ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第3章 唯一の絶対

SCENE10


 ボクシングの試合のあった日曜日、レイフが会場ホールまでクリスターを探しに行ったものの擦れ違いに終わった後―そこで偶然出会ったトム達にしばらく付き合って家に戻ると、既にクリスターは帰っていたが、散々だったという試合の結果がこたえたのか、部屋に閉じこもっていた。
 レイフは様子を見に行こうとしたのだが、今はそっとしておいてやれとラースに釘を刺され、さすがに強引に押しかけていくこともできず、どさくさに紛れてクリスターと仲直りをしてしまえという勢いとタイミングを失ってしまった。
 フットボールのシーズンオフのこの時期、生活のサイクルが違うレイフとクリスターは、家の中でも外でも、意外と、二人きりでじっくり話し合うことのできる機会というものは少ない。
 両親が家にいる時には彼らを意識して、うまくこちらのしたい話に引っ張り込めないし、夜中に、たぶんまだ起きていて小難しい本を読んでいるだろう兄の部屋のドアを叩けるほど、まだ気安い雰囲気には戻れていない。
 それに、これは半分被害妄想かもしれないが、あの日以来クリスターはレイフを避けているような気がする。
 謝る機会を窺いながらもうまくいかず、焦れたレイフは、登校前の家のガレージで、自分の車にさっさと乗り込もうとするクリスターを捕まえて、謝った。慌しい朝の時間にすることではなかったかもしれないが、とにかく、クリスターに一言言わずにはおれなかったのだ。
 気分的にも切羽詰っていたので、自分の気持ちをうまく言い表せた自信もなかったが、クリスターはレイフがたどたどしく詫びるのをじっと聞いた後、彼が拍子抜けするくらいにあっさりした態度で応えた。
「そんな些細なことを、いちいち気にするなよ。僕は別に怒っていないし、おまえも忘れたらいい」
 レイフよりも、あの時クリスターが見せた怒りの方がずっと根が深そうだったにも関わらず、そう素っ気無く言っただけで、もう話は終わったとばかりに先に車に乗って家を出て行く兄は、本当に全てを忘れ去ったかのようだった。
 クリスターが別に拘っていないのならば、それでよしとすべきかもしれなかったが、レイフは釈然としなかった。
 クリスターの反応の手ごたえが、どこかレイフには不自然で、これまでになく余所余所しいものに感じられたからだ。
(やっぱり、もっと、ちゃんとクリスターと話したいな。あいつと向き合って、あいつが思っていることをゆっくり聞いたら、この妙にぎこちない雰囲気も変わるんじゃないか)
 そうして迎えた休日の土曜の朝。寝起きの格好のまま、レイフが一階のキッチンに下りていくと、珍しくも休みのこの時間にまだ家にいたクリスターとラースが和んだ様子で一緒にコーヒーを飲んでいるのを見つけた。
(あれ、どういう風の吹き回しだろ。兄貴が親父とこんなふうに仲良く話しこんでる場面って、あんまり見ないよなぁ)
 クリスターは、ラースに対しては邪険な態度を取ることが多く、レイフが見ていて時々ちょっと薄情過ぎないかと思うこともあるくらいなのだが、そう言えば、ここしばらくこの二人やけに打ち解けた雰囲気にある。
 特にラースは、完全に親離れしてしまった息子に寂しい思いをしていたものだから、クリスターと親密に話せるのが嬉しいのだろう、傍目からでも分かるほどの無邪気な喜びようだ。
 それを眺めながら、レイフはちょっぴり、いいな、親父の奴と羨んでしまった。
 しかし、今朝のクリスターの様子を眺める限り、ごくくつろいでいて、別に深刻な悩みを抱えて悶々としているふうでも、神経が張り詰めている様子でもなく、レイフをほっとさせた。
(何だか、いつもの余裕を取り戻してきたみたいだな、兄貴の奴。表情もちょっと前に比べたら随分柔らかくなってるし…)
 レイフがそんなことを考えながらキッチンの入り口で立ち尽くしていると、やがてラースが彼の存在に気がついた。
「レイフ、そんなとこで何をやってる?」
「あ。おはよう、父さん…クリスター…」
