かっただけでもよかったです。それより、一体何がオフィスで起こったのか、詳しく説明してもらえますか?」
感情が激するほどそれを内に閉じ込めるため表面上はいつもより冷静になる、クリスターのことをよく知らない社員達は、あまりにも落ち着いた彼の態度に少し鼻白んだようだ。
だが、クリスターの後ろで途方に暮れたように立ち尽くしている弟を見て、さすがに兄はしっかりしているとでも納得したのか、彼らは、クリスターとレイフにオフィスで何が起こったのか教えてくれた。
家で受け取った電話では、クリスターは、ヘレナが激昂したヴァンに暴力を振るわれて怪我をしたとだけ聞かされたが、実際はもっとひどい話だった。
ヘレナはヴァンに性的暴行を受けそうになったらしい。
本当ならば、その時間には、ラースや他の社員達もイベントの警備の仕事を終えてオフィスに戻っているはずだった。しかし、帰路の途中で彼らが乗る大型のバンが故障して立ち往生してしまい、そのためオフィスに着くのが遅れたのだ。
結果として、ヘレナは2人きりで情緒不安定なヴァンと話し合う状況になってしまった。
独身男のヴァンがもともとへレナに崇拝に近い好意を抱いていることは皆に知られていた。だが、それは手に入らない高嶺の花に対する憧れで、実際これまで、ヴァンが夫も子供もいるヘレナにアプローチをかけるようなことはなかった。その彼が普段の紳士的な態度から豹変してヘレナを襲おうとした。
初めからそのつもりでいたわけではないだろう。おそらく、その場の勢いと、たまたま制止する者がいない場所で彼女と2人きりになったという状況が災いしたのか。
気丈なヘレナは果敢にも抵抗した。並みの女性よりよほど力も度胸もある彼女は反撃し、男が怯んだ隙に逃げ出すことに成功した。
だが、オフィスの外に逃げようとする彼女を執拗にヴァンは追いかけ、もみ合ううちに階段から2人とも落ちてしまう。
ラースや他の社員達が戻ってきたのは、丁度そんな修羅場の只中だった。
「それで―父さんはどうしたんです? なぜ今、ここにいないんですか?」
病院に着いた時から気になっていたことをクリスターが尋ねると、ラースの部下はちょっと言いにくそうな顔をした。
「実は、ラースさんは―オフィスで何が起こったのか知ると激怒して、逃げようとするヴァンを捕まえ手ひどく打ちのめしたんだ。まあ、ラースさんがそうするのは当然だが、それにしても、ちょっとやりすぎたんだな。このままではヴァンを殴り殺してしまうと慌てて俺達がとめに入っても分からないくらい彼はひどく興奮して、とにかく大変だったんだ。そのうち…たぶん、オフィスの近くのレストランやバーの連中が通報したんだろう、警察がやってきた―激昂したラースさんを見て、危険だと彼らは判断したようだ。それに、まあ、ヴァンを半殺しの目に合わせたのは事実だ。しばらくもめた後、結局ラースさんは警察署に連行されてしまったんだ」
「そうですか、父がそんなことを―皆さんに大変な迷惑をかけてしまって、すみませんでした」
クリスターが殊勝な顔つきで謝ると、人のいい社の連中は気にするなと言って慰めたり、励ましたりしてくれた。
だが、クリスターの心中は、よりにもよってこんな非常時に警察に連行されるなどというへまをした、ふがいない父に対する怒りでいっぱいだった。
「だが、安心するといい、クリスター君。さっき、ラースさんに付き添って警察署に行っている仲間から電話があったんだが、ラースさんは留置されずにすむそうだ。それで、ここが落ち着いたら、君らにラースさんを迎えに来て欲しいと言っていたよ」
電話をくれた社員とは別の男がそう付け加えた。
「分かりました。保釈金のようなものは必要ないですね?」
「君が彼の息子だと照明するIDさえあればいいだろう。大体ラースさんは犯罪のむしろ被害者なんだ。恥ずかしがらず、堂々と迎えに行ってやりなさい」
「…そうですね」
社員達は、そうしてクリスターとレイフに後のことを託すと、心配そうにしながらも帰っていった。
そうして、双子兄弟だけが母の病室の前に残された。
「レイフ」
クリスターが向き直って声をかけると、レイフは小さく身を震わせて不安そうに兄を見返した。一緒に病室に入ろうと誘うつもりだったのだが、弟が子供のように恐がっているのを見てとると、クリスターは気を変えた。
