ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第3章 唯一の絶対

SCENE2


 僕の中には、誰も知らない、たぎるような熱があって、それはともすればうまく取り繕った表面を突き破り噴出しそうになる。
 制御しきれない、この過剰なものを、僕は一体いつから抱え込んだのか。
 激情を解き放ってはならない。身を任してはならない。僕を統御するのは、僕自身だ。
 だが、時として―どんな意思の力も及ばぬほどに僕の中に封じ込まれた狂熱は手強く、抑えても抑えてもなお噴きあがり、僕を圧する。


「この本なんか、心理学の入門としてはお勧めだよ…これもいいな…。担当はブラン先生だったね? それなら、たぶん資料に使われるのはこの辺りだろうな、著者を気に入っているようなんだ」
 書架のかなり高い所にある本のタイトルを吟味しながら、クリスターは何冊かピックアップしたものを抜き取って、傍らのダニエルに手渡していく。新学期が始まって、以前クリスターが選択していたのと同じ心理学の授業を受けることにしたダニエルのため、この日クラブが終わった後、学校の図書館に立ち寄って、役に立ちそうな本を探してやっているのだ。
 じっとその様子を眺めていたダニエルは、ふいに思い立ったかのように背伸びをして手を上げてみたが、やはり目当ての棚までは届かない。
「…背、高いって、いいですね」
「うん?」
 クリスターが軽く首を傾げて問い返すと、ダニエルはうかつなことを漏らしたというように慌てて口を押さえた。
「な、何でもないです。ただ、ちょっと羨ましいなって思っただけで…僕はクラスメートと比べてもあまり体格には恵まれてないですから」
「まだ十五才で、体のできあがってない君は、心配しなくても背くらいもう少し伸びると思うよ」
「そうかなぁ…」
 別にスポーツをやっているわけでもないし、僕くらいの身長が欲しいわけじゃないだろうとクリスターは一瞬言いかけたが、これもダニエルのいつもの同化願望なのだろうかと思いついて、やめた。
 ダニエルがクリスターに向けてくる好意は相変わらずひたむきで、二才違いの友人としてクラブの仲間としてのスタンスをずっと保ち続けているクリスターを時に落ち着かなくさせる。
 憧れの対象を持ち、それに少しでも近づきたいという願望を持つのは思春期にはよくあることだ。賢いダニエルは決して自分の気持ちをクリスターに押し付けることないので、その点感情的な女の子との付き合いよりはるかに楽だが、その綺麗に澄んだ瞳にはどれほど理想化された自分が映っているのかと考えるとクリスターは複雑な気分になった。
 偶像崇拝は恋とは違う。ダニエルの幼い擬似恋愛に応えるつもりは、やはりクリスターにはなかった。
「レイフさんにも、そう言えば、同じようなことは言われましたね。励ましてくれるのはいいんだけれど、あの人、子犬でも扱うみたいに僕の頭をがしがし撫でるんですよね。あの癖、何とかしてほしいって思うんですけれど…」
「レイフに言っておくよ」
「レイフさんは、今日は…?」
「さあ。陸上部の練習はもう終わったろうから、先に帰ったんじゃないかな」
 クリスターはこつこつ溜めたアルバイト料で最近新しい車を買ったので、今まで二人で使っていた車はレイフに譲った。フットボールのシーズンが終われば別々に行動することが多い二人には、確かにその方が何かと便利ではある。
「レイフさんはどうして…クリスターさんと同じボクシング部に入らなかったんでしょうね。あの人、格闘技も好きそうなのに」
「今学期は他の部に入ろうかとは言っていたけれど、何しろ陸上の記録保持者だからね、コーチ連中がなかなか手放してくれなかったんだろうと思うよ。それに、格闘技なら、今でも柔道の道場に通っているし…」
「クリスターさんもちょっと前まで習ってたんですよね、柔道。レイフさんとどっちが強いんですか?」
「レイフ。あれでも一応有段者だ」
「そうなんですか?」
「…そのはずなんだけれどね。レイフは、僕が相手だと手を抜くというか、怯むみたいなんだ。実力は僕よりあるはずなのに、気持ちの部分で初めから負けを決めている…無意識のうちに自分にブロックをかけて、力をセーブしてしまうんだ。僕は中学卒業と同時に柔道をやめたんだけれど、振り返って考えればそれでよかったんだと思うよ。僕がいなくなってから、レイフは実際どんどん力をつけていったし」
