ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第4章 黒い羊

SCENE9


「兄貴、ちょっと話があんだけど」

 クリスターが夜になって家に帰るとやけに真面目な面持ちをしたレイフが玄関で待ち構えていた。

「疲れているんだけど、今聞かなければならない話なのかな?」

 疲れているのは本当だったが、それよりも弟から追及されたくない事情を色々抱えているクリスターは、あえて冷たい態度を取ることで予防線を張った。

「うん。悪いけど、今日は逃がしてやれないよ、兄貴」

 レイフはいつになく強気な出方をする。

 さては何か隠しだまを持っているなと察したクリスターは、無言であごをしゃくって、レイフに2階に上がるよう示した。

 灯りの漏れたリビングからは、父と母の声がテレビのニュース番組の低い音声に混じって聞こえてくる。近頃職場でのトラブルで忙殺されている彼らが、まだ8時過ぎのこの時間に家に帰っていることは珍しい。

 クリスターにも彼らの抱え込む事情が気にならないわけではないが、さすがに今は自分が直面している数々の問題を片付けることに手一杯だった。むしろ両親の気持ちが他に向けられていることがありがたかったくらいだ。

(余裕があれば、オフィスの様子を覗きにいきたいし、せめて母さんに詳しい話を聞きたいところだけど―)

 一瞬両親への気遣いに心を捕らわれたものの、背後でレイフが小さなくしゃみをしたのに、クリスターはすぐに意識を切り替えた。

 他のことは後回しだ。ともかく、レイフが持ち出してくる話とやらに集中しよう。

(J・Bに関することだろうとは察しがつくが…そうだな、レイフに全てを隠し通すのはそろそろ限界か。もともとは勘のいい奴だ。僕はレイフを丸め込むのは得意だけれど、これだけ僕の周囲で不審な出来事が頻繁に起こっては、いつまでも騙しきれるものじゃない。そろそろ、本当のことを明かすべきだ。そうして、こいつが納得するような最低限の情報は与えながら、うまく操縦して、深入りさせない方向に持って行く…レイフに、J・Bにぶつかっていくような、勝手な暴走をさせてはならない―できるか、僕に?)

 レイフの先に立って階段を上がりながらそんなことを考えるクリスターの脳裏にふと、大怪我をしたコリン達をレイフと一緒に見舞いにいった時の記憶が過ぎる。

 あの日クリスターが受けた衝撃は大きかったが、レイフが傍にいてくれたおかげで和げられて、何とか平常心を保つことができた。

(こいつの手を取れば、確かに、僕は精神的にずっと楽になるだろう。アイザックがいなくなった今、Jとの闘いでも、レイフは頼もしい味方になってくれるかもしれない…だが、それではレイフの安寧が守れなくなる…駄目だ、こいつを頼るなど本末転倒じゃないか。しっかりしろ、僕なら、きっとできる…!)

 クリスターは自分の部屋に入って明かりをつけると、レイフが口を開く前に素早く向き直った。

「話って?」

 不機嫌な態度を取るクリスターに、レイフは一瞬鼻白んだ顔をした。すぐには答えず、ゆっくりと部屋の中を歩いて、クリスターのベッドの端に坐って落ち着く構えを取る。

 それを、クリスターは腕を組んで立ったまま、冷たい目で見守った。

「あのさ」

 レイフは何と切り出すべきか迷うように頭をかいていたが、やがて何かを吹っ切ったような顔になり、率直にこう打ち明けた。

「今日、ハニーと会っていたんだ、オレ」

 久しく忘れていた名前をレイフが口にしたのには、ある程度覚悟していたクリスターも少しばかり意表を突かれた。

「ハニー・ヘンダーソンのことか?」

 用心深く確認しながら、クリスターは素早く頭を回転させていた。

 二度と自分達の前には姿を現さないと約束させて親元に帰したハニーがなぜレイフと再び接触したのか。彼女はレイフに何を伝え、またレイフはそれをどう受け止めたのか。それらを推測すると、レイフが今から何を自分に言おうとしているのかも大方予想がつく。

 大丈夫だ、ちゃんと対処できる。これもまだ自分の想定内の事態にすぎない。

「昼前に電話がかかってきてさ。会って話したいことがあるって言うから、学校近くのスターバックスでしばらく話しこんでたんだ」

 レイフは、クリスターの反応を、じっと上目遣いで窺っている。

「なあ、兄貴、ハニーに二度とこの町には戻らないように言い聞かせていたらしいな。それって、オレと会わせたくなかったからだろ? 彼女の口からオレに黙っていたあれこれが伝わると困るから―実際今も、どうしたらオレをごまかせるだろうって考えてるよな、秘密主義のクリスター?」