「僕がちょっと母さんの様子を見てくるよ。もしかしたら薬が効いて眠っているかもしれないけれど、無事な姿を確かめないことには安心できないだろ。おまえはいいから、ここで待っておいで」
何も心配することはないのだと落ち着いた態度でレイフに頷きかけると、クリスターは母のいる病室のドアをそっと開いた。
「母さん?」
柔らかな照明に照らされた部屋の中、ヘレナは静かにベッドに横になっていた。
病室は2人部屋だったが、もう1つのベッドは空だったので、クリスターは少しほっとする。
「大丈夫かい? その…どこか痛んだり、苦しかったりはしないかい…?」
流産したばかりの母に何と声をかけたらいいのか、さすがのクリスターも分からず、躊躇いがちに発せられた言葉はぎこちなかった。
「子供のことはとても残念だったね。でも、こうなったのは母さんのせいじゃないんだから…自分を責めるようなことはしないで、早く元気になってほしい。母さんはまだ若いし、子供だって、きっとまた授かると思うよ」
ヘレナはクリスターの言葉など聞いていないかのように、じっと天井を見つめている。
クリスターは沈黙に耐えられなくなってまた何か言おうとしたが、どうせ自分ではろくな慰めも母にあげられないような気がして、出掛かった言葉を飲み下した。
重苦しい静寂がしばし病室に流れたが、それにクリスターが我慢できなくなる前に、ふいにヘレナが口を開いた。
「クリスター」
母が反応を返してくれたことに、クリスターはひとまずほっとした。
「何だい、母さん?」
ゆっくりとベッドに近づいてくるクリスターをヘレナは振り返ろうとはせず、深い物思いに捕らわれたまま、抑揚のない声で言った。
「今まであなたにもレイフにも話したことはなかったけれど、あなた達を妊娠中にも、私は一度流産しかかったのよ」
突然こんな話を始めるヘレナの意図がつかめず、クリスターは当惑した。
「臨月に差し掛かって、私はしばらく実家の両親を訪ねていたの。ある日、兄と…ビョルンと一緒に昔の友人達と食事をして…その帰りのことだったわ。レストランを出て近くに止めていた車に戻った時、強盗に襲われたのよ」
「えっ?」
「金目当てだろうと現金は渡したのに、ビョルンは殴打されて、気を失ってしまった。ひどく落ち着きのないその男の様子を見て、薬物を使用していると分かったわ。私に向ける視線も普通じゃなくて…自分達がとても危険な状態にいることに否応なく気づかされた。そんな時、ビョルンが車の中に護身用の銃を備えていたことを思い出したの。それで、覚悟を決めた私はおとなしくするふりをして、隙をついて取り出した銃を強盗に向けたわ。男は、私が女で、しかも妊娠していたことで油断していたんでしょう。まさか私が本当に撃つとは思っていなかったのかもしれない。でも、私はお腹の子供達を守るためなら、人1人殺しても構わないとその時本気で思っていた。だから、男が襲い掛かってきた時、私は迷わずその額を狙って至近距離から発砲した。でもね、よりにもよってそんな切迫した場面で、あなた達のどちらかが私のお腹を蹴ったのよ。それに驚いた私は狙いを外してしまい、強盗の片目を打ち抜いただけだった。きっと、あんなことをするのはレイフじゃなかったと今になって思うのだけれど…あなたなら、たぶん私のすることを邪魔したりしないで、息を殺して見守っていたでしょう。その後は、銃声を聞いた、付近をパトロール中の警官が駆けつけて、私達は保護され、重傷を負った犯人は逮捕された。そうして、そのショックで産気づいた私は病院に運ばれて、予定日よりも半月ほど早くあなた達を産んだのよ」
「そんな話…今初めて聞いたよ。父さんもビョルン叔父さんも、何も話してくれなかったじゃないか」
クリスターは呆然となりながら、呟いた。
「別に秘密にしていたわけじゃないけれど、この話はラースを不愉快にさせるから、何となく黙っていた方がいいような気がしていたのよ」
ヘレナは苦笑とも取れる溜息をついた。
「あなた達を守り抜いたように、あの子のことも守ってあげたかったのに…できなかったわ」
ヘレナは静かに目を閉じて、こみ上げてくる悲しみを堪えるかのように震える唇を噛み締めた。
息子の手前もあるのだろう、何とか平常心を保とうと苦心している母親を見つめながら、クリスターは言いようのない胸苦しさを覚えていた。