 そう言いながら、クリスターは密かに苦笑いしていた。もう少し注意を払っていれば、もっと早くに気づけたはずだ。柔道だけでなくフットボールでも同じこと。レイフの才能を伸ばすためには、クリスターの存在はむしろ邪魔になっている。
(もしもあのままずっと気づかなけれぱ…僕は何の迷いもためらいもなく、レイフとの約束を果たすことに専念していたんだろうな)
 クリスターの脳裏を去年のフットボールの決勝戦やクリスマス・パーティーでの記憶がかすめていった。同じ夢を追いながら、この先も一緒に生きていこう―勇気を出してやっとレイフに伝えることができた。その言葉に対するレイフの無邪気な喜びよう、輝くような笑顔、体にしっかりと回された腕の苦しいほどの感触―既に遠い昔のことのようだが、箱にしまわれた大切な宝物のようなきらきらとした輝きをクリスターの胸の中で放っている。
 思い出はしかし潮が引くようにクリスターから遠のき、レイフの代わりに、今この図書館の中で傍らに立っているダニエルの澄んだ声が聞こえてきた。
「レイフさんはクリスターさんのことが好きすぎて、戦えと言われても、手も足も出せないんでしょうね。そう言えば、ボクシングの試合があっても、めったに見に来ませんよね」
 クリスターはまだ少し現実に馴染めずにいたが、そんな気振りも見せず、ダニエルに答えた。
「レイフいわく、僕が出る試合は心臓に悪いそうだよ。僕が他人に殴りかかられるのをおとなしく椅子に坐って観戦なんかできない、リングの上に乱入したくて尻がもじもじするんだって」
「あはは、何ですか、それ」
 冗談めかして言うと、ダニエルにはうけたようだが、クリスターは内心暗鬱たる気分だった。
 レイフは、将来プロ・フットボールの選手になるという夢を持っている。幸い、潜在的な能力は充分に備えている彼のことだ。本気になって邁進すれば、夢は現実に変えられるだろう。だが、今のような弱気な姿勢では、厳しいプロの世界でやっていけるはずがない。
(あいつは、僕が傍にいる限り、いつまでも僕に頼ろうとする。ああ、それでも、僕にレイフを引っ張って頂点まで上り詰めることができるほどの力が本当にあれば、このまま2人で行ける所まで行ってみてもよかったのかもしれない。でも、実際には、そうじゃない。本気で頂上を目指したいなら、レイフは僕ばかり見ていてはいけないんだ)
 レイフと一緒にプロを目指すというクリスターの夢は、水をすくうように指の間からこぼれ去っていた。
 クリスターは一瞬、傍らで自分の様子を窺っているダニエルの存在も忘れ、手にした本の表紙に視線を落としながら重い溜息をついた。
「クリスターさん、今日は無理を言ってすみせん。生徒会の後はボクシング部の練習もあって、疲れてるでしょうに、僕のために…」
 どことなく憂鬱そうなクリスターの態度を疲労のためと理解したのか、ダニエルはすまなそうに詫びた。
「いや、別に疲れてなんかいないよ。ボクシングは、僕にとって、余剰のエネルギーを発散させるためのものだから」
 クリスターが優しく微笑みながら振り返ると、ダニエルは眩しいものを見るかのように目を細め、薄っすらと顔を赤くした。
「そういうところはやっぱりレイフさんに似ているんですね。エネルギーがありあまって、じっとなんかしていられないって、しょっちゅう言ってますものね、レイフさんって」
 ダニエルの指摘にクリスターは苦笑した。
「あそこまで落ち着きがないことはないと思うけれどね。でも、確かに何日も動かずにいるのは僕にとっても苦痛かな。スポーツ以外に何もすることがないわけではない、むしろ、考えることはたくさんあって、いつでも頭の中は沸騰しそうなほどなのに、それだけでは昇華しきれないものがある。体の中にこもった熱をそのまま放っておくと、どんどん溜まっていって爆発しそうになるんだ。レイフはずっとスポーツ一筋でとにかく動いていれば満足できるけれど、ぼくの場合はそうはいかない。頭も体も絶えず使っていないと、何だか気持ち悪くてね」
 ふともらしたクリスターの言葉にダニエルはじっと耳を傾けていたが、やがて、思い切ったように口を開いた。