 もう誤魔化されないぞというようにレイフが鋭く目を細めてみせると、ひどく自分に似て見え、クリスターは複雑な気分になった。

「それはおまえの考えすぎだよ、レイフ。僕がハニーを遠ざけたのは何よりも彼女自身のためだった。僕やおまえも含めた、ここにあるもの全てが彼女をJ・Bとの忌まわしい記憶に導いてしまう―当時のハニーの精神状態を考慮しての判断だった」

 クリスターが冷静に説明すると、レイフはしかめ面をして、苛々と頭を振った。

「兄貴の嘘はもう聞き飽きたよ。大体、ハニーをその気にさせた挙句振っておいて、何より彼女のためだったなんて白々しいこと言うなよ。まあ、おまえは別にハニーを振った覚えなんかないんだろうさ―でも、ハニーが、自分にはなから関心のなかったおまえを…それでも庇おうとするのを聞いていると、やっぱりちょっとむかついたぜ!」

「レイフ…」

 弟が一体何にそれほど憤慨しているのか分からずクリスターが当惑していると、レイフの頬がさっと赤らんだ。

「全部、オレのため、だったんだろ。オレからハニーを取り上げて付き合ったのも、新聞部の奴らを巻き込んでJ・Bと闘い、奴を施設送りにまでしたのも、オレが安全でいられるようにって動機からだったんだ」

 なるほど。では、ハニーからその辺りの事情は聞かされた訳か。

 レイフも薄々分かっていただろうが、この話題になるとクリスターはいつも彼を煙に巻いて、確信を抱かせないようにしていた。

「こんな大事なこと、オレには秘密にして、自分独りで背負い込んで…なあ、それでオレが喜ぶと思うのかよ? いや、おまえはオレがどう考えるかなんてことは問題にしない。ただ、自分で考えた、オレのためになる、正しいことを行うだけだ。いいか、それ、ちっともオレのためになってねぇぞ。オレをこんなに悩ませ、落ち込ませ、苦しめるのは、おまえのその独りよがりなやり方なんだ」

 レイフはじっとしていられなくなったかのようにベッドから立ち上がり、クリスターの前に来た。鋭く切れ上がった双眸が、クリスターの瞳を真っ向から睨みつける。

「ハニーのことは別にもういいよ。今更腹をたてても、どうせ終わったことだし。ただ、おまえが今でも同じやり方を通そうとするのが気にいらねぇんだ。なあ、オレだって、いつまでもおまえから一方的に守られるだけの馬鹿な弟じゃねぇよ…少しはオレを認めてくれたっていいじゃないか。 大体、そんな意地を張っている場合じゃねぇんだろ、クリスター…」

 レイフの口元が緊張のあまり強張るのをクリスターは認めた。

「あいつが…J・Bが戻ってきたんだろ…? そうしておまえに復讐しようとしている…コリン達の事故も…もしかしたらアイザックの失踪もJ・Bの仕業じゃないのかよ。おまえの仲間で無事に残っているのはもうダニエルだけ…そんな状況でJ・Bから逃げ切れるのか? オレは嫌だからな、兄貴があいつに傷つけられるなんて―」

 熱心に訴えながらレイフは震える手を伸ばし、呆然となっているクリスターの腕を掴む。感情が昂ぶるにつれ次第に力がこもる彼の指は腕に食い込んで、クリスターに痛みを覚えさせた。

「レイフ、落ち着けよ」

 クリスターはレイフをこれ以上刺激しないよう努めて冷静に返しながら、その手をさり気なく腕から引き剥がした。

「J・Bが出所したのは本当だよ。実際矯正施設なんていつまでもいられるものじゃないってことくらい、おまえにも分かるだろう?」

「おまえは、そのこともとっくの昔に知っていたくせに、オレには黙っていたんだ」

 恨みがましげになじるレイフに、クリスターは溜息をついた。

「おまえを悪戯に動揺させるのが嫌だったんだ。それに、僕とJ・Bの確執は、もともとおまえと関わりのないところで生まれ発展したものだから―できることならおまえだけは二度とあんな奴に関わらせたくないというのは、僕の正直な気持ちだよ」