 レイフが兄の反応を窺いながらキッチンに入っていくと、クリスターは顔を上げ、まっすぐに彼を見返しながら、何一つ以前と変わっていないかのように穏やかに微笑んだ。
「おはよう、レイフ」
 レイフの心臓がきゅんとなった。
(ああ、オレの勘違いだったのかな。クリスターの態度が何だか他人めいて、オレから急に遠くなってしまったようだと感じたのは…)
 レイフがテーブルに近づくと、ラースが立ち上がった。
「さて、俺はそろそろ出かけるよ」
「あ、今日仕事なんだ?」
「ああ、オフィスにちょっと立ち寄って、それからボストンのスタジアムの警備に行っとる連中の応援にな」
 ラースに促されるまま、レイフは彼が腰を下ろしていた椅子に坐る。
「ああ、そうだ。ついこの間、うちのオフィスに、おまえ達と同じくらいの年の子がビジネスインターンとして入ってきてな。これから夏休みにかけて、働くことになったんだが、これがまたすごくいい子なんだ」
「ふうん」
 クリスターのことばかり気になっているレイフは、ちょっと煩そうな顔をしながら適当な生返事をする。
「父さんってば、その話、さっき僕にしたばかりじゃないか」
 クリスターがレイフの手をつついて、囁きかけた。
「僕に感じが似ているんだって。すごく優秀だとあんまり褒めちぎるものだから、それじゃあ、僕とその子と一体どっちができるって言うのさって聞いたんだよ」
「そりゃ、兄貴だろ」
「でもな。おまえが前に修正してくれた、あの厄介なプログラム、またおかしくなって困っていたら、その子が直してくれたんだ。うちで働く体力自慢の連中は、コンピューターというと、からきし駄目だからなぁ。たまたま母さんもいなかったし、これはお手上げだってなった時に、そのジェイコブが見せてくれって寄ってきて…やらせてみたら、ちょちょいと直してくれたんだ」
 クリスターはふと眉をひそめた。
「素人に下手に触らせないほうがいいよ。また時間のある時に、オフィスに行って、バグのチェックをしてあげるからさ」
「おお、そうか。それは助かるな。オフィスの奴らも、おまえが顔を見せたら、きっと喜ぶぞ」
 ラースの警備会社の社員達は、もとフットボール選手という経歴の者がほとんどだ。もともと、そういう連中を集めて何かしたいと彼が始めた会社なのだ。
 だから、子供の頃からフットボールが大好きで、プロになることも実際夢ではないくらい優秀な選手に成長している双子達に向けられる、彼らの眼差しは温かく、また眩しいものを見るかのような羨望が込められている。
「それじゃ、オレも一緒に遊びに行くよ。皆に言っといて」
 レイフが懐っこく付け足すと、ラースは相好を崩して、大きな手でレイフの頭をガシガシ撫で繰り回し、すっかり満足した様子でキッチンから出て行った。
「親父の奴、近頃機嫌いいよなぁ」
 ラースの荒っぽいスキンシップにくらくらしながら、レイフが余計に乱れてしまった髪を撫で付けて直していると、クリスターが彼のためにコーヒーを入れて持ってきてくれた。
「あれって、きっとクリスターが原因だぜ? なあ、急にどうしたんだよ、兄貴って、あんまり親父とは折り合いよくなかったのにさ」
「別に仲が悪かったわけじゃないよ。僕に、父さんの話をちゃんと聞いてあげられる気持ちのゆとりがなかっただけで…」
「ふうん」
 レイフは不思議そうに首を傾げて、ゆったりとくつろいだ風情でコーヒーを飲んでいるクリスターを眺めた。
「でも、よかった」
「何が?」
「だって、クリスターも、何だか機嫌よさそうじゃん。オレ、おまえが、また煮詰まってるんじゃないかって、心配してたんだ。だって、オレ達が言い争ったのって、まだ一週間前だし、おまえって落ち込むと長いだろ?」
「もう一週間前だよ。大体、あの時の僕はおかしかったんだ…後で考えると、どうしてあのくらいのことであんなに腹を立てたんだろうって自分でも不思議に思ったくらいだよ」
「そ、そうなんだ」
 レイフはふと神妙な顔になって、兄の真意を探ろうとしたが、いつになくさばさばしているクリスターには、あの時閃かせた怒りの片鱗も残っていない。
(僕が抱いた女を、おまえはそれと意識して抱いた。さあ、アリスとどんなふうにやったのか、どんなふうに感じたのか、僕に言ってみろよ、レイフ!)
