ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第３章 唯一の絶対
SCENE7
それは、フィリップス・アーバン高校ボクシング部も参加した、アマチュアボクシング大会でのことだった。
試合前から、クリスターのコンディションは心身ともにあまりよくなかったのは確かだ。前日にレイフと言い争ってしまったことを引きずって、昨夜はほとんど眠れていない上、試合に対する集中力も欠いていた。
完璧主義者のクリスターだ。自分の状態を冷静に見極めることができれば、決してこんな日にリングに上がったりしなかっただろう。
しかし、大丈夫だと自分に言い聞かせながら試合に臨んだのは、身の内に溜め込んだ破壊衝動をどうにかして発散しないことには自分の神経が焼き切れてしまいそうだとの危機感からだった。そして、おそらくは己が能力に対する過信―。
クリスターが出たヘビー級第三試合。対戦相手はまだほとんど試合経験のない体ばかり大きな九年生で、誰もがクリスターの敵ではないと考えていた。
実際、試合開始のゴングが鳴った瞬間から、クリスターも、これはＫＯ勝ちできるなと相手を簡単に見切ってしまった。プロも羨むほどの動体視力を誇る彼の目には、相手選手の動きはひどく隙だらけの緩慢なものにしか見えなかったのだ。
（どうせなら、今日は、もっと手応えのある相手と戦いたかったけれど。初っ端から第一ラウンドＫＯ勝ちじゃ、いくらなんでもつまらないし、かと言って、こんな不慣れな子相手に悪戯に試合を引き伸ばすのも…やれやれ…）
クリスターがつい溜息を漏らしてしまったのを、どうやら相手は見咎めたらしい、初めは逃げ腰なくらい用心深かったのが、いきなり積極的に前に出てきクリスターを威嚇するかのようなジャブを繰り返した。
（ふうん。僕に挑発されたと思って、頭にきたか）
それらを軽いフットワークでかわしながらも、クリスターにはやはりあまり闘争心は沸いてこなかった。
「クリスターさん！」
声のした方にちらっと目を向けると、コーチやセコンドと一緒にリングの外に立って心配そうに彼の試合を見守っているダニエルの華奢な姿が見えた。
ボクシング部でも、トレーナーとしてクリスターの健康管理にはとりわけ気を使っているダニエルは、今日の試合に彼が出ることを最後まで思いとどまらせようとしていた。
(心配性だな、ダニエル)
クリスターの口元に薄い笑みが過ぎった。次の瞬間、マットを力強く蹴った彼は、次のパンチを繰り出そうとしていた相手の懐深く入り込み、強烈なボディーブローを打ち込んでいた。
わっというような歓声が周囲から上がる中、腹を抱えてうずくまる相手を冷めた目で見やると、クリスターは後ろに下がった。
レフリーが数えるカウントダウンをぼんやりと聞きながら、クリスターは、何とか立ち上がろうともがいている相手選手から視線を外してざわめく観客達を眺め回した。
（今日は結構見物人が多いな）
アーバン高校の生徒達が集まる一角には今日もしっかりカメラを携えて一番いい席に納まっているアイザックを初め、生徒や教師、選手の父兄など知った顔がいくつも並んでいる。
しかし、そこにレイフの姿はなかった。一応今日の試合のことは知らせていたのだが、もともと彼はクリスターのボクシングの試合はあまり見たがらないし、それに、昨日の今日ではさすがに応援に来ることはないだろう。
(僕も…レイフとどんな顔をして会ったらいいのか分からない。いつものようにうまく取り繕うこともできず、昨日からずっと、二人きりで顔を突き合わせることがないよう、あいつを避け続けた)
胸の奥に鉛の塊でもあるかのような重苦しさを感じながら、友人達が陣取る席の更に後ろ、ホールの出口の前の辺りの席にまで何気なく視線を向けた時、クリスターははっとなった。
（え？）
思わず目を瞬き、今見たものを再度確認しようとした、その時、試合再開の合図がなされ、クリスターの意識は無理矢理リングに引き戻された。
一度ダウン寸前まで追い詰められたことによって返って吹っ切れたらしい、相手選手はそれまでとは打って変わって積極的な攻撃に出てきた。
クリスターはそれらをうまくかわしつつ一撃必殺の隙を窺っていたが、一方で、今しがた観客席の奥に見つけた人物が気になって仕方がなかった。
（まさか…まさか―）
敵と睨みあいながらリングの上を円を描くように移動しつつ、クリスターはまたしても、あの気になる一角に目をやった。
そして、今度ははっきりと、クリスターは見た。
興奮状態にある観客席の後ろの方に、一人、いやに落ち着いた風情で佇んでいる金髪の若者がいたのだ。
リングからはかなりの距離があったにもかかわらず、クリスターの炯眼は、若者がこちらを見ながら満足そうに頷くのを、その唇が笑みの形につりあがり、そこから真っ白な綺麗な歯が覗くのを捉えた。
やっと、君に会えた―。
まるでクリスターに伝えようとするかのように動いた唇は、そう呟いていた。
この唐突な邂逅に、クリスターは自分でも意外なほどのショックを受けていたようだ。今が試合の最中だということも一瞬忘れ、金縛りにあったかのように、彼は全ての動きを止めた。
「ク、クリスターさん！」
ダニエルの悲鳴にクリスターが我に返った時には遅かった。
「うっ？」
クリスターの注意力が削がれた、その一瞬の隙を捉えた相手のパンチが彼の顔を目掛けて飛んできた。
クリスターはとっさに避けようとしたが完全には避けきれず、渾身の力を込めた一発はクリスターの目の上を掠めるようにヒットした。
（よくも…！）
自分よりも格下と舐めてかかっていた相手から食らったパンチに、もともと負けず嫌いのクリスターは殺気立った。
もう二度と油断などするものか。
瞬時にファイティングポーズを取ったクリスターは、勢いづいて更にパンチを繰り出そうとする相手に対して激しい反撃に出た。相手の試合経験が浅かろうが、今度は一切容赦しなかった。
