ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第3章 唯一の絶対
SCENE9
クリスターが、ダニエルとようやく話す機会を得たのは、あの日から三日後のことだった。クリスターとの行為の後、もともと虚弱な彼は熱を出して、ボクシング部は無論授業も欠席していたのだ。
久しぶりに登校し、この日最後の授業が終わって出てきた教室の前。待ち受けていたクリスターを見た瞬間、ダニエルは微かな慄きに青い瞳を揺らせたが、彼が誘うのにはおとなしくついてきた。
人気のない校舎の裏側まで行くとクリスターはようやく足を止め、それまでずっと口を閉ざし視線もあわそうとしなかったダニエルに向き直った。
「僕が恐いかい?」
クリスターがいきなり問いかけると、ダニエルは反射的に身震いをし、それを恥じるかのように目を伏せた。
「はい…少し…」
不安そうに自分の体を抱きしめるダニエルに、それも無理はないかと、哀しい気分でクリスターはひとりごつ。
「じゃあ、僕のことはもう嫌いになった?」
瞬間、ダニエルは弾かれたように顔を上げた。
「い…いいえ…! あなたを嫌うなんて、そんなことはないです」
この日初めてクリスターの顔をまともに見た途端、人形のように青ざめて表情にも乏しかったダニエルの顔が変わった。そうして、頬を紅潮させ、ずっと堪えつづけてきた感情が堰を切って溢れ出したかのように、本来の彼らしいはっきりとした声で訴え始めた。
「僕がいけなかったんです。今にも爆発してしまいそうなくらい、神経の張り詰めたあなたに…あんなひどい言い方をしたから…あなたのことをずっと傍で見てきて、一緒にいない時でもいつもあなたのことばかり考えて、おかげで少しはあなたの気持ちを汲み取れるようになったと思っていたのに、いざとなると、自分の感情に負けて言ってはいけないことまで言ってしまいました。あなたがあんまり辛そうに見えたから、どうしても放っておけなくて…僕の力であなたの役に立ちたい、あなたを支えたいなんて、おこがましくも思ってしまった。でも、僕では、やっぱり役不足だったんです」
言っているうちに気持ちが昂ぶってきたらしく、嗚咽を噛み殺そうとするかのごとく唇を引き結び、手の甲で目元をこすりだすダニエルにクリスターは優しい声で語りかけた。
「ダニエル、ダニエル…どうして君が僕に謝る? 僕が傷つけてしまった相手からそんなふうに気遣われるくらいなら、どんなにか激しい言葉で罵られた方がいっそ楽だよ」
まだ目元をこするのをやめないダニエルの手をクリスターが捕まえると、彼は涙を見られるのが嫌なのか強情に顔を背けた。
「それに、君の言ったことはほとんど正しかったんだから…ただ、僕の方に素直に受け入れるだけの余裕がなかった。あんまり図星を指されて、君を攻撃してしまうほど逆上してしまった。あそこまで自分が精神的に追い詰められていたなんて、あの時まで分からなかったよ。だからと言って、嫌がる君にあんなことをした弁解にはならないけれどね」
クリスターは一瞬躊躇った後、胸の下にあるダニエルの頭に手を伸ばし、つやつやした綺麗な栗色の髪を気遣わしげに撫で付けた。
「すまなかった」
クリスターがそのままダニエルの頭を引き寄せると、彼は怯えた子猫のように身を固くした。
「クリスターさん…?」
戸惑いを含んだ声でダニエルが尋ねるのへ、クリスターはかき口説くように言った。
「この際白状するとね、ダニエル、君が見抜いたように僕はもう…心身ともに限界にきている。過呼吸なんて起こしたのは、あれが初めてだったけれど、この先また何かあって追い詰められる度に同じ発作を繰り返すのではないかと思うと不安だよ。僕は身の周りで起こるあらゆることを掌握してコントロールしないことには気がすまない。おまけに自分に常に百パーセントを求める完璧主義者だ。その辺りを改善しないと、僕はきっと駄目になる。今度のことで、つくづく思い知ったよ」
これまでクリスターをそう駆り立ててきたのは、一向に薄れる気配もない弟に対する執着心への恐れだった。しかし、それが転じて、他の大切な人達を傷つけかねない破壊衝動にまで至ってしまった今、この内なる怪物との折り合いのつけ方も変えるしかない。
