ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第3章 唯一の絶対

SCENE1


「よおしよし、いい子にしててくれよ、子猫ちゃん」
 にっこりと満面の笑みをうかべながら、手に防護用の手袋を着用したレイフは、診察台の上に引っ張り出されて毛を逆立てている白い猫に向かって、文字通りの猫なで声で囁いた。
 レイフのアルバイト先の動物病院である。9年生の夏休みに社会奉仕のボランティアとして働きにきたレイフをフットボール好きの院長が気に入って、そのまま雇ってくれたのだ。
「さて、傷口の消毒をするからね。しっかりこの子を押さえておいてくれよ、レイフ」
 野良猫と喧嘩をして顔面に負傷した猫をレイフに押さえさせ、獣医のケンは注射器を使って傷口の消毒を試みる。
 傷をいじられるのが痛いのか、見知らぬ人間に押さえつけられて嫌なことをされるのがストレスなのか、猫のたてる鳴き声は次第に不穏な唸り声に変わっていった。
「ああ、ああ、女の子が、そんな恐い声をあげたら駄目でちゅよー?」
 体躯の大きなレイフが、小さな猫の機嫌を取るかのような優しい声を出しているのがおかしいらしく、助手の若い女の子達はこちらを見ながらくすくす笑っている。
「ちょっとぉ、腰が引けてるんじゃないの、レイフ」
「動物は敏感だから、恐がってることを悟られたら、逆に強気に出られるわよ」
 からかい半分の黄色い声援を背中に受けて、レイフは思わず顔を赤らめた。
「そんなこと言われたって…」
 完全に犬派のレイフは、どうにも猫の扱いが苦手なのだが、仕事なのだから嫌とは言えない。
「あ」
 女の子達が言うように、レイフの弱気に気づいたのか、猫はいきなり激しく暴れ始めた。とっさに怯んだレイフが手を緩めてしまった隙に逃げ出した猫は、彼の腕に飛びつき、肩から頭に一気に駆け上って軽々と床にジャンプした。
「いっ…ぎゃあああっ!」
 鋭い爪でざくざくと、腕やら顔に跡をつけられたレイフの絶叫が診察室にこだまする。その後は、診察室を逃げ回る白い猫を職員総出で追い回す大捕り物になった。



「…傷はまめに消毒するんだよ。僕も見習い時代はよくやられたが、猫の爪の傷は深いからね、長いことじくじく痛むんだ」
 何とか猫を捕まえた後、同じ診察室で手当てを受けたレイフに、帰り際、雇い主のケンが心配そうに声をかける。
「すまないことをしたね。ハンサムな顔が台無しだ」
「あー、これくらい大丈夫っすよ。オレ、もともと傷の治りもすごく早いし」
 レイフがドアを開くと、湿った風と共に細かな雨の粒が吹き付けてきた。
「ああ、ついに降り出してきたな」
 鈍色に曇った空を見上げ、ポーチに佇んだまま、レイフは呟く。
「家まで車で送ろうか?」
 レイフは後ろを振り返って愛嬌のある笑顔で応えた。
「このくらいの雨なら、平気っす。それに、ほら、ただでさえクラブのない春休み中、まめに動かないと体がなまっちまう。家までジョギングしながら帰りますから」
「おやおや、早くも次のフットボールのシーズンを目指しているって訳かい?」
「へへっ、だって、オレ、それしか能がないから」
 はにかむような笑みを残して、スポーツジャケットのフードを引き上げると、レイフは軽いフットワークで小雨の中へ駆け出した。
 季節は3月の下旬。雨の降る今日のような日はまだまだ寒いが、走ることの好きなレイフは全く気にならない。 
 むしろ、吹き荒れる風や嵐の中に飛び出していくと、レイフは胸が沸き立つような高揚感を覚えるのだ。
「春の雨かぁ」
 しかし、この時は、しっとりと優しい雨に濡れながら、レイフはふいに柄にもなく感傷的な気分に駆られた。