それまでは専らのらりくらりと攻撃をかわすばかりであまり戦闘意欲は見せなかったクリスターがいきなり豹変し、素早い動きと破壊力のあるパンチで一気に攻めかかってくるのに相手は動揺したようだ。
観客席からは、待っていましたとばかりの歓声と拍手があがる。
反射的に急所を防護しようとする敵の動きよりも早く、間合いを詰めたクリスターは、強烈な右フック、左フックを相手の胴に続けざまに見舞っていた。
よろめきながら後退する相手をクリスターは瞬く間に追い詰め、必殺のストレートパンチを繰り出そうとした。
しかし、そこで惜しくも第一ラウンド終了のゴングが鳴った。
「くそっ！」
珍しくも苛立ちを顕に吐き捨てたクリスターは、リングサイドに戻った時にやっと自分が出血していることに気がついた。
先程受けたパンチで瞼の上を切ったらしい。コーチが止血処置を施してくれたが、結局これ以上の試合の続行は無理と判断され、クリスターは不本意ながらも途中で棄権することになった。
リングを降りて会場に待機していた医者に診てもらった時にはほとんど血は止まっていたように思うが、念のために病院に行くよう指示をされ、他の選手の試合を見ることもなくクリスターは先に会場を立ち去った。
その後、クリスターは近くの外科に車で行った。幸い傷口を縫う必要はなく、化膿どめの薬をもらっただけで、すぐに帰ることができたのだが―。
「大した怪我でなくって、よかったです。結構血が出ていたように見えたから、とても心配したんですよ、僕は」
付き添いとしてついてきたダニエルは、随分と落ち込んでいるクリスターを気遣ってかずっとおとなしくしていたのだが、病院を出て車に乗り込んだ頃には安心したらしく、屈託なく話しかけてきた。
「頭部に受けた傷は深くなくても出血が多く見えるんだよ。何も大騒ぎをするようなことじゃなかったんだ。試合だって、続けようと思えば、僕にはできた」
クリスターの方はまだ気持ちがおさまらず、いつもは可愛がっているダニエルに対する応えもつい尖ったものになってしまった。
「クリスターさん…でも、コーチの判断は正しかったと思います。今日のあなたは、いつもと様子が違っていましたから…平静に振る舞おうとしていたけれど、リングに上がる前から何か他のことにずっと気を取られていたでしょう？ それに、顔色も悪かったし、動きもあなた本来の俊敏さには欠けていました」
クリスターは思わず、助手席に小さく納まってこちらに真摯な顔を向けているダニエルをまじまじと見返してしまった。
「君も目聡いね、ダニエル」
ふっと苦笑して、クリスターはハンドルにかけた腕の上に顔を伏せ、深い溜息をついた。
「ああ、分かっているよ。勝てるはずの相手に遅れをとってしまったのは、僕自身の不注意と過信のせいだ。君の指摘したとおり、僕の今日のコンディションは最悪で、本当は試合になど出るべきではなかったんだ。無理を押して対戦して、結果があれでは弁明の余地もないな。自己管理を怠った上、試合に臨む姿勢からして間違えていた…実力があるとかないとかいう問題以前の初歩的なミスだ」
「クリスターさん、そこまで自分を責めなくても…あなたは別に負けたわけじゃないですよ」
「あんな不完全で不細工な試合をするくらいなら、いっそ相手にＫＯされていた方がましだ…！」
悔しさを押さえかねてハンドルに拳を叩きつけるクリスターにダニエルは息を飲んだ。
「すまない…」
クリスターはダニエルにまでつい当たってしまった自分を恥じて、しばし黙り込んだ。
「今日の僕はどうかしている。結果はどうあれ終わった試合のことなどさっさと忘れればいいんだ。だのに一向に気持ちが静まらなくて…いつもはこんなことないのに、変だな…」
シートにもたれかかり、クリスターはしばしの車の外に視線をさ迷わせた。今日は夕方まで会場にいるつもりだったのが、途中で抜け出したから、まだ昼過ぎだ。
（中途半端に時間ができてしまったな…どうしようか…）
まずはダニエルを寮まで送り届けて、それから家に戻って休むのが妥当だろうが、クリスターはあまりそうしたくはなかった。
家に戻れば、レイフと顔を合わせてしまうかもしれない。昨日のこともあって気まずいのもあるが、何より、こんな情けない顔をレイフには見せたくなかった。
（どこでもいいから一人になりたい…今は、他人の視線を気にして自分を取り繕うのも億劫だ。それに…そう、早く頭を冷やして考えなければならないこともある）
クリスターの脳裏に、試合の最中、観客席に見つけた青年の姿が浮かび上がった。
クリスターが、その人物をそれと認めたのは一瞬のことで、その後試合相手のパンチを受けて負傷したり、逆上して攻撃に出たりで、しばらく目を離した隙に彼は煙と化して消えたかのように会場から忽然といなくなってしまっていた。
錯覚ということはないだろう。クリスターは目には自信がある。それに、他の人間ならいざ知らず、彼を見誤るとは思えなかった。
（それとも、彼の幻を見るほど僕の精神状態が追い詰められているかだな…何だか、それもありえないことではない気がしてきた）
ふと、隣にいるダニエルを意識し、彼に話すべきだろうかとクリスターは迷った。
（いや、今打ち明けても、悪戯にこの子を怯えさせるだけだろう。明日にでも、アイザックには話してもいい…彼のいた席からは少し距離があったようだけれど、もしかしたら、それらしい人物を見かけたかもしれない）
クリスターは鉛が詰まっているかのように芯の重い頭を強いて働かせながら、おもむろに車のエンジンをかけた。
「さて、寮まで送るよ、ダニエル」
なるべくいつもどおり自然に振る舞おうとしていたが、うまくできているかも今のクリスターには自信が持てなかった。
「クリスターさん」
「うん？」
「レイフさんと…何かあったんですか？」
ハンドルを握るクリスターの手が微かに震えた。
「どうして…そう思うんだい？」
助手席の少年の様子を、クリスターは横目で素早く窺った。
ダニエルは行儀よくそこに座って、フロントガラスの前の風景にさり気なく目を当てているが、神経を集中してクリスターの反応を探っているのが感じられた。
