ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第3章 唯一の絶対

SCENE8

『ああ、クリスターなら、試合中に怪我を負って、途中で棄権したんだ。医者の所に寄ってから家に帰るってかれこれ一時間くらい前に会場から出て行ったよ。どこの病院かって? それは分からないな、でも、大した傷じゃないから心配するなよ。治療を受けたら家に帰ってくるだろうさ』
 クリスターの身に起こった異変を感じ取り、レイフが駆けつけたボクシングの試合会場。
 探し回ってみたが兄の姿は見つからず、代わりに見覚えのあるボクシング部の生徒を捕まえて、クリスターの行方を尋ねたのだが―。
「何だよ、入れ替わりに帰っちまったのかよ。せっかく心配してやってきたのにさ」
 結局肝心のクリスターには出会えず、行き先も分からなければどうしようもないので、レイフはまたすぐに会場ホールから出、駐車場に向かった。
 後にしたホールからは興奮した人のざわめきや歓声が途絶えることなく聞こえてくるが、レイフは興味を覚えなかった。
(クリスター)
 昨日のあの一件から何となく冷戦状態に陥ってしまっているクリスターが、レイフは恋しかった。今の勢いのままここで会えたなら、どさくさに紛れてクリスターに謝って、強引に仲直りしてしまおうともくろんでいたのに。
(昨日のクリスターはいつもと様子が違ってた…あんなに感情をむき出しにして兄貴が怒るなんて…でも、ああ、クリスターをああさせたのはオレなんだろうな。オレがアリスと寝たことをあいつ、やっぱり気にしてたんだ…アリスが結婚するって聞かされたオレはショックであいつにもちょっと八つ当たりしちまった。でも、オレはアリスのことであいつと仲たがいなんてしたかない。大体、彼女とのあれはもう終わったことなんだ。そりや、びっくりしたし悲しかったけど、でもいつまでも引きずっちゃいないよ。オレが今気になるのはクリスターのことだけだよ。どこかおかしかった、あいつ…オレと言い合ったことで、自分を責めちゃいないだろうか…クリスターって悩みだすと案外長いこと引きずるからな)
 ホールに沿ってぼんやりと歩いていたレイフは、ふいに、誰かに見られているような気がしてホールの非常出口の辺りを振り返った。
 入り口の向こうの影の中にすっと溶け込むように消えていく人の姿。淡く輝く金色の髪の残像がレイフの網膜に焼きついて―。
 転瞬、レイフはほとんど脊髄反射のような勢いで、その非常口目掛けて突進していた。
「待ちやがれっ!」
 レイフが飛び込むと入り口付近でたむろとしていた学生達がぎょっとした顔を向けてくる。それには構わず、レイフは確かに見たと思った、そいつを見つけようとずんずん奥へと入り込んでいった。
 少し行くと昇降口に差し掛かった。一気に階段を駆け上ろうとしたレイフは、そこで鉢合わせした男子生徒に危うくぶつかりそうになった。
「うぉっと、危ねぇっ」
 レイフはとっさに階段の手すりを掴んで急ブレーキをかけたので、何とか衝突は免れた。
「すまねぇな、ちょっと急いでて…」
 謝るのもそこそこに再び『あいつ』を探しに行こうとするレイフを、そのぶつかりかけた生徒が呼び止めた。
「何だよ、レイフじゃないか」
 レイフは目をぱちくりさせながら、改めて相手に向き直った。
「あ…確か新聞部の…」
 そこにいたのは、クリスターとも付き合いのある新聞部の部長だった。確か名前は―。
「アイザック・ストーンだよ。いい加減、自分の兄貴と付き合いのある人間の顔と名前くらい覚えろよ。全く、自分に関係のない人間には、おまえもとことん無関心だよな」
 皮肉っぽい口調でずばずばと言いにくい事を言ってくるアイザックに、レイフはぐぅっと唸った。
(苦手だ、こいつ)
 腕を組みながら、眼鏡の下の抜け目なく光る黒い瞳で見返してくるアイザックを前に、レイフは居心地悪そうに身じろぎをする。
 クリスターが好んで付き合う、いかにも才気煥発で、口がたつ、良くも悪くも癖のあるタイプだ。
「あ、そうだ、アイザック、今ここに…」
 はたとなって、レイフはアイザックに自分が追いかけてきた相手のことを尋ねようとして、口ごもった。
「何だよ?」
