ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第３章 唯一の絶対
SCENE1１
クリスターはオレのことをただの可愛い弟として愛そうと決めたらしい。
でも、そんなの、やっぱり違うだろう。
努力ならしてきたはずさ、これまでだって。
それでも、オレ達が『普通の兄弟』であったためしなんて、これまで一度もなかったんだ。
（ふふっ…双子って、一体どこまで同じにできているのかしらね…？）
甘く掠れた声が耳朶に柔らかく触れ、滑らかな指先が愛しげに胸をなぞる感触に、レイフはまどろみつつ微かに身を震わせる。
（これだけクリスターとそっくりなんですもの。女の抱き方や…感じるところも、似ているのかしらね？）
この悪戯っぽい声の響きは、何だか懐かしい。この優しい愛撫にも覚えがある。
（アリス…？）
思い至った途端、ああ、夢だなとレイフはやけに冷静に悟った。
ふられた女の夢を見るなんて、すっきり忘れたつもりでいたのに、意外とまだ未練が残っていたのだろうか？
目を覚まそうとすればそうできそうだったが、押し付けられた肌の温かさや快感を引き出そうとあれこれ駆使される手管は実際気持ちよくて、レイフはそのままとろとろしながら、夢の女の抱擁に身を任せていた。
そうするうちに、一端浮上しかかったレイフの意識は夢の淵に再び引きずり込まれていく。
そう言えば、この女とするのはすごくよかったんだ。あの夜の再現にこうして浸っていると、夢だと分かっていても次第に体が熱くなってくる。
レイフの都合のいい願望も入っているのか、彼の裸の体に寄り添うこの相手は、心なしか記憶にあるより積極的で、大胆で、欲しいと思うとおりの刺激をくれる。
レイフの体の芯についた欲望の火は瞬く間に燃え広がり、じりじりと全身を焼いて、彼をわななかせた。
喉を鳴らせ、薄く開いた口から熱い吐息を押し出し、ついに堪えきれなくなったレイフは傍らにいた女を抱き寄せ、体の下に巻き込んだ。
くすくすと夢の女が笑うのに、レイフはあの夜自分が密かに思ったのと同じことを囁きかけた。
（アリス、あんたとするのは最高だよ。でもさ、もし、ここに…あいつが一緒にいてくれたら、もっとずっといいのに―）
自分がつい漏らした言葉に、レイフはぞくりと身震いした。
（それなら、彼も誘ってみましょうよ）
どこか嘲るような声が答えた瞬間、誰かがレイフの手首を掴んだ。
女のものではない力強い手の感触に、レイフはぎょっとなって、目を開けた。
（これは夢だ）
呆然となって、レイフは自分に言い聞かせる。
いつの間にか、レイフと抱き合っていたはずのアリスは影も形もなくなっていて、代わりに、彼の手首を捕まえたままゆらりと起き上がったのは―。
（ク、クリスター？）
上ずった声でレイフが叫ぶのに、クリスターは目を細めるようにして笑った。
おまえの考えていることなどお見通しだと言わんばかりに、クリスターはレイフの手をゆっくりとシーツの上に押さえ込むと、そのまま彼の上に覆いかぶさってきた。
焦ったレイフはとっさにクリスターの胸に手を突いて押し返すが、どうにも力が出ない。
あろうことか、クリスターもレイフと同じように裸で、既にすさまじく昂ぶっていることが一目で分かるほど、鏡に映したように何もかもレイフにそっくりな体の中心の部分はきつくそそり立っている。
それを見ていると、自分でもどうしようもなく興奮してきて、レイフは激しく打ちのめされた。
クリスターばかりではない、彼のものもいつの間にか頭を高々ともたげて、欲しい欲しいとあさましくも先端を濡らしている。
こんなことはあってはならないのに、体が正直に反応してしまう。
こいつとつながりたい。一つになりたい。
再び、クリスターがレイフにのしかかってきた。
せわしなく上下するレイフの胸に胸が重なり、空気を求めて喘ぐ口を口が覆い、熱を持って痛いほどに怒張したそこが擦れあう。
打ち寄せてくる快感の波になす術もなく流されそうになったレイフは、溺れる人が手がかりを求めるよう、とっさにクリスターの肩にすがりついた。
何だかもうたまらなくなって、レイフはクリスターの首に腕を巻きつけ、もっととねだるように自らを押し付けたくなったが、かろうじて残っていた理性が訴える。
（だ、駄目だ）
思わずクリスターを引き寄せかけた、その手で逆に彼の肩を押し返し、レイフは逃げるように身をのけぞらせた。
