ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第3章 唯一の絶対

SCENE4


 中学に上がる直前の夏に出会ったアリス・ゴールドバーグのことを全部細かい所まで覚えているわけじゃない。
 ただ夏の日差しの中できらきらと輝いてたアリスの金色の髪や長い睫毛、日に焼けたすらりとした手足とか気の強そうな草色の瞳に、綺麗だなと見蕩れていた覚えはある。
 クリスターの言うとおり、あれがオレの初恋だったとしたら、オレってかなり可哀想だよなぁ。 
 クリスターには優しいのにオレには冷たいアリスのやることなすことに、オレはいちいち振り回され、傷ついてた。
 彼女に言われたことを全て覚えてるわけじゃない。
 ただ1つだけ、今でも何故か忘れられない言葉がある。
 あの女、オレの顔を面白そうにしげしげと見ながら、こんなことを言いやがったんだ。

『クリスターと同じ髪、同じ瞳、同じ唇…何もかもがびっくりするくらいにそっくりね。でも、違うわ』



「ひゃーっ。ディズニーランドみたい」
 約束の時間、待ち合わせ場所にと指定されたボストン市街の中心バックベイにある瀟洒なホテルの中に足を踏み入れるなり、レイフは大げさな感嘆の言葉を吐き出した。
 擦れ違った身なりのいいホテル客がこちらをちらりと見やってくすくす笑ったのに、レイフは慌てて口を押さえたがもう遅い。
「…おまえが言わんとしたのは、こんな高級そうなホテルに入るのは、昔家族でディズニーランドに行った時に泊まったホテル以来だってことだね。でも、ここも大手チェーンホテルだけれど、格はずっと上だよ」
 レイフが外したことを言うのにも慣れているクリスターはさらりとフォローすると、先にホテルの奥へと入っていく。
 その後ろを、レイフはきょろきょろと興味深そうに周囲を眺め回しながらついていった。
 ホテルの格などと言われてもピンとこないレイフだが、まかり間違ってもバックパッカーの若者などは泊まれそうにないハイクラスのホテルだということは分かる。
 温かみのあるブラウンが基調の一階フロアーは、柔らかな照明もそこかしこにある調度品もうまく調和して全体に上品で落ち着いた雰囲気を醸し出していた。 
(アリスって、こんな贅沢な場所に泊まれるのかよ。そういや、あいつの親、今はどっかの大会社の重役だっけ)
 今日と明日の日程を考慮して、アリスは兄弟のために今夜はここに部屋を取ってくれたのだが、高校生にはもったいないだろうと普通に怯みそうになる。
「レイフ!」
 フロントデスクの前にあった、すごく大きなフラワーアレンジメントの傍に突っ立って、見たこともない珍しい花が本物かどうか確かめようと手を伸ばしかけていたレイフは、クリスターが呼ぶのに慌てて振り返った。
「あ、ごめん、ごめん」
 腕を組んで待ち受けているクリスターのもとに、レイフはばつが悪そうに頭をかきながら近づいていった。
「全く、大きななりをして、子供みたいに落ち着きがないんだからな。物珍しいのは分かるけれど、少しは隠せよ」
 頭ごなしに叱れたレイフは唇を尖らせる。
「だってさぁ…」
 レイフが言い返そうとしたその時、クリスターの陰になっていたソファの辺りから楽しげな女の笑い声があがった。
「外見は大人っぽくなったのに、レイフの方は、中身はあまり変わってないのかしら?」
 きまり悪げに背後を見やるクリスターの視線を追ったレイフは、思わず目を見張った。
「久しぶりね」
 背もたれの高い椅子にすらりと長い脚を組んで坐っていた女は、レイフの顔をまっすぐに見つめながら立ち上がった。
 レイフはとっさに何も応えられなかった。