「それにしたって、クリスターさんは少しがんばりすぎるような気がしますよ。単純にスポーツ馬鹿で、体を動かすことに夢中になっている間に限って、常識外れな天井知らずの力を発揮するレイフさんとも違う。興味を覚えたことには何でも手当たり次第に挑戦して、しかも全力を注ぐ…別にあなたにとっては無理なことじゃないのかもしれませんけど、何だか…あえて余裕を削って自分を追い込んでいるように見える時があります」
 クリスターは僅かに目を見開いて、ダニエルの一途そうな顔をつくづくと見下ろした。
「…そうなのかい?」
 ダニエルは躊躇いがちに続けた。
「前から…少し気にはなっていたことなんですけど…どうして、そんなに忙しくする必要があるのかなって。どんなに勤勉で努力家の人でも、普通なら、たまには何もする気にならなくなってぐったりしたり、手を抜いたり、息切れする前に立ち止まって休んだりするものだと思います。でも、あなたは、いつも百パーセントの力を出し切ろうとしているみたいで…このまま走り続けて本当に大丈夫なんだろうかって、時々心配になるんです」
 さすがに好きだと言う相手のことはよく観察しているなと、クリスターはダニエルの鋭さに少し感心した。思っていたほど恋に目がくらんで盲目になっているわけでもなさそうだ。それとも、自分の方に本当に余裕がなくなってきて、ともすれば他人に隙を見せてしまうということだろうか。
 心当たりがないわけではない。この頃のクリスターは以前にも増して、立ち止まって無為な時間を持つことに不安を覚えている。だから、ついつい自分に無理を強いてしまう。
「余裕ができれば、つい余計なことを考えてしまうからね」
「え?」
 ダニエルの気遣わしげな顔から視線を逸らし、クリスターは書架に並んだ本の背表紙に指を滑らせながら考えに沈んだ。
(ダニエルに指摘されるまでもなく、本当は僕にも分かっている。これが、他人に対してなら、僕もダニエルと同じ忠告をしただろう。少しは休まないと、おまえ自身がそのうち壊れてしまうと…ぎりぎりに引き絞られた弦は切れやすい、当たり前のことだ。けれど、今の僕は、自分の中にあそびの部分など欲しくないんだ。隙間なくぎちぎちにつめこんで、頭脳も肉体も限界近くまで自分を追い込んで…そうすれば、さすがに心身ともにくたくたに疲れきって、夜になっても、ぐっすりと眠れるからね。夢も見ないほどの深い眠りの中でなら、僕も安心して休むことができる)
 実のところ、クリスターの体調はあまりよくない。去年の暮れ辺りから始まった不眠症に今でも度々悩まされている。もともと体力はあって徹夜が数日続いたくらいでは平気なクリスターなのだが、さすがに限度はあるし、それによって集中力が途切れたり思考が停滞したりするのは、やはり困る。
「クリスターさん、あの…」
 背後からかけられた、か細い声にクリスターは我に返った。
「ああ、すまない、ダニエル…つい、ぼんやりしてしまって…」
 これ以上ダニエルに心配させるのも心苦しいので、クリスターは散漫なものになっていきそうな思考力をかき集め、何事もなかったかのような笑顔を作った。
「僕は、大丈夫だから。心配しなくてもいいんだよ、ダニエル」
 半ば自分に言い聞かせるように、クリスターは言った。
 ダニエルは何か言いたげに震える小さな唇を噛み締めた。
 クリスターも黙りこんだ。
 向き合ったままの二人の間に、しばし、ぎこちない沈黙が流れた。
「よぉ…書架の間の狭い通路を二人で塞いで、何やってんだよ、おまえら?」
 揶揄するような声がかけられるのに、クリスターは視線を横に流した。
 小脇に数冊の本を抱え込んで、にやにやと笑いながら通路の端に立っているのは新聞部のアイザックだ。
「どこかで聞いたような声がするからここを覗いてみたら、おまえらがやけに親密な雰囲気で見詰め合ってるんだものな。ちょっと焦ったぜ」
「頼むから、おかしな記事にはしないでくれよ、ジャーナリスト君」
 クリスターはほっとしたような気分で、眼鏡のブリッジを指先で押し上げながらこちらに近づいてくる友人に話しかけた。
「だから、俺はゴシップなんか書かないの。どうせなら、おまえの次のボクシングの試合の記事を書きたいな。そうだ、今のこと黙っていてやる代わりに俺のインタビューに応えろよ」