濡れた音をたてて、互いを貪りあっていた唇が離れたが、それをまたクリスターが執拗に追ってくる。
必死で逃げようとするレイフをクリスターはやすやすと捕まえて、身動きを封じた。
さあ、どうすると笑うクリスターの顔を映し出したレイフの琥珀色の瞳が、追い詰められたように、揺れた。
どうする？ おまえは一体どうしたいんだ？
クリスターの無言の問いかけはレイフをますます混乱させる。
（どうする…どうするって…）
兄にしっかりと組み敷かれたまま、レイフは切迫した声で叫んだ。
「ク、クリスター！」
どすん。
ベッドから転落して床にしたたかに頭をぶつけた衝撃で、レイフは一気に目を覚ました。
（ああ…夢かよ）
しばし転がり落ちたそのままの格好で逆さになった自分の部屋を眺め回して、やっと現実を認識すると、レイフは床から這い上がった。
床に座り込んでじんじんと痛む頭と首筋をさすりながら、ベッドに背中をもたせ掛け、レイフは溜息をついた。
生々しい夢の名残を体はまだ覚えていて、胸の鼓動は速くなったままおさまらず、ひどく汗をかいていた。おまけに―。
レイフは実に情けない気分でちらっと自分の下腹部の方に目を投げかける。
確認しなくても分かることだが、まあ、恐いもの見たさという奴だ。
（マジ勃ってら。はは…）
パジャマのズボンの前を押し上げているそれを、レイフは困ったような顔で、しばらく凝視した。
淫夢は去ったというのに、腹の奥を炙られるような感覚はいっかな消えてくれない。
それどころか、ますますひどくなる。払いのけようとしても、まだあのみだらな夢はレイフを逃そうとはせず、執拗にからみついてくる。
あのありえないほどのリアルさ。まるで本当に体を重ねたかのようにまざまざと思い出せる。
汗に濡れたクリスターの肌の感触、切迫した荒い息遣い、今にも爆発しそうなほど張り詰めた性器が自分のものに押し付けられた時には、背骨を伝わって走り抜けた痺れに全身がひしぐかと思った。
（最悪）
レイフは小刻みに震える手を握りこんだ
（じんじんと痛くて熱くて堪らねぇ。もう泣きそう）
情けないやら腹が立つやら、頭を垂れてひとしきり悪態をついた後、ついに観念したレイフはパジャマを下着ごと一気に引き下ろし、溜め込んだ熱を吐き出させるべく、屹立した性器に手を伸ばした。
そうして、しばらく経った後―。
レイフはぼうっとした顔でクリスターの部屋の前に立っていた。
ひとまず体は落ち着いたのだが、ベッドに戻って寝なおそうとしても、妙に目が冴えてしまって眠れずに、次第にまた落ち着かなくなってきた。そこで、ふとクリスターの顔を見たくなったのだ。
しかし、さすがに夜中の二時を回っていては、宵っ張りのクリスターももう起きてはいないようだ。
（何だ、残念。兄貴が起きていたらなって思ったのに）
起きていたら―どうしようと思ったのだろうか。
（さあ。分かんないや。でもさ、とにかくクリスターの顔が見たくて、声が聞きたくて仕方ない。あ、もしかしたら、普段どおりのあいつの顔を見たら、あんなろくでもない夢なんか、やっぱり嘘っぱちだと忘れられそうだからかな。ううん、違うな。ただ、オレは…確かめたいんだ、そう…）
思い出そうとすると、レイフの心臓は縮み上がった。かっと頬も熱くなる。
目が覚める直前、『クリスター！』と自分が叫んだのは覚えている。あの後、何と続けようとしたのだろうか。
『やめろ』と言おうとしたのか、それとも―。
クリスターは眠っているのにすぐには立ち去りがたくて、レイフは目の前で固く閉ざされたドアを凝然と睨みつけていた。
レイフは躊躇いがちにドアノブに手を伸ばした。用心深く見えるクリスターだが、自室のドアに鍵をかける習慣はない。音もさせずに忍び込んで、熟睡しているクリスターの寝顔を盗み見してやろうか。
そんな悪戯を思い、レイフはドアノブを掴んだ。
（ただ見るだけ…他には何もしねぇから）
言い訳をしながらドアノブをそっと回そうとした、その時、レイフの部屋の向こうにある両親の寝室のドアが開いて、ラースがのっそりと出てきた。
眠そうにあくびをしながら頭をかいた彼は、クリスターの部屋の前に立ち尽くしているレイフに怪訝そうな目を向けた。
「うん？ どうした、レイフ、こんな時間に何をしている？」
廊下の照明は暗く落としているので、今ラースにはレイフの表情をはっきり見ることはできないのは幸いだった。