 馬鹿なことに、彼は、今この瞬間まで、六年前に出会ったアリス、日に焼けた伸びやかな手足やティーシャツの膨らんだ胸が眩しかった溌剌とした17才の少女がここに現れるのだとばかり思い込んでいたのだ。
「ア、アリス…ほんとに…?」
 上ずった声で問いかけるレイフを傍らのクリスターが怪訝そうに振り返る。
 しかし、レイフはそちらにはほとんど注意を向けず、目の前に立つ颯爽とした若い女の顔にぽかんと見入っていた。
「あら、私、そんなに変わったかしら?」
「う、うん」
 変わったなどというものではない。化けたとレイフは思った。
 小悪魔めいた17才の女の子は、いまや洗練された都会の雰囲気を漂わせた大人の女だ。飾り気のないカジュアルなスタイルでも、学校の女の子達とは比べ物にならない華やぎと匂い立つような美しさがある。
 金髪のショートカットの頭を軽く傾げながらアリスが微笑むと、淡い色のルージュのひかれた唇から真っ白な歯が覗いた。記憶にある歯列矯正具はもちろんもうつけていない。
「そう言うあなた達だって、すごく変わったわよ。予め写真をもらっていなかったら、きっと分からなかったでしょうね。昔は、ヘレナおばさんにそっくりな顔をした綺麗な男の子だったけれど」
 アリスはどこか悪戯っぽく輝く緑の瞳でレイフとクリスターを交互に眺めると、満足そうに言った。
「二人とも、いい男に育ったじゃない」



 何事もきっちりしているクリスターは、遊びに関しても前もってリサーチして計画を立てるのが好きだ。この日のために色々考えてきたのだろう、ホテルのカフェで互いの近況についてしばらく話し込んだ後、外に出ると、早速ガイド役としてそつなく行動し始めた。
「兄貴ってば、ほんと準備がいいのな。こんな地図とかパンフレットまで手に入れてさぁ」
「そんなのうちの学校のオフィスに頼めばすぐにもらえるんだよ」
 配られた冊子類をしげしげと眺めながら感心したように言うレイフに、クリスターは素っ気なく応えた。
 計画性とは縁も所縁もないレイフは、案内役としてはあまり役に立たない。
 気持ちよく晴れた土曜日の朝は少し肌寒いくらいだったが、日差しは明るく、これから日中にかけて気温も上がってきそうだった。観光にはもってこいの一日になりそうだ。
 こうしてボストン一日観光に連れ立って出かけた三人は、主にフリーダムトレイルと呼ばれる有名な史跡を結ぶルートに沿って街を歩くことにした。
 狭く入り組んだダウンタウンの石畳の道は迷いやすいが、万一道を逸れても、その辺りをぶらぶら歩いているうちにトレイルの目印である歩道に引かれた赤い線が見つかるので安心だ。
 歴史にも詳しいクリスターは、時々休憩がてら足を止めたり、史跡を見学したりしながら、アメリカに渡ってきた初期の移民たちが築いた古い街であり独立戦争の舞台ともなったボストンにまつわる逸話を話してくれた。
 付け焼刃のガイドにしては、極めて優秀だ。
 歴史の授業で聞き覚えのある話もあったが、さすがにレイフはそこまで細かいことまで覚えていない。
「クリスター、あなた、そこまで詳しい説明ができるなら、いっそ夏休みに観光ガイドのアルバイトでもすればいいんじゃない?」
「それはごめんだな。大体、観光客なんて自分の関心を追うばかりで、人の話をろくに聞いていないことが多いし、そんな連中を引率するなんて疲れるよ」
 にぎやかなクインシーマーケットをそぞろ歩きしながら、すっかり打ち解けた雰囲気で言葉を交わしているクリスターとアリスの後ろを、レイフは少し遅れて歩いていた。
(ちぇっ)
 つまらなそうに唇を尖らせて、前を行く二人を恨めしげな―それとも羨ましげな目でレイフは眺める。
(何だかさぁ、結局、昔と同じようなことになっていきそうな気配じゃん)