母と自分は気質がよく似ているということは自覚していた。2人とも、辛い時や苦しい時こそ強くなろうとつい自分に無理を強いてしまう。よく理解できるからこそ、そんな彼女の姿がとても痛々しかった。
「母さん」
クリスターは、ヘレナの神経に触らぬよう、ごく低い声で囁きかけた。
「こんな時まで強い女や母親でいることはないんだよ」
ヘレナはクリスターの言葉を噛み締めるかのごとく、しばしの間じっと押し黙った。
「…そうね」
深く息を吸い込むと、ヘレナは息子の方に顔を傾けて、微かに震える声で訴えた。
「お願いよ、クリスター…ラースを呼んできてちょうだい」
いつも毅然として揺るぎない母が垣間見せた弱さに胸を突かれ、クリスターは一瞬立ち尽くしたが、すぐに自分が今なすべきことを思い出した。
「分かったよ。急いで父さんを連れてくるから、少しの間待っていて」
クリスターが病室を出ると、ドアのすぐ前にレイフが待っていた。
「ク、クリスター」
レイフはまだ最初に受けた衝撃が抜けていないのか、何か言おうと口を開きかけたものの、混乱のあまり言葉がうまく出てこないようだ。
「心配するなよ。母さんは大丈夫だから」
クリスターが励ますよう肩を叩くとレイフは唇を震わせた。
「オ、オレ、まさかこんなことになるなんて…夢にも思ってなかった」
くしゃっと顔を歪めたかと思うとレイフはまた黙り込んでしまう。
「おまえが動揺してどうするんだ、レイフ。辛い目に合ったのは母さんの方なんだよ。ほら、いい加減しゃんとして―僕は今から警察まで父さんを迎えに行くから、その間おまえはここに残って母さんを見ていてくれ」
「兄さん…」
レイフはクリスターの顔をじっと見返して、何か言いたげな、もどかしげな表情をした。
この時のクリスターは気持ちが急いていたこともあって、レイフが何を訴えたがっているのか深く考えてやることはできなかった。ともかく、母のためにラースをここに連れてくることが先決だったのだ。
「すぐ戻るよ」
優しいながらも有無を言わさぬ口調で言い聞かせ、引きとめようとするのかのように自分の腕にかかったレイフの手を素早く振り払うと、クリスターは踵を返してエレベーターの方へ向かった。
先程の社員から教えられた警察署は、ラースのオフィスから程近い場所にあって、クリスターも傍を通りかかったことなら何度もあった。
警官なら知り合いがいないこともないが、連行された身内を引き取るために警察署を訪れるのは生まれて初めてだ。
ヴァンを叩きのめしたくなった父の気持ちは分からないでもないが、やはりどうしようもない情けなさがこみ上げてくるのを覚えながら、クリスターはその赤煉瓦の建物の中に入った。
(全く、父さんはかっとなると後先のことを考えずに暴走してしまうんだからな。その尻拭いを子供の僕がするというのも、すっきりしないよ)
明るい色調のプラスチックの椅子が並ぶロビーを通り、事務を取っていた警官に尋ねた後、クリスターはエレベーターに乗り込んだ。
指示された3階で下りると、週末の夜だからか、それともいつもこうなのか、見渡す限り、フロアは制服を着た警官や酔っ払いや苦情をがなりたてている者や怪我人達で騒然としていた。
くたびれた顔で長椅子に坐っている中年の男の前を通り過ぎ、クリスターが廊下の奥に進んでいくと、向こうから見覚えのあるラースの社員がほっとした顔でやってきた。
「ああ、クリスター君…全くとんだ災難だったね」
「すみませんでした。父がこんな面倒をかけてしまって―」
「水臭いことを言うものじゃないよ。ラースさんにはいつも世話になっているからな。それにしても、まさかヴァンがヘレナさんにあんなひどいことをするとは―」
言いかけて、朴訥そうな男は顔を曇らせた。
「さっき病院に電話をして、俺達もヘレナさんの流産のことを知ったんだ。ラースさんはひどくがっかりしているよ。あんなに子供が生まれるのを楽しみにしていたのに―畜生、ヴァンの奴め、こんなことなら俺達もラースさんをとめたりせず、一緒になってあいつを袋叩きにしてやればよかった」
怒り心頭のラースに殴打されたヴァンは処置を受けた後逮捕され、既に留置所に入れられたという。婦女暴行未遂で近いうちに起訴されるだろう。
ラースも初めはヴァンに対する暴力行為で逮捕されそうになったが、社員達が事情を説明した所、犯罪には当たらないと担当の警部が言ってくれたらしい。
