ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第4章 黒い羊

SCENE10

 結局クリスターはダニエルと一夜を共に過ごし、翌朝になってやっと家に戻った。

 あからさまな無断外泊をした訳だから、両親の叱責はクリスターも覚悟していたが、意外にあっさりと彼らは許してくれた。

 内実はどうあれ、羽目を外したことなどない優等生で通ってきたクリスターの突然の暴走は、彼らをよほど心配させたらしい。特に、一晩眠れなかったのだというラースは、赤い目をしながら、素直に謝るクリスターの肩を叩いて、よかった、よかったとしきりに喜んでいた。

 それからの数日は何事もなく過ぎ、家族の皆がすっかり元通りの穏やかな日常に戻れたかに見えた。

 ラースは、クリスターとレイフがただならぬ様子だったなどと、まるで見たこともないかのように、彼らの関係については一切触れようとしない。ヘレナはいつものように余計なことは言わず、平静さを保っている。

 クリスターも、何だかこのまま普段どおりの生活をずっと続けていられそうな気がしてきた。

(大丈夫だ。父さんが、あれ以来変な目で僕とレイフを見ることもない。僕達が節度を守った接し方を続ければ、怪しまれることはないだろう。人はたとえ目の前に真実を突きつけられようとも、それが受け入れ難いものであれば、自分が信じたいことの方を結局選ぶものだ)

 幸い、レイフも今のところおとなしくしている。クリスターとの親密な接触によって危うく心と体が暴走しそうになったところを父親に見られたことで、よほど懲りたのだろう。

 だが、クリスターを見るレイフの目はずっともの言いたげで、何とか2人きりになって話し合える機会を窺っていることははっきりしていた。

(確かに、このままずっと逃げ回るわけにもいかない。J・Bの件でこれ以上レイフと話し合うつもりはないが、少なくとも進路のことはちゃんと説明した方がいいかな。その上であいつが納得しようがしまいが、それはもうレイフの問題だ)

 クリスターの中に全くフットボールへの未練がなかったわけではないが、レイフに対して宣言したことで、それはもう決定済みの事項なのだと何とか割り切ろうとしていた。

 だが、薄氷の上を息を殺して歩くかのような、その危うくも平穏な日々は、突然打ち砕かれることになった。

「ねえ、クリスター、あなたにちょっと相談したいことがあるのだけれど…」

 始まりは、いつになくもの思わしげな母が、たまたま早く帰ってリビングで夜7時から始まるCNNニュースを見ていたクリスターに声をかけたことだった。

 ラースは仕事からまだ帰っておらず、今日は友人達と映画を見に行くと出かけたレイフもまだ戻っていないため、家にいるのはクリスターとヘレナの2人だけだった。

「どうかしたの、母さん?」

「ええ…この頃私達のオフィスで問題が頻発していることはあなたも知っていると思うけど…どうしてこんな事態になってしまったのか、その原因を考えていく上で、私にはどうしても引っかかる点があるの。それで、一度あなたの意見を聞いてみたくて」

 才気煥発なヘレナらしくない迷い躊躇うような口ぶりに、クリスターはことの深刻さを察して、すぐさまテレビのスイッチを切った。

「先入観を交えず、あなたが学ぶ心理学的な観点から考えて、こんなことが現実に起こりうるのかどうか教えてちょうだい」

 クリスターの前のソファに身を落ち着け、そう前置きすると、ヘレナは冷静な口調で話しだした。

「ここにあるひとつの集団が存在するとしましょう。そこに属する人間達は、それぞれ小さな問題や欠点は抱えていても、お互いを尊重して、上手に付き合っていた。集団としてはとてもうまく機能していたの。それが、1人の新参者が加わった日を境に、少しずつ人間関係の歯車が噛み合わなくなっていった。それまでは表面に出されなかった不満や反発、欲求を皆が口にするようになって、それによってがらりと集団内の空気が変わってしまった。皆、急に人が変わったようになって、その人らしくない行動に駆り立てられていき…ついには争いにまで発展して、何人かは仲間と袂を分って去って行った」

「母さんは、新しく紛れ込んできた異分子が、他の大多数の考えや行動にそこまで強い影響を及ぼせるのかということを聞いているんだね?」

 クリスターがヘレナの顔をまっすぐに見据えながら確認すると、彼女はふと不安に駆られたかのように、まだあまり目立たない腹部に手を置いた。

「白い羊の群れの中にたまたま生まれてしまった黒い羊は不吉なものだと嫌われて、昔は殺されたり追い出されたりしたそうだけれど―この黒い羊は何食わぬ顔をして群れに混ざりながら、他の羊を自分の色に変えていくのよ」

