ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第2章ミスター・パーフェクト
SCENE5
「えっと、どっちがどっちだったかな…?」
冬休み直前に学校で開かれるクリスマス舞踏会にパートナーとして連れてきた九年生の双子の姉妹、テレサとルイーザ相手に、レイフは困惑しきりの様子だ。
「私はテレサよ」
「私がルイーザ」
まだあどけなさの残るそっくり同じ顔で笑いかけられても、区別などつきそうもない。
クリスターにだって、彼女らを見分ける自信などなかった。せめてドレスの色くらい変えてくれれば親切というものだが、彼女らは何でもおそろいにこだわりたいらしい。
「よお、クリスター、メリー・クリスマス」
振り返ると、正装したアイザックがパートナーの腕を取って、クリスターに近づいてきた。
「メリー・クリスマス、アイザック」
アイザックは愛嬌のある笑顔でクリスターの腕を叩いたかと思うと、レイフと一緒にいる双子姉妹を眺めやった。
「どうだ、俺の紹介した相手、おまえらにぴったりだろう?」
「まあ…ぴったりと言うのは、ある意味正しいのかもしれないけれど…。あの子達、わざと同じ格好や仕草をして他人を混乱させるのが好きなんだ。僕達も子供の頃は入れ替わって悪戯したり他人の驚く反応を見て面白がったりしたけれど、まさか同じことを他人からやられるとは夢にも思っていなかったな」
珍しくも戸惑いを隠せないクリスターに、アイザックはしてやったりというようににやりと笑った。
「ああ、そうだ、おまえにもこれを渡しておこうと思って、持ってきたんだ」
思い出したかのように手を叩くと、意味ありげな視線を投げかけながらスーツのポケットに手を突っ込むアイザックに、クリスターはふと嫌な予感を覚えた。
「ほら、この写真、よく撮れてるだろ?」
写真? ますます胸騒ぎを覚えてアイザックが取り出した一枚の写真をクリスターは乱暴に引っ手繰った。
「おい…!」
クリスターはさっと赤面した。
「いつの間に、こんな写真を―」
言いかけて、絶句する。
クリスターが焦るのも無理のないことだった。アイザックがクリスターに渡したのは、先日の決勝戦で優勝を決めた際、感情を昂ぶらせた彼が不覚にも公衆の面前で涙を流した、まさにその瞬間のショットだったのだ。
あの場面は、まさか映っていないだろうと思っていたのに地元テレビ局の放送では短い時間ながらしっかり流されてしまって、後から知ったクリスターは一生の不覚だったと顔から火が出る思いをしたのだ。学校に行ったら行ったで、顔も名前も知らない生徒から「思わずもらい泣きしそうになった」と声をかけられ、しばらく本気で登校拒否をしたくなった。
二度と見たくもない、その瞬間が写真となってここにある。
「な、いい表情で撮れてるだろ? 他の写真もたくさん撮ったけど、これが最高の写りだと思うんだ。鉄面皮のクリスターが流した感動の涙って、すごく皆にも好評でさ」
「皆?」
動揺のあまり瞳を揺らしながら問い返すクリスターにアイザックは悪びれもせずに言った。
「ほら、ベンチに入れてもらったおかげで決勝戦の写真はたくさん取れたけれど、全部を紙面に使うわけにはいかないから、どうしようって思ってたんだよ。そしたら、いい写真があったら焼き増ししてくれって要望が結構あってさぁ。そん中で一番人気だったのが、この写真だったわけ。いや、全部で百枚近く売れたんじゃないかな」
「う…売った…のか…」
クリスターは軽い眩暈を覚えて、額を押さえた。
「アイザック、僕は君にこんな勝手をさせるために、わざわざコーチに話を通してベンチに入れてやったわけじゃないぞ。真面目に取材をするって、約束だったじゃないか」
