ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第3章 唯一の絶対
SCENE5
『私、二階のバーにしばらくいるつもりよ。よかったら、後であなたもいらっしゃいな』
ホテルのロビーで、フロントへキーをもらいにいったクリスターを待っている間、アリスはレイフにこんな耳打ちをした。
行くとも行かないとも、その時レイフは答えられなかったのだが、部屋に戻って考えこんでいるうちについに我慢しきれなくなった。
クリスターを誘って一緒に行くという選択もあったが、それでは今までと同じ流れになってしまいそうだ。兄を出し抜くのは多少気がとがめたが、レイフは更にもう一歩アリスとの距離を縮めたかったのだ。
静かで落ち着いた雰囲気のバーに、レイフは期待と不安を胸に入っていった。
未成年だとばれたらつまみ出されるだろうかと、そつのない身のこなしで飲み物を運んでいる品のいいボーイと目が合った瞬間は緊張のあまり固くなったレイフだが、マホガニーのバーカウンターからこちらに向かって軽く手を振るアリスを見つけると、ほっと肩の力を抜いた。
「ほんとに来てくれたんだ」
「うん」
アリスの隣に身を落ち着けると、レイフはカウンターの中にいたバーテンダーにオレンジジュースを頼んだ。
「クリスターは?」
「シャワーを浴びてるよ」
「もしかして彼には内緒で来たの? あなたにしては、大胆じゃない」
頬杖をつきながら悪戯っぽく微笑むアリスにレイフは顔を赤くして、動揺をごまかすよう、ジュースのストローに口をつけた。
「オレだって…たまには、クリスターのいない所で自分の好きなようにやりたいよ。子供じゃあるまいし、兄貴と一緒でなきゃ何もできないなんてことはないんだ」
アリスを意識してうそぶくようにレイフは言うが、内心後ろめたさも覚えていた。
「ふうん」
アリスは猫のように目を細めながら、レイフをじっと観察している。
「でも、クリスターは昔も今もあなただけよ」
ぎくりとしてレイフが振り向くとアリスは素知らぬ顔でカクテルグラスを口に運んだ。
「ね、レイフ」
「な、何だよ」
「あなたのことを聞かせてよ」
「へ?」
レイフが間の抜けた顔で聞き返すと、アリスは堪えきれなくなったかのように吹き出して、ひとしきり笑い転げた。
「今日はね、初めは私にどう接したらいいか分からなくて固くなっていたあなただけれど、最後の方は打ち解けてよくしゃべっていたわよね。でも…気づいてなかった? あなたのする話って、クリスターと一緒にこうしたとか、クリスターの考えではとか、とにかくクリスターは凄いんだとか、結局みんな彼につながっていってしまうのね。ブラザー・コンプレックスもここまでくると大したものだわ」
「う…」
かあっと瞬時に頭の中が茹で上がってしまったレイフが返す言葉もなく見守っているうちに、アリスは緑の宝石のような色のカクテルを飲みながら物思いに沈んだ。
「クリスターはもっとひどいけど」
アリスが溜息混じりにふと漏らした言葉の意味をレイフは問い返そうとしたが、その時いきなり彼女が振り返った。
「レイフ、あなたは今、付き合ってる女の子はいるの?」
「え…いや、オレは…」
いきなり痛い所を追求されて、レイフは頭をかきながらしどろもどろに答えた。
「苦手なんだよ…女の子の相手とかするの。男の友達やクラブの仲間と一緒にいる方が楽しいし落ち着くっていうか…。大体、オレ、女の子には受けが悪くて、全然もてないし。周りにいる女の子って、皆クリスターの方ばかりは向いてるから」
「あら。あなたの学校の女の子達って見る目ないのねぇ」
アリスはちょっと意外そうに眉を上げて言い、それから、ふと思いついたかのように付け加えた。
「でなければ、あなたが鈍感すぎるのかも」
アリスが何をほのめかしているのか分からず、レイフは当惑顔をするばかりだ。
レイフが黙っているので、アリスはカウンターの奥にいたバーテンダーに手を上げ、新しいカクテルを注文した。
レイフはオレンジジュースをごくごくと飲みながら、考え込んだ。
(鈍感って言われりゃ、確かにそうだけど…だって女の子の考えることなんか、オレには見当もつかない。どんなふうに感じているのか、どうして欲しいのか、ちゃんと言葉にして言ってくれないと通じないよ。今もそうだし…あの時も…)
バーテンダーが鮮やかな手つきでシェイカーを振りカクテルグラスの中に注ぐ一連の動作を、アリスはほっそりとした指先で髪に触れながら眺めている。レイフにはもう関心を失ったかのように、振り向きもしない。
「オレ…」
このまま放置されることに耐え切れなくなって、レイフはついに口を開いた。
「以前、ちょっとだけ女の子と付き合ったことはあったんだよ。一つ上の学年にいたハニーって子だった」
アリスは頬杖をついたまま、ちらりとレイフを見やった。
「どんな子?」
「うん…綺麗な子だったよ。線が細くて、はかなげっていうのかな、アリスとは全然違うタイプだったよ」
「あら。何よ」
ヒールのつま先で軽く足をつつかれ、レイフは首をすくめておっかなびっくりアリスの機嫌を窺った。
「それは第一印象で…実際付き合いだすとオレが思い描いていたイメージとは色々違ってたんだけれど…」
「それは当たり前でしょうよ。男の勝手なイメージどおりの女なんていないわよ」
「ていうか、訳ありだったんだよ、彼女。そもそもオレに近づいてきたのも、別にオレと付き合いたかったからじゃなくて、別ののっぴきならない事情があったからでさぁ」
アリスは怪訝そうに眉をひそめた。
「どういうことよ、それ」
「いや…」
レイフは口ごもった。
「はっきり言いなさいよ」
「一言で言えない、込み入った話なんだよ…!」
アリスは椅子を軽く回転させて、レイフの方に体を向けた。
「いいわよ。最後までちゃんと聞いてあげるから、この際打ち明けてみなさいよ」
まっすぐに自分の目を見つめるアリスの緑の瞳を、レイフは迷いながら見返した。
こんな話、何の関わりもない他人に気安く打ち明けられるようなものではない。今まで、たとえ親友のトムにさえ、ちゃんと話したことはなかった。
しかし、ためらいながらも、やがてぽつりぽつりと彼が語りだしたのは、自分の中でずっとわだかまっていたものを誰かに聞いてもらいたいという気持ちがあったからかもしれない。
「あれから、もう二年になんのかな。オレがハニーと出会って、しばらくして付き合いだした…当時、うちの学校にはたちの悪い不良グループがいてさぁ」
「あなたの学校って、有名なエリート校よね? まあ、中には少しくらいはめを外したがるやんちゃな学生だっているでしょうけれど、基本的に育ちのいい恵まれた家庭の子供達でしょう? 他の学校の荒れ方とは比較にならないと思うわ」
「うん。オレもそう思ってた。だから、あいつらの噂は時々聞いてたけれど、全く気にもとめてなかったんだ。自分が巻き込まれて初めて、どんなにヤバイ連中かって分かった…いや、アリスの言うとおり、皆、多少ぐれてももともとは育ちのいい高校生だよ。あいつらだけじゃ何人集まっても大それたことなんてできるはずがない。実際、本当に危ないのは、そいつらのボスだけだったんだ」
レイフは急に喉の渇きを覚えて、グラスに残っていたジュースを一気に飲んだ。
(これで君も僕らの仲間だね、レイフ。もう逃げようとしても逃げられない…分かるだろ?)
