ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第3章 唯一の絶対

SCENE3


 放課後の陸上部の練習時間。ストレッチで体をほぐした後、部員達は一人ずつ順番にタイムを計測していた。
「よし、次はレイフ」
 コーチに呼ばれてスタートラインにレイフが立った瞬間、周りの空気が少し変わった。 
 レイフが陸上競技でのピークにあったのは州大会で優勝した十五才の時だが、今でも彼がタイムを計るとなると人々の注目を集める。
 今度こそという熱い期待や単なる好奇心の入り混じった視線が、レイフはうっとおしくて仕方がないのだが、無視するしかない。どうせ走り終わってみれば、失望と落胆、そして無関心に彼らが戻っていくのもいつものことだ。
(どうせ他人のために走ってるわけじゃないし)
 地区大会が近い今、校長から檄を飛ばされたコーチの指導にも熱が入るが、レイフはむしろ冷めていた。
 この時も、百メートルのラインを走り抜けレイフが後ろを振り返ると、やはり難しい顔をしたコーチと目が合った。
(あちゃ、やっぱ駄目だったか)
 ごまかすようにレイフがへらっと笑うと、コーチにそっぽを向かれた。ちょっと傷つく。
(無理言うなよ、コーチ。こっちは、体格もウエイトも一年目とは随分変わってるんだぜ? 最盛期と同じ記録なんて、そうそう出せるかってんだ。ああ、オレの一番のライバルはかつての自分って訳か…こういうが一番厄介なんだよなぁ)
 グラウンド脇の木の下のベンチでスポーツドリンクを飲みながらレイフが一休みしていると、先程タイムを計測してくれたトムが近づいてきた。
「ううん、いまいちおまえのタイム伸びねぇんだよな」
 ストップウォッチを睨みつけながら、トムは自分のことのように残念そうに言う。
「そうか」
 あまり気のないレイフの返事に、トムは歯痒そうな顔をした。
「それだけかよ」
「うん?」
「いくらスランプって言ったってさぁ…もっとこう必死になって努力するとか、思うような走りができないってことに悔しがってみるとかさ、色々あんだろ」
「別に手ぇ、抜いてるわけじゃないんだぜ、トム。しゃーないさ、これが今のオレの実力なんだから」
 困ったように頭をかくレイフをトムはもどかしげにしばらく眺めていたが、やがて深い溜息をついて、彼の隣に座り込んだ。
「何て言うか、昔のおまえって、もっと生き生きとして迫力のある走りをしてたような気がするよ。おまえを初めて見たのはフットボール・チームのトライアウトだったけれどさぁ。子供みたいなきらきらした目をして、走るのが好きでたまらないってふうに嬉々として駆けていた…あれでプロも顔負けのとんでもない記録を出したんだものな。あんなふうに無心に走れたら、今でも同じくらいのスピードを出せるんじゃないのか?」
「走ることは…今でも好きだよ」
 ふと遠い目になって、レイフはぽつりと呟いた。
「あの頃みたいに、頭の中が真っ白になるくらい、完全燃焼できたって実感できるくらいの走りをしたい。そうできたら気持ちいいだろうなって今でも思うけど…」
 揺らめいた火の影がレイフの胸を微かに焦がしたが、燃え上がるかと思えばそれはすぐに鎮まってしまう。
「なんで、オレ、駄目なんだろ」
 ベンチに坐ったまま、レイフは後ろに手をつき上体を反らせながら空を仰いだ。頭上を覆う若々しい梢の間から降ってくる明るい日差しに目を細める。
「…ごめん」
 レイフが頭を傾けると、すまなそうにうなだれているトムが見えた。
「余計なプレッシャーかけちまったみたいだな。スランプになって一番辛いのはおまえなのに…つい追い詰めるようなこと言っちまった」
 自分のせいでレイフを落ち込ませたとトムは後悔しているらしい。レイフは慌てて坐りなおすとトムの肩を軽く揺さぶりながら、親しみのこもった口調で訴えた。
「違う違うって。別にオレ、へこんでないから。実際、ちっとくらい人から説教されたり、しっかりしろって尻を蹴飛ばされたりした方がいいんだろうぜ。オレみたいな、いい加減で、怠け癖のあるタイプはさぁ」
 レイフに揺さぶられながら、トムは堪えきれなくなったように笑い出し、彼の腕を叩いてじゃれつくのをやめさせた。
「教育係のクリスターが傍にいた方が練習に身が入るってか?」
「教育係って、なんだよ?」
「なら、調教師」
「ひでぇや」