「取材は真面目にしたよ。俺の記事、ちゃんと読んでくれただろう? これは、まあ、その副産物だな。このまま陽の目を見ないで捨てるのはもったいないし、せっかく欲しいって連中がいるんだから、良心価格で分けてやって部費の足しにしようって思ったんだよ。新しいカメラとか丁度欲しかったし」
「信じられない…売るおまえもだが、買う奴も買う奴だ。こんなものを欲しがる連中の気が知れないよ」
「ううん、やっぱり女の子が欲しがるんだよな、アイドルのノリでさ。普段クールにしてる分、おまえにこんな意外な一面があったんだってギャップのすごさにめろめろになったんだよ。でも、中には男もいたよ。そうそう、あのダニエルも恥ずかしそうにしながら何枚か買っていったな」
「う」
一瞬本当に目の前が暗くなって、クリスターはアイザックの肩に手を置き、ぐらぐらする体を支えた。
「こ、この…僕の肖像権を承諾も得ずに勝手に侵害するなんて、もう、これは犯罪だぞ…!」
「大げさなこと言うなよ。しゃれの分からない奴だなぁ」
君にとってはただのしゃれかもしれないが、僕にとっては一生の恥だ―言いかけた時、二人の言い争いに気づいたレイフが何事かと寄ってきて、クリスターの手から写真を取り上げた。
「あ、これ、あん時の写真じゃん」
顔を強張らせてクリスターが見守っていると、レイフは写真と兄をしげしげと見比べ、にこっと笑った。
「うん、いい表情で撮れてるよ。クリスターっていつもはあまり写真写りよくないけど、これはすごく自然な感じで撮れていて、実物と同じくらいハンサムだよ」
クリスターはぐっと言葉に詰まって、言い返せなくなった。
「これ、オレがもらうよ。別にいいだろう?」
よくはないぞ、レイフ。よくはないが―。
クリスターの返事も聞かずに写真を奪い取ったまま、レイフは彼を待っている女の子達の所に戻っていった。
「何、何、私達にも見せて」
「まあ、クリスターって、意外と泣き虫なのねぇ」
「そうそう、案外可愛いとこあるんだぜ、うちの兄貴」
ピチピチとさえずる小鳥のような女の子達と写真をネタに盛り上がるレイフを思わずとめようとするかのごとくそちらに手を伸ばしかけたものの、クリスターは結局あきらめて、肩を落とした。
「まあ、そんなに落ち込みなさんな、あんな写真一枚で話題になるくらいの人気者なんだってことさ」
クリスターはじろりとアイザックを睨みつけた。
「ちなみに二番人気はレイフとのツーショットだったな。ほら、二人で嬉しそうに抱き合ってただろ。あれもすごくいい表情で、また雰囲気がさぁ…見たいか?」
「見たくない」
半ば本気で殺意を覚えながらクリスターが右手で拳を作ってみせると、聡いアイザックはすぐに口を閉じ、クリスターの腕が届く範囲から素早く身を引いた。クリスターはフットボールのシーズンオフにはボクシング部にも所属していて、そのパンチの破壊力には定評がある。
クリスターが襲い掛かってくるなら脱兎のごとく逃げ出す構えのアイザックをしばし睨んだ後、クリスターは溜息をついて拳を下ろした。
「…そんなことよりさ、クリスター、真面目な話があるから、ちょっと顔貸せよ」
それまでのふざけた態度から、一転、真剣な顔になるアイザックに、クリスターは眉をひそめた。
アイザックが持ちだしそうな真面目な話というと、クリスターにも心当たりがあった。
「J・Bの件か?」
声を低めて囁くと、アイザックは無言で頷く。
アイザックはパートナーの女の子に断ると、クリスターと一緒に会場となったホールから出、人気のない中庭の片隅まで歩いて行った。
「ほら、こいつが今奴が収監されている矯正施設の住所と電話番号」
素っ気無く差し出されたメモをクリスターは黙って受け取る。
「ここんとこ、土日の休みを利用してわざわざ遠出して調べてやったんだぜ、感謝しろよな」
片目を瞑ってそう前置きすると、アイザックは調査結果を淡々と報告してくれた。