 レイフが追求するべきかどうか迷っていると、クリスターが先に問うてきた。
「僕のことよりも、おまえの方こそ、もう大丈夫なのかい?」
「えっ?」
「アリスのことでは、すごくショックを受けていただろ? 彼女とおまえを引き合わせたのも、結婚のことを黙っていたのも僕の責任だから、そっちこそ、気になるよ」
「え、ああ…アリスね。うん、もう大丈夫だよ」
 クリスターは目を瞬いた。
「立ち直り、早過ぎないかい?」
「そりゃ、知らされた時は、もう女なんか信じられないってくらいの大ショックだったけど、そんなの、一晩大泣きして涙で枕を濡らしたら、もう充分だろ」
「…泣いたんだ」
「あ、ううっ。だ、大体、オレって、振られ慣れしてるし。それに…後から考えてみたらさ、アリスがあの時色々言ってくれたのは、やっぱりオレのためを思ってくれてのことだったんだって、感じられるようになったんだ。その…彼女と経験したこともさ、オレにはきっと必要だった。そう思ったから、アリスはオレを誘ったんだろうって…ううん、これは、ちょっと好意的に考えすぎかな。でも、だからさ、オレは別にアリスのことを恨んじゃいねぇし、いつかまた会えたらいいなってくらいには思ってる。あ、おかしな期待はしてないけどさ。その時には、今よりうんといい男になって、逃した魚は大きいぞってアリスに思わせてやれ、なんてね」
 少しも卑屈な所のない態度で言い切って、明るくからりと笑うレイフを、クリスターは何かしら信じられないものを見るかのような目で見ている。
「参ったな」と、しみじみと彼は呟いた。
「気を回していた自分が馬鹿らしく思えるくらいだよ。僕も、おまえくらいあっさりと割り切ることができたらいいんだろうけど、どうも無理そうだ」
「オレだって、悩みを引きずることくらいあるよ」
 レイフはふいに真顔になって、テーブルの上に置かれていたクリスターの手を掴んだ。指先からクリスターの微かな震えが伝わって、じんと彼の胸を熱くした。
「アリスの件でさ、クリスターとぎくしゃくした雰囲気になっちまって、それがすごく嫌だった。クリスターとケンカしたことが今までなかったわけじゃないけど、いつもと何かが違うってくらい、あれ以来、何だか兄さんが遠くてさ。おまえからオレに伝わってくるものが言葉や目で見えるもの以外にもあったはずなのに、捉えられなくなったような気がして、とても落ち着かない気分でさ」
 レイフは、クリスターの存在を確かめようにするかのように、目の前に持ってきた彼の手を触ったり撫でたりした。クリスターの手の質感や重み、滑らかな肌が含んだ熱や湿り気…。
「おい」
 ついに黙っていられなくなったのか、クリスターがたしなめるような声を発したが、それも無視して、レイフは彼の手に頬を摺り寄せた。
「な、肩も触らしてよ」
 思いつくまま、レイフは椅子をがたんと言わせて立ち上がり、テーブルを回って、動揺のあまり瞳を揺らしているクリスターの肩に腕を巻き付けた。
 この感じも変わっていない。実際よりも着痩せして見えるクリスターのきれいに発達した筋肉の手触り。まともにパンチを食らったら、レイフでも一撃で伸びてしまうだろう。
「あ、兄さん、今朝、髪洗ったろー?」
 シトラスとミントの爽やかな香りに鼻をくんくんさせながらレイフがクリスターの耳元で暢気に囁くと、手の下に感じられる彼の腕や肩が慄いたように緊張した。
「離せよ、苦しいじゃないか」
「いいじゃんか。ケチるなよ」
 クリスターが渋い顔をして、しつこく擦り寄ろうとするレイフの体を押し返していると、外出のため身支度を整えたラースがまたキッチンに顔を覗かせた。
「何をやっとるんだ、おまえら?」
 少し怯んだ様子を見せる父親に、さすがのレイフもばつが悪くなって、慌ててクリスターの肩から手を離した。
 何だか急に恥ずかしくなってきた。悪戯を見咎められた子供のような気分で、所在なげに立ち尽くしてしまう。
「ちょっとふざけて、じゃれてただけだよ」
 クリスターがすかさずフォローを入れると、ラースはふんと鼻を鳴らした。 
「仲がいいのは結構だが、そんな大げさすぎるスキンシップは控えめにしろよ。小さな子供じゃないんだし、他人が見たら、あの兄弟は親密すぎて変だと思うぞ」
 ラースが何気なく言った一言が、何故か胸に鋭く突き刺さって、レイフは思わず息を止めた。
(ああ、そっか…父さん、今、オレらのこと、変だと思ったんだ)
 ラースはそれ以上追求することなく出かけていったが、キッチンに取り残された双子の間にはどことなく気まずい沈黙が漂った。
 クリスターはラースが出て行ったキッチンのドアを眺めながら、じっと考え込んでいる。
(あ、駄目。せっかくクリスターと仲直りできそうなのに、また離れちまいそう)
 レイフが心細げな目で兄の頭を見下ろしていると、ふいに、体の脇に垂らしていた彼の手にクリスターが指先で触れた。
「馬鹿、おまえの悪ふざけが過ぎたからだぞ」