 冗談めかして笑い合っているうちに、二人の間の空気も和やかなものになってきた。
「クリスターといえばさ、この間の試合、すごかったらしいよな。勝った相手、もと大会チャンピオンだったって? ほんとに、あいつには感心するよ。ミスター・パーフェクトとはよく言ったものさ。クリスターに弱点なんか、あんのかねぇ」
「…KOできずに判定でやっと勝てたんだって、クリスターは不満そうだったけどな」
 トムは呆れたように口を半開きにした。
「相変わらず完璧主義って言うか、男前過ぎて腹が立つくらいだよな、おまえの兄貴」
「うん…」
 レイフは胸の中にもやもやとわだかまる複雑な思いをもてあましながら、ドリンクのストローの先を噛んだ。
「何、浮かない顔してるんだよ、このブラコン。ボクシングに兄貴を取られたからって、そんな寂しそうな顔するなよ。心配しなくても、フットボールの季節になりゃ、ちゃんとクリスターは戻ってくるよ」
 三年近くレイフと付き合っているだけあって、トムには、この時期レイフが抱える鬱屈とした気分の根っこがどこにあるのか分かっているようだ。
「ちぇっ…」
 レイフは思わず顔を赤らめて、黙り込んだ。
(フットボールのシーズンになりゃ、クリスターは戻ってくる。そうだよな…うん、きっとそうだ)
 レイフは再び頭をもたげそうになった不安を押さえつけるために自分にそう言い聞かせ、グラウンドで走っている陸上部の仲間を眺めやった。大会を目指して、それぞれが自分のペース合わせ真剣に練習をしているというのに、レイフは課せられたメニューをまだ全然こなせていない。
 そろそろあそこに戻った方がいいだろうが、何故かまだ気分が乗らず、レイフは物思いに沈んでいた。
 走りながらレイフがともすれば思い出すのは、フットボール・チームのトライアウトで思いがけず自己最高のタイムを出し、それが超高校生クラスのものとして周囲を沸かせた時の記憶だ。
(別にオレ、記録なんか、出そうとしたわけじゃない。ただ走ることが好きで好きで、夢中で走ったら、あんなことになっちまっただけだ。目立ちたいわけでも、他人からちやほやされたいわけでもなかった…大体、それまではオレなんかに目もくれなかったくせに、いきなり手の平を返す連中なんか信用ならない。そんな奴らに認められても嬉かしねぇ…そりゃ初めのうちはちっとは気持ちよかったけどさ…)
 レイフの中で、喉の奥に引っかかった小さな骨のようにいつまでも気になっていることがある。
 あの時、自分の周りを興奮した様子で取り囲む大人達の向こうに一人佇んでレイフを眺めていたクリスター―どこか寂しげで悲しそうな兄の姿を見た瞬間、レイフは何故か、してはならないことをしてしまったような、後ろめたさに駆られたのだ。
(オレはあの瞬間クリスターを追い抜いちまった…そのことで、あいつに対してすまねぇって思っちまった。そう言うと、思い上がりみたいに聞こえるけどさ。…たぷんオレは、オレ達の位置関係を崩したくなかったんだ。あいつが常に前を歩いていて、その後ろをオレが追いかけている…それがずっと昔から続いてきた、一番安心できるありようだから―)
 あの時覚えた戸惑いと違和感は、この所レイフが抱えている悩みにもどこか通じている。これから先クリスターとどうやって付き合っていくべきか、どう変われば、大切な相棒を失わずにすむのか―。
(何だかオレは、あの時からずっと身動きが取れねぇような気分なんだよ、クリスター)
 擦れ違いを重ねながらも、レイフの心は常に自分の半身を追いつづけているのだった。



 それから間もなく―四月も半ばを過ぎた日曜の朝のことだ。
「おっ、兄貴が寝坊すんの珍しいじゃん」
 前日、夜遅くまで遊んでいたせいで起き出すのも遅かったレイフが、パジャマ姿のままキッチンに下りていくと、ぼうっとした顔で1人テーブルに坐ってコーヒーを飲んでいるクリスターを見つけた。
「おはよう」
 レイフがキッチンに入ってくるとクリスターは一応目を上げて声をかけてくれたが、またすぐに自分の中に閉じこもってしまう。
「また夜更かししてたんだろ、兄貴。寝たりないって顔してるぜ?」
「うん…確かにちょっと寝不足かな」
 あくびをかみ殺すクリスターを眺めながら、レイフはコーヒー・メーカーに残っていたコーヒーを自分のマグカップに注いだ。