記憶の奥底に封じ込んでいた怪物が耳元でそう囁く。
レイフは強烈な寒気に襲われ、思わず身震いした。
「ジェームズ・ブラック…J・Bって通称で奴は呼ばれていた」
心を静めようと深呼吸をし、レイフは再び語りだした。
「オレの一学年上で、ハニーと同じ英才クラスの生徒だった。家はアメリカ有数の資産家で、ヨーロッパのどこかの王族だか貴族だかの末裔だって噂の名門。奴自身も学校始まって以来の秀才で通るほど優秀で、生徒は無論、教師からも一目置かれていた」
「うん? 不良グループのボスって話じゃなかったの?」
「表と裏の顔を使い分けていたんだよ。『英才クラスのジェームズ』なら、オレも、九年生の時から知ってた。直接付き合いがあったわけじゃないけど、奴は…クリスターと親しかったみたいだから」
「クリスターの友達だったの?」
「そこまで深い付き合いがあったのかは知らないけど、ただ…話は合ったらしいな。クリスターも英才クラスだから、たまに上の学年と一緒の授業もあったりして…ディベートのクラスだけでは物足りないって、放課後もカフェテリアで粘って何時間もジェームズと討論したりさ。楽しかったらしいぜ、クリスターは…だって、あいつとまともに議論できる奴なんて、同じくらいの年の学生の中にはいないからさ」
「そのジェームズ君は、理屈屋のクリスターと頭のレベルが同じだったのね」
「もし学年が一緒だったら、クリスターと奴とで首席争いになってただろうさ。ジェームズも、クリスターがスキップしてくれればって思ってたみたいだぜ。あいつは退屈してたんだよ。周りを見渡しても、考えや行動が読めてしまう、ひとたまりもないような低レベルの連中ばかりで、つまらない日常に飽き飽きしていたんだ。たぶん、奴にとってクリスターは、初めて出会った対等に付き合える他人だったんだと思う」
言いながら、レイフは実に嫌な気分になっていた。
あの怪物とクリスターが近いとか、対等に付き合える他人だとか、本当は認めたくなどない。
「それで、あなたのもとガールフレンドのハニーとは、どう話がつながっていくのかしら?」
幾分焦れたようなアリスの声が促すのに我に返ったレイフは、慌てて話を続けた。
「ええと…実は、ハニーは…ジェームズの―J・Bの恋人だったんだ」
「何ですって? つまり、ハニーはJ・Bと付き合っているくせに、あなたにも気がある振りをしたってこと? あなた、二股をかけられたんだ?」
レイフはしゅんと項垂れた。
「そう言われると身も蓋もないけど、そういうことになんのかな。ただ、ハニーは悪くないんだよ。悪いのは、彼女を支配して思い通りに操ってたJ・Bなんだ」
半ば自分に言い聞かせるように訴えるレイフをアリスはどこか呆れたような目で見ていた。
「ハニーはJ・Bに騙されて、いいように利用されていたんだ。まさか奴があんな悪党だと知らずに好きになって、付き合い始めて…挙句の果て、本当にひどい目に合わされたんだ」
レイフはこみ上げてきた怒りを封じ込めようと、カウンターの上に置いた手をぐっと握り締めた。
「J・Bと付き合いだしてしばらくした頃、奴に誘われていったパーティーで…ハニーは何人もの男達に集団で暴行されたんだ。そして、そう仕向けたのは、彼女の恋人のJ・Bだった」
「…本当の話なの?」
怪しい雲行きの話に、アリスが声を低めて囁いた。
「ああ」
「学校は何の対処もしなかったの?」
「ハニーは奴らを訴えなかった。それに、そんなひどいことをされてからも、J・Bと付き合い続けたから…それじゃあ結局合意でのことだったんだって、彼女も奴らの仲間として見られるようになったんだ。それに、実際レイプがあったって証拠も証言もなかったし…いつだって何をやったってJ・Bは絶対に尻尾を掴ませない。それに、学校の理事をやってて、多額の寄付をしていた奴の親の手前、よほどのことがない限り、学校も奴に下手な手出しはできない雰囲気だったんだ。そう、不良グループのボスは、あの秀才のジェームズ同一人物だって、生徒も教師も、知ってる奴は知っていた。けれど、大っぴらに言い立てることはできなかった…たまにいることはいたんだよ、ジェームズを退学にするべきだって校長に掛け合う教師や被害にあったって訴える生徒も…その後ひどいリンチにあったり、訳の分からないトラブルに巻き込まれて学校を辞める羽目になったりして…そうなると、下手に波風立てない方がいいって暗黙の了解ができあがっちまった。だから、皆、どうしても奴を話題にしたい時は声を潜めてJ・Bって呼んでたんだ」
「そんな大した悪党がいるなんて、にわかには信じられない話だわね。だって、いくら頭がよくったってまだ十代の少年でしょう? たった一人の学生に子供ばかりか大人までも牛耳られていたなんて…」
「それは、J・B本人に会ってみないと実感できないと思うよ。オレもいまだにあいつのことはよく分からない…ただ、どこか普通じゃないって強烈な違和感をいつも感じてた。そう、あいつは本物の怪物なんだって、クリスターは言ってたな」
アリスはまだ少し疑わしげだが、レイフがあまり深刻な顔をしているので、何と言えばいいのか分からないようだった。
「J・Bに関わった奴は皆、人が変わったようにおかしくなっちまう。特にJ・Bの取り巻き連中なんか、もろにあいつの影響受けてさ、他人を傷つけるのも平気になっちまってた。別に金に困ってるわけでも、親や学校に反抗したいわけでもない、ただ楽しいから、そうしてたんだ。オレはあいつらの悪事を全て知ってるわけじゃないけど…よく使う手が、これはという相手をターゲットに決めると、その人間のことを徹底的に調べて弱みを掴むか、罠を仕掛けて、脅しのネタになりそうな既成事実ってやつを強引に作っちまうんだ。ハニーもさ、大勢の男にレイプされたってショックからJ・Bの言いなりになってたんだ。逃げようとする度に脅されて、どんどん深みにはまっていって、ついには逆らうことをあきらめちまった」