「なら、このまま父さんを母さんのところに連れて行ってもいいんですね」
「ああ。向こうにある受付で手続きをしておいで。俺達はラースさんに知らせてくるよ」
社員が言ったように、後は何も面倒なことはなく、クリスターがラースの身内だというIDを係官に見せ、引取りの書類にサインをしただけでよかった。
その後、クリスターが担当警部の部屋までラースを迎えに行くと、彼は先程の社員に肩を叩かれ励まされながら、迷子のようにしょんぼりとうなだれてソファに坐っていた。おそらくヘレナの流産の知らせを受けてからずっと、こうなのだろう。
デスクには担当らしい赤ら顔のがっしりした警部が坐っていて、クリスターが入ってくると、気の毒そうな顔を向けてきた。
「父さん」
母を守れなかった父に対する怒りと失望を、ここに来るまでクリスターは熾火のようにくすぶらせていた。しかし、ラースの打ちひしがれた姿を見た途端、それらは嘘のようにクリスターの胸から引いていった。
「…大変だったね」
ラースは赤くなった目をしばしばさせながらクリスターを見上げた。
「クリスターか…おまえにまで色々心配かけてすまなかったな。母さんが無事だったことはとにかくよかったが―」
口元を震わせて黙りこんでしまうラースに、居たたまれなくなったクリスターは、途切れた彼の言葉を引き継ぐようにして、言った。
「そうだよ、父さん、とにかく母さんは大丈夫だったんだ。さあ、早く病院に行こう。母さんが父さんに会いたいって、呼んでいるんだ」
「おお…」
それを聞いて、ラースは堪えきれなくなったかのように手で顔を覆い、低くむせび泣きだした。
「ほら、泣いている場合じゃないだろ、しっかりしてくれ。父さんは母さんを支えて慰めてあげるべき人なんだよ」
クリスターが促すのにラースは声にはならずただ頷くのみで、よろよろと立ち上がる。その肩をなだめるように抱きながら、同情のこもった目で自分達を見守っている担当警部にクリスターは軽く会釈をした。
「ねえ、父さん」
ラースとその部下と共に警部の部屋を出た時、クリスターは頭の片隅にずっと引っかかっていた懸念について、思い切って父に確認してみた。傷ついているヘレナからは、どうしても聞き出せなかったことだ。
「少し前に、オフィスに新しくインターンとして入ってきた僕と同年代の男の子がいるって話していたよね。僕に雰囲気が似ているって言ってた…そのインターンの風貌を教えてくれないかな?」
ラースは半ば放心したような顔をクリスターに向ける。どうしてこんな時にそんな他愛のないことを聞くのだろうと不思議がっているようだ。
「それはジェイコブのことかな」
ラースの部下が代わりに答えた。
「風貌っていうと…金髪で目は黒…いや、濃い藍色かな? 育ちがよくて頭が切れるって所は確かにクリスター君に似ていると言えば似ているが…彼がどうかしたのかい?」
「いえ、実はちょっと確かめたいことがあって―」
クリスターが言葉を濁すと、部下は怪訝そうに首を傾げ、それから辺りをきょろきょろと見渡した。
「何だかよく分からないが、それなら直接彼に会ってみればいい。ジェイコブもラースさんに付き添って一緒にここまで来たんだ。おかしいな、君が現れる直前まで、その辺りにいたはずなんだが―」
何気なく発せられた男の一言に、クリスターは殴られたようなショックを受け、立ち止まった。
「何だって?」
たちまち険しい顔つきになるクリスターに気圧されたのか、ラースも彼の部下もとっさに声を失った。
「あ」
その時、ラースが何かを見つけたようにクリスターの背後に視線を動かした。
何者かにじっと後ろから見られていることを感じたクリスターは、その場に立ち尽くしたまま、深く息を吸い込んだ。
(ああ、この感じ…僕の背中にじっと注がれている、この視線には確かに覚えがある)
氷のように冷たく突き刺さるわけでも、火のように激しく焼き尽くそうというわけでもない、ひたすら飽きもせず執拗に向けられる、この絡みつくような眼差しは忘れようにも忘れられない。
肌が粟立つ。息が詰まる。心臓の鼓動が急激に激しくなる。
クリスターは肩越しに後ろを振り返った。
先程同じように人々が蠢きあう雑然とした光景の中、滑らかに動く1つの人影にクリスターの視線は吸い寄せられた。
(やはり、おまえか…おまえなのか―?)