「その…ちらっと見えただけだから確信はないんだけれど、ホールの非常口の前を通りかかった時に誰かに見られているような気がして振り返ったら、そこに―」
「誰がいたんだよ?」
 レイフは大きく息を吸い込んだ。
「だから、あいつ…J・Bだよっ!」
 揶揄するようなにやにや笑いを浮かべていたアイザックの顔が途端に引き締まった。
「ジェームズ・プラックが…ここにいただって?」
「ああ、それで、とっつかまえてやろうとここまで追いかけてきたんだけど、取り逃がしちまった。アイザック、おまえは奴を見かけなかったのか?」
 アイザックはいぶかるように首を捻りながら答えた。
「いや。俺は二階の観客席から降りてきたところだけれど、奴がいたなんて気づかなかった。誰もこっちに向かって逃げてきた様子はなかった…おまえの足からそんなに簡単に逃げ切れるとも思えないし、おそらく、それは見間違いじゃないのか?」
「見間違い…」
 アイザックに冷静にそう言われると、レイフも急に自信がなくなってきた。見たと言っても、視界の端に見覚えのある明るい色の髪を捉えたような気がするというだけなのだ。
 それでも、レイフの直感の方は依然として敵の存在を訴えていて、彼を落ち着かなくさせていた。
(いや、奴がここにいるはずないか…どっかの施設にぶち込まれたはずなんだから。でも―)
 レイフが眉根に深い皺を寄せながら考えこんでいる隙に、アイザックは観客席のざわめきが聞こえてくる階段の上の方に素早い一瞥を投げかけ、そして、改めてレイフを振り返った。
「J・Bを見かけたって話はさておき…今日はクリスターの試合を見に来たのか? 珍しいな、おまえが応援に来るなんて」
「えっ…ああ、いや、そういうわけじゃないけど…」
「あいつが怪我をしたってことは聞いたのかよ?」
 レイフが反射的に手を上げて左目の上辺りに持っていくのに、アイザックは怪訝そうな顔をし、それからはたと思い当たったように手を打った。
「あ、まさかと思うけど…クリスターが傷を負ったってことが直感的に分かって、ここに来たとか?」
 レイフが答え難そうにしていると、アイザックは心底感心したというように頷いた。
「へえ、驚いたな。以前クリスターがそんなようなことを漏らしていたけど、ほんとに感じるんだ?」
 好奇心を前面に押し出して鋭く追及してくるアイザックに、何と答えればいいのか分からず困ってしまったレイフは、口をへの字に曲げて睨みつけた。
「そんなこと、おまえにゃ、関係ねぇだろ。そんなことより、アイザック、兄貴が行った病院知らないか?」
 するとアイザックはからかうような口調で聞き返してきた。
「それこそ、おまえの直感だか嗅覚だかで兄貴の居場所も突き止められないのかよ?」
「あのさ、オレ、犬じゃねぇよ」
 レイフは大きな溜息をつくと、もうこれ以上アイザックと話すのは疲れるとばかりに離れる口実を探した。
 しかし、レイフがそうするより先にアイザックが逃がすまいとするように彼の肩を掴む。
「まあ、せっかくここまで来たんだから、兄貴と会えなかったからってすぐに帰らず、ちょっと付き合えよ。ジュース、おごるからさ」
「いらねぇよ。大体おまえ、新聞部なら、試合の取材しなきゃなんねぇんだろ」
「それは他の部員に任せたよ。クリスターが帰っちまって、他の選手もさっぱりだし、見てても、もうあんまり面白くなさそうだったからな。代わりと言っちゃ何だが、おまえ、相手しろよ。どうせ暇だろ?」
 暇とは何だ。レイフは言い返しかけたが、特に他の予定もなかったのは確かで、結局アイザックに引っ張られるがまま売店で飲み物を買い、外に出ると、ホールに面して広がる、花壇や噴水のある広場の隅っこのベンチに腰を下ろした。
(あーあ、面倒な奴に捕まっちまったな)
 まさか記事に書かれるということはあるまいが、取材記者のような歯切れのいい口ぶりで、だんまりを決め込もうとするレイフをつついて面白そうなネタを穿り出そうとしているかのようなアイザックを相手に、レイフは落ち着かない気分を味わっていた。
 それでも、今日の試合中クリスターの様子がおかしかったとか、レイフが見ていない兄の話をされると、つい気を引かれてしまう。
 レイフとクリスターに共通の友人というのは、そういえば、ほとんどいない。