 大学生や社会人のガールフレンドや恋人相手の場数を踏んでいるクリスターは、年上の女の相手がうまい。
 今もアリスを飽きさせない話ができているし、何かと気がきくし、さり気ないエスコートの仕方もスマートだ。
 対してレイフにできることといえば、せいぜいアリスが衝動買いしたものを持ってやるか、写真を撮ってやるか、道端のジューススタンドに飲み物を買いにいってやる程度だ。
(つまんね。オレ、何のためにここにいるんだろ。こんなことなら、兄貴の誘いに乗って、のこのこついてくるんじゃなかった)
 前を並んで歩く二人は、通り過ぎていく他人の目から見てもきっと似合いのカップルに見えるだろう。それでは、その彼らの後ろを不満げな顔をしてついていく自分は一体何者なのか。
 アリスがはしゃいだ笑い声をあげたのに、レイフがはっとなって顔を上げると、道端でパフォーマンスをしている大道芸人の前で足を止めて楽しげに笑いあっている二人の姿が見えた。
 レイフは彼らから少し離れた歩道にじっと立ち尽くした。無性に二人の間に割り込んでやりたくなったが、いかにも子供じみていると思ったし、そんな意気地もなかった。
 なすすべもなく見守っているうちに胸の奥がちりちりと焼けるように痛んできて、たまらなくなって、レイフは思わず二人から顔を背けた。
(もしかして、アリスがオレを相手にしないでクリスターにばかり夢中になってるからって、ひがんでんのか? あーあ、これじゃあ、六年前の繰り返しだよ。オレって、つくづく成長してないのな、情けねぇや)
 次第につのってくる苦しさを払いのけようとするかのごとくレイフは頭を振りたてるが、一向に気分は晴れなかった。
(違う)
 レイフは唇を噛んだ。
(ひがんでるんじゃない。きっと妬いてるんだ、オレ。でもさぁ…嫉妬って、クリスターとアリス、一体どっちに対してなんだろ…?)
 悶々と悩みだしたものの、あまり複雑なことを考えるのは苦手なレイフは次第に訳が分からなくなってきて、低く唸りながらイライラと頭をかきむしった。
「レイフ!」
 いきなり名前を呼ばれ、はっと息を吸い込みながらレイフがそちらを振り返ると、アリスがにっこりと微笑みながら近づいてきた。途端にレイフの体に緊張が走る。
「ね、この先しばらく行った所に眺めのいい公園があるんですってね。私、少し歩き疲れたし、そこでしばらく休みましょうよ」
 アリスの笑顔を眩しいものを見るかのような思いで見下ろしながら、レイフは不器用に頷いた。
「う、うん」
 アリスはレイフが手に下げている幾つかの土産物の袋をちらっと見た後、すまなそうに言った。
「荷物持ってくれて、ありがとうね、レイフ。これ以上余分なものは買わないようにするわ」
「べ、別に…これくらいどうってことねぇよ」
 我ながらどうかしているとレイフは思った。
 気まぐれなアリスが急に自分に注意を向けて感謝のこもった目で親しげに話しかけてきたくらいで、こんなにも嬉しくなってしまうなんて―。
「あ、でも、1つくらい私も持とうか」
「いいから、いいから」
 不機嫌でつまらなそうな顔からたちまち満面の笑顔になって、レイフは頼もしげに請け合った。
「それじゃ、行きましょう」
 するりと傍らをすり抜けていくアリスをぼうっと見送った後、小さな咳払いを聞いてレイフが後ろに目を向けると、何か言いたげな顔をしたクリスターが立っていた。
 おまえは、また女の手の上でいいように踊らされて―と半ば呆れ、半ば憐れんでいるようだ。
「な、何だよ」
 レイフがつい反抗的な気分になって睨みつけると、クリスターは一瞬驚いたような顔をして、すっと視線を逸らした。
「いや…何でもない。行こうか」