 いつも忙しいクリスターは休日でも早起きして出かけることが多い。こんなふうに2人でゆっくりと日曜の朝を過ごすことなど久しぶりだ。しかし、クリスターは何やら他のことに気を取られているらしく、レイフは少し気に入らなかった。
「なあ、クリスター」
 レイフはコーヒーを一口すすり、マグカップの中をじっと見ながら考え込んだ後、ぽつりと呟いた。
「オレってさ…もしかしてEDじゃないのかなぁ」
 飲みかけていたコーヒーを軽く吹きそうになったクリスターは、咳き込みながらテーブルの上にあったティシュの箱を引き寄せる。
「い、いきなり何を言い出すんだ、おまえは!」
 十七才のやりたい盛りの高校生が勃起不全だなどと確かに恐すぎる。
 クールなクリスターを動揺させてやったことは嬉しいが、それなりに深刻な気持ちで、レイフは続けた。
「うーん、どうしてこんなに女の子と付き合うのが苦手なんだろうって、オレだってたまには悩むこともあるわけ」
 溜息をつくレイフにクリスターは眉をひそめ、自分の前の椅子に坐るよう無言で促した。
「目、覚めただろ?」
 いそいそと着席するレイフにクリスターは渋面で言い返した。
「おかげで眠気なんか吹き飛んだよ。さわやかな休日の朝にふさわしい話題とは思わないけど―何かあったのかい?」
「実はさぁ、オレ、昨夜遊びに出かけてたんだよ。映画見たり、メシ食ったり、その後ちょっと―白状すると女の子と一緒でさ、トムの彼女の友達なんだ。その子が踊りたいって言うからクラブとか連れて行ったりして―」
「要するに、デートだったんだ」
「うん…」
 レイフは耳がかあっと熱くなるのを意識した。
 クリスターには内緒のことだった。いつまでもガールフレンドのできない不器用なレイフを見かねて、トムが女の子を紹介してくれた。今までこの手の話があっても面倒だからと断っていたレイフだが、今回は何となく気持ちが動いて、会ってみることにした。実際なかなかいい子だったので、何回かデートを重ねていたのだが、昨日で呆気なく破局となった。
「ほんと、昨日まではうまくいってたんだぜ。オレも、今度こそ筆下ろし…いや、彼女くらい作るぞって気合入ってたし」
 その問題のデートも、流れは決して悪くなかったのだ。予定よりも遅くなって家まで車で送った時、ちょっといい雰囲気になって別れ際にキスをした。レイフはそれで帰ろうとしたのだが、彼女がいきなり家に寄っていかないかと誘ってきた。親は旅行でいないとか。何たる幸運と、つい魔が差して、ほいほいついていった。いや、別にやましい気持ちがあったわけではない。コーヒーだけ頂いて帰るつもりがまたちょっといい雰囲気になってしまい、気がつけば、彼女の部屋に上がりこんでいた―。
「それで?」
 クリスターがやけに冷静なのは、既にレイフの話のオチを見切っているからだろう。
「今度こそいけるかもって思ったんだけどさ、結局ミナの時とおんなじ。いざとなると気持ちが挫けて、体の方も萎えちまった。その後は気まずくなったっていうか白けたっていうか…結局振られちまったわけ」
 クリスターがいきなり席を立ち上がったのに、レイフは一瞬何を言われるかと身構えたが、彼は無言のまま戸棚を開いてコーヒー豆の入った缶を取り出し、新しいコーヒーを作り出した。
 続く数分間、レイフもクリスターも一言もしゃべらず、コーヒー・メーカーのたてる音だけがキッチンに流れた。
 庭に面したガラス戸から差し込んでくる透き通った朝の光の中、この手の話を打ち明けるには時間も場所も適切ではなかったかとレイフが後悔し始めた頃―。
「…トラウマだったりしてね」
 出来立ての薫り高いコーヒーを自分とレイフのマグカップに注ぎながら、クリスターがおもむろに口を開いた。
「ね、レイフ…アリス・ゴールドバーグって覚えてるかい?」
「アリスって…あのアリスかよ?」
 意外な名前を持ち出されて、レイフは目をぐるっと回した。小学生最後の夏に湖のキャンプ場で出会ったアリスのことなら、確かに覚えている。あれ以来レイフはアリスとは会っていないが、彼女の両親と双子の両親は今でも親交が続いていて、何年か前に一度家に遊びに来たこともあった。それに、確かクリスターは今でもアリスと時々手紙やカードのやり取りをしているはずだ。
「僕とアリスは仲がよかったけれど、おまえはよく苛められてた」
「ちぇっ、嫌なこと思い出させるなよ。ああ、確かにその通りさ。ほんとひどい女だったぜ、アリスは」
「でも、おまえは、本当は彼女のことが好きだったんだよね?」