こちらにまっすぐに近づいてくるラースを認めた途端、レイフは火がついたように真っ赤になって、動転した声で叫んだ。
「ち、違う、何でもないっ。ト、トイレ…トイレ、ただのトイレ―っ！！」
熟睡している家人を全員叩き起こすような大声で絶叫したかと思うと、たじろぐ父親を突き飛ばすようにして、レイフは一階にあるバスルームに向かって階段を駆け下りていった。
（ああああっ、何やってんだよ、オレっ！）
その後しばらくトイレに立てこもったレイフは、自分の怪しい行動を思い出しては、恥ずかしさに一人身悶えしていた。
何事かとラースはさぞかし肝を潰したことだろう。あんな場面に出てくるなんて、間が悪いことこの上ない。
いや、彼にはむしろ感謝すべきだろうか。おかげで、クリスターにおかしなまねをせずにすんだわけだから―。
（確かめたいなんて言い訳して、クリスターの部屋に忍び込もうなんて、全くおかしな行動だよな。ああ、マジですごくやばいことをしかけてたんだ、オレ…）
危ない所だったと冷や汗をかきながら、一方で、レイフはまだ考えるのをやめられなかった。
夢から覚める直前、レイフはクリスターに何を訴えようとしていたのか。
やめろと叫んで彼をとめたかったのか、それとも、こう懇願しようとしたのだろうか。
（なあ、続けてくれよ、オレのクリスター…）
そんな一波乱があった次の日の放課後。陸上部の練習に出たレイフは、グラウンドの端のベンチに腰を下ろしてタイムを計る順番待ちしながら、あくびを噛み殺していた。
（眠い）
夕べは、あれからほとんど眠れなかった。いつもはベッドに入るなりすぐに眠り込んで、そのまま朝まで起きないレイフなのだが、さすがに、あんな夢を見てしまった後では健康的に眠ることなど無理だったか。
「どうしたんだよ、レイフ、珍しくも疲れた顔してるじゃん？」
先にタイムを計測し終えたトムが、息を弾ませながら近づいてきた。
「んー、ただの寝不足。眠れなかったんだよ、夕べ」
心ここにあらずの様子で応えるレイフの隣にすとんと座り込んで、トムは軽く伸びをした。
「なんで？」
レイフは膝の上に軽く頬杖をついて目の前を駆けていく他の陸上部員達を眺めながら、気の抜けた調子で答えた。
「まあ、何ていうか、一種の欲求不満だろうなぁ」
「は？」
怪訝な顔をして、トムが振り返る。
「い、いや…」
レイフはとっさに手で口をふさいで、トムの疑わしげな視線をかわすよう、グラウンドの外の方に顔を向けた。
（やぱい、やぱい…おや…？）
何気なく後ろのフェンスを見やったレイフは、ふと眉を顰めた。
グラウンドのすぐ外側にある道路から仕切るフェンスの向こうに異様に大きな体格の男が立っていたからだ。
１９３センチあるレイフよりもまだずっと上背はありそうだし、横幅は比較にならないほどに逞しく、隆々と盛り上がった腕や肩の筋肉のつき方を見るともしやステロイドでも使っているのではないかと疑いたくなるほどだ。ふと足を止めて陸上部の練習に見入っていたのだろうか。しかし、レイフが彼の存在に気づいたのを見て取るや、すぐにその場から離れていく様子が何だか気になった。
レイフは手を上げて、首筋の辺りを撫でた。頭よりも早く本能が危険を察知したらしい、皮膚がそそけだっている。
（うちの生徒だよなぁ…どこかで見た顔のような気もするけど、誰だったっけ？）
人の顔を覚えることが苦手なレイフが首を捻っていると、隣に坐っているトムが驚いたような声をあげた。
「あ、あいつ…前にフットボール・チームにいたフレイじゃないか？」
「えっ？」
「覚えてないのかよ、一学年上で俺らと同じようにスポーツ推薦で入ってきた奴でさ、ラインやってた。まあ、俺達が入学する前は結構活躍したらしいけれど、二年目からはあんまり練習にも試合にも出なくなって、俺達が一緒にプレイしたことは少なかったと思うけど」
「あ、そうだったかな。ふうん、どっかで見た覚えはあったんだけど」
トムはレイフの記憶力の悪さにちょっと呆れ顔をした後、顔をそっと近づけて、低い声で囁いた。
「ほら、Ｊ・Ｂが影で糸を引いてたっていう、例の賭博事件がらみで退部になった奴だよ。しばらく姿を見てなかったから、てっきり学校もやめたんだと思ってたけど、まだいやがったんだ」
「Ｊ・Ｂの」
レイフははっと息を吸い込んで、あの生徒が去っていった方角へ鋭い視線を走らせた。
