ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第3章 唯一の絶対

SCENE6



(クリスターと同じ顔、同じ体、同じ声…でも、違うのね)
 レイフは夢と現実の狭間をゆったりと漂いながら、優しく髪をすいていたかと思えば頬をつつき、胸を優しく撫でている、滑らかな指先の感触に、心地よさげに微笑んでいた。
 まだこのまどろみの中から出て行きたくなくて、目を閉じたまま、手探りで見つけた温かい体を引き寄せて、いい匂いのする柔らかな胸に顔を埋める。
 アリスの温もりがとても慕わしく、愛しくて、このまま抱きしめていたいとレイフは思っていた。
 何が何だか分からないままにことがなってしまったような気もするが、アリスが自分に与えてくれたものに、心から感謝したい気分だ。
(すげぇ気持ちいいや)
 何事か囁きかけてくるアリスの優しい声をぼんやりと聞きながら、レイフは穏やかな満足感の中で、ふっと思った。
(よかった、オレも、ちゃんと女とできるんだ。こんなに気持ちのいいことを一生知らずに送っちまったら、そりゃ、男としちゃ、あんまりだもんな。今まで何人かの女の子とやろうとしてはうまくいかなくて、その度に落ち込んだけれど…ああ、何かほっとした。それに、やっぱり…アリスが相手でよかったなって思うよ)
 また少しうつらうつらし始めたレイフは、先程アリスを抱きながら忘我のうちに呟いたことを思い返した。
(ああ、この女とするのはすごく気持ちよかったけれど…もしも、ここに兄さんがいてくれたら、もっとずっといいだろうに…)
 自分が意識せずに漏らしたことの意味を咀嚼できるほど、レイフはまだ覚醒してはおらず、胸の奥の扉を開けてゆっくりと溢れ出してきた、物狂おしいほどに熱くみだらな夢に半分浸っていた。
(今度はおまえがこの女を抱けよ。そうさ、オレが挿れてた所におまえのを挿れちまえ)
 固く閉ざしたままのレイフの瞼が微かに痙攣する。
「クリスター…」
 熱っぽい吐息と共に呟いた途端、顔を優しく撫でていた指が、いきなりレイフの頬を思いっきりつねって引っ張った。
「いってぇっ!」
 悲鳴と共に飛び起きたレイフは、力いっぱいつねられてじんじんする頬を手で押さえながら、傍らに気だるげに寝そべっている女をきっとなって見下ろした。
「何すんだよ、ひ、ひどいじゃないかっ」
 涙目になって抗議の声をあげるレイフをアリスは不機嫌そうに睨みつけた。
「ひどいのは、あなたの方じゃない。私と一緒にいる時に、どうして寝言でクリスターの名前を呼ぶわけよ。全く、興醒めもいいところ」
 アリスの言葉に、レイフは虚を突かれた。
「え、オレ、兄貴を呼んだの?」
「他の女の子と間違えて…というのなら、まだ分かるけれど、こんな時までお兄さんのことを意識するなんて、信じられない」
 今はしっかり目が覚めていたが、自分が寝言で言ったことまで覚えていなくて、レイフは戸惑うばかりだ。
「マジ…かよ」
 だとすれば、アリスが怒るのも当然だ。ただでさえ、こちらは何分初めてのことで要領を得ず色々と失礼や粗相をやらかしたというのに―しかし、クリスターを呼んだというのは…?
(そういや、何か、おかしな夢を見たような気もするけど…)
 じっと記憶を手繰り寄せていくにつれ、あやふやな断片であったものがもとの姿を取り戻してき、レイフは次第に汗をかき始めた。
(うわぁっ、駄目駄目、ありえねぇっ!)