 丈の高い街路樹の並ぶ歩道でふと立ち止まって、手を顔の前にかざすようにしながら、レイフは天を仰いだ。薄く開いた唇から、溜めていた吐息が押し出される。
 顔にかかる細かい雨の粒に目を細めながら、レイフは懐かしくもほろ苦い記憶を蘇らせていた。
(ああ、そういや、ハニーと一番最初に出会った時も、こんなふうな雨が降っていたんだよなぁ)
 口の中で低く呟く、レイフの眉が悲しげに寄せられる。
 ハニー・ヘンダーソン。彼女と出会ったのは、レイフが9年生の春、三学期が始まったばかりの頃だった。



 あの日も―。
 雨の中を、レイフは1人、走っていた。フットボールのシーズンオフ、レイフは陸上部のエースとして出る大会の賞を総なめにする活躍ぶりだった。生憎の天気でクラブ練習はなくなったが、何となくじっとしていられなかった彼は、学校の周囲をぐるりとジョギングすることにしたのだ。
 新校舎と旧校舎、学生寮や図書館、体育館、立派なホールまであるアーバン校の敷地は広い。入学したばかりの頃は、別の棟にある教室まで移動するにもレイフは何度か迷子になりかけた。
 こんもりと木々が茂る公園のような広々とした敷地を軽快な身のこなしで走っていたレイフは、ふいに、視界の片隅に揺らめく影を捕らえた。
 怪訝に思って足を止め、何かが動いたような気がした方向を窺うと、歩道から外れた芝生の上、木々の間をふらふらとさ迷い歩いている女の子がいた。随分長い間雨に打たれていたのだろう、長い髪も白っぽいスカートもぐっしょり濡れている。
(何、やってんだろ?)
 それほど激しい雨ではないが、あんなになるまで打たれ続けたらさぞかし寒いだろう。病気らしい病気一つしたことのない丈夫なレイフは平気だが、普通は風邪をひく。
 レイフはしばし立ち尽くしたまま、覚束なげな足取りであてどもなく歩いていく少女を眺めていたが、やがて意を決し、そちらへと方向転換した。見知らぬ女の子に自分から声をかけるなど、おくてのレイフはしたことはないが、何となく彼女をこのままにしておけなかったのだ。
「よお」
 瞬く間に追いついたレイフがぶっきらぼうな声をかけると、少女は足を止めた。しばしぼんやりと佇んでいたが、ゆっくりとレイフを振り返る。
 雨に濡れた顔は案の定冷え切って青ざめていたが、レイフが思わず息を飲んだほど綺麗だった。癖のない長いアッシュブロンド。濡れたブラウスとスカートがまつわりついた華奢な体。陽炎のように捕らえどころがなくて、降りしきる雨の中に今にも溶け込んで消えてしまいそうなはかなさだ。
「あんたさ、何やってんだよ? びしょ濡れじゃねぇか」
 異性相手となるとつい緊張してしまうレイフの呼びかけは、彼女を威嚇しているように響いたかもしれない。しかし、少女は何の反応も示さず、茫洋と焦点の定まらない瞳でレイフの方を見るともなしに見ている。
「おい…?」
 レイフにも、少女の様子がただ事でないことが分かってきた。
「何かあったのか…大丈夫かよ?」
 レイフは眉をひそめると、ゆっくりと彼女に近づいていった。
「オレは、レイフ・オルソン。体でかいけどさ、これでもまだフレッシュマン(9年生)なんだぜ」
 彼女を安心させようと人懐っこい笑みをうかべながらレイフが呼びかけると、全くの無症状だった紫の瞳に微かな光が灯った。
「わたし…私はハニー…」
 夢から覚めたように瞬きをすると、レイフの心配そうな顔を見上げてハニーは薄く笑った。何かしら苦いものを感じさせる微笑にレイフは戸惑うが、その途端、ハニーは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
 とっさに伸ばした腕でレイフが支えなければ、ハニーはぬかるんだ地面に倒れこんでいただろう。