 だから、自分がいない所でクリスターがどんな付き合いをしているのか、友人達とどんな話をし、何をして一緒に過ごしているのか、レイフはいつも想像するばかりだ。
 苦手意識が先行して敬遠していたアイザックだが、レイフは次第にその話に引き込まれていった。
 アイザックがクリスターについて語れば、それはレイフが見ていない兄の別な横顔なのだ。
(そういや、こいつとクリスターは、一時はすごく仲がよかったふうなのに、いきなり、ぱたりと付き合いがなくなったんだよな。俺には黙って新聞部の部室に放課後入り浸ってたのが、いつの間にか行かなくなって…喧嘩でもして友達づきあいやめたのかなって思ってた。それが、最近になって、またクリスターの傍にこいつの姿をよく見かける)
 レイフは、改めて、アイザックをじっくりと観察した。
 まあ整っている方だろう、知的でシャープな面差し。痩せぎすなくらい細身の体だが、軟弱な感じはしないのは、皮肉っぽくも響く、力のある声のインパクトが強いからだ。
(眼鏡のせいかもしれないけど、何だか、ちょっとあいつに雰囲気が似てないかな…思い出したくもない中学時代のカウンセラー、腐れ外道のアイヴァースに…うわぁ、クリスターは好きなタイプかもしれないけど、オレとは相性あいそうもねぇわ)
 思わずしかめ面して呟いた瞬間、アイザックがレイフの足を軽く蹴った、
「何、人の顔を穴が開くほどじろじろと見てんだよ。気持ち悪いぜ」
「うっ」
 怯むレイフを馬鹿にしたような目で眺めやると、アイザックは手に持ったコーラのボトルに口をつけた。
「兄貴に比べると物足りないなぁ、おまえ。言われたら、黙ってないでちっとは言い返せよ。こっちの質問に答えるのも要領を得ないし、まあ、クリスターのように打てば響くような答えが返ってくるなんて、俺も期待してないけどさ」
「オレは、頭で考えてしゃべるより、体が先に動いちまう方なの。大体、べらべらと口ばかり回る奴って、なんか信用ならねぇ」
 むっつりと答えるレイフにアイザックは面白そうに片方の眉を跳ね上げた。
「お、少しは言うんだ。でもさ、頭が切れて弁がたつって言うなら、おまえの兄貴こそ、その際たるものじゃないか。その理屈で言うと、おまえはクリスターを信用できないってことになるぜ?」
「ま、まさかっ。クリスターは別だ…あいつはオレの大切な兄貴で、かけがえのない相棒で、ええと―」
 むきになって否定しかかるレイフに、アイザックは堪えきれなくなったかのように吹き出した。
「あはははっ、本当に馬鹿正直って言うか素直だな、おまえっ。すげっ、可愛いっつうか、面白えっ!」
 足をじたばたさせながら笑い転げるアイザックをレイフはしばしぽかんと眺めた後、猛烈に怒り出した。
「てめぇっ、人を引っ掛けやがって…おい、その悪魔みたいに回る口、いい加減に閉じないと、拳骨叩き込むぞっ」
「ぷぷっ…分かった、黙るから、暴力はやめろよ。おまえみたいな化け物と体力勝負はしたかないからな」
 口をまだひくつかせながらアイザックは涙のにじんだ目もとを手でぬぐった。
「全く、おまえみたいな嫌味な奴と好き好んで付き合うクリスターの気が知れないぜ」
 レイフはまだ腹の虫がおさまらずにぶつぶつ言うと、アイザックにおごってもらったコーラを一気に飲み干した。
(まあ、クリスターの友達の好みって変わってるけど…あのJ・Bとも最初は友達付きあいしてたくらいだものな。もちろん、あんな悪党だってことを知らなかったからだろうけど)
 レイフは先程J・Bの影を認めたと思ったホールの方をふと眺めやった。
「なあ、アイザック」
「うん?」
「オレさ、クリスターとJ・Bのことでずっと気になってたことがあるんだけれど…」
「何だよ?」
 自分にあてられたアイザックの眼差しに込められた温度がすっと下がったのには気づかず、レイフは続けた。
「もしかしたら、おまえは知ってるのかな。クリスターはJ・Bと敵対してたんだ、オレが原因で…」
 アイザックは軽く首を傾けて、レイフの何かしら思いつめたような顔をしばらく眺めた後、ゆっくりと口を開いた。