 いきなりレイフは両手で頭を抱え込み、もんどりうって、シーツの上に倒れこんだ。
 恥ずかしさのあまり体は火がついたように熱くほてり、ばくばくいっている心臓は今にも破れてしまいそうだ。
 ともすれば頭の中にゆらりとうかびあがって形を作ろうとする怪しい幻を、レイフは必死で脇に押しやった。
 そんなレイフを、アリスは可哀想なものを見るかのような哀れみのこもった目で眺めている。
「全く、クリスターもクリスターだけど、あなたも彼の弟だけはあるわね」
 溜息混じりにアリスが呟くのに、レイフは半分掛布の中に隠れ込もうとしかけていた頭を上げた。
「アリス?」
 するとアリスは、またあの意味深長な、からかうような笑みをレイフに投げかけながら囁いた。
「ね、レイフ、今だから教えてあげるけど…クリスターがね、六年前に私とこういうことをした時、あの子は初め、弟と一緒じゃないと嫌だと言い張ったのよ。あなたと二人で私に触りたかったのね。さすがに私も、どうして彼がそんなことを言い出したのか分からなくて戸惑ったわ」
「そ、そう…」
 そういう経緯があったということはクリスターから聞いていたのでレイフも知っていたが、頼むから今は思い出させないで欲しいと思った。
「ねえ、レイフ、何なら今からでも、クリスターの部屋に電話をかけて彼を誘ってみましょうか?」
 恥ずかしさを通り越して、もはやショックのあまり呆然自失となっていたレイフは、アリスがこんな突拍子もないことを言いだすのに、とっさにその意味を測りかねた。
「えっ?」
 きょとんと瞬きをするレイフに、アリスは揶揄するような口調で付け加えた。
「クリスターはもう私には興味はないらしいけれど…あなたが私と一緒にいると聞いたら、きっと気を変えて、ここにやってくると思うわよ」
 レイフは、石と化したかのように固まった。
「ほら、かけてみなさいよ」
 アリスは果たして本気か、それとも冗談でか、枕元にあった電話の受話器を取り上げると、声も出せずにいるレイフの鼻先に突きつけた。
「え…ええぇっ…?!」
 瞬間、レイフは受話器を払いのけ、ベッドから慌てて跳ね起きた。
(ク、クリスターをここに誘うだって? ここであいつと一緒に…アリスを…なんて…うわぁっ、ちょっと待てよ!)
 まるで自分が夢の中で思い描いた不道徳な願望を見透かされたように気がして、レイフはアリスから大きく後ずさりした。
「ばばば馬鹿なこと、言うな…おわっ?」
 叫んだ途端、ベッドの端につこうとした手を滑らせ、バランスを失ったレイフは後ろざまにベッドの上から転がり落ちた。
「きゃあっ、レイフ?!」
 動転したアリスの声が聞こえたが、そこでレイフの意識はしばらく途切れる。
 あんまり激しく動揺したせいか、抜群の反射神経も働かず、柔道教室で散々習った受身の基本も忘れて、レイフは床にしたたかに頭をぶつけ、そのまま伸びてしまったのだ。
 気がつくと、レイフは心配そうな顔をしたアリスに介抱されていて、おかげで、冗談にしても性質の悪いアリスの提案は忘れ去られた。
 レイフはほっと胸を撫で下ろしながら、再びアリスの隣に身を落ち着けたのだが、その後は、すっかり目が冴えてしまって、二度と穏やかな気持ちで眠りにつくことはできなくなってしまった。
 アリスがたてる安らかな規則正しい寝息を聞きながら、窓にかかった分厚いカーテンの隙間からやがて淡い朝の光が漏れ出す頃まで、そのままレイフは二人、まんじりともせず、深い物思いに浸っていたのだった。



「おはよう、クリスター」
「ああ、おはよう、アリス」
 何事もなかったようにクリスターとにこやかに挨拶を交わしながら朝食の席に着くアリスを、レイフは信じられないものを見るかのような目で見守りながら、テーブルの傍で所在なげに立ち尽くしていた。
「レイフ、おまえもそんな所に突っ立ってないで、早く坐れよ」
 クリスターが笑いを含んだ目で頷くのに、レイフは躊躇いながらも素直に従って彼の隣に腰を下ろす。
「今日もいい天気でよかったわ。ね、どこへ出かける予定だったかしら」
「うん…ボストン郊外をドライブしながら、幾つかの観光スポットを回ろうかと思っているよ。魔女伝説で有名なセイラムとか…」