「お、おいっ?」
 レイフは動転しながら気を失ったハニーに呼びかけたが、何の反応もない。もしかしたら病気ではないのだろうかと焦ったレイフは、ぐったりしたハニーを抱きかかえて、近くにあった女子寮まで運んだ。
 寮に入ってすぐの所にある談話室もかねたホールで、レイフが大声で助けを求めて叫ぶと、すぐに近くにいた寮生達が何事かと駆け寄ってきた。
「ハニー・ヘンダーソン」
 レイフの腕におとなしく抱かれて目を閉じている少女を見ると、彼女らは一瞬驚いたもののすぐに落ち着いて、互いに目配せしあい、その内の誰かが寮の管理人を呼びに行った。
 どうやら、ハニーは寮生だったらしい。とっさにここに運び込んで、正解だったわけだ。
「ああ、またハニーなのね。今度は何をしたの?」
「この雨の中をふらふらと歩いていたんですって」
 ひそひそと囁きかわす少女達の様子から察するに、どうやら、この娘が同じような騒ぎを起こしたのは初めてではないようだった。
「あの背の高い赤毛の男の子が連れてきたんですって…」
「誰? ハニーのボーイフレンド?」
「私、知ってるわよ。フットボール部で活躍してた双子の1人でしょ」
 誰かが部屋から持ってきたバスタオルに包まれて、ぐったりとホールのソファに寝かされているハニーがどうにも気になって、レイフはすぐには立ち去りがたかった。しかし、ちらちらと自分の方を見ながら囁き交わしている他の女の子達の視線が気になって、ハニーの様子を確かめにいくことはできなかった。
「なあ…一体、あの子、どうしたんだよ」
 その場にやってきた寮長らしいしっかりした上級生をレイフが捕まえて追求すると、素っ気無い答えが返ってきた。
「気にしなくてもいいのよ。ハニーの奇行は珍しくないの。情緒不安定で、時々今日みたいな騒ぎを起こすものだから、皆も慣れてしまったわ」
「慣れてって…」
 慣れていいようなことじゃないだろうと一瞬言い返しかけたが、寮長の顔にうかぶ複雑な表情に、レイフはぐっと黙り込んだ。
「普段は、ハニーもこんなじゃないのよ。授業にはちゃんと出ているし…話しかけてもいたって普通よ。ただ時々、自分がコントロールできなくなるみたいなの。でも、きっと大丈夫よ、カウンセラーにもちゃんとかかっているし…」
 半ば自分に言い聞かせるような寮長の言葉に、レイフはやはり釈然としないものを覚えた。そんな彼に、傍で2人の話を漏れ聞いていた女の子が声をかける。
「たぶん、そうやって、他人の気を引きたいだけなのよ。あんたみたいに何も知らない親切な男の子なんて、いいカモみたいなものだから、気をつけなさいよ。ハニーって、あんなにおとなしげな綺麗な顔しているけど、実際ね…」
 意地悪な口調でレイフに忠告めかした女の子は、寮長に睨まれて黙り込んだ。
「ごめんなさいね、うちの寮生のために迷惑かけちゃって」
「いや…」 
 そうこうするうちにハニーは気がついたようだ。寮生に肩を支えられながら上体を起こし、ここがどこなのか確認するように辺りを見渡している。その煙るような紫色の瞳が、レイフの上でふと止まった。
 レイフは心臓が軽く跳ね上がるのを意識した。ハニーはレイフのことを、自分を助けた人間だと認識しただろうか。雨の中で短い言葉を交わしたことを覚えているだろうか。白い小さな顔にうかぶ空虚な表情からは何も分からなかった。
「それはそうと、ハニーが雨の中を1人でふらふら歩いていたなんて話、あまり言いふらしたりしないでね」
 傍らの寮長に話しかけられて、レイフは慌ててそちらに注意を戻した。
「しねぇよ」
 レイフが黙っていても、きっと噂好きの女の子達が想像をたくましくして尾ひれをつけた話を広めそうな気はするけれど―。