「つまり、それが…今母さん達のオフィスで起きていることなのかい?」

 クリスターは言い知れぬ戦慄が全身に広がっていくのを覚えた。

 ラースが信頼していた古株の社員達が相次いで問題を起こし、追放同然に社を辞めていった。ブライアンもジョエルもクリスターは子供の頃からよく知っているが、全くあの2人らしくない行動で、話を聞いた時は何かの間違いではないかとクリスターも疑ったほどなのだ。

「一種のマインド・コントロールのようなものだとすれば、全く起こりえないとは言えないな…」

 ヘレナが与えてくれたヒントから、今まで漠然とした違和感でしかなかったものがはっきりと形を作り、欠けたピースがひとつひとつ合わさるように疑念に対する答えが見えてくる。

 たった1人の人間によって他の大勢がコントロールされてしまったケースを、実際、クリスターは目の当たりにしたことがあったのだ。

「ねえ、母さん、もしかして―」

 無意識にぎゅっと握り締めていた手のひらが次第に汗ばんでくるのを覚えながらクリスターが母に確かめようとした、その時、リビングのすぐ外にある電話が鳴った。

 ヘレナはクリスターにちょっと待つよううなずき返して、すぐに電話の応対に出て行った。

「ヴァンなの…? よかったわ、ここ数日連絡を取れなかったから心配していたのよ。今、オフィスに来ているのね。ええ、そう…ラースもそろそろ仕事を終えて戻るころでしょう。私も今からすぐにそっちへ向かうから、待っていてちょうだい」

 ヘレナのよく通る落ち着いた声を聞きながら、クリスターはなぜか嫌な胸騒ぎを覚えていた。

 程なくして、電話を切ったヘレナがリビングに戻ってきた。

「クリスター、話の途中だけれど、私は今からオフィスに行かなければならなくなったの」

「母さん」

 それを聞いて、クリスターは思わずソファから立ち上がっていた。

「僕も一緒に行こうか?」

「大丈夫よ。ヴァンと会って、ちょっと話をするだけだから」

 ヘレナは壁の時計をちらりと見やって、付け加えた。

「ラースも警備の仕事が終わったら他の社員達と一緒にオフィスに戻ることになっているし、今から行けば丁度向こうで会えると思うわ。ラースも交えてヴァンと話し合うことになるでしょう…帰りはちょっと遅くなるかしれないけれど、ラースが一緒だから心配しないで」

 ヴァンはラースの信頼の厚い部下の1人で、人事を担当するヘレナの補助にもあたっていた。このところ、社の運営について不満を述べだしており、ブライアン達の件でただでさえ情緒不安定なラースとうまくいってないらしい。ここ数日無断欠勤をしたともクリスターは両親から漏れ聞いている。

「でも、母さん、問題を抱えた社員の対応なんて、ストレスのかかる仕事、今の母さんは、本当はしない方がいいんだよ。せめて車の運転くらい、僕が代わるよ」

 クリスターの気遣わしげな顔を見て、ヘレナは優しく微笑んだ。

「私の心配よりも、あなたには先に解決しなければならない大事なことがあるんじゃないの?」

 クリスターは問いかけるように瞬きをした。

「そろそろレイフが戻ってくる時間でしょう。いい機会なんだから、私達がいない間にレイフとちゃんと向き合って話をなさい」

 明敏な母に見抜かれていたと知って、クリスターは思わず頬を赤らめ、うつむいた。

「うん…」

 母さんにはまだまだ僕も敵わないなと胸のうちで呟く。クリスターは柄にもなく素直な気分になっていた。それほどに、あの日以来ずっとクリスターの頭の中は弟のことで一杯だったのだ。

「でも、母さん、さっきの話の続きも後で必ずしよう。もっと詳しい事情を聞かせてほしい…僕は最近自分のことにばかり気を取られていて、母さん達が抱えている問題については、気になってはいたんだけれど、あまり深く考えようとしてこなかったんだ、ごめんよ」

「馬鹿ね、何を言っているの。私の方こそ、あなたに余計な心配はかけたくなかったのに…ごめんなさいね、クリスター。ともかく先にヴァンの件を片付けてくるわ。いいわね、何も心配しないで―あなたは、レイフとの話し合いを最優先にするのよ。どんな結論を下すにせよ、それはあなたが勝手に決めるのではなく、レイフと2人でなければ駄目…あなた達はかけがえのない2人きりの兄弟なんだから」

 母の気遣いに胸を突かれてクリスターは黙り込んでしまう。

 ヘレナにはまだ肝心なことを確かめていないし、できればこのまま彼女を1人で行かせたくないという気持ちもまだあった。だが、クリスターが引き止める前にヘレナは素早く身支度を整えて、家から出て行ってしまった。