 今日一日の計画について、クリスターとアリスは早速相談し始めるが、レイフはそこに混ざる気分にはなれなかった。
 新緑の美しい公園を眺められる、明るく開放的なカフェレストラン。
 ゆったりと朝食を楽しんでいる他のホテル客やきびきびと働く給仕の動きをぼんやりと眺めながら、レイフは密かにあくびを噛み殺す。
(ねむ…)
 結局、夕べはあれからろくに眠れなかった。
 勢いでアリスと寝てしまったことは後悔していないが、それに触発されたように胸の奥の封印を破り溢れ出した仄暗い想いに、レイフは今でも戸惑っていた。
「もし時間があったら、この辺りにも足を伸ばしてもいいな…アリスは何か希望はある?」
「ううん、私は景色がいい所をドライブできたら、それでいいわ」
 レイフがテーブルの上のコーヒーカップを見下ろすと、視界の端に、ガイドブックをめくっているクリスターのしなやかな手が見えた。
 それが妙に気になって仕方がなく、レイフはついついその動きを追っていた。しかし、やがて自分の行動がおかしく思われてきて、レイフはうろたえつつ視線を逸らした。
(何じろじろ見てんだよ、兄貴の手なんか)
 すぐ隣に坐っていつもと何一つ変わらぬ態度で自分やアリスに接しているクリスターを、レイフは今ひどく意識していた。
 本来なら、昨夜のアリスとの体験も含めて、クリスターに話したいことや話すべきことはたくさんある。
 しかし―。
(やっべぇな…クリスターにどう話しかけたらいいのか、わかんなくなっちまったみたい)
 おまけに、レイフを素通りしてアリスに囁かれる、穏やかで低く、張りのある兄の声の響きにすら、ぞくぞくと何やら背中の辺りがむずがゆいような、今までにないおかしな感じ方をしてしまうのだ。
(何だよ、夕べのあれの後遺症か? にしたって、一緒に過ごしたアリスよりもクリスターの方が気になるなんて、しゃれにならねぇぜ)
 やべぇやべぇと胸のうちで連発しながらレイフがじっと押し黙っていると、テーブルの下でクリスターの足が動いて、つま先でレイフの足を軽くつついた。
 レイフは一瞬椅子から飛び上がりそうになった。
「な、何だよ」
 うろたえながら振り返るレイフを捕らえたクリスターの琥珀色の瞳は、あくまで涼しげだった。
「おまえこそ、さっきから、何、ぼうっとしているんだよ」
 アリスが注文を取りにきた給仕と話している隙に、クリスターはレイフの腕を掴んで引き寄せた。
「それで―首尾はどうだったんだい?」
 耳元で密やかに尋ねてくる兄に、レイフは一瞬息が止まりそうになったが、何とか気を取り直して応えることができた。
「う、うん…思ったより、うまくできたよ」
「よかったじゃないか」
 いつになく固くなっているレイフの気持ちをほぐそうとしているのか、クリスターの態度も声音も親しみのこもった打ちとけたものだ。
 そんな兄の顔を見返しながら、レイフはふと神妙な気分になって考え込んだ後、ぽつりと言った。
「色々ごめんよ、兄貴…気、悪くした?」
 クリスターは、レイフがこんなことを言うのが意外であるかのように瞬きしたかと思うと、ふっと笑った。
「馬鹿だな、僕に遠慮なんかすることないんだよ」
 今度はクリスターが肘でわき腹を軽くつつくのに、レイフもやっと、まだ少しぎこちないながらも微笑み返すことができた。
「あらあら、兄弟で何か秘密のお話かしら?」
 アリスがこちらを振りむいて揶揄するような言葉を投げてくるのに、クリスターはレイフの肩を軽く叩いて、すぐに身を引いた。
(大丈夫よ、クリスターはあなたのすることなんて何もかもお見通しでしょうし、あなたに居心地の悪い思いをさせやしないわ)
 ここに来る前にアリスが言ったとおり、クリスターは別に取り立てて昨夜のレイフの勝手な行動を嗜めることはなかった。それどころか、認め、喜んでいるような態度を取っている―これも、レイフを気遣ってのことなのだろう。
 いつもなら、二人の間に波風が立ったとしても、こんなふうに兄が譲歩してくれば、レイフもそれに素直に乗って、兄弟の仲は元通りになるのが常なのだ。
 しかし、まだレイフの方はクリスターと打ち解けられないでいた。
(ううん、こういうことをいつか経験しても、きっとクリスターになら平気な顔で話せそうだって思っていたんだけれど、現実になると違うのな)