丁度ドアが開いたエレベーターの中に素早く滑り込むと、こちらを振り向いて、彼は微笑んだ。他の人間達などまるで存在しないかのように、クリスターのみをまっすぐに見つめながら―。
天から降ってきたかのようなその無邪気な笑顔を見た途端、クリスターは目の奥で何かがスパークしたような気がした。
転瞬、クリスターはエレベーターに向かって凄まじい勢いで突進した。
行く手を遮る人々の間を鮮やかに駆け抜け、ぶつかりそうになった相手を押しのけ、エレベーターの前にあった長椅子を飛び越えるようにして、今まさに閉まろうとするドアにクリスターは迫った。
ドアの隙間にあの非の打ち所のない微笑が見える。
しかし、後少しでクリスターの手が届くという所で、無情にもドアは閉ざされてしまった。
クリスターはエレベーターのドアに固めた拳を打ちつけ、言葉にならぬ咆哮をあげた。
(ジェームズ!)
一気に沸点にまで達した憎悪と怒りに頭ががんがんと痛むのを覚えながら、クリスターは冷たい鉄のドアに額を押し付け、しばし喘いだ。
「落ち着け」
彼が嘲笑う声を遠くに聞いたような気がする。
クリスターは肩で息を整えつつドアから身を離し、しんと静まり返って自分を遠巻きにしている人々を見渡した。
近くにいた者達はクリスターが顔を向けると怯えたように身を引き、あるいは慌てて視線を逸らせた。警官達は緊張した面持ちで様子を窺っている。
クリスターの突然の激昂は見知らぬ人達を恐怖させたようだ。
やがて、ラース達と一緒に様子を見に来たのだろう、先程の赤ら顔の警部がやってきて、クリスターの怒らせた肩をなだめるように叩いた。
「何があったか知らんが、親父さんに続いて、おまえさんまでが騒ぎを起こしちゃならんな、坊や。そんなに余分なエネルギーが溜まっているのなら、いっそ警官にでもなるか? 新規採用はいつでもしとるし、おまえさんのようなタフで鍛えがいのありそうな新人は大歓迎だぞ」
やんわりとたしなめられて、クリスターは恥ずかしくなって俯いた。
「すみませんでした」
クリスターが素直に詫びると周囲の人々も何事もなかったかのように彼らから注意をそらし、それぞれの関心事に戻っていった。
「一体どうしたんだ、クリスター君」
ラースの部下が心配そうに尋ねるのに、クリスターは、いえ、ちょっとと言葉を濁し、後ろのエレベーターをちらりと見やった。
(今ここで奴を追いかけ捕まえてもさして意味はない。それよりも優先すべきことが他にある)
瞼の裏に焼きついたあの顔を思い出すとまた激情が噴出しそうになったが、クリスターは、今度はそれをうまく制御することに成功した。
「驚かせてごめんよ、父さん…さあ、母さんのもとへ急ごう」
こうしてやっと、クリスターはラースを連れて、再びヘレナの待つ病院に戻った。
今夜は何とたくさんの事件が一気に起こったことだろう―ラースがヘレナの病室に入るのを見送り、これでやっとなすべきことを終えたとひとまず肩の荷を降ろした途端、クリスターは急にひどい疲れを覚えた。
(母さんのことは父さんに任せておけば大丈夫だ。どのみち今は僕の出る幕などない)
先程病室のドアの向こうに垣間見えた両親の姿―一時はすっかり意気消沈して見えたラースがいざヘレナに接するとなると愛情深く頼もしい夫に戻り、そんな彼にヘレナが嬉しそうに微笑みかけていたことを思い出し、クリスターは何だか少し羨ましい気分になった。
多分に母を愛し、父をどちらかと言うと軽んじる傾向のあるクリスターは、どうしてヘレナはラースを伴侶に選んだのだろうと疑問に感じることが度々あったのだが、そう思うこと自体間違っていると今は分かった。
全てにおいて完璧であるがために他人を頼ることに慣れないヘレナがラースには安心して弱さを見せられるし、何かと感情に流されがちなラースはヘレナの前では穏やかになれる。あれはあれで、実にうまく噛み合った、素晴らしい一対ではないか。
そんなことをぼんやりと思いながら照明の暗く下りた廊下を歩いていくうちに、クリスターは無性に自分の片割れが恋しくなってきた。
しかし、病室の前で待っていると思いきや、レイフはどこかに姿を消していた。
(レイフの馬鹿め、あれほど母さんを見ていてくれと言い聞かせたのに、一体どこに行ったんだ?)