 躊躇いながらもそれを見送った後はもう、クリスターは気持ちを強引に切り替えることにした。

(レイフと腹を割って話し合う)

 再びリビングに戻ってソファに身を落ち着けたクリスターは、深い溜息をついた。

(母さんも言ったように、やはりそうした方がいいんだろうな。今なら誰かの邪魔が入ることもない…この間のことを考えるとちゃんと自分を保てるのか不安だけれど、お互い突っ込んだ話ができるチャンスだ。ああ、でも、あいつをうまく説得できる自信などない…僕の本音は今でもあいつを手放したくないという欲でしかないんだから―それを理性でねじ伏せていても、いざ正面から向き合えば、レイフならきっと見抜くだろう)

 クリスターはリビングでテレビを見ながら弟の帰りを待っていたが、内容などほとんど意識していなかった。しきりに壁の時計を見やって時間を確かめたり、窓を振り返ったりと落ち着かない。

 思っていたよりもレイフの帰りは遅く、こうして何もせずに待っていると次第に焦りと不安がつのってきて、クリスターを悩ませた。

(あいつめ、一体どこで何をしているんだか…下らない付き合いなんか、さっさと切り上げろよ。そうだ、やっぱり母さんの方も気になる…たとえ父さんや他の社員が一緒にいても無防備にオフィスに行かせたのはまずかったかもしれない。今からでも母さんを追いかけようか…僕が直にオフィスに乗り込んで、あそこで何が起きているのか確かめるんだ。ああ、でも―参ったな、思考がまとまらない。レイフ、とにかく早く戻って来い!)

 ヘレナが出かけてもう1時間以上が経過し、クリスターの我慢が限界に達しかけた、その時、家の外で足音がした。続いて、何かがぶつかるような音と共にドアが開き、レイフの飄々とした声がリビングにまで届く。

「ただいま〜っ、兄貴、いるぅ?」

 妙にハイテンションの声に神経を逆なでされたクリスターは、つい殺気立って、ソファからすっくと立ち上がった。

「レイフ!」

 怒声と共に廊下に飛び出したクリスターが見つけたのは、玄関でぐったりと座り込んでいる弟の姿だった。

 怪訝に思いながらクリスターが近づいていくと、ぷんと漂うアルコールの匂いが鼻をついた。

「おまえ…酔っ払っているのか?」

 愕然と立ち尽くすクリスターを見上げ、レイフはへらりと笑った。その顔は赤く、半分閉じた目はとろんとしている。どこからどう見ても、立派な酔っ払いだ。

「映画見た帰りにさ、ジョンの大学生の兄貴達がパーティーやってるっていうから、覗きにいったの。そこで、ビールとか色々飲ませてもらったの」

「誰だか知らないが、高校生にアルコールなんか飲ませるなよ…おまえもだ、レイフ、飲酒したってことが学校に知られたら、どうするんだ、この馬鹿っ」

「えへへへ。大丈夫だよ、オレ、高校生に見えないし。何か、大学生の女の人達にいっぱいもてちゃったの。オレのこと、可愛いって」

「喜ぶな。からかわれただけだ」

 痛み出した頭を手で押さえ、クリスターは、そう言えば先程ガレージの方では車の音など全くしなかったことを思い出した。

「レイフ、車はどうしたんだ?」

 嫌な予感を覚えながら、クリスターは確認する。

「うん、オレ、ちょっと飲みすぎてさ。いくらなんでも運転して帰るのはまずいって友達が必死にとめるから、仕方なく車は捨てて、そのまま家まで走って帰ってきたっ。体中かっかと熱かったから、風切って走るのがすげぇ気持ちよくて、つい服も脱ぎ捨てたくなったくらいだよ」

「それだけはやめてくれ」

 レイフはいきなりクリスターの脚に抱きついてきたかと思うと、ううっと呻いた。

「おかしいな、ふらふらして目が回る」

「飲酒した上に走ったりしたら、当然、アルコールが体中に回るよ」

 何だかもう怒る気もなくして、クリスターは寄りかかったまま離れようとしないレイフの背中をなだめるように叩いて、ゆっくりと立ち上がらせ、リビングまで連れて行った。

「兄さん、兄さん…」

「はいはい」

 やけに甘えかかってくるレイフをひとまずソファに寝かせ、クリスターは立ち上がりかけるが、その手をレイフがしっかりと掴んで離そうとしない。

「ここにいてくれよ…オレを放って、どこにも行かないでくれ…」

「大丈夫だよ、レイフ、心配しないで…水を汲んでくるだけだから」

 レイフは嫌々をするように頭を振って、クリスターの手に頬を摺り寄せた。レイフの固く閉ざした瞼は震え、見ると、長い睫の間には薄っすらと涙が滲んでいる。

「クリスターと離れるなんて嫌だ…おまえがいない将来なんてオレには考えられない…愛しているよ…」

 意識してか、それとも無意識でか。レイフは涙声でとつとつと訴えている。フットボールをやめてレイフとは違う道を行くというクリスターの宣言は、よほど彼を傷つけていたのだろう。