（ああ、そう言えば…フットボール・チームでの印象はあまりないけれど、Ｊ・Ｂの取り巻き連中の中にあいつの姿を見たことはあったな。そうそう、思い出した、あのデカブツ、まるでＪ・Ｂのボディ・ガードみたいにあいつの後ろに控えて、じいっと周りに威嚇するような目を向けてたっけ）
レイフがあの男と直接言葉を交わす機会はなかった。
誰もほとんど声を聞いたことがないほど寡黙な男で、ドラッグを持ち込んだ怪しげなパーティーや女を連れ込んだ乱交といった逸脱行為には加わらず、その点、やりたい放題だったＪ・Ｂの他の手下どもとは一線を画していた。ハニーが受けたような暴行にも確か関わってなかったはずだ。だから、退学処分までには至らなかったのだろう。
ただ彼には、Ｊ・Ｂをほとんど崇拝していたような感があった。警察に追われていたＪ・Ｂを一時匿っていたとも言われている。たぶん他の取り巻き連中の誰よりも、あの悪党に忠実だったのだ。
（Ｊ・Ｂがとっつかまった後、あいつ、どうしてたんだろ。そういや、ほんとに今まで姿を見かけた覚えがない。あれだけの大男だから、いれば目だってすぐに分かりそうなものだし…もしかしたら、ほとぼりが冷めるまで休学でもしてやがったのかな。それなら納得がいくか。実際、オレ、フレイの野郎のことなんかほとんど忘れかけていた）
すると、あの男を見た瞬間に覚えた危険信号のおおもとは、奴の背後にちらつくＪ・Ｂの影だったわけだ。
しかし、それならばそれで、余計に気になってくる。
（何か、嫌ぁな感じがするよな。そういや、Ｊ・Ｂの姿を見かけたと思ったのもついこの間のボクシングの試合会場でのことだった。あの時は、どうやらオレの見間違いだったってことで納得したんだけど…今更だけど、すごく気になってきたぞ）
たまたま以前Ｊ・Ｂと関わりのあった人間の姿を見かけただけと言ってしまえば、それまでだ。同じ学校の生徒なのだから、別にさほど不自然ではない。
それを、あの時の錯覚とわざわざ結びつけて考えることはない。しかし―。
（やっぱり、あの時、アイザックに言われただけで素直に納得しないで、自分で探して確かめりゃよかったんだ。それで見つからなきゃ、オレの勘違いだったんだって納得できただろ。だから、今度は、自分の直感に従ってみるよ）
レイフがいきなりすっくと立ち上がるのをトムはいぶかしげに見上げた。
「どうしたんだよ、レイフ？」
「うん。ちょっと急用ができたから、オレ、今日はこれで練習あがるわ。コーチに言っといて」
「えっ？ って、おまえ、まだタイムも計測してないじゃないか。大会は一週間後なんだぜ。少しは気合入れろよな」
「明日は今日の倍がんばるから、見逃せよ。それじゃあな」
まだ何か言いたげなトムに向かって片目を瞑ってみせると、レイフは口うるさいコーチの目を避けて素早くグラウンドを後にした。
（そうだ、クリスターに相談してみよう…オレの嫌な予感を、あいつなら、きっとうまく説明できる。それに、もしかしたら、Ｊ・Ｂが今どうしているか、何か知ってるかもしれない。アイザックによると、オレには秘密にして、あいつはＪ・Ｂのことをよっく調べてたみたいだからな。 オレは、Ｊ・Ｂが退学になって施設にぶちこまれることになって、それで万事解決したって安心しちまったけど、考えたら、いつかは出て来るんだ。ひょっとしたら、もう戻ってきていて、オレが見たのは、本物のＪ・Ｂだったって可能性もあるんだ）
どうして、その可能性に今まで思い至らなかったのだろうと自分のうかつさに舌打ちをしながら、レイフは足を速めた。
自由になったＪ・Ｂが、いつか再びここに舞い戻って、クリスターに復讐する。あの二人の因縁の深さを考えれば、起こりそうなことだ。
（いや、復讐と言うのは違うかな…途中で終わっちまったゲームの続きを、Ｊ・Ｂはクリスターとしたがっている…そうやってクリスターともう一度つながりたがっている、そんな気がする。あの二人は似ているんだって、アイザックは言いやがった…オレはそんなこと認めないと思い切り否定したけれど、本当は認めたくなかったんだ。クリスターは自分の身内や仲間には優しく穏やかに接するけれど、敵に対してはひどく酷薄で情け容赦のない一面も持っている。それに、あんな命を粗末にするようなゲームを自分からしかけたりしてさ…だからＪ・Ｂの同類なんだとは言わないけど、クリスターのやったことが、結果として、あの怪物をあいつに固く結び付けちまったような気がしてならねぇ）
レイフはふと自嘲的な笑いに唇を歪めた。