「本当にちゃっかりしているな。大体、今のことって、何なんだよ」
 馴れ馴れしげに肩を抱いてくるアイザックの腹に、クリスターは軽く拳を打ちこんでやった。アイザックは大げさにうめいて、おろおろしているダニエルの上に倒れ掛かる。
「おっ、久しぶりだな、ダニエル。相変わらずクリスターにべったりくっついて、まるでこいつのマネージャーか何かみたいだよな。ボクシング部でも一緒なんだって?」
「せめて、トレーナーとかセコンドくらい言ってください」
 ダニエルは怒ったように頬を膨らませながら、頭を撫でようとするアイザックの手を邪険に払いのけた。
「以前に比べて少しは性格がまるくなったかと思ったら、クリスター以外の奴には、やっぱりきついんだよな」
 アイザックは苦笑しながらダニエルから離れ、このやり取りを面白そうに腕を組んで眺めていたクリスターに向き直った。
「さてと」
 アイザックは意味ありげに片目を瞑ってみせた。
「実は、おまえに話すことがあるんだよ、クリスター。本当なら新学期が始まってすぐにおまえを捕まえたかったんだが、なかなか機会がなくってな。ここで出会えて、丁度よかった」
 クリスターはすっと目を細めた。アイザックがわざわざ自分を捕まえて伝えたがる話と言えば、J・Bの件しか思いつかない。何か新しい情報を掴んだのだろう。
「それは…ダニエルにも聞かせていいようなことか?」
「そうだなぁ」
 アイザックは迷うように、ちらっとダニエルの顔を見た。
「いや、たぶん、耳に入れておいた方がいいだろう。こいつも、例の事件の当事者の1人ではあるんだからな」
「そうか」
 クリスターはまだ少しダニエルを巻き込むことに躊躇いを覚えたが、彼が意思的な瞳を輝かせて深々と頷くのに、心を決めた。
「それじゃあ、寮のカフェテリアに行きましょうか。この時間ならあまり混んではいないと思います」
 ダニエルの提案に従って、三人は場所を移動することにした。アイザックの言葉とそれに対するクリスターの受け答えから、ダニエルは早くもどういう内容の話になるのかピンときたらしい。余計な質問をしようとはしなかった。
 夜の九時まで使える寮のカフェテリア。談笑している他の寮生達からなるべく遠い場所にある隅のテーブルに落ち着くや、アイザックは切り出した。
「ずばり話の核心から入らせてもらうぜ。ジェームズ・プラックが、矯正施設から出所した」
 ダニエルが思わず息を吸い込む音を聞きながら、クリスターは冷静に問い返した。
「いつ?」
「一月の頭だったそうだ。今は保護観察中の身で、定められた現住所から動くこともできないが、その期間が問題なく過ぎれば、完全に自由の身になる。復学にも就職にも、法的な制限はない」
 堪えきれなくなったかのように、ダニエルが口を挟んだ。
「保護観察ってどのくらいの期間なんですか?」
「確か、基本は半年だったと思うが、担当の監察官の承認があれば短縮されることもある」
「J・Bは、在学中は、確か家を借りて一人暮らしをしながら学校に通っているという話を聞いたような気がするけれど…」
「ああ、今戻っているのは親元だろうよ。さすがに出所したばかりじゃ、一人暮らしをするまでの自由は得られないさ」
「彼の実家って…?」
 ずっと黙り込んで考えを巡らせているクリスターに、アイザックは話を振ってきた。
「実家…っていうと、やっぱ、あそこになんのかな? 確か父親はまだ健在だったよな、俺達が奴について色々調べまわってた頃は?」
「ああ」
 クリスターはアイザックに向けて軽く頷くと、心配そうなダニエルに視線を移した。
「J・Bは、ベルモント市の郊外にある古い街の出身でね、地元では名家として知られる一族なんだそうだ」
「そこに行けゃ、誰もが知ってる大きなお屋敷があるんだよ。アメリカの格差社会の現実を目の当たりにするような豪邸さ。奴が戻るとすれば、たぶん、あそこだろうな」
「近いじゃないですか、ここからでも」
 ダニエルは寒気を覚えたかのように細い肩を抱いて、小さく身震いした。
「おやおや、ダニエル君はJ・Bが恐いのかな」
 アイザックがからかうと、ダニエルは勝気そうな眉を吊り上げて言い返した。