「ああ、その辺りの事情なら、よっく分かってるよ。クリスターがおまえをJ・Bの手から取り戻すために奴の所に殴りこみに行ったってくだりもな。実を言うと、俺も、あの時カメラを持って近くにいたの。J・Bとその危ない仲間達をつるし上げるネタを手に入れるためにさ」
「えっ? それって…マジかよ…?」
「うん、俺がクリスターと知り合ったのはあの一件の直前だったんだ。新聞部の部室に、前の部長のコリンがクリスターを連れてきた。当時…J・Bが学校内で好き勝手し放題をしていた時、あいつらの暴挙をこれ以上黙って見ていることはできないって空気が新聞部にはあったんだ。コリンがまた正義感のある奴でさ。そこに、可愛い弟がJ・Bに引っかかって困っていたクリスターが相談を持ちかけた…形としては、そんな感じだな。でも、クリスターは、実際にはもっと積極的に、J・Bを追い詰める駒として俺達を使うつもりだったんだ」
 小さな棘のようなものを、一瞬アイザックの口調に感じたレイフだが、それよりも彼の話の内容に気を取られていた。
「クリスターの奴、オレの知らない所でそんなことまで…いや、あいつらしいって言えばそうだけど。何の考えもなくいきなりJ・Bに真っ向から戦いを挑むことなんて確かにしないだろうさ。でも、それなら―」
 レイフは急に激しい不安に駆られて、傍らでじっと自分の様子を窺っているアイザックに激しく詰め寄った。
「なあ、クリスターの奴、一体何をやってたんだ? J・Bとの一騎打ちの後もさ、あいつはずっと奴と戦い続けてたんだろ? それで、ついには奴を学校から追い出して、施設送りにした…あれほど用心深くて頭の切れるJ・Bにしては、あまりにも最後が呆気なさ過ぎて、裏に何かあるんじゃないかって疑ってたんだ。おまえも、J・Bを追い詰めるのに一役買ってたのか?」
「さあ、どうだかねぇ」
「アイザック!」
「終わったことを今更蒸し返すなよ、レイフ。おまえに話した方がいいことなら、クリスターは自分の口から言ってると思うぜ」
「終わったこと…」
 そうすんなりと納得することはできなくて、レイフはアイザックに追求の眼差しを向けるが、彼はそれを軽く振り払うかのごとく肩をすくめた。
「あきらめな、クリスターがおまえには関わらせたくなくて秘密にしていたこと、たとえ知っていたとしても、俺はおまえに教えてなんかやるものか」
 アイザックの声にあからさまに込められた敵意に、レイフは反射的に気色ばんだ。
「てめぇ、おい、オレに喧嘩売ってるのか?」
 とっさにアイザックの胸倉を掴んで凄みたくなったが、そんな反応を嘲笑うかのように皮肉な冷笑をうかべているアイザックを見て頭が冷え、レイフは上げかけた手を下ろした。
「別にいいじゃねぇか、レイフ…何があろうと、おまえがクリスターの中で占める位置は絶対に揺るがないんだからさ。少しくらい、あいつが、おまえとは別の世界を他の人間達と共有したって、構わないだろ?」
 これまでの弁舌鋭い切れ者といった印象から一変、何かしら暗いものを感じさせる声で呟くアイザックに、レイフは戸惑った。
「おまえだってさ、クリスターに知られたくない秘密の一つや二つあるだろうが?」
「ない」
 レイフが迷わず即答すると、アイザックは少し鼻白んだ顔をした。
(クリスターに打ち明けられないことなんてオレにあるものか…いや、待てよ、アリスとのあれだけは、未だに話せてないけど―ああ、これって秘密を作っちまったってことになるのか…だとすれば、初めてだよな、クリスターが知らないオレなんてさ)
 レイフは、ついクリスターの方に流れていきそうになった心を引き戻すと、アイザックと再び対峙した。
「アイザック、含みがあるような言い方はいい加減にやめろよ。言いたいことがあるなら、はっきり言いやがれ。オレの何がそんなに気に入らないんだ?」
「おまえの存在そのものが気に食わないと言ったら、どうするんだよ、レイフ」
「な、なんで…そんな…?」
 訳も変わらず傷ついて、レイフが途方に暮れた顔をすると、アイザックも言い過ぎたと思ったのか、すまなそうにうつむいた。
「ああ、悪かった。おまえを責めたところでどうにもならないってことくらい、俺にも分かってんだ。だから、余計に…」
 アイザックはレイフから視線を逸らし、目の前の噴水の傍を通り過ぎていく学生達の方をぼんやりと眺めやる素振りをしながら、ごく低い、感情を抑えた声で言った。