「あなたがそこまで自分を見失う理由を、僕は他に思いつかないからです」
クリスターは努めて冷静さを装いながら、少年の言葉を鼻先で軽く笑い飛ばした。
「…考えすぎだよ」
クリスターが、ラジオをつけることで、それ以上の追求をさり気なく、しかし、断固として拒否すると、ダニエルは素直に口を閉ざしたが、本当は言いたいことを一杯抱え込んでいる様子だった。
クリスターの傍にいて、彼が心身共に次第に参ってきていることにも逸早く気づいていただけに、その小さな胸は心配で張り裂けそうになっているに違いない。
（だからと言って、ダニエルに話すわけにはいかないし、他人に打ち明けてどうなるものでもない。これは、僕の問題だ…僕とレイフの…他の人間を関わらせたくなどない。ましてや僕に純粋な好意を持ってくれている、この子を巻き込むわけにはいかない）
学校に着くまでの間、車内には何となく気まずい沈黙が漂った。ラジオから流れる明るいポップソングが空々しく響くくらいだ。
普段のクリスターなら、こんな時には相手の緊張をほぐそうとしてあえて話を振ったり、何かフォローするような言葉を重ねたりするものだが、今はそんな気遣いができる余裕もなかった。胸のうちで今にも爆発しそうなほど荒れ狂っている激しく、熱く、狂暴な感情を抑えるので精一杯だったのだ。
その後、学校の駐車場でクリスターはダニエルとは別れたのだが、そのまま帰路につくことはせず、クラブハウスに足を向けた。
「…忘れたものがあるから、ちょっと取りに行くだけだよ。ここまで来たついでだからね」
誰もいないだろう休日の部室に立ち寄ろうとするクリスターにダニエルは怪訝そうな顔をしたが、深く追求してはこなかった。
本当は別に用事などあったわけではない。自分の不調など認めたがらない意地っ張りのクリスターにも、ダニエルにまで苛立ちをぶつけてしまった今の精神状態でこれ以上他人と顔をあわせるのはまずいと思うくらいの危機感はあった。
（さすがに無理を重ねすぎたかな…たかがボクシングの試合くらいで切れやすくなるほど、神経が過敏になっているのか）
合鍵を使って人気のないクラブハウスに入り、二階のボクシング部の部室で、一緒に持ってきたグローブやシューズなどの荷物をロッカーに放り込むと、クリスターはほっと息をついた。
（静かだ）
平日は人の声や物音が絶えない場所だけに、静寂がひしひしと四方から押し寄せてくるかのように感じられた。
クリスターはふと不安に駆られたように周囲を眺め回し、苦笑しながら頭を振ると、部屋の隅のテーブルの所にある椅子に腰を下ろした。
「疲れた…な…」
乾いた声でぼんやりと呟いた、その一方で、この程度のことで弱音を吐くなと叱咤する自分がいる。
（この性分を何とかしないといけないかな。僕にも限界はあるのだと素直に認めて、たまには力を抜かないと…レイフのいい加減さを少しは見習うべきか…ふふ、あいつには、僕が感じるようなストレスはきっとないんだろうな）
少しは休まないと壊れてしまうぞ。他人に対してならば、クリスターもそう忠告しただろう。だが、下手に余裕ができると、つい考えなくてもいいことまで考えてしまいそうで、嫌だった。だから、常に全力で走り続けた。
（せめて、僅かの時間でもぐっすりと眠れたら、頭も体も随分すっきりして楽になれるだろうに）
肉体は疲労困憊しているのに、頭だけは冴えて眠れない夜は今でも多い。
クリスターはテーブルの上に顔を伏せてしばらくの間目を瞑ってみたが、じっとしていることに次第に我慢ができなくなってきて、いきなり椅子から起き上がった。
（熱い…）
閉め切っているとはいえそれほど気温は高くないはずだが、体の内に妙に熱がこもって、無性に息が詰まる。クリスターは何かに追いたてられるようにシャワールームへ向かった。
みし。みし…。クリスターの胸の奥で何かが不穏な音をたてていた。
それから三十分ほど、クリスターは冷たいシャワーを頭から浴び続けた。
胸に取り付いたもの狂おしさは晴れず、次第に物騒な熱を増すばかりで、冷たい水に打たれれば少しは紛れるかと思ったのだが、それも無茶な話だった。
すっかり冷え切った体でシャワールームを出て部室に戻ったクリスターは、上半身はまだ裸のままタオルを肩にかけてぼんやりしていた。
ふと思い出したように目の上の傷跡に触れてみる。気が立っているせいか、痛みはあまり感じない。
（なんて不様な…！）
一度は締め出すことに成功した苦い記憶がまたしても胸の奥底から湧き上がってきて、クリスターは自分に対する凄まじい怒りに身を震わせ、歯を食いしばった。
（レイフとの間にあんな諍いがあったくらいで、自分を見失うくらいに取り乱したか。冷静な状況判断ができず、試合を不本意な結果に終わらせた…そんな最悪の自分を衆人環視の中でさらしてしまうなんて、我ながら信じられない。しかも、あいつが来ていた…隙だらけの僕の有様を見て、きっと呆れ返っていただろう）
抑えようもなく噴きあがってくる激情に、こめかみの辺りがずきずきと痛む。クリスターは、押しつぶしてしまいたいかのように両手で頭を掴んだ。
（？…）
その時、彼の体に異変が起こった。
（何だ…？ 息が…妙に苦しい…）
クリスターは震える手でせわしなく上下する胸を押さえた。
「あ…」
不安に突き上げられるように椅子から立ち上がり、テーブルの端に手をついて、乱れた息を整えようと試みるが、浅く早くなった呼吸は一向にもとに戻る気配はない。
はっ、はっと息を吸い込む口の辺りや指先はしびれ、頭も朦朧とかすみ、ちゃんと立っていることも覚束なくなってきた。
しまいにはほとんど息ができなくなってきて、どうして突然こんなことになったのか訳の分からぬまま、クリスターはよりによって今、こんな人気のない場所に一人きりでいることに恐怖すら覚えた。
「う…ううっ……」
クリスターが額に汗をうかべ、胸を掴み閉めたまま、机の上に突っ伏すようにしてあえいでいると、部屋の扉がいきなり開かれた。