「何だよ、それ…?」

「おまえは、ハニーと会って、それで全てを知った気になっているようだけれど、おまえが聞いたのは、あくまで彼女の目を通して見たもの、彼女が考えた解釈でしかない。決して、それだけが真相の全てじゃないんだよ」

「おいおい、またややこしいことを言って、オレを煙に巻こうっていうのか?」

 癇癪を起こしかけるレイフに、クリスターは辛抱強く言い聞かせた。

「そんなことは、もうしないよ。いいかい、レイフ、おまえは大事な点で、根本から考え違いをしている。もともとJ・Bのターゲットはおまえではなく、この僕だったんだ。昔、僕がJと同じディベートのクラスにいた時、彼と親しくしていたことは知っているよね…本当は友人というよりもライバル―いや、少なくとも僕にとって彼は天敵のようなものだった。その頃から、Jは僕と戦いたくてうずうずしていたんだ―そうして、どうすれば僕をその気にさせられるのか考えぬいた末に、彼はハニーを使っておまえを罠にかけたんだよ」

 初めはただ疑わしげにクリスターの話を聞いていたレイフの顔に、少しずつ戸惑いの色がうかんでくる。

「ど、どういうことだよ?」

「つまり、事実とおまえの認識は逆なんだよ…おまえが僕をJ・Bに引き寄せたわけじゃなくて、僕がおまえを彼との争いに巻き込んでしまったんだ」

「そ、それなら、そもそもどうしておまえとJは争うことになったんだよ」

「それを、おまえが理解できるように説明するのは難しいな…何しろ、あいつの頭は普通じゃないからね。ともかく、Jは、随分前から僕に目をつけていた。僕の気を引こうと躍起になって、僕を散々挑発し…一緒にゲームをしようと誘ってきた」

「ゲーム…?」

 レイフはその言葉に寒気を覚えたかのように、ぶるりと身を震わせた。

「そう、Jにとって、僕との間であった闘いの全て、おまえやハニー、他の大勢を巻き込んだ騒擾そのものが、遊びだったんだ。まるで子供のように無邪気に、嬉々として、彼は駒として操られ弄ばれた他人の痛みや苦しみを楽しむことができる…その点、僕らの常識や理屈は彼には通用しない。ハニーがあいつにどんなふうに扱われていたかを例に挙げれば、おまえにも少しは想像ができるかな?」

「う…あれを全部、無邪気に楽しんでいたって…? そんなことできる人間がいるなんて、信じられねぇ…いや、でも確かにJなら…」

 昔の嫌な記憶を思い出したのだろうか、理解の範疇を超えたことに対する衝撃が空白となってレイフの顔に緩やかに広がっていく。

「もちろん僕にはJの誘いになど乗るつもりはなかった。あんな奴の誘いに乗ったら、僕までが、ジェームズ・ブラックと同じ人でなしになってしまう…僕が彼の同類だと認めてしまう…。しかし、Jはあきらめなかった。やがて僕の最大の弱点はおまえだと知ったJは、まずおまえを手に入れることで僕を強請ったんだ」

 クリスターはここで一息置いて、レイフの様子を素早く窺った。弟が自分とJ・Bの因縁を聞いてどう思うか気になったが、まだ、よく飲み込めていないようだ。

「結局、僕はJの挑戦を受けて立ったよ。おまえを押さえられては仕方がなかったんだ。そんな訳でしぶしぶ始めた戦いだったが、やるからには僕は容赦せず、徹底的に奴を叩いた。おまえまで巻き込んだJのやり方を僕は憎んだし、中途半端な対処法ではとても奴には勝てないと思ったからね。結果は、おまえも知っての通り、僕はJを学校から追い出して施設に閉じ込めることに成功した」

 レイフ相手だからとはいえ、我ながらくどくどと言い訳じみているなと、クリスターは密かに自嘲する。

「でも、戻ってきちまった…あの怪物は、今度は一体何をするつもりなんだ…?」

 呆然と呟いて、レイフはぞっとしたように自分の肩を抱いた。

「そうだね、Jが今、僕に復讐しようとしているのは本当かもしれない。コリンやミシェル、アイザックも、かつて僕と一緒に奴を追い詰めるのに一役買ったせいで、奴に目をつけられていた。彼らを襲った災難にはJが絡んでいると見て間違いないだろう。これらは全て僕の責任だ」

 アイザック達について言及した途端、強い罪悪感が心の底からこみ上げてきて、クリスターは思わず身をすくませた。

(いや、どんなもっともらしい言い訳をしても、彼らを生きた駒として使い、結果としてあんなひどい目に合わせてしまった僕は、J・Bと同罪だ)