「ジェームズ・ブラックは現在ここに収容されて、矯正プログラムを受けている。施設内では模範囚で、行動にもほとんど制限はないそうだ。それどころか奴と身近に接している職員の中には、何も悪いことはしていないのに間違いでここに送られてしまったというJ・Bの言い分を信じ込み奴の肩を持つ者までいるそうだ。ふん、他人の心理を操るのは、相変わらずお手のものなんだな」
「仕方がないよ、よほどの観察眼がない限り、何も知らない他人が彼の本性をそう簡単に見抜けるとは思えない。それより、彼がいつ出てくるとか、そういうことまでは分からなかったのか?」
「俺が話を聞けたのは、せいぜい施設の一般職員だったからな。そこまで具体的な話は分からなかったよ。ただ、模範囚というからには、順調にプログラムをこなして近いうちに出所ということになっても、不思議じゃないな」
「そうか」
クリスターはうつむいて、しばし考えを巡らせた。
J・Bが自由を得れば、果たしてどんな行動に出るだろう。クリスターとの因縁は過去のこととして忘れまともに社会復帰を目指してくれればいいのだが、昔のままの彼ならばそうはしまい。そして、誰がどのように矯正しようとしてもJ・Bの本質を変えることなど不可能だとクリスターは思っていた。
この世に純粋な悪意が存在するとすれば、それこそ彼、ジェームズ・プラックなのだ。
「おまえは随分奴を気にしているようだがな、クリスター、今はいくら考えてもどうしようもないぜ」
励ますようにアイザックが腕を叩くのに、クリスターは顔を上げた。
「報告は報告として受け取って、今はホールに戻ってせっかくのパーティーを楽しめよ。俺もそろそろ戻るわ。いつまでも待たせたら、パートナーが怒っちまう」
もとの軽い調子を取り戻してクリスターにウインクを投げかけると、アイザックは先にホールへと引き返していった。
「そうだな…」
クリスターはしばしその場にとどまったものの、やはりアイザックと同じようにホールに残してきた弟達のもとへ戻っていった。
「おや、あの子達はどこに行ったんだい?」
クリスターが戻るとパートナーの双子姉妹はどこかに姿を消していて、レイフだけが飲み物を片手にステージで演奏をしているバンドの方をぼんやりと眺めていた。
「クリスター、ずるいぞ。オレ一人にあの子達のお守りを押し付けて、いつの間にか姿を消してさ。結構大変だったんだからな」
レイフは不機嫌そうにクリスターを睨みつけてくる。
「そうなのかい。話は随分弾んでいたように見えたけれどね」
写真の件での恨みをこめてクリスターが軽く揶揄すると、レイフは膨れ面をした。
「ていうか、あの子達、完全に自分らだけの世界を作ってて、入り込めない雰囲気なんだよ。髪型も服も一緒。話す時もさぁ、『ねえ、レイフって、初めはちよっと恐いと思ったけれど』と片割れが言ったかと思うと『話すと面白いわねぇ、それに可愛いわねぇ』ってもう片方が続けるんだ。おんなじ台詞を二人で分け合うなよっての。オレ達だってそこまでしたことねぇよな」
「そうだねぇ」
「二人同時に相手にしていると、ほんとにどっちがどっちか分からなくなって、名前何度も呼び間違えて、その度に怒られてさ。だからさ、オレ、クリスターが帰ってくるまでの辛抱だって、こんな提案したんだよ。もともとオレのパートナーのテレサにはオレをちゃんと『レイフ』と呼んでもらって、ルイーザの方には『クリスター』って呼びかけてくれって」
クリスターは目をまるくした。
「へえ…それじゃ、おまえは、そっくりな双子の女の子達にそれぞれ自分の名前と僕の名前で呼んでもらうことで区別しようとした訳かい? しかし、それはまた…ふうん…どんな気分だった?」
「うん…おかげで間違いは少なくなったけれど、何だか、すげ、妙な気持ちだった…」
レイフはちょっと顔をしかめて、頬の辺りを指先で引っかいた。