「胸の悪くなるような酷い奴ね」
「ああ」
レイフは複雑な気分に駆られてしばし黙り込んだ。
「ハニーはさ、J・Bに命じられて、オレに近づいたんだ。彼女の様子を見て、何だかおかしいなってオレも思ったんだけれど、放っておくこともできなくてさ。それに、オレはオレで、あの頃、学校が面白くなくて、フラストレーションが溜まってたから、ハニーを通じて知り合ったちょっと悪そうな連中とすぐにつるむようになっちまった」
「あらあら…何よ、危ない不良グループと知ってて、そんな連中と付き合ったの?」
「その頃は、まだオレも、そいつらがどんな奴らか、よく分かってなかったんだよ。オレと同じように学校生活に不満があって、とにかく無性に何もかもに逆らいたくてイライラしてるだけの奴らかと思った。噂のJ・Bは、初めの頃は姿も見せなかったし…でも、段々、あいつらに違和感を覚えだした。何もしていない生徒を捕まえて平気で暴力振るったり、強請ったり…そのやり方がさ、あんまりあくどくて、ちょっとぐれた高校生ってレベルじゃないんだ。後で知った話だけれど、奴らの一部は本当に街の犯罪組織みたいな連中とも付き合いがあったらしくて…」
「大丈夫だったの、あなた…そんな物騒な人達と関わりを持ってしまって…?」
「いや。オレは気がついたら、ずっぽりあいつらの手の内に捕まえられて、逃げられなくなっちまった。あいつら、ハニーを使ってオレを罠にかけたんだ。しまったと思った時には、遅かった…オレはあいつらに弱みをつかまれちまったし、それにハニーって人質もいたから、抜けるに抜けられなくなった。オレが本気で逆らったらハニーが酷い目にあわされる…それが恐かったんだ」
「ハニーを連れて一緒にグループを抜ければよかったじゃない。あなたなら、女の子の一人くらい守ってあげられるでしょう? 誰か信頼できる大人に相談して、保護してもらって…」
「ハニーは嫌がったんだ…オレと一緒に来るの…」
「何ですって? どうしてよ、無理やり、そいつらの仲間にさせられてたんでしょ、彼女?」
アリスの顔を黙然と眺めた後、レイフは重い溜息をついた。
「女の考えることって、オレにゃ、分からねぇ…ハニーはさ、自分を痛めつけた張本人のJ・Bのことが、あんなになってもまだ好きだったんだ」
「え?」
「全く、信じられなかったよ。J・Bに騙されてるんだ、このままここにいてもハニーが駄目になっていくだけだって、オレがどんなに訴えても彼女は耳を貸さなかった。もしもオレが力づくで彼女をJ・Bから引き離そうとしたら、自分は何をするか分からないって、自殺をほのめかすことまでした。オレは混乱して、途方に暮れて、ハニーを助けようと伸ばした手で彼女を浚うことも、その手を引っ込めて自分だけ立ち去ることもできなくなった。結局、俺にできたことは、ハニーが男達から酷い目に合わされないように彼女の傍にいて見守ってやることくらいだった」
「そこまで行くと…そのハニーって子の精神状態は、セラピーにかかって治療を受けなければならない類のものだったんじゃないかしら」
「ああ…クリスターは、何て言ってたかな、ストックホルム症候群って奴に近い心理状態だったんじゃないかって言ってた。精神的に長い間監禁されたような異常な状態の中で、一応自分を恋人として扱ってくれるJ・Bに好意を覚えて依存してしまったんだって…」
「そのクリスターは…あなたが、そんな窮地に陥って、黙って見ていたわけはないわよね」
レイフははっと顔を強張らせ、アリスの追及の眼差しからとっさに顔を背けた。心拍数が急に上がってくるのを意識した。
「うん…その通りさ、あいつは、オレを助けるためにJ・Bと対決したんだ」
レイフは心もとなげに上げた手で顎の辺りをそっと撫でた。微かに指先が震えていた。
「オレがハニーのためにグループから抜けるのをあきらめた頃、やっとJ・B本人がオレの前に現れた。オレは心底驚いたね、だって、そいつは兄貴と仲良くやってた優等生のジェームズだったんだから…どういうことだ、どうしてクリスターの弟のオレをこんな目に合わせるかって聞いても、奴は少し困ったようなあいまいな笑顔で首を傾げるばかりでさ…クリスターなら分かるだろうけれど、俺には理解できないって言いやがったんだ。そうして、オレに、とんでもない難題を押し付けやがった」
「何を言われたの?」
「その頃丁度十年生の一学期が始まって、オレは…フットボール・チームの主力選手だった。ぐれて反抗しまくっても、やっぱり好きなフットボールだけは続けてたんだ。そのオレに、J・Bの奴、八百長試合を持ちかけやがった。その頃うちのチームはどんどん力をつけていて、大会関係者からも密かに注目されてたんだけど、それが悪い連中の間で賭博の対象になってたんだよ」
「それって…もしかして違法じゃ…」
「プロじゃなくってもさ、そりゃやっぱりまずいだろ…。大体、真剣勝負の世界でどんなに脅されたって嘘のプレーなんかできないって、オレは断ったんだ。だけど―」
レイフは悔しげに唇を噛み締めた。