 レイフを見上げ、大丈夫だよというように微笑むクリスターに、レイフは安堵のあまり少し泣きそうになった。
 大丈夫。クリスターはレイフの存在を拒否しているわけではない。ならば、もっと―。
「な、なあ、クリスター、もし今日何も予定がないなら、一緒にどこか出かけないか?」
 自分の席に戻ったレイフは、思いつくままにクリスターを誘った。
 何だか今朝のレイフは、妙に兄が恋しい気分になっている。先程も無性にクリスターに触りたくなったし、今でもまだ離れがたい。
 クリスターがレイフと同じように感じているかは分からない。こういう感覚は二人の間で伝わることが多いのだが、今はそれがなくて、だから、余計に確かめたくなる。
 この恋しさは、たぶん不安の裏返しなのだ。
(こういう流れなら、よほどのことがない限りクリスターはオレの誘いを断らないはずなんだけど…)
 クリスターの答えを、期待と不安ないまぜの気分で、レイフは息を詰めて待ち受けた。しかし―。
「ダニエルと映画を見に行こうって話になっているんだ」
「ダニエルと?」
 少し困ったような表情をするクリスターに、レイフは戸惑いながらも、もう一押ししてみた。
「ふうん、それなら、オレも連れて行ってくれよ。映画観るなら、二人でも三人でも一緒だろ」
「別にいいけど。でも、映画の後でちょっと、ダニエルに数学の課題で教えてほしい所があるって言われてて、見てやらないといけないんだ。おまえ、付き合えるかい?」
 別にはっきり来るなと言われたわけではないが、レイフにはピンときた。
(オレに来て欲しくないんだ)
 言いようのない寂しさがこみ上げてきたが、のけ者にするなと食い下がってクリスターを困らせるのも嫌だったので、レイフはあっさり引き下がった。
「ううん、それなら、いいや。休みの日まで、数学の話なんか聞きたくないし」
「また次の機会に、一緒に行こう」
 レイフが落胆したことは分かるのだろう、慰めるように付け足すクリスターに、レイフは健気らしく笑いかけた。
「うん。ダニエルによろしくな」
 約束の時間が迫っているのだろう、そのまま席を立ってキッチンから出て行くクリスターを、レイフは名残惜しいような、引き止めたいような気分で見送った。
(何だかやっぱり余所余所しいんだよな。別に、あのことに拘ってるわけではない…むしろ頭の中からきれいに排除しちまって、溜め込んでいた悩みも全て克服したようなすっきりした顔してるけど…どこか不自然というか、そう、オレの知っているクリスターじゃない)
 レイフは、ふいにいわく言いがたい悪寒を覚えて、身震いした。
 これまでとは、どこか違うクリスター。今までのように通じ合うことができなくなった、レイフの知らないクリスター。
(待てよ、一体、どこが変わったっていうんだろう…? だって、クリスターは別にオレを拒否しているわけじゃない。未だに腹に据えかねていることがある様子でも、ほとほと愛想がつきたって感じでもない…オレをちゃんと愛してはいる…オレが言うのも変な話だけど、そのことには自信がある)
 それなのに、レイフのより深い本能の部分が、違う違うと騒ぎ立てているのだ。
 あいつがいなくなる。遠くに行ってしまう。早く、早く何とかしろ!
(さっきもさ、何だかつき物が落ちたように穏やかさを取り戻したクリスターを見て、オレは確かにほっとしたけれど…同時にやっぱり違和感や不安も覚えたんだ。俺に向けられてくる、あいつの優しさや気遣いには嘘はなかった…でも、何か肝心なものが欠けている。何だか調子が狂うんだよな、あんなありがちな態度でこられると…まるでさぁ、普通に弟を愛して可愛がっている兄貴みたいなさぁ…あれ…?)
 呟いた途端、レイフの胸に小波がたった。
 ごく普通の兄弟のように?
(あ!)
 レイフの体よりも、心よりも深いところから、何かが叫んでいる。
 オレの半分が、切り離されて、行ってしまう。取り戻せ取り戻せ取り戻せ―。
(考えすぎなんかじゃない、あいつ、やっぱり…オレから離れていくつもりなんだ)
 レイフが慄然として思った、その時、ガレージの方から車のエンジンがかけられる音が聞こえてきた。
 レイフは弾かれたようになって立ち上がった。そのまま慌ててキッチンから玄関に向かい、ドアにぶつかるようにして外に飛び出す。
「クリスター…!」
 焦燥感に駆られてレイフが叫んだ先に、クリスターの車が家の敷地から道路へと出て行くのが見えた。
 レイフはそれに向かって狂おしげに手を伸ばし、一瞬追いかけようとしかけたが、自分の足でもさすがにもう無理だと悟って、立ち止まる。
「なんで…? まさか、本気じゃあ、ないよな?」
 思わず、問いかけるかのように呟いたみたものの、応えてくれる相手はいない。
 クリスターは行ってしまった。



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