（できれば、Ｊ・Ｂのことなんざ、きれいさっぱり忘れちまいたかったんだけどさ。クリスターには二度と近づけないよう、絶対出てこれない場所に閉じ込めて、安心したかった。ああ、だからオレ、Ｊ・Ｂが出てくる可能性自体、これまで深く考えようとしなかったのかな）
こんな心情を、あのアイザックにあたりにうっかり漏らしたら、それもまた幼稚な独占欲だと糾弾されるだろうか。
(半分は、その通りかもな。だってオレは、やっぱり、あいつにとって唯一の片割れでいたいから…同じ世界をあいつと共有したいから…クリスターが他の誰かの手を取ってオレの知らないどこか遠くへ行っちまうなんてことになったら、オレは―)
早くクリスターを捕まえようと焦る頭の一方でそんな取りとめのないことを考えながら、クラブハウスに駆け込んでさっさと着替えを済ませると、レイフは再び外に出た。
ボクシング部が使っているジムにいるかと思って最初に訪ねてみたが、生憎そこにクリスターの姿はなかった。ならば生徒会の方かと思って校舎に足を向けたが、それも確信はなかった。
クリスターの居場所を絶対に突き止められる自信など今のレイフにはない。何故なのか理由も分からず、クリスターの心はずっと遠いままだ。
（これで、クリスターはもう学校にはいなくて、何とか科学コンテストの準備のためって大学の研究室に行ってたりしたら、どうしようもないわな。ほんと、近頃のオレ達って、すれ違いが多いんだよな）
心の中でぼやきながら、レイフは、音楽室や工作室、幾つかの文科系のクラブが使っている部室がある校舎に足を踏み入れ、生徒会室のある４階へと上がっていった。
吹奏楽部の練習だろう、近くから、あまり上手とはいえないフルートの音が聞こえてくる。
四階のフロアーはがらんとしていて、人気はなく、これは当てが外れたかなとレイフは思ったが、生徒会室を覗くくらいはしてみようと廊下の突き当たりにあるその部屋に向かって歩いていった。
（やっぱり誰もいないって感じだよな）
固く閉ざされたドアの前で立ち止まり、レイフは困ったように頭をかいた。
（こうなったら、家で兄貴が帰ってくるのを待つしかないか…。でも、あいつ、研究室に一端こもったら、そのまま明け方まで帰らないこともあるしな。しゃーない、迷惑がられるかもしれないけど、大学まで押しかけてやろうか）
レイフが心を決めてくるりと踵を返しかけた、その時、生徒会室の奥から微かな物音が聞こえた。
レイフはいぶかしげに振り返った。
（誰かいるのか？）
もしかしたらクリスターが―レイフは慌ててドアに取り付き、大声で呼ばわろうとするが、そこでふと気を変えて、聞き耳を立てて中の様子を窺った。
確かに、ごく低い人の話し声が聞こえる。何を言っているかは分からないが、どうやら兄の声だとは認識できた。
（誰と話してるんだろ？）
レイフはノックをしようと上げかけた手を下ろし、しばし迷うように目の前のドアを凝視した。
そして、ドアノブに手をかけ、なるべく音をさせないよう慎重に回すと、ゆっくりとドアを押し開けた。
どうしてこんなことをしたのか、自分でもよく分からなかったが、一種の勘が働いたのかもしれなかった。
部屋の灯りはついていなかったが、夕方というにはまだ明るすぎる午後の日差しが、庭に面した窓から差し込んでいた。
整然と並んだ椅子にテーブル。ホワイトボードには会議で検討された議題が消されずに残っている。
レイフの視線はそれらをほとんど素通りして、部屋の奥、そこだけカーテンが引かれているせいでやや薄暗くなっている、テーブルに吸い寄せられた。
二つの人影が、そこでひっそりと寄り添いあっていた。
テーブルの端に腰掛けている小柄な少年とその前に立つ背の高い男―彼が低い声で囁くのに、少年はおとなしく頷きながらじっと耳を傾けている。その頬に手をかけた男がふいに身を屈めて、少年の何か言いたげな唇にキスをした。優しくついばむように触れたかと思うと、彼は少年の体をかき抱くようにして、深く唇を重ねた。すると少年の手がおずおずと上げられて、男の広い背中にしがみつく。
はっと息を吸い込む音がして、か細い声が切なげに呼びかけるのがレイフの耳に届いた。
「クリスターさん」
レイフは、いきなり重心を失ったかのようによろめき、とっさに捕まろうとしたドアに体をぶち当てた。
瞬間、部屋の空気が凍りつくのが、レイフにも分かった。
レイフの頬がかっと熱くなる。
転瞬、レイフは生徒会室から逃げ出していた。そのまま後ろを振り返りもせずに、階段を駆け下り、校舎の外に飛び出していく。