 それに、アリスが相手ならクリスターも認めてくれるだろうとは、レイフも漠然と思っていた。
 自分の知らない他の女をレイフが選ぶよりかは、たぶん、クリスターも受け入れやすい。詰まるところ、クリスターが先に経験したことを、やっとレイフも通過したというだけの話なのだ。
 これで二人の距離が縮まって、引け目や遠慮がなくなった分、お互い心安くなれるだろうと期待していたのに―。
(いや、違うだろ、オレは、昨夜アリスの所に行ったことが後ろめたいわけじゃない。問題は、そんなことじゃなくて―)
 考えを巡らせるうちに、レイフは、次第に体が熱くなり、握り締めた手の内がじっとりと汗ばむのを覚え、それをクリスターには気づかれまいと顔を背けた。
 クリスターが戸惑い、問いかけるような視線を向けてくるのを感じたが、レイフは頑なにそれを無視した。
 せっかくクリスターが打ち解けようとしてくれているのに、その気持ちをないがしろにするようなものだが、他にどうすればいいのか分からなかった。
(こんなやましい気持ちを抱えながら、クリスターの目をまともに見返したり、うっかり口を開いたりすることなんてできやしねぇよ。…くそ、いまいましい心臓の音がうるせぇ)
 今は、何をどう話しても、表面を取り繕うとするあまりに、きっとすごく不自然な言葉にしかならないだろう。勘のいいクリスターならば、レイフが抱いたよこしまな感情にすぐに気づいてしまいそうだ。隠しとおせる自信などない。
(そう、昨夜の経験を素直にクリスターと分かち合えない気分なのは、オレがアリスを抱いている時に、あんな不埒なことを考えたからだ。クリスターに一緒にいてもらいたい…一つになりたい…兄さんと…)
 レイフは慄いたように固く目を閉じ、昨夜アリスを抱きながら垣間見た、あの怪しい熱夢を懸命に忘れよう、忘れなければと念じ続けていた。
(だってさ)
 執拗に当てられているクリスターの視線が、まるで肌にちりちりと焼け付くようだ。
(同じ過ちを二度繰り返すことはできないだろ。あの頃は二人とも子供だったからなんて言い訳も、今度はきかなくなる。だから―)
 ともすれば堰を切ってあふれそうになる激しいものを封じようとするかのように、テーブルの端に置いた手を、レイフはきつく握り締めていた。



 一見穏やかながらも内に不穏な気配の漂った朝から始まった二日目も、計画通り滞りなく進み、やがて終わった。
 翌日ワシントンへ発つアリスとは、兄弟は、ホテルのロビーで別れた。
 レイフはアリスとまだ離れがたかった。
 この二日で、レイフはかつてアリスに苛められたことなど綺麗さっぱり忘れて、すっかり彼女になついてしまっていた。もともとレイフは一度自分の味方だと信用した相手については、些細な欠点など目に映らなくなり、丸ごと肯定してしまう。
 できることなら、アリスには傍にいてほしい、もっと色んな話を聞いてもらいたい。どんなにきつい口調で叱られても、彼女の言うことなら、素直に耳を傾けられそうだ。
 ロマンチックな恋愛感情とは、どうも違うようだが、レイフは彼女のことが好きだった。
 実際には、レイフはアリスのことなどほとんど知らないと言ってもよいほどだったのだが。
 だから、別れ際、女性に対してはぐずでのろまな彼にしては珍しくも積極的に、アリスを引き止めて、必ず連絡を取り合おうという約束を取り付けたのだ。
「オレ、アリスのこと絶対忘れないからさ…いつかきっと…今度はオレの方から会いに行くから、アリスもオレのこと覚えていてくれよ」
 濡れた子犬のような目をして、不器用にたどたどしく告げるレイフに、アリスは一瞬困ったような微妙であいまいな表情をうかべた。
「そうね、そういうこともいつかあるでしょうね」
 レイフのひたすらまっすぐな想いに、彼女は流されることなく、あくまで大人びた落ち着いた態度で返した。
「私は、あなたのことは好きよ、レイフ。少なくとも、昔クリスターが好きだったのと同じくらいに、今はあなたが可愛いわ。でも、女の愛の形は様々で、常に一つだけとは限らないのよ」
 きょとんとするレイフの頬に、アリスは軽く伸び上がるようにしてキスをし、そっと離れた。
(何だよ、女の愛って?)