霞む意識の中で、クリスターは、誰かが喫驚した声をあげるのを聞いた。
「クリスターさん！」
ダニエルだと分かったが、クリスターには応えることもできない。
「ど、どうしたんですかっ？」
駆け寄ってきたものの、何かの発作を起こしたように小刻みに体を震わせ息を荒くしているクリスターを前に、ダニエルもどうしたらいいか分からぬように立ち尽くした。
それでも、ダニエルが呆然となったのはわずかの時間だった。
彼は、かろうじて捕まっている机から今にも崩れ落ちそうなクリスターの大きな体を支えるようにして起き上がらせると、傍にあった椅子に坐らせた。
椅子に身を落ち着けたものの苦しさはおさまらず、クリスターが何とか息を整えようと苦闘を続ける間、ダニエルはロッカーの傍にある棚の辺りでがたがたと音をさせながら何かを探していた。
「ダニ…エル…？」
少年の軽い足音が再び戻ってきたかと思うと、優しい手がクリスターの肩にあてられ、何かが彼の口元にそっと当てられる。どこにでもありそうな、小さな紙の袋だ。
「これを口に当てて、吐いた息を吸い込むことを繰り返してください。ぴったりと押し付けることはありません…このくらい離して丁度いい」
そう説明された時点で、クリスターにもやっと思い当たった。
「大丈夫ですよ。ただの過呼吸の発作だと思います。気持ちを落ち着けて、僕が言った通りにすれば、すぐに治りますよ」
クリスターがその言葉に従って辛抱強く呼吸を続ける間、ダニエルは彼の背中を励ますようにさすっていた。
「一旦は寮に戻ったんですけれど、あなたのことが心配で様子を見に来て正解でした。まさかこんなことになっているなんて」
程なくして、ダニエルが言ったとおり、クリスターの呼吸は穏やかなものになり、一時はこのまま死ぬのではないかと疑ったほど彼を苦しめた発作は影も形もなく消えてしまった。
「初めて過呼吸の発作を起こした人はびっくりしますけれど、絶対死んだり後遺症を残したりすることはありませんから…ほら、もう大丈夫ですよ？」
すっかり虚脱しているクリスターの顔を下から覗き込んで、ダニエルはにこりと笑った。
「たぶんストレスのせいだと思います。僕も…昔は、一時情緒不安定な時期があって、何度か発作を起こしたことがあったので、ピンときたんです」
「…君と一緒にしないでくれ」
虚ろな目を何もない空間にあてながら、感情を欠いた声でぽつりと呟くクリスターに、ダニエルは一瞬顔を強張らせた。
クリスターはゆるゆると頭を振った。
「いや…これも僕の自惚れだな。無理は承知していたが、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせてきた。もう随分と長い間、僕の頭と心はばらばらになっていて、このままではまずいと薄々感じてはいたんだ。それをごまかすために酷使した体が、ここに至って、ついに悲鳴をあげたか」
自嘲的な述懐を漏らすクリスターを見守りながら、ダニエルは辛そうに唇を噛み締めた。それから、ふと怪訝な顔をした。先程まではあの混乱の最中で特に意識しなかったが、クリスターの髪や体が冷たく濡れていることに気がついたようだ。
「クリスターさん…どうしたんですか、これ…髪がびっしょり濡れて…冷たい…体もこんなに冷え切って、一体何をしていたんです？」
初めは遠慮がちだったのが、改めて触ったみたクリスターの体が芯から冷え切っていることが分かると、ダニエルは声を高くして追求した。
「シャワーを浴びていただけだよ。じっとしていると何だか息が詰まりそうだったから…水でも浴びれば少しは気分がすっきりするかなと思ったんだ」
クリスターは煩そうに眉根を寄せた。
「すっきりするって…待ってくださいよ、そんなことで、こんなに体が冷えきるまで、冷たいシャワーの中に突っ立っていたっていうんですか。ただでさえ体調はよくないのに、そんな無茶をしたら本当に体を壊してしまいますよ」
「別に真冬じゃないんだし、このくらいでおかしくなってしまうようなやわな体はしてないよ」
「それが過信なんですよ」
クリスターがじろりと睨むと、興奮してつい厳しい口調になっていたダニエルは射すくめられたように黙り込んだ。
「君が危ぶんでいるのはきっと、いつもは決してしそうにない馬鹿を今日に限って繰り返している僕の精神状態の方なんだろうね。その点については、僕も反論はできない。ああ、自分でも、よく分かっているとも」
顔に張り付いた濡れた髪をいらだたしげにかきあげながら、クリスターは情けなさと悔しさに歯噛みしそうな気分で吐き捨てた。
（僕は一体いつの間に、こんなに脆くなっていたのか…）
天井を仰いで大きく息をつくと、クリスターはすぐ傍に心配そうに立ち尽くしているダニエルを振り返った。
「迷惑をかけてすまなかった。君のおかげで発作はおさまったし、少しは気分も楽になった。僕はもう大丈夫だから、ダニエル、君は帰っていいよ」
すると、ダニエルは何とも口惜しそうな顔をした。その聡明な青い瞳が少しも揺るがずひたむきに自分を見ていることに、クリスターは訳もない不安を覚えた。なぜか無性に、この少年を早く自分から遠ざけたくなった。
「僕は大丈夫だから…あなたはいつも言いますよね。あなたの周りにいる人達は、あなたを、すごく強くてほとんど弱点なんかない人だと思ってる。皆、多かれ少なかれあなたに頼っている。もともとプライドが高い上に、周りがそんなだから、あなたは余計に弱音など吐けなくなってしまったんですね」
ダニエルの悲しそうな囁きに、クリスターは胸の底にくすぶっていた怒りの火が再びかきたてられるのを覚えた。このままではまずいと彼の中の冷静な部分が警告を発するほどに、今のクリスターは容易に激するようになっていた。
「今のあなたの一体どこが大丈夫なんですか。そんなに隙だらけで、張り詰めた糸みたいに切れやすくなっていて、それなのにまだ無理をしようとして…そんなあなた、痛々しくて見ていられません！」