 クリスターは何かしら胸を揺さぶられて、自分の腕に押し当てられている弟の頭を見下ろした。

「僕だって…愛しているよ」

 低い声で呟いて、クリスターはレイフの紅い髪を指先で撫で、そっと唇を押し当てた。

 しっとりと汗ばんだレイフの髪の感触。触れた指先や唇から伝わる肌の熱さ、レイフの匂い…何もかもが欲しくて、どうしようもなく愛しい。

 このまま抱き寄せたい衝動を堪え、ともすれば口走ってしまいそうになる許されない言葉を、クリスターは噛み締めた唇の内に閉じ込める。

「…全く、酔っ払ってくだを巻くにはまだ早いよ、レイフ」

 めそめそ言いながら半分眠り込んでいるレイフの頭を軽く小突いて、クリスターがからかうように囁いた瞬間、電話の音が鳴り響いた。

 クリスターは夢から覚めたような気分でゆっくりと立ち上がった。

 電話のある廊下の方を肩越しに眺めやり、クリスターはふと、言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。思い出したように、壁の時計を眺めやる。

(母さんはまだオフィスにいるんだろうか…ヴァンと話し合うと言っていたけれど、うまくいったのかな。父さんも一緒にいるのだろうか?)

 クリスターは何かに急き立てられるように廊下に飛び出して、電話の受話器を取り上げた。

「はい?」

 それは、ラースの部下からの緊急の知らせだった。

『ク、クリスター君か? よかった、君が家にいてくれて…』

 切迫した男の声を聞いて、クリスターの背筋に緊張が走る。

「どうしたんですか? 父か母に、何か…?」

『実は、ヘレナさんが…大変なことになったんだ。詳しいことは後で説明するが、オフィスで社員に…興奮したヴァンに暴力を振るわれて怪我をした。命に別状はないだろうが、何しろ彼女は妊娠中だから…ともかく急いで病院に来てくれ…!』

 クリスターは大きく息を吸い込むと、ふらつく体を支えようと、とっさに壁に手をついた。何だか今にも崩れそうな砂の上に立たされているような気分だった。

「…分かりました。すぐに弟を連れて、病院に向かいます。ええ、僕なら大丈夫です」

 慌てふためいた社員に、どこの病院に行けばいいのか確認して、クリスターは受話器を下ろした。

「落ち着け…母さんはきっと大丈夫だ」

 沈黙した電話を鋭く睨みつけ、クリスターは低い声で自分に言い聞かせる。

 冷静さを保とうとしながらも、彼の心臓は今にも破れそうなほどの勢いで打ち鳴らされていた。

(嫌な予感が的中したか。やはり僕が母さんに付き添うべきだった…だが、母さんをほとんど崇拝していた、あのヴァンがまさか暴力を振るうなんて―僕が知っている彼の人格からは全く想像できない話だ。しかし、それを言うなら、ブライアンもジョエルも全く別人と化したかのような行動を取って、最後には社を辞めていった。直接彼らと会って話をしたわけじゃなくても、これに似たケースは、僕には心当たりがある。母さんがほのめかした黒い羊…つまり、あいつが―あそこにいたということなんだ)

 胸のうちが次第に煮えくり返ってくるような憤怒に駆られ、クリスターは思わず身を震わせた。

 その時、リビングの入り口辺りで微かな物音がした。

「兄さん…何かあったのか…?」

 クリスターが弾かれたように振り返ると、心配そうな面持ちをしたレイフが立っていた。

 すっかり正体をなくして眠り込んでしまったように見えたのに、まるで自分の受けた衝撃が伝わって、レイフを揺り起こしたかのようだなとクリスターは思った。

「ああ」

 レイフをこれ以上不安がらせないためには、自分がしっかりしなくてはならない。そうだ、強くなれ。

 クリスターは自らをそう奮い立たせると、唇を噛み締めてじっと自分の言葉を待ちうけているレイフに近づき、その肩に優しく手を置いた。

「レイフ、今から病院に行くよ…母さんがね、怪我をしたらしいんだ」


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