「クリスターはさ…ただ、おまえのためだけに、今まで誰も手出しのできなかったJ・Bと本気でやりあったんだ。あの一騎打ちの時は、文字通り命だってかかってた…何でそこまでするのかって、奴と知り合って間もなかった俺は理解に苦しんだものだよ。今だって、ちっとも分からない…そこまでする価値が、おまえの一体どこにあるのか」
 またしてもアイザックの言葉の棘が胸をちくちくと刺してくるのを覚えて、レイフは眉根に深い皺を刻んだ。だが、自らの言葉を噛み締めるように語っているアイザックの話を途中で遮ろうとは思わなかった。
「それでも、俺は、あいつのやることなすこと全てに魅せられた。俺はもともと一匹狼のタイプでさ、誰かの下で動くなんて性にあわなくて、親友のコリンとも新聞部の運営とかで意見が合わなければよく衝突してた。それが、クリスターが現われて、J・Bと一緒に戦おうって話になると、俺はすぐにあいつの言うことに従うようになった。あいつさ、J・Bを追い詰めるためなら手段を選ばなかったから、えげつないこともしたし、ばれたらこっちの手が後ろに回りそうな危ない橋も渡ったけれど、俺は率先してクリスターの指示に従った。生まれながらのリーダーとかカリスマって、いるんだよなぁ。自分の信条曲げてもあいつのためなら恥だとは思わない、それくらいに一時は入れ込んでた。すごく気分が良かったんだ、打倒J・Bって大義名分掲げて、あいつの指揮の下、他の仲間達とも一致団結して動くのはさ。まあ、正義は我にありって、コリンほどじゃないけど、ちょっとは陶酔もしてたんだろうな。でもさ…肝心のクリスターは別に正義のためにそうしてたわけじゃなかったんだ」
 悔しそうに唇を噛み締めるアイザックに、レイフは何だか居たたまれない気分になってきた。
「ごめん」
 たまりかねてぽつりとレイフが漏らすと、アイザックは驚いたように振り返った。彼がここにいるのを思い出したような顔をして、アイザックは苦笑した。
「馬鹿、おまえに謝ってもらっても、それこそ筋違いってものさ」
「うん。でも」
 まだ何か訴えようとするレイフを、手を軽く振って黙らせると、アイザックはまたしみじみと語りだした。
「クリスターにさ、『ミスター・パーフェクト』なんてあだ名をつけたのは俺なんだ。あいつは、そんな大仰な呼び方はやめてくれって嫌がったけど、今じゃ、他の連中もよく使うようになった。だって、クリスターなら、そう呼ばれてもふさわしいだろ? まあ、少なくとも外面だけ見ている分には申し分はないさ…ただ深く関わって色々気づかされてくると、がっかりすることもあるわけ。まあ、クリスターも人間だから、弱みや欠点くらいあっても当然だけど、あいつの場合は極端すぎるんだ。全く情けねぇよな、神様から愛されたような、人がうらやむもの全てを備えた男がさ、不肖の弟一人にかかずらって、自分の将来はおろか命までも危うくしてしまう。なあ、レイフ」
「ああ」
「おまえさ、頼むから、あいつから手を引いてくれねぇか」
 妙に素直な気分になってアイザックの言うことに耳を傾けていたレイフは、思わず息を止めた。
「おまえから解放されて自由になれば、あいつはどこにだって行けて、何だって好きなことをできる。あの有り余る才能を生かす場所を見つけてさ、もっともっと伸びて、将来すげえ大物になるぜ、きっと」
 レイフは何か言い返そうとして、出掛かった言葉を飲み込む。否定しきれるだけのものを彼は持たない。
 優秀すぎる兄を誰よりも身近で見ながら、同じような可能性を、レイフがこれまで全く考えたことがなかったわけではなかったのだ。
「でもさ、そう願う一方で、残念ながら、そりゃ無理だわとも思うわけ。あいつが、おまえを愛している限り」
 アイザックは深々とうなだれて、重い溜息をついた。
「ほんと、残念」
 レイフは瞳を揺らせて、そんなアイザックを見守る。
 クリスターから手を引けなどと理不尽なことを言われても、なぜか子供じみた独占欲を発揮して相手に食って掛かる気にはなれず、胸のうちでひっそりと、自分に向かって問いかけていた。
(オレがクリスターから手を引けば、あいつは自由になる…その方がきっと幸せになれる?)