「ダニエル…！」
まるで火を吐くかのように、自分の声が剣呑な響きを帯びていることに、クリスターは密かにうろたえた。
「君の同情など僕は必要としないし、ましてや干渉などして欲しくない。頼むから、それ以上余計なことは言わず、ここからすぐに出て行ってくれ」
クリスターが全ての訴えを拒むかのようにダニエルから顔を背けたのは、これ以上彼の話を聞いていると、自分は何をしでかすか分からないと危惧したからだ。
みし。みし…。胸に封じこまれた狂暴な獣は静まるかと思えば、またすぐに表層近くにまで迫ってきて、今にも薄くなった皮膜を突き破って飛び出してきそうな気がする。
「クリスターさん…僕は―」
冷たく拒まれても尚も懸命にクリスターに訴えかけようとするダニエルのか細い声は、語尾が震えたかと思うと、ふいに途切れた。
じっと押し黙ったまま立ち尽くしているダニエルの目がまだ自分を追っていることを意識しながらも、クリスターは心を閉ざして、その存在をひたすら無視しようとした。そうすれば、ついにはダニエルもあきらめて、ここから出ていってくれるだろうと願っていた。
緊張感を秘めた沈黙がしばし流れた。そして―。
「どうしても…駄目ですか？」
それまでとは少し違った調子の低い声―ずっと堪え続けてきた思いをどうしても表さずにはいられなくなったというような、決意を込めた声でダニエルは囁きかけてきた。
「ダニエル？」
怪訝に思ってクリスターが振り返ると、ダニエルの小柄な体がぶつかるように抱きついてきた。
突然のことでとっさに反応ができずにいたクリスターだが、ダニエルの震える唇が口元に押し付けられた瞬間、我に返った。荒々しく立ち上がりながら、彼はダニエルの体を乱暴に引き離した。
「何のつもりだ？」
こんな弱々しい、片手で簡単に取りひしげそうな少年に不意を突かれたことも腹立たしかったが、それまで保っていた二人の間の距離をダニエルがいきなり縮めて積極的に触れてきたことに、クリスターは明らかに動揺していた。
「クリスターさん…僕は、あなたが好きだと以前打ち明けました。今でも、その気持ちは変わってません」
クリスターにつかまれた肩が痛いのか、顔をしかめ、泣きそうな目で訴えかけるダニエルを、クリスターは氷のような酷薄な目で睨みつけている。
「君の気持ちには応えられないと、僕ははっきり言ったはずだ」
取りしくしまもなく言い捨てて、クリスターはダニエルの肩にかけていた手を下ろし、彼から一定の距離を取ろうとするかのように後ろに少し下がった。そんなクリスターをダニエルの切なげな声が追いかける。
「そんなこと…分かってます。僕はあなたに振り向いてもらえるなんて期待は…初めから持ってません。だって…」
ダニエルは、クリスターの指が食い込んでいた肩に手を置いたまま、全てをあきらめたような寂しげな目をして、うつむいた。
「あなたは、いつだって…レイフさんしか見てないじゃないですか」
クリスターは用心深く目を細めた。賢く勘のいい子だと承知しながら、傍にいることを許してきたが、それは間違いだったかもしれない。初めて、クリスターはダニエルに対して警戒心を覚えた。
「あなたが今まで付き合ってきた恋人やガールフレンド…中には、この人ならあなたともお似合いだなって思えるほど素敵な女の人もいたけれど、でも、彼女達のことを、あなたがレイフさんより大事だと思えたことは一度もなかったんじゃないですか？ あなたが、初めから遊びだと割り切って楽しんでいたとは言いません。むしろ、あなたは強いて色んな人と付き合って、少しでも好きになろうと努力していたような気がします」
あまりにも深く、クリスターの内面に踏み込んできたダニエルの言葉。
クリスターは懸命に冷静さを装おうとしていたが、ここまで鋭く追及されては、完璧に取り繕うのは不可能だった。
「何が言いたい？」
食い縛った歯の隙間から押し出すように、クリスターは問い返した。
本当はまともに相手などせずに、とにかくダニエルを遠ざけた方がいいと分かっているくせに、なぜ、そうしない？
「もしかしたらと期待していたけれど、実際、あなたには他の人など愛せなかった…そういうことなんでしょう…？」
黙れと念じながら、一方で、ダニエルの言うことについ耳を傾けてしまう。痛むと分かっていて、じくじくした傷口に爪を立てたくなるような自虐的な心情だ。
みしみしみし…。周りにあるもの全て粉々に壊しつくしたいような破壊衝動はますます高まってきて、ああ、もう抑えるのも限界だとクリスターは絶望的に思った。
そんなクリスターの耳にダニエルの声はとどまることなく流れ込んでくる。
「あなたが愛しているのは…片時も傍から離したくないほど執着し、いなければ自分が保てなくなるほどに依存しているのは、レイフさんだけなんです。他の誰にも…ましてや僕なんかにあなたの半身の身代わりがつとまるわけがない…それでも―」
ダニエルは思いつめた目を上げ、呆然となっているクリスターに近づいてくると、彼の胸にそっと頭をもたせかけた。
「お願いです…あなたの『唯一の絶対』になれやしないことは分かっています。ただ、あなたが苦しい時、悲鳴をあげたいのにそうできない時、泣きたい時…あなたの傍にいて少しでも心を楽にしてあげられるような、そんな存在にくらい僕はなれませんか…？」
「ダニエル…」
クリスターは自分の胸に押し当てられているダニエルの栗色の頭を途方に暮れたように見下ろした。
そうするうちに、激しいものが急に身の内深くから突き上げてきて、クリスターは衝動的にダニエルを抱きすくめた。
ダニエルは一瞬怯えたように身を固くしたたが、すぐに、クリスターの苦しいほどの抱擁に応えるように彼の体に腕を回し、必死にしがみついてきた。
「クリスターさん…」
クリスターを求めて伸び上がろうとするダニエルをそのまま引き寄せ、クリスターは奪うような強引なキスをした。