胸に溜め込んで苦しがるくらいなら正直に吐き出してしまえというラースの助言は単純だがクリスターにとっては正鵠を射たものだった。
自分の意外な脆さにほとほと嫌気が差して、楽観的で物事に深くこだわらない父親やレイフに少しは倣いたかったのかもしれない。
「常に全力を出す必要などない、僕の場合は少しくらい手を抜いて丁度いいんだ。つい自分の力を過信して、何事もやりすぎる僕だから、ストッパーになってくれるような、誰か信頼できる相手が欲しい…」
ふと、クリスターの脳裏を弟の面影が掠めた。
他の誰かなど求めずとも、クリスターに最も近いはずのレイフならば、安心して自分を託せるのではないか。
レイフのことだから、クリスターが弱い姿をさらせば、何としても自分で保護しようとするだろう。
だが、一度すがりついてしまえば、もう二度と弟を手放せなくなる。これから伸びるだろうレイフの可能性を潰してしまうことも厭わず、自分の未来などもっとどうでもよくなるほど、依存しきってしまうだろう。
昔、偶然読んだことのある本に中に描かれていた、自分の半身と抱きあい、一つになったまま、生きるために必要なこと全てを放棄して死んでいった人達。今更ながら、あれは自分達に与えられた警告なのだと思い知れ。
追い詰められたような気分で、クリスターはダニエルに言った。
「ダニエル、僕を助けてくれないか?」
助けてくれ。(レイフ)
「君はぼくを理解してくれている。たぶん君の前でなら、僕は、本音を隠したり感情を抑えたりして、無理をしなくてもすむような気がする。少なくともそう思える相手が…今の僕には必要だから…」
おまえが必要なんだ。(レイフ)おまえなしでは、僕は生きられない。
ふいに胸が詰まって、クリスターは続く言葉を失い、黙り込んだ。
聡いダニエルはクリスターの言葉にじっと耳を傾け、しばし考えを巡らせると、確かめるようにこう囁いた。
「クリスターさん…あなたがそう言うべき相手は僕ではなく、たぶんレイフさんじゃないんですか?」
本当に他人の気持ちに敏感な子だとクリスターは半ば感心し半ば呆れながら思う。こんなふうに気遣ってばかりでは、さぞや神経がくたびれるだろう。
「レイフは…駄目なんだ。あいつは僕の痛みを感覚として捉えることはできるけれど、それが何なのか、結局分かってはくれないんだ」
ぽつりと呟いたクリスターの声は寂しげに響いた。
腕の中でダニエルが小さく身じろぎをしたが、きっと途方に暮れたようなものになっている自分の顔を見られたくなくて、クリスターは一層きつく彼を抱きしめた。
「だから、これ以上、僕はあいつに求めてはならない。期待してはいけない。そんなことをしてもレイフの重荷になるだけで、僕もあいつも、いつまでたっても幸せにはなれないから」
「クリスターさん…いつまでもレイフさんと一緒にはいられはしないと、僕は確かに言ったけれど、でも、それをそのまま受け取らなくても…」
「君が言ったことは正しいんだよ、ダニエル」
クリスターが覆い被せるように言葉を続けるのに、ダニエルは口をつぐんだ。
「僕もずっと前から分かっていた。ただそう認めるのが辛くて、気づかない振りをして、結論を先送りにしていた。でも、もう、これ以上は続けられない」
クリスターは息を吸い込んだ。
「僕は、レイフと同じ大学には進まない。フットボールも、たぶん、今年で最後にする」
「ク、クリスターさん?」
「少し前から考えていたんだ…以前世話になったハーバードの教授が僕を気に入って、卒業後の進路について、いつでも相談にのると言ってくれている。フットボールは好きだけれど、僕の情熱も実力も、プロになれるほどのものじゃないから…そろそろ潮時なんだよ。いい加減僕も将来のしっかりとしたビジョンを持たないとね」
「レイフさんに、そのことは話したんですか?」
「いや…まだだよ。あいつの顔を見て話すと、また気持ちが揺れ動いて、流されてしまいそうな気がするから…僕の手を取りたがるはあいつを振りほどけるのか、いざとなると自信が持てない。確かに、僕にとっては、なかなか勇気のいる決断だね」