 レイフはさっぱり意味の分からない謎賭けをされたような気分だったが、彼の追及をさらりとかわすようにして彼女は去っていった。
 異性の味を知ったとは言っても、アリスの言葉の裏に隠された意味を理解するには、レイフはまだまだ経験の足りない未熟な男に過ぎなかったのだ。
 実際、レイフがクリスターを通じて真実を知ったのは、アリスと別れて半月近くも経ってからだった。
 アリスからそのうち連絡があるのではないかと毎日落ち着かないレイフをついに見かねたのだろう、彼が空の郵便受けを覗き込んで溜息をついているところに、複雑な顔をしたクリスターが近づいてきたのだ。
「結婚?」
 一瞬、何を言われたのか、レイフはすぐには飲みこめなかった。
「そうだよ、アリスは来月結婚することになっているんだ。おまえには話していなかったけれどね。この間の休暇は、彼女にとって、独身最後の日々を思い切り羽を伸ばして満喫するためのものだったんだと思うよ」
 ぽかんとした顔で立ち尽くす弟を、クリスターは気遣わしげな目でじっと見守っている。
「嘘だろ?」
 できることなら冗談にしてしまいたくて、レイフはぎこちなく笑おうとするが、クリスターが真顔のまま頷くのにたちまち顔を強張らせた。
(アリスが…結婚する…)
 真っ白になった頭の片隅で、レイフはぼんやりと思った。
(そっか、あいつ、他に好きな男がいたんだ。ふうん…それなのに、オレとあんなことしたんだ)
 アリスのあまやかな微笑みや一緒に過ごした親密な時間を思い出しながら、レイフは急速に体中の力が抜けていくのを覚えた。
(オレを散々けなして叱りつけた、アリスのきっつい言葉もさ、結局オレのためを思ってくれてのことだったんだって、いい感じで今じゃ思い出していたのにさ。そんな裏があったなんてことも知らず、彼女がオレを選んでくれたんだって、嬉しくて…ああ、オレってばっかだなぁ)
 これ以上まっすぐに立っていられなくて、危なげによろめくレイフの体をクリスターが素早く腕を伸ばして支える。
「レイフ…」
 クリスターの心配そうな呼びかけを耳元に聞いた瞬間、悲しいやら腹が立つやら情けないやら、もう訳の分からない激しい感情がこみ上げてきて、レイフは自分を支える兄にしがみついたまま不覚にも泣き出してしまった。
 ついそこの歩道を歩く人もちらほらいる、よく晴れた昼下がり、家の前で、背も高ければ何かと目立つ双子がひしと抱き合って、おまけに何があったのか片方はこの世の終わりのように泣いているという傍から見れば異様な光景だったにも関わらず、クリスターはレイフの背中をあやすように叩きながら、彼が落ち着くまで辛抱強く待っていた。
(何だよ、アリスがオレを好きだと言ってくれたから、素直に信じたのに、またいつか会える日を楽しみにしてたのに、こんな形で裏切るなんて、あんまりじゃないか。最後まで思わせぶりな言葉でオレを煙に巻いてさ、女の愛がどうかなんて、オレに分かるかよ。好きの意味なんか、一つしかねぇよ。ひどいじゃないか、ちくしょーっ!)