 クリスターは体の脇に垂らした手を握り締めると、食い縛った歯の間から押し出すようにして言った。

「だが、おまえはこの件には一切関係ない」

 しばらくの間凍りついたように立ち尽くしていたレイフが、はっとなって、クリスターを振り返った。

「今の話で分かったろう、レイフ…おまえのせいじゃなかったんだから、そんなふうに気に病むことはないんだよ。J・Bという災いを引き寄せてしまった僕が、自分で彼との決着をつける…コリン達に償うためにも、僕はそうしなければならないんだ」

 「ちょ、ちょっと待てよ!」

 一方的に話を打ち切ってすっと身を引こうとするクリスターに、レイフは顔色を変え、執拗に食い下がった。

「オレは関係ないなんてまぬけたことを言うのはおまえだけで、オレも、J・Bだってきっと思っちゃいねぇぞ! いつも冷静な兄貴が、何トチ狂ってんだよ、しっかり現実を見ろよ…いくらクリスターが完璧だって、1人じゃ、何もできないだろ!」

 顔を背けて自分を見ようとしないクリスターの肩を掴んで、レイフは強引に振り向かせようとする。

「だとしても、おまえがいて何になる? おまえの助けなど、僕は必要としない。いや、はっきり言って、足手まといだ」

 氷結した声で言い放ち、クリスターはレイフの手を荒々しく振り払った。

「クリスター!」

 怒気のこもったレイフの声を聞いたと思った瞬間、クリスターは思い切り壁に叩きつけられた。

「レイフ…!」

 背中をしたたかに打ちつけた衝撃に軽く咳き込みながら、クリスターは間近に迫った弟の顔を睨みつける。

「今までオレ、クリスターのことを物凄く頭の切れる天才だって信じてたけど、実はおまえ、救いようのない馬鹿なんじゃないかって今は疑うよ」

 逃がすまいというように、レイフはクリスターの体の左右に腕をついて、彼を囲い込もうとする。

「どけ、レイフ!」

「どくもんかっ」

 かっとなったクリスターが身をよじって暴れだすと、レイフもますますむきになって、体を押し付けクリスターの動きを封じにかかる。

 必然的にレイフの太股や下腹がクリスターのそれに密着し、そのリアルな感触に、クリスターは慄いたように震えた。

(あ…)

 こんなふうに弟と親密に触れ合うことをクリスターは用心深く避けていたのだが、頭に血が上ったレイフには、彼の焦りに構う気振りもない。

 たちまち、クリスターの心臓の鼓動は激しくなり、頬は炙られたように熱を持ち、背中にはじっとりと汗が滲み出す。

 これはまずいと、クリスターはとっさに自分とレイフの胸の間に手を入れて、じりじりと自分を圧殺しようとする弟の躰を押し返した。

 するとレイフはそれ以上クリスターに迫れなくなったが、クリスターも隙あらば自分を捕まえようとするレイフの腕の間から逃げることはできなくなった。

 2人の力がほぼ拮抗しているがために保たれる、この危ういバランス、この微妙な距離―自分達を取り巻く空気が微細な電流を帯びているかのごとくピリピリと張り詰めていくのを感じながら、彼らはしばし石と化したかのようにじっと睨みあっていた。

「どうして…どうして、分からないんだよ…!」

 ついに、堪えきれなくなったかのように、レイフが叫んだ。

 怒り狂ったその顔が、転瞬、泣きべそをかく子供のようにくしゃっと歪む。

「おまえの身に何かあったら、オレだって平気でいられない…J・Bの手がおまえに伸びてるってはっきり分かって、どうしてオレがおまえを放っておけるんだ、あんなサイコ野郎と独りで戦わせることができるんだよ!」

 レイフの胸に押し当てた掌から彼の心臓の鼓動が伝わってくる。力強く動いて、熱い血を全身に送り出しながら、規則正しく打ち続けている。とくん、とくん…とくん…。それは、当たり前のようにすっとクリスターの体に馴染み溶け込んで、彼自身の心臓の鼓動と重なった。

(ああ、駄目だ)

 ふいに自分を襲った圧倒的な激情の奔流に飲み込まれ、クリスターはぐらぐらと頭が揺れ始めるのを覚えた。

「頼むよ、クリスター…オレの手を取ってくれ。おまえの敵はオレにとっても敵なんだ。後生だからおまえと一緒に戦わせてくれ…オレは、あんな奴には、指一本オレのクリスターに触れさせたくねぇよ」