だが、それほど遠くには行っていないはずだと、クリスターは寝静まった幾つもの病室の前を通り過ぎ、レイフの姿を探した。
ソファやテレビのあるコーナーにもトイレにもレイフはおらず、もしかしたら一階のロビーにでもいるのだろうかとエレベーターに向かう。
すると、エレベーターの更に奥にある階段の方から、しゃくりあげるような人の声が漏れてくるのに気がついた。
怪訝に思いながらクリスターはそちらに近づいていく。誰かが階段に潜んでひっそりと泣いているようだ。
「レイフ?」
薄暗い踊り場をひょいと覗き込むと、案の定レイフが階段の隅っこに膝を抱え込むようにして座り込んでいた。
「に、兄さん」
クリスターが声をかけるとレイフは膝の上に伏せていた顔を上げた。目の周りも鼻の頭も真っ赤になっていて、いかにも泣いていましたという顔だ。
「ここで何をしているんだ? 母さんの傍にいろと言ったろう?」
泣きべそをかいている弟にとっさに何と声をかければいいのか分からなくなって、クリスターはとがめるような口調でそう言った。
「ごめん…しばらくの間はちゃんと病室にいて、母さんを見ていたんだけれど…そうするのも何だか辛くなってきてさ。オレが落ち込んだ顔をしていると母さんに余計な心配かけると思って、部屋の外に出てぼんやり突っ立っていたんだ。そうやってまた色々考えていたら悲しくなって泣けてきて…すると、今度は通りかかった看護師が心配そうに声をかけてきたり怪訝な目で見たりすんの。何だかもう落ち着かなくて、うざったくて、ここなら人目につかないかなと思って、隠れてたんだ」
レイフがへらりと笑うとその目に溜まった涙が頬にこぼれかかった。
「レイフ…」
弟が示す深い悲しみに戸惑いながら、クリスターはふと、病院を離れる前にレイフが何かを自分に訴えたそうにしていたことを思い出した。
「ごめんよ、1人にして…心細かった?」
それでもまだレイフがどうしてそこまで悲嘆にくれているのか分からず、クリスターは躊躇いがちに近づいて、弟の傍に腰を下ろした。
レイフはクリスターが傍に来ると安心するようだ。また少ししゃくりあげた後、ほっと肩の力を抜いて、膝を掌でこすりながらぼんやりと考え込んでいる。
クリスターはレイフが今何を考えているのか気になって仕方がなかったが、直截的に尋ねることはできなかった。
すると、ふいにレイフが口を開いた。
「なあ…死んじゃったあかちゃんって、結局どっちだったんだろうな」
「え?」
「オレ達の弟だったのかな、それとも妹だったのかなぁ」
クリスターは虚を突かれて絶句した。
(ああ、そうか)
瞬く間にレイフの気持ちを理解したクリスターは、どうしてもっと早くに分かってやれなかったのかと自らを責めた。
レイフは、もうじき会えるはずだったきょうだいが突然死んでしまったことがショックで、信じられなくて、そして哀しかったのだ。
クリスターにとってヘレナの体に宿った命はまだ漠然とした存在でしかなく、流産によって母が心身に負った痛手のことだけを心配していたが、レイフは違った。心の熱いレイフは、他者に対する感情移入や共感の度合いも、クリスターよりずっと深く激しいのだ。
(そうか、死んでしまったのは…レイフや僕の…妹か弟になるはずの命だったんだ)
レイフを通じて、今更のようにクリスターもそのことに気づかされた。いや、頭では分かっていたつもりだが、今夜起こった様々な事態に対処するために、残念だけれど仕方がないと合理的に割り切ってしまったのだ。
今やっと、現実味を伴った喪失感がクリスターの胸にも生まれた。
(新しい家族が、もし無事に生まれていたら―その小さな妹か弟は、どんな変化を僕らの生活にもたらしたのかな…きっと家はすごくにぎやかになっただろう。僕とレイフが独立して家を出て行っても、その子がいたら、きっと父さん達は寂しがることはなかったろう。時々実家に帰る度に、どんどん大きくなっていくきょうだいを見ることになったはずだ)
子供が苦手なクリスターは、赤ん坊の世話も相手もごめんだったが、どちらかというと妹が欲しいとか利発で可愛い子に育ってほしいなとか、ふと思うことくらいはあった。そんな淡く、何やらくすぐったいような期待も楽しみも、ヘレナを襲った暴力によって、全て一瞬で奪い去られてしまったのだ。
「残念だったね…本当に…」
クリスターがしんみりと呟くのに、レイフは深く頷いた。
「うん、可哀想だった」
やっとクリスターから満足できる反応―理解と共感を得られたことで安堵したのだろう、レイフは見る見るうちに落ち着きを取り戻していった。濡れた頬を手で荒っぽくぬぐうが、新しい涙を流すことはもうなかった。
今はただ、胸を満たす静かな悲しみに浸るかのごとく、膝を抱えてじっとうずくまったままでいる。
「レイフ、大丈夫かい?」
こんなふうにレイフが無口になることなどめったにないので、クリスターは心配になった。