 アリスの結婚はずっと前から決まっていたことなのだから、初めからレイフとのあれは百パーセント火遊びのつもりだったのだ。そんなことも知らずに有頂天になっていた自分が、いっそ憎い。
 別にアリスのことが命がけで好きだったわけではないが、一時でも好意を覚えた相手との大切な思い出をただの遊びと割り切れるほど、レイフはまだすれてはいない。
(好きな奴がいるのに、他の男とも平気で楽しめるなんて…そんなのありかよ…し、信じられねぇ)
 今まで散々女の子には振られてきたレイフだが、さすがにこの手の裏切りは初めてで、どう受け止め、消化したらいいかも全く分からない。もう少し落ちついてくれば色々考える余地は出てき、アリスに対してもまた別の理解ができてくるのだろうが、今は頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって、クリスターに寄りかかったままさめざめと泣くことしかできなかった。
(アリスの馬鹿、結婚でも何でも勝手にしちまえばいいんだっ)
 レイフが、このどん底気分から浮上するには、少しばかり時間がかかりそうだった。



 クリスターは低い音をたてているコーヒー・メーカーをじっと眺めながら、物思いに沈んでいた。
 レイフは二階の自分の部屋に閉じこもっている。
(あんなにレイフがショックを受けるのなら、アリスの結婚のことを先に話して、あいつに釘を刺しておくべきだったろうか。だとすれば、僕の判断ミスか…レイフがアリスに夢中になっているのが分かっていてとめなかった。もしかしたら、レイフにとってはいい機会になるかもしれないと思ったんだ)
 あの夜、アリスの部屋へ行ったレイフが果たして最後までちゃんとできるのか、もしかしたら途中で怖気づいて自分の所に戻ってくるのではないか、クリスターは気が気でなくて、真夜中を過ぎる頃までじっと起きて待っていた。
 朝になっても結局レイフは帰らず、どうやらうまくいったのだと分かった時、クリスターはほっとしたような寂しいような複雑な気分に駆られた。
(レイフはずっと、僕が先に女性を経験して自分がまだだということにコンプレックスを持っていたから…何度もそのチャンスはあったのに、どうしてもうまくいかなくて、もしかしたら、これも僕の責任なのかと本気で心配になりかけた。まさか僕との行為がトラウマになって、とか…さすがに、それはなかったか)
 ふっと苦笑した後、クリスターは憂悶に沈んだ目を上げて、二階にいる弟がどうしているか窺おうとするかのように天井を仰いだ。
(それに、レイフの相手がアリスならば許せると、僕も確かに思った…他の女に渡すよりかは、僕が知っている体をあいつも同じように抱けばいい。たとえ僕がそこにいなくても、あの女を通じて、一緒に寝るのと大差ないと…我ながら病的だな)
 しかし、いつも女性には引っ込み思案なレイフがアリスに限ってあれほど執着したのも、もしかしたらクリスターと同じ理由からではないだろうか。
 自分が本気で女性を愛せるのか、クリスターはこの頃は全く自信をなくしていたが、レイフが好きなものなら同じように愛せそうな気は今でもする。
(結局、僕は、レイフがアリスと結ばれるよう仕向けたようなものか…アリスは、最初は僕に興味のある素振りをしたけれど、僕は婚約者のいる女性には惹かれないとわざとつれなくした。あの時から、アリスはきっと、僕に振られた腹いせにレイフにちょっかいを出すだろうと読んでいたんだ)
 大方はクリスターの予想の範囲内で展開していったが、一つだけ違ったのは、アリスと一晩過ごした後のレイフの反応だった。
 レイフなら、自分の体験をクリスターに屈託なく打ち明けて、喜びを共有したがると踏んだのだが、意外なことに彼はそうはしなかった。初めは恥ずかしがっているか後ろめたさを覚えているだけかと思ったが、クリスターが何度かつついてそれとなく促しても、レイフはますます頑なになるばかりで、決して、あの夜どう過ごしたのか教えてはくれなかった。