 まるで心と心が奥深い所でつながってしまったかのように、レイフの激しい感情がそのままストレートにクリスターの胸に伝わる。己を防御しようとする強固な意思の力もはねのけて、レイフの発する言葉のひとつひとつが剥き出しになった心に深く突き刺さる。

「オレ達は一生の相棒なんだよ。お互いを守り、助け合って生きていくために、一緒に生まれてきたんじゃないか。クリスターだって、ほんとは分かってるんだろ?」

 切実に自分を求め訴える弟に、クリスターはなす術もなく魂ごと引っ張られるような気がしていた。

(レイフ、そうだ、僕だって、本当は…おまえと一緒にいたい…片時も離れたくない)

 昔読んだ神話に描かれていた、唯一無二の半身とかき抱きあい、まつわりついて溶け合ったまま死んでいった人達のように―。

(他には何も欲しくない…何もしたくないし、これ以上余計なことを考えたくもない。レイフ、レイフ、おまえさえ手に入るなら、後はもうどうなっても構わない。 そうだ、なぜいけない? こんなにも簡単に心がつながるのならば、体だって、ひとつになってもいいじゃないか)

 体の奥底から湧き上がってくる魂の叫びに身を震わせながら、クリスターは熱を帯びた掠れた声で呼びかけた。

「レイ…フ…」

 先程まではレイフの胸を突っぱねるようにあてられていたクリスターの手は、いつの間にか彼のシャツをつかんで今にも引き寄せようとしている。

「クリスター」

 クリスターの昂揚が伝わったのか、レイフも頬を薄っすらと上気させ、あえぐように息をした。いきなり体の芯に灯った熱に戸惑うよう、大きく見開かれた目でクリスターを見る。

「な、何…?」

 緊張のせいか、レイフはしきりと唇を舐めている。何か言いたげに開いたかと思うとぎゅっとすぼめられる、その唇を噛み付くようなキスでふさぎたい―突き上げてくる飢渇にクリスターは眩暈がしそうだった。

(切り離すことなどできない。おまえが可愛くて、可愛くて…おまえだけが欲しくて、レイフ、僕は―)

 レイフがじっと様子を窺う中、クリスターはそろそろと手を上げて彼の頬に押し当てた。

「兄さん、オレ…」

 緊迫感に耐え切れずに何か言いかけるが、レイフはすぐに絶句してしまう。

 これだけ体を密着させていれば、クリスターが欲情していることくらい分かるだろうに、どうして無防備のまま、逃げようとしない? それは、レイフも欲情しているからだ。先にその気になったのはどちらかなどと確かめることは、自分達の場合難しいし、意味がない。

「レイフ、僕はおまえを―」

 強烈な欲に駆られたクリスターがレイフを引き寄せようとした、まさにその瞬間、部屋のドアが開いた。

「お、おまえ達、一体何を―」

 レイフの体越しに、顔を強張らせて立ち尽くすラースの姿を見た途端、一気に我に返ったクリスターは、自分達の有様にも気がついた。

 今にも互いをかき抱かんばかりに接近している双子の兄弟。父親であるラースには、決して見せてはならない光景だ。

「…離れろよ、レイフ」

 クリスターは衝撃のあまり声も出せずに凍り付いているレイフの体を力ずくで押しのけた。そうして、弟を後ろに隠すようにして、こちらもやはり動転している父親の前に立つ。

「ごめんよ、父さん、つい大きな声で言い争ったりしたから、驚かせたのかな」

 何事もなかったかのように平然として、クリスターは父親に話しかけた。こんな芸当は、馬鹿正直なレイフにはとてもできないだろう。

「クリスター、一体、おまえとレイフは2人で何をしていたんだ…?」

 上ずった声で不安そうに問いかけるラースの瞳には、今まで自分達兄弟に向けられてきた温かなものとは明らかに違う、疑惑と嫌悪の色がある。

 クリスターは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。

「僕達が兄弟喧嘩をするのが、そんなに珍しいかな?」

 レイフはクリスターの後ろで息を殺してことの成り行きを見守っている。下手に自分が口を開いたら事態はまずい方向に転がるということは直感的に分かっているようだ。

「喧嘩? いつも仲のいいおまえ達が…それはまたどういう理由でだ?」

 クリスターはふと口をつぐんだ。

 ラースが納得できるもっともらしい理由はすぐに思いついたが、それを口にするには勇気がいった。

「僕達の進路のことで…ちょっともめてたんだよ」

 怪訝そうなレイフの視線を背中に感じて、つい気後れしそうになったが、クリスターは思い切って続けた。

「卒業したら、僕はハーバードに行くってレイフに言ったんだよ。フットボールも今年を最後にやめるつもりだから、僕に構わず、おまえは自分の好きな大学に進めばいいって…レイフならきっとスポーツ推薦を取れるし、フットボールの名門校にだって入れるだろうから―」