ダニエルをこういう行為の対象と考えたことはなかったつもりだが、唇を重ね、息をつく間もないほど激しくむさぼっているうちに、荒れ狂う熱のはけ口を求めていたクリスターの体は驚くほどの早さで興奮してきた。
おずおずと背中を撫で始めるダニエルの手の感触。クリスターの腕の中にすっぽりおさまった、折れそうなほど華奢な体はまさぐるうちに次第に熱を帯びてきて、それがまたクリスターを煽る。
このままでは本当に歯止めがきかなくなるぞと痺れたような頭の片隅で思った瞬間、クリスターは口の中で小さく悪態をつくと、有無を言わさずダニエルを引き離した。
「ダニエル…駄目だ…これ以上は―」
ひとまず理性は戻ったが、簡単に発情してしまった体の方はまだ暴走を続けようとしている。ともすればダニエルをもう一度引き戻し、彼が泣こうが喚こうが最後まで食いつくしたくなったが、クリスターはそんな衝動を無理やり押さえ込んだ。
「すまなかった」
息を弾ませながら問いかけるような目を向けるダニエルをそっと押し返すと、クリスターは背中を向けて、自分の着替えや荷物が入っているロッカーの方へ歩いていった。
「クリスターさん！」
ダニエルの鋭い声がクリスターの足をその場に縫いとめた。
「待って…待ってください。そんなふうに誰にも心を開かないまま、一人で、これから一体どうするつもりなんです？」
ダニエルはほとんど泣き声になっていた。
「レイフさんといつまでも一緒にいることなんかできませんよ…だって、あの人は気質から何からあなたとはあまりに違うもの…もしかしたら、どちらかが我慢すれば同じ大学にくらい行けるかもしれない。でも、その先は…？ いくら弟が可愛いからって、まさかレイフさんのために自分の将来を潰すようなまねまではしないでしょう？ レイフさんだって、そうです。いい加減目を覚ましてください。いくら双子でも、いつかは離れて、別の道を行くことになるんですよ」
鋭いナイフを胸に突きたてられたような痛みに、クリスターは一瞬また息ができなくなった。
いつもの彼ならば他人の言葉くらいで傷つくことはないのだが、今は鉄壁の意志力もそれを支えるプライドも崩れ落ち、むき出しになった心はあまりにも弱くなっていた。
聡明すぎるのも考えものだと、クリスターは皮肉に呟いた。いや、本当に賢ければ、超えてはならない一線というものをわきまえ、分かっていても胸に秘めておくべきことは黙っているはずだ。
「ダニエル」
クリスターの低く抑えた呼びかけに、ダニエルは何かしら不安を覚えて口をつぐんだ。
「そんなこと…君に言われるまでもなく、僕はよく分かっている…分かっているから―」
クリスターは抑えようもなく震えだす拳を体の脇で握り締めた。
「クリスター…さん？」
本能的に危険を察知したのか、ダニエルは自分の体を心細げに抱きしめた。
「だから、僕を一人にして出て行ってくれとあれほど頼んだのに…ああ、でももう手遅れか」
自嘲的に呟くと、クリスターは振り返った。その端正な顔にうかぶ悲哀と絶望、それを打ち消すがためのようなぎらついた欲望に、ダニエルは思わずすくみあがった。
「あっ」
ダニエルは怯えた目をしてとっさに逃げようとするが、そんな彼をクリスターは素早く捕まえ、猫の子でも扱うように軽々と抱き上げた。
「ク、クリスターさん、何を…」
ダニエルの喫驚した声には耳を傾けず、クリスターは後ろのテーブルの上に彼の体を無造作に投げ出すと、逃げる間も与えずその上に覆いかぶさった。
クリスターは、何かを訴えかけるダニエルの口を噛み付くようにふさいだ。がちがちと鳴る歯列を開かせて進入し、口の中で怯えたように縮まっている舌を絡めとった。
自分から求めてきたくせに恐いのか。クリスターが押さえ込んだ体はまだ小刻みに震えている。
ダニエルの怯えようを嘲りつつも、クリスターはほんの少しペースを落とした。
あんまり苦しそうなので息継ぎができるようにしてやると、唾液に濡れた唇から思いの外熱い吐息をダニエルは漏らした。恐くても、感じ始めてはいるようだ。
クリスターが再び唇を押し付けると、ダニエルは今度は自分から口を開いた。その中にクリスターは舌を差し込み、滑らかな口腔を思うように探り、味わった。
濡れた舌がたてるぴちゃぴちゃという音。含みきれなかった唾液がダニエルの口の端からこぼれる。
初めはただひたすら身を固くしていたダニエルも次第に慣れてきたのか、クリスターが促すように舌先でつつくのに、おずおずと自分も舌を差し入れて応え始めた。それをクリスターは更に執拗に弄り、吸い上げ、軽く歯を立てる。すると、クリスターの体の下にあるダニエルの脚が軽く痙攣した。
ほんの一瞬、そう言えばダニエルは脚が不自由だったなと思い出したクリスターは体を僅かに浮かせた。しかし、シャツの下をまさぐるクリスターの手にダニエルが再び微かな抵抗を示したのに煽られ、せっかく取り戻しかけた気遣いもすぐに消え去った。
「僕が好きなんだって…？」
邪魔なダニエルの手を払いのけると、クリスターは、血管のういた細い首筋に顔を埋め、薄い皮膚が破れそうな強さで吸った。
ダニエルは思わず肩をすくめ、脚をちぢこめながらクリスターの胸を突っ張ろうとするが、そんな非力な抵抗など彼には通用しない。
「クリスターさん、待って…こんな―」
シャツの前をはだけられただけでなく、ついには下着ごとズボンも脱がされて、ダニエルは羞恥心に顔を赤くしながら膝を閉じようとするが、それも間にあるクリスターの腰に阻まれてしまう。
「今更遅いよ、ダニエル…でも―」
クリスターの性急で強引な愛撫に混乱し萎縮しながらも、か細い骨のういたダニエルの薄い胸は朱に染まり、小さな乳頭は固く尖っている。それを見下ろすクリスターの声も欲にかすれてはいたが、微かな自嘲をも含んで、暗く響いた。
「そうだな…せめてもっと優しくできればいいんだけれど、ごめんよ…そんな余裕はなさそうだ」
続いて、ダニエルの切迫したような苦鳴があがる。押し広げられた脚の付け根のくぼみを探っていたクリスターの指がいきなり内部に押し入り、内壁を探りながら固いその部分をほぐすように蠢くのにダニエルは震え上がった。