「たぶん、J・Bの脅しが頭の片隅にあったからだろうな、オレは、大事な試合で、普段はしないようなミスをしちまったんだ。あれは絶対故意じゃなかった。けれど、J・Bは、オレはわざとミスをして勝てるはずの試合を負け試合にしたんだって言って、オレを揺さぶったんだ。言いがかりだとオレは反論したけれど、オレのプレーがいつもと違っていたことは確かで、もしもあれは八百長だったんだとコーチに話したら、オレはきっとチームを辞めさせられるだろうって」
「なんてこと…」
「オレは追い詰められたよ。J・Bは今度こそきっと、オレに本当の八百長試合を強要するだろう…そんな汚いゲームに手を染めたら、オレは、もう…スポーツ選手としてはおしまいだ」
あの時の不安と恐怖が蘇って、レイフの心をひしがせていた。
「オレが、どうしようもなくなって、助けてくれって心の中で悲鳴をあげた時、クリスターは動いたよ。当時のオレは、あいつにまで反抗してたから、自分の抱えた問題を素直に打ち明けることもできないでいたんだけれど…グループの集まりに嫌々顔を出して、ひどい気分で夜遅くに家に帰った時、あいつに捕まった。まあ、そのパーティーでは怪しげなクスリとかマリワナとかやってる奴はいたんだけれど、オレは絶対それらにだけは手を出さなかった。ドラッグなんかやっちまうと、後はもう転がり落ちていきそうな気がしたから―オレは、駄目になるつもりはなかったんだ。でも、そういう怪しい場所にいたってことは、体についた臭いで分かったんだろうな。クリスターの奴、顔色を変えて、オレを無理やり地下室に引きずっていったんだ」
ドラッグをやったのか―凄みを含んだ声でそう尋ねてきたクリスターは、本当に恐かった。
違うと訴える間もあらばこそ、クリスターの容赦のない鉄拳が飛んできてレイフは殴り倒された。
あそこまで切れたクリスターを見たことなど、レイフもちょっと記憶にないくらいだった。
散々殴られたレイフが血反吐を吐いて、ついには泣きながら許しを乞うまで、彼は折檻をやめてくれなかった。
その後、レイフはそれまでの経緯を洗いざらい白状させられた。
ハニーのことや、彼女を通じて不良グループに関わるようになり、それがJ・Bの罠だったことも、フットボール賭博に引き込まれかけていることも。
「それで、クリスターはどうしたの?」
「あいつはさ、ちょっと考え込んだ後、分かったと言ったよ。後は僕が何とかするから、安心しろって」
レイフは気持ちを落ち着けようと大きく息をついた。
「それからしばらく経った頃…J・B達のアジトにあいつは単身乗り込んできたんだ。親父の銃を持ってさ」
「まさか」
「オレも信じられなかったよ。拳銃持って正面から殴りこみなんて、あいつが絶対しそうにない無謀なことだから…後から話を聞いたら、そんな意表をついた行動もあいつの計算のうちだったらしいけど―」
レイフはこみ上げてきた緊張感に耐え切れなくなって目を閉じた。すると、瞼の裏に、あの緊迫した状況のイメージが浮かび上がる。
(誤解をしないでくれ、ジェームズ、僕は君のために犯罪者になる気はない。だが、必要ならば、そうするだろう。いいかい、これは僕と君との勝負だ…命がけのね。僕の弟も、君の手下も関係ない、二人だけで決着をつけよう)
あの場面にレイフは遭遇したが、鬼気迫る迫力でJ・Bに挑みかけるクリスターをとめることはできなかった。J・Bでさえ、クリスターに圧倒されのみ込まれていた。
確かに、クリスターの行動の異常さは計算高いJ・Bを混乱させ、その判断を一瞬狂わせたのだ。
「ロシアン・ルーレットって知ってるよな?」
「拳銃に一発だけ弾丸をこめて、自分のこめかみに当てて引き金を引くって、命がけのゲームよね」
「クリスターは、そいつでJ・Bに勝負を挑んだんだ。交互に引き金を引いて、恐怖に耐えられなくなって先にゲームから下りた奴の負け。それとも、本当に弾で頭をぶち抜くか」
「嘘でしょう…そんなこと…?」
アリスは冗談として笑い飛ばそうとしたらしいが、薄っすらと額に汗を浮かべながらとつとつと語るレイフの様子に、とっさに黙りこんだ。
「クリスターがそんな危険な賭けをするなんて―でも、ロシアン・ルーレットなんて無茶苦茶な勝負に、そのJ・Bまで乗ったっていうの、それこそ馬鹿な話よ」
「冷静に考えればそうなんだけど…あの場の雰囲気自体がちょっとおかしなものになってたんだよ。そこにいた奴ら、酒やらドラッグやらでハイになってたし、クリスターに煽られるがまま異様に盛り上がりだしてさ…あの熱気にJ・Bの奴もつい流されちまったのかな…? 何にせよ、あいつは、自分の手下連中の前でクリスターと一騎打ちをすると言っちまったんだ」
だが、それはクリスターの仕掛けた罠に飛び込むようなものだった。J・B自身も、すぐにしまったと思ったはずだ。
「初めにクリスターが引き金を引いて、次にJ・Bが、そして、またクリスターが…しかし、結局J・Bは拳銃を二度も自分のこめかみにあてることはできなかった。勝負は呆気なくついたよ。周りで見守っていた連中から不満の溜息やブーイングがあがるくらいに」
固唾を呑んでレイフの話に耳を傾けていたアリスは、ほっと肩で息をついた。
「よかった…昔の話だと知っていても、聞いていてはらはらしたわ。クリスターって、本当に、怒ったら何をしでかすか分からない人だったのね」
そんなアリスをちらっと見やり、レイフも少し緊張がほぐれたのか口元をほころばせた。
「心臓に悪い話だろ。オレなんか、現場にいて目撃したわけだから、あいつらの勝負がつくまで生きた心地がしなかったぜ。でもさ、実は、この話には種明かしがあってさ」
不思議そうに見返すアリスの顔を覗き込みながら、レイフはこっそり秘密を打ち明けるような調子で続けた。