 やがて寮の管理人がやってくると、ハニーは体を支えられながら建物の奥へと歩いていった。じっと見送るレイフの方を、彼女は再び見ようとはしなかった。
「何だか、訳ありみたいだな、あの子」
「ああ…そうね…」
 寮長は口ごもった。
「可哀想だとは思うけれど、でも…彼女とはあまり関わりあいたくないのよ、皆。あなたもね、ハニーに変な好奇心なんて持たない方がいいわよ。今日のことも、早く忘れなさいね」
 そう話を打ち切って、彼女はまだ納得し切れていないレイフの肩を軽く叩いて帰るよう促すと、ハニーを追いかけるように寮の奥へ消えていった。
 レイフは後ろ髪を引かれながら寮から出て行ったが、あれからハニーがどうなったか、なぜあんなおかしな行動を取ったのか、どうして寮の女の子達が彼女を腫れ物のように扱うのか、気になって仕方がなかった。
 それからのレイフは、学校の中でも、ハニーの姿が見えないか常に目で探すようになり、生徒達の会話の中で彼女の名前が聞こえないか注意するようになった。
 レイフはもともと自分の関心のあること以外は、片方の耳から入ってもう片方の耳から抜けていってしまうタイプで、噂やゴシップなどには疎かった。だから、それまで気づかなかったのだが、ハニー・ヘンダーソンという女生徒は学年が違っても名前だけは知っている者が多いちょっとした有名人のようだった。いや、問題児と呼んだ方がいいのかもしれない。
 ハニーはレイフの一学年上。英才クラスに入っていたほど優秀な生徒だったのだが、ここ半年ばかり、急に成績が落ち、度々問題行動を繰り返していた。もともとは明るく朗らかな性格で友人も多かったが、急に人が変わったようになって、あまり柄のよくない連中と付き合うようになったという。
 レイフにとっても少し意外だったのだが、家柄のいい優秀な生徒ばかりが集まるアーバン高校にも所謂不良グループがあるらしい。この頃のハニーが付き合うのは専らそういう連中なのだという。夜中に寮を抜け出していかがわしいパーティーに行っているとか、悪い恋人がいるらしいとか、ハニー自身が淫乱でグループの男の誰とでも寝る女なのだとか、どこまで本当か分からないが、そんな噂がまことしやかに囁かれていた。
 だが、どうしてハニーがいきなり変わってしまったのか、本当の事情は誰も知らなかった。かつては親しかった友人達も、今のハニーとは距離を置いている。
 レイフはずっと彼女のことが気になっていたが、その理由は自分でもよく分からなかった。最初に見た、今にも消えてなくなってしまいそうな危うげなハニーの姿に、奇妙なほど心乱されていた。自分と全く種類の違う人間に単に惹かれただけかもしれないし、もしかしたら、レイフ自身も少し情緒不安定になっていたからかもしれない。
 入学してそろそろ1年になる学校に、レイフはいまだに馴染めず、それどころかどこにも居場所がないような疎外感を覚え始めていた。フットボールに夢中になっている時は気づかなかったのだが、それを離れると、むしろレイフは自分がここでは浮いていることに気づかざるを得なかったのだ。だからこそ、同じように学校から遊離しているハニーに引き付けられていったのかも知れない。
 だが、それは一方的にレイフが彼女に対して覚えた淡い感情に過ぎなかった。恋とすら呼べなかったかもしれない。ただ気がつけばハニーのことをぼうっと考え、時々教室移動の最中に彼女の姿を見かけたり校舎の一角で擦れ違ったりする度に、密かに胸をときめかせていた。
 レイフは黙って見つめるばかりで、決して声をかけなかった。ハニーは彼に気づく素振りすら見せなかった。
 きっと、こんな他愛もない恋情は長く続かないだろう、じきに忘れ、彼女の姿を探し求めることもなくなるだろうとレイフは漠然と思っていた。