 素っ気無い態度で歩き出すクリスターをレイフはとっさに見送りかけたが、慌ててその後を追うと、ついむきになって早足で追い抜いた。そこでふと気がとがめたものの、結局兄を振り切るようにして、彼は先を行くアリスの姿を探した。
(オレだって、もう何も知らない十一才のガキじゃねえんだから)
 確かに、これはある種のトラウマなのかもしれない。
 子供の頃のレイフとクリスターは、いつも同じものを好きになって、同じように欲しがった。いつも二人で一つのものを手に入れて、仲良く分け合っていた。
 けれど、アリスだけは、そうはできなかった。アリスはクリスターを選び、レイフは一人置き去りにされた。
 それが世の中では当たり前のことなのだと思い知らされたのは、あの時が最初だったか。
(ああ、そうさ。オレとクリスターは違う。だから、どうしようもないことだって時にはある。それくらい、もう分かってら)
 たとえ姿かたちがどんなにそっくりでも全てを共有してきた間柄だと言っても、クリスターとレイフは、同じ一人の女の恋人や伴侶になることはできない。
 あの短いひと夏、レイフの知らない所でクリスターはアリス相手に初体験をした。
 レイフがそのことを知ったのは、随分後になってからだったが、双子の相棒に先を越されてしまったとすごく悔しがったものだ。
 その記憶は兄に対する引け目となって、レイフの胸にずっと残っている。
 そして今も、久しぶりに会ってみれば少女から艶やかな女性へと変貌を遂げていたアリスに、レイフは圧倒されたが、彼と違って既に精神的に大人になっていたクリスターは平気な態度で接していた。
 そんなクリスターをアリスも惚れ惚れとしたような目で見ている。たぶん彼女は、クリスターを男として気に入ったのだ。
(だからって、オレの目の前で、あの時みたいな勝手はもうさせるものか)
 胸の奥にふつふつとたぎるものを覚えながら、レイフは密かに吐き捨てた。
(十一才の頃のオレが本当にアリスを好きだったかなんて今更分からないけれど…ただオレは、昔と同じ惨めな役回りにはなりたくない。別にクリスターと張り合おうってつもりじゃないんだ…いや、そうなのか…? 自分でもうまく説明できない気分なんだけれど、またしてもあの二人に弾き出されるのは嫌だ。これ以上、クリスターに遠く差をつけられるのも…)
 焦燥感にも似た、これは単なる嫉妬だろうか。いや、そんなさもしいものではない。
(えい、くそっ。オレは、アリスが好きなのか? それとも…クリスターが好きになったものには、今でも同じように惹かれてしまうんだろうか…全く、性懲りのねぇ)
 クリスターに対抗意識など燃やしている今の自分がレイフは不思議だったが、本気で兄に敵うのかと突き詰めれば全く自信などなかった。
 いつだって、こと異性に関しては、クリスターはレイフより一枚も二枚もうわてなのだ。
 女性に対するアプローチの仕方も分からないレイフは、この場合もアリスの気を引くために使いっぱしりのような地道なサービスに徹するしかなかった。
 そんなレイフの態度を見ていれば、クリスターだけでなく当のアリスにも、彼の気持ちなど手に取るほどによく分かっただろう。
 やはりレイフはクリスターとは違う。初心で純情で、世慣れた大人の女性から見ればひとたまりもないような『男の子』でしかなかったのだ。
 だから、一休みするために立ち寄った公園で、いきなり状況が一変したことは、レイフをむしろ戸惑わせた。
 ボストン港を見下せる眺めのいいその公園は、都会の喧騒の中を歩き回って疲れた体を休ませるには絶好の場所だった。
 喉が渇いたとアリスが言うので、レイフが近くのジューススタンドで飲み物とスナックを買って戻った時のことだ。
(あれ…?)