「クリスターは勝算のない賭けはしないんだ。ロシアン・ルーレットなんて派手なパフォーマンスも、J・Bを引っ掛けるための罠だった。あいつさ、初めから銃に仕掛けをして、自分の思うところで弾が出るようにしてたんだよ」
「そんなこと、できるものなの?」
「あいつさ、以前、学校の社会奉仕の時間で障害者施設の介護のボランティアをやってて、そこでもとベトナム帰還兵っていう触れ込みの変わり者の男と親しくなったらしいんだ。その男は戦場での生々しい体験談をたくさんクリスターに聞かせたんだけれど…その中に、ロシアン・ルーレットを使ったいかさま賭博の話があった。その話を覚えていたクリスターは、J・Bのもとに乗り込むにあたって、男からその方法を伝授してもらったんだ」
「何よ。それじゃあ、命がけの勝負って、クリスターの芝居だったわけ?」
「うん…ただ、百パーセントうまくいく確信はなかったらしいけど…その辺り、オレも頭に来て追求したら、八割方成功する自信ならあったって言うわけ。でもさ、それってさ、二割の確立で命落としてたってことじゃねぇか…分かってて、あんなことしちまうクリスターがやっぱりオレには信じられなかったよ。それもさ、オレのためにだぜ? オレは…そんなこと、少しも望んでなかった…自分のせいで、下手したらあいつが死んでたかもしれないなんて、考えるだけで震えがきそうになるのに…あいつは勝手に決めて、行動しちまった。オレはどうなんだろう、いざって時にあいつと同じことをあいつのためにやれるのか…?」
「レイフ…」
途中から自問自答めいた低い呟きとなった告白を無意識に垂れ流していたレイフは、アリスの気遣わしげな呼びかけに、我に返った。
「あ、ごめんごめん、ついぼうっとしちまった。ええと、どこまで話したっけ…ああ、そうだ、J・Bがクリスターとの勝負の後どうなったかだけれど―」
兄に対する引け目やわだかまりをつい漏らしてしまったことをごまかすように、レイフは強引に話を元に戻した。
「その一件があってから、J・Bはすっかりおとなしくなっちまったよ。オレからは完全に手を引いたのか、あいつの手下がオレの回りをうろちょろすることもなくなった。それからしばらくしてさ、なぜか、あいつがやってきた悪事が色々表に出てきたんだ。新聞部の連中が、うちの学校の幾つかのスポーツ・チームで不正行為が行われていたって記事を書いたことがきっかけだった。例の不良グループが関与していた証拠を持って校長らに訴えてさ…スポーツ重視の路線でやってた校長はことを重くみて調査させて―関係者は処分された。フットボール・チームでも、賭博に関わっていた選手やトレーナーが数人辞めさせられたぜ。オレは、危うく難を逃れことになるわけさ。それからは、今までJ・Bが恐くて黙っていた被害者達も声をあげ始めた。おまけに、不良グループの中からも裏切る奴が出てきてさ、J・Bを追い詰めるのに一役買ったわけ。クリスターとの一騎打ちで不様な負け方したせいで、あいつ、仲間の信頼失っちまったんだな。ついには尻尾を掴まれて退学処分の末、逮捕されて、矯正施設に送り込まれちまった」
「ふうん…一筋縄ではいかない悪党も、最後は呆気ないものだったのね。クリスターとの勝負に負けてから、すっかりツキにも見放されたんじゃない?」
単にJ・Bの悪運が尽きたというだけの話じゃない、クリスターがそう仕向けたんだと、レイフは言いかけたが、自分でも思うところに確たる自信があったわけでもなく、結局黙り込んだ。
(クリスターは何も言わないし、オレが追求してもうまくかわして、認めようとはしなかったけれど…やっぱり、あいつの仕業じゃないだろうか。J・Bを追い詰めて、ついには学校から追い出した…J・Bとの対決の後もずっと、クリスターは様子がおかしかった。オレには秘密で、陰で何かやばいことをやってやがったんだ)
レイフがそんな疑いを兄に対して抱くのは、最後に自分達の前に姿を現したJ・Bが残した捨て台詞のせいだ。
(やってくれたね、クリスター…でも、このままではすまさないよ。僕達のゲームはまだ終わらない…終わらせるものか)
既に自ら関わった犯罪行為の証拠が見つかり警察に追われていたJ・Bに向けたクリスターの目は涼しげで、彼との確執の気振りも感じられなかったが、クリスターが一見付け入る隙もないほど冷静であればあるほど、実は胸のうちはふつふつとたぎっているものなのだ。
いつも完璧に自分をコントロールしているクリスターの内面を見抜ける人間はめったにいないが、レイフには直感的に分かることが多い。クリスターの気持ちが昂ぶれば、多かれ少なかれレイフにも伝わる。
しかし、レイフに分かるのはそこまでで、クリスターの複雑な思考を手に取るように読み解けるわけではなかった。
(なまじ中途半端に分かっちまうから、余計に気になるんだよな。全く、双子って、得なのか損なのか…)
またしても話の途中で別のことに気を取られ、レイフは長いこと黙り込んでしまったようだ。しばらく忘れ去られた状態のアリスが、少々不機嫌そうに口を開いた。
「それで、そもそもの発端になった、ハニーって子はどうなったの?」
虚を突かれたレイフはまじまじとアリスを見返すと、やっと何を聞かれたか分かったというように、ああと呟いた。
「J・Bとクリスターの最初の対決の後、ハニーはさ、クリスターと付き合い始めたんだ」
「え…えっ…?」
「クリスターはさ、あの時、とにかくハニーをJ・Bから引き離す必要があると思ったんだな。本当はオレがそうすべきだったんだけれど、できなかったから―」