「うん…さっきより随分気持ちは楽になったよ。だって、今はちゃんと兄貴が傍にいてくれるから」
「レイフ…」
クリスターは気恥ずかしくてつい黙り込んでしまったが、自分がレイフに必要とされている、彼の心を支えているのだという事実に、こんな時に不謹慎ではあるが、言いようのない喜びを覚えた。
ふと、脳裏に先程病室で静かに語り合っていた両親の姿がうかびあがった。
彼らを羨ましがることなどないのだと、今のクリスターなら断言できる。
(レイフ、僕の大切な相棒…おまえを守り幸せにするために、僕は生きている)
胸の中は溢れんばかりの想いでいっぱいなのに実際には何も言えず、クリスターは息を詰めて弟を見守っていた。
すると、レイフの頭が傾いでゆっくりとクリスターにもたれかかってくる。
クリスターはごく自然に腕を上げ、レイフの肩を抱いた。
先日の一件以来、レイフと至近距離で接したりましてや体を密着させたりすることなど恐くとてもできなかったのだが、今は何のためらいもなくレイフの体を支えてやれた。
そうして押し黙ったまま2人で寄り添いあっていると、レイフの静かな悲しみが胸に伝わってき、クリスターも今は当たり前のように死んでしまったきょうだいへの愛惜の念に浸っていた。
レイフは安心してクリスターに身を預けている。2人が危うく暴走しかけた場面をラースに見られたのはほんの数日前のことなのに、こうして親密に接していることが恐くないのか。
だが、レイフと一緒にじっとうずくまっている、この薄暗い病院の階段の片隅には、あの時2人を襲った衝動が忍び寄ってくる気配はどこにもない。
電流のように身のうちを走り抜けた性的な興奮や心を打ちひしがせた激情のかわりに、羊水の中をゆったりと漂っているかのような穏やかな安心感がここにある。
この一時、2人は日頃自分達を悩ませる様々な思い煩いを忘れ、当たり前のように寄り添いあい、支えあっていた。永遠に失われた肉親を悼む気持ちが、今、離れつつあった心と心をしっかりと結び付けている。
(僕達は今、同じ哀しみを共有しているんだ)
そう思うと、クリスターは体の中心から温かさが全体に広がっていくような、何とも言えない不思議な気分になった。
もしかしたら、こんな素直で正直な気持ちは、明日になれば、あれはただの感傷だったのだと忘れてしまうのかもしれない。それでも―。
クリスターは静かに目を伏せ、弟も同じように感じていると確信しながら、ひっそりと噛み締めるように呟いていた。
(辛い時、哀しい時、こんなふうに何も言わずにただ一緒に時間を過ごすだけで癒される相手がいる…何て幸せなことなのだろうね、レイフ)
体の右側には、暖色系の灯りの中にうかびあがった、どこかノスタルジックなボストンの美しい夜景が広がっている。
頭上を見上げると、都会の光も届かぬ夜空の中心に猫の目めいた黄色い月。
夏だというのにチャールズ川の方向から吹いてくる風はひんやりと冷たい。
「そんな所を歩くのは危ないぞ、J」
左手のやや後ろから懇願するような低い声がかけられたが、彼はうっすらと唇に笑みを浮かべただけで何も答えなかった。
「大丈夫、Jなら落ちやしないよ。ちょっとしたスリルを楽しんでるだけなんだから、黙ってなよ。でかい図体をして、フレイは心配性だな」
金属的な高い声が連れをあざ笑ったかと思うと、鉄製の柵の上を危なげない足取りでゆったりと歩きながら物思いにふけっている金髪の若者に、憧憬を込めて話しかけてきた。
「でもさ、今夜のJはとてもハイになってるよね。そんなに嬉しかったんだ?」
ビルの屋上の柵の上を何の支えもなく歩いていた若者―ジェームズ・ブラックは足を止め、自分に忠実に従っている2人をちらりと振り返った。
小山のような大男とそれとは対照的に華奢で小柄な少年の姿が、都会に満ちる柔らかな光と影の中に浮かび上がっている。
「ねえ、あいつと話はしたの?」
嫉妬をひそめて囁く少年の緑の瞳がちかりと物騒に光るのを認めながら、Jは軽く肩をすくめた。
「いや、ほんの少し顔を見ただけだよ。まあ、あそこで騒ぎを起こすわけにはいかなかったし、今夜の所はあれで充分じゃないのかな」
再び彼とあいまみえるために1年以上も施設での退屈な生活におとなしく耐え続けたことを思えば、後少しくらい待っても、別にどうということはない。
(クリスター)
それでも、あの時の彼の顔を思い出すとJの胸は高鳴った。
激烈な怒りと敵意に満ちて、猛り狂った虎さながら、凄まじい勢いで突進してきた。自分を捕まえて八つ裂きにせんばかりの憎しみに燃え上がった、あの金色の双眸と閉じていくドアを挟んで睨みあいながら、心地よい戦慄が背筋を走り抜けていくのをJは覚えていた。
今回はうまく彼の手から逃げ切ったが、心のどこかでそれを残念に思う自分がいる。
(ジェームズ!)