(いや…それも当たり前のことかな)
 好きなものは何もかもを共有していた子供時代はとうに過ぎ、今ではレイフとの共通点もフットボール以外にはほとんどないという現実もクリスターはとっくに理解しているつもりだった。だから、こんな時にどう振る舞えばいいかも、ちゃんと分かっている。
(レイフが黙っていたいなら、それでもいいさ…あいつもやっと自我に目覚めて、兄離れへの一歩を踏み出したということなんだろう。弟の自立を望む僕としては、喜んでやるべきだ。そう、思ったよりも早くなりそうだというだけのことで…何もうろたえるような話じゃない)
 胸の奥の心臓がきりりと痛んだが、クリスターは気づかない振りをして、用意したマグカップの中にできたてのコーヒーを注ぎ、二階へと持って上がっていった。
「レイフ、入るよ?」
 一応ノックをして呼びかけたものの返事がないので、クリスターはドアを静かに開いて、弟の部屋に足を踏み入れた。
 ベッドの方を窺うと、案の定、レイフはそこにうつ伏せになってぐったりとしている。
 乱雑に散らかった机の上にマグカップを置いて、クリスターは弟の傍にそっと近づいた。
「レイフ」
 レイフの神経を逆なでしないよう、クリスターはごく低い穏やかな声で囁きかけた。
「レイフ…?」
 二度目のクリスターの呼びかけにレイフの肩がぴくりと震えた。
「放っておいてくれ…オレは今、この地球上で一番惨めな生き物なんだから」
「何を言ってるんだよ…」
 魂の抜けたような力のない声だったが、言葉が出るようになっただけましかと思いながら、クリスターはベッドの端に腰を下ろした。
 クリスターが黙っていると、やがてレイフは我慢できなくなったかのようにぽつりと漏らした。
「不様だと思ったろ」
「いや」
 クリスターは手を伸ばして、くしゃくしゃになったレイフの髪を撫で付けようとしたが、その時、レイフが低く掠れた声で囁いたのにその手を止めた。
「兄貴は、初めから知ってたんだよな、アリスのこと」
「うん…ごめん…予めちゃんと話しておけばよかったと後悔するよ」
 レイフはじっと押し黙った。
「そんなに辛かった?」
 優しい声で囁きかけながら、クリスターは、胸の奥の焼けるような痛みを次第につのらせていた。
 レイフの考えること感じること、クリスターはいつだって手に取るようによく分かるつもりだったが、そのことに急に自信が持てなくなってきた。
 だが、それも自然な流れなのだ。レイフがやっとクリスターの手から離れて飛び立とうとしているなら、あえて阻止しようとしてはならない。
 それでも―不安に駆られたような呼びかけを、クリスターは抑えることができなかった。
「レイフ…」
「う…るさいなっ、ほっとけよ!」
 電流が走ったかのように発作的に身を震わせ、頭を抱え込みながら怒鳴るレイフに、クリスターは一瞬言葉をなくした。突然、理不尽なまでの激しい苛立ちがこみ上げてきて、唇を噛み締めた。
「いてっ、何すんだよ!」
 クリスターにいきなり腕をねじり上げられるようにして、ベッドから乱暴に引きずり起こされたレイフは、痛みに顔をしかめながらとっさに身をもぎ離した。
 威嚇するかのように自分を睨みつけてくる弟に一層怒りをかきたてられたクリスターは、冷然と言い放った。
「いつまでも被害者面をするのはよせよ。おまえにアリスの不実を責める資格なんかあるものか。おまえだって、別に彼女を愛していたわけじゃないくせに」
 レイフの頬にさっと血の色が上るのを認め、これ以上は言ってはならないと思いながらも、クリスターはどうしても止められなくなっていた。
「子供の頃からおまえはいつだって、僕のものを欲しがった。彼女もその延長のようなものだったんだろう?」
 レイフの顔に、まるでクリスターに殴られでもしたかのような衝撃が走った。