（何…？ 何だ、今の…？）
頭は今目撃してしまったものを拒否しようとしていたが、網膜にはっきり焼き付いた残像は離れてくれない。
クリスターがダニエルと抱き合って、キスしていた。
（どうして…あの二人、いつの間にそんなことになってたんだよ…嘘だ、信じられねぇ）
一気に体中の血が上って、今にも血管が破れそうなくらいに頭がずきずきと痛み、まともにものを考えることもできない。
怒りか悲しみか分からない激しい感情が突き上げてきて喉をぐいぐい押している。叫びだしたくなるのを必死で飲み下して、レイフは早足でひたすら歩き続けた。
体育館の裏手に差し掛かった時、レイフの背中に切迫した呼び声が突き刺さった。
「レイフ！」
クリスターだ。レイフを追いかけてきたのだ。
兄の声を聞いた瞬間、レイフは反射的に身を震わせて立ち止まったが、またすぐに歩き出した。後ろを確かめもしなかった。
「レイフ、待てよ！」
駆け寄ってきたクリスターがレイフの肩を掴んだ、その時、レイフの中で何かが弾け飛んだ。
「触るなっ！」
火を吹くように叫んで、レイフはクリスターの手を払いのけざま、彼を険しく睨みつけた。
レイフはきっと凄まじい表情をしていたのだろう、クリスターの顔がさっと青ざめ、頬が引きつった。
獰猛な獣めいた低い唸り声が自分の喉から漏れるのを聞きながら、レイフはともすればクリスターにつかみかかりそうになる衝動を懸命に堪えていた。
クリスターは唇を震わせ、何か言おうとした。おそらくレイフをなだめるための言葉を考えていたのだろうが、やがて、諦めたように首を振った。
「レイフ」
一転、ひどく冷静な態度になって、クリスターは話しかけてきた。
「僕がダニエルと何をしようと、僕の自由だろう。どうして、おまえがそこまで腹を立てるんだ？ 大体、僕が今まで女の子と付き合っていた時は一言も文句など言わなかったくせに」
「何だと？」
レイフは噛み締めた歯の間から押し出すように囁いた。
「クリスターは…ダニエルに手を出す気はないって、言ってたじゃないか…？」
「ああ、そう言った記憶は確かにあるけれど、人の気持ちが変わるものさ。僕が、あの子を可愛いと思って恋人にしたところで不思議じゃないだろ」
「嘘言うな。おまえは、本気でダニエルを愛している訳じゃない」
クリスターの目に一瞬暗く剣呑なものが過ぎった。
「まるで僕の気持ちを全て分かっているかのように言うんだね、レイフ。でも、そんなの、おまえの思い込みだよ」
突き放すように言うクリスターに、レイフは愕然となった。
「おまえが何と言おうと、僕はあの子を大切に思っている。それに、今の僕には必要な人なんだ。彼は僕を分かってくれていて…そう、一緒にいて、ほっとできるから…」
レイフの視線を避けるように横を向いてそんなことを呟くクリスターを、レイフは信じられないような思いで見ていた。
「クリスター…」
クリスターは肩で一つ息をつくと、レイフから身を引いた。
「僕は、おまえが何をしようが、もう口出ししないことにしたんだ。だから、おまえも僕に構うな」
低く押し殺した声で言い捨てて、クリスターはいきなり踵を返した。レイフを追いかけてここまで来たのに、また去っていこうとする。
遠くなっていく兄の後ろ姿、その頑なに閉ざされた背中を、レイフはその場に凍りついたまま見送りかけた。
「あ…」
レイフは恐怖に駆られたように身震いした。
（行ってしまう。切り離されて行ってしまう、オレの半分）
クリスターに拒絶された衝撃のあまり麻痺していた心を切り裂くようにして、激しい痛みがレイフの胸に走った。
「行くな…」
そう自覚するよりも先に、レイフの唇は勝手に動いて、掠れた声で離れていこうとする半身に向かって呼びかけていた。
「行くな…行くな、行くな…クリスター…！」
レイフは突き上げてくる衝動のまま地面を蹴って、遠ざかりつつあったクリスターに向かって突進した。
クリスターが振り返るよりも先に、レイフはぶつかるようにして、彼を背後から抱きすくめた。
クリスターがはっと息を吸い込んだ。
さしものクリスターもとっさにかわすこともできず、羽交い絞めにされた不安定な姿勢のまま、レイフの荒っぽい抱擁に捕らえこまれていた。
「駄目だ、クリスター…」
クリスターの耳元で、ごく低い震える声でレイフは囁きかける。