「あなたは、本当に、そうしたいんですか?」
「ああ」
自分に言い聞かせるように、クリスターは呟いた。
「たぶん、今がその時なんだと思うよ。近頃レイフはやっと自立心が出てきて、放っておいても僕の手から離れていきそうな気配だし、それに、僕も…この身動きの取れない状態から脱して、そろそろ前に進みたいんだ」
クリスターがやっと腕を緩めると、ダニエルはほっと息をつきながら身を離した。
「ダニエル、君は僕のことが好きだと言ってくれたけれど、もしその気持ちが今でも揺るがないなら、僕の傍にいてくれないか?」
「クリスターさん」
躊躇うダニエルの手をすくい上げるようにして、クリスターはか細い手首に唇を押し当てた。長袖のシャツの下に隠していたが、クリスターがつけた指の跡が今でも残っている。
「あんな酷いことは二度としないから」
すまなさがこみあげてきて、クリスターが思わず声を震わせると、ダニエルは慌てて彼から手を引っ込め、強い口調で訴えた。
「ま、待ってください、クリスターさん、あなたの罪悪感につけこんでまで、あなたに愛してもらおうとは思いません…そんなつもりで僕は、あなたにあんなことを言ったわけじゃない」
「そうじゃないよ、ダニエル…君に償いたいという気持ちも確かにあったけれど…今はむしろ、僕の方が君の好意につけこもうとしているのかもしれないな。君は、僕に似た所があって、人の心を見透かして行動を先に先に読もうとするあまり、自分の気持ちは後回しにしてしまう。だから、あえて言うけれど、そうすることで君が傷ついてしまいそうなら拒んでくれ。僕は君を大事にするつもりだけれど、必ず幸せにしてみせるとは約束できない…僕の心はまだあいつにつながれたままだから…」
クリスターが自嘲的に微笑むのに、ダニエルは大きな目を潤ませたが、泣くまいとするかのように歯を食いしばった。そんな彼の頬にクリスターは手を添え、そっと身を屈めてキスをする。
ダニエルは逃げなかった。
「ずるい」
代わりに、ぽつりと、恨み言めいたことを言った。
「そんなふうに言われたら、僕はあなたを拒めなくなる…あなたこそ、僕の性格を見抜いて、何をどう言えば僕があなたを受け入れるか、ちゃんと計算しているでしょう?」
「ダニエル」
クリスターが困ったように見下ろすと、ダニエルは涙のかわりにこぼすような淡い微笑をうかべた。
「それでも、僕は…あなたが好きです。そんなにも苦しんでいるあなたを目の当たりにしながら、必要だと言われただけで、嬉しくて、つい有頂天になってしまいそうなくらい…ごめんなさい、あなたが好きなんです」
ダニエルは気持ちの昂ぶりを抑えきれずに身を震わせると、クリスターの胸に飛び込んできた。
何も言わずにしがみついてくるダニエルの細い体に腕を回しながら、クリスターはぼんやりと周囲に視線をさ迷わせた。
よく晴れた昼下がり。初夏の眩しい光がひっそりとした校舎の裏手のこの一角にも差し込んでくる。
校舎の向こうにあるグラウンドの方からはクラブ活動のために残っている生徒達の声が聞こえてくる。
陸上部がいつも使っているのは、あのグラウンドだったろうか。耳を澄ませてみても、あの馬鹿によく響く声は聞こえない。(レイフ)そう言えば、ここ数日、まともな会話も交わしていない。(レイフ)どこにいるのだろうか。お日様のような、あの屈託のない笑顔もしばらく見ていない。(僕の…)
腕の中のダニエルが何かを敏感に感じ取ったかのように身じろぎするのに、クリスターははっと我に返り、自分の性懲りのなさを恥じた。
(子供の頃から、いつも傍にいるのが当然であるかのように思ってきた。今でも、離れていると落ち着かなくて、おまえがどこで何をしているかつい思いを巡らせてしまう…こんな癖も、早くなくしてしまおう。レイフ、僕はもう、おまえを追わない)
気がつくと、ダニエルが伏せていた顔を上げて心配そうにクリスターを見ていた。クリスターはよほど暗い顔をしていたのだろうか。
後ろめたさに、思わず、囁く。
「ごめんよ、ダニエル」
ごめん。(レイフ)
胸に広がっていく心許なさを打ち消そうと、クリスターは、はからずも手に入れることになった『恋人』を抱く腕に力を込めたのだった。