 燦々と照る陽光に輝く海を正面に眺められるベンチに、アリスはクリスターと一緒に坐っている。
 レイフがしばらくそこを離れている間に何かあったのだろうか、先程まであれほど親しげに打ち解けた様子で会話を楽しんでいた二人が今はどこか余所余所しい。
 クリスターは黙って膝の上に広げた地図の上に視線を落としているし、アリスはぼんやりと海の方に視線を投げかけている。
 ほとんど恋人同士のように寄り添いあっていた二人の距離も微妙に広がって、そこにもう一人くらい坐れそうな空間があいていた。
「あら、レイフ」
 三人分のジュースを持ってベンチの後ろの方で所在なげに立ち尽くしていたレイフに気がついたアリスが、手を振りながら呼びかけた。
「そんな所で何してるの? 早くここにいらっしゃいよ」
 ふいに親密さを増したアリスの声音に胸をときめかせながら、レイフはそろそろと近づいて、彼女とクリスターの間に遠慮がちに腰を落ち着けた。
「ジュース、ありがとう。とても喉が渇いていたのよ」
「う、うん」
 屈託なく笑いかけてくるアリスにおずおずと頷き返しながらも、レイフは隣に黙り込んだまま坐っているクリスターが気になって、ちらちらと様子を窺っていた。
 クリスターはレイフの無言の合図にも気づいていないのか、地図やガイドブックに目を通しながらこの後の計画を考えている様子だ。
「ねえ、レイフ」
「え、何?」
 レイフが慌てて振り返ると、アリスが下からじっと彼の顔を覗き込んでいた。
「さっきクリスターからも少し聞いたんだけれど、去年のフットボールの大会は凄かったんですってね。私は今はワシントン暮らしだし、こっちの高校の大会のことまで詳しくは分からなかったんだけれど、あなた達ががんばってるらしいってことは知ってたわ。さすがに優勝するとまでは思ってなかったけど…そう言えば、子供の時からあなたは将来はフットボールの選手になるんだって言ってたわね。夢に向かってまっすぐに突き進んでるんだ。いいわね、そういうひたむきさ」
「そ、そうかな。オレは単純だから、好きなこと以外は目に入らなくて、夢中でやってるうちにここまで来てたって感じだよ」
 この日レイフがアリスとまともな会話ができたのは、これが初めてではないだろうか。
「何だか羨ましいわね。私、そこまで好きになれたものって、今も学生時代もなかったような気がするもの」
 本当にどうしたというのだろう。
 てっきりアリスはレイフのことはクリスターのおまけ程度にしか認識していないのだとばかり思っていた。しかし、今のアリスは、クリスターからレイフに関心を移しているようだ。
 単なる気まぐれかもしれないが、今回も2人から仲間はずれにされそうな予感がしていただけに、アリスが少しは自分のことも意識してくれたのだとレイフはたちまち有頂天になってしまった。
 たまたま話題が得意分野のフットポールだったこともあって、レイフは急に生き生きとして話し出した。
 そんな彼の言葉にアリスは熱心に耳を傾け、時には笑い転げたり、感心したような溜息を漏らしたりしてくれた。
 あんまりコアな話をすると普通は女の子を退屈させるものだが、アリスは、少なくとも表面上はレイフの話を面白がってくれているようだ。こういうのを聞き上手というのだろうか。
 アリスと打ち解けられたことが嬉しくて、レイフは彼女とクリスターの間に漂う微かな緊張感をはらんだ空気には気がつかなかった。
 公園で休んでいる間二人の会話にはほとんど加わらなかったクリスターに、アリスが時折意地悪そうな笑みを含んだ眼差しを投げかけていることにも、その後街歩きを再開すると彼女が今度はレイフにぴったりとつくように歩き出したことにも不自然さを覚えなかった。
 夕方になって一端ホテルに戻った三人は、今度は服を着替えて、双子の母へレナが予約を取ってくれた高層ビルの上にある眺望が自慢のレストランに出かけたのだが、その時もいつの間にかレイフがアリスをエスコートする立場になっていた。
 並んで歩く二人の一歩後ろをクリスターは歩いていたが、そんな兄を気遣おうにも、レイフはアリスの相手をするのに必死で、そこまでの余裕はなかった。