 それを見たクリスターは、いつになく残酷な衝動に駆られ、決してこれだけは口にすまいと自らを戒めてきた言葉をレイフに叩きつけてしまった。
「言えよ」
「え?」
「僕が抱いた女を、おまえはそれと意識して抱いた。さあ、アリスとどんなふうにやったのか、どんなふうに感じたのか、僕に言ってみろよ、レイフ!」
「クリスター!」
 レイフの顔に恐怖にも似た動揺が走る。唇から発せられた上ずった声はほとんど悲鳴のようだ。張り裂けんばかりに見開かれた双眸が、それ以上は言うなと必死に訴えていた。
(レイ…フ…)
 瞬間、神経が焼ききれそうなほど熱くなった頭がしんと冷えるのをクリスターは覚えた。
 決してそのことに触れてはならない―二人の間で自然に出来上がっていた暗黙の了解を、クリスターはつい破ってしまった。
「レイフ」
 クリスターは唇を微かに震わせ、あえぐように息をした。
 ここまで激昂したクリスターを見たことは、レイフにとって久しくなかったことだろう。兄に追い詰められてことも、ショックだったろう。途方に暮れた顔は今にも泣き出しそうだ。
 クリスターは喉の奥からせりあがってくる熱い塊を何とか飲み込み、いつの間にかレイフの腕を指が食い込むほど強く掴みしめていた手を離した。
「すまない…」
 これ以上まともにレイフを見ていられなくなって、クリスターは顔を背けた。
「う…」
 しばし凍りついていたレイフは、何事か低く呟いたかと思うと、ベッドから飛び降り、立ち尽くすクリスターを残して部屋から飛び出していった。
 レイフの足音が階段を駆けおり、そのまま玄関から外へ出ていくのを確認した後、クリスターは怒らせていた肩を落とした。
「言ってはいけないと分かっていたのに…」
 鬱憤を胸に溜め込んでいるのをついに堪えかねて、吐き出してしまったが、それならそれで少しはすっきりすればいいのに、ざらついた後悔の念と空しさが残るばかりだ。
「レイフ…」
 クリスターはレイフのベッドに座り込み、力なく項垂れた。
(レイフが僕から離れて一人前の男としてちゃんとやっていけるよう、励ますつもりが…いざ、レイフの心が遠のいていくのを目の当たりにすると、耐えられなくなるなんて、僕も存外諦めが悪いな)
 ふと、クリスターは、レイフがアリスと一緒にいるのを意識しながらまんじりともせずに過ごした夜を思い出した。
(もしも…あの夜アリスが、レイフだけでなく僕も部屋に誘っていたら、僕はきっと彼らのもとに行っていたんだろうな)
 クリスターの唇に切なげな微苦笑が薄っすらと漂った。
(婚約者がいるんだろうとアリスの誘惑を拒んだ僕だけれど…でも、今なら、心から彼女を欲しいと思うよ。レイフ、おまえが抱いた女だから…)
 ふいに今の自分の有様がすごく滑稽に思われて、クリスターは肩を揺らせて笑い出した。
「最悪だ」
 乾いた笑いが収まると、クリスターは、さながら自分を覆い隠してしまいたいかのように両腕で頭を抱え込んだ。
(レイフの将来に影を落としているのは、傍にいることでどうしても強い影響を及ぼしてしまう僕自身だ。僕の呪縛から離れれば、レイフはきっと生き生きとして、本来の力や才能を存分に発揮できるようになる。そう、あいつが大切なら、僕は身を引くべきなんだ…そのために今後どう行動したらいいかも分かっている…分かっているはずが、一方で僕は…何かある度に確かめずにはいられなくなる…今でも、あいつは僕のものだと―)
 常に自分を律しようとしてきたクリスターだが、それももう限界にきているのかもしれない。一向におさまることのない過剰な感情に圧迫され続けた心も体も悲鳴をあげている。
(レイフ、今でも、欲しいのはおまえだけなのだと―いっそこれまで二人で守ってきた何もかもを台無しにしてしまうのを承知で、ぶちまけてしまいたい…)
 身のうちでつのりはけ口を求めてたぎっている狂熱に、自分自身までも焼かれ崩されていくのを、クリスターはほとんどなす術もなくじっと意識しているのだった。


NEXT

BACK

INDEX