 しかし、意外な展開がレイフを待ち受けていた。
 突然、ハニーの方からレイフに近づいてきたのだ。学校生活に気詰まりなものを覚えて鬱屈としていたレイフに彼女は優しい声をかけ、一緒に気晴らしをしようと誘った。ハニーはレイフとの出会いを覚えていたし、彼が自分を意識していることも知っていた。しかし、それまでレイフなど全く視界にも入っていないかのように無視していたハニーが、いきなり態度を変えたことには、いささか不自然さがあった。
 懶惰な猫。二度目に言葉を交わした時のハニーの印象はそんなものだった。頭の中で勝手に膨らませていた清楚で儚げなイメージとは違って少し失望したが、レイフは彼女の誘いを何故か断れなかった。レイフに執拗に囁きかける彼女の声にこもった不安そうな響きや、瞳に宿った切迫した光のせいかもしれなかった。
 嫌な予感は覚えたが、結局レイフは彼女と付き合い始めた。そして、じきに自分の勘が正しかったことを最悪の形で思い知らされた。
 可哀想なハニーを悪く思うことは、今でもレイフはできないが、彼女がレイフを誘惑したのは好意からではない。それは、別の人物が仕掛けた罠だった。
 ジェームズ・ブラック。当時学校内に巣くっていた不良グループを操り、大人の犯罪者顔負けの様々な逸脱行為にゲーム感覚で手を染めていた少年だ。
 いつからあの怪物がレイフに目をつけていたのか知らないが、ハニーという餌を使って、彼はまんまとレイフを自分の手中に捕らえこんだのだ。



 ぴしゃんと、レイフの足下で水溜りの水が跳ねた。
 レイフは夢から覚めたような顔をして、足を止めた。いつの間にか、もう家の前まで来ていた。
 前庭の芝生を横切り、家の脇の駐車場をひょいと覗き込むが、そこにクリスターの車はない。
「なんだ、兄貴の奴、まだ帰ってないのか」
 思わず口をついて出た呟きが、我ながら落胆しているように聞こえて、レイフは恥ずかしくなってうつむいた。
 クリスターは今日も朝から出かけている。大学の研究室にこもって、担当の教授の指導のもと、何とかという科学コンテストに向けての研究をするためだ。一時は興味をなくした様子だったのに、結局、クリスターはコンテストに応募した。
(俺と一緒に将来はプロに進みたいから、これからはフットボールに専念するなんて言ったくせに…)
 恨み言など言いたくないレイフだが、この頃のクリスターの態度を見ていると、ともすれば口をついて出そうになる。
(嘘つきめ)
 大会で優勝した高揚感もまだ冷めやらなかったクリスマスのパーティーで、クリスターは確かに約束してくれた。一時の感情や気まぐれで動くような兄ではないから、ようやく決心してくれたのだとレイフは素直に彼の言葉を信じた。
 これからは全てが変わるだろう。日々、クリスターと同じ夢を語り合い、共に計画を立てて、それに向かって後はひたすら邁進していく。もう将来について迷うことも漠然とした不安にかられることもない。この先もずっと、2人は一緒に生きていくのだ。
 しかし、実際は何一つ以前と変わらなかった。クリスターは相変わらず生徒会や勉強や、レイフの知らない付き合いで忙しく、フットボールのシーズンが終わってからはずっと擦れ違ってばかりだ。大学の下見は、約束どおり2人で行った。だが、その時もクリスターにはあまり熱意が感じられず、どこの学校にしようと煮詰めることもなく結論は先送り状態だ。
(オレは、フットボールに夢中になっている頃も、いずれシーズンは終わるんだと考えるといつも憂鬱になった。だってさ、シーズン以外のクリスターはまるで他人みたいに遠くて、フットボールと一緒にオレの存在も忘れちまったみたいに見えるから…でも今年は違うんだって、すごく期待してたのにさ)