「何だか半分自分で半分クリスターになったような気がして…おかしなことに、ちょっとドキドキしたよ」
薄っすらと顔を赤らめるレイフに、クリスターは何と言えばいいのか分からなくなって、軽く咳払いをした。
「それで、彼女らはどこに消えたんだい?」
さり気なく話を逸らしながら、クリスターもなぜだか少しドキドキしていた。
「ちょっと隣の小ホールに行って友達探してくるって。オレはクリスターを待つからってここに残ったんだ」
「おやおや、振られたのかい」
「しゃーないさ、彼女らはお互いが関心の中心なんだから。たぶん、ドレスと同じようにパートナーもお揃いにしたかったから、オレ達と一緒に来ることにしたんだろ」
「ドレスと同格というのは、男としては辛いね。あそこまで何もかも一緒にこだわることはないと思うけれど…まあ、彼女らはまだ幼いんだろう。ねえ、僕らなんか髪型こそ一緒だけれど、選ぶ服や着こなしも違う…見分けがつかないほどそっくりとはもう言えないのにね」
クリスターが言うのに、レイフは少し不満そうな顔をしたが、否定はしなかった。
ホールの中は着飾った大勢の生徒達で込み合って、その熱気で暑いほどだ。ふいに、照明が暗く落とされ、ムードのあるダンス音楽が流れ出した。そこかしこでカップルが踊り始めるのにクリスターは外に出ようとレイフを誘った。
ホールを出てすぐにある階段前の広いスペースで、ひっそりとした中庭を見下ろしながら、クリスターは隣に立つレイフに話しかけた。
「彼女らと踊ってやったのかい?」
「一応、交代で踊ってやろうとしたんだけどさ。やっぱ、オレ、ダンスって苦手だわ。何度も相手の足踏みつけて悲鳴をあげさせて、ついには愛想つかされちまったよ」
情けないレイフの答えに、クリスターは眉を寄せた。
「苦手だと思い込むから、駄目なんだよ。運動神経は抜群なんだから、パートナーに合わせて適当に動くことくらいできるだろ?」
「スポーツとダンスは別だよっ」
レイフは本気で反論した。
「大体オレが恥かいたの、クリスターのせいだからな。兄貴がいないから、あの子達を退屈させちゃ駄目だって、無理して、苦手なダンスなんかしてさ」
クリスターは腕を組んで、しげしげとレイフを眺めた。
「ちょっと手、貸してみろよ」
「え?」
ホールの方から流れてくるスローな曲に耳を傾けながら、クリスターはレイフの手を取った。
「ちょ、ちょっと」
「ほら、基本のステップだよ」
クリスターが引き寄せるとレイフは戸惑いながらもついてきて、ごく簡単なダンスのステップを曲に合わせて難なくこなした。
「なんだ、ちゃんとできるじゃないか。それじゃ、これは…? そうそう、うまいよ、レイフ」
しばらく、そうして二人で寄り添い合って、ゆったりと流れる音楽に身を任せていたが、やがて、レイフが堪えきれなくなったように小さく吹き出した。
「やべぇよ、これ。パートナーに振られて寂しい兄弟二人でダンスしてるって、何か寒くね?」
「ああ、確かにね」
クリスターもつられたように笑い、弟から身を引いた。
「後で、双子達を探しに行こう。気が向いたらもう一度ダンスに誘ってもいいし、どのみち、責任を持って帰りはちゃんと家まで送ってあげないといけないからね」
「うん」
クリスターはレイフと向き合ったまま、しばし、黙り込んだ。
「あのね、レイフ…」
一瞬ためらった後、クリスターは口を開いた。
「まだ早い気はするけれど、大学のこと、そろそろ具体的に考えてもいいかなって思うんだ。幾つかの候補くらい立てておいても悪くない。おまえにも希望はあるだろうけれど、僕も幾つか興味のある学校がある。休みの間に2人で色々調べて相談して、年明けにでもちょっと見学に行ってもいいかなって…おまえはどう思う?」
おずおずとこんな提案をするクリスターに、レイフは目を真ん丸く見開いたかと思うと嬉しそうに破顔した。
「もちろんっ、大賛成さ!」