「別に恐がっているわけじゃないですよ。ただ…今まで忘れかけていたものを色々思い出して、ちょっとぞっとしたんです」
「アイザック」
 クリスターに唐突に呼びかけられて、アイザックは怪訝そうに顔を上げた。
「春休み中に、君はこういうことを色々調べあげていたのかい? J・Bのいた施設に出向いたりして?」
「ああ」
「僕は…確かに去年一度、君に彼の動向を調べてくれるよう頼んだけれど、今度は別に何も言っていなかった。それなのに、わざわざ調査を続けたのかい?」
 アイザックは面食らったような顔をした。
「何だよ、おまえが知りたがるだろうと思って、気を利かせて調べてきてやったのに、何が気に入らないんだよ」
「気に入るとか入らないとかの問題じゃない。アイザック、まさかと思うけれど、出所した後のJ・Bに接触するなんて馬鹿な真似はしなかっただろうね? 分かっているだろうが、彼は危険だ…安易に近づいて、気がつけば彼の術中にはまっていたという話を、僕らはJ・Bの被害者達から散々聞かされたはずだ」
「へえ」
 アイザックはぱちぱちと瞬きしたかと思うと、くすぐったそうに頬の辺りを引っかいた。
「おまえ、俺のこと、心配してくれてるのかよ。ちょっと意外だな。レイフ以外の人間なんか、おまえにとって価値はないのかと思ってた」
「そういう棘のある言い方はよせよ」
 クリスターは溜息をついた。
「僕にとっては、君やダニエル、かつて行動を共にしたコリンやミシェルも大切な仲間だよ。共にJ・Bと戦った戦友と言ってもいい。あの時は幸い誰も傷つかずにすんだ。平和な日常生活に戻っている今、僕はこの上、君達のうち誰一人として危険にさらしたくはない」
「おまえはやっぱりJ・Bが俺達に復讐してくるって信じているんだな」
「復讐というのとは少し違うかもしれない。それに、彼がターゲットにしてくるのは、たぶん僕だけだ」
「どうして、そう思うんだ?」
「去年のクリスマスにJ・Bからカードをもらったんだよ。ごく簡単なメッセージが走り書きされていただけだったけれど、意図することは分かった。あれは僕への挑戦状だったんだ。彼にとって、ゲームはまだ終わっていない。僕を攻略して打ち負かすために、彼は必ずもう一度現れる」
 そう語るクリスターの口元にうかんだほのかな喜悦にアイザックは眉をひそめた。
「えらく楽しそうに話すんだな。それって、かなりやばい状況だと思うぜ? 大体、奴からカードが来ていたなんて大事な話、今まで俺達には黙っていたのかよ」
「言っただろう、僕は、君達を巻き込みたくないと思っている。あの時は…僕と君らの間には利害の一致があった。J・Bの犯罪行為の証拠を掴んで学校から追い出したいという君らと共闘することにためらいはなかった。だが、今回は…僕と彼との個人的な争いになる。もしも僕に関わらないことで君らに累が及ぶことを避けられるのなら、その方がいいのかもしれない」
「クリスター、おまえって、意外と甘いことを考えるんだよな」
 アイザックは皮肉っぽく言いながら、クリスターの胸に指を突きつけるような仕草をした。
「今更、俺達を巻き込むも巻き込まないもないだろう。あの時もそうだったように、今でも俺達は立派な当事者だ。俺は、何もおまえのためだけに、J・Bのその後の状況なんか調べたわけじゃない。自分にも関わりのあることだから、気になったんだ。あいつが閉じ込められていた牢獄から出てきて、おまえにもう一度挑みかけるつもりだっていうなら、どうしたって関係のない顔なんかできるものか。大体、あのJ・Bが俺達を見逃してくれるはずがないぜ。例え主なターゲットがおまえであって、残りは雑魚に過ぎなくてもさ。あいつを追い詰めるのに一役買った人間はことごとく狙われるだろう。だからさ、俺は、今回もおまえについて、協力してやる。俺の情報収集能力は高く評価してくれてるんだったよな? だったら遠慮なく使ってくれればいいんだぜ、そうすることで俺も自分を守れるわけだから」
「アイザック…」
 クリスターはしばし逡巡したが、癖のあるにやにや笑いを浮かべながらも、真剣な目で自分を睨みつけているアイザックに、ついに根負けしたように頷き返した。
「分かったよ。君がそこまで言うなら、今回も助けてもらうよ」
「それじゃ僕も仲間に入れてもらいます」