 レイフの心臓が圧迫されたかのように痛んだ。
 クリスターから取り残されてしまいそうで不安に駆られ、置いていかないでほしいと叫びそうになったことは、これまでに何度もあった。少し前まではその可能性を考えるのも嫌だったが、いつの間にか直視できるようになったくらい、レイフの心も変わってきたようだ。
(いや、そんなはずねぇよ…離れた方がいいとか、お互いのためだとか、今までだって当たり前のように周りから聞かされてきたけれど、勝手に決め付けるなよ。大体、切り離されたら痛いし辛いって分かってるものを、そうしなきゃならないって自分に強いるのも、どうよ。俺は、そんな無理はしたかねぇ。そりゃ、別の世界や友達をそれぞれ持って違う楽しみだって見つけられたら、それはそれでいいことだよ。オレは、クリスターが知らない楽しいことを見つけたら、それをあいつにも分けてやりたいって思うよ。それにさ、二人一緒なら、あの…去年の大会で優勝した時みたいに、気持ちよさも喜びも倍の倍になるんだよ。オレはクリスターに幸せでいてもらいたいし、オレ自身も幸せになりたい…どちらが欠けても駄目なんだ)
 そこまで考えたレイフの胸にふっと微かな影が差した。
(なのに、クリスターは、オレの気持ちを確かめもせずに、いつも自分で勝手に決めて行動しちまう…オレのためだと言いながら、オレには隠して、全部一人で背負い込んで…でも、それは間違ってる)
 レイフは膝の上に乗せた手をぎゅっと握り締めると、あまりに長い彼の沈黙にいぶかしげな顔をしているアイザックに向かって、はっきりとした口調で言った。
「オレは、クリスターの足を引っ張ろうなんて思ったことは一度もねぇよ。ただ、あいつと同じ夢を一緒に追って生きたいと思ってるだけだよ…一人では不可能なことでも、二人でなら叶えられる気がする。お互いに足りない部分を補い合ってさ…って、そう言い切るには、オレの方がまだまだ力不足なんだけど。でも、力が足りないなら、どんな努力をしてでも手に入れるから…あいつに支えられるだけじゃなくて、あいつのこともちゃんと支えられるような人間になりたいんだ」
 レイフがこんなことを言ったのが意外であったのか、アイザックは瞠目した。
「ふうん。クリスターが聞いたら、泣いて喜びそうな台詞だよな。いっつも自分にしがみついていた甘ったれの弟がやっと少しは成長してくれたのかって。でも、そうしたら、余計にあいつの足は止まる。やっぱり、俺には判断がつかないよ、おまえがあいつの傍にいることが吉なのか凶なのか。結局先のことは分からないってことか…あいつのために、おまえに今できることがあるとすれば…そうだな、あいつの心に寄り添って、ここはという時にはちゃんと支えて守ってやれよ。あいつさ、崇拝者は多いけど、本当に心を開ける友達っていないんだぜ。おまけに、実は敵も多い」
「そうなのか?」
「一人で何でもできすぎて、他人は必要ないって顔してるから、それに反発覚える奴もいるんだよ。あいつをヒーロー扱いして騒いでいる馬鹿は気楽でいいものさ。なまじ半端に頭がよくって自分に自信があったりする奴がやばいんだな。実際あいつの傍にいると、自分との差をつくづく思い知らされて、落ち込むからさ。その気持ちを昇華しようと思ったら、ダニエルみたいにあいつを崇め奉るくらいなものさ。でなけりゃ、嫉妬に押しつぶされちまう」
「でもさ、アイザック、おまえは兄貴の友達じゃないか」
 レイフが発した素直な言葉に、アイザックは何かしらはっとしたようだ。照れているのか、単に自信がないのか、したたかな彼らしくもなく口ごもって、レイフのまっすぐな眼差しから顔を背けた。
「ああ、うん…そうだな…そうありたいけど、どうなんだろう。クリスターは俺をそんなふうに思ってくれているのかな。だって、友達ってのは、対等な人間関係だろ。あいつと俺はそうじゃないから、さ」
 どことなく寂しげにも響く、アイザックの声を、レイフは不思議に思いながら聞いていた。
「あのさ、アイザック、対等とか何とかごちゃごちゃと面倒なこと考えるなよ。理屈ばっか言ってないで、クリスターが好きなら好きでいいじゃねぇか。あいつは友達が少ないって心配するくらいなら、おまえが友達って呼んでやれよ。何が問題なんだか、分かんねぇよ」
 アイザックは怯んだようにレイフを見返した後、もとの皮肉っぽさを取り戻して言い返した。
「生憎、俺はおまえのように単純明快じゃなくってさ」