 一度は確かに掴んだはずの半身の心がまた遠のいてしまったことに、レイフは激しく失望している。
 ふと、クリスターが家に戻ってきたら、一体約束はどうなったんだと胸倉を掴んで詰め寄ってやろうかと思った。だが、そんなこと、たぶんレイフはしないだろう。
(クリスターの本音を聞くのはやっぱり恐いよ…もしも、あいつがオレとの約束を反故にして、やっぱりオレから離れていくつもりだなんて知ったら…もう、どうしたらいいか分からない…あいつを失うなんて、絶対に嫌だ。なあ、クリスター、教えてくれよ。オレはどうすればいい…? おまえが言うとおりに何でもするから、ひざまずくから…オレを1人にしないでくれ)
 レイフは鍵を開けてまだ誰も帰っていない家の中に入り、薄暗い玄関にぼんやり立ち尽くした。
(オレは、自分でも滑稽なくらいクリスターに執着している。でも、きっと…クリスターだって、同じはずなんだ。あいつはオレと違って感情をうまく隠し通せるから、時々オレでさえ騙されそうになるけれど―そうだ、大丈夫、あいつはオレから離れていきやしない、そんなこと、できるものか。クリスターが本気になるのは、オレに対してだけだ。あいつがハニーをオレから取り上げたのも…いや、あれは仕方のなかったことなんだから、恨んだりなんかしてねぇよ―そう、それからJ・Bと対決したのも、みんなオレのためだった。いつだって、あいつは、オレのためにしか動かない)
 ここまで思いつめて我に返ったレイフは、強烈な自己嫌悪に駆られ、苦々しげに頭を振った。
(ああ、すっげえ思い上がり…いや、こんなことを自分に言い聞かせなきゃならないほど、結局オレは自分に自信が持てないってことなんだろうな。クリスターの考えることが分からなくなったくらいで不安になったりさぁ…いつまでもガキみたいにあいつにしがみつこうとする。いい加減大人になれよ、レイフ…あいつの言う通りさ。こんな駄目な弟を持って、クリスターも苦労するよな。ほんとに、オレ、あいつにずっと迷惑かけっぱなしだもんな…高校に上がってからは特にさぁ。ぐれかけておかしな連中とつきあった挙句、フットボール・チームまで辞めさせられそうになったり…ハニーのことでもさ、あいつに余計な重荷を背負わせちまった…)
 またしても蘇ってきた重苦しい後悔の念に、レイフは我知らず拳をきつく握り締めた。
(オレのせいで、クリスターにあんな危ない橋を渡らせちまった)
 ハニーとの出会いや関わりあい方には、懐かしく甘い記憶よりも、悔いの方が多く残る。だが、レイフが一番後悔しているのは、彼女と出会ったことそのものよりも、自分が招いたトラブルにクリスターを巻き込んでしまったこと―彼をJ・Bと闘わせてしまったことだ。
(オレが馬鹿だったから、あんな奴につけこまれる隙を作ったから、クリスターまで…オレがしっかりしていれば何も起こらなかった。弱みを捕まれてゆすられたからって、J・Bの言いなりになることはなかった。ハニーが好きなら好きで、男らしく行動して、クリスターの手助けなんかはねつけて、自分の手で彼女をJ・Bから救い出せばよかったんだ。おかげで、オレは、クリスターに大きな借りができちまった…いや、借りを作ったなんてあいつは考えてないだろうな。きっと、当然のことをしただけだって思ってる。でも、オレには、クリスターのために、あの時あいつがしたのと同じことができるかなんて分からない…大切な人のために命をかけるって、口で言うほど容易くないんだ。あいつは、オレより先に証明しちまった…そのことで、オレは、ああ、こいつには敵わないって思っちまった。いざって時に、オレはどこまで、あいつのために体をはれるだろう…あいつの本気を見せ付けられると、自信なんかなくしちまう。たぶん、オレは…このままじゃ、一生かかったって、クリスターには勝てない)