「あなたが好きだった子を彼は奪ったの?」
「形としちゃ、そうなるけどさ…でも、仕方ないよ。オレには、ハニーを救うことはできなかったんだから」
自分に言い聞かせるように呟くレイフは、そうとは気づかぬままに、まるで苦いものを無理やり飲み下そうとしているよう顔をしていた。そんなレイフを見つめるアリスの目がすっと細められる。
「クリスターは、きっと、あなたのためにそうしたのね。別にハニーのことが好きだったわけじゃないでしょう?」
「そこまで…オレが、知るかよ。どうしてハニーをオレから取り上げたか、クリスターを締め上げて追求するなんて惨めな真似はさすがにできなかったし…どう考えたって、オレよりクリスターの方がハニーのためになってた。オレは、ほんとに役立たずで、ハニーを助けたいと思いながら、結局傍で見ていることしかできなかった。クリスターはJ・Bから強引に引き離した後もちゃんと彼女を守っていたし、彼女の抱えた精神的な問題にもうまく対処していた。実際クリスターと付き合いだして、ハニーは随分落ち着いたんだ。ただ色々辛い思い出のある学校に留まることはできなかったのか、結局親のもとに帰っちまった。でも、それでよかったんだよ」
「ふうん…」
アリスはレイフの言葉には共感できなかったらしく、気のない素振りで空になったカクテルグラスの縁に指を滑らせながら言った。
「クリスターは、きっと厄介払いができたと思ったんじゃないかしら」
「どういう意味だよ?」
「だって、あなたの心をかき乱し、散々振り回した、情緒不安定の女の子を遠くにやってしまえたわけじゃない」
「そんな言い方ないだろ。クリスターはハニーに対してちゃんと責任を持った行動を取っていたぜ。彼女を好きだと言いながら何もできなかったオレより、ずっと誠実だった」
「クリスターがハニーに冷静に対処できたのは、あなたと違って彼女のことを何とも思ってなかったからよ。ハニーはあなたには、無理やりJ・Bから引き離されたら自殺するって脅して、だから、あなたは身動きが取れなかった。でも、クリスターは、ハニーの言葉には惑わされなかった。どうせ口先だけだと見抜いていたんでしょうけれど、極端な話、彼女が本当に自殺したとしても、クリスターにとっては大した痛手ではなかったのよ。クリスターのしたことは確かに立派だけれど、ちょっと釈然としないわね。ある意味冷酷よ…私がそのハニーと同じ立場だったら、ふざけないでって彼をひっぱたいてやったでしょうね。好きでもないくせに私と付き合って、それが何よりも大切な可愛い弟のためだなんて、失礼しちゃうわ」
「アリス…!」
「あら、私は、ただ思うところを正直に言ってあげただけよ。あなただってクリスターのやり方に納得できないものを色々抱えているくせに、彼は正しいって自分に言い聞かせて…ううん、それだけならまだしも、自分は駄目だ駄目だって劣等感をつのらせるのはやめなさいよ。見ていて、イライラするわ」
「う…」
レイフは赤くなったり青くなったりしながら何か反論しようと口をぱくぱくさせるが、ここまでずばずば言われては切り返しようがなかった。
「だって…仕方ねぇじゃないか…! オレは、クリスターとは違うんだから、あいつのように何もかも鮮やかにさばけたらって思うけれど…あいつに、敵うことなんかできないから―」
「あなたがクリスターと違うのは、当たり前じゃない。でも、だからって、敵わないと決め付けるのはどうかしら」
レイフは当惑のあまり瞳を揺らせながら、問いかけるようにアリスを見返した。
「クリスターと自分を引き比べるのはよしなさいよ、レイフ。クリスターは確かにすごい子だけれど、あなたの不器用な優しさも私は嫌いじゃないわよ。もう少し自分を認めてあげなさいな。そうすれば、あなただって、きっとクリスターに負けないくらい素敵になれるから」
「ア、アリス」
ついさっきはレイフのことを散々けなしていたくせに、今度は手のひらを返したような優しい態度で励ますような言葉をかけてくる、アリスの真意が全く読めずに、レイフはますます混乱するばかりだった。
結局傍に来たバーテンダーを捕まえて、もう一杯ジュースを注文することで、レイフはその場を取り繕った。
(クリスターと自分を引き比べるな、か)
ジュースを飲みながら、レイフは、彼なりにアリスに言われたことを一生懸命考えていた。比較するなと言われても、一緒に生まれた、この世で最も自分に近い相棒を意識しないでいることなど、無理だ。
(でも…オレはクリスターとは違う…。だから、クリスターのやり方や考えにはついていけねぇって思うことだって確かにあるよ。そんな時、オレは…とても不安で落ち着かないような気分になる…あいつとの差や違いってものから目を背けたくなる…)
アリスが言いたいのは、レイフにもちゃんと個性があるのだから、それを認識しろということなのだろう。
クリスターにできてレイフにはできないことはたくさんある。しかし、レイフが得意とすることでなら、クリスターを追い抜くことも可能なのだ。
ふっと、レイフの脳裏を、フットボール・チームのトライアウトでクリスターをしのぐ足の速さを証明した時の記憶が蘇った。
言いようのない息苦しさを覚えて、レイフはすぐに頭の中にうかんだ考えを打ち消した。
追い詰められたような気分でレイフはバーの中に視線をさ迷わせた。壁の時計に自然と目が行った。
「あっ、やべ、もうこんな時間になってら」
クリスターの目を盗んでほんの少しだけバーに顔を出すつもりが、随分長い時間アリスと話しこんでしまったようだ。