 決然とした声で二人の話に割って入ってくるダニエルに、クリスターはすぐに応えることができなかった。
 クリスターにとって、ダニエルはまだほんの子供のようなものだ。一度ならず二度までもJ・Bなどに関わらせるのは、やはり忍びない。ましてや、ダニエルの動機は、憧れのクリスターに認められたいとか、彼のために働きたいとかという幼い恋心からきている。基本的に頭のいい子だが、実際何をするか予想もつかない時があり、扱いにくい。
「やめときな、足手まといだよ」
 クリスターが口を開く前に、アイザックがダニエルの方に身を乗り出し、にべもなく言った。
「おまえみたいなか弱い坊やの出る幕じゃないぜ。俺がこの話をおまえの耳に入れた方がいいと思ったのは、あの事件に関わった者として用心深く行動するよう促すためだ。J・Bが本気で復讐のために舞い戻ってくるつもりなら、尚更おまえは奴の目に付かないようにするべきだ」
「アイザック、あなたの言うことは矛盾していますよ。さっきは、クリスターさんに対して、自分は今でも立派な当事者なんだから、協力させてくれなんて言ったくせに。僕だって同じです。自分だけはJ・Bに見逃してもらえるなんて希望的観測はしません。それに、前の時はコリンやミシェルという頼もしい仲間がいたけれど、今、彼らは近くにいない。二人だけで、一体何ができるって言うんです? J・Bだって、きっと…一人だけで行動することはない、かつての仲間をかき集めて、使おうとするでしょう。退学処分になった連中はともかく、何食わぬ顔をして学校生活を続けている奴らもいる…皆が皆、J・Bの強力な呪縛から解かれているなんて思わない方がいい。彼らの動きを見張るためにも、この際、協力者は多いに越したことはないんじゃないですか」
「う…む…それはまあ一理あるけどさ…」
 ダニエルの論客ぶりに、アイザックもとっさに言い返す言葉が見つからず、口をつぐんだ。そうして、急に気になったかのように周りのテーブルをさっと見渡す。確かに、学校内という身近な場所にJ・Bと通じている人間がいるという考えは、ぞっとしない。
 クリスマスに送られてきたカードを思い起こしながら、案外J・B自身は遠くにあっても、彼が密かに伸ばしていた触手は既に身近な所にまで達しているのかもしれないという思いを、クリスターは噛み締めていた。
「クリスターさん」
 ダニエルの強い調子の声に促されたクリスターは、一瞬危なげなものを見るかのような思いで彼に気遣わしげな目を向けた後、言った。
「決して無茶はしないと約束できるかい?」
 ダニエルの目の周りがさっと紅潮した。
「は、はいっ」
 その様子にまた少し不安をかきたてられたが、クリスターはそれ以上ダニエルを制止することはあきらめた。
(この子は、僕に完全に拒否されたら、自分一人で勝手に行動してしまうだろう。そのくらいなら、僕の目の届く所に常に置いて、先走ったまねはしないよう気を配ってあげた方がいい)
 一緒に行動する機会が多いせいか、クリスターはダニエルに次第に情が移ってきていた。意識的にレイフを避けるようになり、かと言って、気晴らしに女の子と付き合うのも面倒になってきたこの頃、黙っていてもこちらの気持ちを察してくれるダニエルといるのは楽でいい。
「それじゃ、取り合えず三人で組むとして…コリンとミシェルはどうする?」
 どうやらアイザックもダニエルを爪弾きにするのはあきらめたらしい。
「彼らは二人とも、今はエール大学だったかな」
「ああ、一緒に部屋を借りて大学に通っているって話だぜ」
「卒業後もずっと付き合っているんだ」
 そう言いながら、クリスターは、初めて彼らと知り合いになった頃は、ミシェルと付き合っていたのはアイザックだったことを思い出した。しかし、J・Bの事件が片付いてしばらくした頃、ミシェルはアイザックと別れてコリンを選んだのだ。クリスターは事件の後は新聞部の連中とは距離を置いていたので、詳しい事情は知らない。アイザックが、自分の親友と付き合いだしたかつての恋人をどう思っているのかも。
「彼らとは…今でも連絡を取りあっているのか?」
「そうしょっちゅうって訳じゃないけれど、たまにコリンから電話がかかってくることはあるよ」
「そうか」
 クリスターは首を傾げてしばし考え込んだ。