最後に見たクリスターは悔しげに唇を歪め、声にはならない声をあげ、確かに自分の名前を呼んでいた。
(少なくともあの一瞬、君の中は僕への憎しみでいっぱいになって、他のことなど一切忘れていた。君が何より愛する弟君のことさえね)
満足そうにほくそ笑むと、Jは再び不安定な足場を歩き出す。
(もっともっと…そうなればいい…君がもう片時も僕を忘れられなくなるほどに―)
柵の上を歩き続ける体の右手には光が躍る夜の街、左手には闇―心を誘われるのは美しい宝石箱めいた光の街の方だが、そこに身を躍らせれば確実な死が待ち受けている。この危うい一線に立ちながら、Jは不思議な酩酊感にも似た昂揚を覚えていた。
こんなふうに死と戯れるのは狂気の沙汰だと常識のある人間達は言うだろう。しかし、本物のスリルは命がけのぎりぎりの瞬間にこそ見つかるものだ。
(君が僕にそう教えてくれたんだよね、クリスター)
胸のうちでJが愛しげに呼びかけると、目の前に広がる光と影の世界の狭間に浮かび上がるようにして、自分と同じく危うい柵の上に立っている敵手の姿が見えた。
(思えば、君を見つける前の僕は本当の意味では生きてはいなかった。毎日が退屈で、詰まらなくて―何を見ても聞いても感動できず、興味もわかず、悪戯に空しい日々を重ねていくだけだった。だから、この出会いをもたらしてくれた運命に僕は心から感謝するよ。こう言うと君は嫌がるだろうけれど、君と僕は本質的に同じものなんだよ。そう、やっと見つけた、僕の大切な相棒…)
微笑みながら手を差し伸べるとクリスターの幻はその手を取ろうとするかのように近づいてきて、思わず身を乗り出したJは、それまでしっかりと自分を支えていた脚がふいに言うことをきかなくなったのを感じた。
ぐらりと傾ぐ体の下に広がる光の街―そこになすすべもなく飲み込まれていく感覚に襲われた、次の瞬間、何か強い力が彼の左手を捕らえ逆の方向に体を引き寄せた。
「ジェームズ!」
夜のしじまを貫くように甲高い少年の悲鳴があがる。
落下する感覚の次には軽い衝撃があった。
気がつくと、ジェームズは自分を受け止めたフレイの腕の中にいた。
「だから、無茶はするなと言ったんだ」
控えめに自分をたしなめるフレイの声を聞きながら、Jは美しい夢から無理矢理起こされたような心地で、不機嫌そうに溜息をついた。
「せっかく…いい所だったのに」
Jは、自分がついさっきまで立っていた鉄柵を横目でちらりと見上げ、墜落し損ねた街を眺めまわした。
紅い髪をした死神の姿はどこにもない。
(…あのまま彼の手を取っていたら、僕はきっと死んでいただろうな。呆気ない最期だが、それはそれで悪くない)
自分を気遣わしげに見守る2つの眼差しには応えず、足の麻痺が取れたことを確認しながらゆっくりと体を起こすと、Jは微苦笑と共にひっそりと呟いた。
「残念だな、全く」
ビルの屋上を吹き抜ける風が彼の淡い金髪をかき乱す。
眼下に広がるきらびやかな夜景を無感動に睥睨する、その藍色の瞳に宿った闇は、どんな夜よりもなお暗く底知れなかった。