「っ…や…あぁ…っ…！」
嫌々をするように頭を振り、押しのけようとするかのようにクリスターの腕に指を食い込ませるも、次第にその抵抗は弱くなり、切れ切れに上がる声も艶を帯びてきた。
全身を紅く火照らせ、理性のたがが外れたようにうわごとめいた意味のなさない言葉を漏らしているダニエルを見下ろし、クリスターは下腹が炙られたように痛むのを覚えた。
「ダニエル…」
クリスターはジーンズのジッパーを下ろして痛いほどに猛った己のものを引っ張り出すと、完全に力の抜けたダニエルの脚を抱えあげ、まだ充分に柔らかくなってはいないそこに位置を合わせて深々と一気に貫いた。
ダニエルの喉から張り裂けんばかりの絶叫が上がる。
「あっ…あぁぁっ…！」
苦痛から逃れようと手がかりを求めて闇雲に振り回されたダニエルの手がテーブルの上に残されていた誰かのカップを床に叩き落す。固く閉ざされた目からは涙が溢れ出していた。
たぶん裂けたな。締め付けのきつさに一瞬息を飲んだ後、骨ばった細い腰を掴んで、クリスターは抽挿を繰り返した。
初めは具合を確かめるようにゆっくりと動き始め、次第に早さを増し、深く激しくダニエルの胎をえぐりこんだ。
「ひっ…く…うぅっ…」
クリスターが突き上げる度、ダニエルの細い体は跳ね上がり、がくがくと震え、壊れた人形のように踊る。
こんな力ずくの交わり、ダニエルには苦しいばかりで、快感などとても覚えられないだろう。
体は凄まじく興奮しているのに、いつの間にかすっと醒めていた頭の片隅でクリスターは苦く呟く。
熱を持った耳に聞こえるのは、ダニエルの弱々しい泣き声、己が吐き出す荒い吐息、深々と身を沈める度につながった部分が立てる湿った淫猥な音―。
クリスターが好きだから傍にいたい、彼の役に立ちたいと一途に訴えていた、可愛いダニエル。そんな彼にクリスターが今しているこのことは一体何なのか。
恋などではない。上辺の優しさで包み隠すことすら放棄した、剥き出しの欲望をただ叩き込んでいるだけだ。
気持ちではもうとっくに己の行為に嫌気が差していて、やめられるものならやめたかったが、猛り狂ったまま暴走を続ける体が裏切る。
しゃにむに腰を打ちつける度、痺れるような快感が下腹から伝わって、クリスターを更に急き立てた。思えば、セックスでこれほど興奮させられたことは、しばらくなかったのではないか。
すっかり慣れて、この頃ではむしろ倦んでいた柔らかな女の体とは違う、これは、か細くても硬質な、男の体だ。
欲しいものと少しは似ているということか。いや、似ても似つかない。ああ、それでも―。
白熱し今にも焼け爛れそうな頭を激しく振りたて、ダニエルを一際激しく突き上げると、クリスターは胸に溜め込んだ澱を吐き捨てるような叫び声を発した。
心を守りきれずに傷つけられた時、人は思ってもみなかったほどの激しい反撃に出るものだ。
ダニエルをほとんど犯すように自分のものにしてしまった今、僕は無性に中学時代に束の間の関係を結んだアイヴァースのことを思い出す。
子供じみた好奇心からアイヴァースの古傷を開いてしまった僕を彼は力づくで無理矢理奪った。更にその後、今度は、僕の最も触れられたくない心の秘密を暴き出してしまったアイヴァースを、僕は罠にかけて陥れた挙句学校から追い出した。
あのアイヴァースとのお互いの心の秘密を探りあうようなゲーム感覚の関係では、そんな殺伐とした関わりあいに終始してしまったのも無理はなかったかもしれない。
だが、確かに可愛いと思い、大切にしてきたつもりのダニエルに僕自身があんなひどいことをするなんて、夢にも思ってみなかった…。
夕方遅くになって、クリスターはやっと家に戻った。
「ただいま」
リビングの方からテレビの音声は聞こえていたので誰かいるのだろうと声をかけたが、返事がないので、そのまま重い足取りで二階に上がっていく。
レイフの部屋の前に差し掛かった時、クリスターはふと足を止めた。人がいる気配はないので、たぶんレイフはどこかに出かけているのだろう。
閉ざされたドアをクリスターはしばし凝然と眺めた後、手を伸ばして、ほんの少しだけ開いてみた。中に入ろうとしかけたが、どうしてそうしたいのか分からず、クリスターはドアの隙間から覗いた弟の部屋から目を背けた。
（何をやっている…）
苦笑して頭を振ると、クリスターは開きかけたドアを再び閉じて自分の部屋へ歩いていった。
物思いに沈んだまま自室のドアを開いて中に入った瞬間、クリスターは何かつまずいたように立ち止まった。
「おお、クリスター、今帰ったのか」
呆然としているクリスターが見る前で、彼の机の前に立って、そこに置いてあった心理学の本をぱらぱらとめくっていたラースが振り返った。
「何してるんだよ…父さん…」
「おまえ、こんな難しい本をいつも読んどるのか。何が書いているのか、俺にはさっぱり分からんよ。おまえは、つくづく母さんに似たんだなぁ」
のんびりとした父親の応えにかっとなったクリスターは素早く彼に近づくと、その手から自分の本を取り上げた。
「勝手に僕の部屋に入ったり、僕のものに無断で触ったりして欲しくないな！」
クリスターの剣幕にラースは驚いたように目を見開く。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか…別に悪気があった訳じゃない、ただちょっと覗いてみただだろうが…うん…？」
クリスターと間近で向き合って、ラースは彼が左目の上に傷を負っていることに気づいたようだ。
「それ、今日の試合でやられたのか？」
傷のことなどほとんど忘れかけていたクリスターはラースの指摘に怯みながら、手で傷を覆い隠した。
「医者にはちゃんと診てもらったのか？ ちょっと見せてみろ」
ラースの心配そうな問いかけにまで反発し、クリスターは顔を背けた。
「病院には行った。大した傷じゃないから、構わないでくれ」
ラースの手をじゃけんに振りほどいて踵を返すとクリスターは苛立たしげにドアを開いた。