レイフは腕を大きく開いて、クリスターに思い切り抱きついてきた。誰彼構わずじゃれつくのが好きなレイフだが、こんなものに体ごとぶつかるように来られると、普通の男子なら吹っ飛びそうなほど勢いのあるタックルになってしまう。
これは来るなと密かに身構えていたクリスターは、とっさに足を踏ん張り、自分よりも少しだけ大きくてパワーもある弟を受け止めた。
「苦しいよ、レイフ」
「だって、やっとクリスターがその気になってくれたんだもの、オレ、すっごく嬉しい!」
あくまでストレートに感情を表すレイフにクリスターもつい気持ちが引っ張られ、胸の中がじわじわと熱くなってくるのを覚えた。何だか、これではまた決勝戦が終わった時の二の舞になりそうだ。
「僕も…レイフ、僕の方こそ―」
レイフや他の仲間達と共に優勝を勝ち取った、あの時の感動が鮮やかに蘇ってきて、こみ上げてくる圧倒的な思いに、クリスターは絶句してしまった。
(あの時、僕は最高に幸せだった。あんなに気持ちのいい瞬間を味わえるのなら、生きていることもまんざら捨てたものじゃない…ううん、それどころか素晴らしい。そうして、僕は分かったんだ、レイフ…おまえのいない人生なんて僕には意味がない。それぞれが独立した大人になって別々の道を歩いていくことが最善なんだと信じてきたけれど…無理に離れようとしなくても幸せになれるのなら、僕はやっぱりおまえと一緒にいたい。だから、もし、おまえが…おまえもそう望んでくれるのなら…同じ夢を二人で追いたい。この先もずっとフットボールを続けて、プロになる…おまえならきっと一流の選手になれるだろう、僕は今よりもっと努力しなくてはならないだろう…だから僕も、これからはフットボールに専念するよ。今までは色んなことを手広くやって選択肢を多くすることで、僕は何でもできるから一人でも大丈夫なんだとおまえや自分自身さえもごまかそうとしてきたけれど、もうやめる。だって、僕が本当の望みは、レイフ、おまえなんだから…おまえと一緒に幸せになりたいよ…)
器用なはずのクリスターだが、この時ばかりは喉の奥の熱い塊が邪魔をしてレイフに言いたいことも言えず、苦しいほどの弟の抱擁に黙って応えることしかできなかった。
「…いい加減、離れろよ、レイフ。もし誰かに見られたら、変に思われるよ」
やっと思いで、クリスターはそうとだけ囁いた。
もう少し気持ちが落ち着いたら、レイフにちゃんと自分の本当の想いを伝えようとクリスターは考えた。レイフと同じくらい正直に、素直になって―。
「ああ、何だか夢みてぇ」
レイフはクリスターからしぶしぶ身を離すと、まだ感情を発散したりないのか頭上に拳を突き出して一声叫び、身を反らしながら晴れ渡った夜空を見上げた。
「今年は見事に大会優勝したし、クリスターはオレと一緒に将来はプロになるって約束してくれたし、もう何も言うことないよ、最高のクリスマスだよ。ああ、でも―」
うっとりと紅潮していたレイフの顔がほんの少し寂しげに翳った。
「フットボールのシーズンはもう終わっちまったんだよな。また来年まで待たないと駄目なんだ…ああ、この盛り上がった気持ちのままでずっと続けられたらいいのに…」
「来年の九月までの八ヶ月くらい、すぐに過ぎるよ。それまでは陸上や他のスポーツで体を鍛えればいい。柔道だって、やっぱり好きなんだろう? 僕も、来季までに今年以上の体を作りたいからね。年明けから再スタートするくらいの気持ちでいるよ」
「お、やる気満々じゃん。さすがは今大会のMVP男、頼もしいね」
はしゃいだ声をあげて、レイフはまたクリスターの首に腕を巻きつけてきた。
「MVPか…僕は、自分がそこまで活躍したとは思っていないんだけれど」
まだじゃれつきたりないレイフを片手で押し返して引き剥がしながら、クリスターは呟いた。