 レイフが大きく息を吸い込む音が聞こえた。驚くはずだ。彼にとっては寝耳に水の話なのだから。

「ちょっ…ちょっと待てよ、クリスター…!」

 黙って聞いていられなくなったレイフはクリスターに取りすがろうとしたが、それをクリスターは冷たく振り払った。

「ほ、本気じゃないだろっ?」

「何度も言っただろ、僕は本気だよ、レイフ。僕にはフットボール以外にもやりたいことがある。おまえとの約束を反故にしてすまないけれど、現実的な将来を考えて、遊びは高校までで充分だと割り切ったんだ」

 半ばは父親を納得させるための計算だが、本気には違いない。今だからこそレイフにも打ち明けられると、この場の勢いの力を借りて、クリスターは言い放った。

「だから、おまえもいい加減真面目に自分の将来を考えろよ、レイフ。僕がいなくたって、おまえはちゃんとやっていけるさ」

 父親の目をごまかすための芝居だと初めは思っていただろうが、クリスターの声や態度の中に真実を嗅ぎ取った途端、レイフは顔色を変えた。

「そんなこと勝手に決めるなよ、クリスター、オレは認めないぞ! 大体フットボールがただの遊びだなんて、嘘だろう! やめられるはずがない、おまえだってオレと同じくらいフットボールを愛しているんだから」

 ラースが傍で固唾を呑んで見守っていることも忘れ果て、レイフは必死の形相でクリスターの腕を掴んで引き寄せようとする。

「いい加減にしろ!」

 クリスターはレイフの顔を平手で思い切り打ちつけた。

「に、兄さん」

 兄に打たれた頬を押さえて、レイフは呆然と囁く。

「おまえのお守りにはもううんざりなんだ」

 クリスターは苦々しげに吐き捨てた。

「おまえが何と言おうと僕は1人で好きな道を行く。甘ったれの弟に振り回されるのは、もうごめんだ!」

 レイフが今にも泣き出しそうな顔をするものだから、余計に気持ちをかき乱されたクリスターは、つい必要以上に大きな声で怒鳴ってしまった。レイフを睨みつける目はつりあがり、歯もむき出されていたかもしれない。

「クリスター、レイフ…2人とも、落ち着け…」

 見かねたラースが、おろおろしながら間に入って彼らをなだめようとした。

「ごめん、また大声を出して…」

 誰に対して謝っているのか分からぬ気分でそう呟く。クリスターはがんがんと痛み出す頭を手で押さえると、凍りついたように立ち尽くしているレイフから離れ、そのまま部屋を出て行った。

 レイフはきっと捨てられた子犬のような濡れた目で自分を追っているだろう。頼むからラースの前であまり感情をさらけ出さないでくれと祈りながら、クリスターはともすれば崩れそうになる脚を無理に急かして階段を駆け下りていく。

「クリスター」

 階段の下では張り詰めた面持ちのヘレナが静かに立っていた。

 クリスターは一瞬その前で足を止めたが、今にも堰を切って溢れ出してきそうな涙を母に見られるのが嫌で、無言のまま外に出て行った。

(レイフ、レイフ…このくらいのことで泣くのはやめろよ…ああ、何てことだ、まだつながったままなのか)

 家から出ても、まだレイフの混乱と悲しみがクリスターの胸に迫ってくる。クリスターは、自分のものかどうかも分からない涙を抑えるのに苦労しながら、ガレージに向かった。

(落ち着け…僕まで動揺してどうする。進路のことは、どのみち近いうちにレイフに打ち明けなければならなかった…丁度いい機会だったんだ。そう、僕はレイフと同じ大学には進まない…フットボールも今季が最後、プロになど、僕はならない)

 胸のうちでは既に決まっていたことを口にしただけでかくもうろたえる今の自分が滑稽で、クリスターは乾いた笑いを漏らした。

(ああ、でも、あんなふうに突然に、あんな残酷な言い方でレイフに知らせるつもりじゃなかったのに―いや、そんなことばかり考えて逃げていたら、僕はいつまで経ってもあいつに打ち明けられなかった…あいつの手を振り払えなかっただろう)