「出ていってくれ」
固い声で告げるクリスターをラースは戸惑いながら眺めていたが、やがて、あきらめたように肩を落とした。
「分かったよ」
しょんぼりと項垂れたラースが出て行った後、クリスターは素早くドアを閉じ、心底くたびれたというようにドアの固い木の表面に額を押し当てて目を閉じた。
（あんなふうに怒鳴ったりして…）
ふいに罪悪感がこみ上げてきて、クリスターはドアを開いて廊下の方を窺った。
すると、ゆっくりと階段の方へ歩いていくラースの後ろ姿が見えた。
年を取って体重が増えてきたせいか、若い頃痛めた脚をラースは引きずるように歩くことがあった。特に仕事の疲れが溜まってくると辛いらしい。
クリスターが幼かった頃は、父親ほど強くてたくましい存在はいないと無邪気に信じていたものだが―。
「父さ…」
クリスターは、一瞬呼びかけるのをためらった。しかし、その時、ダニエルの泣き顔が脳裏にうかんだ。感情を揺さぶられるがまま、クリスターは口を開いて叫んだ。
「父さん、ごめん…！」
足を止めて怪訝そうに振り返るラースにクリスターは思わず駆け寄った。
幼い頃の面影もないほどすっかり大人びた息子がいきなり子供の顔に戻って、今にも泣きそうに声を震わせながら、とつとつと訴え出すのをラースは驚いたように見守っている。
「ごめん、あんな些細なことで腹を立てたりして…実は、今日の試合で僕は散々な結果になって、むしゃくしゃしていたんだ。いや、その前から色々あって追い詰められていたんだけれど…まだ僕はやれるって無理をしすぎた。でも、そんな無理もやせ我慢もするべきじゃなかったんだ。今日の僕は本当にひどくて…試合でも、その他のことでも…僕を心配してくれた、あの子にまでひどいことをして傷つけた…僕は―」
顔をくしゃっと歪めたか思うと喉に何か詰まったかのように言葉を途切れさせるクリスターの肩をラースはなだめるように叩いた。
「クリスター、クリス…いいんだよ、もう分かったから」
クリスターの悩みの根幹をこの単純明快な父親が理解できることはたぶん一生ないだろう。だが、どうせ分かってもらえないのだからと心を閉ざし、真摯な気遣いや愛情をはねつけた挙句、自分を愛してくれる人達を身勝手にも傷つけることなどあってはならない。そう思うくらいには、クリスターもまた彼らを愛している。
「いや、おまえがこの頃深い悩み事を抱えているようだと母さんが言うんで、俺も心配になってな。…おまえはぎりぎりまで追い詰められない限り、決して他人を頼らず、自分だけで解決しようとする…けれど、どこまでが自分の限界か見定めることが今はできてないんじゃないかって、母さんは言うんだ」
一瞬、自分によく似て勘が鋭く、しかし、分かっていても多くのことは胸に秘めておく、あの母親はどこまで気づいているのだろうかとクリスターは不安に駆られた。たぶん今の状態では、ヘレナ相手にここまで率直に話すことは、逆に恐くてできないだろう。
「ああ…その通りだと思うよ…父さんや母さんにまで心配かけて、ごめん」
「水臭いこと言うなよ。でも…その悩みってのは、俺達では力になれないようなことなのか…？」
「うん…いや、どうすればいいかはもう分かっているんだ。ただ気持ちの整理がつかないというだけだから…そうだね、いい加減あきらめなきゃならないのにあきらめきれない、恋の悩みみたいなものだから…」
「もしかして、この間結婚したっていう、あの娘のことじゃないだろうな？」
「アリスのこと？ うーん、全く関係がないわけじゃないけれど、違うよ。でも、これ以上は聞かないで」
「そうか…おまえがそう言うならあえて深くは追求せんが―」
「ありがとう、父さん、でも―」
僕はもう大丈夫だから―口から自然に出掛かった言葉をクリスターは飲み込んだ。
「どうした？」
「ううん、やっぱり、ちょっと辛いかな…って、少しだけ弱音を吐きたくなったんだ」
クリスターがぽつりと呟くのにラースは優しく目を細め、笑った。
「ああ、弱音でも愚痴でも溜め込むくらいなら、正直に吐き出してしまえ。その方がよほど気分が楽になって、立ち直りやすい…俺やレイフみたいにな」
夏の明るい陽だまりのように屈託のない。ラースはレイフそっくりな笑い方をする。それを見ながら、クリスターはまた少し泣きたい気分になった。
「そう努めてみるよ…少なくとももうやせ我慢はしない。自分だけが強くて正しいなんて驕りも捨てて、もう少し他人に対して素直になれるように―そうだね、レイフみたいに…」
クリスターはぼんやりと呟きながら、レイフの部屋に顔を向けた。
「レイフは…どこに…？」
「おお、そう言えば、あいつ、昼前くらいにおかしな大騒ぎをしてな…いきなり顔が痛いって言い出したかと思えば、クリスターに何かあったんだって血相変えて家から飛び出して行ったよ。たぶん、ボクシングの試合会場におまえを探しにいったんだと思うが、会えなかったようだな。まあ、そのうち帰ってくるだろう」
「そう…」
クリスターは目の上の傷を確かめるように指先で触れた。こんなどうでもいいようなことばかり通じ合っても仕方ないのに―。
「何なら、レイフにおまえの悩みを打ち明けてみろよ。俺達にはできないような深い話でも、あいつにならできるだろう？」
「…そうだね」
クリスターが曖昧に頷くのにひとまず安心したのだろう、ラースは彼の肩を励ますよう叩いた。
「後は、おまえが八つ当たりをして傷つけてしまったという友達にもちゃんと謝って仲直りすることだな。心配するな、今のように心を開いて率直な話ができれば、きっと分かってくれると思うぞ」
「うん」
クリスターは心ここにあらずの態で父親に返しながら、自分が酷く傷つけ、泣かせてしまった少年を思った。
「そうするつもりだよ…僕は、どうやってもあの子に償わなければならない」
胸に深く刻み込むように、クリスターは呟く。
（ダニエル…）
後悔の念が心臓をわしづかみにして、クリスターをダニエルのもとに引き寄せようとしていた。