「何だよ、人を馬鹿呼ばわりする気かよ」
 レイフが膨れっ面をすると、アイザックは少し笑った。
「ああ、でも…おまえのその突き抜けたような単純さが、むしろクリスターには薬になりそうだよな。俺みたいな奴が十人がかりで説得するよりも、きっとおまえの何気ない一言の方があいつには効くんだ。畜生、やっぱ、おまえには敵わないよ、レイフ。おまえ以外でクリスターとほぼ対等に渡り合えるのは、それこそあのJ・Bくらいなものだろうしさ」
 肩の力を抜いてアイザックに笑いかけていたレイフだが、アイザックが最後にもらした名前に、たちまち眉を吊り上げた。
「じょっ…冗談じゃないぜ。なんで、そこでJ・Bが出てくるんだよ」
 束の間二人の間には和んだ空気が流れかけていたのに、アイザックの漏らした一言で、また雲行きが怪しくなってきたようだ。
「何、むきになってんだよ。俺は別に間違ったことは言ってないぜ。おまえだって、クリスターがJ・Bと親しく友達づきあいしてたことは知ってるはずだろ。あいつら、もともとうまが合ったんだ」
「それは、J・Bの正体が分かるまでの話だろ。他の連中を欺いてたように、クリスターだって騙したんだ」
「ふん、おつむのすっきりしたおまえならともかく、クリスターがそう簡単に騙されるかよ」
「な、何を!」
 皮肉屋のアイザックはレイフが本気で腹を立てているのを見て取ると、余計に煽りたくなったようだ。
「いい加減にしろよ、アイザック、冗談にしても、たちが悪いぜ」
「冗談にしたけりゃ、それでもいいさ。まあ、おまえにとっては、面白くないことだろうが、クリスターとJ・Bの思考回路って、実際よく似てるんだぜ。同じコインの表と裏のようなものさ。互いに憎みあうのも、自分と同種の相手だと思うからだ」
 決め付けるように言われて、レイフはますますむきになって反論する。クリスターがJ・Bと友達付き合いしていた事実はあっても、彼らが近いとか、似ているという話は聞きたくない。むしろ、認めたくない。
「何が同種なものか…クリスターはJ・Bとは違う。ゲーム感覚で他人を操ったり、傷つけたり、命を玩具にして遊んだり…そんなひどいことはしない」
 だが、あの夜、命を道具にしたゲームをJ・Bに仕掛けたのは、クリスターではなかったか―そんな考えが、いきなりレイフの頭に閃いた。
(君が勝つか僕が勝つか、命がけのゲームをしよう)
 他人には決して口出しさせないというような態度でJ・Bに挑みかけるクリスターをとめることは、レイフにもできなかった。
 あんな常軌を逸した挑戦に普通の人間なら応えないだろう。だが、J・Bは乗った。
 そして、それからもあの二人は、レイフの知らない場所で、食うか食われるかの戦いをずっと繰り広げていたのだ。だからこそJ・Bは、捕まる寸前にありながらクリスターの前にわざわざ現れて、あんな不吉な捨て台詞を残していった。
(このままではすまさないよ。僕達のゲームはまだ終わらない…終わらせるものか)

 ゲームはまだ終わっていない。

 背筋を冷たい手で撫で下ろされたような悪寒を覚えて、レイフは軽く身震いした。
 先程そこのホールでJ・Bらしき人影を見かけた記憶も相まって、何だか本当に、記憶の奥底に封じ込めたあの怪物が蘇って、クリスターをどこか遠くにさらっていきそうな気がして、レイフは一層激しく反発せずにはいられなくなった。
「違う、全然、似てねぇよ」
 額にじっとりと汗をかきながら、レイフは食い縛った歯の間から押し出すようにして言った。
「おまえが兄貴の何を見て、そう言うのか知らねぇけど、それは間違いだ。ああ、そうだとも、オレはクリスターのことなら何だってよく分かる…おまえよりもずっと…あいつに一番近い所にいるのはオレなんだからな」
 我ながら子供っぽい戯言を言っているなと思ったが、レイフは、とにかくアイザックの主張を退けたかったのだ。
 だが、アイザックはレイフの言葉を額面どおり受け取ってしまったようだ。いぶかしげにレイフを見ていた黒い瞳に暗い火が灯った。
「おまえは傲慢だよ、レイフ」
 レイフに言い返す声は根深い憤りをにじませていた。
「せっかくおまえを見直しかけていたのに…ああ、俺の誤解だったのかなと思ったのに、結局はそれかよ。その幼稚な独占欲…虫唾が走るぜ」