 飾り気のないカジュアルな格好をした昼間のアリスも溌剌として魅力的だったが、ディナーのためにドレスアップすると、たちまちセクシーな大人の女性に変身した。そんな彼女に、レイフはもう目もあてられないほど夢中になっていた。
 三人でテーブルを囲んでの食事の間―さすがに、この時ばかりはクリスターも黙り込んではおらず、それなりに会話に加わったのだが、こんな席では口下手なレイフをフォローするために饒舌ぶりを発揮する彼がいつになく控えめだった。
 そして、レイフはというとアリスばかり見ていた。彼女の悪戯っぽくくるめく緑の瞳を捉えようと必死に追いかけ、時々うかべる謎めいた表情の意味を知りたがり、ほっそりとした指先の何気ない仕草に漂う色気にどきどきしていた。
 そこまで熱心にアリスを見ていたにもかかわらず、ふとした折に彼女がクリスターに向ける挑発するような視線や、言葉の端々に表された揶揄には、レイフはほとんど注意を払わなかった。たぶん、自分に対して送られてくる彼女の言葉や表情を読み解くだけで手一杯だったのだ。
 そうして、裏に緊迫したものを秘めながらも、1日の予定を滞りなく終え、三人はタクシーでレストランからホテルに戻っていった。



「うっわーい!」
 ホテルの部屋に戻るや、レイフはジャケットをソファに放り投げ、奥に二つ並んでいるダブルサイズのベッドの片方にダイビングをした。
「やると思った…」
 ふかふかした大きな枕を膝の上に乗せ、尻をもぞもぞ動かしてクッションの具合を確かめているレイフに苦笑混じりの目を向けながら、クリスターはクローゼットの中に脱いだジャケットを吊るした。
「…バスルームは大理石張りだよ」
「え、どれどれ」
 クリスターの言葉にベッドから飛び降りてバスルームを覗きにいったり、テラコッタの色調で統一された一昔前の邸宅風の上品な部屋の中を珍しそうに歩き回ったり、カーテンを開いて眺めのよさに感心したり、とにかく今夜のレイフはいつも以上に落ち着きがない。
 アリスに優しくされて、すっかり有頂天になっているのだ。どうしてこれほど分かりやすいのだろうと、我が弟ながら呆れてしまって、クリスターはもうたしなめる気にもなれなかった。
「先にシャワーを浴びたらどうだい?」
 クリスターが声をかけると、テレビの前のソファに坐ってリモコンを手にぼんやりしていたレイフは夢から覚めたような顔で振り向いた。
「ああ…うん…」
 言葉を濁すレイフに、クリスターはふと眉を潜めた。
「オレは後でいいよ。兄貴、先に使えよ」
「じゃあ、そうするよ」
 レイフはテレビの画面に視線を向けたが、クリスターが腕を組んでじっと見ていると、落ちつかなげに肩や腕を触ったり撫でたりした。
(全く…分かりやすい奴)
 勘のいいクリスターはレイフが何か隠し事をしていることをすぐに見抜いたが、気づかぬ振りをして、先にバスルームを使うことにした。
(大方、アリスに別れ際何か言われたんだろう。彼女に会ってみるかいと僕が誘った時には気が乗らない様子だったのに、今はそんなこと忘れ果てているみたいだな)
 案の定、シャワーを浴び終わってクリスターがバスルームから出ると、部屋にレイフの姿はなかった。テレビをつけっ放しにして忽然と消えてしまった弟に、しかし、クリスターは驚かなかった。
「やっばりね」
 素肌にバスローブをまとったまま、クリスターはレイフがいたソファにどさりと腰を下ろし、額に落ちかかる濡れた髪をわずらわしげにかき上げた。
 こういう展開も想定内のことだ。レイフがアリスに惹かれるかもしれないということも、アリスがレイフを誘惑するかもしれないということも、クリスターは予想していた。
 だから、動揺など、しない。しかし―。
「少しは僕の読みを裏切ってくれてもいいのに、あの馬鹿…」
 溜息混じりに呟いて、クリスターはテーブルの上のリモコンを取り上げ、神経を逆なでするような耳障りなテレビの音声を遮断した。

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