「クリスターって、理想が高すぎるんだよな。でも、おまえはマジですげぇよ。どんな混戦状態でも即座に対応して的確な指示を出しながら複雑な戦術をこなし、尚且つ、パスも抜群だろ。足も速いしパワーもあるし、どこからも攻略しようがない無敵のQBじゃん。それに、チームの皆からもすごく信頼されている。他人にも厳しいけれど自分にはもっと厳しいから、高い要求を突きつけられても、それに応えようと皆必死になってがんばってくれるんだ」
クリスターはくすぐったそうに顔を歪めながら、レイフの背中を叩いた。
「今年は僕がMVPを取ったけれど、次はおまえが取れよ。そのくらいの意気込みで来季は臨むんだ」
「ええっ、そりゃ無理だよ」
クリスターは結構本気で言ったつもりだったのだが、レイフは冗談だと思ったらしい。
「どうして無理だなんて決め付けるんだ? その気になって努力さえすれば、おまえの実力なら―」
クリスターが言い募ろうとすると、レイフは慌てて両手を振った。
「オレの力なんて、大したことないよ。クリスターとは違うもの、オレ」
クリスターは眉を寄せ、一瞬言葉を切った。
「違うだなんて、どうして―?」
当惑しながらクリスターが問いかけると、レイフは賞賛のこもったうっとりとした目でじっと兄を見つめた。
「どうしてもこうしてもないよ、オレの兄貴は最高だもん。オレとは初めから出来が違うんだ。おんなじ遺伝子持ってても、全然違う…」
「レイフ…?」
レイフの瞳に浮かぶ憧憬と崇拝を見ながら、クリスターは胸の奥で言いようのない不安がさざ波立つのを覚えた。
「オレは子供の頃からいつも、置いていかれまいとクリスターの背中を必死になって追いかけてきたんだ。そうすると、オレなんかでも一応それなりに力がついて、たまには他人から注目も浴びたりなんかして…何ていうか、おまえについていったら間違いないやって単純に信じていられんの。今年もさ、そうやって、おまえに引っ張られるがままついていったら本当に優勝できたし…」
「レイフ、僕の力だけで優勝できたわけじゃない。それに、おまえだって…最後にチームの命運を託されたのはおまえだったじゃないか。そして、ちゃんと皆の期待に応えた…おまえ自身の力で―」
「そうかもしれないけど、でも、クリスターには敵わないよ」
何の躊躇いもなくあっさり応える弟に、クリスターは愕然となった。
「何、馬鹿なことを言ってるんだ。ちゃんと現実を見て、評価しろよ。おまえが1年目に出したタイム1つ取っても、僕には決して追いつけない。だから、僕は―」
「あれは、ただのまぐれだったんだよ。実際、あれきりオレのタイムはむしろ落ちたし…大体スポーツって総合的な能力で判断するもんだろ、どっちがすごいか一目瞭然じゃん。そんなおまえと張り合う気なんて、オレにゃ、全然ないよ」
クリスターはまた絶句してしまった。
(分からない…どうして、こんな…?)
レイフがこんな諦めたような言葉を口にするなどと、クリスターには信じられなかった。確かに甘いところもあるけれど、もともと負けず嫌いで、ことスポーツに関しては簡単に他人に敗北を認めるようなことはなかったはずだ。そもそも、生まれながらの天才のレイフが、クリスターに対して自信を喪失する理由などないのだ。
「おまえもオレと一緒にプロになる」
レイフが幸せをかみしめるように呟くのを、クリスターは呆然と見守っていた。
「よかった、オレ、これで安心できる。オレ1人でプロになってやっていける自信なんて持てないけど、おまえがいれば、オレはきっと強くなれる。おまえについて行きさえすれば、道に迷うことなんてないんだ」
クリスターの心臓を冷たい手が鷲づかみしたような気がした。
「レイフ…」
もしかしたら―。
信頼に満ちた笑みを投げかけてくるレイフに素直に応えることなど、クリスターにはもうできなかった。
(もしかしたら、僕は大きな間違いを犯していたのだろうか?)