行かないでくれと懇願しようとしたのか、離れて生きることなどどうせ不可能なのだということを分からせたかったのか―レイフはクリスターの体にぴったりと自分の体を沿わせるようにして、じっと抱きしめていた。
まるで、そうしていれば、彼と一つに溶け合って、心も体も二人で分かち合い、お互いの全てを分かりあうことができるとでもいうかのごとく。
錯覚などとは言いたくない。
服を通しても、密着した肌の感触が、その下を流れる血の熱さが分かる。
とくん、とくん。
クリスターの心臓の鼓動が微弱な電流のようにレイフの体に伝わる。同じリズムを刻んでいる。規則正しく。
とくん、とくん…。
こんなに近くにあるのに、こんなにも等しくできているのに、どうして、一つになってはいけないのだろう。
「クリスター…？」
腕の中で、クリスターが大きく胸を上下させたのに、レイフは彼の肩口に顔を押し当てていた顔を上げた。
クリスターが何かを探すように狂おしげに頭を巡らせるのを、レイフも追いながら、胸のうちで呟いた。
（ああ、どこか…どこかに今、こいつと二人きりになれる場所があったら…）
急に意識したひどい渇きに苛まれながら、切迫した気分でレイフが視線をさ迷わせると、体育館の裏にある、あまり使われることのない用具置き場が目にとまった。
クリスターの目も同じ所にあてられているのを感じながら、レイフはすすり泣くように囁いた。
「クリスター」
瞬間、レイフの呼びかけによって我に返った、クリスターの体が大きく震えた。
「レイフ…レイフ、離せ…！」
追い詰められたように叫ぶクリスターに、レイフは瞠目した。
「離してくれ、頼むから―」
固く握り締められたクリスターの手が微かに震えている。
「兄さん」
逃がすまいとクリスターの体に回されていたレイフの腕から急速に力が抜けていく。それを荒々しく振りほどいて、クリスターはレイフから身をもぎ離した。
クリスターがひどく消耗したかのように項垂れ、肩を上下させるのを、レイフは呆然と見守った。
一時確かにつながったと思ったのに、また断ち切られてしまった心を追いたがって、レイフの手が上がる。しかし、それが届く前に、クリスターは歩き出した。
もはや一言も発さず、レイフから逃げるように足早に遠ざかっていくクリスター。
レイフが子供の頃からずっと追いかけてきた、自信と力に溢れたぴんと伸びた背や広い肩は、今はひどく頼りなげで、急に影が薄くなってしまったようだ。
ふいに熱いものが頬にこぼれかかるのに、レイフは慌てて目元を押さえた。
（あは…情けねぇな、オレ、泣いてやがんの）
ぎゅっと目を瞑って、涙を振り払うように頭を激しく振りたてると、レイフはクリスターが去って行った校舎の方角を睨みつけた。
ショックではあったけれど、クリスターがダニエルを恋人にしたことそのものが腹立たしいわけでは、たぶんないのだ。クリスターが、レイフから逃げる口実にするために、他の誰かの手を取ったことが許せないのだ。
（畜生、そうまでしてオレから離れようとするのかよ、クリスター。いや、そんなこと、できるものか）
おまえがオレなしで（オレがおまえなしで）生きられるものか。だから―。
（ダニエルと恋愛ごっこをしたけりゃ、すりゃあいい…おまえが、それで楽になれるって言うならさ。でも、オレは、おまえを必ず取り戻す…絶対あきらめるもんか…）
ちらっと横目で、先程目に付いた用具置き場を見やる。
もしも、あのまま何も考えずひたすら勢いに任せてなるようになってしまったら、レイフとクリスターはどうなっていたのだろう。
まだおさまらない気持ちの昂ぶりをもてあましながら、レイフは空を仰いで、鼻をすすった。
（オレの…クリスター…）
結局起こらなかった『もしも』にふと思いを馳せ、レイフは一人、安堵とも失望とも取れぬ深い吐息を漏らすのだった。
ラース・オルソンが経営する警備会社は、ボストンの中心街からやや離れた場所にある、オフィスビルの中にある。
インターンを希望して受けた面接でラースに気に入られて即採用となり、つい数日前から働くようになった彼のデスクの周りには、古株の社員達三人が集まって、仕事のノウハウを説明していた。
しかし、飲み込みの早い新人に教えることはもうあまりなく、実際、専ら体力自慢の社員らの苦手なコンピューターを使ってのデスクワークとなると、ほとんど彼に任せてもよいくらいになっていた。だから、それぞれが外の仕事に出て行く前の朝の一時、こうしてコーヒーを片手に集まっているのも、むしろ他愛のないおしゃべりをするためのもののようだった。