「二人にも、J・Bの出所については知らせた方がいいだろうな。コリンなら、警告さえ与えておけば、自分達の身辺くらい守れるだろう」
「なら、俺から連絡しておくよ」
 アイザックはさらりと言うと、両膝を軽く手で打ち叩いて、おもむろに椅子から立ち上がった。
「それじゃ、俺はもう行くぜ。新聞部の部室には時々顔を出せよ、クリスター。ボクシングの試合のインタビューとか口実にして、定期的に相談できるだろ?」
「君にとっては一石二鳥だな」
 アイザックの抜け目のなさに呆れながらも、クリスターは笑って返した。今回は一人で戦うことを覚悟していたクリスターだが、やはり頼もしい仲間が傍にいるのはいいことだと思っていた。
「次の試合、がんばれよ」
 軽くクリスターの肩を叩いて先にカフェテリアを出て行くアイザックの背中を見送った後、彼は難しい顔でじっと何事か考え込んでいるダニエルを振り返った。
「ダニエル」
 クリスターが呼びかけると、ダニエルは細い肩をびくっと震わせた。
「そんなふうに構えなくても大丈夫だよ。まさか保護観察中のJ・B本人がいきなりここに乗り込んでくることはないだろうし、君は今までと変わらない学校生活を送ればいいんだ。僕も、何もわざわざ彼を訪ねていくような無意味なことはしない。しばらくは相手の出方を窺うつもりだ。もちろん身の回りに何かおかしな動きはないか、注意を払っていた方がいいけれどね」
「はい…」
 胸の奥でさざなみ立つ不安をクリスターに見透かされたと思ったのだろうか、ダニエルは恥じ入るように目を伏せた。
 だが、J・Bを少なからず知る人間ならば、彼と対峙することを恐れるのは当たり前だ。ダニエルの怯えは、なんら恥ずべきものではない。
(むしろ、おかしいのは僕の方だ。あのクリスマスのカードを受け取った時も、そうだった。アイザックからJ・Bがやっと自由の身になったという知らせを聞いて、僕は今すごく高揚している…喜んでいると言っていいくらいだ)
 クリスターは椅子から身を起こし、しゅんとうなだれているダニエルの頭を軽く小突いてやった。
「そろそろカフェテリアも閉まる時間だよ。君も部屋に戻って、明日の授業の予習でもした方がいい。明日の放課後、ボクシング部の部室でまた会おう」
 クリスターが親しげな声をかけると、ダニエルは素直に頷いて、にっこりと笑い返してきた。
 ふと、やはりダニエルを巻き込んではならないのではという迷いがクリスターの頭を掠めた。
 ダニエルと別れ、駐車場に止めてあった愛車に乗り込んで、クリスターは一人、すっかり夜も更けた道を家に向かった。
 何となくつけてみたラジオからはズンズンと腹に響くドラムの音が攻撃的なロックが流れていた。普段はあまり聞かない類の曲が、今は水がしみこむようにすっとクリスターの胸に入ってくる。
(J・B、君は今、何を考えている…? 僕の近況については、あんな写真を手に入れて送りつけてきたくらいだ、ある程度把握しているんだろうな。僕を攻略する方法は考え付いたのかい? 君にとって、僕はさぞ壊しがいのある玩具なんだろうさ。だが、そう簡単に僕は壊れないし、油断すると、また君が僕に喰われることになるよ。僕は今とても…危ない気分でいるから―)
 無性に凶暴な気持ちに駆られて、クリスターは車のアクセルを踏み込んだ。一瞬シートに体ごと押しつけられる、ひやりとした感覚がむしろ心地いい。
(制御できない、この過剰なものを、僕は君との対決で相殺できるだろう)
 クリスターの中には、いつの間にか、破壊衝動という名の荒々しい獣が住み着いていたようだ。張り詰めて薄くなった皮膜を、その鋭い爪で破り裂いて、今にも飛び出してきそうな予感がする。それを周囲に向けるわけにはいかないから、今まで懸命に封じ込んできた。
 だが、食い殺してもかまわない敵が現れたのなら、話は別だ。
(早く僕の前に現れろ、J・B)
 半ば懇願するような気持ちで、クリスターは熱っぽく呼びかける。
 自分を追い詰めうる相手、互角に戦えるかもしれない敵手を思う時に覚えるこの熱は、憎しみというよりも恋情により近いのかも知れない―。


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