 もう少し冷静であれば、聡明なアイザックには、憎まれ口を叩かなければならないほどレイフが動揺していることが分かったかもしれない。だが、よほどレイフの言ったことが癇に障ったのか、彼らしくもないほどかっとなっていた。
「クリスターと同じ血と肉と遺伝子…ああ、くそ、やっぱり許せそうにない」
 アイザックは忌々しげにレイフを睨みつけた。
「それだけのものを持って一緒に生まれてきたってだけで、何の努力も払わず、当然の権利のようにあいつを縛り付ける。おまえの存在って、一体、何なんだ?」
 まるでアイザックに殴りかかられたかのようにレイフの頬が強張った。
「おまえなんか、初めからいなきゃ、よかったんだ。そうすりゃ、あいつを惑わすものはこの世に何もない。瑕一つない、完璧な人間になれたろうさ。そうさ、おまえなんか、いなくなってしまえばいい!」
 拳をぐっと握り締め、歯を食いしばって獰猛な肉食獣のようにレイフが唸った、その時、聞き覚えのある、親しみのこもった声が聞こえてきた。
「おーい、レイフじゃないのか?」
 夢から醒めたように瞬きをして、レイフが声のした方向に顔を向けると、駐車場の方から友人達と一緒にこっちに歩いてくるトムの姿が見えた。
「トム」
 親友が笑いながら手を振るのにつられたように、レイフも手を上げる。
「な、ほら、やっぱりレイフの方だったろ」
 後ろにいる他の少年達に自慢そうに言ったかと思うと、屈託のない顔で駆け寄ってくる親友をレイフはまじまじと見ていた。
「おまえもクリスターの試合を見に来てたのか。何だ、それなら声かけてくれたらよかったのに」
「う、うん」
 レイフはまだ少しぎこちない笑顔を、何も知らない友人に向けた。
「残念だったな、クリスターなら、軽い怪我を負って途中で棄権しちまったよ」
 冷めた口調で言うアイザックをトムは胡乱そうに眺めやる。
「あれ、新聞部のアイザックだ」
 単独インタビューか? と、そっと耳打ちをしてくるトムに、レイフは苦笑いしながら首を横に振った。
 トムの登場のおかげで一触即発の雰囲気がいつの間にか雲散霧消してしまったことに、レイフは密かに胸を撫で下ろしていた。
 クリスターの友達相手に本気で喧嘩などしたくない。
「さて、俺はもう行くわ」
 アイザックも毒気抜かれたらしく、それ以上はレイフに突っかかろうともせずにおとなしくベンチから立ち上がった。
 レイフは一瞬黙ってアイザックを見送りかけたが、素っ気無く背中を向ける彼に躊躇いがちに一言声をかけた。
「…コーラ、おごってくれて、ありがと」
「ん」
 ひらひらと手を振って、そのまま振り返りもせずホールの方に戻っていくアイザックの後ろ姿を、レイフは複雑な気持ちで見送った。 
 結局彼のレイフに対する感情は硬化したまま、最後まで打ち解けることも理解しあうこともできなかった。
 別に残念なわけではないが、どうも後味が悪い。それに―。
「何、眉間に皺を寄せてんだよ、レイフ?」
 アイザックのいたベンチにひょいと腰掛け、トムは無邪気に問うてくる。
「なあ、トム…おまえ、オレの友達だよな…?」
「へ?」
「オレのこと…好き…?」
 ぐっと、何かが喉に詰まったような顔して、トムは目を白黒させた。
「な、何言ってんだよ…って、そんな潤んだ目で人を見るのはやめろよ。友達なのかって、そんなの当たり前だろ、いちいち聞くなよ、変な奴だなっ」
 レイフは何だかほっとして微笑むと、小柄な友人を捕まえ、親愛の情を一杯込めてぎゅうっと抱きしめ、ついでに頬ずりまでしてやった。
「ああ、癒される〜っ」
「ひいっ。馬鹿、離せよっ」
 ぎゃあぎゃあと喚くトムにじゃれついて、一緒に来ていた彼の連れからは明らかに引かれ遠巻きにされながら、レイフはアイザックのことを考えていた。
(あんなにクリスターが好きなくせに、友達じゃないなんて言ってさ…天邪鬼の理窟屋め)
 ふいに、訳もない胸騒ぎを覚えて、レイフはアイザックが戻っていったホールを眺めやった。
 あそこで、一瞬とはいえ確かにJ・Bを見かけたと思った。今更だが、本当にただの錯覚だったのだろうか。
(アイザックにあっさり否定されて、つい信じ込んじまったけれど、オレのこういう動物的な勘はめったに外れないんだよな。でも、あいつは確かに誰も見なかったと言ったし…)
 水に落とした一滴のインクのように、黒い不吉な予感がレイフの胸にゆっくりと広がっていった。

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