これまで、レイフはただのスランプでいつかは自然にそれを抜けるに違いないとクリスターは思っていた。
実力を出し切れないのは、本人の甘ったれた性格からくる怠慢や気の弱さのせいだと思ったから、クリスターはレイフに厳しいくらいの態度で接し、手本を示すつもりで率先して練習にも励んだ。
しかし、本当は、レイフはスランプなどではないのかもしれない。力を出そうとしても出せない真の原因は、他にあるのかもしれない。
(クリスターには、何をやっても敵わないよ)
クリスターは小さく身震いした。
(まさか、そんなこと―信じたくないけれど、でも―)
何でもできるクリスターには敵わない。レイフは、一体いつから自分にそう言い聞かせてきたのだろう。
それはいつしか強烈な暗示となり、レイフを見えない鎖で縛り付けるようにして、その可能性を奪ってしまったのではないか。
(僕のせい…なのか? レイフ、僕が傍にいるから、おまえはずっと目が覚めないのか…?)
クリスターの手は体の脇にだらりと垂らされたまま、いつの間にか、その指の関節が白くなるほど強さで握り締められていた。
レイフと一緒にいたい、二人で幸せになりたい。同じ夢を追うパートナーとして、この先もずっと共に歩いていけたら―。
束の間掴んだかと思われた未来への希望、明るい光に満ちた世界が、クリスターからまた遠のいていった。
僕は完璧などではない。
おまえなしでは、ほら、僕は一人でまともに立って歩くこともできないんだよ。
それでも、僕は完璧であろうとしてきた。
おまえにとって最高の存在でありたかった。
たとえいつか離れることになろうとも、おまえが僕以外の誰かを選ぼうとも、必ず僕を必要とせずにはいられなくなるほど、忘れることなど不可能なほど、おまえにとって唯一の絶対的な存在になりたかった。
ああ、でも、もしかしたら―そんな努力などしてはならなかったのだろうか。
「クリスター、クリスマス・カードがたくさん届いているわよ」
冬休みに入って数日が経った、ある日、クリスターが外出から帰ってくると、母のヘレナがキッチンから顔を覗かせ、そう声をかけた。
「あら、どうしたの、クリスター、あまり顔色がよくないわね」
たぶんそれはここしばらくひどい不眠症に悩まされているせいだろうと思いながら、クリスターはヘレナににっこり笑い返した。
「うん、もしかしたら風邪をひいたのかもしれないね。後で、薬を飲むよ」
クリスターは勘の鋭い母の視線を慎重に避けながら、リビングに入っていくと、テーブルの上に積まれていたカードの中から自分の宛てのものをより分けた。
「母さん、アリスからもカードが来ているよ」
「あら、そうなの」
カードを確かめながらキッチンのヘレナへいつもと変わらぬ調子で声をかける、クリスターの指がふと止まった。
クリスターに宛てたカードの中に、差出人の名前がないものが一通あった。
単に書き忘れただけかと思ったが、消印の地名を見て、クリスターは小さく息を飲んだ。
(まさか…)
クリスターはカードの束を掴み、その一枚だけは別にして持つと、二階の自分の部屋へ急いで上がっていった。
自室の扉を背中で閉じ、クリスターは改めて差出人不明のカードを見下ろした。
(消印に記された町の名前は、確かにアイザックが教えてくれたあの住所と同じだ)
クリスターはひとまずコートや他のカードをベッドの上に置いてから、そのカードの封を切った。
封筒の中からはどこにでもある平凡なクリスマス・カードが出てきたが、それを開いた時中から落ちてきたものにクリスターは眉をひそめた。
床に落ちたそれを見た一瞬は、さてはアイザックの仕掛けた性質の悪い悪戯かとクリスターは疑った。例の決勝戦で涙を流したクリスターの一瞬の無防備な表情を写した写真だったからだ。
しかし、それを拾い上げて裏返した時、クリスターの表情は再び厳しく引き締まった。
『完璧なものほど壊しがいがある』
写真の裏には、少しの乱れもない綺麗な筆跡でそう書き記されていた。
クリスターはしばし息をするのも忘れ、凍りついたようにその短い言葉を凝視した。
かつて、同じ台詞をクリスターに向かって語りかけた少年がいた。