 クリスターは愛車に乗り込むと、レイフがとめに来る前に急いでガレージから発進させた。

(やめられるはずがない、おまえだってオレと同じくらいフットボールを愛しているんだから)

 ふと、先程クリスターを思いとどまらせようとしたレイフの必死の訴えが思い出された。

(フットボールか…考えてみれば、僕にとって一番長続きしたものだな。レイフのように純粋に愛していたわけではないし、我を忘れるほどにのめりこんだ覚えもないが―やめるとなると確かに少し…寂しいような気がするな…)

 小学校に上がった頃からリトルリーグに入って、それからもう10年以上の付き合いだ。チームや傍にいる仲間達は変わっても、いつだってレイフと一緒に練習をして、どちらが先に強くなるのかうまくなれるのか競いあいながら、どんどん力をつけていくのが楽しかった。

(ああ、そうか、レイフが言ったように、やっぱり僕も好きだったんだな…でも、どんなに夢中になったものでもいつか終わる時が来る。自分に過酷な要求を強いて実力を出し切った末にたどり着いた昨年の優勝とMVP…あれが僕の限界なんだ。天賦の才能に恵まれた弟と同等であるため、前に立ってリードするため、僕はいつでも必死でいっぱいだった。だから、レイフ、後はおまえに任せるよ。僕がいない方が、おまえはきっと伸びて本来の実力を思う存分に発揮できるはずだから―そう、今度こそ、おまえの本気を僕に見せてくれ)

 レイフと共に頂点を目指す夢を諦めた代わりに、自分にはとても手が届かないほどの高みにいつかレイフが到達する姿を見たいとクリスターは思う。

(おまえの未来に影を落とすもの、邪魔になるものは、僕が全部取り除いてやる…誰にもおまえに手出しはさせない―そう、J・Bのことは僕がこの手で始末をつける。もし奴が今度も執拗におまえを狙って危害を加えようとするならば、その時は―)

 まだ興奮状態から抜けきらないのか、つい殺気立って物騒なことを考えてしまう自分にさすがに危機感を覚え、クリスターは気持ちを切り替えようと頭を振った。

(全く、僕としたことが…)

 フロントガラスの向こうの宵闇を茫洋と眺めながら、クリスターは自嘲的な笑みに唇を歪めた。

(もう少しうまくやれると思ったのにな…まあ、あそこまで事情が分かれば、レイフが素直に僕の言うことに従うはずはなかったけれど、あんなに強気に逆らうとは思わなかった。レイフの奴、やっぱり最近少し変わってきたかな…もう僕が庇ってやる一方の甘えたな子供じゃないということか。あいつが少しは自分でものを考えるようになって、しっかりしてきたのは、僕も嬉しいけれど、でも―)

 密着した弟の体の感触や顔にかかった吐息を思い出すと、また動悸が激しくなってくる。こみ上げてきた腹立たしさを押さえかね、クリスターはアクセルを踏み込んだ。

(レイフの馬鹿め…あんなふうに不用意に僕に触ったり感情をぶつけたりするなんて、反則だぞ…!)

 レイフのうかつさを心の中でなじりながら、クリスターは改めて、双子の弟を求める自分の欲望の強さに慄然となっていた。

(いや、レイフばかりを責められない。何ということだろう、あいつと距離を置いて付き合うことにも大分慣れてきたように思っていたのに、いざ近づいてみると、何も変わってはいなかった。僕はすぐにあいつを欲しくなったし、レイフも同じようにやはり反応していた)

 体育館の裏で抱き合った時にも覚えた衝動は、少しも変わらない強さで、彼らがこれまで必死で守ってきた全てをぶち壊そうとする。 

(一生の相棒だなんて、まるで僕達の関係は子供の頃から少しも変わっていないかのようにおまえは言ったけれど―僕達は普通の兄弟じゃない。おまえだって、忘れたわけじゃないだろう? 一線を越えた13才のあの時からずっと、僕達は普通の兄弟のふりをしてきたけれど、それが嘘だということはお互い心のどこかで感じていた。ああ、ただの肉親としておまえに接することなんて、僕にはやっぱり無理だよ、レイフ…さっきのことでつくづく思い知らされた。おまえが傍にいるだけで、そんなつもりはなくても、ともすれば、あんなふうに勝手に体が反応して、歯止めがきかなくなる。あの時、父さんが部屋に入ってこなかったら、僕はおまえに何をしていたか分からない。レイフ、おまえだって、そこまで考えて行動していたわけじゃないだろう…? 父さんにまずいところを見られたって、すごく動転していたじゃないか…僕達の本当の関係を知られるのが嫌だったんだ)