「ば、馬鹿言うな!」
 薄っすらと笑うクリスターを睨みつけながら、レイフはふいに、あの時クリスターはアリス相手に初体験をすませたのだということを思い出した。まだあまりにもねんねだったレイフが、何も知らずに一人で寝ているうちに。
 何だかクリスターとまともに対峙していることが辛くなってきて、レイフは怒ったように頬を膨らませてそっぽを向いた。
「おまえの女性恐怖症の根っこを探っていくと、もしかしたら幼少期に初恋の相手から苛められたことが原因じゃないかと、ふと思ったりしたんだけれどね」
「くだらねー。大体、オレ、別に女が恐いわけじゃねぇし」
 クリスターから顔を背けたまま、レイフはイライラと尖った声で言い返すが、男子にタックルをかけるのは得意でも女子には手も足も出せない今の有様では、我ながら説得力がなかった。
 そんなレイフの様子をしばらく見守った後、クリスターは言った。
「…会ってみるかい?」 
 いぶかしげに振り返るレイフに、クリスターは意味ありげな顔で頷き返した。途端に、レイフの首筋辺りの皮膚がちりちりとそそけだつ。
「実は昨日、アリスから電話をもらったんだ。休暇でニューヨークを訪れているんだって。今週ボストンにも足を伸ばすから会わないかって誘われて、それなら、せっかくだから土日を利用して案内すると僕は答えた。おまえのことも懐かしそうに話していたし、一緒に来れば、きっと喜ぶと思うよ」
「は、はぁっ?」
「別に予定はないだろう?」
「そりゃ、確かに暇だけど…」
「それじゃ、決まりだ」
 どうしてそういう展開になるのかとレイフが戸惑っているうちに、クリスターは勝手に話を進めていく。
「幼少時のトラウマを克服する一つの方法は、トラウマの原因と向き合って、自分はもう大丈夫だと認識することなんだよ」
「ちょ、ちょっと…勝手に決め付けんなよ…」
「冗談だよ、今のは。でも、アリスは確かにおまえにも会いたがっていたし、僕も、どうせなら三人一緒の方が楽しく過ごせそうな気がするんだ」
 レイフは言い返そうとして、出掛かった言葉を飲み込んだ。
 アリスとは別に会いたくなどないが、クリスターを彼女と二人きりにしてしまうのも、何となく癪に障った。子供じみたやきもちだろうか。
 そう言えば、アリスと過ごした短い夏の日々、自分を置き去りにして楽しんでいる二人に、レイフはずっと不満を訴えていた。
 今更、あの時のような道化役を演じるつもりは、もちろんない。しかし―。
「分かったよ。どうせ、できかけた彼女にも振られて暇な身だし、退屈しのぎにつきあってやるよ、畜生」
 不機嫌な大型犬のように低く唸っているレイフに、クリスターはふと柔らかな笑みを投げかけてきた。
「おまえと一緒に出かけるのも、そう言えば久しぶりだね」
「う、うん」
 実に久しぶりにクリスターのこんな親しげな声を聞いたような気がして、レイフは胸がきゅんとなるのを感じながら、大きく見開いた目で兄を見返した。
「楽しみにしているよ」
 軽く首を傾げながら、クリスターはごくくつろいだ風情でレイフに微笑みかけている。こうしていると、彼との間に溝が広がりつつあるなどと単なる勘違いではなかったかという気がしてくる。
 どうしよう。何だか泣きそう―。レイフがつい感極まって言葉も出せずにいるうちに、クリスターはテーブルから立ち上がった。
「休みの日だからって、いつまでもパジャマのままでうろうろするなよ。それから、せめてスリッパくらい履いてこい」
 寝癖のついたレイフの髪の一房を軽く引っ張りながら優しくたしなめると、クリスターはキッチンから出て行った。
「ちぇー、相変わらず母さんみたいに細かいんだよなっ」
 クリスターに触られた頭を撫で付けながら文句を言うレイフの顔は、しかし、幸せそうに緩んでいた。
「へへっ、次の休みに兄貴と一緒に出かけんの、オレも楽しみだぞーっ」
 たちまち天にも舞い上がりそうな気分になったレイフは、拳を突き上げながら、そんな雄叫びをあげた。クリスターが傍にいたら恥ずかしくなって思わず止めただろう、目も当てられないほどの喜びようだ。
 レイフが、次の休日はクリスターと二人きりで過ごすわけではなくアリスも一緒なのだということを思い出すまで、少しばかり時間がかかりそうだった。



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