忘れようとしても忘れられない柔らかな声が頭の中で響き渡り、クリスターの肌をぞっと粟立たせた。毒を含んだ言葉を吐き出しながらも、その唇はとても整っていて、そこから覗いた真っ白な歯は綺麗だった―。
クリスターは、ようやく自分が呼吸する生き物であることを思い出したかのように、ゆっくりと肩で息をした。
(この世に純粋な悪意は存在する。そして、悪意というものは、常に分かりやすく人の目に見えるものとして表されるとは限らない)
ここ数日捕らわれた煩悶も吹き飛ぶほどの緊張感にクリスターはすっと目を細めながら、冷たい笑みに唇を歪めた。
先程開いたカードをもう一度確かめてみるが、そこには印刷されたお決まりのクリスマスのメッセージがあるだけで、何も書かれていない。
クリスターは再び写真を目の前に持ってきて、ためつすがめつ調べてみた。
やはりアイザックが写し勝手にばらまいたあの写真の内の一枚のようだ。後で念のためにレイフに渡した写真と比べてみようとは思うが、おそらく間違いないだろう。
もともとアーバン校の生徒であり、かつての仲間達もまだ学校には残っている、彼にとってこれを手に入れることなど別に難しくはない。
問題はそんなことではなく、わざわざクリスターにこれを送りつけた彼の意図だ。
そして、クリスターには彼の考えることくらい大方察しがついていた。
(つまり、ゲームはまだ終わっていないということだ)
近いうちに戻ってきて今度こそクリスターを攻略してやるという意思表示なのだろう。
これも、クリスターの予想の範囲内のことであったので、別に驚くにはあたらない。それどころか―。
(…おもしろい、やってみるがいいさ)
少し前まではできれば余計な争いは避けたかったのだが、今はひどく好戦的な気分でクリスターは思った。
(あの時と同じスリルを味わえるのなら、僕にとっても望むところだ。君が何を企み仕掛けてこようが、僕はその先を読んで退けてやる。学校から追い出され施設送りになったくらいでは懲りないなら、今度はもっと…ひどい目にあわせてやるよ)
常日頃接する普通の人間達が相手では、同世代の若者でも大人達でも、大抵考えや行動が読めてしまって、クリスターにはどこか物足りなかった。周りにあわせるだけのぬるい環境に浸っていると次第に内側から自分が疲弊していくのが分かる。そんなつまらない日常も、攻略しがたい敵が現れれば刺激に満ちたものに変わるだろう。
そして、今のクリスターは切実にそれを求めていた。再び抱え込むことになった懊悩を忘れさせてくれる何か、そうして、今にも噴出しそうなほどにたぎっているこの激情の矛先となってくれる何かを。
(もう二度と、あんなまねすんなよ)
ふいに、レイフのとがめるような不安げな顔を思い出され、クリスターの胸はちくんと痛んだ。
(悪いけれど、レイフ、おまえとの約束は破らなければならないようだ。仕方がないさ、僕があれきり最後にしたくても、向こうが仕掛けてくるんだから)
クリスターは写真とカードを再び封筒の中に戻し、万が一にも人目に触れないよう本棚の一冊の本の間に隠しておいた。
(このことは、レイフには黙っておかなくてはならない。知れば、またあいつを動揺させることになるだろう。それに、今回のこれはあくまで僕自身の問題だ。何より僕は、もう二度とレイフを彼に関わらせたくはない)
クリスターは窓の方に歩いていくと夜の帳の下りた外の風景を目を細めるようにして眺めた。
窓の外には、ちらちらと粉雪が舞っている。
(一人でも大丈夫、僕は必ず彼に勝ってやる)
暗い窓ガラスにぼんやりと映るクリスターの顔は、ここしばらく生気のなかったそれとは一変して生き生きして見えた。
ぞくぞくするような高揚感を覚えている胸に手を置き、クリスターは思わず苦笑した。
ある意味、最高のクリスマス・プレゼントだ。
(どうやら僕には、何の得にもならないのに、あえて危険を冒したがる下らない性向があるようだ。恵まれた才能とやらも、こんな馬鹿げたことにつぎこんで浪費するだけなら意味ないな。けれど、それも僕にとって生きるための動機付けとなるなら…そう悪いことじゃない)
窓の向こうに広がる冷たい闇の彼方を鋭く睨みつけながら、クリスターは挑みかけるような口調で囁いた。
「来るか…J・B」