焦りを覚えながら席を立ち上がるレイフをアリスがうろんそうに見上げる。
「どうしたの?」
「あ、いや。クリスターには内緒でここに来たからさ、あんまり遅くなるとあいつが心配するっていうか、勝手な行動するなって説教されるかなって」
アリスは白々と冷たい目になって、幾分軽蔑したような声で言った。
「あら、結局、クリスターが気になるのね。私の誘いに乗って自分一人でここに来るあたり、あなたもまだ見込みはあると思ったけれど…駄目ね」
ふっと顔を背けて、心底がっかりしたというように溜息をつくアリスに、レイフはむっとした。
「駄目って、どういう意味だよ?」
アリスは応えず、レイフから視線を逸らしたまま席を立った。
「おいっ」
傍らをすり抜けるようにしてバーのエントランスに向かうアリスを、レイフはむきになったように追いかけた。
「アリス!」
バーを出た所にあるエレベーターの前でアリスは足を止めて、レイフに向き直った。
「大きな声を出さないでよ」
「アリスがあんな気になることを言うからじゃないか。その意味も教えてくれないで、さっさと出て行くなんて卑怯だぞ」
「そんなことも分からないところが子供なのよ、あなたは」
あからさまに子ども扱いされたレイフはさすがにかっとなって、アリスを睨みつけた。
「いいわよ、教えてあげる。あなたがそうやって、弟としてクリスターに守られる立場に甘んじている限り、あなたは絶対彼に並ぶことも、彼を追い越すこともできやしないわ。でも、それがあなたの望むことなのね…少しは期待したのに、がっかりだわ」
「何だと…?」
レイフの声が物騒な響きをはらんで低くなったが、アリスは怯まず、ふいに真摯な目になって彼に問いかけてきた。
「ねえ、レイフ、一体いつまでクリスターに甘えて、寄りかかっているつもり…? J・Bとの決着を、あなたは自分の代わりにクリスターにつけさせてしまった…この先、また何かある度に、クリスターを盾にしようって言うの? クリスターも大変ね、こんなに大きく育った弟を一人で支えて、引っ張って行かなくてはならないなんて」
「違う!」
思わず、アリスの言葉を遮るようにレイフは叫んでいた。
「オレは、クリスターの重荷になりたいわけじゃない。オレは、ただ―」
額に汗を浮かべながら苦しげに訴えるレイフを、アリスは容赦なく追及した。
「ただ、何よ」
レイフは口ごもり、アリスから目を逸らした。
「あなたは、本当に、十一歳の頃からあまり成長していないのね。そう言えば、あの時も…クリスターは、早く自分に追いついてもらいたいのにあなたは追いついてくれない、あなたはまだあまりにも子供だからって、こぼしていたわ」
レイフは小さく息を吸い込み、問い返したいかのようにアリスを振り返った。
「ねえ、レイフ、私に言われたことを違うって否定したいなら、クリスターに追いついてみたいなら―どう、今から私の部屋に来る?」
「えっ…え…?」
挑みかけるような調子でアリスが言ったことの意味を理解した途端、レイフは耳まで真っ赤になった。
「ア、アリス」
上ずった声でアリスの名を呼んだものの、後が続かない。じっと固まったまま立ち尽くしているレイフをアリスはしばし眺め、ふっと苦笑した。
「いいのよ。気にしないで、レイフ」
アリスはレイフから興味をなくしたようにすぐに身を引いて、エレベーターのボタンを押した。
エレベーターが到着するまでの短い時間、アリスはレイフを見ようともしなかった。そんな彼女の白い横顔をレイフは食い入るように睨み付けていた。
「それじゃ、おやすみなさい」
レイフは黙って、アリスがエレベーターに乗り込むのを見送った。
ドアが静かに閉じた途端、レイフは肩を大きく上下させて息をついた。
(あなたがそうやって、弟としてクリスターに守られる立場に甘んじている限り、あなたは絶対彼に並ぶことも、彼を追い越すこともできやしないわ)
レイフは、体の脇に垂らした手をぐっと握り締めた。
(オレは、あいつに守られたいわけじゃない。オレのためにあいつに危ないまねをさせるのも、何かを犠牲にさせるのも、もう嫌だ。このままのオレでいていいわけがないことくらい、分かってる)
レイフは目の前で点滅するエレベーターの光を狂おしげに見つめた。
アリス。クリスターが最初に経験した女性。
(できれば、おまえも誘いたかったんだけれど、おまえってばまだ全然ねんねだったから…あきらめたんだよ)
アリスとの体験を認めたクリスターの言葉をレイフは覚えている。
もしも―六年前のあの夜に戻れたら、もう一度やりなおせたら、レイフはきっとクリスターと一緒に彼女のもとに行っていただろう。
好きなものは何もかも二人で共有してきたように、彼女のことも、クリスターと同じように愛しただろう。
(あの頃に戻ることなんてできやしない。けれど―)
心許なげに揺れ動いていたレイフの顔が、ふいに厳しく引き締まった。
頭を巡らせ非常階段のサインを見つけると、レイフは素早くそちらに体を向け、身を低く屈めて、フットボールの試合でハットコールを待ち受ける時の構えを取った。
(SET)
とくんとくん…心臓の鼓動が早くなる。緊張感と共に体中に力がみなぎる、レイフが慣れ親しんだ心地よい感覚が戻ってくる。
(HUT、HUT…)
常に一歩前を歩いているクリスターの背中が、レイフの脳裏にふっと過ぎった。
レイフは足をぐっと踏みしめ、全身をたわめるようにして力を溜めた。
(オレは、おまえに追いつきたいんだよ、クリスター)
とくん。
(HUT!)