 あの時は、さすがのクリスターも体中の血が一気に冷えたような心地がした。

(何てざまだ、レイフにばかり気を取られて、父さんが2階に上がってくる物音も気配も分からなかった…父さんがあんな怖気をふるうような目で僕らを見たことなんて初めてだ。それほどに僕らは常軌を逸して見えたのかな)

 張り裂けんばかりに見開かれた父の目を通じて、自分達の不自然なありようをまざまざと見せ付けられたような気がする。

(これからは、特に父さんの前では、レイフとの接し方にも注意した方がいいな。今までそんなふうに親に対して気を使ったことはなかったけれど、父さんのあの態度を見る限り、過度な触れ合いは避けるべきだ…レイフを遠ざけたい僕にとっても、これは好都合だろう)

 そこまで考えて、クリスターはふと首を傾げる。

(それにしても、一体父さんはどうしたんだろう…確かに、あの場面を見られたのはまずかったけれど、今までだって、父さん達の前で当たり前のように、僕とレイフは同じくらい接近したり触れ合ったりしていた。世間的には親密すぎる僕らの接し方に、ある意味父さんは慣れていたはずなんだ。それを、今更のようにいきなり気にしだしている…?)

 漠然とした嫌な予感がクリスターの脳裏を掠めたが、それは形になる前に他の様々な感情の波の間に沈んでいった。

(とてもじゃないけれど、今夜は家には戻れない…かといって、こんな気持ちを抱えて1人で過ごすのもさすがに辛いな)

 しばらくは当てもなく車を走らせていたクリスターだが、ふと思いつくままに行き先を学校に向け、やがて寮の近くで停車した。

 そうして、近くの電話ボックスから暗記している電話番号をダイヤルする。

 応対に出た受付を通して相手を呼び出し、しばらく話した後、受話器を元に戻した。そのまま、しばらくの間クリスターは待った。

  10分もかからなかっただろう。やがてクリスターは暗がりの向こうから息せき切って駆けてくる小柄な少年の姿を見つけた。

「クリスターさん?」

 電話ボックスの傍の街灯の下に途方に暮れたようにたたずんでいるクリスターに、彼は軽いショックを受けたように目を見開いた。

「何があったんですか?」

 一目で打ちひしがれていることが分かるほど今の自分はひどい顔をしているのかなと思いながら、クリスターは心配そうに近づいてくる少年に向き直った、

「ダニエル、ごめんよ、急に呼び出したりして」

 クリスターがいつもの癖でつい詫びると、ダニエルは何を水臭いことを言うのかというように頭を振った。

「レイフとね、言い争ったんだ」

 クリスターは感情のこもらない淡々とした声で告げた。

「あいつと同じ大学には進まない、フットボールも今年限りでやめるということをね、今になってやっと…僕はあいつに打ち明けた」

 ダニエルははっと息を吸い込んだ。

「クリスターさん」

 聡明なダニエルはその言葉だけでクリスターの今の心情を察したようだ。たちまち大きな瞳を潤ませると、彼の体を支えようとするかのようにそっと寄り添ってきた。

 他人に頼ることを少し前までのクリスターは嫌悪していたはずだが、今は、そんなことはもうどうでもよかった。

「ダニエル…」

 クリスターが衝動的に抱き寄せるのにダニエルは素直に従い、おとなしい子猫のようにすっぽりと彼の腕の中におさまった。

「頼むよ、僕の傍にいてくれ…今夜は独りで過ごすことに耐えられそうにないんだ」

 ダニエルはクリスターの気持ちに応えようとか細い腕を伸ばし、精一杯の力で彼を抱きしめようとしている。

 ダニエルの艶やかな栗色の髪を撫でながら、なぜか弟の泣き出しそうな顔と声を思い出したが、クリスターはその記憶を無理矢理振り払った。

「大丈夫、僕はあなたの傍にいます。だから、クリスターさん…どうかもう自分を責めたり傷つけたりしないでください」

 優しい声に張り詰めていた心が緩むのを覚え、そっと目を閉じると、クリスターは指先で探り当てたダニエルの唇に震える己の唇を重ねた。


NEXT

BACK

INDEX