 その時、濡れた路面を走ってくる車の音が外に聞こえ、それが家の駐車場に入ってくるのが分かった。レイフの顔は一瞬輝いたが、すぐにまた翳った。
(クリスター…)
 レイフは玄関の扉を凝然と眺めながら、このままここで兄を出迎え、大声をあげて驚かせてやろうかと子供じみた悪戯を思った。レイフが普段どおりに接すれば、クリスターもいつもと同じ反応を返してくれるだろう。しかし、抱え込んだ煩悶の深さから、何となく兄と顔をあわせづらく、結局レイフはそのまま逃げるように二階へ上がっていった。
 こんなふうに避けたりして、最近クリスターとの間に流れる気詰まりな雰囲気を助長するだけだが、顔を突き合わせ言葉を交わしながらも相手と心を通わすことができず寂しい思いをするのなら、会わない方がいい。
(こんなの全くオレ達らしくない。昔は、言葉なんかなくったって、いつだって、お互いの気持ちは通じ合っていた)
 クリスターと心も体も擦れ違うことが多くなったこの頃、レイフは、兄と向き合う態度にも気持ちにも、自信をなくしかけている。
(駄目だ、このままでいていい訳がない。何とかしなくちゃならない…それは、オレも分かっているんだけれど―)
 2人の間にある見えない絆を、単純に信じていられた子供時代とは違う。2人とも、もうじき18才になる。大人として自立しなければならない年だ。
 しかし、幼い頃、確かに彼らのものだった2人だけの小さな楽園への憧憬はいまだに強い。互いに補完しあい、一緒にいさえすれば他に必要なものなど何一つ思い浮かばないほど満たされることができる、それは、まるで閉ざされた円環のような完璧な関係だ。
だが、どれほど完璧なように思われても、全く変わらない関係などない。レイフもクリスターもどんどん成長していき、それぞれ考え方も感じ方も、取り巻く環境も変わっていく。変化を頑なに拒み続けるならば、そんな関係はもう壊れるしかない。
(オレ達は変わらなきゃならない。でも、どう変わればいいんだろう…一体どんなふうになれば、うまくいくのか)
 レイフは何かしら追い詰められたような気分になってきた。
 こういうことを真剣に考え出すと、胸の奥底に封じ込んだ記憶が蘇りそうになって、レイフを混乱させる。クリスターとレイフがずっと直視することを避け続けてきた、あの一度だけの過ちを、今更2人の間で蒸し返すことなどできない。
 分かっている。2人とも、あそこにだけは戻ってはならない。
(結局勇気を出して変えてみようとしても、それがいい方に転ぶか悪い方に転ぶか分かんねぇから、踏ん切りがつかないんだよな)
 一線を越えてしまった後も何一つ変わらない振りをして、ただの兄弟として今まで接してきた。それでうまく回ってきた。危うい均衡の上に成り立ったこの平穏な関係を、あえて変えてしまうことで、果たして何が起こるのか―。
(恐い)
 自分の部屋に逃げ込んだレイフが扉に背中を押し付けるようにして立ったまま、悶々と悩み続けていると、家に戻ってきたクリスターが2階に上がってくる気配がした。
 レイフがじっと耳を澄ましていると、足音はレイフの部屋の前でとまった。
 声をかけてくるかと思ったが、結局、クリスターは何も言わず、そのままレイフの部屋の前を通り過ぎ、自分の部屋に入っていった。
 緊張が途切れ、レイフは肩で大きく息をついた。それから、顔をしかめた。
「何で、クリスター相手にオレが緊張なんかする必要があるんだよ…!」
 何もかもがもどかしく、無性にいらついて、レイフは思わず激しく吐き捨てていた。



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