転瞬、レイフは弾丸のようなスタートダッシュを切った。
爆発的な勢いで駆け出すレイフにたまたま鉢合わせした気の毒なホテル客がひいっと叫んで壁際に逃げる。
その脇をレイフはものすごい勢いで走り抜け、非常用のドアを押して階段に飛び出すと、更に加速しつつアリスの部屋がある階目指して一気に駆け上がった。
何も考えず、突き上げる衝動のまま無我夢中でレイフは駆けた。頭の中が真っ白になっていくほどに、鬱屈としていた胸はすっきりと晴れわたっていく。
それほどアリス自身が欲しいのかどうか、彼女を本当に愛しているのかというと、レイフには確信が持てなかった。
ただ、あの時、クリスターだけが手に入れてレイフは手に入れ損ねた何かを、熱望していたのだ。
(クリスター、おまえが抱いた女だからこそ、たぶんオレは欲しいと思うんだ)
目当ての階にたどり着くとレイフは体当たりするようにドアを開けて、廊下に飛び出した。
すると、うまい具合にエレベーターから降りて自分の部屋へゆっくりと歩いていくアリスの後ろ姿を廊下の向こうに見つけた。
「アリス!」
ほとんど怒っているかのようなレイフの怒鳴り声を聞いたアリスの背中がびくっと震えた。とっさに振り返った白い顔が信じられないものを見たかのごとく引きつる。
「レ、レイフ、あなた、どうして―?」
皆まで言う間も与えず、レイフは瞬時に間合いを詰めると伸ばした腕でアリスの肩を掴んで強引に抱き寄せた。気の強いアリスが、瞬間、怯えたように身をすくめ、小さな悲鳴をあげる。
アリスにはずっと頭が上がらなかったので、うっかり忘れそうになったが、子供の頃は自分よりも背の高かった彼女が今は随分小さく華奢に感じられるほどに、レイフは逞しい男に成長していたのだ。
「なめんなよ、これでも陸上の高校記録保持者だぜ。本気を出せば、こんなものさ…って、まさか本当に追いつけるなんて思ってなかったんだけど」
アリスが苦しそうに息をついたので体に回した腕の力を緩めながら、レイフは呆然と自分を見上げる彼女に向けて茶目っ気のあるウインクをした。
「心臓が止まるかと思ったわ…ほんとにもうっ、なんて子…!」
レイフの人懐っこい笑顔にほっと肩の力を抜いて溜息をついたかと思うと、アリスは憎たらしそうに彼を睨み上げた。しかし、その草色の瞳にはむしろ、これまでになかったほどの親密さが込められている。
「へえ、アリスでも普通の可愛い女の子みたいに、そんなふうにびっくりしたり恐がったりするんだ」
「何よ」
へらりと笑うレイフにアリスは一瞬柳眉を逆立てるが、すぐに表情をやわらげて、どこかあまやかな声で囁いた。
「馬鹿」
アリスのほっそりとした体がそっとレイフの胸に寄りかかってくる。急に女らしくなってしまった彼女に、レイフは内心激しく動揺したが、今更後には引けなかった。
「ね、レイフ」
「うん?」
これから一体何をどうしたらいいのか、密かに冷や汗をかきながら悩んでいたレイフは、アリスが小さく呼びかけるのに素直に身を屈めた。すると、彼女の手が伸びてきて彼の頬に触れ、次いで柔らかな唇が彼の口を覆った。
ぷちん。レイフの頭の中で何かが切れたような気がした。
(そうだ、どうせ分からないことをあれこれ深く考えるよりも、感じるままにさっさと行動しちまえ。その方が、きっとオレらしい)
その後、レイフはアリスに手を取られるがままに黙ってついていき、彼女の部屋のドアをくぐった。
次にこのドアを出て行く時は、もう何も分からない子供ではないのだと、熱くなった頭の片隅で思いながら―。
なぁ、教えてくれよ。
あの時、あいつがどんなふうにあんたに触れたのか、どんな顔をして、どんな言葉で囁いたのか。
今度はオレが触れる、キスをする、意味をなさないうわごとのような言葉を囁く…。
オレはこの女が好きなのか。それとも、やはり―この熱夢の中で想い焦がれるのは、柔らかで馴染みのない女の体ではなく、オレがよく知っている、別の体なのか。
ああ、本当は、俺だって分かっているんだ。
けれど、認めちまうと、オレとあいつが必死になって忘れようとし続けたあの過ちを蘇らせることになる。
ただの兄弟ごっこなんてさ、空しい嘘で塗り固めでも守ろうとしてきた穏やかな日常をぶち壊すことになる。きっと、オレ達を信じ、愛してくれている、大切な人達を傷つけることになってしまう。
だから、せめて―。
クリスター、おまえを受け入れた、この温かくぬめった暗がりの中に埋もれることで、おまえと一つになりたい…。