「…それじゃ、皆さんはもともとオルソンさんのチームメイトとかフットボール関係の知り合いの方々なんですね」
彼が素直な好奇心を育ちのよさそうな整った顔にあらわにして問いかけるのに、自分の子供のような年のこの青年を可愛がっている古株の社員達は機嫌よく応えてやっている。
「まあ、プロとしてそこそこ活躍したのはラースくらいなものだけれどな。俺らはせいぜい二軍どまりだったり、大学リーグでは活躍してもプロとしては通用せずに、仕事を探していた所をラースに拾われたりでさ」
三人の中のリーダー格、ラースの親友でもあるブライアンが言うと、一応経理部長の肩書きもあるジョエルが頷く。
「ラースもな、事故さえなかったら、すごい名選手になれたろうに…」
「でも、一度挫折しても、そこから立ち上がってこんな会社を興して成功させるなんて、すごくタフな人ですね」
すると、副社長のヘレナに密かに憧れているらしい独身男のヴァンが補足する。
「ああ、もちろんラースもがんばったんだが、彼の成功には奥さんの助けが大きかったんだろうなぁ。ラースの人柄に惹かれて人が集まって、仕事に関してはヘレナさんが辣腕を振るって、ここまで順調に成長してきたんだよ、うちの会社は」
その時、オフィスのドアが開いて、一人のすらりと背の高い女性が颯爽と入ってきた。男達の視線は一斉にそちらに向けられた。
「おはよう、ブライアン、ジョエル、ヴァン」
ややハスキーな落ち着いた声質をした女は、確かに男性の目を釘付けにしてしまうほど豪奢で美しかった。ナチュラルなメイクに長い髪は後ろに簡単にまとめてあるだけだったが、目尻がつりあがった大きなアーモンド形の双眸にくっきりとした眉、綺麗に通った鼻筋にふっくらとした唇、１８０センチ近い長身もあって、とにかく目立つ。シンプルな黒のパンツ・スーツ姿が返って豊かな胸や長い脚といった抜群のスタイルのよさを強調しているが、きびきびとした物腰と芯に強いものを秘めた知性的な瞳のせいで、余計な女臭さは抑えられている。
「おはようございます、ヘレナさん」
彼女が微笑みかけると、無骨で硬派っぽい男達がさりげなく身なりを正そうとするのがはたから見ていておかしい。
紅い髪の女は、男達に囲まれるようにして坐っている若者に気がつき、何か言おうとしたが、その時、奥の社長室から顔を覗かせたラースに呼ばれたので、先にそちらに足を向けた。
「まいったな、そっくりだ…」
一瞬自分を注視した冷たく冴えかえった琥珀色の瞳を思い出して、彼が感じいったように呟くと、隣に立っていたヴァンが賛同を求めるように彼のおさまりの悪い金色の頭をつついた。
「な、迫力の美女だろう？」
「そうですね。見つめられて、ちょっとドキッとしました」
「お、おまえさんくらいの年の子でも、そう思うか」
「でも、随分お若いですよ、あの人…」
「まだ学生だった時にラースと結婚したとは聞いたけれどな。確かに、あんな大きな息子が二人もいるとは、信じられんくらいさ」
「息子…」
彼がひっそりと呟いた、その時、奥の部屋のドアが開いて再びヘレナが姿を現した。今度は、まっすぐにこちらに向かってやってくる。
「ごめんなさい、挨拶が遅れたわね」
「いいえ。はじめまして、ミセス・オルソン」
彼は落ち着いた態度で椅子から立ち上がり、ヘレナをまっすぐに見返した。
「あなたのことは、ラースから聞いているわ。彼はあなたをとても気に入っている様子よ。これから三ヶ月の間よろしくね、ジェイコブ…」
呼びかけて、ヘレナはふと首を傾げた。
「あら、すると、ジェイコブがこのオフィスに二人いることになるわね」
もう一人、ここに同じ名前の社員がいることを思い出してヘレナがもらすのに、新人のジェイコブの方は、心得ているとばかりににこやかに頷きかけた。
「紛らわしいですから、僕の方はいつも友人達が使うニックネームで呼んでくださいって、皆さんにはお話しているんですよ」
「あら、では何と呼べばいいのかしら？」
すると、彼は僅かに首を傾げるようにして柔らかく微笑んだ。整った唇の間から、真っ白な綺麗な歯が覗く。
「どうか僕のことはＪ・Ｂと呼んでください、ミセス・オルソン」
あどけないほどに無邪気な顔の中で、そこだけが不思議なほどに光の差さない深淵めいた昏い藍色の瞳が、瞬きもせず、ヘレナの美しい顔を―それに似た面差しの別の誰かを、じっと見ていた。